ガダルカナル同様凄惨をきわめたニューギニア作戦は、昭和十七年(一九四二年)三月、海軍陸戦隊と陸軍南海支隊の一部をもって東部ニューギニアのラエ、サラモアを占領したことに端を発する。ラエ、サラモアの占領は、その後陸海協同してポートモレスビーを攻略してオーストラリアからの敵の反攻を制圧しようという含みを持っていた。
このポートモレスビー作戦がガダルカナル戦と時間的に前後し並行し、かてて加えて全く無意味な作戦に終るので、ニューギニアの作戦はすべて惨澹たるものだが、特にポートモレスビー作戦だけをここで取り上げて、略記することにする。
ポートモレスビーの攻略は順当に考えれば当然海路からである。
大本営は、五月十日ごろにポートモレスビーを攻略することを決定した。それに従って、上陸作戦を行なう陸軍の南海支隊(歩兵三個大隊基幹)は、海軍護衛のもとに五月四日ラバウルを出港した。
この方面の日本の海上兵力は、空母二、補助空母一、重巡六、軽巡三、駆逐艦一五というかなりの兵力であったが、海路からポートモレスビーを攻略するには、ラバウルからポートモレスビーまで低速輸送船団一四隻を、三昼夜も敵の航空攻撃圏内を航行させる危険を冒さなければならなかった。
この海域に行動中の米海軍は、空母二、重巡四、軽巡四、駆逐艦一七であった。
米艦隊(フレッチャー少将)は、日本の輸送船団がラバウルから南下するのを、ポートモレスビーヘの上陸作戦と看破して、船団の予想航路に待伏せた。五月六日のことである。
ここに、ポートモレスビー攻略作戦をめぐって珊瑚海海戦が起こり、南海支隊の輸送船団は反転北上した。珊瑚海海戦の結果、低速船団による海路からのポートモレスビー作戦は、延期され、遂には放棄されることになる。
代って登場するのが陸路攻略案である。ニューギニアの北岸に上陸して、オーエン・スタンレー山系を踏破して南岸のポートモレスビーに殺到しようというのである。
大本営は陸路進攻の可能性を確かめるために「リ号」研究と名づける偵察作戦を十七軍に求め、十七軍はこれを南海支隊に命じた。
これより先、南海支隊長は十七軍司令官から陸路進攻の能否について意見を求められていたので、六月三十日、ダバオ(十七軍司令部は当時まだダバオにあり、ラバウルに進出していなかった)で、意見を述べた。それによれば、陸路進攻はほとんど不可能であった。
理由は左の通りである。
予定進攻路は北東岸のブナ─山系中のココダ─ポートモレスビーを最適とするが、ブナ─ココダ間の推定距離一六〇キロメートル、ココダ─ポートモレスビー間は二〇〇キロメートルとして、合計三六〇キロメートルを踏破しなければならない。その間の補給の確保を如何にするか。道もない未踏の山岳地帯である。人力による担送以外に方法はない。どれだけの担送兵力を必要とするかが問題である。
第一線の給養兵員を五〇〇〇名とする。主食の一人一日量を六〇〇グラムとする。支隊の補給日量は三トンとなる。
担送兵一名が運搬できる主食の量は、最大限二五キログラムとみなければならず、一日の担送距離は山岳地帯であるから最大限二〇キロメートルまでと考えなければならない。
ブナから二〇〇キロの地点に攻略部隊が達した場合、担送兵員はその往復に二〇日を要し、担送兵自身の消費食糧は六〇〇グラムの二〇倍つまり一二キログラム、したがって、二〇〇キロ地点に集積される主食は担送一人|当《あたり》二五キログラム─(マイナス)一二キログラム、つまり一三キログラムでしかない。
したがって、支隊の消費日量三トンを確保するには、二〇〇キロ地点に毎日二三〇名の担送者が到着しなければならない。二〇日行程となれば四六〇〇名の担送兵力を必要とする。攻略部隊五〇〇〇名がブナから三六〇キロメートル離れたポートモレスビー付近に達した場合を計算すれば、所要の担送人員は主食だけでも三万二〇〇〇名となる。
これに弾薬その他の補給物資を加えれば、担送兵力は厖大な数を必要とし、人力搬送によっては陸路進攻は不可能である。
