一木支隊第一梯団は八月十八日午後九時ごろ、ガダルカナル島ルンガ岬(米軍泊地)から東方直線距離で三五キロのタイボ岬西方に到着し、直ちに上陸を開始した。
月の明るい夜であったが、何の抵抗も受けることもなく、午後十一時ごろに上陸集結を完了した。
既述の通り、この上陸作戦には上陸用舟艇の準備が間に合わず、一木支隊手持ちの折畳舟を内火艇で曳くことによって上陸しなければならなかったので、支隊編成に速射砲中隊を入れることが出来ず、大隊砲小隊として歩兵砲が僅かに二門あるだけであった。したがって、敵の戦車が出現すれば、支隊は無力にひとしい。
一木大佐は、しかし、火砲の乏しいことなど意に介さなかった。彼が信頼するものは銃剣突撃である。逡巡することなく勇猛果敢に白兵戦を挑めば、米兵は狼狽して逃げまどうであろう。飛行場は既に掌中にあるかのようであった。
一木支隊長は、支隊の到着を待ち望んでいる在ガ島守備隊との連絡に一顧も払わなかった。連絡などは飛行場を奪取してからでいいと考えたのであろう。第二梯団の到着を待たずに、支隊を直ちに海岸に沿って西へ前進させた。四日も到着が遅れる第二梯団を待つのでは、高速輸送の意味がなくなる。先遣部隊だけで敵を蹂躪するのだ。
八月十九日、午前二時ごろ、胸まで没するベランデ川を渡河した。抵抗はなかった。敵はルンガ岬周辺以外には進出していないように思われた。
午前四時半ごろ、海峡の彼方、ツラギとおぼしい方向から遠雷のような砲声が聞えた。十九日の早朝には、一木支隊第一梯団を輸送して来た駆逐艦のうち「陽炎」が、ツラギ沖六〇〇〇メートルの距離から艦砲射撃を行なっているから、支隊が聞いたのはその砲声であったであろう。
部隊は出発地点から西方へ約一五キロ、テテレに達して、ジャングルのなかで大休止をとった。夜が明けかけていたから、行動秘匿のためである。
めざす地点まで直線距離であと約二〇キロ。将兵の意気は旺んであった。
十九日午前八時三十分、支隊長は西へ約一七キロのイル川(日本名中川)付近に情報所設置の目的をもって渋谷大尉以下の情報班を、さらにイル川を越えて飛行場付近(イル川から約四キロ)へ館中尉以下将校斥候四組を出した。
午後二時三十分になって、右の情報所要員と将校斥候群がナリムビュー川コリ岬(テテレから西へ直線距離で約七キロ)付近で約一個中隊の敵と交戦中であることが判った。
支隊長は、午後三時、一個中隊を救援に向わせ、主力は四時にテテレを出発した。約一時間後、情報所要員も将校斥候群も全滅したという悲報が届いた。
斥候群は大胆過ぎたか、油断があったのか、戦闘隊形もとらずに前進していたらしい。あるいは椰子林のつづいた地形で視界が狭かったのかもしれない。突然急襲され、約一時間の戦闘を交えて、全滅した。生き残ったのはジャングルに逃げ込んだ三名だけであったという。
これは、タイボ岬付近にいるらしい日本軍を捜索するために出された海兵隊の一個中隊が、途中で先に日本軍斥候を発見して、機先を制したのである。謂わば斥候部隊同士の遭遇戦であるから、不期遭遇の条件は同じであったはずである。海兵隊斥候は、日本兵の死体から、日本陸軍兵が上陸していることを確認したし、通信連絡用の暗号書を手に入れたという。
斥候群全滅を一木支隊は慎重な作戦を促す警報として受け取らねばならなかった。
一木支隊長が、しかし、警戒色を深めた形跡はほとんど見当らない。
この日、ルンガ地区米軍陣地からさらに西へ、マタニカウ川(ルンガから約八キロ)方向へ、盛んに砲声がつづいた。残存している警備隊と設営隊の抵抗陣を砲撃しているものと思われた。ここまで来ても、一木支隊長は、警備隊や設営隊との合流、あるいは協同作戦をとることに留意している様子も全くなかった。敵陣地を挟んで東西に分れていることであるから、合流は不可能だとしても、通信連絡ぐらいは出来たかもしれないのである。すれば、マタニカウ方向からの|佯動《ようどう》作戦もあり得たかもしれない。
一木支隊長は、しかし、歯牙にもかけなかったようである。
八月二十日午前二時半、支隊はテテレから西へ約八キロのレンゴに達し、大休止した。この地点で、前日午後三時に斥候群の救援に派遣した一個中隊(第一中隊)を本隊に合流させたようである。第一中隊は斥候群を全滅させた敵を追撃したが、捕捉出来なかった。
レンゴからめざす飛行場は直線距離であと一〇キロである。
八月二十日午前十時、支隊長は次のような攻撃命令を下達した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、敵斥候四名ハ第四中隊前方ニ進出 中隊ハ直ニ之ヲ撃退セリ(撃退というのは、射殺でも捕虜としたのでもないから、支隊の状況は敵指揮官に明白となったものと考えるのが順当であった。一木支隊長がその点にどれだけ留意したか、不明である。──引用者)
二、支隊ハ一八〇〇現在地出発夜暗ヲ利用シ 行軍即捜索即戦闘ノ主義ヲ以テ先ツ第十一設営隊付近(飛行場北側──引用者)ヲ攻撃シ 爾後ノ飛行場方向ニ対スル攻撃ヲ準備セントス
三、工兵隊長ハ下士官斥候一組(土人三名通訳一名ヲ附ス)ヲ出発ト同時ニ先遣シ蛇川(テナル川)ノ渡河点ヲ偵察セシムヘシ
[#ここで字下げ終わり]
四、五、略
一木支隊長は、飛行場の手前、イル川(中川)西岸に米軍が主戦闘陣地を構成していることを知らなかった。先に引用した十五日の二十五航戦の偵察報告を一木支隊長は知っていたかどうか。また、前日の斥候群の全滅という事実から、さらに冷静綿密な偵察を実施すれば、敵の陣容はほぼ推定出来たはずなのである。
一木支隊の攻撃は、事前に海軍航空隊や艦隊の協力を取りつけず、単独に「まるで演習でもやるかのように」(淵田・奥宮『機動部隊』)、レンゴから一挙に突入するという、意気旺んだが、単純で、独善的な計画であった。
