ガダルカナル飛行場奪回に派遣される部隊は、一木支隊約二〇〇〇と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(以下横五特と略称)の六一六名である。
一木支隊の編成については前に述べた。横五特もミッドウェー攻略作戦用の兵力であったが、一木支隊同様グァムに引き返していた。ガダルカナル方面に米軍の反攻がはじまった八月七日、第八艦隊に編入され、その一部高橋中隊(長・高橋大尉以下一一三名)だけは八月十二日ラバウルに進出していた。
グァム島へ引き返した一木支隊は、さらに南下して、八月十二日トラック島へ入った。
百武十七軍司令官は一木支隊をラバウルに呼んで確実に掌握した上で戦地へ送りたかったが、敵機や敵潜の哨戒圈をなるべく避ける方がよいという海軍側の意見に従って、一木支隊をトラックからガダルカナルヘ直行させることにした。
一木支隊はグァム島を出たとき以来トラック島でも「ぼすとん」丸と大福丸の二隻の輸送船に乗っていたが、これらの輸送船は最高速度を出しても僅かに九・五ノットという低速であったから、敵航空兵力の配備に先んじて飛行場を奪取しようとする作戦目的には全く不適当であった。そこで、数日前まで兵力寡少を憂えられた一木支隊を、さらに二つの梯団に分けて、第一梯団約九〇〇名を駆逐艦六隻に分乗させて、ガダルカナルヘ高速輸送することになった。
この段階では、早くも、先に二見第十七軍参謀長が小兵力投入の無意味を懸念したことなど忘れ去られたかのように、第十七軍では一木支隊の第一梯団だけで飛行場を奪取出来るという希望的判断に立っていたのである。
繰り返しになるが、はじめは米軍の上陸を偵察上陸の程度と考え、次いで一個師団ぐらいあるかもしれぬと計算し、またもや楽観に戻って、敵は敗退して残存兵力は微弱であると誤判し、米軍が実は一万一〇〇〇名の兵力を擁して全周砲撃可能な放列を|布《し》いている陣地へ、一木支隊第一梯団約九〇〇名を突入させようというのである。
兵力投入は早い方がいいからというので駆逐艦輸送の策が採られたが、投入の机上決定(十三日)まで五日経ち、実際に投入が行なわれる(後述)までに十日も経っている。
駆逐艦輸送はその後も再々行なわれるが、駆逐艦には高速の利点はあっても、本来輸送用には出来ていないから、重火器等の重装備を輸送揚陸することが出来ない。軽装の一木支隊第一梯団はともかくとして、その後数次にわたる増援に、日本軍は、速度を重んずれば重装備を犠牲にせねばならず、したがって戦力著しく低下して増援の目的を果せず、重装備を輸送すれば低速船団が敵航空機の攻撃圏内を長時間航行して、目的地にさえ到達し得ないというもどかしい悲劇を繰り返すことになる。
駆逐艦輸送には上陸方法に問題があった。艦自体を接岸は出来ないから、接岸上陸用の舟艇が必要であったが、大発動艇(以下大発と略称)を艦に搭載して行って上陸地点沖で泛水することや、遠路大発を曳航して行くことは、困難というより不可能であった。海軍側はソロモン諸島に沿って大発を先行させ、上陸点付近で駆逐艦と会合させる方法を提案したが、適時適所での会合を保証する何物もなかった。
一木支隊はミッドウェー上陸作戦用の折畳舟を約四〇隻持っていた。珊瑚礁内を手漕ぎで渡る目的の舟艇である。手漕ぎは、しかし、速度が遅いばかりでなく、耐波性が乏しくて、不適当であった。窮余の策として、折畳舟三隻をつなぎ合せて、それを艦載の内火艇で曳航する実験が行なわれ、上陸はその方法に依ることに決った。
上陸地点はガダルカナル島北岸中央よりやや東寄りのタイボ岬付近。
一木支隊第一梯団のタイボ岬上陸は八月十八日夜と決定した。
一木支隊の投入が決定されたころ、ガダルカナルでは、ジャングルヘ逃げ込んだ者は別として、行動を共にしていた設営隊員と警備隊員は、ルンガ川の西方約八キロのマタニカウ川左岸に避退していたが、第十七軍司令部にも第八艦隊司令部にも判明していなかった。
