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ガダルカナル04

时间: 2020-07-30    进入日语论坛
核心提示:4 FS作戦の一時中止が決るより先に、太平洋南東方面の現地海軍部隊では、ソロモン諸島に陸上航空基地を設ける必要を認めてい
(单词翻译:双击或拖选)
 FS作戦の一時中止が決るより先に、太平洋南東方面の現地海軍部隊では、ソロモン諸島に陸上航空基地を設ける必要を認めていた。攻勢的見地からいえば、その基地航空兵力の掩護下に、さらに遠く南東方ニューヘブライズ諸島のエファテ、次いでニューカレドニアを攻略したいということである。
この目的で飛行場適地を発見されたのがガダルカナル島であった。第二十五航空戦隊(以下二十五航戦と略称する。司令官山田定義少将──当時)と第八根拠地隊(ビスマルク方面防備部隊。司令官金沢正夫少将)の幕僚や技術者によって航空偵察が行なわれたのが五月二十五日である。(山田定義日記)
適地は、ガダルカナル北西部ルンガ川東方、海岸線から約二〇〇〇メートルの地域であった。山田二十五航戦司令官は上級司令部である第十一航空艦隊(以下十一航艦と略称)参謀長に偵察報告|旁々《かたがた》飛行場の急速設営の必要を意見具申した。(六月一日)
改めて、六月十九日、第四艦隊(南洋担当)、二十五航戦、第八根拠地隊の幕僚たちによってガダルカナル飛行場適地の航空偵察が行なわれた。その結果として、既述の第十一設営隊(長・門前大佐)と第十三設営隊(長・岡村少佐)とがガダルカナルに送り込まれたのである。
ガダルカナルで飛行場の設営がはじまるころまで、この南東方面の海域の担任は、中部太平洋方面(南洋委任統治地域)同様に第四艦隊(司令長官井上成美中将)であったが、第四艦隊の担任区域が何分にも広大に過ぎるのと、ミッドウェー海戦以後の作戦展開の必要から、七月十四日、新たに第八艦隊の編成が発令され、第八艦隊(司令長官三川軍一中将)が南太平洋方面の作戦に任ずることになった。第八艦隊の統帥発動は七月二十七日零時である。第八艦隊司令部は七月三十日ラバウルに進出した。
第八艦隊司令部のラバウル進出前後から、ガダルカナルとツラギに対する連合軍大型機の空襲が激しくなった。先に述べた米軍の対日反攻開始の前奏曲ともいうべきものであった。
第八艦隊司令部では、しかし、これを、連合軍の対日反攻の前兆とは見ず、連合軍が日本軍のポートモレスビー攻略の阻止に全力を挙げ、ガダルカナル飛行場に対して制圧攻撃をかけているに過ぎないと観察していた。
第八艦隊は、ガダルカナル飛行場の概成と同時に戦闘機隊が進出するように十一航艦に要請したというが(戦史室前掲書)、十一航艦にはその余裕も準備もなく、第八艦隊自身もその本属の第二航空隊をガダルカナルに推進しようとはしなかった。ポートモレスビー攻略に充当する航空戦力だったからである。
また、右の公刊戦史によれば、七月末からの通信状況の変化から、第八艦隊参謀長は「敵の反攻近かるべきを予知し、その地点がガダルカナル島なるべしと判断した」とあるが、参謀長の判断が艦隊の措置としてなんら講ぜられなかったのは、如何なる有効な判断もなされなかったのと同じであった。
第八艦隊では、八月五日、ガダルカナル島の原住民が山中へ逃避したという情報を得たが、これにも重きを置かなかった。連合軍進攻の前触れかもしれぬと疑うものさえいなかったのである。連合軍側は、ガダルカナルに限らず、かねてから、有用とおぼしい島々にコースト・ウォッチャー(海岸監視員)を配置して日本軍の動静に対する触角としていた。コースト・ウォッチャーは原住民との信頼関係がなければ長期滞留はつとまらないから、八月五日のガダルカナルの場合は、原住民はコースト・ウォッチャーからの情報によって行動したものと思われる。
日本軍側でも連合軍の動静に関して航空偵察を行なわなかったわけではない。二十五航戦では、四月二十五日以降、日施哨戒を重要な任務としていた。
