日時が多少前後するが、川口支隊がマタニカウ川左岸(西側)に撤退したことについて、九月十六日、大本営の田中第一部長は十七軍司令部に出張中の井本中佐に、次の電報を打った。
川口支隊ハ爾後ノ攻撃再興ノ為ニモマタニカウ河ノ線ヨリ後退セシムヘカラサルモノト思考セラル
元々、川口支隊長は独断でマタニカウ左岸へ撤退したのではなかった。
十七軍が、九月十日松本参謀をガダルカナルに派遣すると決めたとき(ガ島上陸は九月十一日夜)、二見参謀長が同参謀に与えた指示(既述)に、攻略不成功の場合は爾後の補給路はカミンボ方面とするから、川口支隊は退路を西方に振り、マタニカウ左岸高地を占領し、その以西に兵力を集結させよ、というのがある。
十七軍司令部は、しかし、中央の意図を反映して、九月二十八日午前十時十五分、川口支隊長に対して、
「最モ速カニマタニカウ河右岸地区ニ攻勢ノ拠点ヲ占領シ 十月八日頃ヨリノ砲兵ヲ以テスル飛行場砲撃ヲ準備スヘク 砲兵三中隊ヲ近ク支隊長ノ指揮下ニ入ラシム」
と命令した。
この命令の作戦的背景は、第二師団を投入しての本格的総攻撃が十月に予定されていたのである。
右の命令を受領したころの川口支隊の実情は、ラバウルの十七軍司令部も知らなければ、大本営はなおのこと知らなかった。
岡部隊と青葉大隊は、飛行場攻撃の失敗と、九月二十六、七日のマタニカウ川の戦闘で人員減耗し、戦力は著しく低下していた。
熊大隊(一木支隊)、砲兵隊、|兵站《へいたん》病院、防疫給水部等も、兵器、器材を撤退間に放棄してしまっていて、使用に堪える状態にはなかった。(戦史室前掲『陸軍作戦』(1))
支隊全般に給養は一日三分一定量に満たなかった。戦力の回復など思いも寄らない。衰弱するばかりである。支隊の患者は一千名を越え、栄養不良のため死亡者が続出した。マラリアも多発した。栄養失調に伴う下痢の発生はほとんど全員に及んだといってもよかった。
砲兵を推進するといっても、そのために必要な道路工事が思うにまかせなかった。工兵中隊が器具器材を持っていないのである。弾薬集積も出来なければ、敵飛行機に対して砲兵陣地を掩護する対空火器も甚だしく不十分であった。
軍隊では命令は絶対だが、右記した命令は川口支隊の実情認識の欠如から発していると考えられた。
そこで川口支隊長は十七軍司令部に意見具申した。その趣旨は次のようなものであった。
軍のいう砲兵(重砲)が何月何日に揚陸され、弾薬も何日までに準備され、何日から射撃開始ということがわかったら、その前に川口支隊は必ずマタニカウ川右岸の要地を責任をもって占領する。だが、右のことは未定である。
いまやマタニカウ川右岸は敵の警戒陣地となっている。支隊が一時攻略しても、敵は必ず奪回に来るものと考えられる。少くとも、支隊は砲爆撃を受け、無用の損害を蒙り、時として我が欲しない時機に局部的決戦を強いられ、支隊の大部は消耗し、全般的にみて不利である。また、もしマタニカウ右岸を攻撃中に、敵がマタニカウ川とカミンボの間に上陸して来ると、これに対応する兵力がないから、後続部隊の上陸が不可能になる。要するに、右岸要地の占領は砲兵射撃開始直前に行なうのを適当と考える、という意見具申であった。
川口支隊長は、右の意見具申と同一趣旨のことを、九月二十一日に連絡と次期作戦準備資料の収集のためにラバウルから川口支隊長の下に来ていた越次、山内両参謀にも主張した。
川口支隊長が、意見具申の中で、砲兵射撃開始直前の必要な時機に「責任をもって」マタニカウ川右岸を占領する、と言っても、夜襲をろくに戦わずして不首尾に終らせた指揮官の言葉としては、説得力がなかったであろう。
また、右岸攻撃中に背後に、つまり、マタニカウ川とカミンボの間に敵に上陸される場合のことを川口支隊は危惧しているが、そしてそれも一応もっともなことではあるが、十七軍司令部としては、中熊連隊(歩兵第四連隊)を川口支隊長の指揮下に入らせたから、これが川口支隊主力以西の地域に在る限り、川口支隊長の背後への懸念に重きを置かなかったであろう。
