一木支隊第二梯団は、既述の通り、輸送途中で敵の攻撃を避けて洋上の南下北上を繰り返し、三転四転して遂にガダルカナル上陸を一時延期して、八月二十六日夜、ショートランドに入泊した。
したがって、一木支隊の次にガダルカナルヘの投入を予定されていた川口支隊は、一木第二梯団と同時にガダルカナル上陸を行なうことになった。
川口少将がラバウルでガダルカナル奪回に関する第十七軍命令を受領したのは、八月十九日、一木第一梯団がガダルカナルに上陸した次の日である。
川口少将は翌二十日、飛行機で部隊集結地のトラックヘ飛んだ。麾下の歩兵第三十五旅団は輸送船浅香山丸と佐渡丸に乗って八月十六日朝パラオを出発、二十日朝トラックに入った。
歩兵第三十五旅団は、旅団といっても、歩兵第百十四連隊が欠けていて、旅団司令部と歩兵第百二十四連隊(長・岡明之助大佐)だけなのである。一個連隊に連隊長とその上に旅団長がいるという変則編成の支隊であった。欠けた百十四連隊の方は、シンガポールで牟田口兵団に編入されていたのである。
百二十四連隊はダバオで待機中に初年兵を受領して、定員を約一〇〇〇名も超過する部隊になっていた。編組は、連隊本部、三個大隊、歩兵砲中隊、通信隊、速射砲中隊一個、機関銃中隊一個、歩兵大隊は各四個中隊であった。
川口少将は、八月二十三日、川口支隊をガダルカナルヘ護衛する第三水雷戦隊(以下三水戦と略称)がトラックに到着すると、その司令官橋本信太郎海軍少将と作戦協定を行なった。三水戦の固有編成は、軽巡川内を旗艦として第十一、第十九、第二十の三駆逐隊(各隊四駆逐艦)から成っていたが、このときには他方面に派出されていて揃わず、旗艦川内と第二十駆逐隊(夕霧、朝霧、天霧、白雲)だけであった。
この協定が行なわれた二十三日は、まだ連合艦隊が船団輸送打切を考える(二十五日)以前であったから、川口支隊は船団輸送によってガダルカナル上陸の予定になっていた。
その航路計画は、一木支隊の場合と同じく、トラックから南東へ走航して、ソロモン諸島のイサベル、マライタ両島の中間を抜けてガダルカナルに達する予定であった。
川口支隊長の意見は異っていた。航路をトラックからグリニッチ島、ショートランド島付近を経て、ソロモン諸島の内海に採り、ガダルカナル北西約三〇浬のパブブ島に一旦上陸、そこからガダルカナルまで舟艇機動(大小発動艇)によって上陸する、という案を強硬に主張した。
その理由は、ガダルカナル飛行場は敵に占領されており、敵機が既に活動している、そこへ輸送船で上陸するというのは自殺行為にひとしい、また敵潜水艦の跳梁も考慮に入れなければならない、だから、輸送船でガダルカナルの近くまで行き、そこから舟艇機動で、昼はソロモン群島の島蔭に隠れ、夜間だけ航行すれば上陸は成功するであろう、川口支隊は、前に、英領ボルネオから蘭領ボルネオに進攻する際、この方法で成功した経験がある、というのであった。
この協議には、十七軍から越次参謀、第八艦隊から神参謀が同席していて、神参謀は、今度の上陸作戦には海軍航空隊が参加して、ガダルカナルに対して航空撃滅戦を行なうことになっているから、川口支隊到着のころには、ガダルカナルの敵飛行機は一機もいないであろう(川口清健『ガダルカナルに於ける川口支隊の作戦』)と言い、越次参謀は、軍と艦隊との間で決定したことであるから、いまさら変更など出来ない、と言った。
川口少将は容易に納得せず、橋本少将を顧みて、こう言った。
「閣下は私の部隊を護衛してガ島に無事到着する自信がありますか。あれば之に従いましょう」
