一木支隊第一梯団と同時に、だが第一梯団とはちがって低速船団に乗ってトラックを出発した第二梯団と横須賀第五特別陸戦隊は、第一梯団がめざすルンガ飛行場へ直線距離であと約一〇キロのレンゴに達して、支隊長が自信満々とした攻撃命令を下達したころ、まだ遠い洋上、チョイセル島北方約三〇〇浬のあたりを南下していた。ガダルカナル上陸は八月二十二日夜の予定であった。
第二梯団の輸送が予定通りに運んだとしても、第一梯団の破局には間に合わなかったのである。したがって、第二梯団は第一梯団のようなあっけない潰滅は免れたが、その後幾変転して結局は飢餓と死に陥ち込んでゆく運命を避けることはできなかった。
八月二十日午前九時四十分ごろ、索敵機がショートランド南東約五二〇浬に米軍機動部隊を発見した。これは、米軍が日本軍のガダルカナル増援部隊を発見してこれに攻撃を加えるためか、ガダルカナルを直接に攻撃するため(一木第一梯団はまだ敵と交戦していない時期)と判断された。いずれにしても、低速船団は危険に近づいているわけである。船団は十一航艦からの命令によって、変針、反転した。
これが、その後の全作戦期間を通じて困難をきわめた海上輸送の前途を予告する最初の兆候であった。
同二十日午後二時二十分、先に引用したガダルカナル守備隊長から十一航艦宛ての報告が入った。「敵艦上機二〇機、内戦闘機五機一四二五飛行場ニ着陸セルモノノ如シ」(時間の逆ずれは前述の通り)。この報告が意味するところは重大であった。先の索敵報告で近海に敵機動部隊が行動していることが判明したばかりでなく、ガダルカナルに日本海軍設営隊が建設した飛行場に敵の航空兵力が進出して、これを基地として航空作戦を展開することが現実の問題となったのである。
第二梯団の上陸は八月二十四日夜に延期された。そのころまでには連合艦隊の機動部隊がソロモン海域に進出して来るはずであったから、その掩護の下に上陸作戦を実施しようというのである。
この時点で、ガダルカナル争奪をめぐる決戦の構想を、日本陸海軍が間に合せの拙速主義でなく、また自信過剰で短兵急な肉弾主義でもなく、正攻法として慎重かつ雄渾に描き得ていたら、あるいは、それとは正反対に、彼我の国力、戦力諸元を冷静に比較して、維持能力を超えた地域に推進された戦略拠点での作戦を、一木支隊第一梯団の悲劇を限度として果断に打ち切っていたら、その後の戦局の展開は全然異った様相を呈したであろうと想像される。
事実は、国力の綿密な比較に依拠しようとする冷静な努力など、開戦前にさえ効力を持ち得なかったのが、緒戦の瞬間的な成功で|増上慢《ぞうじようまん》に陥っては、ミッドウェーの痛烈な実物教育を経過してからでさえ、正当に評価されなかった。
それどころか、敵を侮ることによって自らの|矮小《わいしよう》を糊塗し、矮小の規模において敵を測定し、確実に敵を圧倒するだけの陸海空綜合戦力の組織化と集中を怠り、謂わば鶏を割くに牛刀を用いる作戦が初動においてこそ必要であることを、遂に認識しようとしなかったのである。
日本軍の作戦遂行の特徴的な欠陥が、この時期に端的に表われていたといえる。兵力の集中と補給の確保なしに、同時に複数の作戦正面を構えることに疑いを持たないということである。
既に触れたことだが、この場合では、ポートモレスビー(ニューギニア南東岸)攻略作戦、ラビ(ニューギニア東端)攻略作戦、ガダルカナル奪回作戦の三つである。
ポートモレスビーは米豪遮断の要の一つとして早くから考えられ、ラビはその助攻手段として前者と並行的に日程にのぼったが、ガダルカナル失陥を機として、この三者からする米豪連合軍の攻勢の焦点に、日本軍の前進根拠地として最尖端にあるラバウルが置かれるという不安が増大したのは事実である。それだからといって、この三者に対する作戦を同時並行的に遂行するのに必要にして十分な用兵計画、それを保障するに足る空軍力、輸送力、補給力の万全の備えもなくて作戦を開始するのは、軽率無謀の誹りを免れないであろう。
その酬いはたちどころにふりかかって来た。その犠牲とならねばならなかったのは、数万の前線将兵であった。それでなくてさえ薄弱な国力は、僅か半年の間に急激に消耗してしまうことになるのである。
一木支隊第二梯団のガダルカナル上陸は延期に延期を重ねた。それを跡づけることは煩雑だが、それに関連して第二次ソロモン海戦(東部ソロモンの戦)が起きているし、その後ガダルカナルヘの日本軍兵力投入のたびごとにつきまとった輸送の困難は、八月二十日以降数日間の出来事の延長・反復・悪化といってよいので、概略を辿ってみよう。
第二梯団の輸送が予定通りに運んだとしても、第一梯団の破局には間に合わなかったのである。したがって、第二梯団は第一梯団のようなあっけない潰滅は免れたが、その後幾変転して結局は飢餓と死に陥ち込んでゆく運命を避けることはできなかった。
八月二十日午前九時四十分ごろ、索敵機がショートランド南東約五二〇浬に米軍機動部隊を発見した。これは、米軍が日本軍のガダルカナル増援部隊を発見してこれに攻撃を加えるためか、ガダルカナルを直接に攻撃するため(一木第一梯団はまだ敵と交戦していない時期)と判断された。いずれにしても、低速船団は危険に近づいているわけである。船団は十一航艦からの命令によって、変針、反転した。
これが、その後の全作戦期間を通じて困難をきわめた海上輸送の前途を予告する最初の兆候であった。
同二十日午後二時二十分、先に引用したガダルカナル守備隊長から十一航艦宛ての報告が入った。「敵艦上機二〇機、内戦闘機五機一四二五飛行場ニ着陸セルモノノ如シ」(時間の逆ずれは前述の通り)。この報告が意味するところは重大であった。先の索敵報告で近海に敵機動部隊が行動していることが判明したばかりでなく、ガダルカナルに日本海軍設営隊が建設した飛行場に敵の航空兵力が進出して、これを基地として航空作戦を展開することが現実の問題となったのである。
第二梯団の上陸は八月二十四日夜に延期された。そのころまでには連合艦隊の機動部隊がソロモン海域に進出して来るはずであったから、その掩護の下に上陸作戦を実施しようというのである。
この時点で、ガダルカナル争奪をめぐる決戦の構想を、日本陸海軍が間に合せの拙速主義でなく、また自信過剰で短兵急な肉弾主義でもなく、正攻法として慎重かつ雄渾に描き得ていたら、あるいは、それとは正反対に、彼我の国力、戦力諸元を冷静に比較して、維持能力を超えた地域に推進された戦略拠点での作戦を、一木支隊第一梯団の悲劇を限度として果断に打ち切っていたら、その後の戦局の展開は全然異った様相を呈したであろうと想像される。
事実は、国力の綿密な比較に依拠しようとする冷静な努力など、開戦前にさえ効力を持ち得なかったのが、緒戦の瞬間的な成功で|増上慢《ぞうじようまん》に陥っては、ミッドウェーの痛烈な実物教育を経過してからでさえ、正当に評価されなかった。
