川口支隊の各部隊が相次いでガダルカナルに上陸集結していたころ、九月五日、第十七軍と連合艦隊との間で作戦協定が行なわれ、ガダルカナルの米軍兵力に関して改めて検討が行なわれた。
米軍来攻当初の戦闘員が二〇〇〇乃至三〇〇〇という推定は依然として大した変りはなかったが、八月三十一日以降ルンガ泊地に入泊した敵艦船は、駆逐艦等二〇隻、輸送船六隻で、戦闘員は約五〇〇〇がガダルカナルにいるものと判断された(ツラギは別)。重装備は戦車二〇乃至三〇輛、十五センチ砲数門という推定であった。(戦史室前掲書)
右の評価も事実と較べれば過少であるが、十七軍司令部が右の推定に基づく敵兵力に対して、川口支隊の兵力では、ガダルカナル奪回には不十分ではないか、という疑念を抱くようになったことは、とかく敵を軽視しがちな日本軍として珍重すべきことであった。
十七軍司令部は川口支隊長に宛てて、
「現兵力ニテ十分ナリヤ 青葉支隊ノ一部及中央ヨリ送附ノ特殊資材ヲ十六日『タイボ』岬ニ送ル用意アリ」
と照会電報を打った。
これに対する九月六日の川口支隊長の返電は次の通りであった。
「現兵力ニテ任務完遂ノ確信アリ 御安心ヲ乞フ 予定ノ如ク十二日攻撃ヲ行フ 十二日ハ月ナク夜襲ニ適ス 攻撃日時ノ遷延ハ最モ不利ナリ」
と、自信満々としていた。敵情を熟知した上での自信ならよかったが、そうではなかったのである。
川口少将は、後日、次のように書いている。
「敵の海兵一師団以上の優勢に対してこちらは僅に五個大隊、砲とは云え、それは名のみの御軽少なものが十二門しかない。(中略)
然し今更泣言を言うべきではない。敵に勝つ途は何か? 正攻法では勝目はない。一木支隊の真似をしては駄目だ。
そこで私は敵の背後に潜入して夜襲に依って一夜の中に雌雄を決しよう、戦闘が翌日昼に及べば優勢な敵の火力でこちらが潰されると考えたのである。(以下略)」(川口前掲書)
前記十七軍司令部への川口支隊長の返電中にある「確信」は、敵情を知らず、知る努力も払わぬうちの自己過信でしかなかったのである。
九月六日、川口支隊長は十七軍司令部に威勢のいい攻撃計画を報告している。少し長いが、敵情が全くわからぬうちから如何に楽観していたかがよく窺えるので、引用する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、支隊ハ九日夜ヨリ南方ジャングルヲ迂回シ 十二日十二時迄ニ攻撃準備ヲ完了 十六時ヨリ攻撃ヲ開始シ十七時一斉ニ夜襲 翌十三日払暁迄ニ全陣地ヲ蹂躙ス
主攻撃方向ヲ南方ジャングルヨリ北方飛行場ニ指向ス
二、熊大隊(一木支隊残部ヲ以テ編成)ヲシテ飛行場東方中川左岸敵陣地ノ背後ヲ攻撃セシム
三、主力(歩兵三大隊基幹)ハ南方ジャングルヲ迂回シテ飛行場南方二粁ニ攻撃ヲ準備シ 飛行場附近ノ要地ヲ奪取後設営隊宿舎方向ニ突進ス
四、岡部隊(舟艇機動部隊)ハ海岸方面ヨリ飛行場西側ノ橋梁方向ニ攻撃ス
[#ここで字下げ終わり]
川口支隊長はジャングルを迂回して夜襲する作戦の成功を疑わなかった。迂回作戦をとることにしたのは、海岸道を西進してイル川の敵陣地を東から渡河攻撃するのは、一木支隊同様の打撃を蒙ることになると判断したからである。だが、ジャングル迂回がどれほどの難事業であるかについての認識は浅かったと言わねばならない。
