陸海軍は、第二師団による十月攻勢を成立させるためには、大量の軍需物資、重器材等を大輸送船団をもってガダルカナルに輸送する以外に方法はないという結論に達したことは、前述の通りである。
その船団輸送の実施は、連合艦隊のほとんどが全力をもってする護衛と支援を必要とすることであったが、連合艦隊司令長官の決断によって実施と決った経緯も、既に述べた。
既述の部分と時間的に若干前後するが、海軍側と第十七軍とは、輸送計画の協同検討を行なった結果、次のように計画を概定した。
艦艇及び舟艇輸送は十月一日から再開、艦艇は毎日六隻の予定。
『日進』(水上機母艦)による重器材輸送は十月三日と六日の予定。(日進の戦闘詳報によれば、十月三日、八日、十一日の三回行なった。詳細後述)
高速船団による輸送は十月十一日ころ行なう。
船団輸送の成功は、米軍航空兵力の制圧を前提条件とするので、航空撃滅戦、陸軍による飛行場砲撃の他に、高速戦艦の主砲をもってする艦砲射撃も計画された。
陸軍砲による飛行場の制圧射撃は、マタニカウ川右岸の砲兵陣地が米軍の攻撃によって奪われたので望めなくなったが、ガダルカナル戦況逼迫のため、飛行場制圧の有無にかかわらず船団輸送を必要とする事情にあることは、先に引用した三人の参謀(小沼、林、辻)の電報が訴えている通りであった。
高速船団輸送にも、そのあとの第十七軍の総攻撃(第二師団)のときも、連合艦隊は全力を挙げて支援配備に展開することに決していたが、艦隊には積載燃料の関係から、行動日数に制約があった。トラック出撃からトラック帰着までを二週間とする、ということである。仮りに高速船団突入を十月十一日とすれば、それから二週間目の二十五日までには、総攻撃が終って、支援艦隊はトラックに引揚げていなければならない、ということである。よほど陸海軍の計画が緻密に組合わされ、かつ、地上部隊の行動と支援艦隊の行動とが現実的に|吻合《ふんごう》していなければならない。
果してそのような緻密な関係を保持し得るか否かが問題であった。
駆逐艦による増援輸送(鼠輸送)は十月一日再開され、一日に三隻、二日五隻、三日『日進』(後述)と駆逐艦九隻、五日三隻、六日六隻と揚陸に成功したが、舟艇輸送(蟻輸送)の方は天候不良と水路の事前調査不良に加えて、大発が耐波性に乏しく、羅針儀も不良であったりした上に、さらに中継基地を敵に発見され攻撃を受けたため、成績全く不良であった。水路の事前調査もろくに行なわないで輸送を実施するなどということは、急を要したということでは弁解にならない。関係者に限らず、日本人一般のいいかげんさを証明するだけのことである。蟻輸送による輸送物件は、重火器、弾薬、糧食が主であったが、重火器を計画通り輸送出来なかったことは、ガダルカナルの陸上戦闘に重大な支障を及ぼした。輸送に失敗すれば重大な支障を来すぐらいのことは、事前に明らかなはずであった。それにもかかわらず、重火器輸送が蟻輸送で可能か否か、入念な調査もしないようでは、戦闘以前に既に負けていたと言っても過言でない。まして、川口支隊の舟艇機動の惨澹たる失敗の直後ではないか。日本軍は、何故か、前の失敗の深刻な検討の上に次の行動を計画するという、当然のことをしないのである。
十七軍は、十月八日までにガダルカナルに到着する見込みのない蟻輸送物件は、ショートランドヘ逆送を希望した。それほど蟻輸送は期待出来ない情況にあったのである。
日進の十月三日の輸送物件と人員は、十五榴四門、野砲二門、同上弾薬牽引車三、トラック二、特大発二、大発四と、人員として丸山第二師団長以下二三一名であった。十月三日午後八時五十分タサファロング到着、揚陸開始したが、午後十時四十五分、敵機の妨害が甚だしいため、一部揚陸未済のまま作業を中止、帰途についた。揚陸出来なかったのは、自動車一、野砲二、野砲弾薬の大部と、野砲中隊八〇名であった。
十月三日の輸送は、日進戦闘詳報によれば、往復ともに安全ではなかったようである。往航三日の午後三時三十五分には、早くも艦爆一〇機の攻撃を受け、投弾七、至近弾のため重傷二名、軽傷四名を出し、船体に僅少の損傷を受けた。翌四日、復航のとき、午前四時五十分、雷撃機四、B17五の来襲があり、魚雷四発を発射されたが命中しなかった。
