時間を八月七日に戻すことにする。
連合艦隊主力は瀬戸内海にあり、旗艦大和は柱島泊地にあった。
参謀長宇垣纒の日記『戦藻録』には米軍来攻の日のことが次のように記されている。
「五時三十分当直参謀ツラギに敵大挙来襲の報告を致す。本早朝出港呉回航の大和行動を延期し、専ら之が対策に当る。
日出午前四時の処同時刻空襲と共に戦艦巡洋艦の砲撃を受け、敵上陸を為すと云ふに在り。敵情判明迄相当の時間を要したるが、空母一、戦艦一、巡洋艦三、駆逐艦十五隻、之に運送船四十隻余ツラギ及ガダルカナルに同時に来襲せるが如く、|本《ママ》ツラギ飛行艇は七機共爆焼せられ七百人の守備隊関係奮戦し、通信隊の最後の電波は悲壮なるものあり。ガダルカナルは昨日頃を以て飛行場完成せるばかりにして、|守備兵は千二百人余《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。之に加ふるに人夫約二千人在り。
易々と敵の奪取に委せざるべきも同方面の電波一向に傍受出来ず情況不明なり。二十五航戦は七時五十五分中攻二十七機零戦十八機艦爆九機を発進攻撃せしむ。一方六戦隊は直に出港八艦隊長官は午後鳥海に乗艦、十八戦隊を合して同方面に向へり。
|此敵は正に同方面に居据りの腹にて思切つた主力兵を使用せり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。之を被攻撃迄発見探知せざりしは誠に迂濶千万と思ふ──前々日来相当の警告ありしに関らず、何としても後の祭りなり。之を速にやつつけざればモレスビ作戦処かラボールも奪回せんとし、同方面の作戦は著しく態勢不利となるを以て、印度洋方面は後廻しとしても先づ之を片附くる事に全力を払ふべし。(以下略)」(傍点引用者)
先の傍点部分「守備兵は千二百人」だから易々と敵に奪取されはしないであろうというのは、連合艦隊参謀長ののんきな記憶違いである。ガダルカナルには、先に述べたように、小銃または拳銃を装備した者は、第十一設営隊に約一八〇名、第十三設営隊に約一〇〇名、他に警備専任として第八十四警備隊に約一五〇名がいたに過ぎない。砲爆撃をともなった米軍の大挙上陸の前では、混乱を避けられなかった。多くの工員は指揮官の掌握から脱して密林に逃げ込んだ。部分的には小規模ながら組織的抵抗をしたが、友軍大部隊の来援がなければ、全滅は時間の問題であった。
後の傍点部分「敵は正に居据りの腹にて……」は、後述する大本営のこの日の情勢判断とかなり違っている。「居据りの腹にて思切つた主兵力を使用せり」という判断には、希望的観測や根拠のない楽観は含まれていない。
連合艦隊は大本営に対して陸軍兵力の急派を要請した。海軍の発意において推進した基地が、敵の意外に早い進攻によって占領されたことに驚きもし、情勢を重大視したのである。連合艦隊がこの米軍の来攻を本格的反攻の開始と判断した形跡は見当らないが、少くとも地域としては米軍の来攻あるべしと予想された正面であったので、事態の楽観は許されず、連合艦隊司令長官の決心において、予定されていた印度洋作戦を取り止め、ソロモンに敵を撃滅する作戦方針を立てたのであった。
連合艦隊としては、陸兵派遣に関しては、当時パラオにいた歩兵第三十五旅団(長・川口清健少将。後の川口支隊)が迅速にガダルカナルヘ派遣されることを希望していた。
大本営陸軍部では、しかし、派遣部隊を決定していなかった。とりあえず、七日、グァムから宇品へ向って出航した一木支隊に前述の反転待機の総長指示を発したが、使用予定は、この時点では東部ニューギニアとされていた。
大本営陸軍部としては、既定のポートモレスビーヘの陸路進攻作戦以外に南西太平洋方面での用兵をあまり歓迎していなかったのである。それというのも、陸軍の戦局全般にわたる構想のなかでは、重慶攻略作戦が戦争の終末を促進する方策として優先順位を占めていたからである。ガダルカナルの奪回作戦は、したがって、当初、用兵上のまわり道の感があった。