さらに指摘しておかなければならない重要なことは、戦術思想的にみて、迂回や夜襲という日本軍の常套的戦法の次元に思考がとどまっていて、海・空・陸三者の立体的協同作戦が全く考えられていなかったことである。八月七日の米軍上陸には既にその戦法が採られていたにもかかわらず、日本軍の奪回作戦には、艦砲射撃と空襲、それに連繋する上陸作戦という方式は考慮の外にあった。
川口支隊の攻撃に関しては、支隊の一夜の夜襲によって飛行場の奪回が可能であるという前提に、陸海軍共に立っていた。川口支隊が夜襲で飛行場を奪取する。それにつづいて第八艦隊が泊地に突入する。第二、第三艦隊は来援するであろう米艦隊主力と決戦する、という構想である。
その決戦には、海軍根拠地のトラック島から決戦海面までの距離が長いために、燃料補給の必要という時間的制約があった。
したがって、川口支隊の攻撃開始をいつにするかが重要な問題となった。
川口支隊長は先に記した攻撃計画では攻撃開始を九月十二日夜と報告したが、前進行動を起こしてみると、連日の降雨で河川は氾濫し、地面は泥濘と化し、前進が意のままにならず、弾薬糧秣の集積が難渋した。
支隊長は、前進に予想外の時間を費やすことを知って、九月七日午前六時過ぎ、攻撃開始を先の十二日から十三日に予定変更するよう十七軍司令部に報告した。
川口支隊長は各部隊長をテテレ(タイボ岬から西へ直線距離で約一五キロ)に集合させ、九月七日午後一時、飛行場を主目的とする敵陣地攻撃計画を示達し、攻撃準備位置へ進出する各部隊の機動を部署した。
各部隊の行動要領は「十日未明ヨリ『コリ』岬(先のテテレよりさらに西へ約七キロ)附近ヲ基点トシテ南方『ジャングル』内ノ迂回ヲ開始 十三日十二時迄ニ攻撃準備ヲ完了シ十六時攻撃開始 十七時一斉ニ夜襲ヲ行ヒ翌十四日払暁迄ニ全地ヲ蹂躙ス」るというものである。
右翼隊は熊大隊(一木支隊残部)
中央隊
右第一線攻撃部隊 歩一二四の第三大隊
左第一線攻撃部隊 歩一二四の第一大隊
第二線攻撃部隊 青葉大隊(歩四)
左翼隊 歩一二四の第二大隊(舟艇機動部隊)
砲兵隊 熊連隊砲中隊、熊速射砲中隊、独立速射砲中隊、歩兵一中隊(機関銃一小隊属)
支隊主力とは反対のガ島西北端部に辿り着いた岡部隊(舟艇機動部隊)へは無線連絡をとったほか、中山中尉以下四名の伝令が中央部の敵地を突破して連絡に赴き、マタニカウ川西方地域を東進しつつあった岡連隊長との連絡に成功した。攻撃開始を予定されていた日のことである。
米軍来攻当初の戦闘員が二〇〇〇乃至三〇〇〇という推定は依然として大した変りはなかったが、八月三十一日以降ルンガ泊地に入泊した敵艦船は、駆逐艦等二〇隻、輸送船六隻で、戦闘員は約五〇〇〇がガダルカナルにいるものと判断された(ツラギは別)。重装備は戦車二〇乃至三〇輛、十五センチ砲数門という推定であった。(戦史室前掲書)
右の評価も事実と較べれば過少であるが、十七軍司令部が右の推定に基づく敵兵力に対して、川口支隊の兵力では、ガダルカナル奪回には不十分ではないか、という疑念を抱くようになったことは、とかく敵を軽視しがちな日本軍として珍重すべきことであった。
十七軍司令部は川口支隊長に宛てて、
「現兵力ニテ十分ナリヤ 青葉支隊ノ一部及中央ヨリ送附ノ特殊資材ヲ十六日『タイボ』岬ニ送ル用意アリ」
と照会電報を打った。
これに対する九月六日の川口支隊長の返電は次の通りであった。
「現兵力ニテ任務完遂ノ確信アリ 御安心ヲ乞フ 予定ノ如ク十二日攻撃ヲ行フ 十二日ハ月ナク夜襲ニ適ス 攻撃日時ノ遷延ハ最モ不利ナリ」
