第八艦隊の行動と時間的に前後あるいは重複することになるが、八月七日(第一日)は艦爆の片道攻撃(帰路は洋上着水)まで決意して全力を挙げてガダルカナルとツラギ泊地に対して二十五航戦は攻撃をかけたが、敵の輸送船団が無傷のまま揚陸作業をつづけていたことは、既述の通りである。
翌八日も二十五航戦は陸攻二三機、零戦一五機をもってガダルカナル泊地を強襲した。
戦果の報告は大きかった。大巡一撃沈、軽巡二火災沈没確実、軽巡一大破、駆逐艦一轟沈、輸送船九撃沈二火災。空中戦でグラマン戦闘機一、艦爆三撃墜。
日本軍は陸攻一八、零戦二(一機自爆、一機未帰還)を失った。陸攻の損害は米軍艦艇の防禦砲火によるものが多かった。(山田日記)
ところが、米側の資料によると、この日の攻撃ではそんなに戦果はあがっていないのである。米側資料が常に正しいわけではないが、この夜の第八艦隊の夜戦の状況との関係からみて、この場合は米側資料(F・O・HOUGH)の記録が真相に近いと思われる。
それによると、米軍は、前日同様日本飛行隊の来襲をブーゲンビル島の監視員によって八十分前に知り、輸送船団に警戒艦をつけて高速一斉回頭による回避運動を行なわせていたという。上空直掩機は、このときには、エンタープライズからの三機があったに過ぎなかった。二十五航戦の陸攻隊は二〇フィートという超低空飛行で雷撃を行ない駆逐艦ジャービスに一本を命中させ、被弾した陸攻一機が輸送船エリオットに体当りを敢行。ジャービスが起こした火災が夜空を明るくしていたのを、その夜ツラギ海峡に突入した第八艦隊が視認している。輸送船エリオットは八日の夜まで燃えつづけて沈没した。米側の損害はこの二隻だけなのである。
二十五航戦は七日と八日の僅か二日間の攻撃で陸攻二三機を失った。戦隊固有の攻撃力の大部分を喪失した勘定になる。
上級司令部の十一航艦は二十五航戦が連日長途を飛んで戦力を消耗してしまうことを惧れ、翌日からの攻撃目標を空母または戦艦に絞るように命令した。輸送船攻撃も実際には戦果はあがっていなかったのだが、戦果報告通りだとしても、攻撃した輸送船が揚陸を既に終った空船だとしたら、飛行機の消耗が得失相償わないと考えたからである。実際には三〇隻に及ぶ輸送船の揚陸がそんなに早く終り得るものではないはずだが、司令部はそうは計算しなかったようである。
それはこういうことであろう。船団はルンガ泊地にいる。長途を飛んでそれを攻撃しても、天候が悪くて敵を捕捉出来なかったり、対空砲火が激しかったりして、戦力消耗の割に実効のある戦果があがらないような攻撃をつづけるより、空母とか戦艦を索敵してから集中攻撃する方が得策である、という考え方である。
この考え方の底には、輸送船撃沈よりも戦艦空母を重視する古い兵術思想が沈澱していたように思われる。
二十五航戦は、七日三機、八日に五機の索敵機を飛ばしたが、敵の空母も戦艦も発見出来なかった。先にも述べたように、敵の来攻は東方または北東方からという先入主的誤判があって、索敵方向としてはガダルカナルの東方及び北東方に重点が置かれていたからである。実際には、敵空母はサンクリストバル島(ガダルカナルの南東)とレンネル島(ガダルカナルの南方)との間の海面を行動していた。もっとも、七日八日の両日とも、索敵機の一機は敵空母の行動海域の上空を飛んでいたが、発見するに至らなかった。天候不良に原因を帰するよりも、索敵機数が少いために一機の担当区域が広過ぎることに原因を求めるべきであると思われる。
