ガダルカナルでは、宿営地が海岸に近かった第十一設営隊(以下十一設と略称)は、米軍来襲の衝撃が大きかったとみえる。混乱状態に陥って指揮官の掌握下から離れ、ジャングル内へ逃げ込んだ者が多かった。
第十三設営隊(以下十三設と略称)の宿営地からは海岸は見えず、したがって来襲した敵艦船団も見えなかった。たまたまその日は起床時間を早め、作業にとりかかろうとしているときに砲爆撃がはじまった。敵大挙来襲の報は四時三十分ころ警備隊からもたらされたらしい。
岡村十三設隊長は、はじめ、ルンガ川(飛行場付近)の線で抵抗するつもりであったが、十一設や警備隊とも連絡がとれず、独力で長期抵抗は不可能と考えて、西方へ撤退することにした。
七日夜になって、門前十一設隊長以下十数名が十三設に合流し、西方マタニカウ川を渡って、クルツ岬西方に後に海軍本部と呼ぶことになる指揮所を置き、事態の推移を待った。
第八十四警備隊ガダルカナル派遣隊は前記の通り少人数であり、火砲も高角砲六門と山砲二門しか持たず、圧倒的に優勢な米軍に敵し得ないので、これも西方へ退避、設営隊と合流して門前十一設隊長(大佐)の指揮下に入った。
八日夜半、彼らは陸上から、後述するツラギ海峡夜戦を望見して、友軍の来援上陸を信じた。
十一、十三両設営隊の米軍来襲時の被害は判然しない。一説には、十一設五五%、十三設三五%であったという。
ツラギ方面(ガブツ島、タナンボコ島を含む)では、ガダルカナルとちがって、日本軍は洞窟陣地に拠って激しく抵抗したらしい。らしいというのは、この方面の戦闘経過は米軍側資料にしか記録されていないからである。在島の日本軍は、少数の脱出者と捕虜になった者を除いて、いずれも玉砕した。
ツラギでの抵抗は、一部少数のゲリラ的抗戦を別とすれば、八日夕刻ごろまでに終った。
横浜海軍航空隊約四〇〇名と八十四警約五〇名がいたガブツとタナンボコでの抵抗は激しくて、タナンボコに上陸した米軍は、七日夜、一時ガブツ島方面へ退去している。しかし、八日夕刻ごろまでにガブツ・タナンボコの大部分は米軍の手中に陥ち、一部の抗戦は翌九日遅くまでつづいたという。
米軍の本格的反攻がはじまることを全然予想出来ず、諸々の島々に原住民制圧用程度の少数兵力を分散配置してあっただけであるから、よしんば飛行機の日施哨戒によって敵の来襲を偵知し得たとしても、敵手に陥ちるのを防ぐことは出来なかったはずである。
第十三設営隊(以下十三設と略称)の宿営地からは海岸は見えず、したがって来襲した敵艦船団も見えなかった。たまたまその日は起床時間を早め、作業にとりかかろうとしているときに砲爆撃がはじまった。敵大挙来襲の報は四時三十分ころ警備隊からもたらされたらしい。
岡村十三設隊長は、はじめ、ルンガ川(飛行場付近)の線で抵抗するつもりであったが、十一設や警備隊とも連絡がとれず、独力で長期抵抗は不可能と考えて、西方へ撤退することにした。
七日夜になって、門前十一設隊長以下十数名が十三設に合流し、西方マタニカウ川を渡って、クルツ岬西方に後に海軍本部と呼ぶことになる指揮所を置き、事態の推移を待った。
第八十四警備隊ガダルカナル派遣隊は前記の通り少人数であり、火砲も高角砲六門と山砲二門しか持たず、圧倒的に優勢な米軍に敵し得ないので、これも西方へ退避、設営隊と合流して門前十一設隊長(大佐)の指揮下に入った。
八日夜半、彼らは陸上から、後述するツラギ海峡夜戦を望見して、友軍の来援上陸を信じた。
十一、十三両設営隊の米軍来襲時の被害は判然しない。一説には、十一設五五%、十三設三五%であったという。
ツラギ方面(ガブツ島、タナンボコ島を含む)では、ガダルカナルとちがって、日本軍は洞窟陣地に拠って激しく抵抗したらしい。らしいというのは、この方面の戦闘経過は米軍側資料にしか記録されていないからである。在島の日本軍は、少数の脱出者と捕虜になった者を除いて、いずれも玉砕した。
ツラギでの抵抗は、一部少数のゲリラ的抗戦を別とすれば、八日夕刻ごろまでに終った。
