川口支隊長は舟艇機動に執着するのあまり、軍司令部の意図に反して、岡連隊長以下支隊兵力の三分の一に及ぶ人員を低速の舟艇に委ね、惨澹たる機動の結果(後述)、ガダルカナルの北西端に主力と遠く分離して上陸させることになった。
軍司令部では川口少将を軍紀心なき将軍として不快感を深め、のちに支隊長罷免につながることになる。
艦艇輸送と舟艇機動の結果、日本軍は求めてルンガ地区の米軍によって東西に分断される形となるため、十七軍司令部は川口支隊主力の攻撃力の著しい低下を懸念して、ラビ方面へ増援を予定していた青葉支隊の一部(歩兵第四連隊第二大隊と野砲一中隊基幹)を、海軍諒解のもとにガダルカナルに転用、タイボ岬に上陸させて川口支隊の増強を図ることにした。
これで、川口少将がガダルカナルで掌握する兵力は、約五個大隊六〇〇〇になる。
大本営では、この兵力でガダルカナルにある米軍を圧倒|殲滅《せんめつ》することが出来ると考えていたようである。所在敵兵力の測定については、一木支隊が呆気ないほどの潰滅をしたにもかかわらず、まだ根本的な再検討が加えられず、二〇〇〇乃至三〇〇〇という過小評価が先入主となっていたことは、中央出先を問わず一般であった。不思議としか言いようがない。
八月三十日午後七時三十分、川口少将は支隊命令を発したが、その第一項に「ガ島ノ敵兵力ハ戦車約三十輛、十五糎級砲四門、迫撃砲、機関銃多数ヲ有スル約二〇〇〇ニシテ 其ノ第一線ハ中川(イル川)右岸ニ 一部ハコリ岬附近を占領シアルモノノ如ク 飛行場ニハ十数台ノ攻撃機ヲ有シ 国生部隊(第一大隊。二十九日夜タイボ岬に上陸──引用者)ノ上陸ヲ妨害セル外東方洋上ノ航空母艦ヨリ中型爆撃機時々飛来シアリ(以下略)」とある。川口少将も当面の敵兵力を下算していたことでは、二十一日に全滅した一木支隊の場合と異るところがない。
川口支隊主力は八月三十日午後八時ころから駆逐艦に移乗し、三十一日午前八時ショートランド泊地を出発した。輸送人員は支隊長以下約一二〇〇名、駆逐艦は八隻であった。
この艦艇輸送は敵の攻撃を受けることなく、八月三十一日午後九時三十分、タシンボコ(タイボ岬西方約二キロ)上陸に成功した。川口支隊長は直ちに先着の第一大隊(前出の国生部隊)と一木支隊を指揮下に掌握した。
艦艇輸送は第一次(八月二十八日)が大失敗に終っただけで、舟艇輸送を固執した川口支隊の艦艇輸送は皮肉にもその後順調に進捗した。舟艇輸送の方は、後述する通り、決して成功とは言えない結果に終るのである。
九月一日夜、駆逐艦四隻で川口支隊第一大隊残部四六五名が、九月二日夜には、敷設艦津軽と駆逐艦二隻、哨戒艇二隻で、野砲、高射砲、人員(約一五〇名)と弾薬糧秣が輸送され、揚陸に成功した。
先にふれたニューギニアのラビヘ充当を予定されていて、急遽ガダルカナルヘ転用と決った青葉支隊の一部、歩兵第四連隊第二大隊(長・田村昌雄少佐)は、九月四日、一木支隊残部とともに、駆逐艦各三隻から成る二輸送隊によってタイボ岬へ送られ、これも無事上陸した。
輸送駆逐隊は、揚陸後、ガダルカナル飛行場を砲撃して、飛行場は約一時間燃えつづけていたが、敵機の活動を封ずることは出来なかった。
九月五日夜には、駆逐艦五隻で、人員三七〇名と弾薬糧秣をタイボ岬に揚陸した。
九月七日夜には、駆逐艦三隻が野砲兵第二連隊第一中隊をタイボ岬に、別の駆逐艦二隻が海軍通信部隊をガダルカナル北西端のカミンボに揚陸した。
このころ、米軍は、日本軍とはちょうど反対の方法によって増援を図っているようであった。少数の輸送船が駆逐艦に護衛されて、白昼入泊、荷役を完了して、明るいうちに出港してしまい、日本海軍の夜襲を避けていた。日本艦艇は、白昼ガダルカナルに接近出来なかったのである。
軍司令部では川口少将を軍紀心なき将軍として不快感を深め、のちに支隊長罷免につながることになる。
