敵側の過失に幸されて、第八艦隊はサボ島南側へ単縦陣、開距離一二〇〇メートル、二六ノットの高速で突入した。旗艦の鳥海を先頭に、第六戦隊の青葉、衣笠、加古、古鷹、第十八戦隊の天竜、夕張、夕凪の順である。
米豪連合軍は巡洋艦七隻を主力として、サボ島の北と南に配備についていた。連合軍は日本艦隊の襲撃を全然考慮しなかったわけではあるまい、サボ島南北の両水道には本隊から離れてそれぞれ駆逐艦が警戒にあたっていたのである。
その駆逐艦が艦尾方向を通過する日本艦隊に気がつかなかったというのは、どうにも|解《げ》せない。第八艦隊では、この駆逐艦は|囮《おとり》なのかもしれないと疑いつつ、速力を一二ノットに落して艦尾方向をすり抜けたという。第八艦隊は信じられないような僥倖に恵まれていたとしかいいようがない。ガダルカナルとツラギの上陸占領が米軍が予想していたのより遥かに簡単であったので、ターナー以下が日本軍の戦備がととのっていないと判断し、いくらか緊張を欠いていたのかもしれない。
米側資料(S・E・モリソン)によれば、サボ島の南と北の水道には駆逐艦ブルーとラルフ・タルボットがそれぞれ哨戒していて、両艦には旧式のレーダーが装備されていたが、哨戒区域は島の陸地が近かったためレーダーの能力が落ちていたのと、乗組員は三十六時間以上も戦闘配備についたままであったため、極度に疲労していて日本艦隊を発見出来なかったというのである。
三川長官は旗艦鳥海から八日午後十一時二十六分、「単独指揮」を艦隊各艦に下令した。狭い海面で、しかも暗夜、八〇〇〇メートルに及ぶ長い単縦陣で高速突入しての夜戦であるから、各艦ごとに独立して艦長が戦闘指揮をとれという下令である。
「全軍突撃セヨ」が下令されたのは午後十一時三十一分であった。
先に射出された飛行機から吊光弾が投下され、その鮮やかな背景照明のうちに第八艦隊はサボ島南側の敵艦隊に雷撃砲撃を加え、多数の命中弾が認められた。
第六戦隊の|殿艦《しんがりかん》古鷹(先頭鳥海から算えて第五番艦)は、午後十一時四十四分、左舷に進出して来た敵駆逐艦を雷撃し、前続艦に続行中、火焔に包まれた敵巡洋艦が隊列に突入して来そうになったので、これを避けるため左に転舵し、以後前続艦と分離してしまい、後続の第十八戦隊の天竜と夕張の二艦が古鷹に続行する形となった。
第八艦隊はサボ島南側の敵艦隊を|屠《ほふ》って、左に変針、サボ島北側の敵に襲いかかったが、今度は鳥海以下第六戦隊(古鷹欠)は敵艦隊の東側に、古鷹以下三艦は西側に、敵を挟む形で突進した。この襲撃がまた不思議に奇襲としての効果をあげたのである。米豪軍ははじめのうちは高角砲と機銃だけで応戦したという。サボ島南側での砲雷撃戦に北側にいた米艦が警戒を深めなかったのも解せないことである。
この第二次戦闘で旗艦鳥海は海図室を吹き飛ばされ、探照灯と作戦室を損傷したが、戦果は一方的で、第八艦隊の完勝であった。
九日零時十五分ごろには、敵の目標もなくなった。戦果は、日本側が重巡二隻の損傷に過ぎなかったのに対して、米豪連合軍は重巡四隻沈没、重巡一隻・駆逐艦一隻の損傷であった。
長官三川中将は九日午前零時二十三分、全軍引揚げを下令した。
このとき、旗艦鳥海の艦長早川大佐は、艦が艦橋後部に被弾して、海図室を失い、探照灯と作戦室を損傷していたにもかかわらず、三川長官に、
「もう帰るのですか」
と反問したという。その意味は、揚陸中と思われる敵輸送船団を泊地に攻撃しないのか、ということである。
サボ島付近で海戦が行なわれている間、輸送船団は混乱した状態にあった。日本軍飛行機からの吊光弾はルンガ沖輸送船団泊地上空と、つづいてツラギ輸送船団上空に投下され、船団を鮮やかに照らし出した。船団は灯火を消し、誘導する艦もなく、荷役を中止して、泊地付近海面を右往左往していた。
三川長官は、しかし、船団を泊地に攻撃しなかった。三川中将の考えはこうである。艦隊はまず何よりも天明までに敵空母搭戦機の追撃圏外に出なければならない。あのとき敵の泊地を襲撃すれば、敵の上陸部隊や輸送船団に多大の損害を与え得たかもしれない。それは、しかし、後になっていえることである。また、後からいえば、敵の空母群は八日午後十一時にはサンクリストバル島南西端を南下中であったのだから、第八艦隊が泊地に突入してから引き揚げても、敵航空部隊の攻撃は受けずに済んだかもしれないが、それは後になって判明したことに過ぎない。
三川中将は何よりも艦隊の温存を重視したのである。
第八艦隊戦闘詳報には次の通り記されている。
「(前段略)〇一三〇頃『サボ』ノ北西ニ於テ鳥海ノ外全軍損傷皆無ノ状態ニテ集結セリ 此ノ際再度突入ヲ考慮セラレタルモ之ガ為ニ時間ヲ要シ旁々魚雷ハ殆ド消耗シアリシ事情モアリ 日出(〇四四〇)迄ニ敵母艦機ノ攻撃圏(『サボ』島ヨリ少クトモ一二〇浬)外ヘノ離脱困難(再度突入セバ日出時『サボ』島僅ニ三〇浬離脱シ得ルノミ)トナルヲ以テ其ノ儘引揚ニ決ル」
