第十七軍司令部は、米軍が川口支隊の背後に上陸したことと、岡部隊の舟艇機動が必ずしも成功とは言えない結果に終ったらしいことから、川口支隊が兵力に不足を来すのを懸念して、既に川口少将の指揮下に入っている田村大隊につづいて、第二師団歩兵第四連隊第三大隊(一中隊欠)と連隊砲一小隊を基幹とする部隊を、九日ラバウルからショートランドに前進させ、艦艇輸送でガダルカナルヘ送るように部署した。
第二師団が第十七軍戦闘序列に編入されたのは、八月二十八日参謀総長の決裁を得た「ソロモン方面の状況に応ずる『カ』号(ソロモン諸島要地奪回)及び『レ』号(ポートモレスビー攻略)作戦緊急処置案」に基づいてのことで、青葉支隊長(歩兵第二旅団長)那須弓雄少将は九月四日既に飛行機でラバウルに到着していた。
歩四(青葉支隊)第三大隊は九月十一日午後十時半、ガダルカナル西北角のカミンボに上陸したから、川口支隊の攻撃開始には間に合わなかった。十七軍司令部としては、出来れば攻撃に参加させたかったのである。現地の状況の推移と後方での措置との間にいつももどかしいずれがあるが、今回は、第三大隊の上陸点をカミンボとしたのは、攻撃参加には間に合わないとしても、万一川口支隊の攻撃が失敗した場合、タイボ岬付近を米軍が占拠しているという推定から、爾後の連絡拠点としてガダルカナル西北地域を確保しておく必要があると判断されたからであった。
右の増援兵力の追送と前後して、八日夜、連合艦隊司令部は、ガダルカナル方面作戦の予備兵力として、第二師団の一部兵員をバタビア(現在のジャカルタ)から軽巡三隻でラバウルに急送すると十七軍に通報した。これを受けて、十七軍司令部は歩兵連隊を基幹とする可及的多数の兵員、なし得れば師団司令部を合む輸送を要望した。
その結果、第十六戦隊(五十鈴、鬼怒、名取)の三艦によって、歩兵二個大隊基幹の兵員約一五〇〇の急送が行なわれることとなった。
十七軍司令部はガダルカナルヘの兵力増援を図るのと並んで、九月十日、松本参謀を作戦指導のためにガダルカナルヘ送ることにした。参謀派遣の必要は前々から感じていたことであったが、参謀陣が手薄なため実現出来なかったものである。このころには、既に、田中航空主任参謀、家村船舶主任参謀が着任しており、大本営派遣参謀の井本、林の両作戦参謀、山内情報参謀の援助があり、山本後方主任参謀も近々に派遣されることになっていて、首席参謀松本中佐のガダルカナル派遣が決ったのである。
松本参謀を送るにあたって、二見参謀長は次のような指示を与えた。
川口支隊の攻撃成功の場合は速かに飛行場を整備して友軍飛行隊の進出を図るとともに、ツラギ奪回の準備をすること。もし攻撃不成功の場合は爾後の補給路はカミンボ方向とするから、川口支隊は退路を西方にとるように部隊を整備し、マタニカウ川左岸(西岸)高地を占領して、その以西に兵力を集結させること。
二見参謀長のこの指示に対して、松本参謀が、不成功の場合はマタニカウ川右岸(東岸)高地の占領を命ずる方がよいのではないか、と述べると、二見参謀長は、不成功の場合は部隊が当然混乱しているであろうし、敵の妨害も予想されるから、右岸の占領は困難であろう、と答えた。
二見参謀長の思慮はもっともであったが、マタニカウの右岸にするか左岸にするかは、反攻に転ずる際の砲の射程距離にかかわる問題を含んでいるのであった。
松本参謀出発の日、二見参謀長は井本大本営派遣参謀を自室に招いて懇談した。
川口支隊の攻撃が不成功の場合、如何にするか。さらに奪回作戦を強行するか。それとも縮小して持久作戦をとるか。研究を要するところである、というのであった。
これを聞いた井本参謀は、二見参謀長の意見は後者に傾いていると感じ取った。
井本参謀は次のように書き誌している。(戦史室前掲書『陸軍作戦』(1)による。)
「爾後の作戦に関し大本営として如何にすべきやは、昨日来、林少佐と研究せし所、一応参謀長意見の如くも考えたり(林少佐も同様の意見)。然れども今の勢を捨てて後に退く時は、遂に進出の機を失するに到らんことを|虞《おそ》れ、日米戦争攻守処を異にするに到るべきを以て依然強行するを要す。特に夜間は勢我に利也(艦艇を以てする上陸可能)。航空兵力も九月二十日頃より我兵力充実。故に結論として意見を本日第一部長に出す。」
大本営の田中作戦部長は、翌十日、井本中佐に返電を寄越した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(前段略)