横浜海軍航空隊約四〇〇名と八十四警約五〇名がいたガブツとタナンボコでの抵抗は激しくて、タナンボコに上陸した米軍は、七日夜、一時ガブツ島方面へ退去している。しかし、八日夕刻ごろまでにガブツ・タナンボコの大部分は米軍の手中に陥ち、一部の抗戦は翌九日遅くまでつづいたという。
米軍の本格的反攻がはじまることを全然予想出来ず、諸々の島々に原住民制圧用程度の少数兵力を分散配置してあっただけであるから、よしんば飛行機の日施哨戒によって敵の来襲を偵知し得たとしても、敵手に陥ちるのを防ぐことは出来なかったはずである。
既述のように七日午後二時半ラバウルを出撃、洋上を南下中の第八艦隊は、七日午後から八日午前にかけて得た情報で、敵の上陸部隊は予想以上の大兵力で一個師団程度はあるらしいと判断するようになり、また敵空母の所在は味方索敵機によって確認されていないが、ガダルカナル上空付近に敵の艦載機が認められることから、敵空母が近海を行動していることも確実と|看做《みな》さざるを得なかった。
七日夕刻ラバウルに帰投した艦爆隊員は、「戦艦一、大巡二、軽巡八、駆逐艦四、輸送船約三〇、小型艇無数輸送船ト陸岸トヲ往復シアリ」と、ツラギとガダルカナル沖の敵情を報告したのである。
また、八日午前九時ごろまでの索敵機の報告によって、ガダルカナル北方海域に少くとも巡洋艦四、駆逐艦九、輸送船一五が確認されたし、ガダルカナル上空で多数の艦載機が認められた。二十五航戦は米軍がガダルカナルの東方乃至北方から来攻したものと考え、その方向に索敵線を伸ばしていたが、空母を発見出来ずに艦載機多数を認めたということは、別方向に空母がいたことになる。事実、米軍空母はガダルカナルの南方、レンネル島とサンクリストバル島の間の海域を行動していたのであった。
敵の上陸兵力が予想以上に大きいとすれば、先にガダルカナル地上戦闘増援のために抽出派遣した海軍陸戦隊五一九名(遠藤隊)は、兵力過少で増援の用をなさない。第八艦隊は八日正午前、前夜九時に既に『津軽』艦長指揮のもとにラバウルを出撃南下中の増援部隊にラバウルヘの反転を命じた。
命を受けて反転帰投の途についた部隊は、八日夜八時ごろ、セントジョージ岬西方約一五浬で敵潜水艦の雷撃を受け明陽丸が沈没、三七三名を失った。ガダルカナルとツラギの設営隊と警備隊の交戦被害を別とすれば、遠藤隊の損害は、その後再三繰り返された空しい犠牲を予言するような事件であった。
第八艦隊は八日午前八時過ぎから約一時間敵偵察機の接触を受け、一時的に偽航路をとったが、やがて敵機は去り、その後、不思議なことに何事もなく、ブーゲンビル島東方海域を南下、午後四時ごろにはチョイセル島とコロンバンガラ島の中間を東南へ走った。
午後九時、ラッセル島北方約三五浬で艦隊は哨戒機四機を射出した。偵察と戦闘時の照明のためである。依然として何事もなく、夜更けになってガダルカナル島とフロリダ島(ツラギ)の西端部がその中間に挟んでいるサボ島に近づいた。
先に接触していた敵機が即刻通報していたら、事態は全く異っていたであろうと思われる。
その飛行機はオーストラリア空軍所属であったが、飛行中に無線封止を破ることを欲しなかったのか、ミルン湾基地(ニューギニア東端)帰投後に日本軍第八艦隊の行動を報告した。しかもその通報がガダルカナル方面水陸両用部隊指揮官ターナー少将に届いたのは、電報がタウンスビル、ブリスベーンと一旦南へ送られてからハワイヘ転電され、ハワイからの通報は午後四時四十五分になってからであった。その上、さらに、ターナーは、この通報を重要視しなかった。ガダルカナル泊地への日本艦隊の襲撃とは思わずに、日本海軍がイサベル島北西端のレガタに水上機を推進するもの(電文に水上機母艦又は砲艦二隻云々とあったから)と判断したらしいのである。
