高速輸送船団に選ばれた六隻のうち四隻(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸)は、第二駆逐隊(駆逐艦三隻)の護衛のもとに、十月十二日午後六時五十分から七時五十分の間にラバウルを出港した。
残る二隻(笹子丸、崎戸丸)は第二十七駆逐隊の護衛を受けて十三日午後五時ショートランドを出た。
この両者はチョイセル島の東方海上で合同して、ガダルカナルのタサファロングヘ向うのである。
外南洋部隊(第八艦隊)指揮官は、鳥海、衣笠、望月、天霧から成る主隊を率いて、十三日午後九時三十分ショートランドを出撃、船団を支援しつつ、十四日夜ガダルカナル飛行場を艦砲射撃する。
増援部隊(三水戦)の川内、由良、朝雲、白雪、暁、雷は陸兵一一〇〇名、弾薬糧食を搭載、十四日午前四時ショートランドを出撃、エスペランス岬に揚陸する。
連合艦隊司令部は、十四日午前三時、前夜の戦艦二隻による砲撃によって、ガダルカナルの敵機は|概《おおむ》ね制圧し得たものと認めると報じた。
高速船団群は十四日午前四時四十分、予定地点で合同、予定航路を南下した。
基地航空部隊は、十四日午前六時、陸攻二六、零戦一八をもってラバウルを発進、十時過ぎ、ガダルカナル飛行場を襲い、地上にあった約五〇機のうち三〇機を弾幕で覆ったと報じた。つづいて午前十一時、第二次攻撃隊が飛行場を爆撃したが、敵戦闘機約二〇機の攻撃を受けたという。第一次攻撃が報告通りの戦果をあげていれば、第二次のときに右記のような抵抗力は残っていないはずだが、不審である。
この日、天明後の飛行索敵は、前日の敵空母を含む艦隊の所在を発見出来なかった。
反対に、|索《もと》めて敵に近づくことを避けようとしているかに見える日本軍機動部隊(第三艦隊)は、敵飛行艇に接触され、早速北西に変針した。
輸送船団は、十四日午前五時と十時二十分、B17一機に接触され、午後一時四十五分、艦爆と戦闘機約三〇機の銃爆撃を受けた。船団は計画通り散開し、回避に努めた結果、船団にも護衛隊にも被害はなかった。
それにしても米軍は、早朝から日本軍の大量増援を知ったのである。
午後四時五分から五十分間、艦撃及び戦闘機二六機が襲いかかり、執拗な銃爆撃を反復したが、直掩機の奮戦と船団の回避運動、対空砲火によって、被害は軽微で切り抜けることが出来た。軽微な損傷を受けたのは護衛にあたっていた第二駆逐隊の五月雨である。
連合艦隊司令長官は、午後一時四十分、敵機約三〇船団に来襲の報告を受けると、ガダルカナル航空兵力の制圧不十分と認め、明十五日早朝二航戦の戦闘機半数をもって基地航空部隊に協力、ガダルカナル敵機の制圧と船団上空警戒に任ずるよう命令した。
船団は、敵機の来襲にもかかわらず、無傷でサボ島南側を通過して、十四日午後十時、タサファロングに入泊した。
巡洋艦川内以下の増援部隊も無事エスペランス岬に到着した。この部隊は往復とも敵機の攻撃は受けなかった。
鳥海以下の外南洋部隊主隊は、高速船団輸送を間接支援したのち、ルンガ沖に突入、ガダルカナル飛行場を砲撃し、十五日零時十七分、射撃を終了した。発射弾数は七五二発であった。
船団の揚陸状況を述べる前に、十四日から十五日朝へかけて、米側公刊戦史が記しているところを見てみよう。
「十月十四日百武将軍の最後尾の梯団は、六隻の輸送船に乗り、海上は駆逐艦に、上空はゼロ戦に護衛されてスロットを南下しつつあった。四機のドーントレス急降下爆撃機(その当時では飛行し得るものの全部──モリソン)と七機の陸軍戦闘機は、爆弾を携行してこの増援を阻止せんものと熱情的な努力を傾けて飛び立った。彼らは最善を尽したが、唯一の被害を受けた艦──それも軽微な──は駆逐艦五月雨であった。夕暗がとざすとき、同艦はまだ南に向いつつあった。
(先に記した日本側の資料による空襲状況と、右のモリソン記述とでは、飛行機の数にかなりの相違がある。いずれが正しいとも誤っているとも判断する根拠がない。モリソンの記述を暫くつづける。)
十月十四日から十五日にかけての夜は、海兵隊にとってはこれまた有難くない連続であった。三川提督は幸運な�衣笠�(十一日夜の夜戦で僚艦青葉傷つき、古鷹沈没にもかかわらず、衣笠は孤艦で戦って無事であった。──引用者)を後続艦として巡洋艦�鳥海�に乗艦して�眠られぬ潟�(ルンガ・ラグーンをいう。海兵隊はスリープレス・ラグーンと呼びはじめていた。──引用者)に乗り込み、ヘンダーソン飛行場界隈を七五二発の八|吋《インチ》砲弾でひっかきまわした。(中略)
