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ガダルカナル30

时间: 2020-07-30    进入日语论坛
核心提示:30 夜襲失敗後、戦場を離脱する川口支隊の行動を、支隊長自身は回想で次のように述べている。「支隊は軍命令に依りマタニカウ川
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 夜襲失敗後、戦場を離脱する川口支隊の行動を、支隊長自身は回想で次のように述べている。
「支隊は軍命令に依りマタニカウ川左岸に撤退し後図を策することとなり、各隊に対し兵力を集結し、アウステン山南麓を経て、マタニカウ川谷を同河河口に向い退却すべきを命じた。この際患者は各隊に於て搬送し、一兵たりとも遺棄するが如きことなき様、厳に要求した。
十五日以後少数の敵は支隊の退却に追尾して来た。第三大隊(歩兵第百二十四連隊──引用者)をして各隊の退却を収容させた。
各大隊は携帯天幕を以て担架を急造した。一担架を四名にて担ぎ搬送する。その交代兵四人、担送中の兵の武器を運搬する者一名とせば、一担送患者に九名を要する。結局、全員が患者輸送隊になった。幸い敵が追撃して来なかったので、退却が出来た。
糧食は各人概ね九月十三、四日に喰い尽し、一粒の米もなく、全員絶食の状態で五、六日を行軍した。
海岸には椰子の木があるからこの実を以て飢を凌ぐことが出来るが、支隊退却に於ては山地で椰子がない。住居は奥地には一軒もなく、万古|斧鉞《ふえつ》を入れたことない人跡未踏の地である為、喰えるものは何もない。唯々檳椰子の若芽は唯一の食糧であったが、全員に対しては九牛の一毛に過ぎない。時としてマタニカウ川の深い処に手榴弾を投じ少数の川魚を獲って喰うものもあった。実に惨澹たるものであった。
幸い敵の進出が十五日に少しあっただけで、其後なかったので助かったが、若し本格的追撃を受けたなら、全滅の悲運に際会して居ただろう。
主力がマタニカウ川右岸に達したのは、岡部隊から出された部隊により誘導された。同地にて始めて糧食を与えられた。全員概ね五日間絶食であった。マタニカウ川に達したのは九月十八日であった。
M点(既述。夜襲開始以前に推進した砲兵位置──引用者)に残置した一木支隊の砲兵及び歩兵一中隊は大曾祖参謀の指揮に依って、概ね三週間を費やして主力の位置に合したが、全員栄養失調となり、死亡者も続出した。
本退却間、重き兵器は全部、小銃も半数はジャングル内に放棄した。体力衰え、携帯不可能となったからである。但し各人銃剣と飯盒だけは決して捨てない。之は退却行に於て、何処でも生ずる現象である。」
兵器が点々とジャングル内に捨てられていく光景は、敗軍の実情を何よりも雄弁に物語っている。兵役に服したことのある者なら、誰でも記憶にあるはずである。初年兵教育期間中に兵器の取扱いに些細な粗相でもあると、兵隊は天皇の名において肉体的制裁を加えられたのだ。その兵器がジャングルに捨てられたのである。天皇制の神話も飢餓には遠く及ばない。帯剣と飯盒だけは決して手放さないのも当然である。帯剣はもはや唯一の生活の工具であり、飯盒は兵隊を飢えた野獣から分つ唯一の食器なのである。餓えは野獣も人間も同じでも、野獣は食器を必要としない。
 ガダルカナルで川口支隊の攻撃が失敗した日、ニューギニアではオーエン・スタンレー山系越えに悪戦苦闘した南海支隊が、めざすポートモレスビーを遥かに望見する地点イオリバイワに達し、その陣地を攻撃中に、攻撃を中止してスタンレー山系以北に撤退する決定がなされた。
理由は、ガダルカナルの戦況が深刻化して、ニューギニアヘの充当を予定していた兵力までガダルカナルに転用しなければならないような状況が生じたからでもあるが、より端的には南海支隊の糧秣が尽きたのである。一日定量を一合として食いのばし、激務に耐えながら、敵の糧秣を期待し、あるいは食糧の前送に儚い望みをつないできたが、もはや絶望となった。退却する敵は食料を残さなかったし、味方は補給を確保する態勢になかった。たまに糧秣を北岸に揚陸し得ても、それを重畳とした山系を越えて前線に搬送する手段がない。人力搬送では、先に記した南海支隊司令部での試算にあったように、搬送する人員の消費を差引いて前方に蓄積するには、厖大な兵員を必要とする。絶望であった。作戦自体が自殺的であったのである。
南海支隊は後退行動に移り、敵の追撃と飢餓に挟撃され、惨澹たる末路へ追い込まれることになる。
この支隊は、一木支隊第一梯団が意気揚々とガダルカナルに上陸したのと同じ日、昭和十七年八月十八日、ニューギニア北岸に上陸して、山系踏破を開始した。そして、一木支隊全滅のあとを受けた川口支隊がガダルカナルの夜襲に敗れたのと同じ日、九月十四日、敵に敗れず、飢餓に敗れて退却を余儀なくされたのである。