一木支隊の上陸地点をタイボ岬付近としたのは、ルンガ川に近い飛行場を西方から攻撃することは地形が錯雑していて困難であるのに較べて、東方タイボ岬付近はトラック島から直行する場合には進入しやすいのと、東方は地形が比較的平坦であると考えられ、かつ、敵陣地の背後を衝くことが出来ると推測されていたからである。
地形はともかくとして、敵陣の背後を衝くという予想はたいへんな誤りであった。一木支隊は、後述する次第で、敵が守りを固めている陣地正面に衝突することになるのである。
一木支隊の編成については前に述べた。横五特もミッドウェー攻略作戦用の兵力であったが、一木支隊同様グァムに引き返していた。ガダルカナル方面に米軍の反攻がはじまった八月七日、第八艦隊に編入され、その一部高橋中隊(長・高橋大尉以下一一三名)だけは八月十二日ラバウルに進出していた。
グァム島へ引き返した一木支隊は、さらに南下して、八月十二日トラック島へ入った。
百武十七軍司令官は一木支隊をラバウルに呼んで確実に掌握した上で戦地へ送りたかったが、敵機や敵潜の哨戒圈をなるべく避ける方がよいという海軍側の意見に従って、一木支隊をトラックからガダルカナルヘ直行させることにした。
一木支隊はグァム島を出たとき以来トラック島でも「ぼすとん」丸と大福丸の二隻の輸送船に乗っていたが、これらの輸送船は最高速度を出しても僅かに九・五ノットという低速であったから、敵航空兵力の配備に先んじて飛行場を奪取しようとする作戦目的には全く不適当であった。そこで、数日前まで兵力寡少を憂えられた一木支隊を、さらに二つの梯団に分けて、第一梯団約九〇〇名を駆逐艦六隻に分乗させて、ガダルカナルヘ高速輸送することになった。
この段階では、早くも、先に二見第十七軍参謀長が小兵力投入の無意味を懸念したことなど忘れ去られたかのように、第十七軍では一木支隊の第一梯団だけで飛行場を奪取出来るという希望的判断に立っていたのである。
繰り返しになるが、はじめは米軍の上陸を偵察上陸の程度と考え、次いで一個師団ぐらいあるかもしれぬと計算し、またもや楽観に戻って、敵は敗退して残存兵力は微弱であると誤判し、米軍が実は一万一〇〇〇名の兵力を擁して全周砲撃可能な放列を|布《し》いている陣地へ、一木支隊第一梯団約九〇〇名を突入させようというのである。
兵力投入は早い方がいいからというので駆逐艦輸送の策が採られたが、投入の机上決定(十三日)まで五日経ち、実際に投入が行なわれる(後述)までに十日も経っている。
駆逐艦輸送はその後も再々行なわれるが、駆逐艦には高速の利点はあっても、本来輸送用には出来ていないから、重火器等の重装備を輸送揚陸することが出来ない。軽装の一木支隊第一梯団はともかくとして、その後数次にわたる増援に、日本軍は、速度を重んずれば重装備を犠牲にせねばならず、したがって戦力著しく低下して増援の目的を果せず、重装備を輸送すれば低速船団が敵航空機の攻撃圏内を長時間航行して、目的地にさえ到達し得ないというもどかしい悲劇を繰り返すことになる。
駆逐艦輸送には上陸方法に問題があった。艦自体を接岸は出来ないから、接岸上陸用の舟艇が必要であったが、大発動艇(以下大発と略称)を艦に搭載して行って上陸地点沖で泛水することや、遠路大発を曳航して行くことは、困難というより不可能であった。海軍側はソロモン諸島に沿って大発を先行させ、上陸点付近で駆逐艦と会合させる方法を提案したが、適時適所での会合を保証する何物もなかった。
一木支隊はミッドウェー上陸作戦用の折畳舟を約四〇隻持っていた。珊瑚礁内を手漕ぎで渡る目的の舟艇である。手漕ぎは、しかし、速度が遅いばかりでなく、耐波性が乏しくて、不適当であった。窮余の策として、折畳舟三隻をつなぎ合せて、それを艦載の内火艇で曳航する実験が行なわれ、上陸はその方法に依ることに決った。