十五日払暁になると、それを見た海兵隊にとっても、見なかった海軍部隊にとっても、きわめて屈辱的な光景を現出した。視野いっぱいに敵輸送船団がタサファロング沖に横たわり、まるで東京湾にでもいるかのように悠々として兵員と軍需品を揚陸していた。その周囲と上空には、駆逐艦と飛行機が徘徊していた。
海兵隊航空部隊指揮官ガイガー将軍は、ヘンダーソン飛行場にはガソリンは少しもないとの報告を受けた。�では、何でもかんでも少しなりとも探し出せ�と彼は命令した。兵隊たちは疎開地区を探し、彼らが隠匿場所にしていた沼沢地や茂みから約四〇〇のドラム缶の航空ガソリンを集めて、飛行場にころがして行った。飛行不能になった二機のB17からさえも、そのタンクからサィフォンで汲み干された、この一升買いのような方法でも、飛行機を目標まで一〇マイルを飛んで往復させるに足る燃料が得られた。そして午前の半ばごろには、海兵隊と陸軍輸送機がエスピリッサントからガソリンを空輸しはじめた。」(モリソン前掲書)
入泊した船団の揚陸作業は順調に|進捗《しんちよく》していた。上空直掩は、未明に水上機、つづいて二航戦の戦闘機半数(前日の連合艦隊司令長官命令による)、それから基地航空部隊戦闘機という順序であった。
揚陸順調といっても、敵機の妨害がなかったわけではない。午前三時四十分から六時ごろまで、敵艦戦艦爆計一八機が上空直掩の間隙を衝いて来襲、銃撃を反復した。揚陸作業は、ために、甚だしく妨げられたが、船団も護衛隊にも被害はなかった。
十五日午前八時四十五分ころまでには、各船とも人員と重火器のほとんど全部、糧食弾薬の約八割を揚陸し得たという。実のところ、この数量は、後述するように、はっきりしないのである。
南海丸は訓練と経験によって作業が迅速で、午前七時五分には荷役を完了していた。
午前七時三十分から八時四十五分の間に、敵艦戦艦爆延べ約二五機が来襲し、銃爆撃を加えた。米側資料に見る限り、この日は米軍の新手の航空兵力が来援してはいないから、艦砲射撃で生き残った少数機が反復飛行して獅子奮迅の活躍をしたものと思われる。
午前八時四十二分、笹子元が被爆炎上しはじめた。
第三波の空襲は午前九時四十分から十時三十分にかけて、B17が船団と護衛駆逐艦を爆撃した。B17の飛行場使用は出来なくなっていたはずだが、このB17が、何処から、どうやって飛来したのか、明らかでない。
その爆撃のさ中、九時四十五分、荷役の終了した南海丸と護衛駆逐艦有明が出港した。
九時五十分、吾妻山丸に爆弾命中、炎上した。
佐渡丸と九州丸は一時抜錨し、泊地前面で回避運動を行ない、護衛隊が警戒にあたった。船団が再び泊地に進入すると、午前十一時十五分から四十五分にかけて、戦爆約二〇機による第四次攻撃があり、九州丸に爆弾が命中し、大火災となったので、船体を海岸に|擱坐《かくざ》させた。今度は揚陸点付近も攻撃目標となった。
十三日夜の金剛榛名による三十六糎主砲の砲撃は、有効ではあったが、まだ不十分であった。十四日夜の鳥海以下の巡洋艦による砲撃は、敵に決定的な損害を与えなかった。結果論になるが、既に見てきた通り、この時期には第三戦隊(金剛・榛名)の進入は敵航空兵力によって妨げられはしなかったのだから、仮りに航空攻撃を予想されたとしても、それは第三艦隊(機動部隊)に任せて、もっと多数の戦艦・巡洋艦群をもってルンガ地区を滅多打ちにすることは、戦理に叶っていたと考えられる。戦史が示す経過では、不徹底だったのである。決定的な戦果を期待するには、大兵の一挙投入が必要であることは、海陸の別を問わなかった。それにしても、飛行場、機材ともに大打撃を蒙ったはずの在ガ島米航空兵力の戦意には怖るべきものがあった。
数次にわたって空襲が反復されている間に海岸では大発が四散して、揚陸作業が捗らない上に揚陸点も敵機の銃爆撃で被害を生じ、混乱を来した。
このままで推移すれば、揚陸困難となるばかりでなく、まだ被害を受けていない輸送船も被爆するのは必至であった。護衛隊指揮官は昼間の揚陸を中止して避退することを第一船舶団長と協議しようとしたが、団長は協定に反し、陸上に移動してしまっていたので、連絡がとれなかった。護衛隊指揮官は船団の一時避退を決心し、午後二時反転、午後五時再度入泊、荷役完了の方針のもとに、佐渡丸、崎戸丸を護衛して正午出港、全速力でサボ島北方に向った。