それどころか、敵を侮ることによって自らの|矮小《わいしよう》を糊塗し、矮小の規模において敵を測定し、確実に敵を圧倒するだけの陸海空綜合戦力の組織化と集中を怠り、謂わば鶏を割くに牛刀を用いる作戦が初動においてこそ必要であることを、遂に認識しようとしなかったのである。
日本軍の作戦遂行の特徴的な欠陥が、この時期に端的に表われていたといえる。兵力の集中と補給の確保なしに、同時に複数の作戦正面を構えることに疑いを持たないということである。
既に触れたことだが、この場合では、ポートモレスビー(ニューギニア南東岸)攻略作戦、ラビ(ニューギニア東端)攻略作戦、ガダルカナル奪回作戦の三つである。
ポートモレスビーは米豪遮断の要の一つとして早くから考えられ、ラビはその助攻手段として前者と並行的に日程にのぼったが、ガダルカナル失陥を機として、この三者からする米豪連合軍の攻勢の焦点に、日本軍の前進根拠地として最尖端にあるラバウルが置かれるという不安が増大したのは事実である。それだからといって、この三者に対する作戦を同時並行的に遂行するのに必要にして十分な用兵計画、それを保障するに足る空軍力、輸送力、補給力の万全の備えもなくて作戦を開始するのは、軽率無謀の誹りを免れないであろう。
その酬いはたちどころにふりかかって来た。その犠牲とならねばならなかったのは、数万の前線将兵であった。それでなくてさえ薄弱な国力は、僅か半年の間に急激に消耗してしまうことになるのである。
一木支隊第二梯団のガダルカナル上陸は延期に延期を重ねた。それを跡づけることは煩雑だが、それに関連して第二次ソロモン海戦(東部ソロモンの戦)が起きているし、その後ガダルカナルヘの日本軍兵力投入のたびごとにつきまとった輸送の困難は、八月二十日以降数日間の出来事の延長・反復・悪化といってよいので、概略を辿ってみよう。
敵機動部隊を避けて反転北上していた一木支隊第二梯団の輸送船団は、八月二十四日夜の上陸のために、二十一日、再び変針、南下を開始した。
一木支隊第一梯団の戦闘状況が不明であったので、第二梯団といっしょに陸戦隊(横五特)を送り込もうとしている海軍関係各部隊では、低速船団から快速艦艇へ洋上で移乗させてでも、第二次揚陸を急がせたいところであった。その処置について十一航艦が十七軍と協議すると、十七軍は次の理由で同意しなかった。
一つは、第二梯団は速射砲隊が主力であるから、洋上での移乗は困難である。
二つは、一木支隊第一梯団は精兵であるから、飛行場占領に不安はない。
しかし、この協議が行なわれたころには、一木支隊第一梯団は支隊長以下全滅していたのである。
八月二十二日、船団がガダルカナルからの航空攻撃圏へ近づくのに合せて、二十五航戦はガダルカナルを空襲する手筈になっていたが、この日は天候不良で出来なかった。
船団護衛の第二水雷戦隊司令官田中頼三少将は、船団が敵機の攻撃にさらされることを予想して、船団上空に直衛戦闘機の部署を要請したが、要請を受けた十一航艦では直衛機を飛ばす余裕がなかった。米軍のガダルカナル上陸後数日の間の空戦での消耗が意外に激しかったのと、一木支隊第一梯団ガダルカナル上陸とほとんど同時に行なわれたニューギニアヘの南海支隊上陸のために、連日のように飛行機はニューギニアに使われていたのである。この日は、零戦二号の全力をもってラビ攻撃が行なわれていた。
もともと豊富ではない飛行機の使用計画は早くも変調を来したのである。一つにはこの時点ではまだニューギニア作戦の方に重点が置かれていたせいでもあるが、ミッドウェー敗戦の後遺症が歴然としてきた。多数の飛行機と練達した搭乗員を一日にして失った海軍航空隊は、この局面で、船団直衛を行なうべきか、敵航空基地を攻撃すべきか、限られことは出来なかった。同様にまた、奪回作戦成就のために船団輸送を|完《まつと》うすべきか、船団を狙って近海を行動中の敵機動部隊の撃滅を主目的にすべきか、これも双方の必要を同時に満たすことは出来なかった。
十一航艦は南雲部隊(第三艦隊)にガダルカナル飛行場への空襲を要請した。
第三艦隊(機動部隊)の方では、しかし、敵の機動部隊の出現を懸念していた。その裏にはミッドウェーのにがい経験がこびりついていたのである。
二カ月前のミッドウェー作戦で、南雲部隊は、敵機動部隊の所在を発見出来ないままに、基地攻撃に第一次攻撃隊を発進させ、第二次攻撃隊を敵機動部隊出現に備えて艦船攻撃兵装で待機させていた。そこへ、第一次攻撃隊から第二次攻撃必要の打電があったのと、敵機動部隊をまだ発見出来なかったのとが重なって、南雲部隊は重大な失策を犯した。第二次攻撃隊の艦船攻撃兵装を地上攻撃用に転換したのである。その途中で、索敵機から敵機動部隊の発見を報じて来た。
索敵機は往航で敵の上空を飛びながら発見出来ず、復航のときに発見したのである。それだけ時間のおくれがあった。二段索敵を行なっていれば、発見はもっと早かったはずであった。母艦群ではあわててまた艦船攻撃兵装への再転換がはじまった。雷撃に切り換えずに陸用爆弾のままでも発進させればよかったものを、敵を軽く見ていたともいえようし、戦の型にとらわれていたともいえよう。折りあしく第一次攻撃隊が帰って来た。その収容と兵装転換で各空母は繁忙をきわめた。ようやく出撃準備がととのって、これから発艦という瞬間に、敵機動部隊から飛来した急降下爆撃機群の攻撃を受けて、あえなく|潰《つい》えてしまったのである。瞬時にして戦力はゼロになった。惨敗であった。その悪夢のような経験から、ガダルカナル基地攻撃を躊躇したのである。不覚の惨敗は、索敵機数の不十分と索敵方法の粗雑さが直接の原因であった。
八月二十二日、基地航空隊が朝来哨戒機を飛ばしたが、午前九時十分ごろ、ショートランド南東方約四八〇浬付近に敵巡洋艦二、駆逐艦二を発見しただけで、敵機動部隊の所在は捕捉出来なかった。二段三段の索敵が行なわれたことを示す資料は見当らない。したがって、もし二段三段索敵が行なわれていないとすれば、午前九時十分ごろ以降、付近海面に敵機動部隊が行動していなかったという証拠もない。
連合艦隊がこのときにガダルカナルに対する航空攻撃に関してとった方針は、こうであった。
敵機動部隊の所在が不明であるから、これに備えるために、当方の所在を秘匿する必要がある。したがって、ガダルカナル飛行場は基地(ラバウル)航空隊が二十三日に攻撃せよ。もしその攻撃の効果不十分な場合には、二十四日に機動部隊(南雲部隊)から攻撃隊を発進させる、というのである。
結局、船団護衛指揮官の田中少将が要請した船団上空の直衛戦闘機は派遣されなかった。
八月二十三日、船団はガダルカナルめざして早朝からの雨に煙る洋上を南下していた。
午前七時三十分ごろ、船団はオントンジャワ島(ブーゲンビル島の東方)の東方約四〇浬の地点で、敵飛行艇に発見され、接触をつづけられた。
その朝は、この他にも、味方潜水艦が敵艦載機の攻撃を受けたという報告を傍受していたので、護衛の二水戦司令官は敵機動部隊がガダルカナル南東海域を行動していると判断した。彼が要請した直衛戦闘機は一機も飛んでいないのである。敵機の来襲を避けられないであろう。