しかし、鳥海戦闘詳報の戦訓所見には次のように記されている。(戦史室『南東方面海軍作戦』(1))
一 「ツラギ」海峡夜戦ニ於テ敵艦隊ヲ撃滅シ得タル際再ビ泊地ニ進入敵輸送船団全滅スベカリシモノト認ム
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
(イ) 一般ニ小成ニ安ンジ易シ
「ツラギ」海峡夜戦ニ於テ我艦隊ハ敵艦隊ヲ撃滅シタル際尚残弾ハ六割以上ヲ有シ被害亦軽微ナリキ、宜シク勇気ヲ振ヒ起シ再ビ泊地ニ進入輸送船ヲ全滅スベキモノナリト確信ス
(ロ) 同輸送船ニハ「ガダルカナル」基地ヲ強化スベキ人員資材ヲ搭載セルヤ瞭ナリ、又之ヲ全滅セル場合敵国側ニ及ボスベキ心的影響ノ大ナルベキハ察スルニ余リアル所ナリ
[#ここで字下げ終わり]
夜戦のあとで陣形が乱れ、これを整えてから再突入すれば、時間がかかって、翌朝敵機の攻撃圏外に離脱することが困難になるというのは一応の理窟だが、引揚げ下令時に鳥海、青葉、加古、衣笠が単縦陣を形成していたことは記録によって明らかだから、この四艦だけでも即座に泊地へ再突入するのであれば陣容をととのえるのに時間(二時間を要したであろうという参謀の説がある)は要らなかったし、敵側は既に無力化していたのであるから、泊地突入は、敢行しようと思えば前記四艦だけでも十分であったと思われる。
ただ、敵空母群の所在が不明で、ガダルカナルの近海にあるものという推定がなされるのは当然だし、空母群が夜戦の発生を知って日本艦隊を追及するかもしれないと予想するのも当然であった。
引揚げの理由として魚雷を殆ど消耗していたというのは、事実に反している。各艦搭載雷数のほぼ半数は残っていたはずなのである。
連合艦隊司令長官は、三川中将が引揚げを命じたことを電信で知り、ショートランドで補給の上再突入するものと考えた、という。それがそうではなくてラバウルヘ帰投したので、作戦目的を達成しなかったとして、大いに不満であった、という。
ラバウルにある陸軍の第十七軍も、三川第八艦隊長官のこの措置をいたく不満とした。
「第八艦隊甲巡五を撃沈して帰途に就けるが如し。敵空母を恐れたるか。今一息と言ふ処、遺憾至極なり。斯くてツラギ(前述の通りガダルカナルを含めての呼称──引用者)は遂に敵の蹂躪に委したるか。果して然らば之が恢復は容易に非ず。(以下略)」(二見第十七軍参謀長の日記──前掲戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1)より)
というのである。
地域担当の陸軍である第十七軍としては、ガダルカナルの失陥は海軍が独自に行なった基地設定の失態であるから、陸兵派遣を要請してくるからには、当然地上戦闘を有利に展開するように敵の上陸阻止、輸送船団の撃滅が優先しなければならない、と言いたい気持がある。
海軍としては陸軍からそう言われても仕方がないことなのである。第八艦隊出撃の目的には確かにガダルカナル泊地襲撃があった。だが、その泊地襲撃の内容が問題である。
第八艦隊司令部は七日早朝のツラギからの急報に接すると、二十五航戦司令部と打合せを行なって、艦隊主力をもって敵輸送船団を攻撃する企図を伝え、二十五航戦に敵空母の索敵攻撃を要望している。この時点では船団攻撃の意図は明らかである。
けれども、泊地突入を決意した三川中将は、八日午前九時十分(艦隊は既に航行中)南東方面部隊指揮官(十一航艦長官のこと)、連合艦隊司令長官、軍令部総長宛てに突入決意を次のように打電している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「一 (敵情略)
二 主隊ハ飛行機(偵察用──引用者)収容次第(〇九三〇頃ノ予定)『ボーゲンビル』海峡ヲ南下『イサベラ』島、『ニュージョージヤ』島間ヲ高速ニ突破二〇三〇頃『|ガダルカナル《ヽヽヽヽヽヽ》』|泊地ニ殺到《ヽヽヽヽヽ》、|奇襲ヲ加ヘタル後急速避退セントス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
三 〇八二〇敵『ロッキード』一機我ニ触接中」(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分は簡略に過ぎて、解釈は如何様にも出来る。船団撃滅が主目的なのか、敵艦隊撃滅が主目的なのか、不明である。
第八艦隊司令部は、次いで、以下のような戦闘要領を決定している。少し長いが、八艦司令部の考え方が表われているので、引用する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 突入はサボ島南側から、まずルンガ沖の主敵を雷撃して左に転じ、ツラギ前方の敵を砲雷撃したのち、サボ島北方を避退する。(戦闘経過は大体右の通りになった。──引用者)