何よりも、敵に既に知られていることに対する配慮が、全く欠けていた。
二十日は、この日も、ルンガ地区からマタニカウ方向へ米軍の砲声しきりであった。
午後六時、支隊はレンゴを出発した。行軍即捜索即戦闘である。
午後八時ごろ、出発地点から約七キロのテナル川に達した。先行した下士官斥候から、道案内の土民一名が逃亡しかけたのを射殺すると、イル川の方角から信号弾が上った、という報告があった。銃声と信号弾には関連があったにちがいない。支隊は、しかし、イル川へ向って前進をつづけた。
敵情は皆目わかっていないのである。一木支隊長以下功を急いで慎重を欠いていたことは否めない。
当時、米軍第一海兵師団は、一個大隊を予備にとり、三個野戦砲兵大隊の掩護の下に、四個歩兵大隊を並列してルンガ岬を保持していた。米軍陣地の東翼、つまり、一木支隊がまさに接近しつつある方面は、イル川(中川)の西岸に沿って奥地へと強固な抵抗線を伸していたのである。(ジョン・ミラー前掲書)
午後十時半ごろ、尖兵がイル川東岸に近づいて、はじめて敵と接触した。少数の米兵から射撃を受けたのである。尖兵は後退する米兵に追尾して、東岸に達し、いったん停止した。
支隊長は蔵本大隊長とともに尖兵中隊の位置まで進出して、擲弾筒の集中援護射撃をもって尖兵に対岸への突入を命じたが、敵の火力は突入を許すほど微弱ではなかった。
この部分は、先の米公刊戦史では次のようになっている。
ガダルカナル上陸(米軍)後最初の大きな地上戦闘は、八月二十日夕、イル川東岸の聴音哨が密林に隠れた日本兵に向って行なった射撃からはじまった。聴音哨兵は敵軍が東から襲撃して来たことを報告するため西岸に退き、小銃弾がなお暫くつづいて飛んで来たが、やがておさまった。
二十日夕という表現は漠然としていて、時刻が定かでないが、密林にマイクを仕掛けてあって、日本兵が接近する音を捉えて射撃を浴びせたのである。
東岸での接触は謂わば小手調べの前哨戦であったが、支隊としては、この時点で作戦の立て直しを図るべきであったろう。支援砲火の圧倒的な破壊力なしには、歩兵が如何に勇敢であったとしても、敵の銃火の壁に対して肉弾をもって突入することは無理なのである。
一木支隊長は、しかし、まだ、白兵の威力に対する信念を失わなかった。あるいは困難とわかっても、信念変更を潔しとしなかったか、いずれかであろう。
一木支隊長は渡河地点を探して、河口近くに高さ約一〇フィートの砂洲を発見すると、兵力の一部に現在正面からの攻撃を続行させ、主力が砂洲を横断して西岸の米軍陣地を強襲するように指揮した。(一木支隊長がイル川河口近くに高さ約一〇フィートの砂洲を発見云々と書いたことについて、前掲山本一氏から手紙を頂戴した。それによると「イル河は海に流れ込んではおりません。砂洲はイル川の河口そのもので、干満に応じて出たりかくれたりします。干潮時は普通の砂浜とお考え下さい。この砂洲にさえぎられてイル川下流は沼状にふくれ上っており、現在これをアリゲータークリークと呼んでおります。〈引用者中略〉ほんの数百メートルさかのぼると所謂イル川なる細流です。」〈原文のまま〉海に流れ込まない川というものは常識的に想像困難なので、失礼をかえりみず再度問い合せをしたら、「確信を以てお書き下さい」という返書に接したし、イル川河口付近を空から撮った写真の複写を頂戴した。それを見ると、なるほど、海とイル川下流とは帯状の砂洲で明らかにさえぎられている。大潮の満潮時には砂洲を越えてつながるのかもしれないが、一木支隊長が突撃路として選んだのは、この砂洲だったのである。砂洲といえば、普通、水面に露出している砂地を想像しがちだが、一木支隊第一梯団の突撃路は、海と川を分離している砂地であった。それなら突撃しやすいから、敵方も当然防禦砲火を準備しているはずであった。)
突撃発起は八月二十一日未明であった。
砂洲を横断するとき、西岸の台上から猛烈な銃砲火を浴びせられた。砂洲を越えて敵陣に躍りかかった者もあったが、それらの日本兵は米軍守備兵のいう「地獄岬」の鉄条網によって躍進を阻止され、銃火で薙ぎ倒された。大部分は砂洲の前後で火力に捕捉され、死屍累々となった。
突撃は無謀というほかはなかった。この局面に関する限り、日本軍の戦闘は勇敢ではあったが、拙劣をきわめた。日本兵は絶望的に勇敢であるより仕方がなかった。
支隊長は予備隊として控置してあった機関銃中隊と大隊砲小隊を戦闘に加入させたが、もはや形勢逆転は出来なかった。日本軍は米軍の集中火力に乱打されて、混乱し、毎秒ごとに戦力を減耗した。敵情を知らずに夜襲を企て、幾つかの留意すべき兆候があったにもかかわらず、己れの白兵による衝力を過信して突撃を発起したことが誤りであった。
前掲の米公刊戦史はこれまでの戦闘経過を次のように誌している。
イル川正面は八月二十一日午前三時十分ごろまでは静かだったが、一木支隊の歩兵約二〇〇名が第一海兵隊第二大隊の占拠している陣地を蹂躪しようとして、銃剣突撃でイル河口の砂洲の突破を試みた。
防禦大隊は四五ヤード幅の砂洲を守るために、機銃と小銃で護衛した三七ミリ砲を備え、日本軍が近づいたときにこれらの銃砲全部で猛射を浴びせた。一木支隊の僅かの兵が砂洲を越えて、有刺鉄線を張ってなかった第二大隊陣地を突破したが、大部分は防禦砲火で斃された。突破した少数の兵も他の陣地からの射撃のために態勢の立て直しも戦果の拡張も出来なかった。そのとき第二大隊の一個中隊が逆襲に出て、一木支隊の残存兵力を川向うに追い返した。