蟻輸送の成績が全く不振のため、増援部隊指揮官(三水戦司令官)は、六日夜、次のように報告している。
「ガダルカナル方面ノ情況ハ諸種ノ障害アルモ各艦ノ異常ナル努力ニ依リ一〇日迄ノ予想輸送量ハ、人員約一〇、〇〇〇其他重要兵器之ニ準ズル額ニ達スヘシ 然ルニY日ノ輸送船団に依ル(Y日はX日の誤りではないかと思われる。連合艦隊命令に使用されている記号Y日は総攻撃開始日のことであり、高速船団揚陸はX日となっている。──引用者)輸送量(人員四五〇〇及重兵器)ヲ除ク一〇日ノ残員ハ兵六〇〇〇、戦車一二、野砲一〇、高射砲六、高射機銃一二門アルヲ以テ一二日、一四日川内(三水戦旗艦──引用者)以下全力ヲ挙ゲ輸送シ尚残員三〇〇〇及重兵器若干ヲ生スヘシ」(山田日記)
という状態であった。
この六日までの間、先の日進も艦載機に攻撃されているし、五日早朝には米艦載機がショートランドを空襲したことからみて、近海に米機動部隊が行動しているにちがいなかったが、日本海軍の機動部隊はまだ遠くトラック島にあって、十一日早朝まで出撃しなかった。
その船団輸送の実施は、連合艦隊のほとんどが全力をもってする護衛と支援を必要とすることであったが、連合艦隊司令長官の決断によって実施と決った経緯も、既に述べた。
既述の部分と時間的に若干前後するが、海軍側と第十七軍とは、輸送計画の協同検討を行なった結果、次のように計画を概定した。
艦艇及び舟艇輸送は十月一日から再開、艦艇は毎日六隻の予定。
『日進』(水上機母艦)による重器材輸送は十月三日と六日の予定。(日進の戦闘詳報によれば、十月三日、八日、十一日の三回行なった。詳細後述)
高速船団による輸送は十月十一日ころ行なう。
船団輸送の成功は、米軍航空兵力の制圧を前提条件とするので、航空撃滅戦、陸軍による飛行場砲撃の他に、高速戦艦の主砲をもってする艦砲射撃も計画された。
陸軍砲による飛行場の制圧射撃は、マタニカウ川右岸の砲兵陣地が米軍の攻撃によって奪われたので望めなくなったが、ガダルカナル戦況逼迫のため、飛行場制圧の有無にかかわらず船団輸送を必要とする事情にあることは、先に引用した三人の参謀(小沼、林、辻)の電報が訴えている通りであった。
高速船団輸送にも、そのあとの第十七軍の総攻撃(第二師団)のときも、連合艦隊は全力を挙げて支援配備に展開することに決していたが、艦隊には積載燃料の関係から、行動日数に制約があった。トラック出撃からトラック帰着までを二週間とする、ということである。仮りに高速船団突入を十月十一日とすれば、それから二週間目の二十五日までには、総攻撃が終って、支援艦隊はトラックに引揚げていなければならない、ということである。よほど陸海軍の計画が緻密に組合わされ、かつ、地上部隊の行動と支援艦隊の行動とが現実的に|吻合《ふんごう》していなければならない。
果してそのような緻密な関係を保持し得るか否かが問題であった。
駆逐艦による増援輸送(鼠輸送)は十月一日再開され、一日に三隻、二日五隻、三日『日進』(後述)と駆逐艦九隻、五日三隻、六日六隻と揚陸に成功したが、舟艇輸送(蟻輸送)の方は天候不良と水路の事前調査不良に加えて、大発が耐波性に乏しく、羅針儀も不良であったりした上に、さらに中継基地を敵に発見され攻撃を受けたため、成績全く不良であった。水路の事前調査もろくに行なわないで輸送を実施するなどということは、急を要したということでは弁解にならない。関係者に限らず、日本人一般のいいかげんさを証明するだけのことである。蟻輸送による輸送物件は、重火器、弾薬、糧食が主であったが、重火器を計画通り輸送出来なかったことは、ガダルカナルの陸上戦闘に重大な支障を及ぼした。輸送に失敗すれば重大な支障を来すぐらいのことは、事前に明らかなはずであった。それにもかかわらず、重火器輸送が蟻輸送で可能か否か、入念な調査もしないようでは、戦闘以前に既に負けていたと言っても過言でない。まして、川口支隊の舟艇機動の惨澹たる失敗の直後ではないか。日本軍は、何故か、前の失敗の深刻な検討の上に次の行動を計画するという、当然のことをしないのである。