以上が、南海支隊司令部の机上の計算から導かれた結論であった。
南海支隊長は机上の計算だからといって上級司令部に対して遠慮することはなかったのである。計算は少くとも経験的根拠(兵の担送重量とか担送距離等)に基づく推定値を表わしており、もしこの計算が無視されるならば、その禍にさらされるのは南海支隊の兵員であって、上級司令部ではない。
南海支隊長は、しかし、強く否定的意見を主張しなかった。実戦部隊は命令に従うのみである。結局この自殺的作戦は実施に移されたが、南海支隊長が前記の根拠をもってあくまで否定的見解を主張すれば、抗命の罪に問われたであろう。
実戦部隊が安んじて命令のままに行動するには、上級機関に科学的な思考、周到な配慮、充分な準備の確算がなければならないのだが、日本軍の場合はほとんど常にこれを欠いていた。作戦は実戦部隊将兵の悲劇的なまでの忍耐力に皺寄せされるのが常であった。
七月一日、十七軍司令官は「リ号」研究の命令を発した。独立工兵第十五連隊主力と南海支隊の歩兵一個大隊をもって横山先遣隊を編成し、ブナ─ココダを経てオーエン・スタンレー山系に挑み、ポートモレスビーへの進攻路を偵察するのである。
大本営はその研究の結果を待つこととなっていた。
横山先遣隊は七月二十一日、上陸予定地のバサブア近くのゴナに上陸、オーエン・スタンレー山系の踏破行を開始した。
この横山先遣隊による「リ号」研究の結果を待って大本営が陸路進攻の可否を決するという順序は、次の事情によって狂いを生じた。
七月十五日、大本営参謀辻政信がダバオの第十七軍司令部に出張して来て、大本営は陸路攻略を決定したと言ったのである。
辻中佐は七月十一日発令の大命(印刷物)を示して、FS作戦中止の経緯を説明した上で、大本営は「リ号」研究の結果を待たず、この大命によって第十七軍にモレスビー攻略を命じたのである、「リ号」研究はもはや研究ではなくて、実行である、十七軍は速かにモレスビー攻略に着手されたい、と伝えた。(この項、戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1))
横山先遣隊のゴナ上陸さえまだ一週間先というときのことである。
十七軍では、辻が到着した十五日に作戦要領を策定し、十八日、ポートモレスビー攻略に関する軍命令を下達した。辻の言ったことを大本営の意図と解したからである。
これは、しかし、辻の独断であり、越権行為なのであった。辻到着からちょうど十日後の七月二十五日、大本営陸軍部作戦課長服部大佐から十七軍の「リ号」研究の結果報告を待っているという電報が入って、辻参謀の越権が暴露した。
軍隊は奇妙ででたらめな社会である。瑣末にいたるまで規則ずくめでありながら、国運にかかわるかもしれない重大事項では一野心家の暴走の余地があり、周囲がこれを黙認し、上級機関がこれを追認するような弛みきったところがある。
ポートモレスビー作戦に関して、陸路進攻案が大本営での支配的傾向となっていたのは事実であろう。それなくしては、辻と|雖《いえど》も十七軍に対して独断指導の挙には出られなかったであろうと思われる。問題は、まだ充分に検討されていない冒険的作戦が一野心家によって引きずられ、非違と越権は咎められず、実施に移された、ということである。
十七軍司令官はさすがに辻の越権に不快を覚え内地へ帰そうと考えたらしいが、参謀長の取りなしで何事もなかったようである。
大本営がまた権威がない。「リ号」研究の結果を待って作戦を決定すると決めているのなら、そうすべきであって、派遣参謀の独断に引きずられるのは醜態である。辻参謀が半年前のマレー作戦の作戦主任参謀であり、「戦の神様」と尊称を奉られた人物であるから、その判断を尊重して容認したというのなら、三年前に惨敗したノモンハン事件当時の関東軍の作戦主任参謀もまた彼であったことは、忘れられてはならなかったはずである。もっとも、ポートモレスビー作戦の時点での大本営作戦課長服部卓四郎は、奇しくも、ノモンハン事件当時も関東軍の辻の直属上官であったことからみて、辻の独断はこの上官の下でなら問題なく通過する、と辻は計算済みであったと考えられる。
