川口支隊長は支隊の背後タイボ岬方面に上陸した敵に対する処置を終ると、テテレを出発して、九月八日午後一時ごろレンゴ(テテレから直線距離で西へ約八キロ)に達した。
支隊長の最初の計画では八日薄暮から行動を開始することになっていたが、背後に敵が出現しては、薄暮を待たずに昼から行動を開始せざるを得なかったが、白昼行動のために特に不都合が生じたと思われる節はない。
駐軍時にタイボ岬方面の敵に最も近く位置していたのは、中央隊右第一線攻撃隊となるべき第三大隊であるから、背後の敵の脅威を最も受けたのはこの大隊である。
当初の第三大隊の前進計画は、コリ岬(ナリムビュー川)付近まで海岸に沿って進み、ナリムビュー川に沿って南下、ジャングルに潜入する予定であったが、実際にはパレスマ川(タイボ岬から直線距離で西へ約九キロ)河口から南下し、草原とジャングル地帯に入った。予定変更の理由は明らかでないが、想像するのに、背後の敵がその日のうちに上陸点から退去しているとは知らないから、なるべく早く部隊の所在を秘匿しようとしたのではないか。
ジャングルに潜入迂回した川口支隊の各部隊は同じような困難に遭遇しているから、まず支隊長の手記に沿って状況の概要を記してから、各隊の行動を見ることにする。
支隊長によれば、はじめは海岸を進み、レンゴを過ぎて西へ数キロの地点(M地点とする)まで来たら、そこに連隊砲、大隊砲、速射砲全部を残し、歩兵一中隊でこれを掩護させ、主力は南下、密林に潜入する。南下数キロ、距離の記述がないので不明だが、その地点から進路を西にとり、飛行場の真南密林中に達し、その地点から北へ飛行場へ殺到するのである。
ところが、思いがけない障碍があった。磁針偏差があるということである。ガダルカナルに関しては、兵要地誌はおろか、ろくな地図もなかった。川口支隊が持っていたのは海図であって、陸上のことに関しては無いにひとしかった。したがって、磁石を頼りに歩くしかないのである。その肝腎の磁石が磁針偏差を起こしていた。真南に針路をとって歩いていると、実際は少し西に偏していた。真西に向って歩いているつもりでいると、少し北に偏して、いつの間にか海岸に近づいたりしていた。したがって、針路修正をたびたび行なって、ジグザグに歩いたことになり、予想外の時間を費やした。
時間を費やしたのは磁針偏差のせいばかりではない。奇襲の企図からすれば、迂回してジャングルに潜入するしか手はないわけだが、各隊ともジャングルを啓開しつつ進むのに多大の体力と時間を消耗した。二時間かかってやっと一キロしか進めないような困難を各隊が経験しなければならなかった。作戦立案には、その時間の消耗が十分に見込まれていなかったのである。
暫く川口少将が語るところを聞くことにする。
「私の下した命令には各隊は十二日正午迄に攻撃準備の位置に展開し、夕刻迄半日の間、|窃《ひそ》かに前面の敵情、地形を偵察して|夫々《それぞれ》夜襲の目標を見定める。M点(前記)に残した砲八門は夜八時になると敵陣地に向って一斉に射撃を開始し、護衛の一中隊は攻撃をやって、その方面の敵を牽制する。第一線の歩兵各大隊はこの砲撃を合図に夫々目標に白刃を振って夜襲する。各大隊及び岡部隊(舟艇機動部隊──引用者)は目標に向って突入し、敵を蹴散らし、刺し殺し夜明け迄に北方海岸に進出せよというのが私の命令である。」
これによると川口少将は、夜襲なら敵の火力が如何に旺盛でも問題とするに足りないと信じているかのようである。日本軍はちょうど三年前、地理的条件は全く異るノモンハンでだが、毎夜夜襲を繰り返し、その都度敵の熾烈な火力に阻まれて、天明までに攻撃発起地点まで退去せざるを得なかったにがい経験が骨身にしみているはずであった。多大な人命と鮮血をもって|購《あがな》った教訓も、軍隊という硬直した官僚主義社会では何の役にも立たなかったのである。
川口手記はつづいている。
「第一線各大隊の順序を右からいうと、一木支隊の集成大隊(第一梯団の生き残りと第二梯団のものを以て、やっと一大隊を作り、水野少佐を大隊長として──原文のまま)、仙台の田村大隊(第二師団・青葉支隊──引用者)、第三大隊、第一大隊の四大隊、岡大佐の指揮する第二大隊と連隊砲中隊は少し離れて西方海岸方面から、夫々攻撃する。
一木支隊は前面の敵を突破した後、中川左岸にある敵陣地を攻撃、田村大隊は敵飛行場東端附近を突破して、北方海岸迄突進、第三大隊は飛行場北側にある15高地を占領したる後、北方海岸に突進、第一大隊は30高地(15高地の稍々西)を占領後北方海岸に突進、支隊の全部は先ず15高地に到る。岡部隊は西方海岸方面の敵陣地を突破した後、ルンガ川河口に突進。
