時間が多少あともどりすることになるが、歩兵第百二十四連隊長岡大佐が指揮する舟艇機動部隊の経過を辿ることにする。この部隊がガダルカナルに無事上陸することによって、川口支隊の兵力は勢揃いすることになるのである。
岡大佐は、八月三十一日午後五時、ショートランドに碇泊中の佐渡丸で、舟艇機動に関する計画と部署を発令した。
川口支隊長の舟艇機動の航路計画は、ソロモン諸島の南側列島沿いに、まず、ショートランドからギゾ島(ベララベラ島とコロンバンガラ島の中間の小島)まで輸送船で行き、そこで舟艇に移乗する。ギゾからニュージョージア島北岸モンゴウ通路を通り、ガッカイ島に至り、ラッセル諸島を経てガダルカナルに到達する、仮泊地五カ所の予定である。
岡大佐は、しかし、この航路計画を採らなかった。彼は第三水雷戦隊と協定の結果、ソロモン諸島の北側列島の内懐に航路を選んだ。ショートランドからイサベル島西端に近いロング島付近まで輸送船で行き、そこで舟艇に移乗、イサベル島南岸に沿って、セントジョージ島北側水道を通り、そこからガダルカナル北西角のカミンボに上陸するという計画である。この計画では、仮泊地は三カ所であった。
結果を先に言えば、岡大佐の舟艇機動は大損害を蒙った。それを、川口少将は次のように言っている。
「舟艇機動は初めはうまくいったが残念なことに最後のコースで失敗した。私はラッセル島から|ガダルの西北端に向う様指示しておいた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。之なら夜のうちにガダルにとりつくことができる。又汐の関係もよい。然るにどういうわけか未だに分らぬのだが岡大佐はイサベル島を経て来た。その結果最後の日の夜明け迄にガダルに着くことが出来なくて日出以後航海した為、敵飛行機に発見せられ、その攻撃を受け、損害を受け(以下略)」(川口清健『真書ガダルカナル戦』──〈特集文藝春秋〉昭和二十九年七月号──傍点引用者)
傍点部分の「ガダルの西北端に向う様指示しておいた」というのは誤りである。支隊命令では、上陸点を「タイボ岬止むを得ざればガ島北西端付近」と定めてあった。しかし、列島の南側と北側のいずれのコースをとるにしても、鈍足の舟艇でルンガ沖を通過してタイボ岬に向うことは、はじめから至難の業とわかっていたから、岡大佐は上陸点を北西端と定めていたのである。
川口支隊長がソロモン諸島南側列島沿いの舟艇航路を計画したのは、最終コースのラッセル島からガダルカナル島までの距離が、北側航路の最終コースであるイサベル島からガダルカナルまでの距離よりはるかに短くて、ラッセル島を夕刻出発すれば舟艇の鈍足をもってしても翌払暁までにはガダルカナルに達着出来ると考えられたからであった。
だが、岡大佐が選んだ北方航路は、南方航路の五日の仮泊に較べて三日の仮泊で事足り、それだけ敵哨戒機に発見される危険度が少い、と地図の上では考えられたし、南方航路の第四日目仮泊地のガッカイ島から最終仮泊地のラッセル島までの距離は、北方航路の最終コースであるイサベル島からガダルカナル島までの距離とほぼ同じくらいであるから、イサベル─ガダルカナル間が発見される危険度が高いとすれば、ガッカイ─ラッセル間も同様であって、ガダルカナルからの航空攻撃圏に入ってしまっているのである。
したがって、川口少将のいう南方航路をとれば、舟艇機動は成功したであろうとは言えないことになる。
どの航路をとるにしても、また舟艇機動がガダルカナル北西端までは成功するとしても、支隊主力が上陸集結するタイボ岬付近へ、支隊兵力の三分の一に達する舟艇部隊が米軍泊地のルンガ沖を敵前機動して行くことはほとんど不可能である。つまり、舟艇機動を行なえば兵力を東と西に分断される結果となることは、はじめから明瞭なはずであった。それにもかかわらず、川口支隊長は舟艇機動に兵力の三分の一を割いたのである。十七軍司令部がこれを諒とするはずがなかった。
