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ガダルカナル38

时间: 2020-07-30    进入日语论坛
核心提示:38 記述の時間的順序は多少前後するが、宮崎十七軍参謀長から送られた航空写真と、それを見た右翼隊長川口少将のことにふれたつ
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 記述の時間的順序は多少前後するが、宮崎十七軍参謀長から送られた航空写真と、それを見た右翼隊長川口少将のことにふれたついでに、川口少将の右翼隊長罷免に至る経緯を記しておこう。
事は、第二師団長指揮下の全軍が、密林内の細い丸山道を|気息奄々《きそくえんえん》として敵へ向って接近中の出来事である。
川口の手記によれば、「一日歩いた時に、伝令が軍から四枚の航空写真を持って来た」とある。川口右翼隊の機動開始は十七日早朝、海軍機による写真のコカンボナへの投下も十七日(時間不詳)だから、川口右翼隊長が伝令から写真を受け取ったのも、おそらく同日中のことにちがいない。(別の川口手記によれば、「翌十七日朝軍から四枚の航空写真を配付せられた」とあり、この手記では、川口右翼隊は十月十六日機動を開始したことになっているが、師団の機動開始は十六日正午、川口右翼隊は那須左翼隊に後続して、十七日早朝集結地を出発したはずである。)
川口少将は写真を見て驚いたらしい。川口支隊総攻撃の九月十二、三日ごろには、飛行場南方には陣地らしいものはなかったが、写真には明らかに工事の跡が現われている。その正面へ攻撃をかけようとしているのである。
「之では金城鉄壁に向って卵をぶっつけるようなもので、失敗は戦わなくても一目瞭然だ。私は悩んだ。私はこの陣地を避け、遠く敵の左側背に迂回攻撃をしなければならんと思った」
と川口手記は語っている。
十八日、川口少将は前方を前進中の那須左翼隊長と歩兵第二十九連隊長古宮大佐に追及して、川口少将の懸念と判断を話した。川口手記によれば、両名とも川口少将の左側背攻撃に賛成した、という。ただ、那須、古宮の両部隊長は、川口少将のような前回のにがい経験がないので、川口案には賛成したものの、割りにのんきで、楽観的であったらしい。
川口右翼隊長は「困ったことは之を師団長に報告する|術《すべ》がない」と手記に書いている。困難なジャングル内行軍のことだから、時間の経過とともに行軍長径は長く伸びて、師団司令部は右翼隊のずっと後方になっていたかもしれないが、那須部隊長にまで追及して話をせずにはいられないほど写真判読の結果を重要事と考えていたのであるから、たとい時間はかかっても、川口少将自身が師団司令部まで行けば、どういうことになったであろうか。
どうせ丸山道の行軍は難儀をきわめ、参謀たちの安易な計算を遥かに超えて、十月二十日突入などとはとても実行不可能であることはわかっていたのである。
十月二十二日午後、右翼隊長川口少将は、第二師団工兵隊が啓開した丸山道の端末に到達した。その地点から、左右両翼隊が各隊それぞれに進路を啓開しつつ予定の攻撃準備位置につくことになっている分岐点である。
川口手記によれば、その地点に、丸山道啓開指導にあたってきた大本営派遣参謀辻中佐が立っていた。川口少将は敵左側背への迂回意見を伝える機会がなくて焦慮していたときであったので、辻参謀との|邂逅《かいこう》を「天与の好機」として喜んで、意見を|縷述《るじゆつ》し、第二師団長への伝達を依頼した。必要とあれば左右両翼隊長その他を招集し、攻撃計画を再検討して、師団命令の一部を変更するよう力説した。二人が立話をしている間にスコールが降ったが、川口少将が地図を取り出して説明しようとすると、辻中佐は「地図は全部頭に入って居るから、地図を見る必要はない」と言い、敵左側迂回攻撃に大賛成で、「必ず第二師団長に連絡して、この案の実行を(師団命令の変更)する様取計います。是非やって下さい。之で我が軍の大勝利疑いなしです。面白くなって来ました」と堅く約束してくれたように、川口少将には見えたらしい。
冒頭にも述べたように、機動開始からこの二十二、三日までの行軍状況と突入予定を延期せざるを得ない事情は後述するとして、いまは川口右翼隊長罷免事件に集中する。
川口少将は、辻参謀に話したことによって第二師団長の認可を得られると信じた。これがまた、軍という巨大な官僚組織のでたらめな性格を、軍人自身が鵜呑みにしているところでもある。たかが中佐参謀でも、大本営の枢要な位置にあり、出色の誉れ高い辻参謀が同意してくれれば、師団長も同意してくれるにきまっている、と川口少将は信じていたらしい。辻参謀が真実同意であったか否かを見抜く眼力は、川口少将にはなかったようである。