艦艇輸送と舟艇機動の結果、日本軍は求めてルンガ地区の米軍によって東西に分断される形となるため、十七軍司令部は川口支隊主力の攻撃力の著しい低下を懸念して、ラビ方面へ増援を予定していた青葉支隊の一部(歩兵第四連隊第二大隊と野砲一中隊基幹)を、海軍諒解のもとにガダルカナルに転用、タイボ岬に上陸させて川口支隊の増強を図ることにした。
これで、川口少将がガダルカナルで掌握する兵力は、約五個大隊六〇〇〇になる。
大本営では、この兵力でガダルカナルにある米軍を圧倒|殲滅《せんめつ》することが出来ると考えていたようである。所在敵兵力の測定については、一木支隊が呆気ないほどの潰滅をしたにもかかわらず、まだ根本的な再検討が加えられず、二〇〇〇乃至三〇〇〇という過小評価が先入主となっていたことは、中央出先を問わず一般であった。不思議としか言いようがない。
八月三十日午後七時三十分、川口少将は支隊命令を発したが、その第一項に「ガ島ノ敵兵力ハ戦車約三十輛、十五糎級砲四門、迫撃砲、機関銃多数ヲ有スル約二〇〇〇ニシテ 其ノ第一線ハ中川(イル川)右岸ニ 一部ハコリ岬附近を占領シアルモノノ如ク 飛行場ニハ十数台ノ攻撃機ヲ有シ 国生部隊(第一大隊。二十九日夜タイボ岬に上陸──引用者)ノ上陸ヲ妨害セル外東方洋上ノ航空母艦ヨリ中型爆撃機時々飛来シアリ(以下略)」とある。川口少将も当面の敵兵力を下算していたことでは、二十一日に全滅した一木支隊の場合と異るところがない。
川口支隊主力は八月三十日午後八時ころから駆逐艦に移乗し、三十一日午前八時ショートランド泊地を出発した。輸送人員は支隊長以下約一二〇〇名、駆逐艦は八隻であった。
この艦艇輸送は敵の攻撃を受けることなく、八月三十一日午後九時三十分、タシンボコ(タイボ岬西方約二キロ)上陸に成功した。川口支隊長は直ちに先着の第一大隊(前出の国生部隊)と一木支隊を指揮下に掌握した。
艦艇輸送は第一次(八月二十八日)が大失敗に終っただけで、舟艇輸送を固執した川口支隊の艦艇輸送は皮肉にもその後順調に進捗した。舟艇輸送の方は、後述する通り、決して成功とは言えない結果に終るのである。
九月一日夜、駆逐艦四隻で川口支隊第一大隊残部四六五名が、九月二日夜には、敷設艦津軽と駆逐艦二隻、哨戒艇二隻で、野砲、高射砲、人員(約一五〇名)と弾薬糧秣が輸送され、揚陸に成功した。
先にふれたニューギニアのラビヘ充当を予定されていて、急遽ガダルカナルヘ転用と決った青葉支隊の一部、歩兵第四連隊第二大隊(長・田村昌雄少佐)は、九月四日、一木支隊残部とともに、駆逐艦各三隻から成る二輸送隊によってタイボ岬へ送られ、これも無事上陸した。
輸送駆逐隊は、揚陸後、ガダルカナル飛行場を砲撃して、飛行場は約一時間燃えつづけていたが、敵機の活動を封ずることは出来なかった。
九月五日夜には、駆逐艦五隻で、人員三七〇名と弾薬糧秣をタイボ岬に揚陸した。
九月七日夜には、駆逐艦三隻が野砲兵第二連隊第一中隊をタイボ岬に、別の駆逐艦二隻が海軍通信部隊をガダルカナル北西端のカミンボに揚陸した。
このころ、米軍は、日本軍とはちょうど反対の方法によって増援を図っているようであった。少数の輸送船が駆逐艦に護衛されて、白昼入泊、荷役を完了して、明るいうちに出港してしまい、日本海軍の夜襲を避けていた。日本艦艇は、白昼ガダルカナルに接近出来なかったのである。
九月七日の輸送で、一木支隊の残部と青葉支隊の一部を含む川口支隊の艦艇輸送は終了した。舟艇機動は別記するが、ガダルカナル作戦開始以来、輸送人員は陸軍約五四〇〇名、海軍約二〇〇名、使用艦艇は各種延べ五〇隻に達していた。
川口支隊の兵員の艦艇輸送は第一次を除けば順調に進捗したが、九月七日までにガダルカナルに輸送出来た主要兵器は、高射砲二門、野砲四門、連隊砲(山砲)六門、速射砲一四門、糧秣は一木・川口両支隊の給養兵額の約二週間分に過ぎなかった。(戦史室前掲書『陸軍作戦』)
この輸送問題には、川口支隊以後ひきつづいて第二師団、第三十八師団と増援兵力の逐次投入を行なうにしたがって、人員・艦船・航空機・器材・物資のすべてにわたる損耗の度を深め、日本全体としての戦力の根幹にまで深刻な影響を及ぼすことになった禍因を、そもそもの当初から含んでいた。