以上が各隊に与えた任務である。」
川口少将の戦闘の想定図はまことに勇壮だが、支隊各隊は後述するように少将の想定図のようにはほとんど行動出来なかったのである。理由の最大のものはジャングル迂回を軽視したことであった。
川口支隊長はこの攻撃に一兵の予備隊もとらなかった。理由は、夜間ジャングル内を通過して戦闘開始に至るまで、随時各隊の情況を支隊長が知ることは到底出来ない、したがって、予備兵力を控置して適時適切に応援することは出来ないからである。各隊は独自の判断に依り、戦況に応じて戦闘しなければならない。
天明までに勝負をつけなければ、優勢な敵火力によってこちらが潰される惧れがある。(夜襲時における敵火力を問題視していないことは前述の通りである。)
一気に殺到して勝敗を決する。それには予備隊をとる必要はない、というのが少将の考え方であった。
既述の通り、進路がジグザグになったりして、支隊の行軍は予定より遅れていた。
支隊長は、十二日朝、露営地を出発するとき、近くにいた第一大隊長国生少佐を呼んで言った。
「予定より大分おくれて居るが、正午迄に攻撃準備の位置につけると思うかい? 君の大隊が一番遠い処迄行って展開することになって居る。君が出来るのなら他の大隊は無論出来るのだが……」
第一大隊長は暫く考えて、答えた。
「出来るでしょう、マアやって見ましょう」
川口手記はこうつづけている。
「軍からの通報に依ると、今夜の川口支隊の夜襲に呼応して海軍の艦船がルンガ沖に来て、所謂殴りこみをかけることになって居る、今になって一日延期ということを軍に報告して了解を求めることは困難である。殴りこみの海軍はもうトックに出航して居るだろう。M点にある砲兵隊、岡部隊に対し命令変更も仲々伝達がむつかしい。|国生少佐が出来ませんと云えば困難を排除しても延期するが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|マアやって見ましょうというのだから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|延期はしなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点引用者)
国生少佐が「まあやってみましょう」と言ったかどうか、いまとなっては明らかにする術もない。事は、しかし、支隊長の判断に属する事柄なのである。国生少佐は諸般の情況から推して生きては還れないと覚悟していたらしいから、「まあやってみましょう」と言ったのかもしれない。
川口手記からも断固決行という大隊長の意気ごみは感じられない。十分な時間をかけて敵に近づき、十分に偵察してから襲撃するという方針を、そもそもの初めに立てておかなかったのは、最高指揮官の責任に帰せられるべきことである。
海軍との協同作戦が行なわれるのなら、突撃発起の日時の決定はもっと慎重厳密に測定されるべきであった。海軍には、先に述べたように燃料による時間的制約がある。反面、陸軍には、携行した糧食による制約があった。それらは、作戦開始以前に十分に計算されねばならなかったことであった。
川口手記をもう暫くつづける。
「支隊は北に向って前進を急ぐが正午迄に予定の攻撃準備につけない。第一地図がないので、果して自分は何処に達したのかということを測定することは困難だが、兎も角敵飛行場には大分遠いらしい。遂々夜になった。ジャングルを夜歩くということは仲々むつかしい。むつかしいどころか、|予め偵察して道しるべでも造っておけば兎も角も《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|始めてのジャングルを歩くことは不可能に近い《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。昼尚お暗いジャングル、それが|夜になると全く鼻をつままれても分らぬ真暗闇である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|前を進む兵隊の姿が見えない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。だから隊列はプツンプツンと切れて了う。戦友を見失って自分一人になってしまう。半日間、|敵情《ヽヽ》、|地形偵察も何もあったものじゃァない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点引用者)