十七軍は、十月八日までにガダルカナルに到着する見込みのない蟻輸送物件は、ショートランドヘ逆送を希望した。それほど蟻輸送は期待出来ない情況にあったのである。
日進の十月三日の輸送物件と人員は、十五榴四門、野砲二門、同上弾薬牽引車三、トラック二、特大発二、大発四と、人員として丸山第二師団長以下二三一名であった。十月三日午後八時五十分タサファロング到着、揚陸開始したが、午後十時四十五分、敵機の妨害が甚だしいため、一部揚陸未済のまま作業を中止、帰途についた。揚陸出来なかったのは、自動車一、野砲二、野砲弾薬の大部と、野砲中隊八〇名であった。
十月三日の輸送は、日進戦闘詳報によれば、往復ともに安全ではなかったようである。往航三日の午後三時三十五分には、早くも艦爆一〇機の攻撃を受け、投弾七、至近弾のため重傷二名、軽傷四名を出し、船体に僅少の損傷を受けた。翌四日、復航のとき、午前四時五十分、雷撃機四、B17五の来襲があり、魚雷四発を発射されたが命中しなかった。
蟻輸送の成績が全く不振のため、増援部隊指揮官(三水戦司令官)は、六日夜、次のように報告している。
「ガダルカナル方面ノ情況ハ諸種ノ障害アルモ各艦ノ異常ナル努力ニ依リ一〇日迄ノ予想輸送量ハ、人員約一〇、〇〇〇其他重要兵器之ニ準ズル額ニ達スヘシ 然ルニY日ノ輸送船団に依ル(Y日はX日の誤りではないかと思われる。連合艦隊命令に使用されている記号Y日は総攻撃開始日のことであり、高速船団揚陸はX日となっている。──引用者)輸送量(人員四五〇〇及重兵器)ヲ除ク一〇日ノ残員ハ兵六〇〇〇、戦車一二、野砲一〇、高射砲六、高射機銃一二門アルヲ以テ一二日、一四日川内(三水戦旗艦──引用者)以下全力ヲ挙ゲ輸送シ尚残員三〇〇〇及重兵器若干ヲ生スヘシ」(山田日記)
という状態であった。
この六日までの間、先の日進も艦載機に攻撃されているし、五日早朝には米艦載機がショートランドを空襲したことからみて、近海に米機動部隊が行動しているにちがいなかったが、日本海軍の機動部隊はまだ遠くトラック島にあって、十一日早朝まで出撃しなかった。
先に引用した三水戦司令官(増援部隊指揮官)の報告電に基づいて、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)は、水上機母艦竜田と千歳を増援部隊に編入し、輸送計画の再検討を行なった。
連合艦隊司令部では、ブイン飛行場の完成遅延を考慮して、高速船団突入予定のX日を一日延し、十月十五日とした。
『竜田』『千歳』を加えて再検討された輸送計画は次の通りであった。
九日 竜田、駆逐艦九
十日 駆逐艦五
十一日 日進、千歳、駆逐艦五
十二日 竜田、駆逐艦三
十三日 川内、由良(巡洋艦)、駆四
十四日 日進、千歳、駆逐艦五
十五日 川内、由良、竜田、駆一〇
右による輸送の概量は、人員五〇〇〇名、高射砲六門、野砲一〇門、牽引車二、十五榴八門(陸軍新要求)、糧秣一三〇トン(残量戦車一二、人員二三〇〇名)で、十一日以後の駆逐艦使用数は一一隻として計算されていた。(『南東方面海軍作戦』(2))
日を追って輸送の概況を見ることにする。ガダルカナルでの軍事的失敗と悲劇の理由の大半は輸送難にあったが、このころはまだ比較的に順調な方だったのである。
十月七日は、日進と駆逐艦一隻は上空直掩機の配備がないため、途中から引き返し、駆逐艦五隻だけ揚陸に成功した。
十月八日は、日進と駆逐艦五隻は往復ともに多数敵機の攻撃を受けたが、直衛水上機の活躍に救われて、輸送は成功した。
日進は、十榴二門、高角砲(海軍)四門、高射砲(陸軍)二門、トラック二、牽引車二、榴弾砲弾薬車二、特大発二、大発二、各種弾薬、糧食、燃料、人員一七六名を輸送した。
十月九日は、改訂計画通り竜田と駆逐艦九隻が揚陸に成功した。復航時、敵機三五機の激しい攻撃を受けたが、直掩水戦の奮戦によって艦艇は無事であった。その代り、直掩水戦四機は全機失われた。
