時間が多少前後するが、先の高速船団の突入と揚陸のために、ガダルカナルに在る第二師団は、米軍に較べれば微弱としか言いようがない砲兵力によって、十三日夜、十四日夜と十五日午前、砲兵戦を実施した。
第二師団の総攻撃によって飛行場を奪回するという作戦の当初の発想時には、本格的正攻法が主眼であって、圧倒的な砲兵戦を展開するはずであった。
実際には、火砲の数量も計画数量に遠く及ばなかったし、弾薬量も熾烈な火力をもって敵陣を蔽う現代戦としては、全く微々たるものであった。住吉砲兵団司令部が十月十三日朝に指令した射撃計画の弾薬使用標準はこうなっている。
|極力節約ニ勉メ《ヽヽヽヽヽヽヽ》且ツ各部隊集積ノ状況及敵情ニ依リ異ナルモ標準左ノ如シ
十三日夜 野戦重砲兵第四連隊約六〇
其ノ他各中隊約三〇
十四日夜 野重四 約八〇
其ノ他各中隊約五〇
十五日午前 野重四 約八二
其ノ他各中隊約八〇(傍点引用者)
これでは弾幕をもって敵陣を蔽うことなど出来ないどころか、短時間集中射撃を加えることも意に任せない。
日本軍が砲撃を開始すると、米軍は|忽《たちま》ち数十倍する報復砲撃を日本軍に浴びせ、日本軍の十五榴放列陣地は至るところ弾痕をもって蔽われた。
これ以後、米軍の砲兵火力は強大になるばかりで、ガ島戦終末まで、日本軍歩兵は、友軍砲兵の密度稀薄な射撃を好まなくなった。
一発でも撃てば、その返答が凄まじかったからである。
先に第十七軍司令官が、速かにガダルカナルに前進して第二師団長の指揮下に入るよう命令してあった(十月十日)第三十八歩兵団司令部(長・伊東少将)と歩兵第二百二十八連隊は、輸送船三隻で、十月十五日午後三時ラバウル出港、十七日午前四時ショートランドに入港したが、既述の海軍側の最後の対ガ島輸送に間に合わなくて、ショートランドで待機しなければならなくなった。
十月十日の時点で、十七軍司令部は在ガ島日本軍の戦力の不足を認識したから、右の兵力追送の下令をしたのである。それが輸送に間に合わないなどということは、現状把握と兵力部署の間のずれ、準備と前送の間のずれ、陸海軍間の現実的事務的連絡の|齟齬《そご》があるからである。要するに、戦争のための重要な目的一点に、陸海双方の綿密な注意力が集中していないことから生ずる手違いである。
兵力の逐次投入そのものが、計画の度量なる変更を意味するから、事務的作文のみが巧妙で、その実行には疎漏の多い軍という官僚組織が兵員武器等の積残しや不整合を来すのは当然であった。
第二師団の総攻撃によって飛行場を奪回するという作戦の当初の発想時には、本格的正攻法が主眼であって、圧倒的な砲兵戦を展開するはずであった。
実際には、火砲の数量も計画数量に遠く及ばなかったし、弾薬量も熾烈な火力をもって敵陣を蔽う現代戦としては、全く微々たるものであった。住吉砲兵団司令部が十月十三日朝に指令した射撃計画の弾薬使用標準はこうなっている。
|極力節約ニ勉メ《ヽヽヽヽヽヽヽ》且ツ各部隊集積ノ状況及敵情ニ依リ異ナルモ標準左ノ如シ
十三日夜 野戦重砲兵第四連隊約六〇
其ノ他各中隊約三〇
十四日夜 野重四 約八〇
其ノ他各中隊約五〇
十五日午前 野重四 約八二
其ノ他各中隊約八〇(傍点引用者)
これでは弾幕をもって敵陣を蔽うことなど出来ないどころか、短時間集中射撃を加えることも意に任せない。
日本軍が砲撃を開始すると、米軍は|忽《たちま》ち数十倍する報復砲撃を日本軍に浴びせ、日本軍の十五榴放列陣地は至るところ弾痕をもって蔽われた。
これ以後、米軍の砲兵火力は強大になるばかりで、ガ島戦終末まで、日本軍歩兵は、友軍砲兵の密度稀薄な射撃を好まなくなった。
一発でも撃てば、その返答が凄まじかったからである。
先に第十七軍司令官が、速かにガダルカナルに前進して第二師団長の指揮下に入るよう命令してあった(十月十日)第三十八歩兵団司令部(長・伊東少将)と歩兵第二百二十八連隊は、輸送船三隻で、十月十五日午後三時ラバウル出港、十七日午前四時ショートランドに入港したが、既述の海軍側の最後の対ガ島輸送に間に合わなくて、ショートランドで待機しなければならなくなった。
十月十日の時点で、十七軍司令部は在ガ島日本軍の戦力の不足を認識したから、右の兵力追送の下令をしたのである。それが輸送に間に合わないなどということは、現状把握と兵力部署の間のずれ、準備と前送の間のずれ、陸海軍間の現実的事務的連絡の|齟齬《そご》があるからである。要するに、戦争のための重要な目的一点に、陸海双方の綿密な注意力が集中していないことから生ずる手違いである。
