緒戦の戦勝気分がまだぬけきれない開戦まる八カ月でガダルカナルは惨劇の島となるが、それまで陸軍が名前も所在も「知らなかった」というような南海の島が戦争の中心点となるまでの作戦展開の推移を概観しておかなければ、何故そんな島一つが、という疑問はいつまでも解けないであろう。
要約すれば次のようなことになる。
日本海軍の見解は、ハワイ空襲等による緒戦の圧倒的優勢を確保したからには、長期戦のために守勢に立つのは不利であって、攻勢的に作戦を推進して敵を守勢一方に立たせる必要がある、そのためには、米国が対日反攻作戦を発起する際の最大の拠点となるオーストラリアを攻略すべきであるというのであった。開戦前の構想には全然なかったことである。
陸軍は反対した。反対理由は、オーストラリアを攻略するとなれば、陸軍としては少くとも一二個師団を基幹とする大兵力を必要とし、これに要する船舶は少くとも一五〇万トンにのぼる、戦況によってはさらに兵力を投入する必要を生ずるかもしれず、その兵力を捻出するには満洲にある対ソ戦備と中国の戦線を縮小しなければならないから、全般的戦略態勢を損うこととなって不可である、というにあった。
開戦時に南方作戦に使用した陸軍の全兵力以上の兵力を新たに編成して、しかも海上四〇〇〇浬を隔てたオーストラリアに送ることには、いくら進攻好きな陸軍でも反対せざるを得なかったのである。
陸軍は、しかし、オーストラリアが米国が対日反攻作戦を展開する際の最大の拠点となるであろうことには異議はなかったから、米豪を遮断することの必要については、海軍と意見が一致した。
結局、オーストラリア攻略案に代って作戦日程に上ってきたのが米豪遮断作戦である。その一つがニューギニアの東南岸にある豪軍海空基地ポートモレスビーの攻略作戦(MO作戦)であり、もう一つがさらに海上を遠く東南へ伸びてニューカレドニア、フィジー、サモアを攻略する作戦(FS作戦)であった。
右の諸作戦のペーパープランとしての時期とガダルカナルの基地設営との間には時間的なずれがあるが、ガダルカナルが基地として有効に機能出来れば、前記二方面の作戦のいずれに対してもガダルカナルは有用度の高い位置にあった。
米軍がガダルカナルを放置しておかなかったのも、右の事情の裏返しである。サモア、フィジー、ニューカレドニアは米豪連絡線上の拠点として欠かすことの出来ないものであり、ポートモレスビー確保はオーストラリアの安全のために不可欠なのであった。
日本は、開戦時の計画では、経済的必要と戦略的必要から、攻略範囲を概ねビルマ、マレー、スマトラ、ジャワ、セレベス、ボルネオ、フィリピン、グァム、ウェーキ、香港等の諸地域とし、これらを内懐に抱くマーシャル群島以西の海域を確保することで長期持久を策するはずであった。それが、緒戦の成功で調子づいて、マーシャル群島の線を遥かに超越した線へまで構想が放漫に膨脹したのである。
別の表現を用いれば、一旦戦争に火をつければ、何処まで燃えひろがるか、何処を終末線として限定出来るかについて、正確な計測が行なわれなかったといえる。
日本は、内南洋最大の根拠地であるトラック島を護るための前進根拠地として、昭和十七年(一九四二年)一月二十三日、ビスマルク諸島ニューブリテン島のラバウルを占領した。攻勢的発想を裏返せば、同じ論法で、ラバウルを護るためと称してガダルカナル、ツラギの占領となるのである。
日本軍のラバウル進出はオーストラリアにとっては脅威であった。翌日の夜からラバウルに対する空襲がはじまり、それは前記のポートモレスビーからであった。こうして、彼我の航空消耗戦がはじまり、ポートモレスビーは日本陸海軍にとって撃滅占領すべき対象となった。大本営は、一月末、南海支隊(陸軍)と第四艦隊を基幹とする兵力で「なし得ればモレスビーを攻略」することを命令している。
サモア、フィジー、ニューカレドニアに対する作戦が陸海軍作戦事務当局の間で協議されたのも右とほぼ同じころである。
米豪遮断作戦としてポートモレスビー攻略とは別にサモア・フィジー・ニューカレドニア作戦(FS作戦)の実施を海軍から求められた陸軍は、検討の結果、所要兵力は歩兵三個大隊を基幹とする支隊三個を編成すれば足りるという成算を得たので、FS作戦に同意して準備に着手した。