偵察し警戒しながら行軍するのが軍隊の常識なのである。それを、やみくもにジャングルに踏み込んで、一夜の夜襲で敵陣を蹂躪しようというのである。如何に急を要したとはいえ、信じられないような軽率さであった。
夜のジャングルの暗さは言語に絶していた。そこを、もっぱら夜行軍をするのであるから、よほど慎重な計算がなければ、予定など狂うのが当然であった。
ジャングルでは腐木に燐光のような光を放つものが付着していて、兵たちはそれを千切って前を行く兵の背嚢や帽子につけて目印にした。樹木や蔓の錯雑した密林を啓開しながら墨汁のような闇の中を歩くということは、甚だしい肉体的疲労をもたらすばかりでなく、自分の位置の標定が出来なくて、行軍目的そのものさえ疑わしくなる。
「敵情、地形偵察も何もあったものじゃァない」と最高指揮官が言うようでは、その作戦は、はじまらぬうちから失敗に終っていたも同様である。
川口手記のその先を見ることにする。
「八時になるとM点に残した砲兵が射撃を始めた。各隊この砲声を合図に突入だが、各隊はジャングル内でバラバラになって了った。私も司令部のものを連れてやみ雲に北に向って歩いた。フト見ると私について来るのは山本高級副官と書記と忠実な野口当番兵と四、五人しか居ない。他のものは何処に行ったのか分らぬ。
大声出して呼べば答えもあろうが敵前近く窃かに迫るのだからそれは禁物である。15高地に早く行き度いがとあせるがどうにもならぬ。ヒョットすると吾々だけが部隊より先に進んで居るかも知れない。
昨十一日ジャングル行進間、彼我空中戦で撃墜された敵飛行機のパイロットがパラシュートで降りて来たのを捕え、訊問すると敵は川口支隊の潜行を知らない。だから東方と北方、西方には配兵してあるが、支隊夜襲の方面たる南方には別に陣地もないことが分った。これなら支隊の夜襲は成功するだろうと喜んで居たのに、魔のジャングルの為、支隊は五里霧散し、指揮も掌握も出来ない。私の生涯を通じ、こんな失望感に襲われたことはない。」
右の敵パイロットを捕え尋問すると云々は、戦史室前掲書によれば、十二日午前九時ごろ、砲兵隊から捕虜尋問の結果を次のように報告してきたことになっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、敵陣地は飛行場周辺に設けられ、東方及び北方正面が最も堅固で、南方正面は薄弱である。
中川(イル川)と飛行場の間に三線の陣地がある 東方及び北方正面には三乃至四条の鉄条網、更に飛行場の四周には直接掩護の鉄条網、電流の有無に関しては不明。(したがって、南側から襲撃しても直掩鉄条網に衝突し、当然側防火器の配備が予想されるから、それを突破するということは、川口少将が考えていたほど簡単なことではなかったはずである。──引用者)
二、戦車は小型及中型(水陸両用)である。
三、飛行場には現在一五機程度常置してあるだけで、ソロモン群島には他に飛行場なし。
四、上空からする密林内の行動偵察はきわめて困難で、尋問した米軍飛行将校も支隊主力をまだ発見していない。
[#ここで字下げ終わり]
この情報に接した支隊長は、早速各大隊に情報を伝達して、夜襲の成功を確信した、というのである。
だが、「魔のジャングルの為、支隊は五里霧散し、指揮も掌握も出来ない」ことになった。敵の戦力を下算していたばかりでなく、未知の戦場の地勢地形を侮っていたからである。攻撃精神さえ旺盛なら何事でも可能であるという精神至上主義の思い上りと、非科学的で、しかもろくな準備をしていない軽率な行動を、千古の密林が頑として拒否したのである。
「本当に惜しいことをした。」
と、支隊長はくやんでいる。
「若し軍の要求がなくて十三日に夜襲して居たら、よもやこんな失敗はなかっただろう。タッタ一日のことでこの始末である。」
軍のせいにするのは当らない。既に見てきた通り、十七軍は、大本営からの通報によって、新手の米軍増援の兆があるから、川口支隊のなるべく早い攻撃開始を希望し、その能否を問い合せただけである。繰り上げを命令したわけではない。
支隊長が功を急いで、十三日の予定を十二日に繰り上げ、さらに一日繰り上げられるかもしれないと答えたのである。舟艇機動に関しては十七軍司令部にあれほどまでに自説を固持して譲らなかった川口支隊長が、もし慎重に作戦遂行を考慮したのなら、如何に十七軍の希望とはいえ、十三日の日時を譲る必要はなかったのである。