午後三時、船団は反転して三度目の入泊を果そうとした。そのとき、佐渡丸に第一船舶団長から「月明アリ、来ルナ」という電報が入った。このため、午後三時四十五分、船団と護衛隊はまた反転してショートランドに向った。
船団のショートランド帰着は十月十六日午前八時三十分であった。先にタサファロングを離れた南海丸と駆逐艦有明は、その三時間前にショートランドに着いていた。
結果を見ると、この船団輸送は、作戦全体として竜頭蛇尾の感がある。船団六隻全部を無傷で入泊させ、人員と重火器の全部と、弾薬糧食の約八割を揚陸したが、巧緻な作戦を樹てて制圧したはずのガダルカナル飛行場からは延べ一二九機に及ぶ敵機(戦史室前掲『海軍作戦』(2))の来襲があり、船団は笹子丸、九州丸、吾妻山丸を失った。
船団の揚陸中は、十五日午前三時四十分から午後三時二十五分まで、R方面航空部隊(十一航艦水上機部隊)の水戦一六機と零戦一六機が五直の上空警戒、基地航空部隊は午前五時から六直、零戦延べ四二機で、二航戦も午前五時から二直、零戦延べ三六機で、計延べ一一〇機が上空警戒にあたったというが(戦史室前掲書)、敵機の攻撃を阻止出来なかった。大打撃を受けたはずの、日本側では制圧し得たと思っていたガダルカナル飛行場から、乏しいガソリンを探し出して飛んで来た米軍飛行機の延べ数の方が、大作戦を敢行した日本軍輸送団の上空直掩機の延べ数よりも多いのである。
護衛隊指揮官は次のように報告している。
「敵機ハ地ノ利ヲ極度ニ利用シ味方上空直衛機ノ行動ヲ終始観測シ其ノ間隙ニ乗ジ来襲スルモノノ如ク、又味方基地航空部隊ノ攻撃時ニハ大部上空ニ逃避シアルヲ認メタリ(以下略)」
味方の機動部隊が近海に来ていて、その艦載機が敵飛行場の飛行機のように活動を反復したとしたら、戦況は全く異っていたはずであった。
第十七軍司令部は、越次参謀が揚陸点を実地調査した結果、揚陸し得たのは兵員の全部、弾薬の一乃至二割、糧秣の半量に過ぎないことを知った。
軍司令部はラバウルに在る宮崎軍参謀長に次の電報を打った。
「本日揚陸シ得タルハ弾薬ハ積込ノ約五分ノ一、糧秣ハ約半数ニ過ギズ、十七日ニハ第二次輸送部隊ノ外十五榴及十加弾、機関銃弾、重|擲弾筒《てきだんとう》並糧秣ヲ輸送セラレ度」
宮崎参謀長は軍司令部からの要求に基づいて、最後の増加部隊である歩兵第二百二十八連隊(一大隊欠)と揚陸未済物件を、十八日、船団輸送するように海軍側に要望したが、海軍側は、伊藤第一船舶団長が高速輸送船団を揚陸途中で引揚げさせたことを快く思っていなかったのと、艦隊のほとんど全力を展開して支援するような船団輸送は、そう軽々には出来ないことから、船団輸送を拒否して、艦艇輸送を提案した。
他方、宮崎参謀長は、十八日朝、ラバウルに帰還した佐渡丸、崎戸丸、南海丸の船倉を調べさせた結果、状況は先の電報とは異って、軍需品の大部は揚陸済みであることがわかった。(宮崎前掲書)
果してどれだけの物件が揚陸され得たのか正確な資料はないが、揚陸点は既述の通り、敵機の銃爆撃を受け、モリソン資料によれば十六日朝には米空母ホーネットの艦上機も揚陸点攻撃に加わっている。日本海軍の機動部隊はとっくに北上してしまっているときにである。事この時期の日本海軍機動部隊の行動に関する限り、常に隔靴掻痒の感を禁じ得ない。
揚陸点は、さらに十七日朝、飛行機による爆撃だけでなく、敵駆逐艦からの旺盛な艦砲射撃を受けた。
こうして、多大の犠牲を払ったうえに辛うじて揚陸し得た軍需物資の大部は、それを渇望していた日本軍将兵の手に入る前に、焼尽してしまったのである。
時間が少し|溯《さかのぼ》るが、高速船団揚陸中の敵機の妨害が予想以上に頻繁かつ激しいことを知った連合艦隊司令長官は、十五日午前九時三十一分、第五戦隊の妙高及び摩耶に二水戦と共に十五日夜ルンガ泊地に突入、飛行場とその南東の新設飛行機置場に艦砲射撃を加えるよう電令した。
午後十時二十七分から十一時二十分まで、妙高が四七六発、摩耶が四五〇発、第三十一駆逐隊が二五三発を射撃し、大火災、誘爆を起こした。
既に述べたことの繰り返しになるが、見てきた通り、十三、十四、十五日と連夜、少数艦による多数弾を射ち込んで、一応の効果はあったが、制圧効果十分ではなかったのである。連合艦隊の大兵力をもって、米軍なら実施するであろうように、ルンガ沖を埋め尽すばかりに殺到し、一斉に猛砲撃を加える方法だけが完全制圧につながる途であったであろう。
十月十五日、ニミッツ提督は事態を次のように表現した。