第十七軍としては、陸路進攻と決したからには、横山先遣隊行動開始から支隊主力の投入まで、できる限り時間的間隔をおくべきでないと判断したのは当然であった。
ここからはガダルカナルの現在時点八月七日を超越することになる。
南海支隊主力は、八月十八日、バサブア付近に上陸した。後述する一木支隊第一梯団がガダルカナルに上陸したのと同じ日である。
南海支隊は糧食一六日分を各自で背負い、ココダ─イスラバ─エフオギと所在のオーストラリア軍と小戦闘を重ねつつ、ポートモレスビーめざしてオーエン・スタンレー山系に踏み入った。はじめは順調に見えたが、それは恐るべき終末への導入部であった。
九月十六日、南海支隊の第一線はイオリバイワを占領した。そこから先きオーエン・スタンレー山系は次第に低い樹海となって、海岸に至っている。そこからはまた、ポートモレスビーの灯が遥かに望見された。
だが、そこまで来て、支隊はスタンレー山系以北に集結という決定がなされた。つまり、いままで来た道を引き返すのである。
食糧が尽きようとしていた。一日定量を四分の一に減らして食いのばしてきたが、|糧秣《りようまつ》の前送が間に合わなかった。これ以上の前進は全員の餓死を意味した。先きに支隊司令部で出した計算上の結論は誤りではなかったのである。
退却に移った南海支隊に対してマッカーサー指揮する米豪連合軍が急追撃を開始した。支隊のブナヘの退却は、飢餓と敵の追撃によって地獄の様相を呈することになった。
結果的に、日本軍は、ガダルカナルからもそうであったように、東部ニューギニアからも撤収するのだが、撤収までもちこたえられず、北岸の諸要域で玉砕部隊を出すところまでいった。
陸路進攻を独断推進した大本営参謀辻政信は、十一月十日、ラバウルから服部作戦課長宛てに次のように打電している。
「『モ』攻略(モレスビー攻略)ニ関シテハ『スタンレー』ヲ経由スル大兵力ノ使用ハ南海支隊ノ苦キ経験ニ依リ極メテ至難ナルモノアルヲ痛感セラレ……」
算術的に予測し得ることを冒して、多大の犠牲を払って、ようやく「極メテ至難ナルモノアルヲ痛感」するのが参謀なら、戦に参謀などは要らない。出たとこ勝負でやればよいことになる。
先の南海支隊司令部の試算を想起されたい。ブナからモレスビーまでの直距離を三六〇キロメートル、兵員一日の歩行距離を二〇キロメートルとしてあったから、十八日で踏破出来るという単純な計算が一応成り立つ。したがって、兵員各自が糧食十六日分を背負って歩けばどうにか足りると計算したのであろう。兵要地誌もない、地形もろくにわからない山岳地帯、しかも随所で敵と小戦闘を交えつつ踏破する道程が、危険のない平坦地の歩行のような単純な計算を許さないぐらいのことは、あらかじめ明白でなければならなかった。
ガダルカナルのジャングル内を前進する際にも、所要時間を過少に見積って失敗するのである。
辻参謀の電文はこうつづいている。
「海上ヨリスル作戦ハ『ガ』島以上ノ犠牲ヲ覚悟セサルヘカラサルノミナラス『モ』周辺ノ直接防衛モ亦極メテ堅固ナルヲ予期セサルヘカラス……海軍ハ航空兵力ニ余力ナク『モ』作戦ノ為ニハ陸軍航空ノ担任ヲ要望シアルカ如シ 果シテ然リトセハ『モ』作戦ハ絶対ニ成功ノ希望ナシ(後略)」
軽率かつ独善的に作戦指導したあとでの右の電文は�無責任�の標本のようである。この電文の背景は死屍累々としている。南海支隊の内地出発人員五五八六、補充人員一七九七、損耗五四三二、残存人員一九五一であった。(但し、数字は昭和十六年十一月から十八年八月まで。)