青葉支隊(歩兵第四連隊)は、既に述べた通り、はじめはポートモレスビー作戦に、次いでラビ作戦に充当を予定されていたが、ガダルカナルの戦況の深刻化によって、第二大隊(田村大隊)が九月四日に、第三大隊(佐々木大隊)が九月十一日にカミンボに上陸し、川口支隊長の指揮下に入った。次いで、九月十五日夜、歩兵第四連隊長中熊直正大佐指揮する第一大隊基幹の約一一〇〇名がカミンボに上陸し、川口支隊長の指揮下に入っていた。
川口支隊長は中熊連隊長に対して、連隊の一部をもってカミンボ上陸基地の確保に当らせ、主力でコカンボナ(マタニカウ河口から西へ約七キロ)以西の地区に兵力を集結して、後方連絡線を確保するよう命じてあったのである。
したがって、川口支隊長のマタニカウ川右岸攻撃に関する意見具申は、後方の兵力配備についての不安よりも、川口支隊将兵の衰弱し戦力を極度に低下させている実情を内容とした方が説得力があったのではないかと思われる。軍人は、屡々、虚勢を張りたがるから、真相が後景に押しやられてしまう。十七軍司令部がガダルカナルの惨状を実際に認識するのは、十月、第二師団の攻撃がはじまる前、軍司令部をガダルカナルに推進してからである。
川口支隊長の意見具申は採用されなかった。九月三十日午前六時三十分、支隊に軍司令部から命令が届いた。
支隊ノ「マ」河右岸要地奪取ハ刻下ノ急務ナルニツキ即時実施シ、ソノ結果ヲ報告スヘシ
再度の命令とあっては、仕方がなかった。川口支隊長は歩兵第百二十四連隊にマタニカウ川右岸占領を命じた。岡連隊長は、十月三日、歩兵一中隊をもってマタニカウ川一本橋(渡河点)東岸と、河口右岸高地を占領させた。
右岸の敵勢力はよほど微弱であったとみえる。占領に任じた岡部隊では、後述するように半定量一日分の食糧しかなく、将兵の体力は衰弱の一途にあったのである。
川口支隊ハ爾後ノ攻撃再興ノ為ニモマタニカウ河ノ線ヨリ後退セシムヘカラサルモノト思考セラル
元々、川口支隊長は独断でマタニカウ左岸へ撤退したのではなかった。
十七軍が、九月十日松本参謀をガダルカナルに派遣すると決めたとき(ガ島上陸は九月十一日夜)、二見参謀長が同参謀に与えた指示(既述)に、攻略不成功の場合は爾後の補給路はカミンボ方面とするから、川口支隊は退路を西方に振り、マタニカウ左岸高地を占領し、その以西に兵力を集結させよ、というのがある。
十七軍司令部は、しかし、中央の意図を反映して、九月二十八日午前十時十五分、川口支隊長に対して、
「最モ速カニマタニカウ河右岸地区ニ攻勢ノ拠点ヲ占領シ 十月八日頃ヨリノ砲兵ヲ以テスル飛行場砲撃ヲ準備スヘク 砲兵三中隊ヲ近ク支隊長ノ指揮下ニ入ラシム」
と命令した。
この命令の作戦的背景は、第二師団を投入しての本格的総攻撃が十月に予定されていたのである。
右の命令を受領したころの川口支隊の実情は、ラバウルの十七軍司令部も知らなければ、大本営はなおのこと知らなかった。
岡部隊と青葉大隊は、飛行場攻撃の失敗と、九月二十六、七日のマタニカウ川の戦闘で人員減耗し、戦力は著しく低下していた。
熊大隊(一木支隊)、砲兵隊、|兵站《へいたん》病院、防疫給水部等も、兵器、器材を撤退間に放棄してしまっていて、使用に堪える状態にはなかった。(戦史室前掲『陸軍作戦』(1))
支隊全般に給養は一日三分一定量に満たなかった。戦力の回復など思いも寄らない。衰弱するばかりである。支隊の患者は一千名を越え、栄養不良のため死亡者が続出した。マラリアも多発した。栄養失調に伴う下痢の発生はほとんど全員に及んだといってもよかった。
砲兵を推進するといっても、そのために必要な道路工事が思うにまかせなかった。工兵中隊が器具器材を持っていないのである。弾薬集積も出来なければ、敵飛行機に対して砲兵陣地を掩護する対空火器も甚だしく不十分であった。
軍隊では命令は絶対だが、右記した命令は川口支隊の実情認識の欠如から発していると考えられた。