第十一海兵隊の第三大隊は、午前四時三分、先に一木支隊が攻撃を開始した海岸の狭い三角地に曲射砲を据え、五時十五分、七時二十二分、七時四十二分、八時五十一分に反復集中射撃を加えた。一木支隊は最初の突撃に失敗すると、砂洲の端の海兵隊陣地に大砲(大隊砲であろう)臼砲(擲弾筒の誤りであろう)機関銃射撃を集中したので、海兵隊はあらゆる火器を用いて西岸陣地から砂洲と海浜の日本兵に射撃を浴びせかけ、朝までに流れの穏やかな河口は日本兵の死体で埋った。
第一海兵隊の第一大隊は師団予備隊から出てイル川上流を渡り日本軍の左翼及び後方を攻撃する命を受けて、縦隊で川を渡り、重火器一個小隊を日本軍の退路を遮断する位置に配置した。(ジョン・ミラー前掲書)
つまり、一木支隊の突撃が挫折すると、支隊の左側背から米軍の組織的な反撃がはじまったのである。
前述の通り、一木支隊長は、当然にまた十七軍司令部の責任に属することでもあるのだが、攻撃に際して、海軍航空部隊と艦艇による戦闘協力を取りつけていなかった。自信過剰のなせる業か、準備時間不足のなせる業か、おそらくいずれでもあるであろうが、虚しく拙戦して戦況の好転を望める道理がなかったのである。
午後一時ごろ、米軍戦車四輛が支隊の背後から強圧を加え、椰子林を通って河口の砂洲へ驀進した。砂洲を横断した戦車群は、支隊の残存兵力が遮蔽している椰子と|棕櫚《しゆろ》の林に突入して、蹂躪した。自在に旋回し、黄色い火焔を放射し、椰子の木を踏み倒し、日本兵を追い立て、急追して銃火を浴びせかけた。
支隊の残存兵力は統制を失い、手榴弾をもって各個に戦車と戦うほかはなかった。はじめに集中的な銃砲火で大打撃を蒙り、終末段階で対戦車火器もないままに戦車の蹂躪に任せては、支隊の潰滅は避けられない。敵に戦車があるとわかっていて、上陸用舟艇の都合で、速射砲を第一梯団編組の中に加えなかったことで、とどめを刺されたようなものであった。
自信満々としていた一木支隊長は、急転直下、絶望状態に陥った。午後三時ごろには、もはや戦闘続行の手段もなくなった。
一木支隊長の最期を、生存者は誰も見ていない。軍旗の行方もわからない。
彼の予定通りに戦闘が展開したのならば、おそくも夕刻までには飛行場を奪回し、ルンガ岬方向へ戦果を拡大し、「ツラギもうちの部隊で取ってよいか」と旺盛な功名心を示したそのツラギを海峡の彼方に望見しているはずであった。
支隊は、戦死七七七名、戦傷約三〇名、生存者は死闘から離脱し得た者、上陸地点に監視として残置された者、合せて一二八名であった。
米公刊戦史によると、二十一日午後の戦況は次のようである。
十二時三十分までに二個中隊が二〇〇〇ヤード前進し、右翼の一個中隊が日本軍の後方に到着した。午後二時、包囲網が完成したところで攻撃を開始した。日本兵のある者は海中に逃れ、奥地へ遁走しようとした者は迂回した中隊に阻まれ、東方へ走った者は戦闘機によって掃射された。
日没前に戦闘を終らせるために、歩兵に支援された軽戦車一個小隊が砂洲を渡り、三七ミリ砲を射ちまくった。戦闘は五時ごろに終った。一木大佐は自害した。日本軍の戦死者は約八〇〇名にのぼり、生存者は僅かに一三〇名に過ぎなかった。米軍は海兵隊三五名の戦死、一七五名の負傷者を出したにとどまった。(ジョン・ミラー前掲書)
こうして日本陸軍は救い難い誤りを犯して惨敗した。敵の戦意と戦力をみくびり、味方の陸海空戦力の連繋を怠り、独善に陥っていることに気づかない誤りをである。
先の米公刊戦史は次のように書いている。
一木支隊が飛行場に脅威を与えたことは一度もなかった。驚くばかりの少数兵力で海兵隊を攻撃したことは、情報機関の欠陥か、然らずんば敵側の過大な自信を示したものである。もし一木大佐が八月二十日までに彼が向っている米軍兵数に気づいていたとするならば、彼は海兵隊の武勇に対して全く軽蔑してかかったものにちがいない、と。
正常な神経と合理性の持主なら、誰がみても、同じことが言えるであろう。
一木支隊第一梯団の敗北は、たかだか九〇〇名の小部隊の敗北でしかなかったが、広大な海洋の彼方の彼我の接点としての地理的条件、日本陸海軍の緊密でない協力関係、彼我の作戦の巧拙などの諸点からみて、重大な意味を含んでいたし、その後の全戦局に深刻な影響を与える一連の戦闘の運命を、このとき既に示していたのである。
月の明るい夜であったが、何の抵抗も受けることもなく、午後十一時ごろに上陸集結を完了した。
既述の通り、この上陸作戦には上陸用舟艇の準備が間に合わず、一木支隊手持ちの折畳舟を内火艇で曳くことによって上陸しなければならなかったので、支隊編成に速射砲中隊を入れることが出来ず、大隊砲小隊として歩兵砲が僅かに二門あるだけであった。したがって、敵の戦車が出現すれば、支隊は無力にひとしい。
一木大佐は、しかし、火砲の乏しいことなど意に介さなかった。彼が信頼するものは銃剣突撃である。逡巡することなく勇猛果敢に白兵戦を挑めば、米兵は狼狽して逃げまどうであろう。飛行場は既に掌中にあるかのようであった。
一木支隊長は、支隊の到着を待ち望んでいる在ガ島守備隊との連絡に一顧も払わなかった。連絡などは飛行場を奪取してからでいいと考えたのであろう。第二梯団の到着を待たずに、支隊を直ちに海岸に沿って西へ前進させた。四日も到着が遅れる第二梯団を待つのでは、高速輸送の意味がなくなる。先遣部隊だけで敵を蹂躪するのだ。
八月十九日、午前二時ごろ、胸まで没するベランデ川を渡河した。抵抗はなかった。敵はルンガ岬周辺以外には進出していないように思われた。
午前四時半ごろ、海峡の彼方、ツラギとおぼしい方向から遠雷のような砲声が聞えた。十九日の早朝には、一木支隊第一梯団を輸送して来た駆逐艦のうち「陽炎」が、ツラギ沖六〇〇〇メートルの距離から艦砲射撃を行なっているから、支隊が聞いたのはその砲声であったであろう。