しかし、午前八時ごろ、敵情を察知した第八艦隊からの命令で、船団はまた反転、避退に移った。
ところが、指揮系統として第八艦隊の上にある十一航艦司令部では、第三艦隊(南雲機動部隊)その他の支援部隊が大挙進出して来ている機会を逃さずに予定通り第二梯団の揚陸を決行する方がよいと判断したようである。午後二時半ごろ、二十四日夜の揚陸を第八艦隊に命令した。
この二十三日には、既述の通り、十七軍の要請を受けて基地航空隊はガダルカナルの一木支隊第一梯団に対する補給物資投下のために飛んだが、密雲が垂れこめていて、虚しく引き返した。敵機はスコールのなかでも日本軍の船団を発見し、日本機は天候不良で引き返す。偶然の結果かもしれない。米軍機も天候不良で引き返すことがなくはなかった。しかし、ガダルカナルやニューギニアでの航空作戦の経過をみると、日本機の天候不良による引き返しや発見不能は頻度がもどかしいまでに高く、米軍機による発見・接触維持・攻撃の確率は驚くほどに高い。探知の機械的性能の差とばかりは言えないようである。ミッドウェー以前に較べて、搭乗員の平均的練度が著しく低下していたことは否めない。
十一航艦から二十四日夜の揚陸の命令を受けたときには、既に反転避退の行動に移ってからかなりの時間を費やしている船団は、その低速をもってしては二十四日夜のガダルカナル泊地への進入は困難であった。
命令はやむなく変更され、揚陸は八月二十五日に延期された。
二十五日船団突入のためには、二十四日のうちにガダルカナル飛行場に痛打を加えておく必要があったが、第三艦隊の機動部隊はいつ遭遇するかわからない敵機動部隊の出現を憂慮して、ガダルカナル基地攻撃に艦上機を使いたがらなかった。せいぜい、二十四日午前中に敵機動部隊を発見出来なければ、適宜の兵力をガダルカナルにさし向ける、という程度であった。したがって、ガダルカナル航空攻撃は在ラバウル航空隊の負担となるが、ここには僅かに陸攻一九機、零戦一四機しかなく、これが片道五六〇浬の遠距離を飛ばなければならないのである。
この日現在、機動部隊の空母三艦(翔鶴・瑞鶴・竜驤)が保有していた航空兵力は、零戦七八機、艦爆五四機、艦攻四五機、計一七七機であった。
この日夜半、駆逐艦「陽炎」以下二隻が、ルンガ泊地の敵増援艦船に夜襲を試みたが、敵影はなく、同艦はルンガ岬沖一・五浬から飛行場を砲撃したが、射弾僅かに三〇発では火焔が夜空に映える眺めほどには破壊力を及ぼさなかったようである。
一木支隊第二梯団の船団は、二十五日夜上陸のために、二十三日夜半、また南下に転じた。
一木支隊第一梯団の戦闘状況が不明であったので、第二梯団といっしょに陸戦隊(横五特)を送り込もうとしている海軍関係各部隊では、低速船団から快速艦艇へ洋上で移乗させてでも、第二次揚陸を急がせたいところであった。その処置について十一航艦が十七軍と協議すると、十七軍は次の理由で同意しなかった。
一つは、第二梯団は速射砲隊が主力であるから、洋上での移乗は困難である。
二つは、一木支隊第一梯団は精兵であるから、飛行場占領に不安はない。
しかし、この協議が行なわれたころには、一木支隊第一梯団は支隊長以下全滅していたのである。
八月二十二日、船団がガダルカナルからの航空攻撃圏へ近づくのに合せて、二十五航戦はガダルカナルを空襲する手筈になっていたが、この日は天候不良で出来なかった。
船団護衛の第二水雷戦隊司令官田中頼三少将は、船団が敵機の攻撃にさらされることを予想して、船団上空に直衛戦闘機の部署を要請したが、要請を受けた十一航艦では直衛機を飛ばす余裕がなかった。米軍のガダルカナル上陸後数日の間の空戦での消耗が意外に激しかったのと、一木支隊第一梯団ガダルカナル上陸とほとんど同時に行なわれたニューギニアヘの南海支隊上陸のために、連日のように飛行機はニューギニアに使われていたのである。この日は、零戦二号の全力をもってラビ攻撃が行なわれていた。
もともと豊富ではない飛行機の使用計画は早くも変調を来したのである。一つにはこの時点ではまだニューギニア作戦の方に重点が置かれていたせいでもあるが、ミッドウェー敗戦の後遺症が歴然としてきた。多数の飛行機と練達した搭乗員を一日にして失った海軍航空隊は、この局面で、船団直衛を行なうべきか、敵航空基地を攻撃すべきか、限られことは出来なかった。同様にまた、奪回作戦成就のために船団輸送を|完《まつと》うすべきか、船団を狙って近海を行動中の敵機動部隊の撃滅を主目的にすべきか、これも双方の必要を同時に満たすことは出来なかった。
十一航艦は南雲部隊(第三艦隊)にガダルカナル飛行場への空襲を要請した。
第三艦隊(機動部隊)の方では、しかし、敵の機動部隊の出現を懸念していた。その裏にはミッドウェーのにがい経験がこびりついていたのである。
二カ月前のミッドウェー作戦で、南雲部隊は、敵機動部隊の所在を発見出来ないままに、基地攻撃に第一次攻撃隊を発進させ、第二次攻撃隊を敵機動部隊出現に備えて艦船攻撃兵装で待機させていた。そこへ、第一次攻撃隊から第二次攻撃必要の打電があったのと、敵機動部隊をまだ発見出来なかったのとが重なって、南雲部隊は重大な失策を犯した。第二次攻撃隊の艦船攻撃兵装を地上攻撃用に転換したのである。その途中で、索敵機から敵機動部隊の発見を報じて来た。
索敵機は往航で敵の上空を飛びながら発見出来ず、復航のときに発見したのである。それだけ時間のおくれがあった。二段索敵を行なっていれば、発見はもっと早かったはずであった。母艦群ではあわててまた艦船攻撃兵装への再転換がはじまった。雷撃に切り換えずに陸用爆弾のままでも発進させればよかったものを、敵を軽く見ていたともいえようし、戦の型にとらわれていたともいえよう。折りあしく第一次攻撃隊が帰って来た。その収容と兵装転換で各空母は繁忙をきわめた。ようやく出撃準備がととのって、これから発艦という瞬間に、敵機動部隊から飛来した急降下爆撃機群の攻撃を受けて、あえなく|潰《つい》えてしまったのである。瞬時にして戦力はゼロになった。惨敗であった。その悪夢のような経験から、ガダルカナル基地攻撃を躊躇したのである。不覚の惨敗は、索敵機数の不十分と索敵方法の粗雑さが直接の原因であった。
八月二十二日、基地航空隊が朝来哨戒機を飛ばしたが、午前九時十分ごろ、ショートランド南東方約四八〇浬付近に敵巡洋艦二、駆逐艦二を発見しただけで、敵機動部隊の所在は捕捉出来なかった。二段三段の索敵が行なわれたことを示す資料は見当らない。したがって、もし二段三段索敵が行なわれていないとすれば、午前九時十分ごろ以降、付近海面に敵機動部隊が行動していなかったという証拠もない。
連合艦隊がこのときにガダルカナルに対する航空攻撃に関してとった方針は、こうであった。
敵機動部隊の所在が不明であるから、これに備えるために、当方の所在を秘匿する必要がある。したがって、ガダルカナル飛行場は基地(ラバウル)航空隊が二十三日に攻撃せよ。もしその攻撃の効果不十分な場合には、二十四日に機動部隊(南雲部隊)から攻撃隊を発進させる、というのである。