兵力の逐次投入そのものが、計画の度量なる変更を意味するから、事務的作文のみが巧妙で、その実行には疎漏の多い軍という官僚組織が兵員武器等の積残しや不整合を来すのは当然であった。
第十七軍司令部は、十月八日(司令部のガダルカナル進出の前日)、敵情判断についての参謀次長からの電報を受領した。
それによると、ソロモン方面の敵は海兵約一個師団で、その主力約一万はガダルカナルに在る模様であり、近く一個師団が増加せられるもののようである、というのであった。
いままでのような二〇〇〇とか、五〇〇〇乃至六〇〇〇という敵兵力の過小評価が、ようやく約一万に上ってきたが、それでもまだ実情にははるかに及ばなかった。
十月十一日朝、第二師団の玉置参謀長と松本参謀は勇川(コカンボナの東約一キロ)の左岸高地から敵方に至る地形を観察した。
その観察によると、アウステン山南西麓のところどころに林空が見えた。松本参謀は直ちに軍の戦闘司令部に出頭して「山地の森林は密度大ならず」と報告した。密林通過は可能である、という意味である。遠くから望見して、諸所に林空が見えた程度でジャングルの密度が大でないと判断するのは、迂回作戦が希望的選択肢として、あらかじめ思考の中にあっての軽率な判断であったと考えられる。(前掲滝沢氏の書簡には、「勇川左岸にはアウステン山を望見出来る高地はない。あったとしてもこれは903及990高地にさえぎられて望見不可能である。また十月十三日小生は石井将校斥候と共に990高地で飛行場及アウステン山を望見しましたが、両参謀の云うアウステン山南西麓など望見することが出来なかった。」とある。──原文のまま)
同参謀は飛行場南方に敵が一連の陣地を構築しているとは考えていなかったらしいが、ラバウルの宮崎参謀長は、既述の通り、防衛の強化状況の判然としている空中写真を山内参謀に托し、同参謀は十九日夜ガダルカナルに上陸したが、現地師団は後述するように既に機動を開始していて、宮崎参謀長の注意も写真もほとんど重要視されなかった。
松本参謀の観察報告を受けた軍司令部の小沼高級参謀は、早速自ら視察を行なったが、森林に空隙が見えることは確かであった。
軍戦闘司令所では、参謀間で討議が行なわれた。海岸正面からの力攻による一挙突破をとるか、密林中の迂回策をとるかに関してである。
九月三十日ごろの研究懇談では、次のように一挙突破が優勢であった。
第二師団の松本参謀案は、海岸方面から一夜、やむを得ざれば二夜をかけて攻略する。
辻大本営派遣参謀案は、中央台地方面から遮二無二一挙攻略する。やむを得なければ二夜をかける。正面からの力攻の理由は、大兵のジャングル通過は不可能であるからである。林参謀はこれに同意していた。
田中十七軍参謀(航空)案は、一挙突破を必要とするというにあった。巧緻な案や二段攻略案は不可としていた。
小沼高級参謀の見解は、攻撃兵力の集結状態、河川、森林の状況を調査しなければ攻撃地区の決定は出来ないが、㈰総合戦力発揮に遺憾なき準備を整えること、㈪大なる縦長区分をもって穿貫的一点突破を行なうこと、㈫一挙に飛行場、砲兵陣地までを攻略すること、というのであった。(前掲戦史室『陸軍作戦』(2))
この時点での第二師団による総攻撃は、大なる火力をもってする正攻法が重点的に考えられていたのである。
だが、戦闘司令所をガダルカナルに推進してみて、第一線の戦力が驚くばかりに低下していること、特に砲兵火力に至っては比較にならぬほど劣勢であることから考えて、海岸正面からの力攻突破は覚束ない状況にあると認めなければならなかった。
よって、十月十一日の参謀たちの合議の結果は、正攻法を不可能とし、ジャングル迂回案に一致した。
川口支隊の攻撃失敗に鑑み、十分に兵力火力を整えて、正面から力攻するはずであった作戦計画は、こうして簡単に変更された。
『第十七軍迂回作戦決心ノ経緯』を見ると次のように記されている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
1「ガ」島ノ後方状況並2D(第二師団、特に第四連隊──引用者)ノ現況ニ依リ正攻法ハ不適当ナリト判断ス
2 先ツ|海図《ヽヽ》ニ依リ迂回路ヲ研究スルニ勇川河谷──「アウステン」山南側隘路──「ルンガ」川河谷ヲ|迂回セハ比較的容易ニ且敵飛行場ノ直前ニ進出シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |敵ノ虚ヲ衝キ得《ヽヽヽヽヽヽヽ》
3 参謀ヲ903高地ニ派遣シ地形ヲ見ルニ部隊ノ正面ヨリ前進(正攻法)スルヨリ迂回路ノ方カハルカニ通過容易ノ如ク見ラル
[#ここで字下げ終わり]