前にも触れたことだが、海上輸送は制空権の確保なしには失敗は必至といってよかった。低速の船団輸送では敵の航空機攻撃圏内の航行時間が長いから、全滅的な打撃を蒙る公算が大である。ガダルカナルが米軍に占領され、その飛行場を米軍が使用し得る限り、低速船によるガダルカナルヘの接近は、船舶・人員・資材を海底に葬ることにひとしかった。したがって「鼠輸送」と称せられる高速艦艇(駆逐艦)によって夜間に敵機の攻撃圏内に入り、泊地に進入・揚陸して、天明までになるべく遠くへ離脱する方法をとらざるを得なかったが、駆逐艦の輸送力には狭い制限があった。駆逐艦一隻につき、人員一五〇人、物資は一〇〇トンが基準であり、人員に関しては体重と装備を合わせて一人当り一〇〇キログラム以内である。これは、輸送中に海戦となった場合高速で走る艦の復原力にかかわる制約なのである。さらに、これも既に触れたことだが、駆逐艦は輸送用に出来てはいないから、搭載にも揚陸にも重機材を扱う手段がなく、せいぜい山砲以下の歩兵用重火器に限られる。前記の野砲、高射砲の輸送と揚陸は敷設艦津軽によって行なわれたのである。
輸送艦艇が幸い泊地に進入し得たとしても、揚陸作業はほとんど敵機の接触の下で行なわねばならないから、泊地に待機している発動艇(大発・小発)の数によって作業の成否が左右されることになる。その発動艇は昼間は泛水しておくわけにはゆかない。敵機に発見されれば銃撃され、破壊されてしまうからである。昼間は陸上に引き上げて匿すように努力しても、大小発の被害は甚大だったのである。
こういう悪条件の下での艦艇輸送では、どうしても揚陸しやすい歩兵部隊中心の人員輸送に限定されがちであった。火力を構成する砲とか戦車、弾薬糧秣の大量輸送は船団輸送に頼らなければならない。
だが、輸送船は敵機に捕捉される。敵機の活動を封ずるための日本軍航空基地からの攻撃は、距離の遠大と天候の不良に妨げられて、戦果の報告ほどには実効が上らない。海軍機動部隊は敵機動部隊の出現を常に懸念して、敵基地攻撃に関しては活溌でない。むしろ、敵基地からの攻撃圏に近づくことは避けている。ガダルカナル飛行場に対する地上攻撃は大量の増援補給なしには兵力火力が乏しくて、如何ともし難いという既述の悪循環に陥るのである。
少し先走るが、輸送補給は、やがて、十を送って三を揚げ、僅かにその二を利用し得るに過ぎないという状況がつづくことになる。
問題は論理的には簡単であった。ガダルカナルを中心とするソロモン戦局を決するのは航空戦力であった。大本営ではソロモン戦域での航空兵力の優越を信じていた。敵を過小評価するのは日本軍の思考の習慣的な欠陥だが、ガダルカナル基地にはせいぜい小型機三〇|乃至《ないし》四〇機の敵機しかいないと推定していた。この他に基地支援可能な態勢にある米空母がサンタクルーズ諸島付近に一隻乃至三隻、もし三隻ならばそのうち二隻は第二次ソロモン海戦によって損傷しているであろう。さらに、八月末、サンクリストバル島付近に空母二隻発見を潜水艦が報じていた。
ガダルカナル奪回のための増援補給にとって最も警戒を要するのは、ガダルカナル飛行場(ヘンダースン飛行場)に在る米軍現有機数だが、日本軍は八月三十一日のそれを、二三機、補充予想を約三〇機と見積っていた。実際には、同日の在ガダルカナル作戦可能機数は六四機であったのである。
日本軍側はどうかといえば、八月二十九日で基地現有機数八五、三月中旬ごろまでに補充集中可能なものとの合計は二三六機。川口支隊の攻撃開始予定(九月十二日ごろ)には、戦闘機一〇〇、陸攻約六〇が作戦可能であると見込んでいた。(実際には空地協同作戦など綿密周到な配慮と準備がなされた形跡がない)この他に機動部隊には大型空母瑞鶴・翔鶴が健在で、その搭載機数合計七九、九月中旬補充予定二七機であった。
これだけあれば、ソロモンの空で米空軍を圧倒出来ないはずがない、そう考えていた。