結局、船団護衛指揮官の田中少将が要請した船団上空の直衛戦闘機は派遣されなかった。
八月二十三日、船団はガダルカナルめざして早朝からの雨に煙る洋上を南下していた。
午前七時三十分ごろ、船団はオントンジャワ島(ブーゲンビル島の東方)の東方約四〇浬の地点で、敵飛行艇に発見され、接触をつづけられた。
その朝は、この他にも、味方潜水艦が敵艦載機の攻撃を受けたという報告を傍受していたので、護衛の二水戦司令官は敵機動部隊がガダルカナル南東海域を行動していると判断した。彼が要請した直衛戦闘機は一機も飛んでいないのである。敵機の来襲を避けられないであろう。
しかし、午前八時ごろ、敵情を察知した第八艦隊からの命令で、船団はまた反転、避退に移った。
ところが、指揮系統として第八艦隊の上にある十一航艦司令部では、第三艦隊(南雲機動部隊)その他の支援部隊が大挙進出して来ている機会を逃さずに予定通り第二梯団の揚陸を決行する方がよいと判断したようである。午後二時半ごろ、二十四日夜の揚陸を第八艦隊に命令した。
この二十三日には、既述の通り、十七軍の要請を受けて基地航空隊はガダルカナルの一木支隊第一梯団に対する補給物資投下のために飛んだが、密雲が垂れこめていて、虚しく引き返した。敵機はスコールのなかでも日本軍の船団を発見し、日本機は天候不良で引き返す。偶然の結果かもしれない。米軍機も天候不良で引き返すことがなくはなかった。しかし、ガダルカナルやニューギニアでの航空作戦の経過をみると、日本機の天候不良による引き返しや発見不能は頻度がもどかしいまでに高く、米軍機による発見・接触維持・攻撃の確率は驚くほどに高い。探知の機械的性能の差とばかりは言えないようである。ミッドウェー以前に較べて、搭乗員の平均的練度が著しく低下していたことは否めない。
十一航艦から二十四日夜の揚陸の命令を受けたときには、既に反転避退の行動に移ってからかなりの時間を費やしている船団は、その低速をもってしては二十四日夜のガダルカナル泊地への進入は困難であった。
命令はやむなく変更され、揚陸は八月二十五日に延期された。
二十五日船団突入のためには、二十四日のうちにガダルカナル飛行場に痛打を加えておく必要があったが、第三艦隊の機動部隊はいつ遭遇するかわからない敵機動部隊の出現を憂慮して、ガダルカナル基地攻撃に艦上機を使いたがらなかった。せいぜい、二十四日午前中に敵機動部隊を発見出来なければ、適宜の兵力をガダルカナルにさし向ける、という程度であった。したがって、ガダルカナル航空攻撃は在ラバウル航空隊の負担となるが、ここには僅かに陸攻一九機、零戦一四機しかなく、これが片道五六〇浬の遠距離を飛ばなければならないのである。
この日現在、機動部隊の空母三艦(翔鶴・瑞鶴・竜驤)が保有していた航空兵力は、零戦七八機、艦爆五四機、艦攻四五機、計一七七機であった。
この日夜半、駆逐艦「陽炎」以下二隻が、ルンガ泊地の敵増援艦船に夜襲を試みたが、敵影はなく、同艦はルンガ岬沖一・五浬から飛行場を砲撃したが、射弾僅かに三〇発では火焔が夜空に映える眺めほどには破壊力を及ぼさなかったようである。
一木支隊第二梯団の船団は、二十五日夜上陸のために、二十三日夜半、また南下に転じた。
八月二十四日午前二時、南雲機動部隊は空母竜驤・重巡「利根」を基幹とする支隊を本隊の東方約六〇浬に分派して、本支隊ともそれぞれ索敵を行ないながら南下したが、敵を発見しなかった。
敵機動部隊を発見し得なかっただけでなく、支隊の方は午前七時過ぎ、敵の飛行艇に接触され、取り逃した。本隊の方も午前八時半ごろと午前十一時ごろ、やはり敵飛行艇に接触され、直掩機が追撃したがこれも取り逃した。
それまで、基地航空隊からも、本支隊いずれの索敵機からも敵発見の報はなかった。本隊からの索敵は艦攻一九機で午前四時十五分から一九〇度にわたる索敵線を張り、母艦収容は午前九時十七分であったというから、敵がいるとおぼしい、あるいは進入して来ると考えられる海面は蔽っていたはずであった。
もしこれらの索敵機が前程に達するころに第二段索敵機が発進していたら、もっと早く敵情をつかみ得ていたであろうと想像される。
事実は次のように進展した。
午前九時ごろ、前記索敵機群収容と前後して、機動部隊の前衛から発進した水偵群の一機が、十二時五分、
「敵大部隊見ユ 我敵戦闘機ノ|追躡《ついじよう》ヲ受ク」
と打電して来て、消息が絶えた。
それによって敵位置を推定して、第一次攻撃隊(艦爆二七機、零戦一〇機)が十二時五十五分発進した。
午後二時二十分、第一次攻撃隊は二群に分れた敵機動部隊を発見した。スチュワート島(ソロモン諸島南端部位のマライタ島北端から東へ約二〇〇キロ)の南東一六浬と二七浬であった。空母エンタープライズとサラトガをそれぞれ基幹とする機動部隊である。
翔鶴隊がエンタープライズに、瑞鶴隊がサラトガに、戦闘機群の邀撃と熾烈な防禦砲火を冒して突入した。
エンタープライズは被弾三発、至近弾二発、大火災を起こし、傾斜三度となったが、間もなく鎮火し、穴のあいた飛行甲板には鉄板を張って、一時間以内に飛行機の収容が出来るようになり、二四ノットで走航した。
サラトガには命中弾がなかった。
米機動部隊はレーダーによって日本軍攻撃隊を八八浬の彼方に探知し、戦闘機五三機を上空に配置していたのである。
日本軍の第一次攻撃隊は一三機が母艦に帰投し得たにすぎなかった。
第二次攻撃隊は、午後二時、艦爆二七、零戦九をもって発進した。午後三時四十分過ぎ、予定地点に達したが敵影を見ず、日没まで探しても遂に発見出来ず、虚しく帰途についた。
原因は、指揮官機の通信機不良にあったという。不運というべきか、不注意というべきか。旗艦からの重要通信を、列機はほとんど完全に受信していたにもかかわらず、翔鶴隊指揮官機は受信洩れが多く、瑞鶴隊指揮官機は敵所在地点を誤受信した。列機がまた疑念を持たずに、指揮官機に中継あるいは受信有無の確認もしなかった。各機とも無線電話を装備してあったが、雑音が多くてほとんど実用の域に達していなかった。
第二次攻撃隊の発進後、機動部隊は変針して、東進した。東方約六〇浬を平行して南下している前進部隊が敵機の攻撃を受けたので、その上空直衛を行なうためであったと考えられる。だが、機動部隊はその変針通知を第二次攻撃隊に出すのがおくれた。攻撃隊の帰投は夜になり、今度は母艦を探す困難を生じた。結局、艦爆四機が行方不明、一機が不時着という損害を戦わずして出した。
戦は錯誤の連続というが、一定の緊張度の持続と注意力集中の維持があれば避けられる事務的な失態が、屡々禍根の最大のものとなる。ミッドウェーがそうであった。ガダルカナル戦やニューギニア作戦についても同様のことが言える。