連合艦隊主力は瀬戸内海にあり、旗艦大和は柱島泊地にあった。
参謀長宇垣纒の日記『戦藻録』には米軍来攻の日のことが次のように記されている。
「五時三十分当直参謀ツラギに敵大挙来襲の報告を致す。本早朝出港呉回航の大和行動を延期し、専ら之が対策に当る。
日出午前四時の処同時刻空襲と共に戦艦巡洋艦の砲撃を受け、敵上陸を為すと云ふに在り。敵情判明迄相当の時間を要したるが、空母一、戦艦一、巡洋艦三、駆逐艦十五隻、之に運送船四十隻余ツラギ及ガダルカナルに同時に来襲せるが如く、|本《ママ》ツラギ飛行艇は七機共爆焼せられ七百人の守備隊関係奮戦し、通信隊の最後の電波は悲壮なるものあり。ガダルカナルは昨日頃を以て飛行場完成せるばかりにして、|守備兵は千二百人余《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。之に加ふるに人夫約二千人在り。
易々と敵の奪取に委せざるべきも同方面の電波一向に傍受出来ず情況不明なり。二十五航戦は七時五十五分中攻二十七機零戦十八機艦爆九機を発進攻撃せしむ。一方六戦隊は直に出港八艦隊長官は午後鳥海に乗艦、十八戦隊を合して同方面に向へり。
|此敵は正に同方面に居据りの腹にて思切つた主力兵を使用せり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。之を被攻撃迄発見探知せざりしは誠に迂濶千万と思ふ──前々日来相当の警告ありしに関らず、何としても後の祭りなり。之を速にやつつけざればモレスビ作戦処かラボールも奪回せんとし、同方面の作戦は著しく態勢不利となるを以て、印度洋方面は後廻しとしても先づ之を片附くる事に全力を払ふべし。(以下略)」(傍点引用者)
先の傍点部分「守備兵は千二百人」だから易々と敵に奪取されはしないであろうというのは、連合艦隊参謀長ののんきな記憶違いである。ガダルカナルには、先に述べたように、小銃または拳銃を装備した者は、第十一設営隊に約一八〇名、第十三設営隊に約一〇〇名、他に警備専任として第八十四警備隊に約一五〇名がいたに過ぎない。砲爆撃をともなった米軍の大挙上陸の前では、混乱を避けられなかった。多くの工員は指揮官の掌握から脱して密林に逃げ込んだ。部分的には小規模ながら組織的抵抗をしたが、友軍大部隊の来援がなければ、全滅は時間の問題であった。
後の傍点部分「敵は正に居据りの腹にて……」は、後述する大本営のこの日の情勢判断とかなり違っている。「居据りの腹にて思切つた主兵力を使用せり」という判断には、希望的観測や根拠のない楽観は含まれていない。
連合艦隊は大本営に対して陸軍兵力の急派を要請した。海軍の発意において推進した基地が、敵の意外に早い進攻によって占領されたことに驚きもし、情勢を重大視したのである。連合艦隊がこの米軍の来攻を本格的反攻の開始と判断した形跡は見当らないが、少くとも地域としては米軍の来攻あるべしと予想された正面であったので、事態の楽観は許されず、連合艦隊司令長官の決心において、予定されていた印度洋作戦を取り止め、ソロモンに敵を撃滅する作戦方針を立てたのであった。
連合艦隊としては、陸兵派遣に関しては、当時パラオにいた歩兵第三十五旅団(長・川口清健少将。後の川口支隊)が迅速にガダルカナルヘ派遣されることを希望していた。
大本営陸軍部では、しかし、派遣部隊を決定していなかった。とりあえず、七日、グァムから宇品へ向って出航した一木支隊に前述の反転待機の総長指示を発したが、使用予定は、この時点では東部ニューギニアとされていた。
大本営陸軍部としては、既定のポートモレスビーヘの陸路進攻作戦以外に南西太平洋方面での用兵をあまり歓迎していなかったのである。それというのも、陸軍の戦局全般にわたる構想のなかでは、重慶攻略作戦が戦争の終末を促進する方策として優先順位を占めていたからである。ガダルカナルの奪回作戦は、したがって、当初、用兵上のまわり道の感があった。
