一木支隊長・一木清直大佐は実兵指揮に練達した武人とされていた。彼は陸軍歩兵学校の教官を数次にわたって勤めたことがあり、蘆溝橋事件当夜(昭和十二年七月七日。一九三七年)の現地軍大隊長でもあった。彼は「帝国陸軍」伝統の──というよりは伝説化している──白兵による夜襲を得意の戦法としていた。白兵の突入をもってすれば米軍撃破は簡単であると信じていた。
日本陸軍が白兵戦を重視したのは、厖大な重装備と火力重点主義には莫大な経費がかかるが、白兵主義は素材は人間であるから相対的に費用が少くてすむからにほかならなかった。兵隊ははがき一枚でいくらでも集めることが出来る。粗衣粗食をあてがってきびしい軍律の中に拘束することが出来る。国のためにいくら殺してもかまわない。この人命軽視の戦法が長い間通用してきたのである。火力の貧弱を白兵の「威力」をもって補う。それで事足りた相手と戦って戦勝を収めてきた歴史に、軍みずからが酔ってしまって、世界のどの敵に対しても白兵が勝利を保証する最も有効な日本軍独特の戦法であるかのような伝説を、みずからこしらえてしまったのである。
一木大佐はその戦法にかけては出色の人物であったにちがいない。それだからこそ、洋上遥かミッドウェー敵前上陸作戦の実戦部隊指揮官に選ばれたのにちがいないし、その作戦が取り止めになって内地帰還の途中、ガダルカナル島飛行場奪回の地上戦闘指揮官にまた任ぜられたのにちがいない。
彼は「ミッドウェーを取るべく郷土を出陣して来たが、作戦が中止となり、このままおめおめ帰れぬと思っていたところである」と、ガダルカナル出陣に喜び勇んでいたという。
彼は自信満々としていた。彼が指揮する精鋭部隊の白兵突入によって奪取出来ないような米軍陣地などないと信じていた。その自信のほどは、彼が出撃に際して第十七軍参謀に、
「ツラギもうちの部隊で取ってよいか」
と尋ねたことに最もよく表われている。白刃一閃ガダルカナルを攻略し、直ちにツラギ海峡を押し渡ってツラギの米兵を一刀両断にしようというのである。
陸軍は最も帝国陸軍軍人らしい軍人を指揮官に選んだといえるし、戦慄すべき時代錯誤を一木大佐自身も、第十七軍も、大本営も犯したのである。
一木大佐流の銃剣突撃至上主義が昭和十七年八月という時点で、つまり、大戦開始まだ八カ月という時点で、決戦手段として疑われないというのは驚くべきことと言わねばならない。ちょうど三年前、ノモンハン事件で、熾烈な火力に対しては、旺盛な敢闘精神も肉弾突撃も所詮は|蟷螂《とうろう》の斧でしかないという悲劇的な経験が、日本軍指導層の骨身にしみていなければならないはずであった。
日本軍指導層は、しかし、敗北の経験に学ぶことをせず、敗北の事実を隠すことにのみ真剣であった。その結果、日本軍は自分に都合のよい推測によって敵を評価するという悪癖を、いつまでも|匡正《きようせい》し得なかったのである。
前記の駐ソ武官情報がいつ一木支隊長に伝わったかは不明だが、一木支隊長は、海上で、それまでの各種情報を綜合して、ガダルカナルの敵兵力は凡そ二〇〇〇で、戦意は旺盛でない、目下退避しつつあるものと判断した。
二〇〇〇という敵兵力推定の根拠も明らかでない。関連した記録として戦史室前掲書は、田中陸軍作戦部長日記の「ガ島上陸の敵は約二千にして戦意旺盛ならずと現地より報告あり」という記述と、第八艦隊か十一航艦からの八月十八日の報告と推測される「ガ島基地通信隊及第八根拠地隊よりの報告を綜合すると敵は高射砲、戦車若干及機関銃多数を有し、内約二〇〇〇は飛行場西側附近にあり」という記録を記載している。