事実は、しかし、そのようには進展しなかったのである。
問題は何処にあったか。最低限、次のようには言えるであろう。基地と戦場との距離に問題があり、基地推進の際の設営能力に関して事前の考慮も準備もなされなかった点に、空戦の敗因が既にひそんでいた。
日本軍の使用し得る飛行場はラバウル(東と西の二つ)とカビエンのほか、ブカ島に一部の戦闘機基地(既述の通り艦載機を揚げていた)があるだけで、ブーゲンビル島のブイン飛行場設営が発令されたのが九月八日、その一部がようやく使用可能になったのが十月八日のことである。すべてが後手にまわっている。
これも前に再三触れたことだが、ラバウルからガダルカナルまでは五六〇浬、ブカやブインからは三〇〇浬離れている。ために、米機は戦場上空に数時間滞空して活動出来るのに、日本機は十五分しか戦場にとどまれないのである。その上、距離遠大のため、変りやすい南方の天候の影響を受けることが多く、せっかく基地を発進しても空しく引き返すことが、これは無気力なのではないかと疑いたくなるほどの頻度であった。
輸送揚陸を完うするには上空直掩機の配置が必要である。仮りに、ガダルカナル揚陸作戦の際、その上空に一八機内外の直掩機を終日配置するとすれば、三〇〇浬離れたブカまたはブインからでさえ、延べ二〇〇機を休みなしに操作しなければならない勘定になる。それだけの機数を常時揃える余力はなかったのである。まして、五六〇浬離れたラバウルからでは全然問題にならない。
要するに、尖端根拠地ラバウルから五六〇浬という飛行機の航続性能上限いっぱいの距離にあるガダルカナルに、基地を設営しようとした作戦の発想に悲劇の発端があった。次いで、奪回のため中間基地をガダルカナル近くに推進したくても、設営手段が原始的で、航空消耗戦の速度に到底追いつけなかったことが、悲劇をどれほど深刻にしたか測り知れない。
広大な飛行場の建設など人力の手に負えるものではない。設営の速度を決するのは設営用の重機械である。ブルドーザー、パワーショベル、スクレーパーなど、必要な重機械はそれを最も必要とする前線にはほとんどなかった。日本の土木は手の土木であった。失業救済の次元で考えられ、そこにとどまって、設営機械に関する研究と開発が等閑視されていた。一朝有事となっても、技術の準備と研究の甚だしい不足を早急に補うことは出来なかった。
したがって、必要な場所に必要期限内に飛行場を建設して作戦に間に合わせることが出来ず、みすみす敵機の跳梁に任せることになるのである。
大本営が信じた日本空軍の優越は夢でしかなかったのだ。当然である。天皇制下に、その絶対性に依拠し、合理性を排除してはびこった軍部官僚主義に、現実的な認識も、柔軟迅速な対応処置も、可能であるはずがなかったのである。
日本海軍の前進基地ショートランドからガダルカナルのタイボ岬まで約三〇〇浬、ここを航行する日本艦艇は、ほとんどいつもB17の哨戒圏を航行することになり、一度接触されると、ガダルカナル基地へ通報され、基地からの攻撃機が有効に襲いかかってきた。
一方、米軍は、ガダルカナルの泊地に輸送船が随時入泊して、白昼堂々と揚陸作業を行ない、終了すると遅滞なく出港して、日本海軍の夜襲を回避した。
彼の補給は自在であり、我は補給に難儀をきわめる。同時並行的に作戦が行なわれていた東部ニューギニアでも、事態は同じであった。
補給難に苦しんだ日本軍に関して、次のような記録がある。
「現地の兵隊の人相が変っていた。弾薬など見向きもしないのだ。暗いハッチのなかで、米はどこだ! 味噌はどこだ! と目の色をかえて、上積みの弾薬をはねのけている」(海上の友編集部編『武器なき海』──日本商船の戦時記録)
川口支隊の兵員の艦艇輸送は第一次を除けば順調に進捗したが、九月七日までにガダルカナルに輸送出来た主要兵器は、高射砲二門、野砲四門、連隊砲(山砲)六門、速射砲一四門、糧秣は一木・川口両支隊の給養兵額の約二週間分に過ぎなかった。(戦史室前掲書『陸軍作戦』)