日付の一致は偶然でしかないが、この偶然が強烈に意味するところは、日本車が粗雑な作戦を立て、寡弱な補給力をもってしてはそれを保障し得ないにもかかわらず、驕慢な自信過剰のおもむくままに二正面作戦を敢てしたことである。
南溟に果てた兵は、敵に殺されたのならまだよかった。統帥の拙劣と無責任によって殺されたのである。
川口支隊のマタニカウ河畔への撤退は、支隊長手記にもあるように各隊悲惨をきわめたが、歩兵第四連隊第二大隊(田村大隊)は敵陣地に最も深く突入して各所に散在していたので、戦場からの離脱は他の諸隊に比べていっそう困難であった。敵陣突入の最尖端にあった第六中隊に退却命令が伝わったのは、十六日になってからであった。飛行場南東方地区を占拠していたが、食糧既に全く尽き、活動はほとんど出来ない状態であった。
十六日夕、中隊は退却に移った。
歩兵第四連隊歴史には、「敵ノ重囲ノ一角ヲ突破シ、大ナル危険ヲ冒シツツ集結地ニ到ル、此ノ間二日ヲ費セシモ大隊ノ集結セルハ僅カニ二百名ニシテ他ハ戦場ニ其ノ英姿ヲ歿ス、激戦偲フニ余リアリ」とある。
先に記した死傷調査表(自八月十三日至十月二日)にある数字と、右の連隊歴史の語るところとの間には、かなりの隔りが見えるが、相違の理由は判然しない。田村大隊の死傷が、もし意外に少なかったとすれば、それは田村大隊が敵と彼我入り乱れて持久していて、敵が砲火を浴びせにくい状態にあったからとしか考えられない。
右翼隊の熊大隊との連絡は二十三日早朝までとれなかった。通信杜絶は九月十六日以来のことである。通信部隊の努力によって二十三日早朝判明した熊大隊の状況は、同部隊が撤退行動中に進路を誤り、ルンガ川上流付近で餓死寸前の状態にあるということであった。岡連隊長(歩一二四)は救援のために第五中隊に工兵一小隊と五号無線一機をつけて派遣した。
ところが、九月二十四日午後三時ごろ、機関銃と迫撃砲を持った約二〇〇の米軍が、岡部隊がマタニカウ川とルンガ川の間に啓開した「舞鶴道」を遮断し、敵機の活動が活溌となった。状況は敵の上陸企図を示すもののようであった。岡連隊長は、熊大隊と砲兵隊の撤退誘導を断念して、マタニカウ川右岸(東側)に点在する部隊に、速かに左岸(西側)に撤退集結を命じた。
これによって、熊大隊と連絡中であった第五中隊(既述)はアウステン山麓に集結、ルンガ川付近にあった第八中隊は、舞鶴道上の敵の間隙を突破して、二十六日午前四時ごろ、マタニカウ川に到着した。
第二大隊主力(元の舟艇機動部隊主力)は敵を避けて南方を迂回、後退。熊大隊主力はアウステン山南麓に停止、その一部はマタニカウ川付近に到着しつつあった。
第三大隊十二中隊は、連隊長命令によって、後退して来る第二大隊と熊大隊を掩護するため前進し、午前十一時ごろ、マタニカウ川一本橋右岸で、約一〇〇名の敵が南進して来るのと遭遇、十二時半ごろ敵を撃退して、渡河点右岸を占拠した。
同二十六日、午前十時ごろ、マタニカウ川河口付近では、重火器の火力に掩護された約三〇〇名の米軍が、マタニカウ川を渡河しようとした。左岸にあった第九中隊がこれと交戦、撃退した。
米軍の攻撃は、さして大規模ではなかったが、執拗であった。
二十七日も、夜が明けると、飛行機と砲兵の掩護の下に約一〇〇名が河口付近に来攻、午前十時四十分ごろには、約八〇名が一本橋付近を東方から攻撃して来たが、いずれも撃退した。
ところが、その半時間後、駆逐艦に支援された大発九隻が海上を機動して来て、クルツ岬(マタニカウ川の西側)に艦砲射撃を加え、上陸した敵がマタニカウ川付近の日本軍の後方を遮断した。
危険な状況となりつつあった。
岡連隊長は、この敵に対して、クルツ岬西方約二キロにあった第二大隊主力に攻撃を命じた。第二大隊は、この敵を北方から圧迫して、南方密林内へ逃走させた。
午後三時ごろ、先の上陸点付近に艦砲射撃と飛行機の銃爆撃を伴って、大発七隻で約七〇〇名の米軍が上陸して来た。先に密林内へ逃走した友軍の救援のためであったであろう。
そのころ、先に交戦した第二大隊主力は西方に移動して部隊を整頓中で、上陸点付近にはルンガ川付近から舞鶴道を引き揚げた第八中隊が集結中であった。
米軍は新たに上陸した部隊と、前に密体内に逃走した部隊とが呼応して、第八中隊に攻撃を加えてきた。
第八中隊は白兵戦を挑んで、この敵を撃退した。
岡連隊長はクルツ岬の西方約二キロに兵力の集結を命じた。
同二十七日夜、第二大隊は海岸南側約一キロの高地に突入したが、米軍は既にマタニカウ川右岸(東側)に撤退していた。
岡部隊は、既述の通り、舟艇機動のため兵力減耗の上、分散上陸し、かつ、ガ島西北端の上陸地点からルンガ川付近の戦場までの距離が遠く、地形も錯雑していたため、行進が遅れ、支隊の夜襲に連繋出来なかったが、支隊の夜襲失敗後、マタニカウ川への撤退にあたっては、岡部隊の存在が事態の収拾に偉効を発揮したといってよい。もっとも、舟艇機動のはじめから、そのような効果が予測されていたわけではなかったのである。
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