これらの記録が一木支隊長に伝わったか否か、伝わるだけの時間があったか否か、明らかでない。いずれにしても、一木支隊長にせよ、情報記録者にせよ、二〇〇〇という数字が日本軍側の希望的推定値であったであろう。
もし二〇〇〇なら、一木支隊を出撃させても、投入兵力が少な過ぎないかという不安感はなくなるであろう。一木支隊も約二〇〇〇、内約九〇〇の第一梯団がとりあえず駈けつけるのである。
八月十七日午前七時三十分ごろ、一木支隊第一梯団を乗せた駆逐艦隊は赤道を通過した。艦隊は一路ガダルカナルヘ向っている。接触する敵機もなく、平穏であった。幸先よいかのようである。精強の誉れ高い、だが実戦経験のない兵隊たちは甲板で碁や将棋に興じていた。
時間が多少前後するが、横五特の高橋中隊が派遣される以前の在ガ島守備隊(設営隊員をも含む)は、八日─九日のツラギ海峡夜戦を望見して、友軍の来援を信じていた。
九日以後、第十一設営隊長門前大佐が指揮官、第十三設の岡村少佐が副指揮官となっていたが、兵力は定かでない。警備隊員約一〇〇名、設営隊員三二八名、計四二八名、他に設営隊員約一〇〇〇がジャングル中にあって、連絡もとれなかったらしい。この記録もどれだけ確実性があるかは判然しない。警備隊員が「約」一〇〇名で、設営隊員が端数まで明らかなのも納得しがたいが、いずれにしても、かなりの数の人員が四散したのであろうことは想像される。
在ガ島守備隊と米軍との間には、一木支隊第一梯団の上陸まで、小ぜり合いが行なわれていたが、その情況はラバウルには判明していなかった。
呂号第三十三潜からの報告によってガダルカナルの各見張所がまだ健在であることがわかったのは、八月十四日である。
潜水艦からの報告や、既述の第八根拠地隊参謀による飛行偵察の報告などから判断して、第八艦隊は十四日に「ルンガ岬東方において彼我陸戦隊交戦中にして第十三潜水隊は救援に向いつつあり」と報告した。
だが、ルンガ岬東方で、という状況把握は納得しかねる。門前大佐を指揮官とする守備隊が西から東へ、ルンガ方向へ行動を起こした(九日)ことは事実だが、敵に発見され、攻撃を受けて、西方マタニカウ川左岸陣地へ戻っていたはずなのである。
そうであるとすれば、二十五航戦が陸攻三機をもって、糧食弾薬計約一トンを、十五日、ルンガ岬東方約六キロの草原に投下したのは、無駄になったはずであった。
山田日記に次の記述がある。のちの一木支隊第一梯団の行動とかかわりがあるので、引用する。八月十五日の項である。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「1略
2、陸攻三機糧食弾薬約一屯ヲルンガ岬ノ東方六〇〇〇米草原ニ投下セリ。約半数ルンガ岬西方約四浬ノマタニカウ川西岸に投下スル予定ナリシモ敵ノ防禦銃砲火熾烈目的ヲ達シ得ス。
3、糧食投下隊ハ高度二〇〇米ニテタイボ岬ヨリクルツ岬(マタニカウ河口より西へ約一・五キロ──引用者)間ヲ行動セシモ、敵及味方兵力陣地ヲ発見スルニ至ラス。敵防禦砲火ヨリ判断セハ|敵ハルンガ岬附近及飛行場ヲ主力トシ海岸沿ヒニルンガ岬ノ東方約三〇〇〇米《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|西方約二〇〇〇米間ニ拠リアリト認メラル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
(以下略)」(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
後で記述することだが、一木支隊第一梯団は、東方から、海岸伝いに攻撃するのが敵の背後を衝くことになるという判断の下に行動するのである。右に引用した偵察報告は一木支隊長の判断が適切でないことを示している。一木支隊のトラック島出発は八月十六日午前五時、ガダルカナル泊地投錨は十八日午後九時ごろ、右の偵察報告は十五日である。時間的には一木支隊長が右の偵察結果を承知する余裕はあったはずである。