(地図省略)
支隊長の最初の計画では八日薄暮から行動を開始することになっていたが、背後に敵が出現しては、薄暮を待たずに昼から行動を開始せざるを得なかったが、白昼行動のために特に不都合が生じたと思われる節はない。
駐軍時にタイボ岬方面の敵に最も近く位置していたのは、中央隊右第一線攻撃隊となるべき第三大隊であるから、背後の敵の脅威を最も受けたのはこの大隊である。
当初の第三大隊の前進計画は、コリ岬(ナリムビュー川)付近まで海岸に沿って進み、ナリムビュー川に沿って南下、ジャングルに潜入する予定であったが、実際にはパレスマ川(タイボ岬から直線距離で西へ約九キロ)河口から南下し、草原とジャングル地帯に入った。予定変更の理由は明らかでないが、想像するのに、背後の敵がその日のうちに上陸点から退去しているとは知らないから、なるべく早く部隊の所在を秘匿しようとしたのではないか。
ジャングルに潜入迂回した川口支隊の各部隊は同じような困難に遭遇しているから、まず支隊長の手記に沿って状況の概要を記してから、各隊の行動を見ることにする。
支隊長によれば、はじめは海岸を進み、レンゴを過ぎて西へ数キロの地点(M地点とする)まで来たら、そこに連隊砲、大隊砲、速射砲全部を残し、歩兵一中隊でこれを掩護させ、主力は南下、密林に潜入する。南下数キロ、距離の記述がないので不明だが、その地点から進路を西にとり、飛行場の真南密林中に達し、その地点から北へ飛行場へ殺到するのである。
ところが、思いがけない障碍があった。磁針偏差があるということである。ガダルカナルに関しては、兵要地誌はおろか、ろくな地図もなかった。川口支隊が持っていたのは海図であって、陸上のことに関しては無いにひとしかった。したがって、磁石を頼りに歩くしかないのである。その肝腎の磁石が磁針偏差を起こしていた。真南に針路をとって歩いていると、実際は少し西に偏していた。真西に向って歩いているつもりでいると、少し北に偏して、いつの間にか海岸に近づいたりしていた。したがって、針路修正をたびたび行なって、ジグザグに歩いたことになり、予想外の時間を費やした。
時間を費やしたのは磁針偏差のせいばかりではない。奇襲の企図からすれば、迂回してジャングルに潜入するしか手はないわけだが、各隊ともジャングルを啓開しつつ進むのに多大の体力と時間を消耗した。二時間かかってやっと一キロしか進めないような困難を各隊が経験しなければならなかった。作戦立案には、その時間の消耗が十分に見込まれていなかったのである。
暫く川口少将が語るところを聞くことにする。
「私の下した命令には各隊は十二日正午迄に攻撃準備の位置に展開し、夕刻迄半日の間、|窃《ひそ》かに前面の敵情、地形を偵察して|夫々《それぞれ》夜襲の目標を見定める。M点(前記)に残した砲八門は夜八時になると敵陣地に向って一斉に射撃を開始し、護衛の一中隊は攻撃をやって、その方面の敵を牽制する。第一線の歩兵各大隊はこの砲撃を合図に夫々目標に白刃を振って夜襲する。各大隊及び岡部隊(舟艇機動部隊──引用者)は目標に向って突入し、敵を蹴散らし、刺し殺し夜明け迄に北方海岸に進出せよというのが私の命令である。」
これによると川口少将は、夜襲なら敵の火力が如何に旺盛でも問題とするに足りないと信じているかのようである。日本軍はちょうど三年前、地理的条件は全く異るノモンハンでだが、毎夜夜襲を繰り返し、その都度敵の熾烈な火力に阻まれて、天明までに攻撃発起地点まで退去せざるを得なかったにがい経験が骨身にしみているはずであった。多大な人命と鮮血をもって|購《あがな》った教訓も、軍隊という硬直した官僚主義社会では何の役にも立たなかったのである。
川口手記はつづいている。
「第一線各大隊の順序を右からいうと、一木支隊の集成大隊(第一梯団の生き残りと第二梯団のものを以て、やっと一大隊を作り、水野少佐を大隊長として──原文のまま)、仙台の田村大隊(第二師団・青葉支隊──引用者)、第三大隊、第一大隊の四大隊、岡大佐の指揮する第二大隊と連隊砲中隊は少し離れて西方海岸方面から、夫々攻撃する。
一木支隊は前面の敵を突破した後、中川左岸にある敵陣地を攻撃、田村大隊は敵飛行場東端附近を突破して、北方海岸迄突進、第三大隊は飛行場北側にある15高地を占領したる後、北方海岸に突進、第一大隊は30高地(15高地の稍々西)を占領後北方海岸に突進、支隊の全部は先ず15高地に到る。岡部隊は西方海岸方面の敵陣地を突破した後、ルンガ川河口に突進。