と、自信満々としていた。敵情を熟知した上での自信ならよかったが、そうではなかったのである。
川口少将は、後日、次のように書いている。
「敵の海兵一師団以上の優勢に対してこちらは僅に五個大隊、砲とは云え、それは名のみの御軽少なものが十二門しかない。(中略)
然し今更泣言を言うべきではない。敵に勝つ途は何か? 正攻法では勝目はない。一木支隊の真似をしては駄目だ。
そこで私は敵の背後に潜入して夜襲に依って一夜の中に雌雄を決しよう、戦闘が翌日昼に及べば優勢な敵の火力でこちらが潰されると考えたのである。(以下略)」(川口前掲書)
前記十七軍司令部への川口支隊長の返電中にある「確信」は、敵情を知らず、知る努力も払わぬうちの自己過信でしかなかったのである。
九月六日、川口支隊長は十七軍司令部に威勢のいい攻撃計画を報告している。少し長いが、敵情が全くわからぬうちから如何に楽観していたかがよく窺えるので、引用する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、支隊ハ九日夜ヨリ南方ジャングルヲ迂回シ 十二日十二時迄ニ攻撃準備ヲ完了 十六時ヨリ攻撃ヲ開始シ十七時一斉ニ夜襲 翌十三日払暁迄ニ全陣地ヲ蹂躙ス
主攻撃方向ヲ南方ジャングルヨリ北方飛行場ニ指向ス
二、熊大隊(一木支隊残部ヲ以テ編成)ヲシテ飛行場東方中川左岸敵陣地ノ背後ヲ攻撃セシム
三、主力(歩兵三大隊基幹)ハ南方ジャングルヲ迂回シテ飛行場南方二粁ニ攻撃ヲ準備シ 飛行場附近ノ要地ヲ奪取後設営隊宿舎方向ニ突進ス
四、岡部隊(舟艇機動部隊)ハ海岸方面ヨリ飛行場西側ノ橋梁方向ニ攻撃ス
[#ここで字下げ終わり]
川口支隊長はジャングルを迂回して夜襲する作戦の成功を疑わなかった。迂回作戦をとることにしたのは、海岸道を西進してイル川の敵陣地を東から渡河攻撃するのは、一木支隊同様の打撃を蒙ることになると判断したからである。だが、ジャングル迂回がどれほどの難事業であるかについての認識は浅かったと言わねばならない。
さらに指摘しておかなければならない重要なことは、戦術思想的にみて、迂回や夜襲という日本軍の常套的戦法の次元に思考がとどまっていて、海・空・陸三者の立体的協同作戦が全く考えられていなかったことである。八月七日の米軍上陸には既にその戦法が採られていたにもかかわらず、日本軍の奪回作戦には、艦砲射撃と空襲、それに連繋する上陸作戦という方式は考慮の外にあった。
川口支隊の攻撃に関しては、支隊の一夜の夜襲によって飛行場の奪回が可能であるという前提に、陸海軍共に立っていた。川口支隊が夜襲で飛行場を奪取する。それにつづいて第八艦隊が泊地に突入する。第二、第三艦隊は来援するであろう米艦隊主力と決戦する、という構想である。
その決戦には、海軍根拠地のトラック島から決戦海面までの距離が長いために、燃料補給の必要という時間的制約があった。
したがって、川口支隊の攻撃開始をいつにするかが重要な問題となった。
川口支隊長は先に記した攻撃計画では攻撃開始を九月十二日夜と報告したが、前進行動を起こしてみると、連日の降雨で河川は氾濫し、地面は泥濘と化し、前進が意のままにならず、弾薬糧秣の集積が難渋した。
支隊長は、前進に予想外の時間を費やすことを知って、九月七日午前六時過ぎ、攻撃開始を先の十二日から十三日に予定変更するよう十七軍司令部に報告した。