「海図」で迂回路を研究したり、遠方から望見して林空を発見したぐらいで、ジャングル内迂回を容易だと判断する参謀たちの頭脳は、何か先入主に支配されていたのでなければ、異常としか考えようがない。危険を冒してでも航空写真を撮ってから判断しようとするぐらいの配慮が、現地参謀たちの間に全く見られないのは驚くべきことである。
先に述べたことだが、ラバウルに在る宮崎十七軍参謀長は、ルンガ飛行場南側面の防備の強化状況は航空写真を見ても明らかであるので、参謀長の見解と航空写真とを、山内参謀に托してガ島に送ったが、同参謀のガ島上陸は十月十九日夜で、第二師団は既に迂回機動を開始しており、十七軍は迂回奇襲作戦に決していたのである。航空写真は問題にもされなかった。謂わば、海図による机上判断と、展望点からの望遠観察が、科学的判断材料よりも優位を占めていたし、どの頭脳もそのことに疑いを抱きもしなかったのである。
第二師団長は第十七軍司令部の意図を体して、十月十一日午前十時、工兵第二連隊に、集結地のコカンボナ付近から東南の高地帯(九〇九、九九〇、九八六各高地)、アウステン山を経てルンガ川河畔に到る通路をジャングル内に啓開する準備を命じた。戦闘司令所付近の展望点からどれほど具眼の士が右の経路を望遠観察したとしても、また所々に林空を発見し得たとしても、右の経路の全容が視察出来るはずがないのである。
第二師団長は、右の通路啓開のために、歩兵第三十五旅団(川口支隊)から挺身作業隊約六〇名を工兵第二連隊長の指揮下に入れた。
この啓開作業は、工兵の一部をもって十二日から、工兵全力をもって十三日朝から開始された。
作業当初は十七軍杉田参謀が作業隊の先頭に立って督励し、十四日には早くも全長の半ばを啓開したという。辻参謀は、十四日、大本営陸軍部第一部長宛てに、「密林障碍ノ度ハ予想以上ニ軽易ナリ」と報告した。調子がよすぎると思われるが、啓開作業のこの時点での反対資料がないので、右の参謀の見透しが事実によって粉砕されるのに任せるが、少くとも参謀たるもの、百里の道は九十九里をもって半ばとすると考えるぐらいの慎重さと、それに対応する策をもっていなければ、参謀飾緒はコケ脅かしの飾りに過ぎない。(前掲滝沢氏の書簡には次のように書かれている。「十四日には先頭の歩兵第二十九連隊は、まだ九〇三高地西側にあって、啓開作業の工兵は九九〇高地西側にあった。丸山道全長の十分の一も進んでいない。密林の度は濃く難行苦行をしていた。何を見、何を考えてこのような文(辻の報告を指す──引用者)になったか不思議である」原文のまま)
それによると、ソロモン方面の敵は海兵約一個師団で、その主力約一万はガダルカナルに在る模様であり、近く一個師団が増加せられるもののようである、というのであった。
いままでのような二〇〇〇とか、五〇〇〇乃至六〇〇〇という敵兵力の過小評価が、ようやく約一万に上ってきたが、それでもまだ実情にははるかに及ばなかった。
十月十一日朝、第二師団の玉置参謀長と松本参謀は勇川(コカンボナの東約一キロ)の左岸高地から敵方に至る地形を観察した。
その観察によると、アウステン山南西麓のところどころに林空が見えた。松本参謀は直ちに軍の戦闘司令部に出頭して「山地の森林は密度大ならず」と報告した。密林通過は可能である、という意味である。遠くから望見して、諸所に林空が見えた程度でジャングルの密度が大でないと判断するのは、迂回作戦が希望的選択肢として、あらかじめ思考の中にあっての軽率な判断であったと考えられる。(前掲滝沢氏の書簡には、「勇川左岸にはアウステン山を望見出来る高地はない。あったとしてもこれは903及990高地にさえぎられて望見不可能である。また十月十三日小生は石井将校斥候と共に990高地で飛行場及アウステン山を望見しましたが、両参謀の云うアウステン山南西麓など望見することが出来なかった。」とある。──原文のまま)
同参謀は飛行場南方に敵が一連の陣地を構築しているとは考えていなかったらしいが、ラバウルの宮崎参謀長は、既述の通り、防衛の強化状況の判然としている空中写真を山内参謀に托し、同参謀は十九日夜ガダルカナルに上陸したが、現地師団は後述するように既に機動を開始していて、宮崎参謀長の注意も写真もほとんど重要視されなかった。
松本参謀の観察報告を受けた軍司令部の小沼高級参謀は、早速自ら視察を行なったが、森林に空隙が見えることは確かであった。
軍戦闘司令所では、参謀間で討議が行なわれた。海岸正面からの力攻による一挙突破をとるか、密林中の迂回策をとるかに関してである。