二 |突入は一航過とし《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、できる限りすみやかに敵空母から離脱する。このため突入時刻を二三三〇以前とし、翌朝日出時(〇四四〇)には、サボ島の一二〇浬圏外に離脱する。(突入時から日出時まで約五時間にサボ島の一二〇浬圏外に出るということは毎時平均二四ノットで走っていることになる。──引用者)
三 狭隘な水道における戦闘であり、かつ烏合の衆である(艦隊編成後間もないことであり、合同訓練も回転整合(速力統一のために各艦推進器の回転数を編隊航行して測定すること)も行なったことのない新編部隊であるの意──引用者)ので、混乱の防止、個艦戦闘力発揮の見地から、各艦の距離を一二〇〇米の単縦陣とする。これがため艦隊の全長が八〇〇〇米を越え、運動性を殺減するがやむをえない。|反転突入は全く考慮しない。《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
四、五、略(前掲戦史室『海軍作戦』より。──傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
二と三の傍点部分に注目されたい。予定された夜戦は一航過戦であった。反転突入は全く考慮しないと決めていたのである。サボ島の南側から突入し、左に変針してサボ島北方へ廻り、避退することにしていたのである。八日深夜の夜戦はその通りに行なわれた。南方水道で先に輸送船団を発見すれば事態は別の展開を見せたであろうが、事実経過は、南方水道の敵艦隊を発見、これを襲い、左に変針して北方水道の敵艦隊と交戦した。その後は「反転突入は全く考慮しない」と戦闘要領を決定していたのである。
夜戦があまりに順調効果的に展開し、約一時間後には目標となる敵艦もいなくなるほどであったから、再突入が問題となったのではないか。南北両水道での艦隊同士の戦闘がもっと苦戦であれば、船団問題は後日どのように考えられたであろうか。
三川中将は八日午後二時四十二分麾下艦隊に突入に関し次のように下令している。先の戦闘要領と重複してくどいようだが、再突入論議は|得隴望蜀《とくろうぼうしよく》の感がないでもないので、下令信号を引用して麾下各艦がどのように心得ていたのであろうかを|忖度《そんたく》する材料とする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 夜間索敵配備 第六戦隊(青葉、衣笠、加古、古鷹──引用者)ハ鳥海ノ後方一〇〇〇米に続行、前衛ハ鳥海ノ前方三〇〇〇米に於テ左側列天竜、夕凪、右側列夕張トシ間隔六〇〇〇米
二 突入発令前敵哨艦ト会敵ノ際、前衛ハ極力之ヲ阻止シ、主隊ハ脱退南下ス
三 突入時ノ隊形ハ単縦陣鳥海ノ第六戦隊、天竜、夕張、夕凪ノ順トシ開距離一二〇〇米(事実の通り──引用者)
四 突入ハ「サボ」島南方ヨリ先ヅ「ガダルカナル」基地前面ノ敵ヲ雷撃シタル後、取舵ニテ反転「ツラギ」前面ノ敵ヲ砲雷撃シ「サボ」島北方ヨリ避退ス、砲雷撃ノ実施要領ハ各指揮官ノ所信ニ一任ス
五、六、略(以上前掲戦史室『海軍作戦』)
[#ここで字下げ終わり]
右の突入要頷下令では、各艦指揮官は夜戦の目的が泊地に輸送船団を撃滅することとは諒解していなかったはずである。
出撃前の予想では、敵は空母群を有しているはずであり、敵の海上兵力は第八艦隊よりはるかに優勢であるから、事実経過のような完勝は考えられなかったにちがいない。
八日夜の第一次ソロモン海戦(ツラギ海峡夜戦)では、大敵に対して予想外の完勝を果した。ならば、何故、右往左往していたはずの輸送船団を撃滅しなかったか、と考えるか、米艦隊撃滅の任はほぼ完全に果した、船団撃沈のために再突入に時間を費やして、敵母艦機の攻撃圏外への離脱困難という危険を冒すのは賢明でない、と考えるか。三川長官の脳裡では、艦隊温存の重要度が爾後の作戦展開の見通しに基づく冒険の選択より優先したにちがいないのである。
米側戦史によれば、三川長官が懸念した米空母部隊は、ガダルカナル付近から避退のため、九日午前一時(八艦隊全軍引揚下令の三十分後)、サンクリストバル(ソロモン諸島の南端島)の南西端沖を南下中であったが、南太平洋部隊指揮官ゴームレー中将からの避退許可が来ないので、一旦ガダルカナル方向へ引き返した。空母部隊の避退に関しては、遠征作戦打合せのとき、空母部隊指揮官であり現地作戦部隊指揮官でもあったフレッチャー中将は、上陸作戦の支援に二日以上支援距離内にとどまらないと主張し、水陸両用部隊指揮官ターナー少将は、荷役等の全揚陸作業は四日以内には終らないので、揚陸全期間の空母による支援を要請して譲らず、南太平洋部隊指揮官ゴームレー中将が会議の席に不在のため、問題は未解決のままで作戦実施となった。