そこで川口支隊長は十七軍司令部に意見具申した。その趣旨は次のようなものであった。
軍のいう砲兵(重砲)が何月何日に揚陸され、弾薬も何日までに準備され、何日から射撃開始ということがわかったら、その前に川口支隊は必ずマタニカウ川右岸の要地を責任をもって占領する。だが、右のことは未定である。
いまやマタニカウ川右岸は敵の警戒陣地となっている。支隊が一時攻略しても、敵は必ず奪回に来るものと考えられる。少くとも、支隊は砲爆撃を受け、無用の損害を蒙り、時として我が欲しない時機に局部的決戦を強いられ、支隊の大部は消耗し、全般的にみて不利である。また、もしマタニカウ右岸を攻撃中に、敵がマタニカウ川とカミンボの間に上陸して来ると、これに対応する兵力がないから、後続部隊の上陸が不可能になる。要するに、右岸要地の占領は砲兵射撃開始直前に行なうのを適当と考える、という意見具申であった。
川口支隊長は、右の意見具申と同一趣旨のことを、九月二十一日に連絡と次期作戦準備資料の収集のためにラバウルから川口支隊長の下に来ていた越次、山内両参謀にも主張した。
川口支隊長が、意見具申の中で、砲兵射撃開始直前の必要な時機に「責任をもって」マタニカウ川右岸を占領する、と言っても、夜襲をろくに戦わずして不首尾に終らせた指揮官の言葉としては、説得力がなかったであろう。
また、右岸攻撃中に背後に、つまり、マタニカウ川とカミンボの間に敵に上陸される場合のことを川口支隊は危惧しているが、そしてそれも一応もっともなことではあるが、十七軍司令部としては、中熊連隊(歩兵第四連隊)を川口支隊長の指揮下に入らせたから、これが川口支隊主力以西の地域に在る限り、川口支隊長の背後への懸念に重きを置かなかったであろう。
青葉支隊(歩兵第四連隊)は、既に述べた通り、はじめはポートモレスビー作戦に、次いでラビ作戦に充当を予定されていたが、ガダルカナルの戦況の深刻化によって、第二大隊(田村大隊)が九月四日に、第三大隊(佐々木大隊)が九月十一日にカミンボに上陸し、川口支隊長の指揮下に入った。次いで、九月十五日夜、歩兵第四連隊長中熊直正大佐指揮する第一大隊基幹の約一一〇〇名がカミンボに上陸し、川口支隊長の指揮下に入っていた。
川口支隊長は中熊連隊長に対して、連隊の一部をもってカミンボ上陸基地の確保に当らせ、主力でコカンボナ(マタニカウ河口から西へ約七キロ)以西の地区に兵力を集結して、後方連絡線を確保するよう命じてあったのである。
したがって、川口支隊長のマタニカウ川右岸攻撃に関する意見具申は、後方の兵力配備についての不安よりも、川口支隊将兵の衰弱し戦力を極度に低下させている実情を内容とした方が説得力があったのではないかと思われる。軍人は、屡々、虚勢を張りたがるから、真相が後景に押しやられてしまう。十七軍司令部がガダルカナルの惨状を実際に認識するのは、十月、第二師団の攻撃がはじまる前、軍司令部をガダルカナルに推進してからである。
川口支隊長の意見具申は採用されなかった。九月三十日午前六時三十分、支隊に軍司令部から命令が届いた。
支隊ノ「マ」河右岸要地奪取ハ刻下ノ急務ナルニツキ即時実施シ、ソノ結果ヲ報告スヘシ
再度の命令とあっては、仕方がなかった。川口支隊長は歩兵第百二十四連隊にマタニカウ川右岸占領を命じた。岡連隊長は、十月三日、歩兵一中隊をもってマタニカウ川一本橋(渡河点)東岸と、河口右岸高地を占領させた。
右岸の敵勢力はよほど微弱であったとみえる。占領に任じた岡部隊では、後述するように半定量一日分の食糧しかなく、将兵の体力は衰弱の一途にあったのである。