作戦の順序としては、ポートモレスビー攻略作戦が五月上旬で、FS作戦は六月以降の予定であった。
ところが、海軍は、FS作戦の前にミッドウェー・アリューシャン攻略作戦を実施することを提案し、この作戦の所要陸軍兵力として歩兵一個連隊を基幹とする部隊の協力を陸軍に求めたのである。
ミッドウェー作戦は連合艦隊司令長官山本五十六の強硬な主張に軍令部が引摺られた結果である。艦隊と軍令部との間に数次の折衝が行なわれて、山本の主張を軍令部総長が呑んだのが四月五日、ミッドウェー・アリューシャン作戦に関する大本営海軍部指示が発令されたのは四月十六日である。
陸軍としては、ミッドウェーには関心を持たなかったが、北方防衛と米ソ遮断の目的から、アリューシャン作戦には意味を認めていたから、ミッドウェーに関して陸軍不同意なら海軍だけでも実施すると聞いて、陸軍は海軍との協同作戦に同意に踏み切った。こうして、ミッドウェー上陸作戦に充当されたのが、先の一木支隊なのである。
ミッドウェー作戦の予定が六月上旬となって、先に六月以降実施を予定されたFS作戦は七月へ順延されることになった。
四月十八日に陸海軍部の間で概定した作戦予定は次の通りである。(戦史室前掲書)
[#ここから改行天付き、折り返して7字下げ]
五月 七日 ポートモレスビー攻略。攻略後使用した兵力南海支隊は六月中旬までにラバウル集結。ニューカレドニア攻略を準備する。
六月 七日 ミッドウェー攻略。
六月一八日 ミッドウェー作戦部隊トラック集結。FS作戦準備。
七月 一日 機動部隊(空母六隻基幹)トラック出撃。
七月 八日 ニューカレドニア攻略。
七月一八日 フィジー攻略。
七月二一日 サモア攻略。
[#ここで字下げ終わり]
右の予定は、後述する次第で全部狂ってしまった。
五月上旬のポートモレスビー攻略作戦は、攻略部隊の輸送船団の航行途中で珊瑚海海戦を惹起したために、作戦は延期となった。
ミッドウェー攻略作戦は、前述の通り、六月五日の海戦で日本海軍は主力空母四隻を一挙に失い、攻略部隊一木支隊はグァム島へ引き返した。
FS作戦は、ミッドウェー海戦での空母、飛行機、搭乗員の損失があまりに甚大であったので、予定作戦の実施を一時中止せざるを得なくなったのである。
要約すれば次のようなことになる。
日本海軍の見解は、ハワイ空襲等による緒戦の圧倒的優勢を確保したからには、長期戦のために守勢に立つのは不利であって、攻勢的に作戦を推進して敵を守勢一方に立たせる必要がある、そのためには、米国が対日反攻作戦を発起する際の最大の拠点となるオーストラリアを攻略すべきであるというのであった。開戦前の構想には全然なかったことである。
陸軍は反対した。反対理由は、オーストラリアを攻略するとなれば、陸軍としては少くとも一二個師団を基幹とする大兵力を必要とし、これに要する船舶は少くとも一五〇万トンにのぼる、戦況によってはさらに兵力を投入する必要を生ずるかもしれず、その兵力を捻出するには満洲にある対ソ戦備と中国の戦線を縮小しなければならないから、全般的戦略態勢を損うこととなって不可である、というにあった。
開戦時に南方作戦に使用した陸軍の全兵力以上の兵力を新たに編成して、しかも海上四〇〇〇浬を隔てたオーストラリアに送ることには、いくら進攻好きな陸軍でも反対せざるを得なかったのである。
陸軍は、しかし、オーストラリアが米国が対日反攻作戦を展開する際の最大の拠点となるであろうことには異議はなかったから、米豪を遮断することの必要については、海軍と意見が一致した。
結局、オーストラリア攻略案に代って作戦日程に上ってきたのが米豪遮断作戦である。その一つがニューギニアの東南岸にある豪軍海空基地ポートモレスビーの攻略作戦(MO作戦)であり、もう一つがさらに海上を遠く東南へ伸びてニューカレドニア、フィジー、サモアを攻略する作戦(FS作戦)であった。
右の諸作戦のペーパープランとしての時期とガダルカナルの基地設営との間には時間的なずれがあるが、ガダルカナルが基地として有効に機能出来れば、前記二方面の作戦のいずれに対してもガダルカナルは有用度の高い位置にあった。