「現在、われわれはガダルカナル地域の海上を支配することは不可能のように思われる。わが陣地への補給はわれわれの非常に大きな損失によってのみ果されるであろう。事態は絶望であるわけではないが、それは確かに危機に瀕している。」(モリソン前掲書)
米軍もこの時期は補給の危機であったことが窺われる。
日本軍のガダルカナル輸送は、先に述べた高速船団輸送をもって完了する計画であったが、蟻輸送は既述の通り全くの不成績で中止になり、十月十四日に予定されていた日進、千歳による重器材等の輸送は、近海に敵機動部隊を発見したため取り止めとなったりしたので、輸送量は計画量に達していなかった。
そこで、連合艦隊司令部は、十五日、増援部隊の全艦艇をもってする輸送を十七日に実施し、その輸送をもって第二師団総攻撃開始までの輸送を打切る方針を関係箇所に通知した。
これを知った第十七軍宮崎参謀長は、連合艦隊宇垣参謀長に対して、二百二十八連隊と軍需物資、重資材等を輸送船三隻によってタサファロングに十八日揚陸するよう要望した。海軍側は、しかし、船団輸送には艦隊のほとんど全力をもって支援展開しなければならないから、再度実施は行ない難いこと、輸送には増援部隊艦艇をもってすると答えたことは、先に記した通りである。
陸軍側は了承せざるを得なかったが、宮崎参謀長はこう記している。
「之ガ為弾薬糧秣等前送不能トナリ将来ノ作戦上ニ重大ナ影響ヲ及スニ至レリ」
増援部隊は日進、千歳、川内、由良、竜田と駆逐艦一五隻をもって十七日の輸送を行なう準備をし、同時に甲標的(特殊潜航艇)設置のために千代田を同行させる計画を立てた。
ところが、十五日以来、哨戒機は、ガダルカナル南方海域に、ガダルカナル増援に向うと考えられる輸送船団を数群発見したし、十六日朝には、やはりガダルカナル南方海域に空母、戦艦を含む機動部隊を発見した。
連合艦隊司令部は、十六日午後、第八艦隊(外南洋部隊)司令部に対して、十七日の輸送には、敵情右の通りであるから、鈍足の日進、千歳を使用しないこと、千代田の進出も見合せるよう命令した。
このため、増援部隊は、十七日、重火器輸送艦を伴わないで、快速艦艇だけで第二師団総攻撃開始前の最後の輸送を行なうこととなった。
使用艦艇は軽巡三隻、駆逐艦一五隻、搭載物件は陸兵二一五九名、野砲六門、速射砲一二門、弾薬及び糧食であった。
この輸送隊はタサファロングとエスペランスの二隊に分れ、その日のガダルカナル守備隊長からの連絡では、タサファロング揚陸点は敵駆逐艦による砲撃と飛行機による爆撃で火災誘爆を起こしているということであったが、輸送隊は二隊とも妨害を受けることなく揚陸を終り、帰途についた。
総攻撃開始前の増援は十七日の輸送で打ち切りとなったが、十九日、第十九駆逐隊(駆逐艦三隻)が宮崎十七軍参謀長をガダルカナルに送るついでに、弾薬輸送と飛行場砲撃を兼ねることになった。
宮崎十七軍参謀長は、しかし、海軍側の要望によって、ラバウル残留を余儀なくされ、代りに山内参謀が宮崎参謀長の意図を口達筆記して、ガダルカナルヘ渡った。
海軍側が宮崎参謀長の残留を要望したのは、作戦予定にのぼっているポートモレスビー作戦の困難な問題について、協議する相手として宮崎参謀長を必要とするということであった。
十七軍参謀長がガダルカナルに渡る必要を感じたのは、航空偵察写真によると、敵飛行場南側面の防備が強化されているのが判然としているので、陣地攻撃準備にあたって、その点を十分考慮したいからであった。確かに、飛行場南側面は、川口支隊の攻撃のときよりもはるかに強化されていたのである。
宮崎参謀長は山内参謀を通じて注意事項を戦闘司令所へ申送ったが、宮崎手記によれば、現地に在った小沼高級参謀は、この処置に不快を感じたらしい。「司令官ニ対シ司令官在島ナルニ拘ラス之ヲ云フハ僭越ナリトノ言ヲ為セリト」と誌されている。「果シテ然ルヤ、更ニ思へ後ノ結果ヲ、|当部ノ注意ハ実ハ時機ヲ失シアリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、且空中写真モ師団司令所迄ハ到着セルモ、|時既ニ作戦指導ノ先入観ニ依リ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|大ナル注意ヲ喚起スルニ至ラサリシモノノ如シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、之天命ナリ」(傍点引用者)