部隊は出発地点から西方へ約一五キロ、テテレに達して、ジャングルのなかで大休止をとった。夜が明けかけていたから、行動秘匿のためである。
めざす地点まで直線距離であと約二〇キロ。将兵の意気は旺んであった。
十九日午前八時三十分、支隊長は西へ約一七キロのイル川(日本名中川)付近に情報所設置の目的をもって渋谷大尉以下の情報班を、さらにイル川を越えて飛行場付近(イル川から約四キロ)へ館中尉以下将校斥候四組を出した。
午後二時三十分になって、右の情報所要員と将校斥候群がナリムビュー川コリ岬(テテレから西へ直線距離で約七キロ)付近で約一個中隊の敵と交戦中であることが判った。
支隊長は、午後三時、一個中隊を救援に向わせ、主力は四時にテテレを出発した。約一時間後、情報所要員も将校斥候群も全滅したという悲報が届いた。
斥候群は大胆過ぎたか、油断があったのか、戦闘隊形もとらずに前進していたらしい。あるいは椰子林のつづいた地形で視界が狭かったのかもしれない。突然急襲され、約一時間の戦闘を交えて、全滅した。生き残ったのはジャングルに逃げ込んだ三名だけであったという。
これは、タイボ岬付近にいるらしい日本軍を捜索するために出された海兵隊の一個中隊が、途中で先に日本軍斥候を発見して、機先を制したのである。謂わば斥候部隊同士の遭遇戦であるから、不期遭遇の条件は同じであったはずである。海兵隊斥候は、日本兵の死体から、日本陸軍兵が上陸していることを確認したし、通信連絡用の暗号書を手に入れたという。
斥候群全滅を一木支隊は慎重な作戦を促す警報として受け取らねばならなかった。
一木支隊長が、しかし、警戒色を深めた形跡はほとんど見当らない。
この日、ルンガ地区米軍陣地からさらに西へ、マタニカウ川(ルンガから約八キロ)方向へ、盛んに砲声がつづいた。残存している警備隊と設営隊の抵抗陣を砲撃しているものと思われた。ここまで来ても、一木支隊長は、警備隊や設営隊との合流、あるいは協同作戦をとることに留意している様子も全くなかった。敵陣地を挟んで東西に分れていることであるから、合流は不可能だとしても、通信連絡ぐらいは出来たかもしれないのである。すれば、マタニカウ方向からの|佯動《ようどう》作戦もあり得たかもしれない。
一木支隊長は、しかし、歯牙にもかけなかったようである。
八月二十日午前二時半、支隊はテテレから西へ約八キロのレンゴに達し、大休止した。この地点で、前日午後三時に斥候群の救援に派遣した一個中隊(第一中隊)を本隊に合流させたようである。第一中隊は斥候群を全滅させた敵を追撃したが、捕捉出来なかった。
レンゴからめざす飛行場は直線距離であと一〇キロである。
八月二十日午前十時、支隊長は次のような攻撃命令を下達した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、敵斥候四名ハ第四中隊前方ニ進出 中隊ハ直ニ之ヲ撃退セリ(撃退というのは、射殺でも捕虜としたのでもないから、支隊の状況は敵指揮官に明白となったものと考えるのが順当であった。一木支隊長がその点にどれだけ留意したか、不明である。──引用者)
二、支隊ハ一八〇〇現在地出発夜暗ヲ利用シ 行軍即捜索即戦闘ノ主義ヲ以テ先ツ第十一設営隊付近(飛行場北側──引用者)ヲ攻撃シ 爾後ノ飛行場方向ニ対スル攻撃ヲ準備セントス
三、工兵隊長ハ下士官斥候一組(土人三名通訳一名ヲ附ス)ヲ出発ト同時ニ先遣シ蛇川(テナル川)ノ渡河点ヲ偵察セシムヘシ
[#ここで字下げ終わり]
四、五、略
一木支隊長は、飛行場の手前、イル川(中川)西岸に米軍が主戦闘陣地を構成していることを知らなかった。先に引用した十五日の二十五航戦の偵察報告を一木支隊長は知っていたかどうか。また、前日の斥候群の全滅という事実から、さらに冷静綿密な偵察を実施すれば、敵の陣容はほぼ推定出来たはずなのである。
一木支隊の攻撃は、事前に海軍航空隊や艦隊の協力を取りつけず、単独に「まるで演習でもやるかのように」(淵田・奥宮『機動部隊』)、レンゴから一挙に突入するという、意気旺んだが、単純で、独善的な計画であった。
何よりも、敵に既に知られていることに対する配慮が、全く欠けていた。
二十日は、この日も、ルンガ地区からマタニカウ方向へ米軍の砲声しきりであった。
午後六時、支隊はレンゴを出発した。行軍即捜索即戦闘である。
午後八時ごろ、出発地点から約七キロのテナル川に達した。先行した下士官斥候から、道案内の土民一名が逃亡しかけたのを射殺すると、イル川の方角から信号弾が上った、という報告があった。銃声と信号弾には関連があったにちがいない。支隊は、しかし、イル川へ向って前進をつづけた。
敵情は皆目わかっていないのである。一木支隊長以下功を急いで慎重を欠いていたことは否めない。
当時、米軍第一海兵師団は、一個大隊を予備にとり、三個野戦砲兵大隊の掩護の下に、四個歩兵大隊を並列してルンガ岬を保持していた。米軍陣地の東翼、つまり、一木支隊がまさに接近しつつある方面は、イル川(中川)の西岸に沿って奥地へと強固な抵抗線を伸していたのである。(ジョン・ミラー前掲書)
午後十時半ごろ、尖兵がイル川東岸に近づいて、はじめて敵と接触した。少数の米兵から射撃を受けたのである。尖兵は後退する米兵に追尾して、東岸に達し、いったん停止した。
支隊長は蔵本大隊長とともに尖兵中隊の位置まで進出して、擲弾筒の集中援護射撃をもって尖兵に対岸への突入を命じたが、敵の火力は突入を許すほど微弱ではなかった。
この部分は、先の米公刊戦史では次のようになっている。