以上が各隊に与えた任務である。」
川口少将の戦闘の想定図はまことに勇壮だが、支隊各隊は後述するように少将の想定図のようにはほとんど行動出来なかったのである。理由の最大のものはジャングル迂回を軽視したことであった。
川口支隊長はこの攻撃に一兵の予備隊もとらなかった。理由は、夜間ジャングル内を通過して戦闘開始に至るまで、随時各隊の情況を支隊長が知ることは到底出来ない、したがって、予備兵力を控置して適時適切に応援することは出来ないからである。各隊は独自の判断に依り、戦況に応じて戦闘しなければならない。
天明までに勝負をつけなければ、優勢な敵火力によってこちらが潰される惧れがある。(夜襲時における敵火力を問題視していないことは前述の通りである。)
一気に殺到して勝敗を決する。それには予備隊をとる必要はない、というのが少将の考え方であった。
既述の通り、進路がジグザグになったりして、支隊の行軍は予定より遅れていた。
支隊長は、十二日朝、露営地を出発するとき、近くにいた第一大隊長国生少佐を呼んで言った。
「予定より大分おくれて居るが、正午迄に攻撃準備の位置につけると思うかい? 君の大隊が一番遠い処迄行って展開することになって居る。君が出来るのなら他の大隊は無論出来るのだが……」
第一大隊長は暫く考えて、答えた。
「出来るでしょう、マアやって見ましょう」
川口手記はこうつづけている。
「軍からの通報に依ると、今夜の川口支隊の夜襲に呼応して海軍の艦船がルンガ沖に来て、所謂殴りこみをかけることになって居る、今になって一日延期ということを軍に報告して了解を求めることは困難である。殴りこみの海軍はもうトックに出航して居るだろう。M点にある砲兵隊、岡部隊に対し命令変更も仲々伝達がむつかしい。|国生少佐が出来ませんと云えば困難を排除しても延期するが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|マアやって見ましょうというのだから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|延期はしなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点引用者)
国生少佐が「まあやってみましょう」と言ったかどうか、いまとなっては明らかにする術もない。事は、しかし、支隊長の判断に属する事柄なのである。国生少佐は諸般の情況から推して生きては還れないと覚悟していたらしいから、「まあやってみましょう」と言ったのかもしれない。
川口手記からも断固決行という大隊長の意気ごみは感じられない。十分な時間をかけて敵に近づき、十分に偵察してから襲撃するという方針を、そもそもの初めに立てておかなかったのは、最高指揮官の責任に帰せられるべきことである。
海軍との協同作戦が行なわれるのなら、突撃発起の日時の決定はもっと慎重厳密に測定されるべきであった。海軍には、先に述べたように燃料による時間的制約がある。反面、陸軍には、携行した糧食による制約があった。それらは、作戦開始以前に十分に計算されねばならなかったことであった。
川口手記をもう暫くつづける。
「支隊は北に向って前進を急ぐが正午迄に予定の攻撃準備につけない。第一地図がないので、果して自分は何処に達したのかということを測定することは困難だが、兎も角敵飛行場には大分遠いらしい。遂々夜になった。ジャングルを夜歩くということは仲々むつかしい。むつかしいどころか、|予め偵察して道しるべでも造っておけば兎も角も《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|始めてのジャングルを歩くことは不可能に近い《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。昼尚お暗いジャングル、それが|夜になると全く鼻をつままれても分らぬ真暗闇である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|前を進む兵隊の姿が見えない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。だから隊列はプツンプツンと切れて了う。戦友を見失って自分一人になってしまう。半日間、|敵情《ヽヽ》、|地形偵察も何もあったものじゃァない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」(傍点引用者)