陸軍中央では、先の十四日の第八艦隊の報告を、参謀竹田宮が田中作戦部長に次のように報告している。
「潜水艦の報告によればルンガ東方地区に於て彼我交戦中なるが如く、飛行場は尚我が手に確保しありとのことである」(戦史室前掲書)
これも致命的な判断誤謬を生んだ楽観的虚報の一つであったかもしれない。
第八艦隊は、先の食糧弾薬投下のほかに、駆逐艦によって連絡部隊をガダルカナルに送る措置をとった。それが先に述べた横五特の高橋中隊である。
高橋中隊を加えて守備隊を編成した在ガ島日本軍が一木支隊の来援を待っているとき、八月十五日早朝、米軍は三個中隊の兵力で、うち一個中隊が発動艇によって日本軍陣地の西方コカンボナ(クルツ岬西方五キロ強)に上陸、二個中隊が海岸を東からマタニカウヘ、日本軍を挟撃して来た。十九日早朝といえば、後述する通り前夜十一時タイボ岬付近に上陸した一木支隊第一梯団が東進を開始し、テテレ付近のジャングルで大休止をとったころであろうと、想像される。
守備隊と米軍の衝突地点と一木支隊が大休止をとったテテレ付近とは、直線距離で三〇キロ以上隔っていたであろう。
この小戦闘は彼我の記録が全然異っている。米側資料(グレイム・ケント『ガダルカナル』)によれば、日本兵は白兵戦をいどんできたが、海兵たちは日本兵六五人を倒した、残りは退却した、となっている。また、別の米公刊戦史(ジョン・ミラー『ガダルカナル作戦』)によれば、米軍各中隊がルンガ岬に引揚げるまでに、日本兵六五名を斃し、味方は僅かに死者四名負傷者一一名を出したに過ぎなかった、とある。
高橋中隊の無線報告には「十九日早朝西方海上より守備隊を包囲せる敵約三〇〇名をコカンボナに邀撃し、これを海上に撃退せり。敵に相当の損害を与う。大発三、機銃一を捕獲せり。|我に被害なし《ヽヽヽヽヽヽ》。|食糧あと二日分《ヽヽヽヽヽヽヽ》」とあるという。(戦史室前掲書。傍点引用者)
決戦段階でないから勝敗の帰趨が相反していても大したことがないと言えば言えるが、記録がこうまで異る理由は理解に苦しむところである。
実際のところ、一木支隊第一梯団を輸送して来た駆逐艦隊は、支隊が上陸(十八日夜)すると、第十七駆逐隊はラバウルに帰投し、第四駆逐隊と「陽炎」がガ島沖に残留して警戒にあたって何事もなかったことから見て、陸上はともかく、制海権はまだ日本軍が握っていたのである。
しかし、米軍は日本軍のなすにまかせていたわけではなかった。翌十九日、B17一機が飛来し、その爆撃によって駆逐艦「萩風」が損壊し、僚艦「嵐」の護衛の下にトラック島へ引揚げ、ガ島沖には「陽炎」だけが残ることになった。日本軍飛行機の水平爆撃はほとんど命中しないのに、B17のそれはよく命中した。またB17は零戦の機銃弾を受けても墜落せず、零戦の王座は既に失われようとし、制海権も制空権もこの後短期間で日本軍の手中から奪われるのである。
日本陸軍が白兵戦を重視したのは、厖大な重装備と火力重点主義には莫大な経費がかかるが、白兵主義は素材は人間であるから相対的に費用が少くてすむからにほかならなかった。兵隊ははがき一枚でいくらでも集めることが出来る。粗衣粗食をあてがってきびしい軍律の中に拘束することが出来る。国のためにいくら殺してもかまわない。この人命軽視の戦法が長い間通用してきたのである。火力の貧弱を白兵の「威力」をもって補う。それで事足りた相手と戦って戦勝を収めてきた歴史に、軍みずからが酔ってしまって、世界のどの敵に対しても白兵が勝利を保証する最も有効な日本軍独特の戦法であるかのような伝説を、みずからこしらえてしまったのである。