温厚な橋本少将は答えた。
「マアやって見ましょう」
これで川口少将も同意せざるを得なかったという。(川口前掲書)
こうして川口支隊は八月二十四日午前十時、浅香山丸と佐渡丸に乗船したままで、三水戦護衛のもとにトラック島を出発した。ガダルカナル上陸は八月二十八日夜を予定していた。
ところが、既に述べたように、連合艦隊司令部が、ガダルカナルの敵航空兵力を掃滅し得ない限り船団輸送は困難であるから、高速艦艇輸送に方針を転換する、と二十五日に決めたことによって、一木支隊第二梯団も川口支隊も、二十五日夜、船団輸送から艦艇輸送に切り換えられることになった。
川口支隊長は、二十六日朝発せられた第十七軍司令官の命令に従って、同日夜半、歩兵第百二十四連隊第二大隊(長・鷹松少佐。第六中隊欠、連隊無線一部属)を、輸送船から駆逐艦(夕霧、朝霧、天霧、白雲の四艦)に洋上で移乗させた。はじめての経験であったが移乗作業は順調に終了、駆逐艦隊は二十七日夜上陸の予定でガダルカナルヘ向け南下、支隊主力が乗っている船団はラバウルヘ向った。
一木支隊第二梯団は、二十六日夜ショートランドに入泊したが、二水戦司令官は第二十四駆逐隊(海風、江風と配属されている磯風)に支隊人員三五〇名、速射砲四門、糧秣一三〇〇名一週間分を急遽搭載して、二十七日午前五時三十分ショートランドを出発させた。揚陸は同日夜の予定であった。
ところが、第八艦隊司令部は、二十七日の朝七時十分、右の両隊(一木第二梯団と川口支隊の一部)の揚陸を、二十七日夜から二十八日夜へ一日延期するように発令した。
その理由は、ガダルカナル飛行場には依然として敵機約三〇機が存在していることと、二十八日から二日間、第三艦隊(南雲機動部隊)からブカ島基地へ戦闘機約三〇機を進出させることになったので、その掩護を受けられるからである。
一木第二梯団を乗せた第二十四駆逐隊は、命令によって反転し、二十七日午後五時三十分、ショートランドに帰投した。問題は川口支隊第二大隊を洋上で移乗させてガダルカナルヘ向った第二十駆逐隊(三水戦)の方であった。
第二十駆逐隊が揚陸一日延期の命令を受信したのは二十七日午前九時五十分であった。そのときには、同隊は既にイサベル島北方海域に達していて、ショートランドに引き返せば燃料補給を必要とし、二十八日夜の揚陸には間に合わない事情にあった。それで、第二十駆逐隊司令はイサベル島北側海域を適当に行動しながら、二十八日早朝にショートランドを出航して来る第二十四駆逐隊(一木第二梯団搭乗)と、二十八日午後フロリダ島付近で合同したいと、増援部隊(二水戦)に申し入れた。第二十駆逐隊は、もともと航続力が少いうえに、トラック出発の際に燃料を満載する時間の余裕がなかった。このため、高速航行が出来なくて、揚陸時に間に合せるには昼間過早に敵機の攻撃圏内に入らねばならなかった。
この二十八日、基地航空部隊(二十五航戦と八月二十一日以降ラバウルに進出した二十六航戦)の陸攻一八機は、午前八時四十分、ラバウルから発進してガダルカナル攻撃に向ったが、ブカ島に揚陸した第三艦隊(南雲部隊)の戦闘機三〇機が協同することになっていたのが、進出が遅れたのと、天候が悪化したため、攻撃を中止して引き返した。
米軍機は、しかし、飛んでいたのである。第二十駆逐隊は午後二時三十分から四時十分ごろまでの間に、ラモス島付近(イサベル島東南端とマライタ島北西端との中間の小島)で、ガダルカナルから飛来した艦爆約二〇機の痛烈な攻撃を受けた。