十月二十三日夕刻、川口少将は右翼隊を敵左側背へ迂回させるための指揮をとろうとしていた。(後述するが、右翼隊は、この日、東海林部隊の進出が著しく遅れ、その前方を前進中の一色部隊(元の川口支隊第三大隊で、大隊長が交替していた)との間の連絡も切れ、現在東海林部隊が何処まで来ているかもわからず、その夜の夜襲はおぼつかなかったのである。)
そこへ、師団通信隊が水流に沿って電話線を架設しに来たが、電話線が不足で、右翼隊長の後方三〇〇米までしか引くことが出来ず、川口少将に電話のあるところまで来てほしいということであった。電話線さえ十分な準備がなく、密林内の往来も意のままにならぬ戦場で、後方司令部は前線部隊をどうやって指揮するつもりであったのか。
川口右翼隊長は電話位置へ行った。|対手《あいて》は第二師団参謀長玉置大佐であった。
以下は川口手記による両者の会話である。
「昨日辻参謀に申されたそうですが、右翼隊が敵の左側背に迂回攻撃することは止めて貰いたい。矢張り、最初の師団命令の通り、右翼隊は攻撃の重点を左に保持しつつ正面攻撃をやって頂きたい」
という意味であった。
川口少将は自説を力説した。
「航空写真を見ると、師団正面の敵は何か重大な工事でもやり、堅固に陣地をとって居るらしい。こんな敵に対し正面攻撃しても勝つ見込はない。部隊長として責任を負い難い。何卒もう一度師団長に私の案を申上げて御許しを願いたい。私は昨日辻参謀に申し、認可になったものと思って、万事そのつもりで処置して居るのだ……」
電話は一応切れた。川口右翼隊長は電話のそばに待機した。
約三十分後、再び電話がかかり、玉置参謀長が出ていた。
「師団命令をお伝えします。閣下は右翼隊長を免ぜられました。後任は東海林大佐です。閣下は師団司令部の位置に来て下さい」
川口少将にとっては青天の|霹靂《へきれき》であったであろう。
考えてみれば、前線部隊長としての川口少将と後方の高等司令部との間には、幾度か問題があった。最初は、まず、ガダルカナル出動の際に、舟艇機動案に固執したことである。次は、川口支隊総攻撃失敗後、砲兵陣地占拠のためにマタニカウ川右岸の陣地占領を命ぜられた際、攻撃期日の不確定やそれまでに|蒙《こうむ》るであろう損害を理由に、反対意見の具申をして、明らかに軍司令官の不興を買っている。しかし、それらは、十七軍司令部と川口少将との間の問題であって、直接に第二師団司令部との間の問題ではなかった。
最後の敵左側背への迂回問題に関しては、大本営から十七軍に派遣されていた辻参謀が、十七軍司令部から第二師団の指導に派遣されていて、この辻が川口少将と直接接触したのである。辻は、おそらく、川口少将の舟艇機動問題以来の経緯を、聞き知っていたであろう。また、作戦は参謀が立て、軍司令官なり師団長なりが決裁するものであって、それを、実戦部隊長如きが、尋ねられもせぬのにとやかく論評し、命令変更を求めるなどとはもってのほか、という傲りが参謀にないはずがない。
辻が第二師団司令部で、玉置参謀長に、川口意見をどのように伝え、どのように論評したかは資料の上では明らかでない。
辻は、『ガダルカナル』を書いていながら、川口少将罷免に関しては、ジャングル内の丸山道の分岐点で川口少将と会い、会話を交したことにひとことも触れていないのである。
両者が話をした事実は、玉置参謀長の第一回目の電話で証明されているから、この点で川口少将に嘘はない。
辻手記にはこう書かれている。
「午后三時頃になって突然、K少将(川口少将──引用者)から電話がかかった。曰く、�第一線の攻撃準備不十分で今夜は到底夜襲出来ません、明日に延ばして下さい�
と、二十一日の予定を延期したのもK少将の意見であった。既に全師団に下し終った今夜の夜襲を、その直前にまたもや出来ないと、半ば脅迫的な電話である。」
攻撃延期の経緯は後述するが、川口右翼隊のために延期になったのではない。ジャングル内の迂回前進に全部隊の時間消費が多大であったからである。
辻手記をつづける前に、川口少将から電話がかかったという十月二十二日午後には、辻参謀は丸山道の末端部で、そこから左右両翼隊の進路が分岐する地点に在って、指導に当っていたはずである。
「温良な師団参謀長玉置大佐の声が、さすがに怒りを帯び、電話器を握る右手がブルブル慄えている。側で聞いていた丸山師団長は、白髪を逆立てるかのように、自ら参謀長に代った。