南海支隊のオーエン・スタンレー山系越えの悲劇は、教訓とはならなかった。日本軍の指導者たちにとって、兵隊の生命などものの数ではなかったのである。二年後、ニューギニアの悲劇はインパール作戦でさらに拡大された。軍人の思考の独善的な愚かしさは遂に反省されることがなかった。
このポートモレスビー作戦がガダルカナル戦と時間的に前後し並行し、かてて加えて全く無意味な作戦に終るので、ニューギニアの作戦はすべて惨澹たるものだが、特にポートモレスビー作戦だけをここで取り上げて、略記することにする。
ポートモレスビーの攻略は順当に考えれば当然海路からである。
大本営は、五月十日ごろにポートモレスビーを攻略することを決定した。それに従って、上陸作戦を行なう陸軍の南海支隊(歩兵三個大隊基幹)は、海軍護衛のもとに五月四日ラバウルを出港した。
この方面の日本の海上兵力は、空母二、補助空母一、重巡六、軽巡三、駆逐艦一五というかなりの兵力であったが、海路からポートモレスビーを攻略するには、ラバウルからポートモレスビーまで低速輸送船団一四隻を、三昼夜も敵の航空攻撃圏内を航行させる危険を冒さなければならなかった。
この海域に行動中の米海軍は、空母二、重巡四、軽巡四、駆逐艦一七であった。
米艦隊(フレッチャー少将)は、日本の輸送船団がラバウルから南下するのを、ポートモレスビーヘの上陸作戦と看破して、船団の予想航路に待伏せた。五月六日のことである。
ここに、ポートモレスビー攻略作戦をめぐって珊瑚海海戦が起こり、南海支隊の輸送船団は反転北上した。珊瑚海海戦の結果、低速船団による海路からのポートモレスビー作戦は、延期され、遂には放棄されることになる。
代って登場するのが陸路攻略案である。ニューギニアの北岸に上陸して、オーエン・スタンレー山系を踏破して南岸のポートモレスビーに殺到しようというのである。
大本営は陸路進攻の可能性を確かめるために「リ号」研究と名づける偵察作戦を十七軍に求め、十七軍はこれを南海支隊に命じた。
これより先、南海支隊長は十七軍司令官から陸路進攻の能否について意見を求められていたので、六月三十日、ダバオ(十七軍司令部は当時まだダバオにあり、ラバウルに進出していなかった)で、意見を述べた。それによれば、陸路進攻はほとんど不可能であった。
理由は左の通りである。
予定進攻路は北東岸のブナ─山系中のココダ─ポートモレスビーを最適とするが、ブナ─ココダ間の推定距離一六〇キロメートル、ココダ─ポートモレスビー間は二〇〇キロメートルとして、合計三六〇キロメートルを踏破しなければならない。その間の補給の確保を如何にするか。道もない未踏の山岳地帯である。人力による担送以外に方法はない。どれだけの担送兵力を必要とするかが問題である。
第一線の給養兵員を五〇〇〇名とする。主食の一人一日量を六〇〇グラムとする。支隊の補給日量は三トンとなる。
担送兵一名が運搬できる主食の量は、最大限二五キログラムとみなければならず、一日の担送距離は山岳地帯であるから最大限二〇キロメートルまでと考えなければならない。
ブナから二〇〇キロの地点に攻略部隊が達した場合、担送兵員はその往復に二〇日を要し、担送兵自身の消費食糧は六〇〇グラムの二〇倍つまり一二キログラム、したがって、二〇〇キロ地点に集積される主食は担送一人|当《あたり》二五キログラム─(マイナス)一二キログラム、つまり一三キログラムでしかない。
したがって、支隊の消費日量三トンを確保するには、二〇〇キロ地点に毎日二三〇名の担送者が到着しなければならない。二〇日行程となれば四六〇〇名の担送兵力を必要とする。攻略部隊五〇〇〇名がブナから三六〇キロメートル離れたポートモレスビー付近に達した場合を計算すれば、所要の担送人員は主食だけでも三万二〇〇〇名となる。
これに弾薬その他の補給物資を加えれば、担送兵力は厖大な数を必要とし、人力搬送によっては陸路進攻は不可能である。
以上が、南海支隊司令部の机上の計算から導かれた結論であった。