確かに、宮崎参謀長の注意は時機を失していた。後述するように、現地では、第二師団が迂回作戦をとって、強化された敵陣地正面に衝突しようとしていたのである。
残る二隻(笹子丸、崎戸丸)は第二十七駆逐隊の護衛を受けて十三日午後五時ショートランドを出た。
この両者はチョイセル島の東方海上で合同して、ガダルカナルのタサファロングヘ向うのである。
外南洋部隊(第八艦隊)指揮官は、鳥海、衣笠、望月、天霧から成る主隊を率いて、十三日午後九時三十分ショートランドを出撃、船団を支援しつつ、十四日夜ガダルカナル飛行場を艦砲射撃する。
増援部隊(三水戦)の川内、由良、朝雲、白雪、暁、雷は陸兵一一〇〇名、弾薬糧食を搭載、十四日午前四時ショートランドを出撃、エスペランス岬に揚陸する。
連合艦隊司令部は、十四日午前三時、前夜の戦艦二隻による砲撃によって、ガダルカナルの敵機は|概《おおむ》ね制圧し得たものと認めると報じた。
高速船団群は十四日午前四時四十分、予定地点で合同、予定航路を南下した。
基地航空部隊は、十四日午前六時、陸攻二六、零戦一八をもってラバウルを発進、十時過ぎ、ガダルカナル飛行場を襲い、地上にあった約五〇機のうち三〇機を弾幕で覆ったと報じた。つづいて午前十一時、第二次攻撃隊が飛行場を爆撃したが、敵戦闘機約二〇機の攻撃を受けたという。第一次攻撃が報告通りの戦果をあげていれば、第二次のときに右記のような抵抗力は残っていないはずだが、不審である。
この日、天明後の飛行索敵は、前日の敵空母を含む艦隊の所在を発見出来なかった。
反対に、|索《もと》めて敵に近づくことを避けようとしているかに見える日本軍機動部隊(第三艦隊)は、敵飛行艇に接触され、早速北西に変針した。
輸送船団は、十四日午前五時と十時二十分、B17一機に接触され、午後一時四十五分、艦爆と戦闘機約三〇機の銃爆撃を受けた。船団は計画通り散開し、回避に努めた結果、船団にも護衛隊にも被害はなかった。
それにしても米軍は、早朝から日本軍の大量増援を知ったのである。
午後四時五分から五十分間、艦撃及び戦闘機二六機が襲いかかり、執拗な銃爆撃を反復したが、直掩機の奮戦と船団の回避運動、対空砲火によって、被害は軽微で切り抜けることが出来た。軽微な損傷を受けたのは護衛にあたっていた第二駆逐隊の五月雨である。
連合艦隊司令長官は、午後一時四十分、敵機約三〇船団に来襲の報告を受けると、ガダルカナル航空兵力の制圧不十分と認め、明十五日早朝二航戦の戦闘機半数をもって基地航空部隊に協力、ガダルカナル敵機の制圧と船団上空警戒に任ずるよう命令した。
船団は、敵機の来襲にもかかわらず、無傷でサボ島南側を通過して、十四日午後十時、タサファロングに入泊した。
巡洋艦川内以下の増援部隊も無事エスペランス岬に到着した。この部隊は往復とも敵機の攻撃は受けなかった。
鳥海以下の外南洋部隊主隊は、高速船団輸送を間接支援したのち、ルンガ沖に突入、ガダルカナル飛行場を砲撃し、十五日零時十七分、射撃を終了した。発射弾数は七五二発であった。
船団の揚陸状況を述べる前に、十四日から十五日朝へかけて、米側公刊戦史が記しているところを見てみよう。
「十月十四日百武将軍の最後尾の梯団は、六隻の輸送船に乗り、海上は駆逐艦に、上空はゼロ戦に護衛されてスロットを南下しつつあった。四機のドーントレス急降下爆撃機(その当時では飛行し得るものの全部──モリソン)と七機の陸軍戦闘機は、爆弾を携行してこの増援を阻止せんものと熱情的な努力を傾けて飛び立った。彼らは最善を尽したが、唯一の被害を受けた艦──それも軽微な──は駆逐艦五月雨であった。夕暗がとざすとき、同艦はまだ南に向いつつあった。
(先に記した日本側の資料による空襲状況と、右のモリソン記述とでは、飛行機の数にかなりの相違がある。いずれが正しいとも誤っているとも判断する根拠がない。モリソンの記述を暫くつづける。)
十月十四日から十五日にかけての夜は、海兵隊にとってはこれまた有難くない連続であった。三川提督は幸運な�衣笠�(十一日夜の夜戦で僚艦青葉傷つき、古鷹沈没にもかかわらず、衣笠は孤艦で戦って無事であった。──引用者)を後続艦として巡洋艦�鳥海�に乗艦して�眠られぬ潟�(ルンガ・ラグーンをいう。海兵隊はスリープレス・ラグーンと呼びはじめていた。──引用者)に乗り込み、ヘンダーソン飛行場界隈を七五二発の八|吋《インチ》砲弾でひっかきまわした。(中略)