飛行機による索敵では空母を発見出来なかったが、ガダルカナル島周辺に設けてあった五カ所の見張所の一つ、南西岸のハンター岬見張所では、七日午前八時三十五分、敵艦隊戦艦二、空母二、巡洋艦五、其の他一〇(輸送船を伴わず)が南方に現われ、午前十一時十分南方に去るのを目撃している。
ハンター岬と反対側にあるルンガ岬の本部との通信は、七日午前五時三十分以後絶えていたし、見張所の通信機ではラバウルに直接連絡することは不可能で、ルンガ本部か近海を行動中の潜水艦によって中継する以外に方法はなかった。
ハンター岬と潜水艦との連絡がとれたのは八月十二日午前十時のことであった。潜水艦は第七潜水戦隊の呂号第三十三潜である。
各見張所の後日の運命は不明で、おそらく餓死したものと推測せざるを得ないので、山田日記八月十二日の項を引用する。ハンター岬が敵艦隊(空母)を視認したことを即時通報出来ていれば、二十五航戦索敵攻撃はもっと有効に展開されていたかもしれないし、その後の索敵線がガダルカナル南方海域に重点を置かれたにちがいない。
「呂三三潜一二日一〇〇〇ハンター見張所長ヲ招致シ得タル情況左ノ通
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、当見張所ハ九名ニシテ全員健在。|七日夜以後糧食ナク付近果物ヲ食シアリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。一一日一三〇〇迄各見張所(エスペランス、タイボ、アルパ、バンカ)ト無電連絡可能ニシテ、同時刻迄ハ各所共異状ナシ(但シアルパハ七日敵七機ノ空襲ヲ受ケ短艇二隻撃沈サレタルモ人員異状ナシ)
二、ハンターハ七日〇四二五敵機ノ爆音ヲ、〇五一五砲声ヲ聞キ、〇五三〇本部トノ連絡絶エ、〇八三五敵艦隊(戦艦二空母二巡洋艦五隻ノ他一〇輸送船ナシ)南方ニ現ハレ南西ニ向ヒ、一一一〇南方ニ去ルヲ目撃セリ
三、ハンターニ於ケル敵機発見状況
七日午前爆音ノ外一五、午後七二、日本飛行機午前二四午後二〇、九日二、一〇日大艇一、一一日一(七日八日ハ全部小型飛行機、九日以後大型陸上機)
四、各見張所共本部ト連絡不能ノ為情勢ヲ案ジツツアリ
五、本艦ハ尚ハンター見張前面ニ浮上シ連絡中ニシテ所長ヲシテ無線通信ニ依リ各見張所トノ連絡方促進中ナリ
六、〇九三〇敵大型攻撃機一来襲セルモ我被害ナシ」(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分の「七日夜以後糧食ナク」というくだりは、食糧補給の日がおくれていたか、近かったことを意味するのであろう。いずれにしても、ハンター岬はガダルカナル戦の舞台となった北岸とは正反対の南岸西部である。戦況繁忙となれば忘れられる運命は免れなかったであろう。
同じく山田日記の八月十四日の項に、呂号第三十三潜水艦の十三日午後十時までの情報として、
「只今迄ニ判明セル各見張所ノ糧食飲料水ノ残額ハ最少七日最大一七日分ニシテ、衛生状況ハホーン見張所ノマラリヤ患者一名ノ外良好ナリ」とある。
単純な計算をすれば、早いところで八月二十日、遅いところでも八月三十日には食糧が切れてしまう。八月の二十日からは一木支隊の攻撃がはじまるし、それ以後陸戦、空戦、海戦相次いで、見張所への食糧輸送どころではなくなったであろう。筆者の見落しがないとすれば、のちのちまで見張所へ補給が行なわれた事実は発見出来ない。
八月九日、二十五航戦は索敵機七機を午前四時二十分発進させ、午前七時陸攻一七機、零戦一五機を敵空母または戦艦状況により航行中の輸送船を求めて出撃させた。