この九日の夜、十七軍司令部はタサファロングに上陸し、コカンボナ西方に戦闘司令所を置いたが、既述の通り、兵站輸送は予定の約二分の一しか達成されておらず、第一線部隊が飢餓に瀕していることを、はじめて知ったというのである。
十月十日は、駆逐艦三隻が陸兵二九三名と弾薬、糧食をタサファロングに揚陸した。直掩機の配備はなかったが、敵機の攻撃もなかった。この日、予定の五隻が三隻となった理由は明らかでない。翌十一日に日進、千歳の輸送があるので、不足がちな駆逐艦を確保するためではないかと考えられる。
十月十一日は、高速船団突入揚陸のX日を十月十五日とすれば、連合艦隊の支援部隊がトラックを出撃する日である。
十一日には、日進、千歳に四隻の駆逐艦が重兵器、軍需品、兵員を輸送してタサファロングに揚陸することになっていたほか、支援隊としての第六戦隊(青葉、古鷹、衣笠の三巡洋艦)がガ島飛行場を砲撃する計画であった。
日進(十五榴二門、トラック一輛、牽引車三輛、野砲二門、弾薬車八、野砲弾薬八〇箱、特大発二、大発四、人員一三〇名)と千歳(十五榴二門、トラック三輛、牽引車一輛、弾薬車六、高射砲一門、固定無線機一基、人員一五〇名)は、駆逐艦二隻(秋月、夏雲)に護衛され、他に駆逐艦四隻(朝雲、白雪、叢雲、綾波)が連隊砲一、大隊砲二、速射砲、陸兵四一〇名、糧食弾薬を搭載して、午前六時、ショートランドを出撃、二条のソロモン諸島の中央航路をとってタサファロングに向った。
支援隊(飛行場砲撃を目的とする青葉以下の第六戦隊)は、輸送隊より六時間遅れて、十一日正午、ショートランドを出撃、中央航路を二四ノットで南下した。
輸送隊は、午前八時二十分、ショートランドの南東三〇浬で、早くも敵大型機に発見されたが、午前十時には味方戦闘機が直掩配備についた。被発見から午前十時までの間に攻撃を受けなかったのは幸運であった。
十時以後も、この日は敵機の来襲がなかったのは、米側資料(モリソン)によれば、基地航空部隊がガダルカナル攻撃を実施したからであるというが、戦果の僅少から考えると|肯《うなず》けない。
直掩機は日没まで四直に分けて延べ二一機が飛んだが、最終直では着水時に搭乗員二名が犠牲となり、飛行機は六機とも放棄しなければならなかった。
輸送隊は幸運に恵まれていたというべきであろう。午後八時十分、タサファロングに到着して、揚陸を開始した。
日進隊の揚陸が終了する前に、青葉以下の支援隊と敵水上部隊との間に戦闘が勃発したが、日進、千歳は午後十時五十分揚陸終了、出港、輸送駆逐艦も午後十一時五分揚陸作業を終り、戦闘用意を整えて、十一時十分戦闘海面に向った。
支援隊(第六戦隊)司令部は、出撃当時から一つの先入主に支配されていたようである。それは第六戦隊に限ったことではなかったであろう。つまり、次のような判断である。ガダルカナル周辺では敵の航空勢力は日本側に較べて明らかに優位にあって、昼夜の別なく日本軍の増援輸送に攻撃妨害を加え、反面、その航空勢力の掩護下に米軍は白昼でも随時補給増援を行なっている情況にあるが、水上部隊に関していえば、敵は、夜間は遠く南東海域に退避するか、ツラギ港内に遁入するかして、日本軍艦艇に対しては僅かに魚雷艇数隻をもって反撃を試みる程度に過ぎない。したがって、飛行場砲撃を目的とする支援隊が深夜ガダルカナルに近接しても、敵が水上大部隊をもって邀撃の挙に出ることなどはほとんどあり得ない、という独善的な判断であった。これは、八月八日深夜のルンガ沖夜戦の奇蹟的な大勝利以来、海軍軍人の深層心理にこびりついた、夜戦なら我がもの、という錯誤の結果かもしれない。
支援隊は十一日日没時ガダルカナルの北西二〇〇浬の地点に達していた。この日、基地航空部隊の陸攻五機がガダルカナル南方海域の索敵を行なったはずだが、なんら敵情を得なかった。午後四時以後、支援隊は速力三〇ノット、青葉、古鷹、衣笠の順の単縦陣、開距離一二〇〇メートル、護衛駆逐艦の初雪と吹雪は青葉の左右前方七〇度、三〇〇〇メートルを走航していた。
サボ島が見えるまでの約二時間、艦隊は猛烈なスコールの中を走っていた。午後九時半、スコールを抜けると、サボ島は左三度一〇浬にあった。