上陸地点はガダルカナル島北岸中央よりやや東寄りのタイボ岬付近。
一木支隊第一梯団のタイボ岬上陸は八月十八日夜と決定した。
一木支隊の投入が決定されたころ、ガダルカナルでは、ジャングルヘ逃げ込んだ者は別として、行動を共にしていた設営隊員と警備隊員は、ルンガ川の西方約八キロのマタニカウ川左岸に避退していたが、第十七軍司令部にも第八艦隊司令部にも判明していなかった。
一木支隊の上陸地点をタイボ岬付近としたのは、ルンガ川に近い飛行場を西方から攻撃することは地形が錯雑していて困難であるのに較べて、東方タイボ岬付近はトラック島から直行する場合には進入しやすいのと、東方は地形が比較的平坦であると考えられ、かつ、敵陣地の背後を衝くことが出来ると推測されていたからである。
地形はともかくとして、敵陣の背後を衝くという予想はたいへんな誤りであった。一木支隊は、後述する次第で、敵が守りを固めている陣地正面に衝突することになるのである。
一木支隊第一梯団は、前述の通り駆逐艦で、第二梯団と横五特陸戦隊(高橋中隊欠)は船団輸送でガダルカナルヘ行くことになった。
第二梯団の方は「ぼすとん」丸と大福丸で行き、途中でグァム島を十三日に出発している横五特と合流、第一梯団より四日遅れて八月二十二日夜にタイボ岬に上陸する予定であった。
第二梯団の方は「ぼすとん」丸と大福丸で行き、途中でグァム島を十三日に出発している横五特と合流、第一梯団より四日遅れて八月二十二日夜にタイボ岬に上陸する予定であった。
一木支隊をガダルカナルまで直接護衛するのは、田中頼三少将を司令官とする第二水雷戦隊(第二艦隊麾下・以下二水戦と略称)である。
二水戦は八月十一日横須賀を出発し、十四日第八艦隊の指揮下に入ってガダルカナル増援部隊となり、十五日トラック島に入泊したが、その時点では、固有の駆逐艦の大部は他方面に転用されていて、トラック入泊は旗艦神通(軽巡)と駆逐艦陽炎の二隻だけしかなかった。それで、一木支隊はグァムからトラックヘ護衛して来た第四駆逐隊(第三艦隊麾下──嵐、萩風の二駆逐艦)と、第十七駆逐隊(第八艦隊麾下──谷風、浦風、浜風の三駆逐艦)及び哨戒艇四隻が二水戦に増加された。つまり旗艦神通の他駆逐艦六隻、哨戒艇四隻となったのである。
田中司令官の護衛計画は、六隻の駆逐艦で一木支隊第一梯団を急送し、第一梯団が上陸したら、第十七駆逐隊はラバウル(第八艦隊)に帰投し、第四駆逐隊の二駆逐艦と陽炎は現地に残留警戒に当り、その間に田中司令官が旗艦神通と哨戒艇を直率して輸送船団を護衛、ガダルカナル島タイボ岬に向う、というのであった。
二水戦はあわただしかったようである。俗悪な譬えが許されれば、泥棒を見て縄を|綯《な》うの観がある。戦史室前掲『南太平洋陸軍作戦(1)』に田中頼三少将の回想録が引用されているが、いかにもあわただしい情景が如実に表われているので、敢えて孫引する。
「八月十五日『神通』、『陽炎』を率い無事トラックに入泊した。直ちに補給を開始すると同時に、待ちかまえていた第八艦隊及び第十七軍から派遣された参謀が乗艦、重要艦隊命令を手渡した。通読して驚いた。(中略)出撃は既に明朝に迫っている。寸刻の余裕もない。|作戦の中でも特に周到綿密を要する上陸護衛作戦に於て《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|事前研究も打合協議も実施する余裕もなく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|指揮官として指揮掌握すべき艦艇の性能も訓練の程度も《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|その艦艇長の姓名さえも知らぬ艦艇を加えられ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、果たして最も複雑な作戦を完遂し得るか、甚だ不安である。