南海支隊長は机上の計算だからといって上級司令部に対して遠慮することはなかったのである。計算は少くとも経験的根拠(兵の担送重量とか担送距離等)に基づく推定値を表わしており、もしこの計算が無視されるならば、その禍にさらされるのは南海支隊の兵員であって、上級司令部ではない。
南海支隊長は、しかし、強く否定的意見を主張しなかった。実戦部隊は命令に従うのみである。結局この自殺的作戦は実施に移されたが、南海支隊長が前記の根拠をもってあくまで否定的見解を主張すれば、抗命の罪に問われたであろう。
実戦部隊が安んじて命令のままに行動するには、上級機関に科学的な思考、周到な配慮、充分な準備の確算がなければならないのだが、日本軍の場合はほとんど常にこれを欠いていた。作戦は実戦部隊将兵の悲劇的なまでの忍耐力に皺寄せされるのが常であった。
七月一日、十七軍司令官は「リ号」研究の命令を発した。独立工兵第十五連隊主力と南海支隊の歩兵一個大隊をもって横山先遣隊を編成し、ブナ─ココダを経てオーエン・スタンレー山系に挑み、ポートモレスビーへの進攻路を偵察するのである。
大本営はその研究の結果を待つこととなっていた。
横山先遣隊は七月二十一日、上陸予定地のバサブア近くのゴナに上陸、オーエン・スタンレー山系の踏破行を開始した。
この横山先遣隊による「リ号」研究の結果を待って大本営が陸路進攻の可否を決するという順序は、次の事情によって狂いを生じた。
七月十五日、大本営参謀辻政信がダバオの第十七軍司令部に出張して来て、大本営は陸路攻略を決定したと言ったのである。
辻中佐は七月十一日発令の大命(印刷物)を示して、FS作戦中止の経緯を説明した上で、大本営は「リ号」研究の結果を待たず、この大命によって第十七軍にモレスビー攻略を命じたのである、「リ号」研究はもはや研究ではなくて、実行である、十七軍は速かにモレスビー攻略に着手されたい、と伝えた。(この項、戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1))
横山先遣隊のゴナ上陸さえまだ一週間先というときのことである。
十七軍では、辻が到着した十五日に作戦要領を策定し、十八日、ポートモレスビー攻略に関する軍命令を下達した。辻の言ったことを大本営の意図と解したからである。
これは、しかし、辻の独断であり、越権行為なのであった。辻到着からちょうど十日後の七月二十五日、大本営陸軍部作戦課長服部大佐から十七軍の「リ号」研究の結果報告を待っているという電報が入って、辻参謀の越権が暴露した。
軍隊は奇妙ででたらめな社会である。瑣末にいたるまで規則ずくめでありながら、国運にかかわるかもしれない重大事項では一野心家の暴走の余地があり、周囲がこれを黙認し、上級機関がこれを追認するような弛みきったところがある。
ポートモレスビー作戦に関して、陸路進攻案が大本営での支配的傾向となっていたのは事実であろう。それなくしては、辻と|雖《いえど》も十七軍に対して独断指導の挙には出られなかったであろうと思われる。問題は、まだ充分に検討されていない冒険的作戦が一野心家によって引きずられ、非違と越権は咎められず、実施に移された、ということである。
十七軍司令官はさすがに辻の越権に不快を覚え内地へ帰そうと考えたらしいが、参謀長の取りなしで何事もなかったようである。
大本営がまた権威がない。「リ号」研究の結果を待って作戦を決定すると決めているのなら、そうすべきであって、派遣参謀の独断に引きずられるのは醜態である。辻参謀が半年前のマレー作戦の作戦主任参謀であり、「戦の神様」と尊称を奉られた人物であるから、その判断を尊重して容認したというのなら、三年前に惨敗したノモンハン事件当時の関東軍の作戦主任参謀もまた彼であったことは、忘れられてはならなかったはずである。もっとも、ポートモレスビー作戦の時点での大本営作戦課長服部卓四郎は、奇しくも、ノモンハン事件当時も関東軍の辻の直属上官であったことからみて、辻の独断はこの上官の下でなら問題なく通過する、と辻は計算済みであったと考えられる。