十五日払暁になると、それを見た海兵隊にとっても、見なかった海軍部隊にとっても、きわめて屈辱的な光景を現出した。視野いっぱいに敵輸送船団がタサファロング沖に横たわり、まるで東京湾にでもいるかのように悠々として兵員と軍需品を揚陸していた。その周囲と上空には、駆逐艦と飛行機が徘徊していた。
海兵隊航空部隊指揮官ガイガー将軍は、ヘンダーソン飛行場にはガソリンは少しもないとの報告を受けた。�では、何でもかんでも少しなりとも探し出せ�と彼は命令した。兵隊たちは疎開地区を探し、彼らが隠匿場所にしていた沼沢地や茂みから約四〇〇のドラム缶の航空ガソリンを集めて、飛行場にころがして行った。飛行不能になった二機のB17からさえも、そのタンクからサィフォンで汲み干された、この一升買いのような方法でも、飛行機を目標まで一〇マイルを飛んで往復させるに足る燃料が得られた。そして午前の半ばごろには、海兵隊と陸軍輸送機がエスピリッサントからガソリンを空輸しはじめた。」(モリソン前掲書)
入泊した船団の揚陸作業は順調に|進捗《しんちよく》していた。上空直掩は、未明に水上機、つづいて二航戦の戦闘機半数(前日の連合艦隊司令長官命令による)、それから基地航空部隊戦闘機という順序であった。
揚陸順調といっても、敵機の妨害がなかったわけではない。午前三時四十分から六時ごろまで、敵艦戦艦爆計一八機が上空直掩の間隙を衝いて来襲、銃撃を反復した。揚陸作業は、ために、甚だしく妨げられたが、船団も護衛隊にも被害はなかった。
十五日午前八時四十五分ころまでには、各船とも人員と重火器のほとんど全部、糧食弾薬の約八割を揚陸し得たという。実のところ、この数量は、後述するように、はっきりしないのである。
南海丸は訓練と経験によって作業が迅速で、午前七時五分には荷役を完了していた。
午前七時三十分から八時四十五分の間に、敵艦戦艦爆延べ約二五機が来襲し、銃爆撃を加えた。米側資料に見る限り、この日は米軍の新手の航空兵力が来援してはいないから、艦砲射撃で生き残った少数機が反復飛行して獅子奮迅の活躍をしたものと思われる。
午前八時四十二分、笹子元が被爆炎上しはじめた。
第三波の空襲は午前九時四十分から十時三十分にかけて、B17が船団と護衛駆逐艦を爆撃した。B17の飛行場使用は出来なくなっていたはずだが、このB17が、何処から、どうやって飛来したのか、明らかでない。
その爆撃のさ中、九時四十五分、荷役の終了した南海丸と護衛駆逐艦有明が出港した。
九時五十分、吾妻山丸に爆弾命中、炎上した。
佐渡丸と九州丸は一時抜錨し、泊地前面で回避運動を行ない、護衛隊が警戒にあたった。船団が再び泊地に進入すると、午前十一時十五分から四十五分にかけて、戦爆約二〇機による第四次攻撃があり、九州丸に爆弾が命中し、大火災となったので、船体を海岸に|擱坐《かくざ》させた。今度は揚陸点付近も攻撃目標となった。
十三日夜の金剛榛名による三十六糎主砲の砲撃は、有効ではあったが、まだ不十分であった。十四日夜の鳥海以下の巡洋艦による砲撃は、敵に決定的な損害を与えなかった。結果論になるが、既に見てきた通り、この時期には第三戦隊(金剛・榛名)の進入は敵航空兵力によって妨げられはしなかったのだから、仮りに航空攻撃を予想されたとしても、それは第三艦隊(機動部隊)に任せて、もっと多数の戦艦・巡洋艦群をもってルンガ地区を滅多打ちにすることは、戦理に叶っていたと考えられる。戦史が示す経過では、不徹底だったのである。決定的な戦果を期待するには、大兵の一挙投入が必要であることは、海陸の別を問わなかった。それにしても、飛行場、機材ともに大打撃を蒙ったはずの在ガ島米航空兵力の戦意には怖るべきものがあった。
数次にわたって空襲が反復されている間に海岸では大発が四散して、揚陸作業が捗らない上に揚陸点も敵機の銃爆撃で被害を生じ、混乱を来した。
このままで推移すれば、揚陸困難となるばかりでなく、まだ被害を受けていない輸送船も被爆するのは必至であった。護衛隊指揮官は昼間の揚陸を中止して避退することを第一船舶団長と協議しようとしたが、団長は協定に反し、陸上に移動してしまっていたので、連絡がとれなかった。護衛隊指揮官は船団の一時避退を決心し、午後二時反転、午後五時再度入泊、荷役完了の方針のもとに、佐渡丸、崎戸丸を護衛して正午出港、全速力でサボ島北方に向った。
午後三時、船団は反転して三度目の入泊を果そうとした。そのとき、佐渡丸に第一船舶団長から「月明アリ、来ルナ」という電報が入った。このため、午後三時四十五分、船団と護衛隊はまた反転してショートランドに向った。