川口支隊長は各部隊長をテテレ(タイボ岬から西へ直線距離で約一五キロ)に集合させ、九月七日午後一時、飛行場を主目的とする敵陣地攻撃計画を示達し、攻撃準備位置へ進出する各部隊の機動を部署した。
各部隊の行動要領は「十日未明ヨリ『コリ』岬(先のテテレよりさらに西へ約七キロ)附近ヲ基点トシテ南方『ジャングル』内ノ迂回ヲ開始 十三日十二時迄ニ攻撃準備ヲ完了シ十六時攻撃開始 十七時一斉ニ夜襲ヲ行ヒ翌十四日払暁迄ニ全地ヲ蹂躙ス」るというものである。
右翼隊は熊大隊(一木支隊残部)
中央隊
右第一線攻撃部隊 歩一二四の第三大隊
左第一線攻撃部隊 歩一二四の第一大隊
第二線攻撃部隊 青葉大隊(歩四)
左翼隊 歩一二四の第二大隊(舟艇機動部隊)
砲兵隊 熊連隊砲中隊、熊速射砲中隊、独立速射砲中隊、歩兵一中隊(機関銃一小隊属)
支隊主力とは反対のガ島西北端部に辿り着いた岡部隊(舟艇機動部隊)へは無線連絡をとったほか、中山中尉以下四名の伝令が中央部の敵地を突破して連絡に赴き、マタニカウ川西方地域を東進しつつあった岡連隊長との連絡に成功した。攻撃開始を予定されていた日のことである。
川口支隊は攻撃開始を九月十三日として動き出そうとしていた。
その七日、第十七軍司令部に大本営から次の参謀次長電が入った。
海軍ノ通報(特情、確度甲)ニ依レハ八月二十八日頃「ハワイ」ヲ出発セル敵海兵搭載ノ有力ナル輸送船団ハ九月五日「フィジー」島ニ到着セル由 右ニ鑑ミ川口支隊ノ攻撃開始時期ノ繰上ケニ付更ニ検討相成度為念
十七軍司令部は直ちにこの情報を川口支隊に通報し、「軍ハ為シ得ル限り速カニ攻撃ヲ開始シ度希望ナリ 支隊ノ攻撃日次繰上ノ能否至急返アリ度」と打電した。
この電報が川口支隊司令部に届いたのは、七日午後九時ごろのことであった。
これについて川口少将はこう言っている。
「之は後から考えると大変な影響、それも最も悪い結果を齎らした運命の電報であった。
この軍の電報に対し一日繰上げ十二日夜、夜襲するという返事をせざるを得なかったが、之がいけなかったのである。夜襲失敗直接の原因となったのだ。大きく言えば日本に大変な不幸を招いた戦いになった。」(川口前掲書)
実際には、川口支隊長は、八日、軍司令部に対して次のように回答している。
「攻撃実施ヲ十二日ニ繰上ケ 尚密林通過第一日ノ状況ニ依リ更ニ一日繰上クルコトアルヘク、支隊主力ハ明九日朝ヨリ密林ヲ迂回スル」
右は、十七軍司令部の要望に渋々応じたようには見えない。功にはやっている指揮官の姿が窺われるようである。
密林の状況次第では遅れることもあり得るという点についての配慮は全くなされていない。遅れるかもしれないということへの配慮などを表わしたら、忽ち消極的だとして声価を落すのが、日本軍にはよくあることなのであった。
九月八日午前四時、川口支隊長は、各隊の攻撃準備位置への前進開始を一日繰り上げる命令を下達した。
各隊の行動開始は八日薄暮からである。中央隊の前進順序は、右第一線攻撃部隊(第三大隊)、左第一線攻撃部隊(第一大隊)、第二線攻撃部隊(青葉大隊)、各部隊間の距離は五〇〇米とし、コリ岬付近からナリムビュー川に沿って南下、ジャングル内を迂回する要領である。
川口支隊長は八日午前十一時テテレを出発する予定であった。
そのとき、予期せぬ事態が発生した。川口少将自身がこう誌している。