第二十駆逐隊四艦のうち、被害がなかったのは天霧だけであった。
天霧艦長は午後四時二十分、次のように急報した。
[#1字下げ]南緯八度一三分、東経一六〇度七分ニ於テ十数機ノ爆撃ヲ受け司令(山田雄二大佐──引用者)重傷、朝霧沈没、夕霧白雲被害甚大只今救助ニ従事中。
朝霧は第一弾が右舷に命中、暗室に入って大火災となり、第二弾が前部魚雷発射管に命中、魚雷が誘爆して船体が二つに折れ、瞬時に沈没した。
白雲は罐室浸水で航行不能となった。
夕霧は至近弾によって使用不能の罐もあったが、自力航行は可能であった。
朝霧沈没による川口支隊の被害は、戦死六二名、大隊砲二門と弾薬全部が沈没した。
天霧が白雲を曳航、夕霧がこれを護衛して六ノットという低速でショートランドに向った。
同二十八日午後六時四十分、二水戦司令官は第八艦隊司令部に打電した。
「敵飛行機ノ跳梁スル現状ニ於テ駆逐艦ヲ以テスル陸兵増援ハ成功ノ算少キモノト認ム」(山田日記)
右の電信を傍受してのことかどうか明らかでないが、第二十四駆逐隊司令は、午後七時二十五分、「本日ノ揚陸ヲ断念シ引返ス」と打電して、独断で反転した。その理由は、午後七時四十分の電信によれば、「第二十駆逐隊ノ被害ニ鑑ミ敵航空兵力撃滅後ニ非ザレバ損害大ナルノミニシテ成功ノ算尠キモノト認ム」というのであった。
第二十四駆逐隊は、このとき、敵機によって発見されてはいなかった。機宜に投ずるという見方からすれば、敵機の攻撃が第二十駆逐隊に集中している時期が、第二十四駆逐隊としては突入強行の好機であったと言える。
第八艦隊司令部は、午後八時三十五分、「其ノ隊異状ナケレバ全速突入揚陸ヲ決行セヨ」と電命したが、もはや二十八日夜の上陸は困難とみて、十五分後に突入命令を取り消した。
こうして、八月二十八日のガダルカナル揚陸は失敗に終った。
したがって、一木支隊の次にガダルカナルヘの投入を予定されていた川口支隊は、一木第二梯団と同時にガダルカナル上陸を行なうことになった。
川口少将がラバウルでガダルカナル奪回に関する第十七軍命令を受領したのは、八月十九日、一木第一梯団がガダルカナルに上陸した次の日である。
川口少将は翌二十日、飛行機で部隊集結地のトラックヘ飛んだ。麾下の歩兵第三十五旅団は輸送船浅香山丸と佐渡丸に乗って八月十六日朝パラオを出発、二十日朝トラックに入った。
歩兵第三十五旅団は、旅団といっても、歩兵第百十四連隊が欠けていて、旅団司令部と歩兵第百二十四連隊(長・岡明之助大佐)だけなのである。一個連隊に連隊長とその上に旅団長がいるという変則編成の支隊であった。欠けた百十四連隊の方は、シンガポールで牟田口兵団に編入されていたのである。
百二十四連隊はダバオで待機中に初年兵を受領して、定員を約一〇〇〇名も超過する部隊になっていた。編組は、連隊本部、三個大隊、歩兵砲中隊、通信隊、速射砲中隊一個、機関銃中隊一個、歩兵大隊は各四個中隊であった。
川口少将は、八月二十三日、川口支隊をガダルカナルヘ護衛する第三水雷戦隊(以下三水戦と略称)がトラックに到着すると、その司令官橋本信太郎海軍少将と作戦協定を行なった。三水戦の固有編成は、軽巡川内を旗艦として第十一、第十九、第二十の三駆逐隊(各隊四駆逐艦)から成っていたが、このときには他方面に派出されていて揃わず、旗艦川内と第二十駆逐隊(夕霧、朝霧、天霧、白雲)だけであった。
この協定が行なわれた二十三日は、まだ連合艦隊が船団輸送打切を考える(二十五日)以前であったから、川口支隊は船団輸送によってガダルカナル上陸の予定になっていた。