八月四日、二式大艇二機がツラギからフィジー、ニューカレドニア方面の偵察に飛んだ。このころ、米海兵第一師団を基幹とするガダルカナル・ツラギ攻略部隊は、S・E・モリソンによれば、八二隻の艦船群をもってニューカレドニア北方海面をガダルカナルヘ向って航行中であった。
二式大艇は、しかし、これを発見出来なかった。
同じく八月四日、飛行艇三機がツラギからF甲区(ほぼ南方。東経一六〇度をほぼ中央線とする扇形区域)に出動しているが、第一第二索敵機は天候不良のため進出僅かに六五浬、第三索敵機は四〇〇浬にとどまった。しかも視界は五浬しかなかった。
八月五日、同じく三機が同区域に哨戒出動したが、悪天候のため一〇〇浬圏内しか飛べなかった。
そして八月六日、米軍ガダルカナル・ツラギ来攻の前日、右と同じ哨戒区域を第一索敵機(敵方に対して右端)は三七〇浬、第二第三索敵機は四〇〇浬圏内を飛んだ。
先の米軍大艦船団は、第二索敵機の哨戒圏を、索敵機の往航午前六時過ぎごろに発見され得る位置を進行中であったと思われる。
しかし、付近一帯、曇ったり晴れたり、所々スコールあり、視界は一〇|乃至《ないし》二〇浬、敵影は発見されなかった。
仮りにこのとき進攻して来る米軍の大艦船団を哨戒機が発見したとしても、米軍の上陸を撃退または阻止し得たか否か疑わしい。
外南洋部隊(第八艦隊)は八月五日または六日に米艦船団を知り得たとしたら、七日当日事実がそうであったように、主力の一部を西北方(ガダルカナルとは反対方向)のカビエン(ニューアイルランド島北端)やさらに西北方アドミラルティ諸島へ向わせることなく、全艦ラバウルに集結し得ていたかもしれないが、空母を持たない同艦隊が空母三隻を伴う米遠征部隊に拮抗し得たとは考えられない。
日本側の空母は三隻は行動可能であったが、他の三隻は未完成であり、いずれにしても日本内地にあって間に合わず、機材の補充、訓練に努めている状態であった。
ガダルカナル飛行場は既述の通りまだ飛行隊が進出していなかったし、頼むは二十五航戦だけであるが、八月六日現在の二十五航戦の使用可能機数は僅かに陸攻三二機、零戦一八機、陸偵二機、二式大艇二機、九七式大艇一〇機、水戦六機に過ぎず、他にこの日二十五航戦の指揮下に入った第八艦隊麾下の航空隊の零戦一五機、艦爆一六機があったが、これらの飛行機は、ツラギの水上機を除いては、ラバウルからガダルカナルあるいはツラギまでの五六〇浬(約一〇〇〇キロ強)という長遠な距離を飛ばなければ米軍来攻部隊に接触出来なかった。したがって、有効な攻撃を加え得る時間はきわめて短くならざるを得なかった。この距離の問題はのちのちまで禍の因となるのである。
ガダルカナル飛行場の設営計画では、第一次工事として、零戦、陸攻各二七機を、第二次工事として零戦四五機、陸攻六〇機の使用を目途とし、航空隊の進出予定は九月上旬であった。
そのころの土木工事の装備は、スコップ、鶴嘴、鍬、鉈、鋸などが主で、機械化装備としてはロードローラー、ミキサー、トラック、それに手押しの土砂運搬車があったに過ぎなかった。米軍が使用していたブルドーザー、パワーショベル、トラクター、キャリオール等に較べれば、工事能力の劣勢は比較のほかである。この工事能率の劣悪は随所で基地設営の遅延をもたらし、そのことが作戦展開の上で彼我の優劣の差をもたらしたことは測り知れない。
しかし、ガダルカナルでは、設営隊の努力によって既述の通り、ともかくも、八〇〇メートル×六〇メートルの滑走路と兵舎、無線設備、戦闘機用掩体等が八月五日には出来上った。
第十三設営隊長からは戦闘機隊の進出の要請があり、その一部進出は八月十六日と予定されていた。
十一航艦ではガダルカナル視察のため先任参謀と補給参謀をラバウルに派遣し、この両参謀は八月六日現地へ飛ぶ予定を、第八艦隊及び第十七軍(陸軍)とポートモレスビー作戦に関する打合せのため、出発を一日延期した。
その翌日、八月七日、米軍が大挙来襲したのである。
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