フレッチャーは八日午後四時過ぎ空母部隊避退の意見具申をして、ゴームレーから回答が来ないうちに南下を開始した。米機動部隊はミッドウェーで大勝したとはいうものの、その前の珊瑚海海戦ではレキシントンを、ミッドウェーではヨークタウンを失っていたから、やはりそれ以上を失う危険を冒したくはなかったのである。
ゴームレーからの避退許可がなかなか来ないので、空母部隊はガダルカナル方向へ引き返している途中、九日午前三時、ツラギ海峡夜戦の急報に接した。このとき、日本艦隊の三川長官と鳥海の早川艦長との間にあったのと似たようなことが、フレッチャー中将とワスプ艦長シャーマン大佐との間に生じている。シャーマン艦長は、乗艦中のノイズ少将を通じて、空母群が燃料を多量に残している駆逐艦を選んで高速で取って返し、飛行機を発進させて日本艦隊を追撃しよう、と意見具申をした。
しかし、九日午前三時三十分には、フレッチャーの避退進言に対するゴームレー南太平洋部隊指揮官からの許可電が到達した。フレッチャーはガダルカナル付近での水上戦闘の経過と結果に関する新しい情報を求めようともせず、再び針路を反転して南下をはじめ、ソロモン海域から完全に離脱したのである。(モリソン『合衆国海軍作戦史』巻5)
したがって、もし、日本側では早川艦長の意見通り艦隊がサボ島をもう一まわりしてルンガ泊地に突入を敢行し、米国側ではシャーマン艦長の意見通りに空母群が高速反転して飛行機を発進させていたとしたら、戦史は全く異った展開を残したかもしれない。
三川長官が内地出発の際、軍令部総長から「無理な注文かも知れないが、日本は工業力が少いから艦を|毀《こわ》さないようにして貰いたい」と注意を受けたというが(戦史室前掲書)、それが三川長官の心理に影響を及ぼしたにしろ、及ぼさなかったにせよ、もし事実なら、不見識なことを言う総長があったものである。第一次ソロモン海戦のように味方はほとんど無傷、敵方はほとんど全滅というような一方的な海戦があるものではない。艦を毀されて困るのなら、戦争をしないがいいのである。実戦部隊指揮官に艦を毀すなと注文をつけるより、艦を毀さないで済むように戦争を避ける方向へ海軍を導くのが、最高責任者としての最も重要な仕事だったはずなのである。永野軍令部総長はちょうど反対のことをした。艦を毀すなと注文をつけながら、工業力の乏しいのを承知で、無理な開戦へ海軍を導いたことの小さからぬ責任は彼にある。(拙著『御前会議』参照)
ともかくも、第一次ソロモン海戦は第八艦隊の一方的勝利に終った。
泊地付近に右往左往していた輸送船団に一指も触れなかったことが批判の対象となったが、米側戦史によれば、夜戦で米豪連合軍は大損害を蒙り、輸送船団は九日午後には物資資材揚陸を終らぬままで泊地から避退せざるを得なかった。揚陸の済んだものは、人員の大部、糧食六十日分中の二十五日分、弾薬一〇単位中の約四単位、有刺鉄線一八巻だけであった。人員一三九〇人、重砲、レーダー、その他重装備は全く揚陸出来なかったし、師団連絡用の飛行機も巡洋艦に搭載したままで破壊され、ガダルカナル上空も偵察出来なくなっていた、という。
こう見てくると、ガダルカナル戦初動の時に日本軍が大艦隊、大航空部隊、大陸軍部隊の戦力を統合発揮して一挙に圧倒する作戦に出ることが出来れば、ガダルカナルの奪回も可能であったであろう。これから詳しく見てゆくことになるが、一挙大兵使用以外では何の望みもなかったと言ってよい。ガダルカナル奪回作戦の成功によって戦争勝敗の帰趨が逆転したであろうなどと言うつもりは微塵もない。ただ、それ以後の戦局の推移が異ったものになったではあろうし、少くとも、日本軍が戦い方の最善を尽したことにはなったであろう。
事実は、日本軍は凄絶なまでに死力は尽したが、決して戦理の最善を尽しはしなかった。何故といって、米軍は、常に、徹底的に大兵力、大火力、大物量主義をとり、日本軍はいつも後手にまわって兵力逐次投入の誤りを反復し、補給難に陥ることは目に見えていながら敢て冒し、望みなき死力を尽すことに終ったのである。
それは必ずしも国の裕福と貧困の差に帰せられるべきことではなかった。統帥の巧拙にかかわること多分であった。
米豪連合軍は巡洋艦七隻を主力として、サボ島の北と南に配備についていた。連合軍は日本艦隊の襲撃を全然考慮しなかったわけではあるまい、サボ島南北の両水道には本隊から離れてそれぞれ駆逐艦が警戒にあたっていたのである。
その駆逐艦が艦尾方向を通過する日本艦隊に気がつかなかったというのは、どうにも|解《げ》せない。第八艦隊では、この駆逐艦は|囮《おとり》なのかもしれないと疑いつつ、速力を一二ノットに落して艦尾方向をすり抜けたという。第八艦隊は信じられないような僥倖に恵まれていたとしかいいようがない。ガダルカナルとツラギの上陸占領が米軍が予想していたのより遥かに簡単であったので、ターナー以下が日本軍の戦備がととのっていないと判断し、いくらか緊張を欠いていたのかもしれない。