一、貴官ノ報告電中ノ「万一ノ場合」ニ於ケル爾後ノ攻撃要領ニ就テハ現地ノ意見ノ如ク飽ク迄攻撃ノ手ヲ弛ムルコトナク逐次加入ノ方式ニヨリ作戦目的ヲ達成スルヲ絶対必要トスル中央部ノ所見ニシテ軍令部ニ於テモ同様ニ考へ在リ
[#ここで字下げ終わり]
(二以下略)
結果論に過ぎるきらいがあるが、敵情認識がもっと正確であれば、一木支隊第一梯団全滅の時点で作戦の進退がもっと慎重に考慮され得たかもしれず、仮りに奪回作戦を続行するとしても、田中第一部長の返電中にある「逐次加入ノ方式ニヨリ」作戦を遂行するのではなくて、大兵の一挙使用がもっと真剣に考慮されたかもしれない。
孫子の兵法がもし合理的であるとすれば、次のくだりは日本軍の用兵にとって重大な警告となったはずのものである。
「故用兵之法、十則囲之、五則攻之、倍則分之、敵則能戦之、少則能逃之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也。」
右は次のように読まれ、解釈されている。
「故に用兵の法、十なればこれを囲み、五なればこれを攻め、倍すればこれを分ち、敵すればよくこれと戦い、少なければよくこれを逃れ、|若《し》かざればよくこれを避く。故に小敵の堅は大敵の擒なり。」
その意味は、
「戦争に際しては次の原則を守らなければならない。すなわち、(敵に較べて)十倍の兵力があるときには敵軍を包囲する。五倍の兵力があるときには敵軍を攻めまくる。二倍の兵力があるときには敵軍を分断する。互角の兵力であるときには全力を尽して戦う。兵力劣勢であるときには退却する。勝算がないときには戦わない。もしこの原則を無視し、自軍が弱小であるにもかかわらず強気一点ばりで戦うとすれば、むざむざ強大な敵の餌食になるだけである。」
というのである。(徳間書店刊、村山孚訳『孫子・呉子』より。)
ガダルカナルでは、作戦初期から日本軍は敵兵力を下算し、その後兵力の逐次投入を行なったが、敵の兵力増援、物資の補給は日本軍のそれをはるかに上廻り、常に日本軍は孫子の|曰《い》う「小敵之堅、大敵之擒也」を敢て犯したことになる。
ガダルカナルに限ったことではない。ほとんどすべての戦場で、日本軍は合理性を無視した精神主義を振りかざして、無謀な戦いを戦った。そのほとんどが兵隊の忍耐の極限を超えるまでの負担と犠牲において戦われたといってよい。先人の|訓《おし》えを到るところで無視しては、ただただ先人の訓えの正当性を証明する結果となったのである。
第二師団が第十七軍戦闘序列に編入されたのは、八月二十八日参謀総長の決裁を得た「ソロモン方面の状況に応ずる『カ』号(ソロモン諸島要地奪回)及び『レ』号(ポートモレスビー攻略)作戦緊急処置案」に基づいてのことで、青葉支隊長(歩兵第二旅団長)那須弓雄少将は九月四日既に飛行機でラバウルに到着していた。
歩四(青葉支隊)第三大隊は九月十一日午後十時半、ガダルカナル西北角のカミンボに上陸したから、川口支隊の攻撃開始には間に合わなかった。十七軍司令部としては、出来れば攻撃に参加させたかったのである。現地の状況の推移と後方での措置との間にいつももどかしいずれがあるが、今回は、第三大隊の上陸点をカミンボとしたのは、攻撃参加には間に合わないとしても、万一川口支隊の攻撃が失敗した場合、タイボ岬付近を米軍が占拠しているという推定から、爾後の連絡拠点としてガダルカナル西北地域を確保しておく必要があると判断されたからであった。
右の増援兵力の追送と前後して、八日夜、連合艦隊司令部は、ガダルカナル方面作戦の予備兵力として、第二師団の一部兵員をバタビア(現在のジャカルタ)から軽巡三隻でラバウルに急送すると十七軍に通報した。これを受けて、十七軍司令部は歩兵連隊を基幹とする可及的多数の兵員、なし得れば師団司令部を合む輸送を要望した。
その結果、第十六戦隊(五十鈴、鬼怒、名取)の三艦によって、歩兵二個大隊基幹の兵員約一五〇〇の急送が行なわれることとなった。
十七軍司令部はガダルカナルヘの兵力増援を図るのと並んで、九月十日、松本参謀を作戦指導のためにガダルカナルヘ送ることにした。参謀派遣の必要は前々から感じていたことであったが、参謀陣が手薄なため実現出来なかったものである。このころには、既に、田中航空主任参謀、家村船舶主任参謀が着任しており、大本営派遣参謀の井本、林の両作戦参謀、山内情報参謀の援助があり、山本後方主任参謀も近々に派遣されることになっていて、首席参謀松本中佐のガダルカナル派遣が決ったのである。