索敵機は、八時ごろ、ガダルカナルとツラギの沖に大巡一、軽巡または駆逐艦二、駆逐艦または掃海艇七、輸送船一九の在泊を報じ、次いで戦艦一隻の発見を報じた。空母は発見できなかった。既述の通り、空母群は九日未明までにガダルカナル海域から離脱していたのである。艦船団が揚陸未済のまま撤退したのは、この日午後のことである。
戦艦発見の報に攻撃機隊は目標に殺到して魚雷二本を命中させ、十一時半その沈没を確認した。ところが、それは戦艦でも巡洋艦でもなくて、前日八日攻撃機隊が雷撃して損傷を与え避退中の駆逐艦ジャービスなのであった。
駆逐艦を戦艦と見間違えるのは、索敵機にせよ攻撃機にせよ、識別力が、つまりは練度が一般に低下していた証拠といえる。したがって、戦果報告がいつでも過大となるのは自然であったかもしれない。
傷ついた駆逐艦ジャービスを戦艦と誤認してその撃沈を報じたのと前後して、索敵機は敵巡洋艦一、駆逐艦六が南東方向へ航行するのをツラギの南西一〇〇浬に発見、報告した。
この索敵報告を聞いて、二十五航戦司令部では判断に狂いを生じた。七日朝来偵察した敵兵力から自隊の連日の戦果といまの索敵報告による敵兵力を差引くと、八日深夜に第八艦隊がツラギ海峡夜戦でほとんど懐滅的な打撃を与えた敵艦隊の数は出て来ない勘定になる。つまり、第八艦隊が|屠《ほふ》った敵艦隊は、二十五航戦が確認した敵兵力以外の別働部隊であるにちがいない、と判断したのである。
山田二十五航戦司令官はその旨を上級司令部に報告し、十日、次のような総合戦果を報告した。
「当部隊七日ヨリ一〇日迄ノソロモン海戦戦果並ニ被害左ノ通
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、戦果、英甲巡一隻轟沈、ウイチタ型(旗艦旗掲揚)一隻撃沈、英甲巡一隻大破傾斜火災、アキリーズ型(実は駆逐艦ジャービス。はじめ戦艦と間違え、次いでアキリーズ型巡洋艦に訂正した。──引用者)一隻撃沈、軽巡二隻撃沈、駆逐艦三隻撃沈一隻大破、商船一〇隻撃沈一隻大破、計撃沈二一隻。撃墜G戦闘機四五機(内八機不確実)、BSC八機、中型機一機、計五八機。
二、被害(ツラギ兵力ヲ含マズ)自爆(未帰還ヲ含ム)零戦四機、一式陸攻二四機、艦爆六機、大破零戦一機、陸攻三機、艦爆三機計四一機」(山田日記)
[#ここで字下げ終わり]
実際には、既述の通り、二十五航戦が七日朝以来長駆しての果敢な攻撃にもかかわらず、僅かに輸送船及び駆逐艦各一隻を撃沈し得たに過ぎなかったのである。
戦果は出撃各機の報告を基礎として算出されるから、搭乗員のよほど冷静かつ練達した観察と判断がなければ、報告が実数より過大となるのは避けられないことであるかもしれなかった。
翌十日も二十五航戦は全力をあげてガダルカナル海域へ出撃したが、既述のように敵艦船は前日午後から同海面から撤退してしまっていた。
山田日記はこう誌している。
陸攻二一機零戦一五機ガダルカナル泊地敵艦攻撃ニ向ヒタルモ敵ヲ見ズ。ツラギノ南東一〇浬ニ沈没ニ瀕セル炎上中ノ大型商船一隻及ツラギ、ガダルカナル各舟艇(内火艇)約二〇隻ヲ認メ、ツラギヨリ高角砲ノ射撃ヲ受ク。当時高(度)七〇〇〇米陸攻一機被弾、零戦三機ハガダルカナル低空(一〇〇米)ニテ偵察、敵味方不明ノ人員約三〇〇名ヲ我飛行場内ニ認ム。密林中ヨリ七・七ミリ機銃射撃ヲ受ケ零戦一機被弾。(以下略)
十一航艦司令長官塚原中将は、右の報告を受けて、二十五航戦の攻撃を敵のいなくなったガダルカナルからニューギニアのラビ攻撃に切り替える命令を出した。