米側資料(S・E・モリソン)によれば、サボ島の南と北の水道には駆逐艦ブルーとラルフ・タルボットがそれぞれ哨戒していて、両艦には旧式のレーダーが装備されていたが、哨戒区域は島の陸地が近かったためレーダーの能力が落ちていたのと、乗組員は三十六時間以上も戦闘配備についたままであったため、極度に疲労していて日本艦隊を発見出来なかったというのである。
三川長官は旗艦鳥海から八日午後十一時二十六分、「単独指揮」を艦隊各艦に下令した。狭い海面で、しかも暗夜、八〇〇〇メートルに及ぶ長い単縦陣で高速突入しての夜戦であるから、各艦ごとに独立して艦長が戦闘指揮をとれという下令である。
「全軍突撃セヨ」が下令されたのは午後十一時三十一分であった。
先に射出された飛行機から吊光弾が投下され、その鮮やかな背景照明のうちに第八艦隊はサボ島南側の敵艦隊に雷撃砲撃を加え、多数の命中弾が認められた。
第六戦隊の|殿艦《しんがりかん》古鷹(先頭鳥海から算えて第五番艦)は、午後十一時四十四分、左舷に進出して来た敵駆逐艦を雷撃し、前続艦に続行中、火焔に包まれた敵巡洋艦が隊列に突入して来そうになったので、これを避けるため左に転舵し、以後前続艦と分離してしまい、後続の第十八戦隊の天竜と夕張の二艦が古鷹に続行する形となった。
第八艦隊はサボ島南側の敵艦隊を|屠《ほふ》って、左に変針、サボ島北側の敵に襲いかかったが、今度は鳥海以下第六戦隊(古鷹欠)は敵艦隊の東側に、古鷹以下三艦は西側に、敵を挟む形で突進した。この襲撃がまた不思議に奇襲としての効果をあげたのである。米豪軍ははじめのうちは高角砲と機銃だけで応戦したという。サボ島南側での砲雷撃戦に北側にいた米艦が警戒を深めなかったのも解せないことである。
この第二次戦闘で旗艦鳥海は海図室を吹き飛ばされ、探照灯と作戦室を損傷したが、戦果は一方的で、第八艦隊の完勝であった。
九日零時十五分ごろには、敵の目標もなくなった。戦果は、日本側が重巡二隻の損傷に過ぎなかったのに対して、米豪連合軍は重巡四隻沈没、重巡一隻・駆逐艦一隻の損傷であった。
長官三川中将は九日午前零時二十三分、全軍引揚げを下令した。
このとき、旗艦鳥海の艦長早川大佐は、艦が艦橋後部に被弾して、海図室を失い、探照灯と作戦室を損傷していたにもかかわらず、三川長官に、
「もう帰るのですか」
と反問したという。その意味は、揚陸中と思われる敵輸送船団を泊地に攻撃しないのか、ということである。
サボ島付近で海戦が行なわれている間、輸送船団は混乱した状態にあった。日本軍飛行機からの吊光弾はルンガ沖輸送船団泊地上空と、つづいてツラギ輸送船団上空に投下され、船団を鮮やかに照らし出した。船団は灯火を消し、誘導する艦もなく、荷役を中止して、泊地付近海面を右往左往していた。
三川長官は、しかし、船団を泊地に攻撃しなかった。三川中将の考えはこうである。艦隊はまず何よりも天明までに敵空母搭戦機の追撃圏外に出なければならない。あのとき敵の泊地を襲撃すれば、敵の上陸部隊や輸送船団に多大の損害を与え得たかもしれない。それは、しかし、後になっていえることである。また、後からいえば、敵の空母群は八日午後十一時にはサンクリストバル島南西端を南下中であったのだから、第八艦隊が泊地に突入してから引き揚げても、敵航空部隊の攻撃は受けずに済んだかもしれないが、それは後になって判明したことに過ぎない。
三川中将は何よりも艦隊の温存を重視したのである。
第八艦隊戦闘詳報には次の通り記されている。
「(前段略)〇一三〇頃『サボ』ノ北西ニ於テ鳥海ノ外全軍損傷皆無ノ状態ニテ集結セリ 此ノ際再度突入ヲ考慮セラレタルモ之ガ為ニ時間ヲ要シ旁々魚雷ハ殆ド消耗シアリシ事情モアリ 日出(〇四四〇)迄ニ敵母艦機ノ攻撃圏(『サボ』島ヨリ少クトモ一二〇浬)外ヘノ離脱困難(再度突入セバ日出時『サボ』島僅ニ三〇浬離脱シ得ルノミ)トナルヲ以テ其ノ儘引揚ニ決ル」
しかし、鳥海戦闘詳報の戦訓所見には次のように記されている。(戦史室『南東方面海軍作戦』(1))
一 「ツラギ」海峡夜戦ニ於テ敵艦隊ヲ撃滅シ得タル際再ビ泊地ニ進入敵輸送船団全滅スベカリシモノト認ム
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
(イ) 一般ニ小成ニ安ンジ易シ
「ツラギ」海峡夜戦ニ於テ我艦隊ハ敵艦隊ヲ撃滅シタル際尚残弾ハ六割以上ヲ有シ被害亦軽微ナリキ、宜シク勇気ヲ振ヒ起シ再ビ泊地ニ進入輸送船ヲ全滅スベキモノナリト確信ス
(ロ) 同輸送船ニハ「ガダルカナル」基地ヲ強化スベキ人員資材ヲ搭載セルヤ瞭ナリ、又之ヲ全滅セル場合敵国側ニ及ボスベキ心的影響ノ大ナルベキハ察スルニ余リアル所ナリ
[#ここで字下げ終わり]