米軍がガダルカナルを放置しておかなかったのも、右の事情の裏返しである。サモア、フィジー、ニューカレドニアは米豪連絡線上の拠点として欠かすことの出来ないものであり、ポートモレスビー確保はオーストラリアの安全のために不可欠なのであった。
日本は、開戦時の計画では、経済的必要と戦略的必要から、攻略範囲を概ねビルマ、マレー、スマトラ、ジャワ、セレベス、ボルネオ、フィリピン、グァム、ウェーキ、香港等の諸地域とし、これらを内懐に抱くマーシャル群島以西の海域を確保することで長期持久を策するはずであった。それが、緒戦の成功で調子づいて、マーシャル群島の線を遥かに超越した線へまで構想が放漫に膨脹したのである。
別の表現を用いれば、一旦戦争に火をつければ、何処まで燃えひろがるか、何処を終末線として限定出来るかについて、正確な計測が行なわれなかったといえる。
日本は、内南洋最大の根拠地であるトラック島を護るための前進根拠地として、昭和十七年(一九四二年)一月二十三日、ビスマルク諸島ニューブリテン島のラバウルを占領した。攻勢的発想を裏返せば、同じ論法で、ラバウルを護るためと称してガダルカナル、ツラギの占領となるのである。
日本軍のラバウル進出はオーストラリアにとっては脅威であった。翌日の夜からラバウルに対する空襲がはじまり、それは前記のポートモレスビーからであった。こうして、彼我の航空消耗戦がはじまり、ポートモレスビーは日本陸海軍にとって撃滅占領すべき対象となった。大本営は、一月末、南海支隊(陸軍)と第四艦隊を基幹とする兵力で「なし得ればモレスビーを攻略」することを命令している。
サモア、フィジー、ニューカレドニアに対する作戦が陸海軍作戦事務当局の間で協議されたのも右とほぼ同じころである。
米豪遮断作戦としてポートモレスビー攻略とは別にサモア・フィジー・ニューカレドニア作戦(FS作戦)の実施を海軍から求められた陸軍は、検討の結果、所要兵力は歩兵三個大隊を基幹とする支隊三個を編成すれば足りるという成算を得たので、FS作戦に同意して準備に着手した。
作戦の順序としては、ポートモレスビー攻略作戦が五月上旬で、FS作戦は六月以降の予定であった。
ところが、海軍は、FS作戦の前にミッドウェー・アリューシャン攻略作戦を実施することを提案し、この作戦の所要陸軍兵力として歩兵一個連隊を基幹とする部隊の協力を陸軍に求めたのである。
ミッドウェー作戦は連合艦隊司令長官山本五十六の強硬な主張に軍令部が引摺られた結果である。艦隊と軍令部との間に数次の折衝が行なわれて、山本の主張を軍令部総長が呑んだのが四月五日、ミッドウェー・アリューシャン作戦に関する大本営海軍部指示が発令されたのは四月十六日である。
陸軍としては、ミッドウェーには関心を持たなかったが、北方防衛と米ソ遮断の目的から、アリューシャン作戦には意味を認めていたから、ミッドウェーに関して陸軍不同意なら海軍だけでも実施すると聞いて、陸軍は海軍との協同作戦に同意に踏み切った。こうして、ミッドウェー上陸作戦に充当されたのが、先の一木支隊なのである。
ミッドウェー作戦の予定が六月上旬となって、先に六月以降実施を予定されたFS作戦は七月へ順延されることになった。
四月十八日に陸海軍部の間で概定した作戦予定は次の通りである。(戦史室前掲書)
[#ここから改行天付き、折り返して7字下げ]
五月 七日 ポートモレスビー攻略。攻略後使用した兵力南海支隊は六月中旬までにラバウル集結。ニューカレドニア攻略を準備する。
六月 七日 ミッドウェー攻略。
六月一八日 ミッドウェー作戦部隊トラック集結。FS作戦準備。
七月 一日 機動部隊(空母六隻基幹)トラック出撃。
七月 八日 ニューカレドニア攻略。
七月一八日 フィジー攻略。
七月二一日 サモア攻略。
[#ここで字下げ終わり]
右の予定は、後述する次第で全部狂ってしまった。
五月上旬のポートモレスビー攻略作戦は、攻略部隊の輸送船団の航行途中で珊瑚海海戦を惹起したために、作戦は延期となった。
ミッドウェー攻略作戦は、前述の通り、六月五日の海戦で日本海軍は主力空母四隻を一挙に失い、攻略部隊一木支隊はグァム島へ引き返した。
FS作戦は、ミッドウェー海戦での空母、飛行機、搭乗員の損失があまりに甚大であったので、予定作戦の実施を一時中止せざるを得なくなったのである。