九月三十日ごろの研究懇談では、次のように一挙突破が優勢であった。
第二師団の松本参謀案は、海岸方面から一夜、やむを得ざれば二夜をかけて攻略する。
辻大本営派遣参謀案は、中央台地方面から遮二無二一挙攻略する。やむを得なければ二夜をかける。正面からの力攻の理由は、大兵のジャングル通過は不可能であるからである。林参謀はこれに同意していた。
田中十七軍参謀(航空)案は、一挙突破を必要とするというにあった。巧緻な案や二段攻略案は不可としていた。
小沼高級参謀の見解は、攻撃兵力の集結状態、河川、森林の状況を調査しなければ攻撃地区の決定は出来ないが、㈰総合戦力発揮に遺憾なき準備を整えること、㈪大なる縦長区分をもって穿貫的一点突破を行なうこと、㈫一挙に飛行場、砲兵陣地までを攻略すること、というのであった。(前掲戦史室『陸軍作戦』(2))
この時点での第二師団による総攻撃は、大なる火力をもってする正攻法が重点的に考えられていたのである。
だが、戦闘司令所をガダルカナルに推進してみて、第一線の戦力が驚くばかりに低下していること、特に砲兵火力に至っては比較にならぬほど劣勢であることから考えて、海岸正面からの力攻突破は覚束ない状況にあると認めなければならなかった。
よって、十月十一日の参謀たちの合議の結果は、正攻法を不可能とし、ジャングル迂回案に一致した。
川口支隊の攻撃失敗に鑑み、十分に兵力火力を整えて、正面から力攻するはずであった作戦計画は、こうして簡単に変更された。
『第十七軍迂回作戦決心ノ経緯』を見ると次のように記されている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
1「ガ」島ノ後方状況並2D(第二師団、特に第四連隊──引用者)ノ現況ニ依リ正攻法ハ不適当ナリト判断ス
2 先ツ|海図《ヽヽ》ニ依リ迂回路ヲ研究スルニ勇川河谷──「アウステン」山南側隘路──「ルンガ」川河谷ヲ|迂回セハ比較的容易ニ且敵飛行場ノ直前ニ進出シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |敵ノ虚ヲ衝キ得《ヽヽヽヽヽヽヽ》
3 参謀ヲ903高地ニ派遣シ地形ヲ見ルニ部隊ノ正面ヨリ前進(正攻法)スルヨリ迂回路ノ方カハルカニ通過容易ノ如ク見ラル
[#ここで字下げ終わり]
「海図」で迂回路を研究したり、遠方から望見して林空を発見したぐらいで、ジャングル内迂回を容易だと判断する参謀たちの頭脳は、何か先入主に支配されていたのでなければ、異常としか考えようがない。危険を冒してでも航空写真を撮ってから判断しようとするぐらいの配慮が、現地参謀たちの間に全く見られないのは驚くべきことである。
先に述べたことだが、ラバウルに在る宮崎十七軍参謀長は、ルンガ飛行場南側面の防備の強化状況は航空写真を見ても明らかであるので、参謀長の見解と航空写真とを、山内参謀に托してガ島に送ったが、同参謀のガ島上陸は十月十九日夜で、第二師団は既に迂回機動を開始しており、十七軍は迂回奇襲作戦に決していたのである。航空写真は問題にもされなかった。謂わば、海図による机上判断と、展望点からの望遠観察が、科学的判断材料よりも優位を占めていたし、どの頭脳もそのことに疑いを抱きもしなかったのである。
第二師団長は第十七軍司令部の意図を体して、十月十一日午前十時、工兵第二連隊に、集結地のコカンボナ付近から東南の高地帯(九〇九、九九〇、九八六各高地)、アウステン山を経てルンガ川河畔に到る通路をジャングル内に啓開する準備を命じた。戦闘司令所付近の展望点からどれほど具眼の士が右の経路を望遠観察したとしても、また所々に林空を発見し得たとしても、右の経路の全容が視察出来るはずがないのである。
第二師団長は、右の通路啓開のために、歩兵第三十五旅団(川口支隊)から挺身作業隊約六〇名を工兵第二連隊長の指揮下に入れた。
この啓開作業は、工兵の一部をもって十二日から、工兵全力をもって十三日朝から開始された。
作業当初は十七軍杉田参謀が作業隊の先頭に立って督励し、十四日には早くも全長の半ばを啓開したという。辻参謀は、十四日、大本営陸軍部第一部長宛てに、「密林障碍ノ度ハ予想以上ニ軽易ナリ」と報告した。調子がよすぎると思われるが、啓開作業のこの時点での反対資料がないので、右の参謀の見透しが事実によって粉砕されるのに任せるが、少くとも参謀たるもの、百里の道は九十九里をもって半ばとすると考えるぐらいの慎重さと、それに対応する策をもっていなければ、参謀飾緒はコケ脅かしの飾りに過ぎない。(前掲滝沢氏の書簡には次のように書かれている。「十四日には先頭の歩兵第二十九連隊は、まだ九〇三高地西側にあって、啓開作業の工兵は九九〇高地西側にあった。丸山道全長の十分の一も進んでいない。密林の度は濃く難行苦行をしていた。何を見、何を考えてこのような文(辻の報告を指す──引用者)になったか不思議である」原文のまま)