夜戦のあとで陣形が乱れ、これを整えてから再突入すれば、時間がかかって、翌朝敵機の攻撃圏外に離脱することが困難になるというのは一応の理窟だが、引揚げ下令時に鳥海、青葉、加古、衣笠が単縦陣を形成していたことは記録によって明らかだから、この四艦だけでも即座に泊地へ再突入するのであれば陣容をととのえるのに時間(二時間を要したであろうという参謀の説がある)は要らなかったし、敵側は既に無力化していたのであるから、泊地突入は、敢行しようと思えば前記四艦だけでも十分であったと思われる。
ただ、敵空母群の所在が不明で、ガダルカナルの近海にあるものという推定がなされるのは当然だし、空母群が夜戦の発生を知って日本艦隊を追及するかもしれないと予想するのも当然であった。
引揚げの理由として魚雷を殆ど消耗していたというのは、事実に反している。各艦搭載雷数のほぼ半数は残っていたはずなのである。
連合艦隊司令長官は、三川中将が引揚げを命じたことを電信で知り、ショートランドで補給の上再突入するものと考えた、という。それがそうではなくてラバウルヘ帰投したので、作戦目的を達成しなかったとして、大いに不満であった、という。
ラバウルにある陸軍の第十七軍も、三川第八艦隊長官のこの措置をいたく不満とした。
「第八艦隊甲巡五を撃沈して帰途に就けるが如し。敵空母を恐れたるか。今一息と言ふ処、遺憾至極なり。斯くてツラギ(前述の通りガダルカナルを含めての呼称──引用者)は遂に敵の蹂躪に委したるか。果して然らば之が恢復は容易に非ず。(以下略)」(二見第十七軍参謀長の日記──前掲戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1)より)
というのである。
地域担当の陸軍である第十七軍としては、ガダルカナルの失陥は海軍が独自に行なった基地設定の失態であるから、陸兵派遣を要請してくるからには、当然地上戦闘を有利に展開するように敵の上陸阻止、輸送船団の撃滅が優先しなければならない、と言いたい気持がある。
海軍としては陸軍からそう言われても仕方がないことなのである。第八艦隊出撃の目的には確かにガダルカナル泊地襲撃があった。だが、その泊地襲撃の内容が問題である。
第八艦隊司令部は七日早朝のツラギからの急報に接すると、二十五航戦司令部と打合せを行なって、艦隊主力をもって敵輸送船団を攻撃する企図を伝え、二十五航戦に敵空母の索敵攻撃を要望している。この時点では船団攻撃の意図は明らかである。
けれども、泊地突入を決意した三川中将は、八日午前九時十分(艦隊は既に航行中)南東方面部隊指揮官(十一航艦長官のこと)、連合艦隊司令長官、軍令部総長宛てに突入決意を次のように打電している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「一 (敵情略)
二 主隊ハ飛行機(偵察用──引用者)収容次第(〇九三〇頃ノ予定)『ボーゲンビル』海峡ヲ南下『イサベラ』島、『ニュージョージヤ』島間ヲ高速ニ突破二〇三〇頃『|ガダルカナル《ヽヽヽヽヽヽ》』|泊地ニ殺到《ヽヽヽヽヽ》、|奇襲ヲ加ヘタル後急速避退セントス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
三 〇八二〇敵『ロッキード』一機我ニ触接中」(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分は簡略に過ぎて、解釈は如何様にも出来る。船団撃滅が主目的なのか、敵艦隊撃滅が主目的なのか、不明である。
第八艦隊司令部は、次いで、以下のような戦闘要領を決定している。少し長いが、八艦司令部の考え方が表われているので、引用する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 突入はサボ島南側から、まずルンガ沖の主敵を雷撃して左に転じ、ツラギ前方の敵を砲雷撃したのち、サボ島北方を避退する。(戦闘経過は大体右の通りになった。──引用者)
二 |突入は一航過とし《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、できる限りすみやかに敵空母から離脱する。このため突入時刻を二三三〇以前とし、翌朝日出時(〇四四〇)には、サボ島の一二〇浬圏外に離脱する。(突入時から日出時まで約五時間にサボ島の一二〇浬圏外に出るということは毎時平均二四ノットで走っていることになる。──引用者)
三 狭隘な水道における戦闘であり、かつ烏合の衆である(艦隊編成後間もないことであり、合同訓練も回転整合(速力統一のために各艦推進器の回転数を編隊航行して測定すること)も行なったことのない新編部隊であるの意──引用者)ので、混乱の防止、個艦戦闘力発揮の見地から、各艦の距離を一二〇〇米の単縦陣とする。これがため艦隊の全長が八〇〇〇米を越え、運動性を殺減するがやむをえない。|反転突入は全く考慮しない。《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