偵察し警戒しながら行軍するのが軍隊の常識なのである。それを、やみくもにジャングルに踏み込んで、一夜の夜襲で敵陣を蹂躪しようというのである。如何に急を要したとはいえ、信じられないような軽率さであった。
夜のジャングルの暗さは言語に絶していた。そこを、もっぱら夜行軍をするのであるから、よほど慎重な計算がなければ、予定など狂うのが当然であった。
ジャングルでは腐木に燐光のような光を放つものが付着していて、兵たちはそれを千切って前を行く兵の背嚢や帽子につけて目印にした。樹木や蔓の錯雑した密林を啓開しながら墨汁のような闇の中を歩くということは、甚だしい肉体的疲労をもたらすばかりでなく、自分の位置の標定が出来なくて、行軍目的そのものさえ疑わしくなる。
「敵情、地形偵察も何もあったものじゃァない」と最高指揮官が言うようでは、その作戦は、はじまらぬうちから失敗に終っていたも同様である。
川口手記のその先を見ることにする。
「八時になるとM点に残した砲兵が射撃を始めた。各隊この砲声を合図に突入だが、各隊はジャングル内でバラバラになって了った。私も司令部のものを連れてやみ雲に北に向って歩いた。フト見ると私について来るのは山本高級副官と書記と忠実な野口当番兵と四、五人しか居ない。他のものは何処に行ったのか分らぬ。
大声出して呼べば答えもあろうが敵前近く窃かに迫るのだからそれは禁物である。15高地に早く行き度いがとあせるがどうにもならぬ。ヒョットすると吾々だけが部隊より先に進んで居るかも知れない。
昨十一日ジャングル行進間、彼我空中戦で撃墜された敵飛行機のパイロットがパラシュートで降りて来たのを捕え、訊問すると敵は川口支隊の潜行を知らない。だから東方と北方、西方には配兵してあるが、支隊夜襲の方面たる南方には別に陣地もないことが分った。これなら支隊の夜襲は成功するだろうと喜んで居たのに、魔のジャングルの為、支隊は五里霧散し、指揮も掌握も出来ない。私の生涯を通じ、こんな失望感に襲われたことはない。」
右の敵パイロットを捕え尋問すると云々は、戦史室前掲書によれば、十二日午前九時ごろ、砲兵隊から捕虜尋問の結果を次のように報告してきたことになっている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一、敵陣地は飛行場周辺に設けられ、東方及び北方正面が最も堅固で、南方正面は薄弱である。
中川(イル川)と飛行場の間に三線の陣地がある 東方及び北方正面には三乃至四条の鉄条網、更に飛行場の四周には直接掩護の鉄条網、電流の有無に関しては不明。(したがって、南側から襲撃しても直掩鉄条網に衝突し、当然側防火器の配備が予想されるから、それを突破するということは、川口少将が考えていたほど簡単なことではなかったはずである。──引用者)
二、戦車は小型及中型(水陸両用)である。
三、飛行場には現在一五機程度常置してあるだけで、ソロモン群島には他に飛行場なし。
四、上空からする密林内の行動偵察はきわめて困難で、尋問した米軍飛行将校も支隊主力をまだ発見していない。
[#ここで字下げ終わり]
この情報に接した支隊長は、早速各大隊に情報を伝達して、夜襲の成功を確信した、というのである。
だが、「魔のジャングルの為、支隊は五里霧散し、指揮も掌握も出来ない」ことになった。敵の戦力を下算していたばかりでなく、未知の戦場の地勢地形を侮っていたからである。攻撃精神さえ旺盛なら何事でも可能であるという精神至上主義の思い上りと、非科学的で、しかもろくな準備をしていない軽率な行動を、千古の密林が頑として拒否したのである。
「本当に惜しいことをした。」
と、支隊長はくやんでいる。
「若し軍の要求がなくて十三日に夜襲して居たら、よもやこんな失敗はなかっただろう。タッタ一日のことでこの始末である。」
軍のせいにするのは当らない。既に見てきた通り、十七軍は、大本営からの通報によって、新手の米軍増援の兆があるから、川口支隊のなるべく早い攻撃開始を希望し、その能否を問い合せただけである。繰り上げを命令したわけではない。
支隊長が功を急いで、十三日の予定を十二日に繰り上げ、さらに一日繰り上げられるかもしれないと答えたのである。舟艇機動に関しては十七軍司令部にあれほどまでに自説を固持して譲らなかった川口支隊長が、もし慎重に作戦遂行を考慮したのなら、如何に十七軍の希望とはいえ、十三日の日時を譲る必要はなかったのである。
(地図省略)