ガダルカナル上陸(米軍)後最初の大きな地上戦闘は、八月二十日夕、イル川東岸の聴音哨が密林に隠れた日本兵に向って行なった射撃からはじまった。聴音哨兵は敵軍が東から襲撃して来たことを報告するため西岸に退き、小銃弾がなお暫くつづいて飛んで来たが、やがておさまった。
二十日夕という表現は漠然としていて、時刻が定かでないが、密林にマイクを仕掛けてあって、日本兵が接近する音を捉えて射撃を浴びせたのである。
東岸での接触は謂わば小手調べの前哨戦であったが、支隊としては、この時点で作戦の立て直しを図るべきであったろう。支援砲火の圧倒的な破壊力なしには、歩兵が如何に勇敢であったとしても、敵の銃火の壁に対して肉弾をもって突入することは無理なのである。
一木支隊長は、しかし、まだ、白兵の威力に対する信念を失わなかった。あるいは困難とわかっても、信念変更を潔しとしなかったか、いずれかであろう。
一木支隊長は渡河地点を探して、河口近くに高さ約一〇フィートの砂洲を発見すると、兵力の一部に現在正面からの攻撃を続行させ、主力が砂洲を横断して西岸の米軍陣地を強襲するように指揮した。(一木支隊長がイル川河口近くに高さ約一〇フィートの砂洲を発見云々と書いたことについて、前掲山本一氏から手紙を頂戴した。それによると「イル河は海に流れ込んではおりません。砂洲はイル川の河口そのもので、干満に応じて出たりかくれたりします。干潮時は普通の砂浜とお考え下さい。この砂洲にさえぎられてイル川下流は沼状にふくれ上っており、現在これをアリゲータークリークと呼んでおります。〈引用者中略〉ほんの数百メートルさかのぼると所謂イル川なる細流です。」〈原文のまま〉海に流れ込まない川というものは常識的に想像困難なので、失礼をかえりみず再度問い合せをしたら、「確信を以てお書き下さい」という返書に接したし、イル川河口付近を空から撮った写真の複写を頂戴した。それを見ると、なるほど、海とイル川下流とは帯状の砂洲で明らかにさえぎられている。大潮の満潮時には砂洲を越えてつながるのかもしれないが、一木支隊長が突撃路として選んだのは、この砂洲だったのである。砂洲といえば、普通、水面に露出している砂地を想像しがちだが、一木支隊第一梯団の突撃路は、海と川を分離している砂地であった。それなら突撃しやすいから、敵方も当然防禦砲火を準備しているはずであった。)
突撃発起は八月二十一日未明であった。
砂洲を横断するとき、西岸の台上から猛烈な銃砲火を浴びせられた。砂洲を越えて敵陣に躍りかかった者もあったが、それらの日本兵は米軍守備兵のいう「地獄岬」の鉄条網によって躍進を阻止され、銃火で薙ぎ倒された。大部分は砂洲の前後で火力に捕捉され、死屍累々となった。
突撃は無謀というほかはなかった。この局面に関する限り、日本軍の戦闘は勇敢ではあったが、拙劣をきわめた。日本兵は絶望的に勇敢であるより仕方がなかった。
支隊長は予備隊として控置してあった機関銃中隊と大隊砲小隊を戦闘に加入させたが、もはや形勢逆転は出来なかった。日本軍は米軍の集中火力に乱打されて、混乱し、毎秒ごとに戦力を減耗した。敵情を知らずに夜襲を企て、幾つかの留意すべき兆候があったにもかかわらず、己れの白兵による衝力を過信して突撃を発起したことが誤りであった。
前掲の米公刊戦史はこれまでの戦闘経過を次のように誌している。
イル川正面は八月二十一日午前三時十分ごろまでは静かだったが、一木支隊の歩兵約二〇〇名が第一海兵隊第二大隊の占拠している陣地を蹂躪しようとして、銃剣突撃でイル河口の砂洲の突破を試みた。
防禦大隊は四五ヤード幅の砂洲を守るために、機銃と小銃で護衛した三七ミリ砲を備え、日本軍が近づいたときにこれらの銃砲全部で猛射を浴びせた。一木支隊の僅かの兵が砂洲を越えて、有刺鉄線を張ってなかった第二大隊陣地を突破したが、大部分は防禦砲火で斃された。突破した少数の兵も他の陣地からの射撃のために態勢の立て直しも戦果の拡張も出来なかった。そのとき第二大隊の一個中隊が逆襲に出て、一木支隊の残存兵力を川向うに追い返した。
第十一海兵隊の第三大隊は、午前四時三分、先に一木支隊が攻撃を開始した海岸の狭い三角地に曲射砲を据え、五時十五分、七時二十二分、七時四十二分、八時五十一分に反復集中射撃を加えた。一木支隊は最初の突撃に失敗すると、砂洲の端の海兵隊陣地に大砲(大隊砲であろう)臼砲(擲弾筒の誤りであろう)機関銃射撃を集中したので、海兵隊はあらゆる火器を用いて西岸陣地から砂洲と海浜の日本兵に射撃を浴びせかけ、朝までに流れの穏やかな河口は日本兵の死体で埋った。
第一海兵隊の第一大隊は師団予備隊から出てイル川上流を渡り日本軍の左翼及び後方を攻撃する命を受けて、縦隊で川を渡り、重火器一個小隊を日本軍の退路を遮断する位置に配置した。(ジョン・ミラー前掲書)
つまり、一木支隊の突撃が挫折すると、支隊の左側背から米軍の組織的な反撃がはじまったのである。
前述の通り、一木支隊長は、当然にまた十七軍司令部の責任に属することでもあるのだが、攻撃に際して、海軍航空部隊と艦艇による戦闘協力を取りつけていなかった。自信過剰のなせる業か、準備時間不足のなせる業か、おそらくいずれでもあるであろうが、虚しく拙戦して戦況の好転を望める道理がなかったのである。
午後一時ごろ、米軍戦車四輛が支隊の背後から強圧を加え、椰子林を通って河口の砂洲へ驀進した。砂洲を横断した戦車群は、支隊の残存兵力が遮蔽している椰子と|棕櫚《しゆろ》の林に突入して、蹂躪した。自在に旋回し、黄色い火焔を放射し、椰子の木を踏み倒し、日本兵を追い立て、急追して銃火を浴びせかけた。