四、五、略(前掲戦史室『海軍作戦』より。──傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
二と三の傍点部分に注目されたい。予定された夜戦は一航過戦であった。反転突入は全く考慮しないと決めていたのである。サボ島の南側から突入し、左に変針してサボ島北方へ廻り、避退することにしていたのである。八日深夜の夜戦はその通りに行なわれた。南方水道で先に輸送船団を発見すれば事態は別の展開を見せたであろうが、事実経過は、南方水道の敵艦隊を発見、これを襲い、左に変針して北方水道の敵艦隊と交戦した。その後は「反転突入は全く考慮しない」と戦闘要領を決定していたのである。
夜戦があまりに順調効果的に展開し、約一時間後には目標となる敵艦もいなくなるほどであったから、再突入が問題となったのではないか。南北両水道での艦隊同士の戦闘がもっと苦戦であれば、船団問題は後日どのように考えられたであろうか。
三川中将は八日午後二時四十二分麾下艦隊に突入に関し次のように下令している。先の戦闘要領と重複してくどいようだが、再突入論議は|得隴望蜀《とくろうぼうしよく》の感がないでもないので、下令信号を引用して麾下各艦がどのように心得ていたのであろうかを|忖度《そんたく》する材料とする。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 夜間索敵配備 第六戦隊(青葉、衣笠、加古、古鷹──引用者)ハ鳥海ノ後方一〇〇〇米に続行、前衛ハ鳥海ノ前方三〇〇〇米に於テ左側列天竜、夕凪、右側列夕張トシ間隔六〇〇〇米
二 突入発令前敵哨艦ト会敵ノ際、前衛ハ極力之ヲ阻止シ、主隊ハ脱退南下ス
三 突入時ノ隊形ハ単縦陣鳥海ノ第六戦隊、天竜、夕張、夕凪ノ順トシ開距離一二〇〇米(事実の通り──引用者)
四 突入ハ「サボ」島南方ヨリ先ヅ「ガダルカナル」基地前面ノ敵ヲ雷撃シタル後、取舵ニテ反転「ツラギ」前面ノ敵ヲ砲雷撃シ「サボ」島北方ヨリ避退ス、砲雷撃ノ実施要領ハ各指揮官ノ所信ニ一任ス
五、六、略(以上前掲戦史室『海軍作戦』)
[#ここで字下げ終わり]
右の突入要頷下令では、各艦指揮官は夜戦の目的が泊地に輸送船団を撃滅することとは諒解していなかったはずである。
出撃前の予想では、敵は空母群を有しているはずであり、敵の海上兵力は第八艦隊よりはるかに優勢であるから、事実経過のような完勝は考えられなかったにちがいない。
八日夜の第一次ソロモン海戦(ツラギ海峡夜戦)では、大敵に対して予想外の完勝を果した。ならば、何故、右往左往していたはずの輸送船団を撃滅しなかったか、と考えるか、米艦隊撃滅の任はほぼ完全に果した、船団撃沈のために再突入に時間を費やして、敵母艦機の攻撃圏外への離脱困難という危険を冒すのは賢明でない、と考えるか。三川長官の脳裡では、艦隊温存の重要度が爾後の作戦展開の見通しに基づく冒険の選択より優先したにちがいないのである。
米側戦史によれば、三川長官が懸念した米空母部隊は、ガダルカナル付近から避退のため、九日午前一時(八艦隊全軍引揚下令の三十分後)、サンクリストバル(ソロモン諸島の南端島)の南西端沖を南下中であったが、南太平洋部隊指揮官ゴームレー中将からの避退許可が来ないので、一旦ガダルカナル方向へ引き返した。空母部隊の避退に関しては、遠征作戦打合せのとき、空母部隊指揮官であり現地作戦部隊指揮官でもあったフレッチャー中将は、上陸作戦の支援に二日以上支援距離内にとどまらないと主張し、水陸両用部隊指揮官ターナー少将は、荷役等の全揚陸作業は四日以内には終らないので、揚陸全期間の空母による支援を要請して譲らず、南太平洋部隊指揮官ゴームレー中将が会議の席に不在のため、問題は未解決のままで作戦実施となった。
フレッチャーは八日午後四時過ぎ空母部隊避退の意見具申をして、ゴームレーから回答が来ないうちに南下を開始した。米機動部隊はミッドウェーで大勝したとはいうものの、その前の珊瑚海海戦ではレキシントンを、ミッドウェーではヨークタウンを失っていたから、やはりそれ以上を失う危険を冒したくはなかったのである。
ゴームレーからの避退許可がなかなか来ないので、空母部隊はガダルカナル方向へ引き返している途中、九日午前三時、ツラギ海峡夜戦の急報に接した。このとき、日本艦隊の三川長官と鳥海の早川艦長との間にあったのと似たようなことが、フレッチャー中将とワスプ艦長シャーマン大佐との間に生じている。シャーマン艦長は、乗艦中のノイズ少将を通じて、空母群が燃料を多量に残している駆逐艦を選んで高速で取って返し、飛行機を発進させて日本艦隊を追撃しよう、と意見具申をした。
しかし、九日午前三時三十分には、フレッチャーの避退進言に対するゴームレー南太平洋部隊指揮官からの許可電が到達した。フレッチャーはガダルカナル付近での水上戦闘の経過と結果に関する新しい情報を求めようともせず、再び針路を反転して南下をはじめ、ソロモン海域から完全に離脱したのである。(モリソン『合衆国海軍作戦史』巻5)