第二師団は十月十六日正午、密林内機動を開始した。十七軍では、大本営から派遣されている参謀辻中佐と、十七軍参謀林少佐を師団司令部と同行させた。
出発にあたって、小沼高級参謀は辻参謀に次のような指示を与えている。
一、遅くも十月中旬末にガ島飛行場を攻略することは大本営の切なる要求であり、またこれと連繋して連合艦隊主力が行動するため、その機を遅らせないことは海軍側の切なる希望でもある。然し、過去の戦例は攻撃準備殊に攻撃実行部隊の必勝を自信する周密なる準備を絶対必要とするから、長遠な密林通過後行われる本攻撃では、予定の攻撃期日を延期する必要を生ずる状況も予期せられる。|この際は後者に主眼を置き《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、必勝の攻撃を行わなければならないから、攻撃開始日に関しては忌憚なき意見具申をされたい。但し機動間に於ては師団の努力を消磨させないため、右の件は師団に秘するを要する。
二、(略) (傍点引用者──戦史室前掲書)
攻撃準備は周到を要するから、そのために攻撃開始が遅れるようなことがあっても、その場合には準備の周到に主眼を置け、という注意は全く正しい。だが、第二師団の総攻撃開始時期が後述するように実際に遅延したのは、決して準備の周到を図ったがためではなく、密林内行軍所要時間の測定が全く甘かったのと、兵隊の体力消耗にあらかじめ思いを至す参謀がいなかったからである。
第十七軍は、十月十四日ごろまでに、第二師団を主力とする次のような攻撃計画を概定していた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 軍ハ×日薄暮主力ヲ以テ飛行場南側地区ヨリ敵ヲ急襲シテ之ヲ撃滅ス
[#ここで字下げ終わり]
(これでは、川口支隊の攻撃のときと作戦の質は全く異っていない。)
×日 二十二日ト予定ス
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二 第二師団長ノ指揮スル歩兵約三連隊ヲ以テ「アウステン」山南方ヨリ「ルンガ」河上流地区ニ迂回シ×日日没後飛行場ノ敵ヲ急襲シ 引続キ「ルンガ」河附近ノ敵ヲ南方ヨリ攻撃シテ「ガ」島ノ敵ヲ|殲滅《せんめつ》ス
[#ここで字下げ終わり]
(第二師団長の指揮する歩兵約三連隊というのは、体力充実した新鋭の三個連隊ではなくて、既に疲労困憊した元一木支隊や元川口支隊を含んでいるのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三 右ニ基ク第二師団攻撃部署ノ概要次ノ如シ
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
1 右翼隊川口少将ノ指揮スル歩兵三大隊基幹
2 左翼隊第二歩兵団長(那須少将──引用者)ノ指揮スル歩兵一連隊基幹
3 両翼隊ノ戦闘地境ハ「ルンガ」東側ヲ南北ニ通スル草原、「ルンガ」河東部河口ヲ連ヌル線トス
4 予備隊歩兵一連隊(歩兵第十六連隊──引用者)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
四 住吉支隊(歩兵第四連隊──実力約一個大隊と砲兵の殆ど全力)ヲ以テ海岸道方面ヨリ牽制攻撃ヲ行ヒ爾後東方ニ向ヒ攻撃ス
五(略)
[#ここで字下げ終わり]
出発にあたって、小沼高級参謀は辻参謀に次のような指示を与えている。
一、遅くも十月中旬末にガ島飛行場を攻略することは大本営の切なる要求であり、またこれと連繋して連合艦隊主力が行動するため、その機を遅らせないことは海軍側の切なる希望でもある。然し、過去の戦例は攻撃準備殊に攻撃実行部隊の必勝を自信する周密なる準備を絶対必要とするから、長遠な密林通過後行われる本攻撃では、予定の攻撃期日を延期する必要を生ずる状況も予期せられる。|この際は後者に主眼を置き《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、必勝の攻撃を行わなければならないから、攻撃開始日に関しては忌憚なき意見具申をされたい。但し機動間に於ては師団の努力を消磨させないため、右の件は師団に秘するを要する。