しかし既に矢は弦を放れている。一刻の猶予も許されない。直ちに各艦艇長以上及び一木支隊長以下陸軍幹部を旗艦に招集、作戦計画及び陸海軍協定を行なった。既に夜に入っている。協定の進むにつれ、信号命令により陸兵の分乗を実施すると共に、司令部員を総動員して徹宵、命令作製に従事、|読み合せをする暇もなく直ちに配付《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、兎に角十六日五時出港ぎりぎりに間に合せた。」(傍点引用者)
二水戦は八月十一日横須賀を出発し、十四日第八艦隊の指揮下に入ってガダルカナル増援部隊となり、十五日トラック島に入泊したが、その時点では、固有の駆逐艦の大部は他方面に転用されていて、トラック入泊は旗艦神通(軽巡)と駆逐艦陽炎の二隻だけしかなかった。それで、一木支隊はグァムからトラックヘ護衛して来た第四駆逐隊(第三艦隊麾下──嵐、萩風の二駆逐艦)と、第十七駆逐隊(第八艦隊麾下──谷風、浦風、浜風の三駆逐艦)及び哨戒艇四隻が二水戦に増加された。つまり旗艦神通の他駆逐艦六隻、哨戒艇四隻となったのである。
田中司令官の護衛計画は、六隻の駆逐艦で一木支隊第一梯団を急送し、第一梯団が上陸したら、第十七駆逐隊はラバウル(第八艦隊)に帰投し、第四駆逐隊の二駆逐艦と陽炎は現地に残留警戒に当り、その間に田中司令官が旗艦神通と哨戒艇を直率して輸送船団を護衛、ガダルカナル島タイボ岬に向う、というのであった。
二水戦はあわただしかったようである。俗悪な譬えが許されれば、泥棒を見て縄を|綯《な》うの観がある。戦史室前掲『南太平洋陸軍作戦(1)』に田中頼三少将の回想録が引用されているが、いかにもあわただしい情景が如実に表われているので、敢えて孫引する。
「八月十五日『神通』、『陽炎』を率い無事トラックに入泊した。直ちに補給を開始すると同時に、待ちかまえていた第八艦隊及び第十七軍から派遣された参謀が乗艦、重要艦隊命令を手渡した。通読して驚いた。(中略)出撃は既に明朝に迫っている。寸刻の余裕もない。|作戦の中でも特に周到綿密を要する上陸護衛作戦に於て《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|事前研究も打合協議も実施する余裕もなく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|指揮官として指揮掌握すべき艦艇の性能も訓練の程度も《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|その艦艇長の姓名さえも知らぬ艦艇を加えられ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、果たして最も複雑な作戦を完遂し得るか、甚だ不安である。
しかし既に矢は弦を放れている。一刻の猶予も許されない。直ちに各艦艇長以上及び一木支隊長以下陸軍幹部を旗艦に招集、作戦計画及び陸海軍協定を行なった。既に夜に入っている。協定の進むにつれ、信号命令により陸兵の分乗を実施すると共に、司令部員を総動員して徹宵、命令作製に従事、|読み合せをする暇もなく直ちに配付《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、兎に角十六日五時出港ぎりぎりに間に合せた。」(傍点引用者)
一木支隊第一梯団は既述の通り極端なまでの軽装で、次の通りの兵力編組を行なった。