午後九時四十三分、青葉は左舷一五度約一粁に、艦影三個を発見した。それらは、時間と場所からみて、日進などの輸送隊かもしれぬと考えられた。
旗艦青葉は味方識別信号を送りながら直進した。
約七〇〇〇メートルに近づいたとき、青葉見張員が敵と識別した。だが、支援隊指揮官は如何なる根拠によってか、見張員の報告を疑問視し、左一〇度味方識別一〇秒と下令し、同時に「総員戦闘配置ニ就ケ」と、同航戦の意図をもって「|面舵《おもかじ》」(右折)を下令した。その直後であった。青葉は強烈な照明を浴び、敵水上部隊からの集中砲火を蒙った。
青葉は不運としか言いようがなく、米艦隊は射撃技術が卓越していたと言えるかもしれない。初弾は不発弾でありながら、青葉の艦橋正面に命中、五藤司令官以下幹部多数が死傷した。(司令官は翌朝死亡。)通信装置が破壊されて、艦内外の連絡は不能となった。主砲射撃指揮所方位盤も破壊、二、三番砲も命中弾によって射撃不能に陥った。すべて一瞬のことであった。
米艦隊は、軽巡ボイズとヘレナ両艦のレーダーで日本艦隊の近接を探知していて、T字戦法をとり、全艦で単縦陣の日本軍の先頭艦に斉射を浴びせたのである。
サボ島北西約八浬のことであった。
青葉は右反転し、最大戦速としたが、回頭中も集中砲火を見舞われ、火災を起こし、ほとんど戦闘力を失っていて、僅かに一番砲塔だけが使用に耐えた。青葉は煙幕を展張し、離脱に努めた。青葉の主砲射弾数は七発に過ぎなかった。
二番艦古鷹は、青葉の後方一五〇〇米を走航していたが、青葉の変針によって、敵の砲火は古鷹に集中した。
米艦隊は重巡サンフランシスコ、ソルト・レイク・シティ、軽巡ボイズ、ヘレナ、駆逐艦ファーレンホルト、ブキャナン、ラフェイ、ダンカン、マッカーラの計九隻であったが、古鷹は、青葉の回頭によって、上記九艦の発砲を認め、急いで青葉方向に変針した。応戦開始は午後九時四十八分となっている。応戦早々に被弾が多くなり、二分後には発射用意をした魚雷発射管が被弾して、大火災となった。
午後十時十四分ごろ、敵から離隔し、砲戦が|熄《や》むまでに、大被害を蒙りつつも、敵三番艦に大損害を与えたが、十時四十分ごろ航行不能に陥った。駆逐艦初雪が救助に来たときには傾斜が急で、艦を横付けすることが出来ず、十二日午前零時二十八分、サボ島の三一〇度二二浬の地点に沈没した。
三番艦衣笠は砲火を認めると態勢不利と判断して取舵反転した。前二艦が面舵(右折)であったのに対して、衣笠は左折したため、敵砲火を浴びることなく同航戦の態勢をとり、午後九時五十二分から十時十五分まで、有効な砲戦魚雷戦を実施、敵大巡一隻撃沈、一隻大破の戦果を報じ、敵をして追撃を躊躇せしめたが、戦果は戦後の調査によれば、米側には重巡の沈没も大破もない。沈没は駆逐艦一隻だけであった。
護衛駆逐艦吹雪は、青葉の右前方に位置していたが、青葉の右回頭に随って反転し、同航中に被弾した。午後十時十三分大火災となり、やがて沈没した。
戦況から見ても損害から見ても、このサボ島沖海戦は日本側の明らかな失敗である。その原因は、既に記したように、敵艦隊は日本艦隊の夜戦を回避して邀撃することなどあり得ないという傲った先入主があったこと、その先入主に禍されて、いつものことながら索敵が不十分であったこと、日進隊とは事前の打合せがあってその行動を承知しており、通信も確保していたにもかかわらず、艦影を敵と疑わず、味方識別信号に機微な時間を空費したこと、等である。
ために、第六戦隊によるガダルカナル飛行場砲撃計画は画餅に帰した。
宇垣連合艦隊参謀長は歯ぎしりする思いで日誌に次のように記している。
「……当時の戦況を仄聞するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく夜間に於て物を見たら敵と思への考なく一、二番艦集中砲弾を蒙るに至れるもの、殆んど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。」(宇垣『戦藻録』)