陸海空の作戦に間然するところがなければ、敵が撤退した数日間こそ本格的奪回作戦にはまたとない好機だったはずだが、日本軍にはその着意も準備もなかった。
翌八日も二十五航戦は陸攻二三機、零戦一五機をもってガダルカナル泊地を強襲した。
戦果の報告は大きかった。大巡一撃沈、軽巡二火災沈没確実、軽巡一大破、駆逐艦一轟沈、輸送船九撃沈二火災。空中戦でグラマン戦闘機一、艦爆三撃墜。
日本軍は陸攻一八、零戦二(一機自爆、一機未帰還)を失った。陸攻の損害は米軍艦艇の防禦砲火によるものが多かった。(山田日記)
ところが、米側の資料によると、この日の攻撃ではそんなに戦果はあがっていないのである。米側資料が常に正しいわけではないが、この夜の第八艦隊の夜戦の状況との関係からみて、この場合は米側資料(F・O・HOUGH)の記録が真相に近いと思われる。
それによると、米軍は、前日同様日本飛行隊の来襲をブーゲンビル島の監視員によって八十分前に知り、輸送船団に警戒艦をつけて高速一斉回頭による回避運動を行なわせていたという。上空直掩機は、このときには、エンタープライズからの三機があったに過ぎなかった。二十五航戦の陸攻隊は二〇フィートという超低空飛行で雷撃を行ない駆逐艦ジャービスに一本を命中させ、被弾した陸攻一機が輸送船エリオットに体当りを敢行。ジャービスが起こした火災が夜空を明るくしていたのを、その夜ツラギ海峡に突入した第八艦隊が視認している。輸送船エリオットは八日の夜まで燃えつづけて沈没した。米側の損害はこの二隻だけなのである。
二十五航戦は七日と八日の僅か二日間の攻撃で陸攻二三機を失った。戦隊固有の攻撃力の大部分を喪失した勘定になる。
上級司令部の十一航艦は二十五航戦が連日長途を飛んで戦力を消耗してしまうことを惧れ、翌日からの攻撃目標を空母または戦艦に絞るように命令した。輸送船攻撃も実際には戦果はあがっていなかったのだが、戦果報告通りだとしても、攻撃した輸送船が揚陸を既に終った空船だとしたら、飛行機の消耗が得失相償わないと考えたからである。実際には三〇隻に及ぶ輸送船の揚陸がそんなに早く終り得るものではないはずだが、司令部はそうは計算しなかったようである。
それはこういうことであろう。船団はルンガ泊地にいる。長途を飛んでそれを攻撃しても、天候が悪くて敵を捕捉出来なかったり、対空砲火が激しかったりして、戦力消耗の割に実効のある戦果があがらないような攻撃をつづけるより、空母とか戦艦を索敵してから集中攻撃する方が得策である、という考え方である。
この考え方の底には、輸送船撃沈よりも戦艦空母を重視する古い兵術思想が沈澱していたように思われる。
二十五航戦は、七日三機、八日に五機の索敵機を飛ばしたが、敵の空母も戦艦も発見出来なかった。先にも述べたように、敵の来攻は東方または北東方からという先入主的誤判があって、索敵方向としてはガダルカナルの東方及び北東方に重点が置かれていたからである。実際には、敵空母はサンクリストバル島(ガダルカナルの南東)とレンネル島(ガダルカナルの南方)との間の海面を行動していた。もっとも、七日八日の両日とも、索敵機の一機は敵空母の行動海域の上空を飛んでいたが、発見するに至らなかった。天候不良に原因を帰するよりも、索敵機数が少いために一機の担当区域が広過ぎることに原因を求めるべきであると思われる。
飛行機による索敵では空母を発見出来なかったが、ガダルカナル島周辺に設けてあった五カ所の見張所の一つ、南西岸のハンター岬見張所では、七日午前八時三十五分、敵艦隊戦艦二、空母二、巡洋艦五、其の他一〇(輸送船を伴わず)が南方に現われ、午前十一時十分南方に去るのを目撃している。