支隊の残存兵力は統制を失い、手榴弾をもって各個に戦車と戦うほかはなかった。はじめに集中的な銃砲火で大打撃を蒙り、終末段階で対戦車火器もないままに戦車の蹂躪に任せては、支隊の潰滅は避けられない。敵に戦車があるとわかっていて、上陸用舟艇の都合で、速射砲を第一梯団編組の中に加えなかったことで、とどめを刺されたようなものであった。
自信満々としていた一木支隊長は、急転直下、絶望状態に陥った。午後三時ごろには、もはや戦闘続行の手段もなくなった。
一木支隊長の最期を、生存者は誰も見ていない。軍旗の行方もわからない。
彼の予定通りに戦闘が展開したのならば、おそくも夕刻までには飛行場を奪回し、ルンガ岬方向へ戦果を拡大し、「ツラギもうちの部隊で取ってよいか」と旺盛な功名心を示したそのツラギを海峡の彼方に望見しているはずであった。
支隊は、戦死七七七名、戦傷約三〇名、生存者は死闘から離脱し得た者、上陸地点に監視として残置された者、合せて一二八名であった。
米公刊戦史によると、二十一日午後の戦況は次のようである。
十二時三十分までに二個中隊が二〇〇〇ヤード前進し、右翼の一個中隊が日本軍の後方に到着した。午後二時、包囲網が完成したところで攻撃を開始した。日本兵のある者は海中に逃れ、奥地へ遁走しようとした者は迂回した中隊に阻まれ、東方へ走った者は戦闘機によって掃射された。
日没前に戦闘を終らせるために、歩兵に支援された軽戦車一個小隊が砂洲を渡り、三七ミリ砲を射ちまくった。戦闘は五時ごろに終った。一木大佐は自害した。日本軍の戦死者は約八〇〇名にのぼり、生存者は僅かに一三〇名に過ぎなかった。米軍は海兵隊三五名の戦死、一七五名の負傷者を出したにとどまった。(ジョン・ミラー前掲書)
こうして日本陸軍は救い難い誤りを犯して惨敗した。敵の戦意と戦力をみくびり、味方の陸海空戦力の連繋を怠り、独善に陥っていることに気づかない誤りをである。
先の米公刊戦史は次のように書いている。
一木支隊が飛行場に脅威を与えたことは一度もなかった。驚くばかりの少数兵力で海兵隊を攻撃したことは、情報機関の欠陥か、然らずんば敵側の過大な自信を示したものである。もし一木大佐が八月二十日までに彼が向っている米軍兵数に気づいていたとするならば、彼は海兵隊の武勇に対して全く軽蔑してかかったものにちがいない、と。
正常な神経と合理性の持主なら、誰がみても、同じことが言えるであろう。
一木支隊第一梯団の敗北は、たかだか九〇〇名の小部隊の敗北でしかなかったが、広大な海洋の彼方の彼我の接点としての地理的条件、日本陸海軍の緊密でない協力関係、彼我の作戦の巧拙などの諸点からみて、重大な意味を含んでいたし、その後の全戦局に深刻な影響を与える一連の戦闘の運命を、このとき既に示していたのである。
惨烈な戦闘の翌日、砂洲と『地獄岬』に散乱した日本兵の死体は、早くも強烈な腐臭を放った。汀に倒れている死体は、勝ち誇った米兵の眼には「つやつやしたソーセージの様に膨張し、ぬるぬる光って」見えた。(R・トレガスキス『ガダルカナル日記』)
だが、ラバウルに在る第十七軍司令部が一木支隊第一梯団の全滅を確認したのは、戦闘から四日後の八月二十五日のことであった。それまでは第十七軍も大本営も希望的観測にしがみついていた。
希望的観測が砕かれるまでの経過の概略を辿ってみる。
一木支隊第一梯団の無血上陸成功の報を、第十七軍司令部は、八月十九日(上陸の翌日)、海軍から受けていた。同じ日、ニューギニアヘ向った南海支隊もブナ上陸に成功していた。
翌二十日、午後二時、ガダルカナル守備隊長は、
「一四一五敵艦上機ラシキモノ一五機現ハル敵空母附近ニ在リト推定ス」
つづいて、二時二十分、
「敵艦上機二〇機内戦闘機五機一四二五飛行場に着陸セルモノノ如シ」
と報じてきた。
前電が発信が一四〇〇で、飛行機を認めたのが一四一五になっているのも、後電の時間の逆のずれもおかしいが、訂正する方法もないのでそのままとした。
米機動部隊がガ島海域を去ったのが八日午後のことであり、二十日には新たな目的をもってガ島海域に再び現われたのである。
二十一日、ガ島守備隊長は情況を続々と報告した。
「敵機離陸並ニ飛行スルモノヲ認メス。先遣隊ノ飛行場攻撃ハ我軍ニ有利ニ進展中ト推定ス」〇六三〇
「一木支隊及同先遣部隊ニ伝ヘラレタシ。味方工員多数飛行場周辺ノ密林中ニ統制ナク避退シアリ御了承ヲ乞フ」〇六三〇
「〇七〇〇敵戦闘機四機飛行場ヨリ離陸上空哨戒ヲ為シツヽアリ」〇七二〇
「〇八〇〇敵戦闘機四機飛行場ニ着陸」〇八一〇
「二一日〇二〇〇ヨリ引続キ飛行場附近ニ盛ニ銃声ヲ聞ク。敵小型陸上機四機離陸旋回シアリ」〇九〇〇
「〇四〇〇離陸セル敵戦闘機五機ハ〇五〇〇乃至〇五三〇ノ間ニ着陸。其ノ後離陸セス。統砲声ハ引続飛行場附近ニアリ」〇九三五
「今朝来活動セル敵戦闘機一二機中六機ハ一〇〇〇飛行場ニ着陸、六機上空哨戒中」一〇二〇(山田日記)
守備隊長には上空の敵飛行機は見えたが、同じ島にいても、密林に蔽われ、中央を敵に遮断された状態では、友軍の運命はわからなかった。したがって、来援を待つ身としては希望的判断を下したくもなるであろう。
関係各司令部にとって信じられないような悲電は、二十一日の夜になって届いた。
右に列記した電文はガ島守備隊長発だが、左の電文はガダルカナル基地発となっている。
「一木先遣隊ハ今朝飛行場ニ到達セサル位置ニテ殆ント全滅ニ瀕ス 東見張所ヨリ通知アリタリ 『ぼすとん』丸ニ伝ヘラレタシ」一七四五
『ぼすとん』丸には一木支隊第二梯団が乗っていて、『大福』丸とともにガダルカナルヘ航行中である。誰か、戦線から派遣されたか離脱した者が、タイボ岬見張所に依頼して、『ぼすとん』丸の第二梯団に報告しようとしたものと考えられはしたが、受信した第八艦隊でも十一航艦でも、発信者が単にガダルカナル基地となっているだけなので、この電報に信憑性を認めなかった。内実は、誤報であってほしいと|希《ねが》っていたのであろう。