空母「翔鶴」は、第一次攻撃隊を発進させて間もなく、突如として敵の急降下爆撃機の攻撃を受けた。回避運動によって被害はなかったが、この敵機は翔鶴のレーダーが探知し、あらかじめ艦橋に報告されていたにもかかわらず、艦橋の混乱喧噪のために、せっかくの探知が通じていなかった。危うくミッドウェーの二の舞を演ずるところであった。来襲機がもっと多ければ、回避しきれなかったのではないか。前述の通信不調といい、母艦行動変更の通知遅延といい、レーダーの件といい、さらには索敵・接触の不首尾といい、隙間だらけである。これでは、仮りに戦意旺盛であるとしても、全力発揮は妨げられるであろう。
第二次攻撃隊が帰投したころには、敵に接触を保っている飛行機は一機もなかった。したがって、夜戦を挑もうにもその可能性はきわめて薄かった。加えて、第一次攻撃隊の被害も甚大であったので、機動部隊指揮官は第三次攻撃(夜間雷撃)を諦め、艦隊は戦場から反転北上した。
敵機動部隊を発見し得なかっただけでなく、支隊の方は午前七時過ぎ、敵の飛行艇に接触され、取り逃した。本隊の方も午前八時半ごろと午前十一時ごろ、やはり敵飛行艇に接触され、直掩機が追撃したがこれも取り逃した。
それまで、基地航空隊からも、本支隊いずれの索敵機からも敵発見の報はなかった。本隊からの索敵は艦攻一九機で午前四時十五分から一九〇度にわたる索敵線を張り、母艦収容は午前九時十七分であったというから、敵がいるとおぼしい、あるいは進入して来ると考えられる海面は蔽っていたはずであった。
もしこれらの索敵機が前程に達するころに第二段索敵機が発進していたら、もっと早く敵情をつかみ得ていたであろうと想像される。
事実は次のように進展した。
午前九時ごろ、前記索敵機群収容と前後して、機動部隊の前衛から発進した水偵群の一機が、十二時五分、
「敵大部隊見ユ 我敵戦闘機ノ|追躡《ついじよう》ヲ受ク」
と打電して来て、消息が絶えた。
それによって敵位置を推定して、第一次攻撃隊(艦爆二七機、零戦一〇機)が十二時五十五分発進した。
午後二時二十分、第一次攻撃隊は二群に分れた敵機動部隊を発見した。スチュワート島(ソロモン諸島南端部位のマライタ島北端から東へ約二〇〇キロ)の南東一六浬と二七浬であった。空母エンタープライズとサラトガをそれぞれ基幹とする機動部隊である。
翔鶴隊がエンタープライズに、瑞鶴隊がサラトガに、戦闘機群の邀撃と熾烈な防禦砲火を冒して突入した。
エンタープライズは被弾三発、至近弾二発、大火災を起こし、傾斜三度となったが、間もなく鎮火し、穴のあいた飛行甲板には鉄板を張って、一時間以内に飛行機の収容が出来るようになり、二四ノットで走航した。
サラトガには命中弾がなかった。
米機動部隊はレーダーによって日本軍攻撃隊を八八浬の彼方に探知し、戦闘機五三機を上空に配置していたのである。
日本軍の第一次攻撃隊は一三機が母艦に帰投し得たにすぎなかった。
第二次攻撃隊は、午後二時、艦爆二七、零戦九をもって発進した。午後三時四十分過ぎ、予定地点に達したが敵影を見ず、日没まで探しても遂に発見出来ず、虚しく帰途についた。
原因は、指揮官機の通信機不良にあったという。不運というべきか、不注意というべきか。旗艦からの重要通信を、列機はほとんど完全に受信していたにもかかわらず、翔鶴隊指揮官機は受信洩れが多く、瑞鶴隊指揮官機は敵所在地点を誤受信した。列機がまた疑念を持たずに、指揮官機に中継あるいは受信有無の確認もしなかった。各機とも無線電話を装備してあったが、雑音が多くてほとんど実用の域に達していなかった。
第二次攻撃隊の発進後、機動部隊は変針して、東進した。東方約六〇浬を平行して南下している前進部隊が敵機の攻撃を受けたので、その上空直衛を行なうためであったと考えられる。だが、機動部隊はその変針通知を第二次攻撃隊に出すのがおくれた。攻撃隊の帰投は夜になり、今度は母艦を探す困難を生じた。結局、艦爆四機が行方不明、一機が不時着という損害を戦わずして出した。
戦は錯誤の連続というが、一定の緊張度の持続と注意力集中の維持があれば避けられる事務的な失態が、屡々禍根の最大のものとなる。ミッドウェーがそうであった。ガダルカナル戦やニューギニア作戦についても同様のことが言える。
空母「翔鶴」は、第一次攻撃隊を発進させて間もなく、突如として敵の急降下爆撃機の攻撃を受けた。回避運動によって被害はなかったが、この敵機は翔鶴のレーダーが探知し、あらかじめ艦橋に報告されていたにもかかわらず、艦橋の混乱喧噪のために、せっかくの探知が通じていなかった。危うくミッドウェーの二の舞を演ずるところであった。来襲機がもっと多ければ、回避しきれなかったのではないか。前述の通信不調といい、母艦行動変更の通知遅延といい、レーダーの件といい、さらには索敵・接触の不首尾といい、隙間だらけである。これでは、仮りに戦意旺盛であるとしても、全力発揮は妨げられるであろう。
第二次攻撃隊が帰投したころには、敵に接触を保っている飛行機は一機もなかった。したがって、夜戦を挑もうにもその可能性はきわめて薄かった。加えて、第一次攻撃隊の被害も甚大であったので、機動部隊指揮官は第三次攻撃(夜間雷撃)を諦め、艦隊は戦場から反転北上した。
機動部隊の東方を警戒航行していた前進部隊は、早朝と昼前に発進させた水偵が敵情を得ないうちに、敵飛行機に接触された。
二十四日、午前四時、水上機母艦「千歳」に敵急降下爆撃機一二機が襲いかかり、至近弾二発によって左舷に浸水、機械使用不能となった。人力操舵では戦闘に耐えられないので、指揮官はトラック島への回航を命じた。
先に、午前二時、機動部隊から分離した支隊では、午前十時ごろまで敵機動部隊の情報に接しなかったので、空母竜驤から、十時二十分、ガダルカナル島へ向けて攻撃隊(艦攻・零戦各六機)を発進させ、約三十分後にさらに零戦九機を発艦させてから、一時北方へ避退した。
十一時半過ぎ、竜驤は反転して攻撃隊収容のために発進位置へ戻ろうとした。その途中で悲運に見舞われたのである。
午後二時若干前、竜驤は急降下爆撃機十数機と電撃機数機に襲われ、直衛機の奮戦も及ばなかった。魚雷一発が竜驤に命中、機械と罐が使用不能となり、浸水して傾斜が二〇度を超えた。
そのころガダルカナル攻撃から帰投して来た攻撃隊は母艦に着艦出来ず、一部がブカ島にまわったほかは、大部分が不時着水した。
竜驤は、乗員は救助されたが、午後六時、ガダルカナル島北方約二〇〇浬の地点に沈没した。
この八月二十四日の海戦(第二次ソロモン海戦──米側呼称東部ソロモンの戦)で喪失した飛行機は、零戦三〇、艦爆二三、艦攻六、計五九である。二十五日現在残存使用可能機数、零戦四一、艦爆二五、艦攻三四、計一〇〇、前日の機動部隊保有機数一七七に較べて六割に満たなかった。
艦船被害は、空母竜驤沈没、水上機母艦千歳損傷。米空母はエンタープライズが中破した。
二十四日、午前四時、水上機母艦「千歳」に敵急降下爆撃機一二機が襲いかかり、至近弾二発によって左舷に浸水、機械使用不能となった。人力操舵では戦闘に耐えられないので、指揮官はトラック島への回航を命じた。
先に、午前二時、機動部隊から分離した支隊では、午前十時ごろまで敵機動部隊の情報に接しなかったので、空母竜驤から、十時二十分、ガダルカナル島へ向けて攻撃隊(艦攻・零戦各六機)を発進させ、約三十分後にさらに零戦九機を発艦させてから、一時北方へ避退した。