船団のショートランド帰着は十月十六日午前八時三十分であった。先にタサファロングを離れた南海丸と駆逐艦有明は、その三時間前にショートランドに着いていた。
結果を見ると、この船団輸送は、作戦全体として竜頭蛇尾の感がある。船団六隻全部を無傷で入泊させ、人員と重火器の全部と、弾薬糧食の約八割を揚陸したが、巧緻な作戦を樹てて制圧したはずのガダルカナル飛行場からは延べ一二九機に及ぶ敵機(戦史室前掲『海軍作戦』(2))の来襲があり、船団は笹子丸、九州丸、吾妻山丸を失った。
船団の揚陸中は、十五日午前三時四十分から午後三時二十五分まで、R方面航空部隊(十一航艦水上機部隊)の水戦一六機と零戦一六機が五直の上空警戒、基地航空部隊は午前五時から六直、零戦延べ四二機で、二航戦も午前五時から二直、零戦延べ三六機で、計延べ一一〇機が上空警戒にあたったというが(戦史室前掲書)、敵機の攻撃を阻止出来なかった。大打撃を受けたはずの、日本側では制圧し得たと思っていたガダルカナル飛行場から、乏しいガソリンを探し出して飛んで来た米軍飛行機の延べ数の方が、大作戦を敢行した日本軍輸送団の上空直掩機の延べ数よりも多いのである。
護衛隊指揮官は次のように報告している。
「敵機ハ地ノ利ヲ極度ニ利用シ味方上空直衛機ノ行動ヲ終始観測シ其ノ間隙ニ乗ジ来襲スルモノノ如ク、又味方基地航空部隊ノ攻撃時ニハ大部上空ニ逃避シアルヲ認メタリ(以下略)」
味方の機動部隊が近海に来ていて、その艦載機が敵飛行場の飛行機のように活動を反復したとしたら、戦況は全く異っていたはずであった。
第十七軍司令部は、越次参謀が揚陸点を実地調査した結果、揚陸し得たのは兵員の全部、弾薬の一乃至二割、糧秣の半量に過ぎないことを知った。
軍司令部はラバウルに在る宮崎軍参謀長に次の電報を打った。
「本日揚陸シ得タルハ弾薬ハ積込ノ約五分ノ一、糧秣ハ約半数ニ過ギズ、十七日ニハ第二次輸送部隊ノ外十五榴及十加弾、機関銃弾、重|擲弾筒《てきだんとう》並糧秣ヲ輸送セラレ度」
宮崎参謀長は軍司令部からの要求に基づいて、最後の増加部隊である歩兵第二百二十八連隊(一大隊欠)と揚陸未済物件を、十八日、船団輸送するように海軍側に要望したが、海軍側は、伊藤第一船舶団長が高速輸送船団を揚陸途中で引揚げさせたことを快く思っていなかったのと、艦隊のほとんど全力を展開して支援するような船団輸送は、そう軽々には出来ないことから、船団輸送を拒否して、艦艇輸送を提案した。
他方、宮崎参謀長は、十八日朝、ラバウルに帰還した佐渡丸、崎戸丸、南海丸の船倉を調べさせた結果、状況は先の電報とは異って、軍需品の大部は揚陸済みであることがわかった。(宮崎前掲書)
果してどれだけの物件が揚陸され得たのか正確な資料はないが、揚陸点は既述の通り、敵機の銃爆撃を受け、モリソン資料によれば十六日朝には米空母ホーネットの艦上機も揚陸点攻撃に加わっている。日本海軍の機動部隊はとっくに北上してしまっているときにである。事この時期の日本海軍機動部隊の行動に関する限り、常に隔靴掻痒の感を禁じ得ない。
揚陸点は、さらに十七日朝、飛行機による爆撃だけでなく、敵駆逐艦からの旺盛な艦砲射撃を受けた。
こうして、多大の犠牲を払ったうえに辛うじて揚陸し得た軍需物資の大部は、それを渇望していた日本軍将兵の手に入る前に、焼尽してしまったのである。
時間が少し|溯《さかのぼ》るが、高速船団揚陸中の敵機の妨害が予想以上に頻繁かつ激しいことを知った連合艦隊司令長官は、十五日午前九時三十一分、第五戦隊の妙高及び摩耶に二水戦と共に十五日夜ルンガ泊地に突入、飛行場とその南東の新設飛行機置場に艦砲射撃を加えるよう電令した。
午後十時二十七分から十一時二十分まで、妙高が四七六発、摩耶が四五〇発、第三十一駆逐隊が二五三発を射撃し、大火災、誘爆を起こした。
既に述べたことの繰り返しになるが、見てきた通り、十三、十四、十五日と連夜、少数艦による多数弾を射ち込んで、一応の効果はあったが、制圧効果十分ではなかったのである。連合艦隊の大兵力をもって、米軍なら実施するであろうように、ルンガ沖を埋め尽すばかりに殺到し、一斉に猛砲撃を加える方法だけが完全制圧につながる途であったであろう。
十月十五日、ニミッツ提督は事態を次のように表現した。
「現在、われわれはガダルカナル地域の海上を支配することは不可能のように思われる。わが陣地への補給はわれわれの非常に大きな損失によってのみ果されるであろう。事態は絶望であるわけではないが、それは確かに危機に瀕している。」(モリソン前掲書)