先のルンガ沖夜戦(米側呼称サボ島沖海戦)は日本艦隊の完勝であったが、米軍輸送船は無事であった。それとちょうど逆に、十月十一日夜のサボ島沖海戦(米側呼称エスペランス岬沖海戦)は米艦隊の快勝であったが、日本軍の日進以下の増援部隊は目的を達した。
日進以下は揚陸を終り、帰途につき、無事危険水域を離脱したかと見えたが、第六戦隊二番艦古鷹の救援に向った駆逐艦白雲と叢雲は引き揚げが遅れ、十二日午前六時二十分、敵機一一機の攻撃を受け、つづいて、八時二十五分、サボ島北西約一四〇浬のニュージョージア島沖で敵艦爆二〇機に捕捉され、叢雲はただの一弾の命中で航行不能となった。午後二時、三回目の空襲を受け、大火災となった。僚艦白雲は生存者を救出し、いったん引き揚げたが、日没後、朝雲とともに反転して、曳航不能の叢雲を魚雷で処分した。
それより先、第九駆逐隊の朝雲と夏雲は、叢雲救助中の十二時五十分と午後一時四十五分に、敵艦爆一一機に襲われ、夏雲は至近弾のために浸水が甚だしく、朝雲が乗員を収容した後、午後二時二十七分沈没した。
結局、日進千歳による重砲をはじめとする重器材の輸送を主目的と考えれば、この夜の作戦は目的を達したと言えるが、日本海軍が十八番としていた夜戦が通用しなくなったという意味では重要な海戦であった。
連合艦隊司令部では、ブイン飛行場の完成遅延を考慮して、高速船団突入予定のX日を一日延し、十月十五日とした。
『竜田』『千歳』を加えて再検討された輸送計画は次の通りであった。
九日 竜田、駆逐艦九
十日 駆逐艦五
十一日 日進、千歳、駆逐艦五
十二日 竜田、駆逐艦三
十三日 川内、由良(巡洋艦)、駆四
十四日 日進、千歳、駆逐艦五
十五日 川内、由良、竜田、駆一〇
右による輸送の概量は、人員五〇〇〇名、高射砲六門、野砲一〇門、牽引車二、十五榴八門(陸軍新要求)、糧秣一三〇トン(残量戦車一二、人員二三〇〇名)で、十一日以後の駆逐艦使用数は一一隻として計算されていた。(『南東方面海軍作戦』(2))
日を追って輸送の概況を見ることにする。ガダルカナルでの軍事的失敗と悲劇の理由の大半は輸送難にあったが、このころはまだ比較的に順調な方だったのである。
十月七日は、日進と駆逐艦一隻は上空直掩機の配備がないため、途中から引き返し、駆逐艦五隻だけ揚陸に成功した。
十月八日は、日進と駆逐艦五隻は往復ともに多数敵機の攻撃を受けたが、直衛水上機の活躍に救われて、輸送は成功した。
日進は、十榴二門、高角砲(海軍)四門、高射砲(陸軍)二門、トラック二、牽引車二、榴弾砲弾薬車二、特大発二、大発二、各種弾薬、糧食、燃料、人員一七六名を輸送した。
十月九日は、改訂計画通り竜田と駆逐艦九隻が揚陸に成功した。復航時、敵機三五機の激しい攻撃を受けたが、直掩水戦の奮戦によって艦艇は無事であった。その代り、直掩水戦四機は全機失われた。
この九日の夜、十七軍司令部はタサファロングに上陸し、コカンボナ西方に戦闘司令所を置いたが、既述の通り、兵站輸送は予定の約二分の一しか達成されておらず、第一線部隊が飢餓に瀕していることを、はじめて知ったというのである。
十月十日は、駆逐艦三隻が陸兵二九三名と弾薬、糧食をタサファロングに揚陸した。直掩機の配備はなかったが、敵機の攻撃もなかった。この日、予定の五隻が三隻となった理由は明らかでない。翌十一日に日進、千歳の輸送があるので、不足がちな駆逐艦を確保するためではないかと考えられる。
十月十一日は、高速船団突入揚陸のX日を十月十五日とすれば、連合艦隊の支援部隊がトラックを出撃する日である。
十一日には、日進、千歳に四隻の駆逐艦が重兵器、軍需品、兵員を輸送してタサファロングに揚陸することになっていたほか、支援隊としての第六戦隊(青葉、古鷹、衣笠の三巡洋艦)がガ島飛行場を砲撃する計画であった。
日進(十五榴二門、トラック一輛、牽引車三輛、野砲二門、弾薬車八、野砲弾薬八〇箱、特大発二、大発四、人員一三〇名)と千歳(十五榴二門、トラック三輛、牽引車一輛、弾薬車六、高射砲一門、固定無線機一基、人員一五〇名)は、駆逐艦二隻(秋月、夏雲)に護衛され、他に駆逐艦四隻(朝雲、白雪、叢雲、綾波)が連隊砲一、大隊砲二、速射砲、陸兵四一〇名、糧食弾薬を搭載して、午前六時、ショートランドを出撃、二条のソロモン諸島の中央航路をとってタサファロングに向った。