支隊本部、一六三名。大隊本部 二三名。第一〜第四中隊 各一〇五名。機関銃中隊(機関銃八)一一〇名。大隊砲小隊(歩兵砲二)五〇名。工兵中隊 一五〇名。合計九一六名。
歩兵の携帯弾薬各自一五〇発、糧食七日分、徹頭徹尾銃剣突撃主義である。敵に水陸両用戦車があることは、このころまでの偵察で判明していたが、第一梯団には折畳舟以外の上陸用舟艇がないので、対戦車火器の速射砲中隊を編組の中に入れていないのである。
こうして、一木支隊第一梯団は六隻の駆逐艦に分乗、八月十六日午前五時、第二梯団の輸送船団と前後してトラックを出港した。
駆逐艦は二二ノット、船団は八・五ノットだから、第一梯団は忽ち後続部隊の視界から消えた。
これより先、その前日、十五日十二時、第八艦隊は、十二日にラバウルに進出して来た横五特の高橋中隊一一三名を駆逐艦追風でガダルカナルヘ連絡隊として出発させた。高橋中隊は、十六日夜、ガダルカナル島タサファロング(ルンガ岬西方約一七キロ)付近に上陸し、直ちに東進を開始、十七日夕刻設営隊主力と合流した。これがガダルカナルヘの最初の増援部隊である。
そのころ、米軍がガダルカナル撤退に決したという大本営海軍部第一部長からの虚報に接した第八艦隊では、高橋中隊の増加を得たガダルカナル守備隊が、十八日上陸することになっている一木支隊第一梯団と呼応すれば、浮き足立った米軍が占拠している飛行場の奪回は困難ではない、と楽観的見通しを立てていた。
孤立無援の十日間を過ごした守備隊(設営隊を含む)は、高橋中隊との合同によって、一木支隊が一両日中に上陸して飛行場を奪回することを知り、蘇生の思いであった。
一方低速の第二梯団船団は、十八日昼ごろ、横五特(高橋中隊欠)を乗せてグァムから出発した金竜丸と、それを護衛した第二十四駆逐隊(海風、江風、涼風。十七日二水戦に増加発令)及び哨戒艇二隻と洋上合流した。
(地図省略)
支隊本部、一六三名。大隊本部 二三名。第一〜第四中隊 各一〇五名。機関銃中隊(機関銃八)一一〇名。大隊砲小隊(歩兵砲二)五〇名。工兵中隊 一五〇名。合計九一六名。
歩兵の携帯弾薬各自一五〇発、糧食七日分、徹頭徹尾銃剣突撃主義である。敵に水陸両用戦車があることは、このころまでの偵察で判明していたが、第一梯団には折畳舟以外の上陸用舟艇がないので、対戦車火器の速射砲中隊を編組の中に入れていないのである。
こうして、一木支隊第一梯団は六隻の駆逐艦に分乗、八月十六日午前五時、第二梯団の輸送船団と前後してトラックを出港した。
駆逐艦は二二ノット、船団は八・五ノットだから、第一梯団は忽ち後続部隊の視界から消えた。
これより先、その前日、十五日十二時、第八艦隊は、十二日にラバウルに進出して来た横五特の高橋中隊一一三名を駆逐艦追風でガダルカナルヘ連絡隊として出発させた。高橋中隊は、十六日夜、ガダルカナル島タサファロング(ルンガ岬西方約一七キロ)付近に上陸し、直ちに東進を開始、十七日夕刻設営隊主力と合流した。これがガダルカナルヘの最初の増援部隊である。
そのころ、米軍がガダルカナル撤退に決したという大本営海軍部第一部長からの虚報に接した第八艦隊では、高橋中隊の増加を得たガダルカナル守備隊が、十八日上陸することになっている一木支隊第一梯団と呼応すれば、浮き足立った米軍が占拠している飛行場の奪回は困難ではない、と楽観的見通しを立てていた。
孤立無援の十日間を過ごした守備隊(設営隊を含む)は、高橋中隊との合同によって、一木支隊が一両日中に上陸して飛行場を奪回することを知り、蘇生の思いであった。
一方低速の第二梯団船団は、十八日昼ごろ、横五特(高橋中隊欠)を乗せてグァムから出発した金竜丸と、それを護衛した第二十四駆逐隊(海風、江風、涼風。十七日二水戦に増加発令)及び哨戒艇二隻と洋上合流した。
(地図省略)