一木大佐はその戦法にかけては出色の人物であったにちがいない。それだからこそ、洋上遥かミッドウェー敵前上陸作戦の実戦部隊指揮官に選ばれたのにちがいないし、その作戦が取り止めになって内地帰還の途中、ガダルカナル島飛行場奪回の地上戦闘指揮官にまた任ぜられたのにちがいない。
彼は「ミッドウェーを取るべく郷土を出陣して来たが、作戦が中止となり、このままおめおめ帰れぬと思っていたところである」と、ガダルカナル出陣に喜び勇んでいたという。
彼は自信満々としていた。彼が指揮する精鋭部隊の白兵突入によって奪取出来ないような米軍陣地などないと信じていた。その自信のほどは、彼が出撃に際して第十七軍参謀に、
「ツラギもうちの部隊で取ってよいか」
と尋ねたことに最もよく表われている。白刃一閃ガダルカナルを攻略し、直ちにツラギ海峡を押し渡ってツラギの米兵を一刀両断にしようというのである。
陸軍は最も帝国陸軍軍人らしい軍人を指揮官に選んだといえるし、戦慄すべき時代錯誤を一木大佐自身も、第十七軍も、大本営も犯したのである。
一木大佐流の銃剣突撃至上主義が昭和十七年八月という時点で、つまり、大戦開始まだ八カ月という時点で、決戦手段として疑われないというのは驚くべきことと言わねばならない。ちょうど三年前、ノモンハン事件で、熾烈な火力に対しては、旺盛な敢闘精神も肉弾突撃も所詮は|蟷螂《とうろう》の斧でしかないという悲劇的な経験が、日本軍指導層の骨身にしみていなければならないはずであった。
日本軍指導層は、しかし、敗北の経験に学ぶことをせず、敗北の事実を隠すことにのみ真剣であった。その結果、日本軍は自分に都合のよい推測によって敵を評価するという悪癖を、いつまでも|匡正《きようせい》し得なかったのである。
前記の駐ソ武官情報がいつ一木支隊長に伝わったかは不明だが、一木支隊長は、海上で、それまでの各種情報を綜合して、ガダルカナルの敵兵力は凡そ二〇〇〇で、戦意は旺盛でない、目下退避しつつあるものと判断した。
二〇〇〇という敵兵力推定の根拠も明らかでない。関連した記録として戦史室前掲書は、田中陸軍作戦部長日記の「ガ島上陸の敵は約二千にして戦意旺盛ならずと現地より報告あり」という記述と、第八艦隊か十一航艦からの八月十八日の報告と推測される「ガ島基地通信隊及第八根拠地隊よりの報告を綜合すると敵は高射砲、戦車若干及機関銃多数を有し、内約二〇〇〇は飛行場西側附近にあり」という記録を記載している。
これらの記録が一木支隊長に伝わったか否か、伝わるだけの時間があったか否か、明らかでない。いずれにしても、一木支隊長にせよ、情報記録者にせよ、二〇〇〇という数字が日本軍側の希望的推定値であったであろう。
もし二〇〇〇なら、一木支隊を出撃させても、投入兵力が少な過ぎないかという不安感はなくなるであろう。一木支隊も約二〇〇〇、内約九〇〇の第一梯団がとりあえず駈けつけるのである。
八月十七日午前七時三十分ごろ、一木支隊第一梯団を乗せた駆逐艦隊は赤道を通過した。艦隊は一路ガダルカナルヘ向っている。接触する敵機もなく、平穏であった。幸先よいかのようである。精強の誉れ高い、だが実戦経験のない兵隊たちは甲板で碁や将棋に興じていた。
時間が多少前後するが、横五特の高橋中隊が派遣される以前の在ガ島守備隊(設営隊員をも含む)は、八日─九日のツラギ海峡夜戦を望見して、友軍の来援を信じていた。