ハンター岬と反対側にあるルンガ岬の本部との通信は、七日午前五時三十分以後絶えていたし、見張所の通信機ではラバウルに直接連絡することは不可能で、ルンガ本部か近海を行動中の潜水艦によって中継する以外に方法はなかった。
ハンター岬と潜水艦との連絡がとれたのは八月十二日午前十時のことであった。潜水艦は第七潜水戦隊の呂号第三十三潜である。
各見張所の後日の運命は不明で、おそらく餓死したものと推測せざるを得ないので、山田日記八月十二日の項を引用する。ハンター岬が敵艦隊(空母)を視認したことを即時通報出来ていれば、二十五航戦索敵攻撃はもっと有効に展開されていたかもしれないし、その後の索敵線がガダルカナル南方海域に重点を置かれたにちがいない。
「呂三三潜一二日一〇〇〇ハンター見張所長ヲ招致シ得タル情況左ノ通
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、当見張所ハ九名ニシテ全員健在。|七日夜以後糧食ナク付近果物ヲ食シアリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。一一日一三〇〇迄各見張所(エスペランス、タイボ、アルパ、バンカ)ト無電連絡可能ニシテ、同時刻迄ハ各所共異状ナシ(但シアルパハ七日敵七機ノ空襲ヲ受ケ短艇二隻撃沈サレタルモ人員異状ナシ)
二、ハンターハ七日〇四二五敵機ノ爆音ヲ、〇五一五砲声ヲ聞キ、〇五三〇本部トノ連絡絶エ、〇八三五敵艦隊(戦艦二空母二巡洋艦五隻ノ他一〇輸送船ナシ)南方ニ現ハレ南西ニ向ヒ、一一一〇南方ニ去ルヲ目撃セリ
三、ハンターニ於ケル敵機発見状況
七日午前爆音ノ外一五、午後七二、日本飛行機午前二四午後二〇、九日二、一〇日大艇一、一一日一(七日八日ハ全部小型飛行機、九日以後大型陸上機)
四、各見張所共本部ト連絡不能ノ為情勢ヲ案ジツツアリ
五、本艦ハ尚ハンター見張前面ニ浮上シ連絡中ニシテ所長ヲシテ無線通信ニ依リ各見張所トノ連絡方促進中ナリ
六、〇九三〇敵大型攻撃機一来襲セルモ我被害ナシ」(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分の「七日夜以後糧食ナク」というくだりは、食糧補給の日がおくれていたか、近かったことを意味するのであろう。いずれにしても、ハンター岬はガダルカナル戦の舞台となった北岸とは正反対の南岸西部である。戦況繁忙となれば忘れられる運命は免れなかったであろう。
同じく山田日記の八月十四日の項に、呂号第三十三潜水艦の十三日午後十時までの情報として、
「只今迄ニ判明セル各見張所ノ糧食飲料水ノ残額ハ最少七日最大一七日分ニシテ、衛生状況ハホーン見張所ノマラリヤ患者一名ノ外良好ナリ」とある。
単純な計算をすれば、早いところで八月二十日、遅いところでも八月三十日には食糧が切れてしまう。八月の二十日からは一木支隊の攻撃がはじまるし、それ以後陸戦、空戦、海戦相次いで、見張所への食糧輸送どころではなくなったであろう。筆者の見落しがないとすれば、のちのちまで見張所へ補給が行なわれた事実は発見出来ない。
八月九日、二十五航戦は索敵機七機を午前四時二十分発進させ、午前七時陸攻一七機、零戦一五機を敵空母または戦艦状況により航行中の輸送船を求めて出撃させた。