岡大佐は、八月三十一日午後五時、ショートランドに碇泊中の佐渡丸で、舟艇機動に関する計画と部署を発令した。
川口支隊長の舟艇機動の航路計画は、ソロモン諸島の南側列島沿いに、まず、ショートランドからギゾ島(ベララベラ島とコロンバンガラ島の中間の小島)まで輸送船で行き、そこで舟艇に移乗する。ギゾからニュージョージア島北岸モンゴウ通路を通り、ガッカイ島に至り、ラッセル諸島を経てガダルカナルに到達する、仮泊地五カ所の予定である。
岡大佐は、しかし、この航路計画を採らなかった。彼は第三水雷戦隊と協定の結果、ソロモン諸島の北側列島の内懐に航路を選んだ。ショートランドからイサベル島西端に近いロング島付近まで輸送船で行き、そこで舟艇に移乗、イサベル島南岸に沿って、セントジョージ島北側水道を通り、そこからガダルカナル北西角のカミンボに上陸するという計画である。この計画では、仮泊地は三カ所であった。
結果を先に言えば、岡大佐の舟艇機動は大損害を蒙った。それを、川口少将は次のように言っている。
「舟艇機動は初めはうまくいったが残念なことに最後のコースで失敗した。私はラッセル島から|ガダルの西北端に向う様指示しておいた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。之なら夜のうちにガダルにとりつくことができる。又汐の関係もよい。然るにどういうわけか未だに分らぬのだが岡大佐はイサベル島を経て来た。その結果最後の日の夜明け迄にガダルに着くことが出来なくて日出以後航海した為、敵飛行機に発見せられ、その攻撃を受け、損害を受け(以下略)」(川口清健『真書ガダルカナル戦』──〈特集文藝春秋〉昭和二十九年七月号──傍点引用者)
傍点部分の「ガダルの西北端に向う様指示しておいた」というのは誤りである。支隊命令では、上陸点を「タイボ岬止むを得ざればガ島北西端付近」と定めてあった。しかし、列島の南側と北側のいずれのコースをとるにしても、鈍足の舟艇でルンガ沖を通過してタイボ岬に向うことは、はじめから至難の業とわかっていたから、岡大佐は上陸点を北西端と定めていたのである。
川口支隊長がソロモン諸島南側列島沿いの舟艇航路を計画したのは、最終コースのラッセル島からガダルカナル島までの距離が、北側航路の最終コースであるイサベル島からガダルカナルまでの距離よりはるかに短くて、ラッセル島を夕刻出発すれば舟艇の鈍足をもってしても翌払暁までにはガダルカナルに達着出来ると考えられたからであった。
だが、岡大佐が選んだ北方航路は、南方航路の五日の仮泊に較べて三日の仮泊で事足り、それだけ敵哨戒機に発見される危険度が少い、と地図の上では考えられたし、南方航路の第四日目仮泊地のガッカイ島から最終仮泊地のラッセル島までの距離は、北方航路の最終コースであるイサベル島からガダルカナル島までの距離とほぼ同じくらいであるから、イサベル─ガダルカナル間が発見される危険度が高いとすれば、ガッカイ─ラッセル間も同様であって、ガダルカナルからの航空攻撃圏に入ってしまっているのである。
したがって、川口少将のいう南方航路をとれば、舟艇機動は成功したであろうとは言えないことになる。