「愈々テテレ出発という日、上陸地点に残してある糧食の監守等の為に居った大澤主計少尉が息せききって駈けつけて来た。その報告に依ると『昨夜、何の予告もなく仙台師団の野砲兵第二聯隊の一中隊が上陸して来ました。爾後暫くして軍艦と輸送船が同じ所に来ました。始めは友軍か知らと思っていましたが、それは敵であったので、基地に居た患者や其他の者も応戦しました。上陸したばかりの野砲兵中隊も射撃しましたが、敵兵力が数倍である為、野砲四門は敵に奪われ、チリヂリになって退却しました。今後どうしたらよろしいか、御指示を願います』というのである。(中略)大澤少尉の報告で腹背に敵を受けたことを知った。
が、この際どうすることも出来ない。この敵を放っておいて予定通り敵の背後に向って進むあるのみである。」(川口前掲書)
支隊長は、野砲兵第一中隊長萩原大尉に歩一二四の第七中隊半部と、独立工兵第二十八連隊の一小隊、その他タシンボコ付近の残置部隊を併せ指揮して、敵の前進を拒止させ、支隊主力の前進を急がせた。
先の大澤報告にある野砲四門というのは、実は、駆逐艦による揚陸の際、時間がなくて、二門しか揚げてなかったらしい。弾薬も一〇〇発ぐらいしか揚陸出来ず、野砲兵中隊は機関銃で応戦したが、戦力的に全く拮抗出来なかった。
川口支隊長は、午前十時三十分、タイボ岬方向の銃砲声が激しくなったので、第三大隊長に、歩兵一個中隊(第十中隊)と機関銃一小隊をパレスマ川(タシンボコから西へ直線距離で約七・五キロ)に派遣し、支隊主力の背後を掩護するように命令した。
この敵は、川口少将の記述によると、第三大隊の一部兵力を「約二時間(パレスマ川に)残置して敵の来攻に備えしめたが、敵はタイボ岬附近より敢て前進して来なかった」という。
この敵は、輸送用に改造された駆逐艦二隻と特設哨戒艇二隻に分乗した海兵二個大隊で、八日夕方再び艦艇によってタイボ岬から去っている。
第十七軍司令部は、八日、川口支隊長からの報告によって、支隊背後に敵が上陸したことを知って、直ちに対策を協議したという。五六〇浬も離れているラバウルで討議しても急場の間に合わないわけだが、次のようなことであったようである。
参謀の大部分は、各個撃破の原則によって、まずタイボ岬方面の敵を撃破すべしという意見であったが、松本参謀は飛行場攻撃案を主張した。理由は次の通りである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、飛行場を一刻も速かに奪取する必要がある。今後の日米両軍の対ガ島増援競争で、飛行場を確保しなければ成算が立たない。止むを得ない場合でも、敵の飛行場使用を不能にしなければ、今後の作戦に大きな支障を来す。
二、川口支隊の現有糧秣では、タイボ方面の敵を撃破してから、反転して飛行場を攻撃する余裕はない。
三、川口少将の性格からみて、その決心変更を要求しても好結果は考えられず、作戦の勢を削ぐことになりかねない。
四、タイボ方面の敵を撃つのも一案というような意見を軍から出すことは、徒らに支隊長を迷わせるだけである。
[#ここで字下げ終わり]
二見参謀長はタイボ岬の敵を討つ意見であったが、現地の事情は川口支隊長が最もよく知っているはずであるのと、その性格を考えて松本参謀案に同意したという。(戦史室前掲書)
十七軍司令部は川口支隊長に激励電を打ち、十一航艦に対して即時爆撃を要求した。十一航艦は航空機の整備中で、十七軍の要求に困惑の色を示したが、出来るだけ出すという返事であった。
結果的には、午後になって、一機も出せないということに終った。