索敵機は、八時ごろ、ガダルカナルとツラギの沖に大巡一、軽巡または駆逐艦二、駆逐艦または掃海艇七、輸送船一九の在泊を報じ、次いで戦艦一隻の発見を報じた。空母は発見できなかった。既述の通り、空母群は九日未明までにガダルカナル海域から離脱していたのである。艦船団が揚陸未済のまま撤退したのは、この日午後のことである。
戦艦発見の報に攻撃機隊は目標に殺到して魚雷二本を命中させ、十一時半その沈没を確認した。ところが、それは戦艦でも巡洋艦でもなくて、前日八日攻撃機隊が雷撃して損傷を与え避退中の駆逐艦ジャービスなのであった。
駆逐艦を戦艦と見間違えるのは、索敵機にせよ攻撃機にせよ、識別力が、つまりは練度が一般に低下していた証拠といえる。したがって、戦果報告がいつでも過大となるのは自然であったかもしれない。
傷ついた駆逐艦ジャービスを戦艦と誤認してその撃沈を報じたのと前後して、索敵機は敵巡洋艦一、駆逐艦六が南東方向へ航行するのをツラギの南西一〇〇浬に発見、報告した。
この索敵報告を聞いて、二十五航戦司令部では判断に狂いを生じた。七日朝来偵察した敵兵力から自隊の連日の戦果といまの索敵報告による敵兵力を差引くと、八日深夜に第八艦隊がツラギ海峡夜戦でほとんど懐滅的な打撃を与えた敵艦隊の数は出て来ない勘定になる。つまり、第八艦隊が|屠《ほふ》った敵艦隊は、二十五航戦が確認した敵兵力以外の別働部隊であるにちがいない、と判断したのである。
山田二十五航戦司令官はその旨を上級司令部に報告し、十日、次のような総合戦果を報告した。
「当部隊七日ヨリ一〇日迄ノソロモン海戦戦果並ニ被害左ノ通
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、戦果、英甲巡一隻轟沈、ウイチタ型(旗艦旗掲揚)一隻撃沈、英甲巡一隻大破傾斜火災、アキリーズ型(実は駆逐艦ジャービス。はじめ戦艦と間違え、次いでアキリーズ型巡洋艦に訂正した。──引用者)一隻撃沈、軽巡二隻撃沈、駆逐艦三隻撃沈一隻大破、商船一〇隻撃沈一隻大破、計撃沈二一隻。撃墜G戦闘機四五機(内八機不確実)、BSC八機、中型機一機、計五八機。
二、被害(ツラギ兵力ヲ含マズ)自爆(未帰還ヲ含ム)零戦四機、一式陸攻二四機、艦爆六機、大破零戦一機、陸攻三機、艦爆三機計四一機」(山田日記)
[#ここで字下げ終わり]
実際には、既述の通り、二十五航戦が七日朝以来長駆しての果敢な攻撃にもかかわらず、僅かに輸送船及び駆逐艦各一隻を撃沈し得たに過ぎなかったのである。
戦果は出撃各機の報告を基礎として算出されるから、搭乗員のよほど冷静かつ練達した観察と判断がなければ、報告が実数より過大となるのは避けられないことであるかもしれなかった。
翌十日も二十五航戦は全力をあげてガダルカナル海域へ出撃したが、既述のように敵艦船は前日午後から同海面から撤退してしまっていた。
山田日記はこう誌している。
陸攻二一機零戦一五機ガダルカナル泊地敵艦攻撃ニ向ヒタルモ敵ヲ見ズ。ツラギノ南東一〇浬ニ沈没ニ瀕セル炎上中ノ大型商船一隻及ツラギ、ガダルカナル各舟艇(内火艇)約二〇隻ヲ認メ、ツラギヨリ高角砲ノ射撃ヲ受ク。当時高(度)七〇〇〇米陸攻一機被弾、零戦三機ハガダルカナル低空(一〇〇米)ニテ偵察、敵味方不明ノ人員約三〇〇名ヲ我飛行場内ニ認ム。密林中ヨリ七・七ミリ機銃射撃ヲ受ケ零戦一機被弾。(以下略)
十一航艦司令長官塚原中将は、右の報告を受けて、二十五航戦の攻撃を敵のいなくなったガダルカナルからニューギニアのラビ攻撃に切り替える命令を出した。
陸海空の作戦に間然するところがなければ、敵が撤退した数日間こそ本格的奪回作戦にはまたとない好機だったはずだが、日本軍にはその着意も準備もなかった。