十一航艦は、二十二日、右電文に関して連合艦隊に次のように報告した。
「二十一日『ガダルカナル』ヨリ一木支隊先遣隊ハ飛行場突入前全滅ニ瀕セリトノ電アリ 再調査要求中ナルモ 右情報ハ出所(発令者)ニ多大ノ疑問アリ」〇八五二
同じく二十二日、十一航艦参謀長からの電報は次の通りである。
「一木支隊先遣隊ハ二一日〇二〇〇東方ヨリ東飛行場(ルンガ河ノ東)ニ迫ルモノノ如キモ其後ノ情況未詳」一二四八(以上『山田日記』)
しかし、連合艦隊宇垣参謀長は日記にこう誌している。
「一木支隊先遣隊の消息不明より全滅の電多少の疑義あるも真なりと認めらる」
第十七軍司令部は、二十三日、一木支隊が大損害を受けた、という米本国の放送を聞いたが、敵の放送は誇大又は虚偽であろう、と判断した。(戦史室前掲書『陸軍作戦』)
それでも不安ではあったとみえて、同じ二十三日、十七軍では先に軍予備に取ることにしていた川口支隊の一個大隊をラバウルに招致することを取り止めにし、川口支隊全力の三個大隊をガダルカナルに投入することに決定、一木支隊第一梯団に対する弾薬糧秣の空輸補給を海軍に要請した。
第一梯団上陸の十八日から算えて二十三日は六日目に当る。弾薬は一名一五〇発、糧食は七日分しか持って行かなかったから、第一梯団がもし生きていれば、糧食も弾薬も切れるころである。殊に弾薬は戦況如何では一日か二日でも足りなかったかもしれない。
十一航艦では、二十三日、陸攻二四機に直掩零戦一三機を配してラバウルを発進させ、補給物資の投下を行なおうとしたが、ガダルカナル周辺は雲が低く垂れこめていて、なんらなすところなく引き返した。
二十四日午前六時、ガダルカナル守備隊長は次のような電報を送った。
「昨夕敵ニ異状アリシカ如シ。敵戦闘機二二機一五三〇一旦着陸セル処、当時飛行場附近盛ニ銃声アリ、敵戦闘機ハ一六二〇頃一斉ニ離陸シ航空灯ヲ点シ右往左往ス。海岸附近ニモ銃声アリ」 (山田日記)
この電文の背景にある事実経過は判然しない。希望的に読めば、米軍があわてふためいているようである。第十七軍司令部では、一木支隊第一梯団が態勢を立て直して、飛行場に対する|擾乱《じようらん》を行なっているものと希望的に解釈し、そのように大本営に報告した。
だが、翌八月二十五日、先の二十一日夜の「……一木支隊全滅ニ瀕ス」という電報は、一木支隊先遣隊の通信掛将校榊原中尉が発信を依頼したものであることが判明し、一木支隊第一梯団の攻撃が惨敗に終ったことが確認された。
同日、十一航艦参謀長は、榊原中尉の報告に基づいて、左の電文を関係方面に発している。
「一木支隊先遣隊トノ連絡本日初メテ成リ、同隊榊原|少《ママ》尉ヨリ第一七軍司令官へ左ノ報告セリ
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、一木支隊ハ損害相当大ナルモ尚タイボ岬附近ヲ確保シアリ
二、弾薬糧秣ハ後続部隊予定上陸日迄考慮ヲ要セス
三、後続部隊ヲ速カニタイボ岬附近ニ上陸セシメラレタシ。タイボ岬ハ上陸点トシテ最適ナリ。上陸日時通知アラバ同時刻海岸ニテ信号ス」一六四〇
[#ここで字下げ終わり]
右電の第二項と、左に引用する同じ十一航艦(参謀)から一八二〇に出された電報の第二項とは、撞着して実情認識の混乱を示している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、ガダルカナル基地ニ敵大型機等航空兵力増強前ニ尠クトモ|陸軍砲力ヲ以テ飛行場ノ使用ヲ阻止スルヲ要ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
二、ガダルカナル所在陸軍部隊ハ弾薬糧食欠乏シ時日遷延ヲ極メテ苦痛トシアリ
三以下略(山田日記。傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分は、米軍機がガダルカナル飛行場を使用しはじめて(八月二十日)から、最後までつきまとった問題であった。
とにかく、一木支隊第一梯団の惨敗は、もはや希望的判断によっては救えない事実であることが判明したのである。
だが、ラバウルに在る第十七軍司令部が一木支隊第一梯団の全滅を確認したのは、戦闘から四日後の八月二十五日のことであった。それまでは第十七軍も大本営も希望的観測にしがみついていた。
希望的観測が砕かれるまでの経過の概略を辿ってみる。
一木支隊第一梯団の無血上陸成功の報を、第十七軍司令部は、八月十九日(上陸の翌日)、海軍から受けていた。同じ日、ニューギニアヘ向った南海支隊もブナ上陸に成功していた。
翌二十日、午後二時、ガダルカナル守備隊長は、
「一四一五敵艦上機ラシキモノ一五機現ハル敵空母附近ニ在リト推定ス」
つづいて、二時二十分、
「敵艦上機二〇機内戦闘機五機一四二五飛行場に着陸セルモノノ如シ」
と報じてきた。
前電が発信が一四〇〇で、飛行機を認めたのが一四一五になっているのも、後電の時間の逆のずれもおかしいが、訂正する方法もないのでそのままとした。
米機動部隊がガ島海域を去ったのが八日午後のことであり、二十日には新たな目的をもってガ島海域に再び現われたのである。
二十一日、ガ島守備隊長は情況を続々と報告した。
「敵機離陸並ニ飛行スルモノヲ認メス。先遣隊ノ飛行場攻撃ハ我軍ニ有利ニ進展中ト推定ス」〇六三〇
「一木支隊及同先遣部隊ニ伝ヘラレタシ。味方工員多数飛行場周辺ノ密林中ニ統制ナク避退シアリ御了承ヲ乞フ」〇六三〇