川口支隊は背後を敵に脅かされながら前進を開始したが、十七軍司令部は先に川口支隊長が「攻撃実施ヲ十二日ニ繰上ケ 尚密林通過第一日ノ状況ニ依リ更ニ一日繰上クルコトアルヘク……」と報告したのを、過早に楽観的に攻撃開始を十一日と判断し、連合艦隊司令部にそのように通報した。現地事情を知らない、知ろうともしない、司令部参謀の軽率としか言いようがない。
軍艦は積載燃料の時間的制約を負っているので、連合艦隊司令部では、川口支隊の総攻撃を十三日から十二日に改め、それに合わせて南東方面全麾下艦隊に対して、既定の作戦方針に基づく作戦行動の開始を発令したのである。
その七日、第十七軍司令部に大本営から次の参謀次長電が入った。
海軍ノ通報(特情、確度甲)ニ依レハ八月二十八日頃「ハワイ」ヲ出発セル敵海兵搭載ノ有力ナル輸送船団ハ九月五日「フィジー」島ニ到着セル由 右ニ鑑ミ川口支隊ノ攻撃開始時期ノ繰上ケニ付更ニ検討相成度為念
十七軍司令部は直ちにこの情報を川口支隊に通報し、「軍ハ為シ得ル限り速カニ攻撃ヲ開始シ度希望ナリ 支隊ノ攻撃日次繰上ノ能否至急返アリ度」と打電した。
この電報が川口支隊司令部に届いたのは、七日午後九時ごろのことであった。
これについて川口少将はこう言っている。
「之は後から考えると大変な影響、それも最も悪い結果を齎らした運命の電報であった。
この軍の電報に対し一日繰上げ十二日夜、夜襲するという返事をせざるを得なかったが、之がいけなかったのである。夜襲失敗直接の原因となったのだ。大きく言えば日本に大変な不幸を招いた戦いになった。」(川口前掲書)
実際には、川口支隊長は、八日、軍司令部に対して次のように回答している。
「攻撃実施ヲ十二日ニ繰上ケ 尚密林通過第一日ノ状況ニ依リ更ニ一日繰上クルコトアルヘク、支隊主力ハ明九日朝ヨリ密林ヲ迂回スル」
右は、十七軍司令部の要望に渋々応じたようには見えない。功にはやっている指揮官の姿が窺われるようである。
密林の状況次第では遅れることもあり得るという点についての配慮は全くなされていない。遅れるかもしれないということへの配慮などを表わしたら、忽ち消極的だとして声価を落すのが、日本軍にはよくあることなのであった。
九月八日午前四時、川口支隊長は、各隊の攻撃準備位置への前進開始を一日繰り上げる命令を下達した。
各隊の行動開始は八日薄暮からである。中央隊の前進順序は、右第一線攻撃部隊(第三大隊)、左第一線攻撃部隊(第一大隊)、第二線攻撃部隊(青葉大隊)、各部隊間の距離は五〇〇米とし、コリ岬付近からナリムビュー川に沿って南下、ジャングル内を迂回する要領である。
川口支隊長は八日午前十一時テテレを出発する予定であった。
そのとき、予期せぬ事態が発生した。川口少将自身がこう誌している。
「愈々テテレ出発という日、上陸地点に残してある糧食の監守等の為に居った大澤主計少尉が息せききって駈けつけて来た。その報告に依ると『昨夜、何の予告もなく仙台師団の野砲兵第二聯隊の一中隊が上陸して来ました。爾後暫くして軍艦と輸送船が同じ所に来ました。始めは友軍か知らと思っていましたが、それは敵であったので、基地に居た患者や其他の者も応戦しました。上陸したばかりの野砲兵中隊も射撃しましたが、敵兵力が数倍である為、野砲四門は敵に奪われ、チリヂリになって退却しました。今後どうしたらよろしいか、御指示を願います』というのである。(中略)大澤少尉の報告で腹背に敵を受けたことを知った。
が、この際どうすることも出来ない。この敵を放っておいて予定通り敵の背後に向って進むあるのみである。」(川口前掲書)