二、(略) (傍点引用者──戦史室前掲書)
攻撃準備は周到を要するから、そのために攻撃開始が遅れるようなことがあっても、その場合には準備の周到に主眼を置け、という注意は全く正しい。だが、第二師団の総攻撃開始時期が後述するように実際に遅延したのは、決して準備の周到を図ったがためではなく、密林内行軍所要時間の測定が全く甘かったのと、兵隊の体力消耗にあらかじめ思いを至す参謀がいなかったからである。
第十七軍は、十月十四日ごろまでに、第二師団を主力とする次のような攻撃計画を概定していた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 軍ハ×日薄暮主力ヲ以テ飛行場南側地区ヨリ敵ヲ急襲シテ之ヲ撃滅ス
[#ここで字下げ終わり]
(これでは、川口支隊の攻撃のときと作戦の質は全く異っていない。)
×日 二十二日ト予定ス
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二 第二師団長ノ指揮スル歩兵約三連隊ヲ以テ「アウステン」山南方ヨリ「ルンガ」河上流地区ニ迂回シ×日日没後飛行場ノ敵ヲ急襲シ 引続キ「ルンガ」河附近ノ敵ヲ南方ヨリ攻撃シテ「ガ」島ノ敵ヲ|殲滅《せんめつ》ス
[#ここで字下げ終わり]
(第二師団長の指揮する歩兵約三連隊というのは、体力充実した新鋭の三個連隊ではなくて、既に疲労困憊した元一木支隊や元川口支隊を含んでいるのである。)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三 右ニ基ク第二師団攻撃部署ノ概要次ノ如シ
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
1 右翼隊川口少将ノ指揮スル歩兵三大隊基幹
2 左翼隊第二歩兵団長(那須少将──引用者)ノ指揮スル歩兵一連隊基幹
3 両翼隊ノ戦闘地境ハ「ルンガ」東側ヲ南北ニ通スル草原、「ルンガ」河東部河口ヲ連ヌル線トス
4 予備隊歩兵一連隊(歩兵第十六連隊──引用者)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
四 住吉支隊(歩兵第四連隊──実力約一個大隊と砲兵の殆ど全力)ヲ以テ海岸道方面ヨリ牽制攻撃ヲ行ヒ爾後東方ニ向ヒ攻撃ス
五(略)
[#ここで字下げ終わり]
第二師団は、工兵隊によってジャングル内に啓開された道、師団長の名をとって一般に丸山道と称せられる道を、十月十六日正午、機動を開始した。
先頭は左翼隊となる那須部隊(これまで青葉支隊と呼ばれた部隊)、師団司令部と右翼隊となる川口部隊が那須部隊につづき、十七日早朝、それぞれ集結地を出発した。
十七軍司令部は、大本営派遣参謀の辻中佐と十七軍参謀林少佐を、第二師団司令部に同行させた。
第二師団司令部では、各部隊の指導と展開線を決定させるために、玉置参謀長と平間参謀を先発させた。
予備隊となる歩兵第十六連隊と師団直轄部隊は、十月十八日朝、勇川(コカンボナの東約一・五キロ)河口付近から前進を開始した。
第十七軍戦闘司令所は、十七日、コカンボナ南東約二キロの、第二師団司令部があった位置へ進出した。
丸山道は、攻撃部隊のジャングル内への潜入迂回行動を空から発見されないように、樹木の伐採はせず、徒歩部隊がようやく通過出来る程度に、五〇センチか六〇センチ幅にジャングルの枝を啓開したに過ぎなかった。元々が海図からの出発であるから、密林が急峻な坂を蔽っていたことなどわかりはしなかった。
磁石によって直線的に通路を啓開せざるを得なかったから、図面にはない急坂が随所にあり、将兵はジャングル内に縦横にはびこっている蔓にすがりながら登らねばならぬことも数知れなかった。
将兵は十二日分の糧秣と持てるだけの弾薬を背負い、密林内の狭い一本道を師団各隊が一列側面縦隊で前進しなければならなかった。したがって、行軍長径は当然次第に長くなる。先頭が早朝出発を開始しても、後尾の部隊の前進開始は午後となった。
既述の通り、辻参謀は、大本営第一部長宛てに、十四日、「密林障碍ノ度ハ予想以上ニ軽易ナリ」と打電している。師団が行動を開始する前にである。辻に限らないが、軍隊の指導的立場にある者の大部分は、物事を軽易に考え、過早に楽観視し、予想される困難を敢て無視することが、勇敢、積極的であるという錯誤に陥っていたようである。裏返せば、用心深く、慎重である者は臆病者とされたのである。
丸山道は狭いので、重火器、火砲は分解して、|臂力《ひりよく》搬送によって部隊の後尾を前進したが、当然歩度は伸びず、遅れがちであった。