支援隊(飛行場砲撃を目的とする青葉以下の第六戦隊)は、輸送隊より六時間遅れて、十一日正午、ショートランドを出撃、中央航路を二四ノットで南下した。
輸送隊は、午前八時二十分、ショートランドの南東三〇浬で、早くも敵大型機に発見されたが、午前十時には味方戦闘機が直掩配備についた。被発見から午前十時までの間に攻撃を受けなかったのは幸運であった。
十時以後も、この日は敵機の来襲がなかったのは、米側資料(モリソン)によれば、基地航空部隊がガダルカナル攻撃を実施したからであるというが、戦果の僅少から考えると|肯《うなず》けない。
直掩機は日没まで四直に分けて延べ二一機が飛んだが、最終直では着水時に搭乗員二名が犠牲となり、飛行機は六機とも放棄しなければならなかった。
輸送隊は幸運に恵まれていたというべきであろう。午後八時十分、タサファロングに到着して、揚陸を開始した。
日進隊の揚陸が終了する前に、青葉以下の支援隊と敵水上部隊との間に戦闘が勃発したが、日進、千歳は午後十時五十分揚陸終了、出港、輸送駆逐艦も午後十一時五分揚陸作業を終り、戦闘用意を整えて、十一時十分戦闘海面に向った。
支援隊(第六戦隊)司令部は、出撃当時から一つの先入主に支配されていたようである。それは第六戦隊に限ったことではなかったであろう。つまり、次のような判断である。ガダルカナル周辺では敵の航空勢力は日本側に較べて明らかに優位にあって、昼夜の別なく日本軍の増援輸送に攻撃妨害を加え、反面、その航空勢力の掩護下に米軍は白昼でも随時補給増援を行なっている情況にあるが、水上部隊に関していえば、敵は、夜間は遠く南東海域に退避するか、ツラギ港内に遁入するかして、日本軍艦艇に対しては僅かに魚雷艇数隻をもって反撃を試みる程度に過ぎない。したがって、飛行場砲撃を目的とする支援隊が深夜ガダルカナルに近接しても、敵が水上大部隊をもって邀撃の挙に出ることなどはほとんどあり得ない、という独善的な判断であった。これは、八月八日深夜のルンガ沖夜戦の奇蹟的な大勝利以来、海軍軍人の深層心理にこびりついた、夜戦なら我がもの、という錯誤の結果かもしれない。
支援隊は十一日日没時ガダルカナルの北西二〇〇浬の地点に達していた。この日、基地航空部隊の陸攻五機がガダルカナル南方海域の索敵を行なったはずだが、なんら敵情を得なかった。午後四時以後、支援隊は速力三〇ノット、青葉、古鷹、衣笠の順の単縦陣、開距離一二〇〇メートル、護衛駆逐艦の初雪と吹雪は青葉の左右前方七〇度、三〇〇〇メートルを走航していた。
サボ島が見えるまでの約二時間、艦隊は猛烈なスコールの中を走っていた。午後九時半、スコールを抜けると、サボ島は左三度一〇浬にあった。
午後九時四十三分、青葉は左舷一五度約一粁に、艦影三個を発見した。それらは、時間と場所からみて、日進などの輸送隊かもしれぬと考えられた。
旗艦青葉は味方識別信号を送りながら直進した。
約七〇〇〇メートルに近づいたとき、青葉見張員が敵と識別した。だが、支援隊指揮官は如何なる根拠によってか、見張員の報告を疑問視し、左一〇度味方識別一〇秒と下令し、同時に「総員戦闘配置ニ就ケ」と、同航戦の意図をもって「|面舵《おもかじ》」(右折)を下令した。その直後であった。青葉は強烈な照明を浴び、敵水上部隊からの集中砲火を蒙った。
青葉は不運としか言いようがなく、米艦隊は射撃技術が卓越していたと言えるかもしれない。初弾は不発弾でありながら、青葉の艦橋正面に命中、五藤司令官以下幹部多数が死傷した。(司令官は翌朝死亡。)通信装置が破壊されて、艦内外の連絡は不能となった。主砲射撃指揮所方位盤も破壊、二、三番砲も命中弾によって射撃不能に陥った。すべて一瞬のことであった。
米艦隊は、軽巡ボイズとヘレナ両艦のレーダーで日本艦隊の近接を探知していて、T字戦法をとり、全艦で単縦陣の日本軍の先頭艦に斉射を浴びせたのである。
サボ島北西約八浬のことであった。