支隊長は、野砲兵第一中隊長萩原大尉に歩一二四の第七中隊半部と、独立工兵第二十八連隊の一小隊、その他タシンボコ付近の残置部隊を併せ指揮して、敵の前進を拒止させ、支隊主力の前進を急がせた。
先の大澤報告にある野砲四門というのは、実は、駆逐艦による揚陸の際、時間がなくて、二門しか揚げてなかったらしい。弾薬も一〇〇発ぐらいしか揚陸出来ず、野砲兵中隊は機関銃で応戦したが、戦力的に全く拮抗出来なかった。
川口支隊長は、午前十時三十分、タイボ岬方向の銃砲声が激しくなったので、第三大隊長に、歩兵一個中隊(第十中隊)と機関銃一小隊をパレスマ川(タシンボコから西へ直線距離で約七・五キロ)に派遣し、支隊主力の背後を掩護するように命令した。
この敵は、川口少将の記述によると、第三大隊の一部兵力を「約二時間(パレスマ川に)残置して敵の来攻に備えしめたが、敵はタイボ岬附近より敢て前進して来なかった」という。
この敵は、輸送用に改造された駆逐艦二隻と特設哨戒艇二隻に分乗した海兵二個大隊で、八日夕方再び艦艇によってタイボ岬から去っている。
第十七軍司令部は、八日、川口支隊長からの報告によって、支隊背後に敵が上陸したことを知って、直ちに対策を協議したという。五六〇浬も離れているラバウルで討議しても急場の間に合わないわけだが、次のようなことであったようである。
参謀の大部分は、各個撃破の原則によって、まずタイボ岬方面の敵を撃破すべしという意見であったが、松本参謀は飛行場攻撃案を主張した。理由は次の通りである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、飛行場を一刻も速かに奪取する必要がある。今後の日米両軍の対ガ島増援競争で、飛行場を確保しなければ成算が立たない。止むを得ない場合でも、敵の飛行場使用を不能にしなければ、今後の作戦に大きな支障を来す。
二、川口支隊の現有糧秣では、タイボ方面の敵を撃破してから、反転して飛行場を攻撃する余裕はない。
三、川口少将の性格からみて、その決心変更を要求しても好結果は考えられず、作戦の勢を削ぐことになりかねない。
四、タイボ方面の敵を撃つのも一案というような意見を軍から出すことは、徒らに支隊長を迷わせるだけである。
[#ここで字下げ終わり]
二見参謀長はタイボ岬の敵を討つ意見であったが、現地の事情は川口支隊長が最もよく知っているはずであるのと、その性格を考えて松本参謀案に同意したという。(戦史室前掲書)
十七軍司令部は川口支隊長に激励電を打ち、十一航艦に対して即時爆撃を要求した。十一航艦は航空機の整備中で、十七軍の要求に困惑の色を示したが、出来るだけ出すという返事であった。
結果的には、午後になって、一機も出せないということに終った。
川口支隊は背後を敵に脅かされながら前進を開始したが、十七軍司令部は先に川口支隊長が「攻撃実施ヲ十二日ニ繰上ケ 尚密林通過第一日ノ状況ニ依リ更ニ一日繰上クルコトアルヘク……」と報告したのを、過早に楽観的に攻撃開始を十一日と判断し、連合艦隊司令部にそのように通報した。現地事情を知らない、知ろうともしない、司令部参謀の軽率としか言いようがない。
軍艦は積載燃料の時間的制約を負っているので、連合艦隊司令部では、川口支隊の総攻撃を十三日から十二日に改め、それに合わせて南東方面全麾下艦隊に対して、既定の作戦方針に基づく作戦行動の開始を発令したのである。