この輸送問題には、川口支隊以後ひきつづいて第二師団、第三十八師団と増援兵力の逐次投入を行なうにしたがって、人員・艦船・航空機・器材・物資のすべてにわたる損耗の度を深め、日本全体としての戦力の根幹にまで深刻な影響を及ぼすことになった禍因を、そもそもの当初から含んでいた。
前にも触れたことだが、海上輸送は制空権の確保なしには失敗は必至といってよかった。低速の船団輸送では敵の航空機攻撃圏内の航行時間が長いから、全滅的な打撃を蒙る公算が大である。ガダルカナルが米軍に占領され、その飛行場を米軍が使用し得る限り、低速船によるガダルカナルヘの接近は、船舶・人員・資材を海底に葬ることにひとしかった。したがって「鼠輸送」と称せられる高速艦艇(駆逐艦)によって夜間に敵機の攻撃圏内に入り、泊地に進入・揚陸して、天明までになるべく遠くへ離脱する方法をとらざるを得なかったが、駆逐艦の輸送力には狭い制限があった。駆逐艦一隻につき、人員一五〇人、物資は一〇〇トンが基準であり、人員に関しては体重と装備を合わせて一人当り一〇〇キログラム以内である。これは、輸送中に海戦となった場合高速で走る艦の復原力にかかわる制約なのである。さらに、これも既に触れたことだが、駆逐艦は輸送用に出来てはいないから、搭載にも揚陸にも重機材を扱う手段がなく、せいぜい山砲以下の歩兵用重火器に限られる。前記の野砲、高射砲の輸送と揚陸は敷設艦津軽によって行なわれたのである。
輸送艦艇が幸い泊地に進入し得たとしても、揚陸作業はほとんど敵機の接触の下で行なわねばならないから、泊地に待機している発動艇(大発・小発)の数によって作業の成否が左右されることになる。その発動艇は昼間は泛水しておくわけにはゆかない。敵機に発見されれば銃撃され、破壊されてしまうからである。昼間は陸上に引き上げて匿すように努力しても、大小発の被害は甚大だったのである。
こういう悪条件の下での艦艇輸送では、どうしても揚陸しやすい歩兵部隊中心の人員輸送に限定されがちであった。火力を構成する砲とか戦車、弾薬糧秣の大量輸送は船団輸送に頼らなければならない。
だが、輸送船は敵機に捕捉される。敵機の活動を封ずるための日本軍航空基地からの攻撃は、距離の遠大と天候の不良に妨げられて、戦果の報告ほどには実効が上らない。海軍機動部隊は敵機動部隊の出現を常に懸念して、敵基地攻撃に関しては活溌でない。むしろ、敵基地からの攻撃圏に近づくことは避けている。ガダルカナル飛行場に対する地上攻撃は大量の増援補給なしには兵力火力が乏しくて、如何ともし難いという既述の悪循環に陥るのである。
少し先走るが、輸送補給は、やがて、十を送って三を揚げ、僅かにその二を利用し得るに過ぎないという状況がつづくことになる。
問題は論理的には簡単であった。ガダルカナルを中心とするソロモン戦局を決するのは航空戦力であった。大本営ではソロモン戦域での航空兵力の優越を信じていた。敵を過小評価するのは日本軍の思考の習慣的な欠陥だが、ガダルカナル基地にはせいぜい小型機三〇|乃至《ないし》四〇機の敵機しかいないと推定していた。この他に基地支援可能な態勢にある米空母がサンタクルーズ諸島付近に一隻乃至三隻、もし三隻ならばそのうち二隻は第二次ソロモン海戦によって損傷しているであろう。さらに、八月末、サンクリストバル島付近に空母二隻発見を潜水艦が報じていた。
ガダルカナル奪回のための増援補給にとって最も警戒を要するのは、ガダルカナル飛行場(ヘンダースン飛行場)に在る米軍現有機数だが、日本軍は八月三十一日のそれを、二三機、補充予想を約三〇機と見積っていた。実際には、同日の在ガダルカナル作戦可能機数は六四機であったのである。
日本軍側はどうかといえば、八月二十九日で基地現有機数八五、三月中旬ごろまでに補充集中可能なものとの合計は二三六機。川口支隊の攻撃開始予定(九月十二日ごろ)には、戦闘機一〇〇、陸攻約六〇が作戦可能であると見込んでいた。(実際には空地協同作戦など綿密周到な配慮と準備がなされた形跡がない)この他に機動部隊には大型空母瑞鶴・翔鶴が健在で、その搭載機数合計七九、九月中旬補充予定二七機であった。