当時、川口支隊は悲惨な状況にあった。先に述べたように、マラリアと下痢が多発していたが、野戦病院はセギロウ川付近(コカンボナから北西へ約一二キロ)のジャングル内に設けられてはいても、名のみであった。軍医はいても、病舎もベッドもない。患者がジャングルのあちこちに横たわっているだけである。雨が降れば、患者は地面で水びたしになった。野戦病院には患者用の食糧もなかった。患者が原隊から給与を受けるのだが、弱い患者の手に渡るほど糧食が多量にあるわけではない。薬品その他の医療品も海没その他の事故で、切れてしまっていた。軍医がいても手の施しようがなかった。
支隊長は、駆逐艦が来るごとに患者を乗せて後方へ送ろうとした。駆逐艦の方では、揚陸を済ませると、なるべく早くガダルカナルから離れたがって、手間のかかる患者後送を喜ばなかった。
兵員各自の糧食は半定量にも足りず、体力は日々低下するばかりであった。兵隊は閑さえあれば海岸の椰子の実を取って、帯剣で孔をこじあけ、その汁を飲むのが日課になっていた。椰子の実は、地に落ちて、日数が経つと、中の汁が固形化し、兵隊は椰子リンゴと称して貪り食った。固まった椰子油は、無煙の青い焔を出して燃え、敵中で用いるには最適の燃料にもなったという。
先に記したマタニカウ川右岸占領を九月三十日に命ぜられた岡連隊長が、支隊の高級副官にあてた手紙がある。食糧の窮状を訴えたものである。
「昨日帰途小山田副官ヨリ本日以降糧秣補給ハ当分中絶ノ由貴司令部ヨリ承知セシ旨報告ヲ受ケ驚キ入レリ
愈々昨日ノ作命(マ川右岸占領の作戦命令──引用者)ノ実行至難トナレリ
支隊司令部ハ軍命令ヲ右ヨリ左ヘ伝達シ自己ノ責任ハ免レシヤニ見ユルモ部下ヲ死地ニ投ズベキ連隊本部ニ|言《ママ》ハバ責任転|架《ママ》シテ涼シキ顔ニ似タルハ甚ダ遺憾ナリ
就テハ小官ノ立場上軍紀ノ厳然タル存在ノ前ニ絶対ニ之ニ服従スベキハ当然ナルベキヲ以テ之ガ万|善《ママ》ノ策トシ弾ヲ有スル青葉部隊ヲ利用スベキモ糧秣ハ何トカセザルヲ得ズ
(右の一節の意味は明瞭を欠くが青葉大隊には弾があるから、右岸占領には同隊を使用すべきだが、食糧だけはなんとかしてやらなければならない、という意味であろう。──引用者)
承ル処ニヨレバ支隊司令部各隊ハ本日並ニ明一日分ノ糧秣ヲ有スル由、小官ノ部下二千ハ半定量ニテ本日一日分ニテ何等ノ貯蔵ナシ就テハ右青葉部隊ヨリ五〇人小隊ヲ先遣ノ命ヲ下達セシニ付貴隊ノ明一日分ノ糧秣ヲ右五〇人五日分半定量ニ支給シ度キニ付協力アリ度
尚清水中尉ヨリ聞ク処ニ依レバ昨日亀甲万醤油三樽司令部ニ到着セシ由、第一線デハ海水ニテ辛|棒《ママ》シアル今日先ヅ活動セザル支隊司令部ハ此ノ如キ事ニ聊カ|謹《ママ》マレ度就テハ一樽ニテモ御寄贈ニ預ラバ幸甚ナリ」(前掲川口手記より)
敵を甘く見て、九月十三、四日以降は「糧は敵に依る」などと安易に考え、十分な準備を怠った結果が、このていたらくであった。
兵たちは食うことばかり考えるようになった。当然である。椰子の実を取ることが日課になった兵隊の姿は、想像に難くない。
こういう状態に置かれた兵隊は、いくら軍国主義的教育を施されていても、必然的に懐疑的になる。まず、こんな遠くまで来て、食う物もなく、支援砲火もなしに戦えるものかどうかである。外国はみんな邪悪で、日本だけが正しいと教え込まれているが、邪悪の国の利益を護るのに、ふんだんな補給、雷雨のような砲火、生命を保護するように出来た縦深陣地があって、正義を行使するのに肉弾しかないということが、あってよいものかどうかである。
兵隊が戦って死ぬのは仕方がない。だが、何故、戦えるようにして戦わせないのか。
兵隊を激戦に投入するのは仕方がない。だが、飢餓が忠誠の必須条件であるのかどうか。給養兵額の計算ぐらいは、はじめから立っていたはずである。定量給養ぐらいは確保して兵を奮戦させるのが、後方の高等司令部ではないのか。
日本軍は強いと言われてきたが、ほんとうにそうなのか。得意の白兵で突入しても、鉄条網でさえぎられる。手間どっているところを砲弾で叩かれる。これでは命が幾つあっても足りない。夜襲の効果は照明弾で半減する。一斉に突入するのでなければ、白兵は無意味に近い。一斉突入のためには、徹底した制圧砲撃と防禦施設の破壊が必要なのだ。そうした理詰めの戦法はまるでとられなかった。