ターナーがもっと緻密な神経の持主であったら、事態は変っていたかもしれない。というのは、第八艦隊の行動はもっと早くに捉えられていたのである。前日、七日の午後六時、第八艦隊がラバウルを出港してセントジョージ海峡を通過したころ、米潜水艦S38がこれを発見して「駆逐艦二、艦種不詳の大型艦三南東に向け高速航行中」と通報している。この通報は翌八日朝ターナーの許に達しているのである。ガダルカナルはセントジョージ海峡からまさしく南東方にあたる。ただ、何分にもまだ距離が遠かった。五五〇浬も離れていたので、水陸両用部隊指揮官としては、日本艦隊に関するその後の情報を待つつもりであったと考えられる。
その後の情報が、先に述べた豪軍偵察機からの不正確かつ遅延した電文であった。
七日夕刻ラバウルに帰投した艦爆隊員は、「戦艦一、大巡二、軽巡八、駆逐艦四、輸送船約三〇、小型艇無数輸送船ト陸岸トヲ往復シアリ」と、ツラギとガダルカナル沖の敵情を報告したのである。
また、八日午前九時ごろまでの索敵機の報告によって、ガダルカナル北方海域に少くとも巡洋艦四、駆逐艦九、輸送船一五が確認されたし、ガダルカナル上空で多数の艦載機が認められた。二十五航戦は米軍がガダルカナルの東方乃至北方から来攻したものと考え、その方向に索敵線を伸ばしていたが、空母を発見出来ずに艦載機多数を認めたということは、別方向に空母がいたことになる。事実、米軍空母はガダルカナルの南方、レンネル島とサンクリストバル島の間の海域を行動していたのであった。
敵の上陸兵力が予想以上に大きいとすれば、先にガダルカナル地上戦闘増援のために抽出派遣した海軍陸戦隊五一九名(遠藤隊)は、兵力過少で増援の用をなさない。第八艦隊は八日正午前、前夜九時に既に『津軽』艦長指揮のもとにラバウルを出撃南下中の増援部隊にラバウルヘの反転を命じた。
命を受けて反転帰投の途についた部隊は、八日夜八時ごろ、セントジョージ岬西方約一五浬で敵潜水艦の雷撃を受け明陽丸が沈没、三七三名を失った。ガダルカナルとツラギの設営隊と警備隊の交戦被害を別とすれば、遠藤隊の損害は、その後再三繰り返された空しい犠牲を予言するような事件であった。
第八艦隊は八日午前八時過ぎから約一時間敵偵察機の接触を受け、一時的に偽航路をとったが、やがて敵機は去り、その後、不思議なことに何事もなく、ブーゲンビル島東方海域を南下、午後四時ごろにはチョイセル島とコロンバンガラ島の中間を東南へ走った。
午後九時、ラッセル島北方約三五浬で艦隊は哨戒機四機を射出した。偵察と戦闘時の照明のためである。依然として何事もなく、夜更けになってガダルカナル島とフロリダ島(ツラギ)の西端部がその中間に挟んでいるサボ島に近づいた。
先に接触していた敵機が即刻通報していたら、事態は全く異っていたであろうと思われる。
その飛行機はオーストラリア空軍所属であったが、飛行中に無線封止を破ることを欲しなかったのか、ミルン湾基地(ニューギニア東端)帰投後に日本軍第八艦隊の行動を報告した。しかもその通報がガダルカナル方面水陸両用部隊指揮官ターナー少将に届いたのは、電報がタウンスビル、ブリスベーンと一旦南へ送られてからハワイヘ転電され、ハワイからの通報は午後四時四十五分になってからであった。その上、さらに、ターナーは、この通報を重要視しなかった。ガダルカナル泊地への日本艦隊の襲撃とは思わずに、日本海軍がイサベル島北西端のレガタに水上機を推進するもの(電文に水上機母艦又は砲艦二隻云々とあったから)と判断したらしいのである。
ターナーがもっと緻密な神経の持主であったら、事態は変っていたかもしれない。というのは、第八艦隊の行動はもっと早くに捉えられていたのである。前日、七日の午後六時、第八艦隊がラバウルを出港してセントジョージ海峡を通過したころ、米潜水艦S38がこれを発見して「駆逐艦二、艦種不詳の大型艦三南東に向け高速航行中」と通報している。この通報は翌八日朝ターナーの許に達しているのである。ガダルカナルはセントジョージ海峡からまさしく南東方にあたる。ただ、何分にもまだ距離が遠かった。五五〇浬も離れていたので、水陸両用部隊指揮官としては、日本艦隊に関するその後の情報を待つつもりであったと考えられる。
その後の情報が、先に述べた豪軍偵察機からの不正確かつ遅延した電文であった。