したがって、もし、日本側では早川艦長の意見通り艦隊がサボ島をもう一まわりしてルンガ泊地に突入を敢行し、米国側ではシャーマン艦長の意見通りに空母群が高速反転して飛行機を発進させていたとしたら、戦史は全く異った展開を残したかもしれない。
三川長官が内地出発の際、軍令部総長から「無理な注文かも知れないが、日本は工業力が少いから艦を|毀《こわ》さないようにして貰いたい」と注意を受けたというが(戦史室前掲書)、それが三川長官の心理に影響を及ぼしたにしろ、及ぼさなかったにせよ、もし事実なら、不見識なことを言う総長があったものである。第一次ソロモン海戦のように味方はほとんど無傷、敵方はほとんど全滅というような一方的な海戦があるものではない。艦を毀されて困るのなら、戦争をしないがいいのである。実戦部隊指揮官に艦を毀すなと注文をつけるより、艦を毀さないで済むように戦争を避ける方向へ海軍を導くのが、最高責任者としての最も重要な仕事だったはずなのである。永野軍令部総長はちょうど反対のことをした。艦を毀すなと注文をつけながら、工業力の乏しいのを承知で、無理な開戦へ海軍を導いたことの小さからぬ責任は彼にある。(拙著『御前会議』参照)
ともかくも、第一次ソロモン海戦は第八艦隊の一方的勝利に終った。
泊地付近に右往左往していた輸送船団に一指も触れなかったことが批判の対象となったが、米側戦史によれば、夜戦で米豪連合軍は大損害を蒙り、輸送船団は九日午後には物資資材揚陸を終らぬままで泊地から避退せざるを得なかった。揚陸の済んだものは、人員の大部、糧食六十日分中の二十五日分、弾薬一〇単位中の約四単位、有刺鉄線一八巻だけであった。人員一三九〇人、重砲、レーダー、その他重装備は全く揚陸出来なかったし、師団連絡用の飛行機も巡洋艦に搭載したままで破壊され、ガダルカナル上空も偵察出来なくなっていた、という。
こう見てくると、ガダルカナル戦初動の時に日本軍が大艦隊、大航空部隊、大陸軍部隊の戦力を統合発揮して一挙に圧倒する作戦に出ることが出来れば、ガダルカナルの奪回も可能であったであろう。これから詳しく見てゆくことになるが、一挙大兵使用以外では何の望みもなかったと言ってよい。ガダルカナル奪回作戦の成功によって戦争勝敗の帰趨が逆転したであろうなどと言うつもりは微塵もない。ただ、それ以後の戦局の推移が異ったものになったではあろうし、少くとも、日本軍が戦い方の最善を尽したことにはなったであろう。
事実は、日本軍は凄絶なまでに死力は尽したが、決して戦理の最善を尽しはしなかった。何故といって、米軍は、常に、徹底的に大兵力、大火力、大物量主義をとり、日本軍はいつも後手にまわって兵力逐次投入の誤りを反復し、補給難に陥ることは目に見えていながら敢て冒し、望みなき死力を尽すことに終ったのである。
それは必ずしも国の裕福と貧困の差に帰せられるべきことではなかった。統帥の巧拙にかかわること多分であった。
時間を第八艦隊がサボ島付近の戦場から引揚げた時点に戻そう。
第八艦隊のうち、第六戦隊はカビエン回航のため、九日午前八時、ベララベラ島北方で分離し、第十八戦隊の夕張は修理のため、夕凪は燃料補給のため、ショートランドに向け分離した。鳥海と天竜はブーゲンビル島南方を通って、十日早朝ラバウルに帰投した。
問題はサボ島付近の夜戦では無傷だった第六戦隊である。ブーゲンビル水道を北上し、ニューアイルランド島東方をカビエンに向う途中、十日午前七時十分、青葉に続行していた加古が、突然魚雷二発を受けて、五分後には沈没した。襲ったのは米潜S44で、約六五〇メートルの距離から魚雷四本を発射したという。
当時、天候は晴れ、視界は約四〇キロ、海上は平穏、対潜哨戒機一機が全程を哨戒中であったが、戦隊は回避の之字運動は行なっていなかった。不運といえば不運、|合戦《かつせん》後の油断といえば油断といえよう。
第八艦隊のうち、第六戦隊はカビエン回航のため、九日午前八時、ベララベラ島北方で分離し、第十八戦隊の夕張は修理のため、夕凪は燃料補給のため、ショートランドに向け分離した。鳥海と天竜はブーゲンビル島南方を通って、十日早朝ラバウルに帰投した。
問題はサボ島付近の夜戦では無傷だった第六戦隊である。ブーゲンビル水道を北上し、ニューアイルランド島東方をカビエンに向う途中、十日午前七時十分、青葉に続行していた加古が、突然魚雷二発を受けて、五分後には沈没した。襲ったのは米潜S44で、約六五〇メートルの距離から魚雷四本を発射したという。
当時、天候は晴れ、視界は約四〇キロ、海上は平穏、対潜哨戒機一機が全程を哨戒中であったが、戦隊は回避の之字運動は行なっていなかった。不運といえば不運、|合戦《かつせん》後の油断といえば油断といえよう。