どの航路をとるにしても、また舟艇機動がガダルカナル北西端までは成功するとしても、支隊主力が上陸集結するタイボ岬付近へ、支隊兵力の三分の一に達する舟艇部隊が米軍泊地のルンガ沖を敵前機動して行くことはほとんど不可能である。つまり、舟艇機動を行なえば兵力を東と西に分断される結果となることは、はじめから明瞭なはずであった。それにもかかわらず、川口支隊長は舟艇機動に兵力の三分の一を割いたのである。十七軍司令部がこれを諒とするはずがなかった。
岡大佐指揮する舟艇機動部隊は佐渡丸と浅香山丸で、駆逐艦二隻に護られ、九月一日午前六時、ショートランドを出港、夕刻、ロング島(イサベル島西方端に近い小島)南方海上で舟艇移乗を開始し、九月二日午前四時三十分までに第一仮泊地ロング島南岸に舟艇群を集結した。
使用舟艇は、高速艇甲乙各一隻、大発二八隻、小発三一隻、搭載人員約一〇〇〇名であった。
機動は夜間機動、昼間は島蔭に潜伏するのである。せいぜい一四、五キロしか速度の出ない、耐波性にも問題がある大小発で、長時間をかけて機動することは、急速増援を必要とするガダルカナルの状況には全く合わないことであるのは明らかであるのに、それを固執した川口支隊長と、渋々ながらそれを認めた十七軍司令部の認識と判断はおかしかったと言わなければならない。
舟艇部隊は九月二日午後三時ロング島南岸を出発、第二仮泊地へ向った。水路|嚮導《きようどう》のために川元海軍中尉がこの陸軍部隊に特派されていた。九月二日の午後は強風と豪雨で舟艇群は荒れ狂う海に翻弄された。
第二仮泊地であるフィンナナ島(イサベル島中央部南岸に近い小島)の北岸に到着したのは、九月三日午前四時ごろであった。
同島を三日午後二時出発、第三仮泊地をセントジョージ島(イサベル島東南端部に近い島)の北岸から南岸へ予定変更して、九月四日午前四時ごろ同地に到着した。
ここまでは、海は荒れたが、無事であった。問題は最終コース、セントジョージからガダルカナルまでである。
九月四日、午前九時十分ごろ、北方から飛来した飛行機が、所在を秘匿している舟艇群の上空を旋回して、南方へ去った。敵偵察機に発見されたのである。
三十分後、戦闘機と軽爆撃機計一三機が襲いかかり、銃爆撃を加えた。避退することも出来ない。舟艇部隊は機関銃で応戦したが、舟艇の損害は三分の一にも及んだ。
岡大佐は、しかし、機動続行の決意はゆるがず、ガダルカナル島カミンボ湾(エスペランス岬の北西方約六・五キロ)上陸の部署を、九月四日午後四時十五分発令した。
舟艇の損傷は応急修理を施して、午後六時最終コースヘ乗り出す予定であった。
午後五時舟艇移乗を開始したが、折り悪しく干潮のため珊瑚礁が障碍物となって、離礁も発進も出来ず、午後七時半ごろようやく出発準備を終った。
部隊がセントジョージ島南端から暗黒の海洋へ乗り出したころ、風浪は次第に激しくなった。波は高く、舟艇の舷を越えて海水が落ち込み、応急修理をした弾痕からも容赦なく浸水した。海水を掻き出すことが必死の戦いであった。
エンジン故障が多発した。方位も失った。浸水は休みなくつづいた。六〇隻に近い舟艇群は支離滅裂となった。岡大佐の乗艇も故障を起こして、はぐれてしまった。
ガダルカナルのカミンボ湾への上陸予定は九月五日午前三時であった。そのころ、東の空が白みかけてきたが、舟艇群は散り散りになり、目的地の島影も見えなかった。
午前四時二十分、水平線上に幽かに山頂が見えた。めざすガダルカナルであった。
明るくなってきた。天明までに上陸することは出来なかったのである。午前四時四十分、二機の敵機が現われ、高度約一〇〇〇メートルで舟艇上空を旋回した。
十分後、戦爆連合の編隊が襲いかかった。舟艇部隊の尖兵梯隊に位置していた第二大隊長鷹松少佐は各種銃火器で対空戦闘を命じ、各舟艇は対空射撃をしながら陸地へ急いだ。鷹松少佐はこの戦闘間に頭部に命中弾を受けて戦死したが、苦闘約一時間、船舶工兵第一連隊長脇谷中佐の舟艇がまずマルボボ(カミンボから南西へ約四・五キロ)に辿り着いたのは、九月五日午前五時四十分ごろであった。各舟艇も脇谷中佐の指揮艇につづいたが、このときマルボボに達着した舟艇が何隻であったか、明らかでない。