松本参謀を送るにあたって、二見参謀長は次のような指示を与えた。
川口支隊の攻撃成功の場合は速かに飛行場を整備して友軍飛行隊の進出を図るとともに、ツラギ奪回の準備をすること。もし攻撃不成功の場合は爾後の補給路はカミンボ方向とするから、川口支隊は退路を西方にとるように部隊を整備し、マタニカウ川左岸(西岸)高地を占領して、その以西に兵力を集結させること。
二見参謀長のこの指示に対して、松本参謀が、不成功の場合はマタニカウ川右岸(東岸)高地の占領を命ずる方がよいのではないか、と述べると、二見参謀長は、不成功の場合は部隊が当然混乱しているであろうし、敵の妨害も予想されるから、右岸の占領は困難であろう、と答えた。
二見参謀長の思慮はもっともであったが、マタニカウの右岸にするか左岸にするかは、反攻に転ずる際の砲の射程距離にかかわる問題を含んでいるのであった。
松本参謀出発の日、二見参謀長は井本大本営派遣参謀を自室に招いて懇談した。
川口支隊の攻撃が不成功の場合、如何にするか。さらに奪回作戦を強行するか。それとも縮小して持久作戦をとるか。研究を要するところである、というのであった。
これを聞いた井本参謀は、二見参謀長の意見は後者に傾いていると感じ取った。
井本参謀は次のように書き誌している。(戦史室前掲書『陸軍作戦』(1)による。)
「爾後の作戦に関し大本営として如何にすべきやは、昨日来、林少佐と研究せし所、一応参謀長意見の如くも考えたり(林少佐も同様の意見)。然れども今の勢を捨てて後に退く時は、遂に進出の機を失するに到らんことを|虞《おそ》れ、日米戦争攻守処を異にするに到るべきを以て依然強行するを要す。特に夜間は勢我に利也(艦艇を以てする上陸可能)。航空兵力も九月二十日頃より我兵力充実。故に結論として意見を本日第一部長に出す。」
大本営の田中作戦部長は、翌十日、井本中佐に返電を寄越した。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(前段略)
一、貴官ノ報告電中ノ「万一ノ場合」ニ於ケル爾後ノ攻撃要領ニ就テハ現地ノ意見ノ如ク飽ク迄攻撃ノ手ヲ弛ムルコトナク逐次加入ノ方式ニヨリ作戦目的ヲ達成スルヲ絶対必要トスル中央部ノ所見ニシテ軍令部ニ於テモ同様ニ考へ在リ
[#ここで字下げ終わり]
(二以下略)
結果論に過ぎるきらいがあるが、敵情認識がもっと正確であれば、一木支隊第一梯団全滅の時点で作戦の進退がもっと慎重に考慮され得たかもしれず、仮りに奪回作戦を続行するとしても、田中第一部長の返電中にある「逐次加入ノ方式ニヨリ」作戦を遂行するのではなくて、大兵の一挙使用がもっと真剣に考慮されたかもしれない。
孫子の兵法がもし合理的であるとすれば、次のくだりは日本軍の用兵にとって重大な警告となったはずのものである。
「故用兵之法、十則囲之、五則攻之、倍則分之、敵則能戦之、少則能逃之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也。」
右は次のように読まれ、解釈されている。
「故に用兵の法、十なればこれを囲み、五なればこれを攻め、倍すればこれを分ち、敵すればよくこれと戦い、少なければよくこれを逃れ、|若《し》かざればよくこれを避く。故に小敵の堅は大敵の擒なり。」
その意味は、
「戦争に際しては次の原則を守らなければならない。すなわち、(敵に較べて)十倍の兵力があるときには敵軍を包囲する。五倍の兵力があるときには敵軍を攻めまくる。二倍の兵力があるときには敵軍を分断する。互角の兵力であるときには全力を尽して戦う。兵力劣勢であるときには退却する。勝算がないときには戦わない。もしこの原則を無視し、自軍が弱小であるにもかかわらず強気一点ばりで戦うとすれば、むざむざ強大な敵の餌食になるだけである。」
というのである。(徳間書店刊、村山孚訳『孫子・呉子』より。)
ガダルカナルでは、作戦初期から日本軍は敵兵力を下算し、その後兵力の逐次投入を行なったが、敵の兵力増援、物資の補給は日本軍のそれをはるかに上廻り、常に日本軍は孫子の|曰《い》う「小敵之堅、大敵之擒也」を敢て犯したことになる。
ガダルカナルに限ったことではない。ほとんどすべての戦場で、日本軍は合理性を無視した精神主義を振りかざして、無謀な戦いを戦った。そのほとんどが兵隊の忍耐の極限を超えるまでの負担と犠牲において戦われたといってよい。先人の|訓《おし》えを到るところで無視しては、ただただ先人の訓えの正当性を証明する結果となったのである。