青葉は右反転し、最大戦速としたが、回頭中も集中砲火を見舞われ、火災を起こし、ほとんど戦闘力を失っていて、僅かに一番砲塔だけが使用に耐えた。青葉は煙幕を展張し、離脱に努めた。青葉の主砲射弾数は七発に過ぎなかった。
二番艦古鷹は、青葉の後方一五〇〇米を走航していたが、青葉の変針によって、敵の砲火は古鷹に集中した。
米艦隊は重巡サンフランシスコ、ソルト・レイク・シティ、軽巡ボイズ、ヘレナ、駆逐艦ファーレンホルト、ブキャナン、ラフェイ、ダンカン、マッカーラの計九隻であったが、古鷹は、青葉の回頭によって、上記九艦の発砲を認め、急いで青葉方向に変針した。応戦開始は午後九時四十八分となっている。応戦早々に被弾が多くなり、二分後には発射用意をした魚雷発射管が被弾して、大火災となった。
午後十時十四分ごろ、敵から離隔し、砲戦が|熄《や》むまでに、大被害を蒙りつつも、敵三番艦に大損害を与えたが、十時四十分ごろ航行不能に陥った。駆逐艦初雪が救助に来たときには傾斜が急で、艦を横付けすることが出来ず、十二日午前零時二十八分、サボ島の三一〇度二二浬の地点に沈没した。
三番艦衣笠は砲火を認めると態勢不利と判断して取舵反転した。前二艦が面舵(右折)であったのに対して、衣笠は左折したため、敵砲火を浴びることなく同航戦の態勢をとり、午後九時五十二分から十時十五分まで、有効な砲戦魚雷戦を実施、敵大巡一隻撃沈、一隻大破の戦果を報じ、敵をして追撃を躊躇せしめたが、戦果は戦後の調査によれば、米側には重巡の沈没も大破もない。沈没は駆逐艦一隻だけであった。
護衛駆逐艦吹雪は、青葉の右前方に位置していたが、青葉の右回頭に随って反転し、同航中に被弾した。午後十時十三分大火災となり、やがて沈没した。
戦況から見ても損害から見ても、このサボ島沖海戦は日本側の明らかな失敗である。その原因は、既に記したように、敵艦隊は日本艦隊の夜戦を回避して邀撃することなどあり得ないという傲った先入主があったこと、その先入主に禍されて、いつものことながら索敵が不十分であったこと、日進隊とは事前の打合せがあってその行動を承知しており、通信も確保していたにもかかわらず、艦影を敵と疑わず、味方識別信号に機微な時間を空費したこと、等である。
ために、第六戦隊によるガダルカナル飛行場砲撃計画は画餅に帰した。
宇垣連合艦隊参謀長は歯ぎしりする思いで日誌に次のように記している。
「……当時の戦況を仄聞するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく夜間に於て物を見たら敵と思への考なく一、二番艦集中砲弾を蒙るに至れるもの、殆んど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。」(宇垣『戦藻録』)
先のルンガ沖夜戦(米側呼称サボ島沖海戦)は日本艦隊の完勝であったが、米軍輸送船は無事であった。それとちょうど逆に、十月十一日夜のサボ島沖海戦(米側呼称エスペランス岬沖海戦)は米艦隊の快勝であったが、日本軍の日進以下の増援部隊は目的を達した。
日進以下は揚陸を終り、帰途につき、無事危険水域を離脱したかと見えたが、第六戦隊二番艦古鷹の救援に向った駆逐艦白雲と叢雲は引き揚げが遅れ、十二日午前六時二十分、敵機一一機の攻撃を受け、つづいて、八時二十五分、サボ島北西約一四〇浬のニュージョージア島沖で敵艦爆二〇機に捕捉され、叢雲はただの一弾の命中で航行不能となった。午後二時、三回目の空襲を受け、大火災となった。僚艦白雲は生存者を救出し、いったん引き揚げたが、日没後、朝雲とともに反転して、曳航不能の叢雲を魚雷で処分した。
それより先、第九駆逐隊の朝雲と夏雲は、叢雲救助中の十二時五十分と午後一時四十五分に、敵艦爆一一機に襲われ、夏雲は至近弾のために浸水が甚だしく、朝雲が乗員を収容した後、午後二時二十七分沈没した。
結局、日進千歳による重砲をはじめとする重器材の輸送を主目的と考えれば、この夜の作戦は目的を達したと言えるが、日本海軍が十八番としていた夜戦が通用しなくなったという意味では重要な海戦であった。