その航路計画は、一木支隊の場合と同じく、トラックから南東へ走航して、ソロモン諸島のイサベル、マライタ両島の中間を抜けてガダルカナルに達する予定であった。
川口支隊長の意見は異っていた。航路をトラックからグリニッチ島、ショートランド島付近を経て、ソロモン諸島の内海に採り、ガダルカナル北西約三〇浬のパブブ島に一旦上陸、そこからガダルカナルまで舟艇機動(大小発動艇)によって上陸する、という案を強硬に主張した。
その理由は、ガダルカナル飛行場は敵に占領されており、敵機が既に活動している、そこへ輸送船で上陸するというのは自殺行為にひとしい、また敵潜水艦の跳梁も考慮に入れなければならない、だから、輸送船でガダルカナルの近くまで行き、そこから舟艇機動で、昼はソロモン群島の島蔭に隠れ、夜間だけ航行すれば上陸は成功するであろう、川口支隊は、前に、英領ボルネオから蘭領ボルネオに進攻する際、この方法で成功した経験がある、というのであった。
この協議には、十七軍から越次参謀、第八艦隊から神参謀が同席していて、神参謀は、今度の上陸作戦には海軍航空隊が参加して、ガダルカナルに対して航空撃滅戦を行なうことになっているから、川口支隊到着のころには、ガダルカナルの敵飛行機は一機もいないであろう(川口清健『ガダルカナルに於ける川口支隊の作戦』)と言い、越次参謀は、軍と艦隊との間で決定したことであるから、いまさら変更など出来ない、と言った。
川口少将は容易に納得せず、橋本少将を顧みて、こう言った。
「閣下は私の部隊を護衛してガ島に無事到着する自信がありますか。あれば之に従いましょう」
温厚な橋本少将は答えた。
「マアやって見ましょう」
これで川口少将も同意せざるを得なかったという。(川口前掲書)
こうして川口支隊は八月二十四日午前十時、浅香山丸と佐渡丸に乗船したままで、三水戦護衛のもとにトラック島を出発した。ガダルカナル上陸は八月二十八日夜を予定していた。
ところが、既に述べたように、連合艦隊司令部が、ガダルカナルの敵航空兵力を掃滅し得ない限り船団輸送は困難であるから、高速艦艇輸送に方針を転換する、と二十五日に決めたことによって、一木支隊第二梯団も川口支隊も、二十五日夜、船団輸送から艦艇輸送に切り換えられることになった。
川口支隊長は、二十六日朝発せられた第十七軍司令官の命令に従って、同日夜半、歩兵第百二十四連隊第二大隊(長・鷹松少佐。第六中隊欠、連隊無線一部属)を、輸送船から駆逐艦(夕霧、朝霧、天霧、白雲の四艦)に洋上で移乗させた。はじめての経験であったが移乗作業は順調に終了、駆逐艦隊は二十七日夜上陸の予定でガダルカナルヘ向け南下、支隊主力が乗っている船団はラバウルヘ向った。
一木支隊第二梯団は、二十六日夜ショートランドに入泊したが、二水戦司令官は第二十四駆逐隊(海風、江風と配属されている磯風)に支隊人員三五〇名、速射砲四門、糧秣一三〇〇名一週間分を急遽搭載して、二十七日午前五時三十分ショートランドを出発させた。揚陸は同日夜の予定であった。
ところが、第八艦隊司令部は、二十七日の朝七時十分、右の両隊(一木第二梯団と川口支隊の一部)の揚陸を、二十七日夜から二十八日夜へ一日延期するように発令した。
その理由は、ガダルカナル飛行場には依然として敵機約三〇機が存在していることと、二十八日から二日間、第三艦隊(南雲機動部隊)からブカ島基地へ戦闘機約三〇機を進出させることになったので、その掩護を受けられるからである。