「〇七〇〇敵戦闘機四機飛行場ヨリ離陸上空哨戒ヲ為シツヽアリ」〇七二〇
「〇八〇〇敵戦闘機四機飛行場ニ着陸」〇八一〇
「二一日〇二〇〇ヨリ引続キ飛行場附近ニ盛ニ銃声ヲ聞ク。敵小型陸上機四機離陸旋回シアリ」〇九〇〇
「〇四〇〇離陸セル敵戦闘機五機ハ〇五〇〇乃至〇五三〇ノ間ニ着陸。其ノ後離陸セス。統砲声ハ引続飛行場附近ニアリ」〇九三五
「今朝来活動セル敵戦闘機一二機中六機ハ一〇〇〇飛行場ニ着陸、六機上空哨戒中」一〇二〇(山田日記)
守備隊長には上空の敵飛行機は見えたが、同じ島にいても、密林に蔽われ、中央を敵に遮断された状態では、友軍の運命はわからなかった。したがって、来援を待つ身としては希望的判断を下したくもなるであろう。
関係各司令部にとって信じられないような悲電は、二十一日の夜になって届いた。
右に列記した電文はガ島守備隊長発だが、左の電文はガダルカナル基地発となっている。
「一木先遣隊ハ今朝飛行場ニ到達セサル位置ニテ殆ント全滅ニ瀕ス 東見張所ヨリ通知アリタリ 『ぼすとん』丸ニ伝ヘラレタシ」一七四五
『ぼすとん』丸には一木支隊第二梯団が乗っていて、『大福』丸とともにガダルカナルヘ航行中である。誰か、戦線から派遣されたか離脱した者が、タイボ岬見張所に依頼して、『ぼすとん』丸の第二梯団に報告しようとしたものと考えられはしたが、受信した第八艦隊でも十一航艦でも、発信者が単にガダルカナル基地となっているだけなので、この電報に信憑性を認めなかった。内実は、誤報であってほしいと|希《ねが》っていたのであろう。
十一航艦は、二十二日、右電文に関して連合艦隊に次のように報告した。
「二十一日『ガダルカナル』ヨリ一木支隊先遣隊ハ飛行場突入前全滅ニ瀕セリトノ電アリ 再調査要求中ナルモ 右情報ハ出所(発令者)ニ多大ノ疑問アリ」〇八五二
同じく二十二日、十一航艦参謀長からの電報は次の通りである。
「一木支隊先遣隊ハ二一日〇二〇〇東方ヨリ東飛行場(ルンガ河ノ東)ニ迫ルモノノ如キモ其後ノ情況未詳」一二四八(以上『山田日記』)
しかし、連合艦隊宇垣参謀長は日記にこう誌している。
「一木支隊先遣隊の消息不明より全滅の電多少の疑義あるも真なりと認めらる」
第十七軍司令部は、二十三日、一木支隊が大損害を受けた、という米本国の放送を聞いたが、敵の放送は誇大又は虚偽であろう、と判断した。(戦史室前掲書『陸軍作戦』)
それでも不安ではあったとみえて、同じ二十三日、十七軍では先に軍予備に取ることにしていた川口支隊の一個大隊をラバウルに招致することを取り止めにし、川口支隊全力の三個大隊をガダルカナルに投入することに決定、一木支隊第一梯団に対する弾薬糧秣の空輸補給を海軍に要請した。
第一梯団上陸の十八日から算えて二十三日は六日目に当る。弾薬は一名一五〇発、糧食は七日分しか持って行かなかったから、第一梯団がもし生きていれば、糧食も弾薬も切れるころである。殊に弾薬は戦況如何では一日か二日でも足りなかったかもしれない。
十一航艦では、二十三日、陸攻二四機に直掩零戦一三機を配してラバウルを発進させ、補給物資の投下を行なおうとしたが、ガダルカナル周辺は雲が低く垂れこめていて、なんらなすところなく引き返した。
二十四日午前六時、ガダルカナル守備隊長は次のような電報を送った。
「昨夕敵ニ異状アリシカ如シ。敵戦闘機二二機一五三〇一旦着陸セル処、当時飛行場附近盛ニ銃声アリ、敵戦闘機ハ一六二〇頃一斉ニ離陸シ航空灯ヲ点シ右往左往ス。海岸附近ニモ銃声アリ」 (山田日記)
この電文の背景にある事実経過は判然しない。希望的に読めば、米軍があわてふためいているようである。第十七軍司令部では、一木支隊第一梯団が態勢を立て直して、飛行場に対する|擾乱《じようらん》を行なっているものと希望的に解釈し、そのように大本営に報告した。
だが、翌八月二十五日、先の二十一日夜の「……一木支隊全滅ニ瀕ス」という電報は、一木支隊先遣隊の通信掛将校榊原中尉が発信を依頼したものであることが判明し、一木支隊第一梯団の攻撃が惨敗に終ったことが確認された。
同日、十一航艦参謀長は、榊原中尉の報告に基づいて、左の電文を関係方面に発している。
「一木支隊先遣隊トノ連絡本日初メテ成リ、同隊榊原|少《ママ》尉ヨリ第一七軍司令官へ左ノ報告セリ
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、一木支隊ハ損害相当大ナルモ尚タイボ岬附近ヲ確保シアリ
二、弾薬糧秣ハ後続部隊予定上陸日迄考慮ヲ要セス
三、後続部隊ヲ速カニタイボ岬附近ニ上陸セシメラレタシ。タイボ岬ハ上陸点トシテ最適ナリ。上陸日時通知アラバ同時刻海岸ニテ信号ス」一六四〇
[#ここで字下げ終わり]
右電の第二項と、左に引用する同じ十一航艦(参謀)から一八二〇に出された電報の第二項とは、撞着して実情認識の混乱を示している。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、ガダルカナル基地ニ敵大型機等航空兵力増強前ニ尠クトモ|陸軍砲力ヲ以テ飛行場ノ使用ヲ阻止スルヲ要ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
二、ガダルカナル所在陸軍部隊ハ弾薬糧食欠乏シ時日遷延ヲ極メテ苦痛トシアリ
三以下略(山田日記。傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
傍点部分は、米軍機がガダルカナル飛行場を使用しはじめて(八月二十日)から、最後までつきまとった問題であった。
とにかく、一木支隊第一梯団の惨敗は、もはや希望的判断によっては救えない事実であることが判明したのである。