故障のため落伍した岡大佐の舟艇は、浸水と戦いながら天明を迎え、午前九時二十分ごろ、カミンボから南西ヘ一一キロも隔ったガバンガに到着した。
舟艇部隊の主力(第二大隊)は逐次マルボボに集結していた。岡大佐の一行がガバンガから舟艇で移動してマルボボに到ったのは五日午後六時ごろであった。
敵機は九月六日朝から、終日、マルボボ付近のジャングルに退避集結した岡部隊の舟艇に対して攻撃を加えたが、舟艇以外の損害は軽少であった。
十三設の岡村隊長が連絡に来て岡大佐に会ったらしいから、川口支隊が東西に遠く分離上陸した状況もほぼ判明したであろうと想像される。
九月六日午前九時ごろ、カミンボ東北東約三キロのピザレに上陸した通信隊から、舟艇部隊の一部が前日(五日)の天明後、サボ島に上陸しているという報告があった。
部隊主力から、六日夜、大発をサボ島へ派遣したが発見出来ず、翌七日再び行なって救出し、マルボボに合流した。
舟艇機動が完了したと思われる九月六日、七日ごろ、岡大佐が果してどれだけの兵力を掌握出来たか、逆に言えば、舟艇機動による人員損失がどれだけであったか、記録は残っていないようである。
舟艇機動は、客観的にみて、失敗であったと言えるであろう。辛労多く、危険を冒し、時間を費やし、支離滅裂となってガダルカナル海岸各地点に辿り着いて、得たところはほとんどなく、その後の作戦にも支障を来すことになったのである。
舟艇機動を実施した部隊のうち、セントジョージ島を出発して、風浪に翻弄され、かろうじて陸地に辿り着いたら、そこは出発したはずのセントジョージ島であり、航行中に舟艇が破損し、装具等を海中に投棄したため、余儀なくブーゲンビル島まで引き返して再挙を期した部隊もある。このとき、破損した舟艇に乗りきれずに、二八名(連隊砲中隊)をセントジョージに残して、遂にそのままになってしまったという出来事もある。
使用舟艇は、高速艇甲乙各一隻、大発二八隻、小発三一隻、搭載人員約一〇〇〇名であった。
機動は夜間機動、昼間は島蔭に潜伏するのである。せいぜい一四、五キロしか速度の出ない、耐波性にも問題がある大小発で、長時間をかけて機動することは、急速増援を必要とするガダルカナルの状況には全く合わないことであるのは明らかであるのに、それを固執した川口支隊長と、渋々ながらそれを認めた十七軍司令部の認識と判断はおかしかったと言わなければならない。
舟艇部隊は九月二日午後三時ロング島南岸を出発、第二仮泊地へ向った。水路|嚮導《きようどう》のために川元海軍中尉がこの陸軍部隊に特派されていた。九月二日の午後は強風と豪雨で舟艇群は荒れ狂う海に翻弄された。
第二仮泊地であるフィンナナ島(イサベル島中央部南岸に近い小島)の北岸に到着したのは、九月三日午前四時ごろであった。
同島を三日午後二時出発、第三仮泊地をセントジョージ島(イサベル島東南端部に近い島)の北岸から南岸へ予定変更して、九月四日午前四時ごろ同地に到着した。
ここまでは、海は荒れたが、無事であった。問題は最終コース、セントジョージからガダルカナルまでである。
九月四日、午前九時十分ごろ、北方から飛来した飛行機が、所在を秘匿している舟艇群の上空を旋回して、南方へ去った。敵偵察機に発見されたのである。
三十分後、戦闘機と軽爆撃機計一三機が襲いかかり、銃爆撃を加えた。避退することも出来ない。舟艇部隊は機関銃で応戦したが、舟艇の損害は三分の一にも及んだ。