分解搬送というのがどのくらい重いものか、参考までに左に列記してみる。(単位キログラム)
九二式重機 銃身二八・〇 脚二七・五
九四式軽迫撃砲 砲身三四・二 砲架四八・五
九二式歩兵砲 砲身三七・六 砲架三五・〇
四一式山砲 砲身九〇・八 揺架九三・〇
こんな途方もない重量を、しかもジャングルのなかを臂力搬送して、参謀たちが軽易に算出した予定時間内に展開線に達して、組み立てて、放列、段列を整備して、予定通りに攻撃開始が出来るものかどうか。
次のような資料がある。これも参考までに列記する。(戦史室前掲書)
十八日第二師団ノ最先頭部隊ハ「ルンガ」|河峪《かよく》ニ達ス 但シ最後尾ハ三十粁位後方ナリ(一列乃至二列縦隊ニテ前進スルノ|已《や》ムナキナリ)
「ルンガ」河上流ト「マタニカウ」河上流トノ間地形錯雑シアリテ前進困難ヲ極ム
「ルンガ」河峪ハ更ニ困難ナリキ
「アウステン」山ハ附近ニ同様ノ峰多ク何レガ該山カ不明ナリキ
さもあったろうと思われる。未知の地形の密林河峪でどれだけ将兵の体力が消耗されたか測り知れないし、似たような峰々でアウステン山の標定に困惑しなかったはずがない。山には名前は書かれてなく、密林樹木には方角指示は記されてないのである。
先頭は左翼隊となる那須部隊(これまで青葉支隊と呼ばれた部隊)、師団司令部と右翼隊となる川口部隊が那須部隊につづき、十七日早朝、それぞれ集結地を出発した。
十七軍司令部は、大本営派遣参謀の辻中佐と十七軍参謀林少佐を、第二師団司令部に同行させた。
第二師団司令部では、各部隊の指導と展開線を決定させるために、玉置参謀長と平間参謀を先発させた。
予備隊となる歩兵第十六連隊と師団直轄部隊は、十月十八日朝、勇川(コカンボナの東約一・五キロ)河口付近から前進を開始した。
第十七軍戦闘司令所は、十七日、コカンボナ南東約二キロの、第二師団司令部があった位置へ進出した。
丸山道は、攻撃部隊のジャングル内への潜入迂回行動を空から発見されないように、樹木の伐採はせず、徒歩部隊がようやく通過出来る程度に、五〇センチか六〇センチ幅にジャングルの枝を啓開したに過ぎなかった。元々が海図からの出発であるから、密林が急峻な坂を蔽っていたことなどわかりはしなかった。
磁石によって直線的に通路を啓開せざるを得なかったから、図面にはない急坂が随所にあり、将兵はジャングル内に縦横にはびこっている蔓にすがりながら登らねばならぬことも数知れなかった。
将兵は十二日分の糧秣と持てるだけの弾薬を背負い、密林内の狭い一本道を師団各隊が一列側面縦隊で前進しなければならなかった。したがって、行軍長径は当然次第に長くなる。先頭が早朝出発を開始しても、後尾の部隊の前進開始は午後となった。
既述の通り、辻参謀は、大本営第一部長宛てに、十四日、「密林障碍ノ度ハ予想以上ニ軽易ナリ」と打電している。師団が行動を開始する前にである。辻に限らないが、軍隊の指導的立場にある者の大部分は、物事を軽易に考え、過早に楽観視し、予想される困難を敢て無視することが、勇敢、積極的であるという錯誤に陥っていたようである。裏返せば、用心深く、慎重である者は臆病者とされたのである。
丸山道は狭いので、重火器、火砲は分解して、|臂力《ひりよく》搬送によって部隊の後尾を前進したが、当然歩度は伸びず、遅れがちであった。
分解搬送というのがどのくらい重いものか、参考までに左に列記してみる。(単位キログラム)
九二式重機 銃身二八・〇 脚二七・五
九四式軽迫撃砲 砲身三四・二 砲架四八・五
九二式歩兵砲 砲身三七・六 砲架三五・〇
四一式山砲 砲身九〇・八 揺架九三・〇
こんな途方もない重量を、しかもジャングルのなかを臂力搬送して、参謀たちが軽易に算出した予定時間内に展開線に達して、組み立てて、放列、段列を整備して、予定通りに攻撃開始が出来るものかどうか。
次のような資料がある。これも参考までに列記する。(戦史室前掲書)
十八日第二師団ノ最先頭部隊ハ「ルンガ」|河峪《かよく》ニ達ス 但シ最後尾ハ三十粁位後方ナリ(一列乃至二列縦隊ニテ前進スルノ|已《や》ムナキナリ)
「ルンガ」河上流ト「マタニカウ」河上流トノ間地形錯雑シアリテ前進困難ヲ極ム
「ルンガ」河峪ハ更ニ困難ナリキ
「アウステン」山ハ附近ニ同様ノ峰多ク何レガ該山カ不明ナリキ
さもあったろうと思われる。未知の地形の密林河峪でどれだけ将兵の体力が消耗されたか測り知れないし、似たような峰々でアウステン山の標定に困惑しなかったはずがない。山には名前は書かれてなく、密林樹木には方角指示は記されてないのである。