第十七軍としては、陸路進攻と決したからには、横山先遣隊行動開始から支隊主力の投入まで、できる限り時間的間隔をおくべきでないと判断したのは当然であった。
ここからはガダルカナルの現在時点八月七日を超越することになる。
南海支隊主力は、八月十八日、バサブア付近に上陸した。後述する一木支隊第一梯団がガダルカナルに上陸したのと同じ日である。
南海支隊は糧食一六日分を各自で背負い、ココダ─イスラバ─エフオギと所在のオーストラリア軍と小戦闘を重ねつつ、ポートモレスビーめざしてオーエン・スタンレー山系に踏み入った。はじめは順調に見えたが、それは恐るべき終末への導入部であった。
九月十六日、南海支隊の第一線はイオリバイワを占領した。そこから先きオーエン・スタンレー山系は次第に低い樹海となって、海岸に至っている。そこからはまた、ポートモレスビーの灯が遥かに望見された。
だが、そこまで来て、支隊はスタンレー山系以北に集結という決定がなされた。つまり、いままで来た道を引き返すのである。
食糧が尽きようとしていた。一日定量を四分の一に減らして食いのばしてきたが、|糧秣《りようまつ》の前送が間に合わなかった。これ以上の前進は全員の餓死を意味した。先きに支隊司令部で出した計算上の結論は誤りではなかったのである。
退却に移った南海支隊に対してマッカーサー指揮する米豪連合軍が急追撃を開始した。支隊のブナヘの退却は、飢餓と敵の追撃によって地獄の様相を呈することになった。
結果的に、日本軍は、ガダルカナルからもそうであったように、東部ニューギニアからも撤収するのだが、撤収までもちこたえられず、北岸の諸要域で玉砕部隊を出すところまでいった。
陸路進攻を独断推進した大本営参謀辻政信は、十一月十日、ラバウルから服部作戦課長宛てに次のように打電している。
「『モ』攻略(モレスビー攻略)ニ関シテハ『スタンレー』ヲ経由スル大兵力ノ使用ハ南海支隊ノ苦キ経験ニ依リ極メテ至難ナルモノアルヲ痛感セラレ……」
算術的に予測し得ることを冒して、多大の犠牲を払って、ようやく「極メテ至難ナルモノアルヲ痛感」するのが参謀なら、戦に参謀などは要らない。出たとこ勝負でやればよいことになる。
先の南海支隊司令部の試算を想起されたい。ブナからモレスビーまでの直距離を三六〇キロメートル、兵員一日の歩行距離を二〇キロメートルとしてあったから、十八日で踏破出来るという単純な計算が一応成り立つ。したがって、兵員各自が糧食十六日分を背負って歩けばどうにか足りると計算したのであろう。兵要地誌もない、地形もろくにわからない山岳地帯、しかも随所で敵と小戦闘を交えつつ踏破する道程が、危険のない平坦地の歩行のような単純な計算を許さないぐらいのことは、あらかじめ明白でなければならなかった。
ガダルカナルのジャングル内を前進する際にも、所要時間を過少に見積って失敗するのである。
辻参謀の電文はこうつづいている。
「海上ヨリスル作戦ハ『ガ』島以上ノ犠牲ヲ覚悟セサルヘカラサルノミナラス『モ』周辺ノ直接防衛モ亦極メテ堅固ナルヲ予期セサルヘカラス……海軍ハ航空兵力ニ余力ナク『モ』作戦ノ為ニハ陸軍航空ノ担任ヲ要望シアルカ如シ 果シテ然リトセハ『モ』作戦ハ絶対ニ成功ノ希望ナシ(後略)」
軽率かつ独善的に作戦指導したあとでの右の電文は�無責任�の標本のようである。この電文の背景は死屍累々としている。南海支隊の内地出発人員五五八六、補充人員一七九七、損耗五四三二、残存人員一九五一であった。(但し、数字は昭和十六年十一月から十八年八月まで。)
南海支隊のオーエン・スタンレー山系越えの悲劇は、教訓とはならなかった。日本軍の指導者たちにとって、兵隊の生命などものの数ではなかったのである。二年後、ニューギニアの悲劇はインパール作戦でさらに拡大された。軍人の思考の独善的な愚かしさは遂に反省されることがなかった。