一木第二梯団を乗せた第二十四駆逐隊は、命令によって反転し、二十七日午後五時三十分、ショートランドに帰投した。問題は川口支隊第二大隊を洋上で移乗させてガダルカナルヘ向った第二十駆逐隊(三水戦)の方であった。
第二十駆逐隊が揚陸一日延期の命令を受信したのは二十七日午前九時五十分であった。そのときには、同隊は既にイサベル島北方海域に達していて、ショートランドに引き返せば燃料補給を必要とし、二十八日夜の揚陸には間に合わない事情にあった。それで、第二十駆逐隊司令はイサベル島北側海域を適当に行動しながら、二十八日早朝にショートランドを出航して来る第二十四駆逐隊(一木第二梯団搭乗)と、二十八日午後フロリダ島付近で合同したいと、増援部隊(二水戦)に申し入れた。第二十駆逐隊は、もともと航続力が少いうえに、トラック出発の際に燃料を満載する時間の余裕がなかった。このため、高速航行が出来なくて、揚陸時に間に合せるには昼間過早に敵機の攻撃圏内に入らねばならなかった。
この二十八日、基地航空部隊(二十五航戦と八月二十一日以降ラバウルに進出した二十六航戦)の陸攻一八機は、午前八時四十分、ラバウルから発進してガダルカナル攻撃に向ったが、ブカ島に揚陸した第三艦隊(南雲部隊)の戦闘機三〇機が協同することになっていたのが、進出が遅れたのと、天候が悪化したため、攻撃を中止して引き返した。
米軍機は、しかし、飛んでいたのである。第二十駆逐隊は午後二時三十分から四時十分ごろまでの間に、ラモス島付近(イサベル島東南端とマライタ島北西端との中間の小島)で、ガダルカナルから飛来した艦爆約二〇機の痛烈な攻撃を受けた。
第二十駆逐隊四艦のうち、被害がなかったのは天霧だけであった。
天霧艦長は午後四時二十分、次のように急報した。
[#1字下げ]南緯八度一三分、東経一六〇度七分ニ於テ十数機ノ爆撃ヲ受け司令(山田雄二大佐──引用者)重傷、朝霧沈没、夕霧白雲被害甚大只今救助ニ従事中。
朝霧は第一弾が右舷に命中、暗室に入って大火災となり、第二弾が前部魚雷発射管に命中、魚雷が誘爆して船体が二つに折れ、瞬時に沈没した。
白雲は罐室浸水で航行不能となった。
夕霧は至近弾によって使用不能の罐もあったが、自力航行は可能であった。
朝霧沈没による川口支隊の被害は、戦死六二名、大隊砲二門と弾薬全部が沈没した。
天霧が白雲を曳航、夕霧がこれを護衛して六ノットという低速でショートランドに向った。
同二十八日午後六時四十分、二水戦司令官は第八艦隊司令部に打電した。
「敵飛行機ノ跳梁スル現状ニ於テ駆逐艦ヲ以テスル陸兵増援ハ成功ノ算少キモノト認ム」(山田日記)
右の電信を傍受してのことかどうか明らかでないが、第二十四駆逐隊司令は、午後七時二十五分、「本日ノ揚陸ヲ断念シ引返ス」と打電して、独断で反転した。その理由は、午後七時四十分の電信によれば、「第二十駆逐隊ノ被害ニ鑑ミ敵航空兵力撃滅後ニ非ザレバ損害大ナルノミニシテ成功ノ算尠キモノト認ム」というのであった。
第二十四駆逐隊は、このとき、敵機によって発見されてはいなかった。機宜に投ずるという見方からすれば、敵機の攻撃が第二十駆逐隊に集中している時期が、第二十四駆逐隊としては突入強行の好機であったと言える。
第八艦隊司令部は、午後八時三十五分、「其ノ隊異状ナケレバ全速突入揚陸ヲ決行セヨ」と電命したが、もはや二十八日夜の上陸は困難とみて、十五分後に突入命令を取り消した。
こうして、八月二十八日のガダルカナル揚陸は失敗に終った。