十一時半過ぎ、竜驤は反転して攻撃隊収容のために発進位置へ戻ろうとした。その途中で悲運に見舞われたのである。
午後二時若干前、竜驤は急降下爆撃機十数機と電撃機数機に襲われ、直衛機の奮戦も及ばなかった。魚雷一発が竜驤に命中、機械と罐が使用不能となり、浸水して傾斜が二〇度を超えた。
そのころガダルカナル攻撃から帰投して来た攻撃隊は母艦に着艦出来ず、一部がブカ島にまわったほかは、大部分が不時着水した。
竜驤は、乗員は救助されたが、午後六時、ガダルカナル島北方約二〇〇浬の地点に沈没した。
この八月二十四日の海戦(第二次ソロモン海戦──米側呼称東部ソロモンの戦)で喪失した飛行機は、零戦三〇、艦爆二三、艦攻六、計五九である。二十五日現在残存使用可能機数、零戦四一、艦爆二五、艦攻三四、計一〇〇、前日の機動部隊保有機数一七七に較べて六割に満たなかった。
艦船被害は、空母竜驤沈没、水上機母艦千歳損傷。米空母はエンタープライズが中破した。
基地航空部隊では、二十四日早朝、ラバウルから四機、ショートランドから四機の索敵機を出したが、未帰還二機を出して、敵影は見なかった。
米軍機は、同じ日、未明から戦闘開始に至るまで、日本軍艦艇の行動するところ、ほとんど常に接触を保っていた。
敵機動部隊の撃滅と船団輸送の間接支援のために進出して来た第三艦隊(機動部隊)は、索敵に関しては基地航空部隊に期待をかけていた。基地航空部隊の方はまた、船団直掩とガダルカナル飛行場攻撃を機動部隊に依存したがっていた。結果は、相互に、どれも充分でなかった。特に索敵に関しては、米軍に較べて著しく見劣りがした。ミッドウェーで命取りとなった欠陥が、面目一新したとはとても見えなかった。
基地航空部隊の活動が不活溌に見えたことについて、十一航艦ではそれなりの理由を構えている。
ラバウル西飛行場は整備が不完全であって、一機離陸すると舞い上る砂塵のために煙幕を張ったようになり、夜間飛行施設も貧弱だから、飛行機の使用時間が限定される。この地方は天候の変化が激しいので、飛行予定地点の天候が一〜二時間で急変して、飛行困難になることが再々ある。以上の理由で活溌な活動が妨げられる、というのである。
これは十一航艦の責任というよりも、日本軍全体の兵術思想、近代化の未熟にかかわることであった。
滑走路に重油を|撒《ま》いて砂塵の防止を図り、雨が降れば泥濘となり、晴天がつづけばまた砂塵濛々となるようなことの繰り返しでは、制空権の確保などおぼつかないのは当然である。既に述べたことだが、ラバウルから五六〇浬も離れたガダルカナルにいきなり基地を推進して、中間の地歩を固めることを怠ったのが、索敵にも攻撃にも飛行時間の窮屈な制約をもたらしたばかりでなく、変化しやすい気象の影響をことさら強く蒙る原因となった。
そうはいうものの、基地航空隊が天候不良のため出撃を見合せる、あるいは途中から引き返す、または予定地点に達しても目標を捉えることが出来ずに帰投するというようなことが頻発しているときに、敵機はほとんど常にわが艦船に接触を保ち、攻撃を仕掛けて来ていた。そこには、単純に天候不良に理由を帰することが妥当であるかどうかを疑わせるほどの相違があった。
敵機の制圧下を航行するものにとっては、それが船団輸送であれ、後に述べる鼠輸送(駆逐艦輸送)であれ、毎回が決死行の反復であったから、味方の基地航空隊の支援が乏しいことに関して、それが真にやむを得ない事情によるものか否かを疑うのは、無理からぬことであったと思われる。
史料で跡づける限りでは、消極的に見えるのは基地航空隊だけではない。ガダルカナル争奪をめぐって後述するような補給の死闘が行なわれているときに、機動部隊はいつも圏外にあって母艦そのものの温存を図っているのではないかと疑えば疑えるような行動をとっていた。ミッドウェーでの大損害が否応なく機動部隊の作戦を制約したにちがいない。
公平にみて、陸・海・空の協同作戦は米軍の方が遥かに巧妙であった。ガダルカナル戦に関しては、初動の時期には、日本海軍及び航空戦力は量的に決して劣勢ではなかった。敵を侮って過少な陸兵を送り込んだことが躓きの因であった。失敗に気づくまでに、敵が強大な増援補給を完了するだけの時間が経ってしまったのである。
米軍機は、同じ日、未明から戦闘開始に至るまで、日本軍艦艇の行動するところ、ほとんど常に接触を保っていた。
敵機動部隊の撃滅と船団輸送の間接支援のために進出して来た第三艦隊(機動部隊)は、索敵に関しては基地航空部隊に期待をかけていた。基地航空部隊の方はまた、船団直掩とガダルカナル飛行場攻撃を機動部隊に依存したがっていた。結果は、相互に、どれも充分でなかった。特に索敵に関しては、米軍に較べて著しく見劣りがした。ミッドウェーで命取りとなった欠陥が、面目一新したとはとても見えなかった。
基地航空部隊の活動が不活溌に見えたことについて、十一航艦ではそれなりの理由を構えている。
ラバウル西飛行場は整備が不完全であって、一機離陸すると舞い上る砂塵のために煙幕を張ったようになり、夜間飛行施設も貧弱だから、飛行機の使用時間が限定される。この地方は天候の変化が激しいので、飛行予定地点の天候が一〜二時間で急変して、飛行困難になることが再々ある。以上の理由で活溌な活動が妨げられる、というのである。
これは十一航艦の責任というよりも、日本軍全体の兵術思想、近代化の未熟にかかわることであった。
滑走路に重油を|撒《ま》いて砂塵の防止を図り、雨が降れば泥濘となり、晴天がつづけばまた砂塵濛々となるようなことの繰り返しでは、制空権の確保などおぼつかないのは当然である。既に述べたことだが、ラバウルから五六〇浬も離れたガダルカナルにいきなり基地を推進して、中間の地歩を固めることを怠ったのが、索敵にも攻撃にも飛行時間の窮屈な制約をもたらしたばかりでなく、変化しやすい気象の影響をことさら強く蒙る原因となった。
そうはいうものの、基地航空隊が天候不良のため出撃を見合せる、あるいは途中から引き返す、または予定地点に達しても目標を捉えることが出来ずに帰投するというようなことが頻発しているときに、敵機はほとんど常にわが艦船に接触を保ち、攻撃を仕掛けて来ていた。そこには、単純に天候不良に理由を帰することが妥当であるかどうかを疑わせるほどの相違があった。
敵機の制圧下を航行するものにとっては、それが船団輸送であれ、後に述べる鼠輸送(駆逐艦輸送)であれ、毎回が決死行の反復であったから、味方の基地航空隊の支援が乏しいことに関して、それが真にやむを得ない事情によるものか否かを疑うのは、無理からぬことであったと思われる。
史料で跡づける限りでは、消極的に見えるのは基地航空隊だけではない。ガダルカナル争奪をめぐって後述するような補給の死闘が行なわれているときに、機動部隊はいつも圏外にあって母艦そのものの温存を図っているのではないかと疑えば疑えるような行動をとっていた。ミッドウェーでの大損害が否応なく機動部隊の作戦を制約したにちがいない。