九日以後、第十一設営隊長門前大佐が指揮官、第十三設の岡村少佐が副指揮官となっていたが、兵力は定かでない。警備隊員約一〇〇名、設営隊員三二八名、計四二八名、他に設営隊員約一〇〇〇がジャングル中にあって、連絡もとれなかったらしい。この記録もどれだけ確実性があるかは判然しない。警備隊員が「約」一〇〇名で、設営隊員が端数まで明らかなのも納得しがたいが、いずれにしても、かなりの数の人員が四散したのであろうことは想像される。
在ガ島守備隊と米軍との間には、一木支隊第一梯団の上陸まで、小ぜり合いが行なわれていたが、その情況はラバウルには判明していなかった。
呂号第三十三潜からの報告によってガダルカナルの各見張所がまだ健在であることがわかったのは、八月十四日である。
潜水艦からの報告や、既述の第八根拠地隊参謀による飛行偵察の報告などから判断して、第八艦隊は十四日に「ルンガ岬東方において彼我陸戦隊交戦中にして第十三潜水隊は救援に向いつつあり」と報告した。
だが、ルンガ岬東方で、という状況把握は納得しかねる。門前大佐を指揮官とする守備隊が西から東へ、ルンガ方向へ行動を起こした(九日)ことは事実だが、敵に発見され、攻撃を受けて、西方マタニカウ川左岸陣地へ戻っていたはずなのである。
そうであるとすれば、二十五航戦が陸攻三機をもって、糧食弾薬計約一トンを、十五日、ルンガ岬東方約六キロの草原に投下したのは、無駄になったはずであった。
山田日記に次の記述がある。のちの一木支隊第一梯団の行動とかかわりがあるので、引用する。八月十五日の項である。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
「1略
2、陸攻三機糧食弾薬約一屯ヲルンガ岬ノ東方六〇〇〇米草原ニ投下セリ。約半数ルンガ岬西方約四浬ノマタニカウ川西岸に投下スル予定ナリシモ敵ノ防禦銃砲火熾烈目的ヲ達シ得ス。
3、糧食投下隊ハ高度二〇〇米ニテタイボ岬ヨリクルツ岬(マタニカウ河口より西へ約一・五キロ──引用者)間ヲ行動セシモ、敵及味方兵力陣地ヲ発見スルニ至ラス。敵防禦砲火ヨリ判断セハ|敵ハルンガ岬附近及飛行場ヲ主力トシ海岸沿ヒニルンガ岬ノ東方約三〇〇〇米《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|西方約二〇〇〇米間ニ拠リアリト認メラル《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
(以下略)」(傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
後で記述することだが、一木支隊第一梯団は、東方から、海岸伝いに攻撃するのが敵の背後を衝くことになるという判断の下に行動するのである。右に引用した偵察報告は一木支隊長の判断が適切でないことを示している。一木支隊のトラック島出発は八月十六日午前五時、ガダルカナル泊地投錨は十八日午後九時ごろ、右の偵察報告は十五日である。時間的には一木支隊長が右の偵察結果を承知する余裕はあったはずである。
陸軍中央では、先の十四日の第八艦隊の報告を、参謀竹田宮が田中作戦部長に次のように報告している。
「潜水艦の報告によればルンガ東方地区に於て彼我交戦中なるが如く、飛行場は尚我が手に確保しありとのことである」(戦史室前掲書)
これも致命的な判断誤謬を生んだ楽観的虚報の一つであったかもしれない。
第八艦隊は、先の食糧弾薬投下のほかに、駆逐艦によって連絡部隊をガダルカナルに送る措置をとった。それが先に述べた横五特の高橋中隊である。
高橋中隊を加えて守備隊を編成した在ガ島日本軍が一木支隊の来援を待っているとき、八月十五日早朝、米軍は三個中隊の兵力で、うち一個中隊が発動艇によって日本軍陣地の西方コカンボナ(クルツ岬西方五キロ強)に上陸、二個中隊が海岸を東からマタニカウヘ、日本軍を挟撃して来た。十九日早朝といえば、後述する通り前夜十一時タイボ岬付近に上陸した一木支隊第一梯団が東進を開始し、テテレ付近のジャングルで大休止をとったころであろうと、想像される。