�K少将は、今直に師団司令部に出頭せよ。自今右翼隊の指揮は東海林大佐に譲れ�
遂に温容慈顔の丸山師団長も堪忍袋の緒を切ったのである。」
師団長直き直きの電話というのも、史実に反している。辻手記が、読者に対して、史実に近づこうとする努力を怠っている証拠を、もう暫くつづけなければならない。
「田村大隊が第一回総攻撃のとき(川口支隊総攻撃のときー─引用者)、深く敵陣地に斬込み、正に飛行場を占領しようとしたとき、支隊主力を以て、之を支援しないでジャングル内に時機を失い……」
川口支隊の総攻撃が全く不首尾に終ったことは既に詳述した。準備時間不足で攻撃が攻撃にならなかったことも既に指摘した。(第二師団だとて、同じ誤りをこれから繰り返すのである。)同時に、支隊主力が田村大隊の戦果を拡張し得るような展開状況になかったことも既に述べた。辻参謀は、川口少将の悪口を言うより、川口支隊攻撃失敗を他山の石として、自らが作戦指導に参与した第二師団の総攻撃を成功に導く努力をするべきだったのである。
「部下をガ島に置去りにして、単身、ラボールに戦況報告に帰還した等々……」
これも忠実を故意に歪めている。川口少将が榊原中尉を伴ってラバウル第十七軍司令部に帰還したのは、既述の通り、司令部からの命令によってであった。
川口少将が、軍隊流の表現を用いれば、何かと「文句が多」かったのは事実である。殊に、ボルネオでの経験を楯にとって、ガ島への舟艇機動を固執したのは、度を過ぎていたと考えられる。したがって、辻手記が、つづいて、「師団長も軍司令官も誰一人この少将に対し信頼感を持つものはなかった」というのは、事実の一つの側面を表わしているとはいえるかもしれない。
だが、辻手記は、次のくだりで悪意を丸出しにしている。
「腐木は遂に腐木である。指揮権を剥奪された少将は、その後師団司令部でも誰一人相手にするものもなく、ジャングル内で孤独を楽しんでいた。」
他人を腐木とまで罵倒するには、十分に説得的な根拠がなければならない。事実経過を十分に述べず、あるいは曲げ、罵倒し放題にすることが許されるのならば、辻参謀を含め在ガ島参謀たちは、幾度も相似た判断誤謬を犯し、勝てない戦に固執した理由だけをもって、すべて「腐木は遂に腐木」であったということも許されなければならないであろう。
権勢欲と功名心の旺盛な一人のエリート参謀の|恣意《しい》によって、師団参謀長が動かされ、師団長も動かされ、既に接敵行動中にある前線部隊長が|馘《くび》になるようでは、その軍勢の前途に光明があったとは到底考えられない。
川口罷免問題は、史料の示す限りでは、辻参謀─玉置師団参謀長─丸山師団長の三者限りで扱われたようで、十七軍司令部は事前に関知していなかったようである。
第二師団の夜襲失敗(後述)後、従兵一人だけを連れてガダルカナルを去ってゆく川口少将に住吉少将(砲兵団長)が出会っている。そのときの記憶に基づく住吉少将の話は次の通りである。
「(前段略)私の記憶では十一月四日、川口少将が従兵一人連れて私の幕舎に立ち寄ったのです。その時、私はまだ川口少将が免職させられたことを知らない。�なんだ貴さま�と言うと(住吉と川口は陸大同期)、川口少将は�内地へ帰れと言われたんだが、シンガポールの寺内大将(南方総軍司令官)のところへ行こうと思う�と言うんですね。変なことを言うと思って、いろいろと尋ねると�辻にやられたんだよ�と事情を語ってくれました。」(御田重宝『ガダルカナル戦』)
川口少将がとかく意見具申癖のある文句の多い将軍だという悪評があったにしても、問題の航空写真による敵陣には、明らかに以前とは異る地形影像が映っていたのだから、第二師団司令部では慎重に検討すべきであった。問題を提起したのは、師団長に次ぐ位階の少将だったのである。中佐参謀如きが、問題の本質を少将の性癖とか中佐個人が内包していたにちがいない悪感情とすり替えるべきではなかった。検討しても、失敗の結果は同じであったかもしれない。だが、検討したのと、しなかったのとでは、戦の仕方は根本的に異ったかもしれない。残念なことに、参謀たちは官僚主義者であった。有能と思われた者ほどそうであった。作戦は参謀が策案する。参謀長がそれを取り纒める。司令官がそれを決裁する。したがって、その作戦案に誤りがあろうはずがない。実戦部隊は将棋の駒である。作戦通りに動けばよい。部隊長と|雖《いえど》もつべこべ言わずに命令通りに動けばよい。動かなければ、馘である。
こうして、川口少将は、前進途中で、右翼隊長を罷免されたのである。
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