公平にみて、陸・海・空の協同作戦は米軍の方が遥かに巧妙であった。ガダルカナル戦に関しては、初動の時期には、日本海軍及び航空戦力は量的に決して劣勢ではなかった。敵を侮って過少な陸兵を送り込んだことが躓きの因であった。失敗に気づくまでに、敵が強大な増援補給を完了するだけの時間が経ってしまったのである。
八月二十四日の海戦・空戦は一木支隊第二梯団と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊のガダルカナルヘの船団輸送をめぐって生起した。
船団は二十四日昼ごろ、オントンジャワ島南東三〇浬付近に達していた。
午後二時ごろ、船団は南東方向空高く火焔と黒煙が噴き上るのを望見した。前記の空母竜驤が被爆したのである。
午後六時ごろ、船団は第八艦隊から一時西北方への避退を命ぜられた。第八艦隊としては、その日の海空戦の戦果を判定出来ず、船団護衛に自信を持てなかったのであろう。
間もなく、連合艦隊から第二梯団の二十五日揚陸決行が電令され、船団はまたもや変針南下した。
連合艦隊では戦果を我に有利と判定していた。近海の敵空母は潰滅したはずである、ガダルカナル所在の敵飛行機は守備隊長の通報に徴しても減少している上に、竜驤から行なった航空攻撃と今夜行なう駆逐艦と水偵による攻撃で、明二十五日ガダルカナルに残存する敵航空兵力は微弱であると認める、というものである。
その夜、駆逐艦四隻による砲撃と水偵五機をもってする爆撃を、ガダルカナル飛行場に加えた。連合艦隊の推測では、ガダルカナルに在る米軍機は大打撃を蒙っているはずである。
船団は低速ながらガダルカナルに近づいていた。二十五日零時二十三分、船団は敵飛行艇一機に接触されていることを知った。当夜は月明鮮やかで、視界良好、海面は夜光虫の輝きに満ちていた。
二十五日午前五時、船団はガダルカナルヘ一五〇浬にあった。船団速力は九ノット。
午前六時、二水戦司令官は入泊隊形や揚陸時の警戒配備について護衛の各艦に長い信号を発した。
突如、敵戦闘機三機が雲の切れ目から現われ、旗艦神通に銃撃を加え、つづいて僅か一機の艦上機が急降下爆撃を行なった。
見張は敵機を友軍機と見間違えていた。識別の未熟によるものか、前日来の攻撃でガダルカナル周辺に敵機の活躍はないという過早な楽観的判断に禍されたものか。完全な奇襲となって、応戦の暇もなかった。爆弾は一、二番砲の間に命中、神通は火災を起こし、弾薬庫に引火の虞れがあって漲水した。
その間に、別の敵機群が船団に襲いかかった。最も大きい金竜丸が被弾して大火災となり、ガダルカナルに揚陸するはずの弾薬が誘爆して、航行不能に陥った。
来襲したのは八機で、連合艦隊の推測によれば機能衰弱しているはずのガダルカナル飛行場からであった。小艦艇群による十分間や十五分間の、しかも夜間の艦砲射撃では、さしたる破壊力を及ぼさなかったのである。
二水戦司令官は駆逐艦睦月と哨戒艇二隻に金竜丸の陸戦隊員や乗員の救助に当らせ、他の輸送船と駆逐艦に北西方へ避退を命じた。
直掩戦闘機もなくてこのまま前進をつづければ全滅のほかなしと判断される状況であった。
金竜丸救助に当った駆逐艦睦月は、つづいて来襲したB17機の餌食となって沈没した。金竜丸はその少し前、睦月の魚雷によって処分された。睦月の救助に引き返した駆逐艦弥生と金竜丸乗船者の収容を終った哨戒艇二隻は、ラバウルヘ回航を命ぜられた。
二水戦司令官は洋上で旗艦を神通から陽炎に移し、神通は修理のためトラック島へ、船団は八・五ノットの低速でショートランドヘ向った。
連合艦隊司令長官は船団被爆の状況を知り、二十五日の揚陸は中止して北西へ避退を命令することで、護衛指揮官の処置を容認し、空母瑞鶴と駆逐艦三隻を派遣して避退中の第二梯団の上空を警戒させた。(戦史室前掲書『海軍作戦』)
転ばぬ先の杖ということがある。船団輸送が挫折してから直掩を配置するのなら、前進時に直掩を配したらどうであったか。被害はもっと大きくなったかもしれないという見方もなくはないが、来襲機が史実の示す程度ならば、この攻防に関する限り結果ははるかによかったと見る方が有力であろう。
基地航空部隊では、二十五日の揚陸に合せてガダルカナル飛行場を制圧するために、ラバウルに在る全力(陸攻二二、零戦一号一三)を午前六時──船団が攻撃を受けはじめたころ──発進させ、九時五十分ごろ──金竜丸は沈没し、救助の駆逐艦睦月も沈没、船団輸送は既に失敗していた時刻──ガダルカナル飛行場を攻撃したが、戦果は芳しくなかった。日本機来襲の十分ほど前に米機は飛行場を飛び立ち、攻撃隊が引揚げてしまうと続々と帰投着陸して、地上に在って爆撃されるとか、空戦によって撃墜されるとかの危険は極力避け、ガダルカナルヘの増援だけは確実に阻止するという戦法に徹しているようであった。
船団は二十四日昼ごろ、オントンジャワ島南東三〇浬付近に達していた。
午後二時ごろ、船団は南東方向空高く火焔と黒煙が噴き上るのを望見した。前記の空母竜驤が被爆したのである。
午後六時ごろ、船団は第八艦隊から一時西北方への避退を命ぜられた。第八艦隊としては、その日の海空戦の戦果を判定出来ず、船団護衛に自信を持てなかったのであろう。
間もなく、連合艦隊から第二梯団の二十五日揚陸決行が電令され、船団はまたもや変針南下した。
連合艦隊では戦果を我に有利と判定していた。近海の敵空母は潰滅したはずである、ガダルカナル所在の敵飛行機は守備隊長の通報に徴しても減少している上に、竜驤から行なった航空攻撃と今夜行なう駆逐艦と水偵による攻撃で、明二十五日ガダルカナルに残存する敵航空兵力は微弱であると認める、というものである。
その夜、駆逐艦四隻による砲撃と水偵五機をもってする爆撃を、ガダルカナル飛行場に加えた。連合艦隊の推測では、ガダルカナルに在る米軍機は大打撃を蒙っているはずである。
船団は低速ながらガダルカナルに近づいていた。二十五日零時二十三分、船団は敵飛行艇一機に接触されていることを知った。当夜は月明鮮やかで、視界良好、海面は夜光虫の輝きに満ちていた。
二十五日午前五時、船団はガダルカナルヘ一五〇浬にあった。船団速力は九ノット。
午前六時、二水戦司令官は入泊隊形や揚陸時の警戒配備について護衛の各艦に長い信号を発した。
突如、敵戦闘機三機が雲の切れ目から現われ、旗艦神通に銃撃を加え、つづいて僅か一機の艦上機が急降下爆撃を行なった。
見張は敵機を友軍機と見間違えていた。識別の未熟によるものか、前日来の攻撃でガダルカナル周辺に敵機の活躍はないという過早な楽観的判断に禍されたものか。完全な奇襲となって、応戦の暇もなかった。爆弾は一、二番砲の間に命中、神通は火災を起こし、弾薬庫に引火の虞れがあって漲水した。
その間に、別の敵機群が船団に襲いかかった。最も大きい金竜丸が被弾して大火災となり、ガダルカナルに揚陸するはずの弾薬が誘爆して、航行不能に陥った。