米軍もこの時期は補給の危機であったことが窺われる。
日本軍のガダルカナル輸送は、先に述べた高速船団輸送をもって完了する計画であったが、蟻輸送は既述の通り全くの不成績で中止になり、十月十四日に予定されていた日進、千歳による重器材等の輸送は、近海に敵機動部隊を発見したため取り止めとなったりしたので、輸送量は計画量に達していなかった。
そこで、連合艦隊司令部は、十五日、増援部隊の全艦艇をもってする輸送を十七日に実施し、その輸送をもって第二師団総攻撃開始までの輸送を打切る方針を関係箇所に通知した。
これを知った第十七軍宮崎参謀長は、連合艦隊宇垣参謀長に対して、二百二十八連隊と軍需物資、重資材等を輸送船三隻によってタサファロングに十八日揚陸するよう要望した。海軍側は、しかし、船団輸送には艦隊のほとんど全力をもって支援展開しなければならないから、再度実施は行ない難いこと、輸送には増援部隊艦艇をもってすると答えたことは、先に記した通りである。
陸軍側は了承せざるを得なかったが、宮崎参謀長はこう記している。
「之ガ為弾薬糧秣等前送不能トナリ将来ノ作戦上ニ重大ナ影響ヲ及スニ至レリ」
増援部隊は日進、千歳、川内、由良、竜田と駆逐艦一五隻をもって十七日の輸送を行なう準備をし、同時に甲標的(特殊潜航艇)設置のために千代田を同行させる計画を立てた。
ところが、十五日以来、哨戒機は、ガダルカナル南方海域に、ガダルカナル増援に向うと考えられる輸送船団を数群発見したし、十六日朝には、やはりガダルカナル南方海域に空母、戦艦を含む機動部隊を発見した。
連合艦隊司令部は、十六日午後、第八艦隊(外南洋部隊)司令部に対して、十七日の輸送には、敵情右の通りであるから、鈍足の日進、千歳を使用しないこと、千代田の進出も見合せるよう命令した。
このため、増援部隊は、十七日、重火器輸送艦を伴わないで、快速艦艇だけで第二師団総攻撃開始前の最後の輸送を行なうこととなった。
使用艦艇は軽巡三隻、駆逐艦一五隻、搭載物件は陸兵二一五九名、野砲六門、速射砲一二門、弾薬及び糧食であった。
この輸送隊はタサファロングとエスペランスの二隊に分れ、その日のガダルカナル守備隊長からの連絡では、タサファロング揚陸点は敵駆逐艦による砲撃と飛行機による爆撃で火災誘爆を起こしているということであったが、輸送隊は二隊とも妨害を受けることなく揚陸を終り、帰途についた。
総攻撃開始前の増援は十七日の輸送で打ち切りとなったが、十九日、第十九駆逐隊(駆逐艦三隻)が宮崎十七軍参謀長をガダルカナルに送るついでに、弾薬輸送と飛行場砲撃を兼ねることになった。
宮崎十七軍参謀長は、しかし、海軍側の要望によって、ラバウル残留を余儀なくされ、代りに山内参謀が宮崎参謀長の意図を口達筆記して、ガダルカナルヘ渡った。
海軍側が宮崎参謀長の残留を要望したのは、作戦予定にのぼっているポートモレスビー作戦の困難な問題について、協議する相手として宮崎参謀長を必要とするということであった。
十七軍参謀長がガダルカナルに渡る必要を感じたのは、航空偵察写真によると、敵飛行場南側面の防備が強化されているのが判然としているので、陣地攻撃準備にあたって、その点を十分考慮したいからであった。確かに、飛行場南側面は、川口支隊の攻撃のときよりもはるかに強化されていたのである。
宮崎参謀長は山内参謀を通じて注意事項を戦闘司令所へ申送ったが、宮崎手記によれば、現地に在った小沼高級参謀は、この処置に不快を感じたらしい。「司令官ニ対シ司令官在島ナルニ拘ラス之ヲ云フハ僭越ナリトノ言ヲ為セリト」と誌されている。「果シテ然ルヤ、更ニ思へ後ノ結果ヲ、|当部ノ注意ハ実ハ時機ヲ失シアリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、且空中写真モ師団司令所迄ハ到着セルモ、|時既ニ作戦指導ノ先入観ニ依リ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|大ナル注意ヲ喚起スルニ至ラサリシモノノ如シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、之天命ナリ」(傍点引用者)
確かに、宮崎参謀長の注意は時機を失していた。後述するように、現地では、第二師団が迂回作戦をとって、強化された敵陣地正面に衝突しようとしていたのである。