守備隊と米軍の衝突地点と一木支隊が大休止をとったテテレ付近とは、直線距離で三〇キロ以上隔っていたであろう。
この小戦闘は彼我の記録が全然異っている。米側資料(グレイム・ケント『ガダルカナル』)によれば、日本兵は白兵戦をいどんできたが、海兵たちは日本兵六五人を倒した、残りは退却した、となっている。また、別の米公刊戦史(ジョン・ミラー『ガダルカナル作戦』)によれば、米軍各中隊がルンガ岬に引揚げるまでに、日本兵六五名を斃し、味方は僅かに死者四名負傷者一一名を出したに過ぎなかった、とある。
高橋中隊の無線報告には「十九日早朝西方海上より守備隊を包囲せる敵約三〇〇名をコカンボナに邀撃し、これを海上に撃退せり。敵に相当の損害を与う。大発三、機銃一を捕獲せり。|我に被害なし《ヽヽヽヽヽヽ》。|食糧あと二日分《ヽヽヽヽヽヽヽ》」とあるという。(戦史室前掲書。傍点引用者)
決戦段階でないから勝敗の帰趨が相反していても大したことがないと言えば言えるが、記録がこうまで異る理由は理解に苦しむところである。
実際のところ、一木支隊第一梯団を輸送して来た駆逐艦隊は、支隊が上陸(十八日夜)すると、第十七駆逐隊はラバウルに帰投し、第四駆逐隊と「陽炎」がガ島沖に残留して警戒にあたって何事もなかったことから見て、陸上はともかく、制海権はまだ日本軍が握っていたのである。
しかし、米軍は日本軍のなすにまかせていたわけではなかった。翌十九日、B17一機が飛来し、その爆撃によって駆逐艦「萩風」が損壊し、僚艦「嵐」の護衛の下にトラック島へ引揚げ、ガ島沖には「陽炎」だけが残ることになった。日本軍飛行機の水平爆撃はほとんど命中しないのに、B17のそれはよく命中した。またB17は零戦の機銃弾を受けても墜落せず、零戦の王座は既に失われようとし、制海権も制空権もこの後短期間で日本軍の手中から奪われるのである。
第十七軍司令部は、一木支隊第一梯団を急送することによって、飛行場奪回可能という甘い観測をしていたが、さすがにそれで十分と考えていたわけではなかった。一木支隊派遣につづいて、歩兵第三十五旅団(長・川口少将)をガダルカナルに増派して、ツラギの奪回を図ろうとした。
歩兵第三十五旅団は八月十六日パラオを出発して、二十日ごろトラック島に到着することになっていた。既述の通り、一木支隊は同じ八月十六日にトラックを出て、二十日には第一梯団がガダルカナルで攻撃前進(後述)に移っている。一木支隊だけで不十分と考えるから、川口旅団を送る。小出しに、逐次投入することへの懸念は、少くとも資料の上では見当らない。後世の人間が歴史を追体験し、事実を知っても、もはや間に合わないのである。
第十七軍司令部は、南海支隊主力を十六日ブナ(ニューギニア北東岸)へ送り、同十六日ラバウル到着の歩兵第四十一連隊(はじめのうち、ガ島投入が予定されていた)もブナヘ追及させる計画であったから、近日中にトラックを出発する川口旅団の一部兵力を軍予備としてラバウルに控置したい考えであった。
それは、しかし、ガダルカナルにどれだけの兵力を必要とするかによって、予備兵力を抽出出来るか否かが決ることである。歩三十五旅団は、旅団といったところで、歩第百二十四連隊の三個大隊だけなのである。