来襲したのは八機で、連合艦隊の推測によれば機能衰弱しているはずのガダルカナル飛行場からであった。小艦艇群による十分間や十五分間の、しかも夜間の艦砲射撃では、さしたる破壊力を及ぼさなかったのである。
二水戦司令官は駆逐艦睦月と哨戒艇二隻に金竜丸の陸戦隊員や乗員の救助に当らせ、他の輸送船と駆逐艦に北西方へ避退を命じた。
直掩戦闘機もなくてこのまま前進をつづければ全滅のほかなしと判断される状況であった。
金竜丸救助に当った駆逐艦睦月は、つづいて来襲したB17機の餌食となって沈没した。金竜丸はその少し前、睦月の魚雷によって処分された。睦月の救助に引き返した駆逐艦弥生と金竜丸乗船者の収容を終った哨戒艇二隻は、ラバウルヘ回航を命ぜられた。
二水戦司令官は洋上で旗艦を神通から陽炎に移し、神通は修理のためトラック島へ、船団は八・五ノットの低速でショートランドヘ向った。
連合艦隊司令長官は船団被爆の状況を知り、二十五日の揚陸は中止して北西へ避退を命令することで、護衛指揮官の処置を容認し、空母瑞鶴と駆逐艦三隻を派遣して避退中の第二梯団の上空を警戒させた。(戦史室前掲書『海軍作戦』)
転ばぬ先の杖ということがある。船団輸送が挫折してから直掩を配置するのなら、前進時に直掩を配したらどうであったか。被害はもっと大きくなったかもしれないという見方もなくはないが、来襲機が史実の示す程度ならば、この攻防に関する限り結果ははるかによかったと見る方が有力であろう。
基地航空部隊では、二十五日の揚陸に合せてガダルカナル飛行場を制圧するために、ラバウルに在る全力(陸攻二二、零戦一号一三)を午前六時──船団が攻撃を受けはじめたころ──発進させ、九時五十分ごろ──金竜丸は沈没し、救助の駆逐艦睦月も沈没、船団輸送は既に失敗していた時刻──ガダルカナル飛行場を攻撃したが、戦果は芳しくなかった。日本機来襲の十分ほど前に米機は飛行場を飛び立ち、攻撃隊が引揚げてしまうと続々と帰投着陸して、地上に在って爆撃されるとか、空戦によって撃墜されるとかの危険は極力避け、ガダルカナルヘの増援だけは確実に阻止するという戦法に徹しているようであった。
連合艦隊司令部では、二十五日の船団輸送の失敗に照らして、ガダルカナル飛行場を攻略するまでは、船団輸送をやめて、快速艦艇による輸送、俗称「鼠輸送」または「東京急行」による輸送方針を採ることに決めた。米軍上陸から二週間と五日目のことである。
これには、しかし、克服しがたい悪循環があった。戦備不十分で後手をひいて立ちおくれた日本軍としては、ガダルカナル飛行場を攻略するためには強力な増援部隊と重火器と大量の補給物資が必要であり、それを送るためには、|就中《なかんずく》、重器材の輸送のためには輸送船が必要であり、船団輸送を確保するためにはガダルカナル飛行場の攻略が必要である、ということである。
この悪循環を断つには、なるべく早期に思いきった処置が必要であった。思いきった処置には、決戦思想が必要となる。決戦は、彼我の国力の比較からみて、せいぜいよくて局部的な勝利か、悪ければ全局的な敗北を覚悟しなければならないことである。
十一航艦と十七軍は協議して、空母の直接協力の下に一木支隊第二梯団の船団輸送を強行するよう、二十五日夕刻、意見を連合艦隊司令部に打電した。
連合艦隊司令部では、しかし、第二梯団の船団輸送、機動部隊によるその上空直掩、機動部隊によるガダルカナル飛行場攻撃、いずれに対しても同意しなかった。
このとき連合艦隊としてとり得た処置としては、ブカ島(ブーゲンビル島北端に近接する島)基地の整備を急いで、そこに沈没した竜驤の残存機を揚げ、機動部隊から若干の戦闘機を補強して、ラバウルとブカからガダルカナルの敵機を捕捉撃滅するという策であった。ブカは、ガダルカナルに対して、ラバウルよりはかなり近い位置にあるが、それでも腰を引いて小手先で戦うに似た感じは拭えない。連合艦隊としては、明らかに、なけなしの空母を温存したかったのである。ミッドウェーで一線級空母四隻を一挙に失って、連合艦隊の作戦は萎縮しがちであった。
陸軍は海軍のこの側面をみて、空母三隻を持った連合艦隊が、敵大型機の発着もまだ出来ないガダルカナルに対する友軍の上陸を援護出来ないとは腑甲斐ない、と不信の念を抱いた。
海軍は作戦遂行より艦艇の安全保持に|汲 々《きゆうきゆう》としているではないか。海軍は敵の空母や戦艦以外を攻撃しようともしないではないか。海軍は敵の輸送船団を撃滅して基地奪回を容易ならしめようとはしないではないか。これらが、ガダルカナルヘ増援しようとして思うにまかせない陸軍の海軍に対する不満であった。それもしかし、奪回作戦の初動において一木支隊第一梯団僅かに約九〇〇名を送って足りるとした陸軍の軽率さが招いた一連の経過とも言えるのである。
これには、しかし、克服しがたい悪循環があった。戦備不十分で後手をひいて立ちおくれた日本軍としては、ガダルカナル飛行場を攻略するためには強力な増援部隊と重火器と大量の補給物資が必要であり、それを送るためには、|就中《なかんずく》、重器材の輸送のためには輸送船が必要であり、船団輸送を確保するためにはガダルカナル飛行場の攻略が必要である、ということである。
この悪循環を断つには、なるべく早期に思いきった処置が必要であった。思いきった処置には、決戦思想が必要となる。決戦は、彼我の国力の比較からみて、せいぜいよくて局部的な勝利か、悪ければ全局的な敗北を覚悟しなければならないことである。
十一航艦と十七軍は協議して、空母の直接協力の下に一木支隊第二梯団の船団輸送を強行するよう、二十五日夕刻、意見を連合艦隊司令部に打電した。
連合艦隊司令部では、しかし、第二梯団の船団輸送、機動部隊によるその上空直掩、機動部隊によるガダルカナル飛行場攻撃、いずれに対しても同意しなかった。
このとき連合艦隊としてとり得た処置としては、ブカ島(ブーゲンビル島北端に近接する島)基地の整備を急いで、そこに沈没した竜驤の残存機を揚げ、機動部隊から若干の戦闘機を補強して、ラバウルとブカからガダルカナルの敵機を捕捉撃滅するという策であった。ブカは、ガダルカナルに対して、ラバウルよりはかなり近い位置にあるが、それでも腰を引いて小手先で戦うに似た感じは拭えない。連合艦隊としては、明らかに、なけなしの空母を温存したかったのである。ミッドウェーで一線級空母四隻を一挙に失って、連合艦隊の作戦は萎縮しがちであった。
陸軍は海軍のこの側面をみて、空母三隻を持った連合艦隊が、敵大型機の発着もまだ出来ないガダルカナルに対する友軍の上陸を援護出来ないとは腑甲斐ない、と不信の念を抱いた。
海軍は作戦遂行より艦艇の安全保持に|汲 々《きゆうきゆう》としているではないか。海軍は敵の空母や戦艦以外を攻撃しようともしないではないか。海軍は敵の輸送船団を撃滅して基地奪回を容易ならしめようとはしないではないか。これらが、ガダルカナルヘ増援しようとして思うにまかせない陸軍の海軍に対する不満であった。それもしかし、奪回作戦の初動において一木支隊第一梯団僅かに約九〇〇名を送って足りるとした陸軍の軽率さが招いた一連の経過とも言えるのである。