これだけあれば、ソロモンの空で米空軍を圧倒出来ないはずがない、そう考えていた。
事実は、しかし、そのようには進展しなかったのである。
問題は何処にあったか。最低限、次のようには言えるであろう。基地と戦場との距離に問題があり、基地推進の際の設営能力に関して事前の考慮も準備もなされなかった点に、空戦の敗因が既にひそんでいた。
日本軍の使用し得る飛行場はラバウル(東と西の二つ)とカビエンのほか、ブカ島に一部の戦闘機基地(既述の通り艦載機を揚げていた)があるだけで、ブーゲンビル島のブイン飛行場設営が発令されたのが九月八日、その一部がようやく使用可能になったのが十月八日のことである。すべてが後手にまわっている。
これも前に再三触れたことだが、ラバウルからガダルカナルまでは五六〇浬、ブカやブインからは三〇〇浬離れている。ために、米機は戦場上空に数時間滞空して活動出来るのに、日本機は十五分しか戦場にとどまれないのである。その上、距離遠大のため、変りやすい南方の天候の影響を受けることが多く、せっかく基地を発進しても空しく引き返すことが、これは無気力なのではないかと疑いたくなるほどの頻度であった。
輸送揚陸を完うするには上空直掩機の配置が必要である。仮りに、ガダルカナル揚陸作戦の際、その上空に一八機内外の直掩機を終日配置するとすれば、三〇〇浬離れたブカまたはブインからでさえ、延べ二〇〇機を休みなしに操作しなければならない勘定になる。それだけの機数を常時揃える余力はなかったのである。まして、五六〇浬離れたラバウルからでは全然問題にならない。
要するに、尖端根拠地ラバウルから五六〇浬という飛行機の航続性能上限いっぱいの距離にあるガダルカナルに、基地を設営しようとした作戦の発想に悲劇の発端があった。次いで、奪回のため中間基地をガダルカナル近くに推進したくても、設営手段が原始的で、航空消耗戦の速度に到底追いつけなかったことが、悲劇をどれほど深刻にしたか測り知れない。
広大な飛行場の建設など人力の手に負えるものではない。設営の速度を決するのは設営用の重機械である。ブルドーザー、パワーショベル、スクレーパーなど、必要な重機械はそれを最も必要とする前線にはほとんどなかった。日本の土木は手の土木であった。失業救済の次元で考えられ、そこにとどまって、設営機械に関する研究と開発が等閑視されていた。一朝有事となっても、技術の準備と研究の甚だしい不足を早急に補うことは出来なかった。
したがって、必要な場所に必要期限内に飛行場を建設して作戦に間に合わせることが出来ず、みすみす敵機の跳梁に任せることになるのである。
大本営が信じた日本空軍の優越は夢でしかなかったのだ。当然である。天皇制下に、その絶対性に依拠し、合理性を排除してはびこった軍部官僚主義に、現実的な認識も、柔軟迅速な対応処置も、可能であるはずがなかったのである。
日本海軍の前進基地ショートランドからガダルカナルのタイボ岬まで約三〇〇浬、ここを航行する日本艦艇は、ほとんどいつもB17の哨戒圏を航行することになり、一度接触されると、ガダルカナル基地へ通報され、基地からの攻撃機が有効に襲いかかってきた。
一方、米軍は、ガダルカナルの泊地に輸送船が随時入泊して、白昼堂々と揚陸作業を行ない、終了すると遅滞なく出港して、日本海軍の夜襲を回避した。
彼の補給は自在であり、我は補給に難儀をきわめる。同時並行的に作戦が行なわれていた東部ニューギニアでも、事態は同じであった。
補給難に苦しんだ日本軍に関して、次のような記録がある。
「現地の兵隊の人相が変っていた。弾薬など見向きもしないのだ。暗いハッチのなかで、米はどこだ! 味噌はどこだ! と目の色をかえて、上積みの弾薬をはねのけている」(海上の友編集部編『武器なき海』──日本商船の戦時記録)