岡大佐は、しかし、機動続行の決意はゆるがず、ガダルカナル島カミンボ湾(エスペランス岬の北西方約六・五キロ)上陸の部署を、九月四日午後四時十五分発令した。
舟艇の損傷は応急修理を施して、午後六時最終コースヘ乗り出す予定であった。
午後五時舟艇移乗を開始したが、折り悪しく干潮のため珊瑚礁が障碍物となって、離礁も発進も出来ず、午後七時半ごろようやく出発準備を終った。
部隊がセントジョージ島南端から暗黒の海洋へ乗り出したころ、風浪は次第に激しくなった。波は高く、舟艇の舷を越えて海水が落ち込み、応急修理をした弾痕からも容赦なく浸水した。海水を掻き出すことが必死の戦いであった。
エンジン故障が多発した。方位も失った。浸水は休みなくつづいた。六〇隻に近い舟艇群は支離滅裂となった。岡大佐の乗艇も故障を起こして、はぐれてしまった。
ガダルカナルのカミンボ湾への上陸予定は九月五日午前三時であった。そのころ、東の空が白みかけてきたが、舟艇群は散り散りになり、目的地の島影も見えなかった。
午前四時二十分、水平線上に幽かに山頂が見えた。めざすガダルカナルであった。
明るくなってきた。天明までに上陸することは出来なかったのである。午前四時四十分、二機の敵機が現われ、高度約一〇〇〇メートルで舟艇上空を旋回した。
十分後、戦爆連合の編隊が襲いかかった。舟艇部隊の尖兵梯隊に位置していた第二大隊長鷹松少佐は各種銃火器で対空戦闘を命じ、各舟艇は対空射撃をしながら陸地へ急いだ。鷹松少佐はこの戦闘間に頭部に命中弾を受けて戦死したが、苦闘約一時間、船舶工兵第一連隊長脇谷中佐の舟艇がまずマルボボ(カミンボから南西へ約四・五キロ)に辿り着いたのは、九月五日午前五時四十分ごろであった。各舟艇も脇谷中佐の指揮艇につづいたが、このときマルボボに達着した舟艇が何隻であったか、明らかでない。
故障のため落伍した岡大佐の舟艇は、浸水と戦いながら天明を迎え、午前九時二十分ごろ、カミンボから南西ヘ一一キロも隔ったガバンガに到着した。
舟艇部隊の主力(第二大隊)は逐次マルボボに集結していた。岡大佐の一行がガバンガから舟艇で移動してマルボボに到ったのは五日午後六時ごろであった。
敵機は九月六日朝から、終日、マルボボ付近のジャングルに退避集結した岡部隊の舟艇に対して攻撃を加えたが、舟艇以外の損害は軽少であった。
十三設の岡村隊長が連絡に来て岡大佐に会ったらしいから、川口支隊が東西に遠く分離上陸した状況もほぼ判明したであろうと想像される。
九月六日午前九時ごろ、カミンボ東北東約三キロのピザレに上陸した通信隊から、舟艇部隊の一部が前日(五日)の天明後、サボ島に上陸しているという報告があった。
部隊主力から、六日夜、大発をサボ島へ派遣したが発見出来ず、翌七日再び行なって救出し、マルボボに合流した。
舟艇機動が完了したと思われる九月六日、七日ごろ、岡大佐が果してどれだけの兵力を掌握出来たか、逆に言えば、舟艇機動による人員損失がどれだけであったか、記録は残っていないようである。
舟艇機動は、客観的にみて、失敗であったと言えるであろう。辛労多く、危険を冒し、時間を費やし、支離滅裂となってガダルカナル海岸各地点に辿り着いて、得たところはほとんどなく、その後の作戦にも支障を来すことになったのである。
舟艇機動を実施した部隊のうち、セントジョージ島を出発して、風浪に翻弄され、かろうじて陸地に辿り着いたら、そこは出発したはずのセントジョージ島であり、航行中に舟艇が破損し、装具等を海中に投棄したため、余儀なくブーゲンビル島まで引き返して再挙を期した部隊もある。このとき、破損した舟艇に乗りきれずに、二八名(連隊砲中隊)をセントジョージに残して、遂にそのままになってしまったという出来事もある。