二見十七軍参謀長は、ニューギニアのラビ攻略のために海軍(第八艦隊)から陸兵派遣を求められても、手許に一兵もなく、兵力捻出に苦慮していたが、第八艦隊の神先任参謀は二見参謀長に、ガ島は簡単である、一木支隊のほかに一大隊増加すれば十分である、と事もなげに言った。ガ島では陸戦隊はいまも交戦中であって、敵兵力は大したことはない、と。二見参謀長は、この分なら一個大隊ぐらいの予備兵力はとれそうであると胸算したらしい。八月十六日のことである。
神参謀の楽観説が何を根拠にしていたか、第八艦隊がそのとき正確な判断材料を持っていたか、すべて疑わしい。想像するに、予想外の大勝利に終ったツラギ海峡夜戦の作戦主務者としての同参謀に、米軍の戦力を下算する傲りがあったのかもしれない。
八月十八日になって十七軍、十一航艦、八艦の三者の間に出来た協定によって、ガダルカナルに派遣される歩三十五旅団は二個大隊と決った。もう少し詳しく言えば、歩三十五旅団長の川口少将が指揮する歩兵第百二十四連隊(一大隊欠──十七軍予備)とガダルカナルに在る一木支隊及び海軍陸戦隊を合せて、川口支隊とする、ということである。
百武第十七軍司令官は歩兵第三十五旅団長川口清健少将をラバウルに招致し、八月十九日、ガダルカナルとツラギ及びその付近の|島嶼《とうしよ》の奪回を命令した。
右記の三者協定によって定められた川口支隊のガダルカナル上陸予定日は、八月二十八日である。
歩兵第三十五旅団は八月十六日パラオを出発して、二十日ごろトラック島に到着することになっていた。既述の通り、一木支隊は同じ八月十六日にトラックを出て、二十日には第一梯団がガダルカナルで攻撃前進(後述)に移っている。一木支隊だけで不十分と考えるから、川口旅団を送る。小出しに、逐次投入することへの懸念は、少くとも資料の上では見当らない。後世の人間が歴史を追体験し、事実を知っても、もはや間に合わないのである。
第十七軍司令部は、南海支隊主力を十六日ブナ(ニューギニア北東岸)へ送り、同十六日ラバウル到着の歩兵第四十一連隊(はじめのうち、ガ島投入が予定されていた)もブナヘ追及させる計画であったから、近日中にトラックを出発する川口旅団の一部兵力を軍予備としてラバウルに控置したい考えであった。
それは、しかし、ガダルカナルにどれだけの兵力を必要とするかによって、予備兵力を抽出出来るか否かが決ることである。歩三十五旅団は、旅団といったところで、歩第百二十四連隊の三個大隊だけなのである。
二見十七軍参謀長は、ニューギニアのラビ攻略のために海軍(第八艦隊)から陸兵派遣を求められても、手許に一兵もなく、兵力捻出に苦慮していたが、第八艦隊の神先任参謀は二見参謀長に、ガ島は簡単である、一木支隊のほかに一大隊増加すれば十分である、と事もなげに言った。ガ島では陸戦隊はいまも交戦中であって、敵兵力は大したことはない、と。二見参謀長は、この分なら一個大隊ぐらいの予備兵力はとれそうであると胸算したらしい。八月十六日のことである。
神参謀の楽観説が何を根拠にしていたか、第八艦隊がそのとき正確な判断材料を持っていたか、すべて疑わしい。想像するに、予想外の大勝利に終ったツラギ海峡夜戦の作戦主務者としての同参謀に、米軍の戦力を下算する傲りがあったのかもしれない。
八月十八日になって十七軍、十一航艦、八艦の三者の間に出来た協定によって、ガダルカナルに派遣される歩三十五旅団は二個大隊と決った。もう少し詳しく言えば、歩三十五旅団長の川口少将が指揮する歩兵第百二十四連隊(一大隊欠──十七軍予備)とガダルカナルに在る一木支隊及び海軍陸戦隊を合せて、川口支隊とする、ということである。
百武第十七軍司令官は歩兵第三十五旅団長川口清健少将をラバウルに招致し、八月十九日、ガダルカナルとツラギ及びその付近の|島嶼《とうしよ》の奪回を命令した。
右記の三者協定によって定められた川口支隊のガダルカナル上陸予定日は、八月二十八日である。