大本営海軍部では、八月七日早朝からのツラギ緊急電、二十五航戦や第八艦隊からの報告電を受けて、七日午前、敵情を次のように判定した。
ツラギ方面には、戦艦一、空母一、巡洋艦三、駆逐艦一五、輸送船若干。
ガダルカナルには、巡洋艦三、駆逐艦七、輸送船二七隻が飛行場東方の泊地に進入、空母はツラギ北方にあるものの如し、と判定された。(戦史室前掲書『陸軍作戦』)
この敵情は直ちに大本営陸軍部にも通報され、七日午前から午後にかけて陸海両作戦課幕僚の連絡研究が行なわれた。
その結論は、㈰推測される敵海軍の戦備から判断して、また現有空母勢力から推して、ガダルカナルとツラギに対する来攻は偵察上陸の程度であろう、㈪仮りにそれが占領を企図する反攻であるとしても、我が陸海軍部隊がこれを奪回することは容易であるが、ガダルカナルの飛行場が敵手に陥ちると爾後の作戦に不都合を来たすから、奪回作戦は即時行なわなければならない、というのであった。
二七隻もの輸送船をもってする揚陸作戦を何故偵察上陸の程度と断定するのかが問題である。仮りに、輸送船の平均トン数を三〇〇〇乃至五〇〇〇トンとし、輸送兵員一人当所要船腹を日本流に三トンとすれば、二万七〇〇〇乃至四万五〇〇〇の兵力を揚陸し得る計算になる。米軍は装備が豊富だし贅沢だからとして、一人当所要船腹を日本の三倍とみても、九〇〇〇乃至一万五〇〇〇の兵力を上陸させ得る推定が成り立つ。それを、何故、偵察上陸の程度と判定するのか。
ミッドウェー敗戦後二カ月、考慮の時間だけは十分にあったはずであるのに、依然として敵を下算する性癖を克服し得ていなかったか、あるいは、敵勢力を希望的に縮小見積りしたかったのか。
事実は、米側資料によれば、X輸送船団(ガダルカナル)輸送船一五、Y輸送船団(ツラギ)輸送船八、輸送船団にはA・A・バンデグリフト海兵少将以下一万九一〇五名が乗船していて、ガダルカナルには七日日没までに約一万一〇〇〇の兵力が上陸したのである。
ツラギ方面には、戦艦一、空母一、巡洋艦三、駆逐艦一五、輸送船若干。
ガダルカナルには、巡洋艦三、駆逐艦七、輸送船二七隻が飛行場東方の泊地に進入、空母はツラギ北方にあるものの如し、と判定された。(戦史室前掲書『陸軍作戦』)
この敵情は直ちに大本営陸軍部にも通報され、七日午前から午後にかけて陸海両作戦課幕僚の連絡研究が行なわれた。
その結論は、㈰推測される敵海軍の戦備から判断して、また現有空母勢力から推して、ガダルカナルとツラギに対する来攻は偵察上陸の程度であろう、㈪仮りにそれが占領を企図する反攻であるとしても、我が陸海軍部隊がこれを奪回することは容易であるが、ガダルカナルの飛行場が敵手に陥ちると爾後の作戦に不都合を来たすから、奪回作戦は即時行なわなければならない、というのであった。
二七隻もの輸送船をもってする揚陸作戦を何故偵察上陸の程度と断定するのかが問題である。仮りに、輸送船の平均トン数を三〇〇〇乃至五〇〇〇トンとし、輸送兵員一人当所要船腹を日本流に三トンとすれば、二万七〇〇〇乃至四万五〇〇〇の兵力を揚陸し得る計算になる。米軍は装備が豊富だし贅沢だからとして、一人当所要船腹を日本の三倍とみても、九〇〇〇乃至一万五〇〇〇の兵力を上陸させ得る推定が成り立つ。それを、何故、偵察上陸の程度と判定するのか。
ミッドウェー敗戦後二カ月、考慮の時間だけは十分にあったはずであるのに、依然として敵を下算する性癖を克服し得ていなかったか、あるいは、敵勢力を希望的に縮小見積りしたかったのか。
事実は、米側資料によれば、X輸送船団(ガダルカナル)輸送船一五、Y輸送船団(ツラギ)輸送船八、輸送船団にはA・A・バンデグリフト海兵少将以下一万九一〇五名が乗船していて、ガダルカナルには七日日没までに約一万一〇〇〇の兵力が上陸したのである。