兵隊は、ただやみくもに密林を歩き、部隊によっては突撃さえも出来ずに、退却し、虚しく飢えていた。
支隊長は、駆逐艦が来るごとに患者を乗せて後方へ送ろうとした。駆逐艦の方では、揚陸を済ませると、なるべく早くガダルカナルから離れたがって、手間のかかる患者後送を喜ばなかった。
兵員各自の糧食は半定量にも足りず、体力は日々低下するばかりであった。兵隊は閑さえあれば海岸の椰子の実を取って、帯剣で孔をこじあけ、その汁を飲むのが日課になっていた。椰子の実は、地に落ちて、日数が経つと、中の汁が固形化し、兵隊は椰子リンゴと称して貪り食った。固まった椰子油は、無煙の青い焔を出して燃え、敵中で用いるには最適の燃料にもなったという。
先に記したマタニカウ川右岸占領を九月三十日に命ぜられた岡連隊長が、支隊の高級副官にあてた手紙がある。食糧の窮状を訴えたものである。
「昨日帰途小山田副官ヨリ本日以降糧秣補給ハ当分中絶ノ由貴司令部ヨリ承知セシ旨報告ヲ受ケ驚キ入レリ
愈々昨日ノ作命(マ川右岸占領の作戦命令──引用者)ノ実行至難トナレリ
支隊司令部ハ軍命令ヲ右ヨリ左ヘ伝達シ自己ノ責任ハ免レシヤニ見ユルモ部下ヲ死地ニ投ズベキ連隊本部ニ|言《ママ》ハバ責任転|架《ママ》シテ涼シキ顔ニ似タルハ甚ダ遺憾ナリ
就テハ小官ノ立場上軍紀ノ厳然タル存在ノ前ニ絶対ニ之ニ服従スベキハ当然ナルベキヲ以テ之ガ万|善《ママ》ノ策トシ弾ヲ有スル青葉部隊ヲ利用スベキモ糧秣ハ何トカセザルヲ得ズ
(右の一節の意味は明瞭を欠くが青葉大隊には弾があるから、右岸占領には同隊を使用すべきだが、食糧だけはなんとかしてやらなければならない、という意味であろう。──引用者)
承ル処ニヨレバ支隊司令部各隊ハ本日並ニ明一日分ノ糧秣ヲ有スル由、小官ノ部下二千ハ半定量ニテ本日一日分ニテ何等ノ貯蔵ナシ就テハ右青葉部隊ヨリ五〇人小隊ヲ先遣ノ命ヲ下達セシニ付貴隊ノ明一日分ノ糧秣ヲ右五〇人五日分半定量ニ支給シ度キニ付協力アリ度
尚清水中尉ヨリ聞ク処ニ依レバ昨日亀甲万醤油三樽司令部ニ到着セシ由、第一線デハ海水ニテ辛|棒《ママ》シアル今日先ヅ活動セザル支隊司令部ハ此ノ如キ事ニ聊カ|謹《ママ》マレ度就テハ一樽ニテモ御寄贈ニ預ラバ幸甚ナリ」(前掲川口手記より)
敵を甘く見て、九月十三、四日以降は「糧は敵に依る」などと安易に考え、十分な準備を怠った結果が、このていたらくであった。
兵たちは食うことばかり考えるようになった。当然である。椰子の実を取ることが日課になった兵隊の姿は、想像に難くない。
こういう状態に置かれた兵隊は、いくら軍国主義的教育を施されていても、必然的に懐疑的になる。まず、こんな遠くまで来て、食う物もなく、支援砲火もなしに戦えるものかどうかである。外国はみんな邪悪で、日本だけが正しいと教え込まれているが、邪悪の国の利益を護るのに、ふんだんな補給、雷雨のような砲火、生命を保護するように出来た縦深陣地があって、正義を行使するのに肉弾しかないということが、あってよいものかどうかである。
兵隊が戦って死ぬのは仕方がない。だが、何故、戦えるようにして戦わせないのか。
兵隊を激戦に投入するのは仕方がない。だが、飢餓が忠誠の必須条件であるのかどうか。給養兵額の計算ぐらいは、はじめから立っていたはずである。定量給養ぐらいは確保して兵を奮戦させるのが、後方の高等司令部ではないのか。
日本軍は強いと言われてきたが、ほんとうにそうなのか。得意の白兵で突入しても、鉄条網でさえぎられる。手間どっているところを砲弾で叩かれる。これでは命が幾つあっても足りない。夜襲の効果は照明弾で半減する。一斉に突入するのでなければ、白兵は無意味に近い。一斉突入のためには、徹底した制圧砲撃と防禦施設の破壊が必要なのだ。そうした理詰めの戦法はまるでとられなかった。
兵隊は、ただやみくもに密林を歩き、部隊によっては突撃さえも出来ずに、退却し、虚しく飢えていた。