十月十八日午前五時、第二師団の後方を既に前進移動を開始していた第十七軍戦闘司令所は、ラバウルに在る宮崎十七軍参謀長から電報を受領した。この電報は、十月十三、十四日にガダルカナル飛行場の航空写真偵察を行なった結果についての要旨報告である。電文は長過ぎるので引用は避けるが、要点は、七月二十三日撮影写真と比較してみると、飛行場を中心とする各河川の河岸や、高地帯には、防禦施設がかなり増設されているらしく観測される、というものである。無論、第二師団が迂回して背後から衝こうとしている南側面も同様である。
この写真は、十月十七日夜にガダルカナル上陸予定の第三十八歩兵団司令部が携行するのと、海軍機による投下の二つの手段によってガ島へ送られた。
海軍機によって十七日コカンボナに投下された空中写真を、十七軍司令部は直ちに所要部隊に配付した。
しかし、既述の通り、第二師団の迂回機動は十六日に開始されており、十七軍司令部も第二師団司令部も、既に開始した行動を積極的に支持しないような情報は、重視したくなかったらしいのである。
ただ一人、例外があった。右翼隊長川口少将である。
彼は、十月十五日、第二師団命令を受領すると、『右翼隊の信念』と題する印刷物を部下に配布した。いかにも「帝国陸軍」らしいので、左に列記する。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
「第一 天皇陛下の御為に日米大決戦の勇士として一命を捧げまつるは今なるぞ
第二 歩兵の銃剣突撃は日本国軍の精華である 敵は之が一番怖いのだ
第三 敵の長所は火力の優勢に在る 之を封ずるの途は夜暗と密林の利用にある
第四 |愈々《いよいよ》総攻撃が始まつたなら、各隊長は部下を|克《よ》く掌握し予定の時刻に一度にドツと突入し 第一線を素早く奪取して怨み重なる敵を蹴散し刺殺し必ず夜明け迄に海岸に突進して敵を殲滅せよ
第五 斯くして皇軍の大勝利疑ひなし」
[#ここで字下げ終わり]
というのである。この、今日からみれば、苦笑を禁じ得ない時代錯誤的兵術思想は、川口少将独りのものではない。川口支隊総攻撃のとき「夜暗と密林」を利用するどころか、徹底的にそれ故に悩まされた経験があるにもかかわらず、その克服手段を語らずに、依然として「夜暗と密林の利用」を強調している点は、第二師団の総攻撃の運命を暗示しているかのようである。
この川口右翼隊長が、配付されてきた航空写真を見て、自軍の攻撃正面に重大な危惧の念を抱き、それが、後述する経過を辿って、右翼隊長罷免にまで至る原因の一つとなるのである。
この写真は、十月十七日夜にガダルカナル上陸予定の第三十八歩兵団司令部が携行するのと、海軍機による投下の二つの手段によってガ島へ送られた。
海軍機によって十七日コカンボナに投下された空中写真を、十七軍司令部は直ちに所要部隊に配付した。
しかし、既述の通り、第二師団の迂回機動は十六日に開始されており、十七軍司令部も第二師団司令部も、既に開始した行動を積極的に支持しないような情報は、重視したくなかったらしいのである。
ただ一人、例外があった。右翼隊長川口少将である。
彼は、十月十五日、第二師団命令を受領すると、『右翼隊の信念』と題する印刷物を部下に配布した。いかにも「帝国陸軍」らしいので、左に列記する。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
「第一 天皇陛下の御為に日米大決戦の勇士として一命を捧げまつるは今なるぞ
第二 歩兵の銃剣突撃は日本国軍の精華である 敵は之が一番怖いのだ
第三 敵の長所は火力の優勢に在る 之を封ずるの途は夜暗と密林の利用にある
第四 |愈々《いよいよ》総攻撃が始まつたなら、各隊長は部下を|克《よ》く掌握し予定の時刻に一度にドツと突入し 第一線を素早く奪取して怨み重なる敵を蹴散し刺殺し必ず夜明け迄に海岸に突進して敵を殲滅せよ
第五 斯くして皇軍の大勝利疑ひなし」
[#ここで字下げ終わり]
というのである。この、今日からみれば、苦笑を禁じ得ない時代錯誤的兵術思想は、川口少将独りのものではない。川口支隊総攻撃のとき「夜暗と密林」を利用するどころか、徹底的にそれ故に悩まされた経験があるにもかかわらず、その克服手段を語らずに、依然として「夜暗と密林の利用」を強調している点は、第二師団の総攻撃の運命を暗示しているかのようである。
この川口右翼隊長が、配付されてきた航空写真を見て、自軍の攻撃正面に重大な危惧の念を抱き、それが、後述する経過を辿って、右翼隊長罷免にまで至る原因の一つとなるのである。