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ガダルカナル39

时间: 2020-07-30    进入日语论坛
核心提示:39 川口少将罷免問題で日時が少し先走ったから、引き戻すことにする。十月十八日夕刻、第二師団司令部と同行している大本営派遣
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39
 川口少将罷免問題で日時が少し先走ったから、引き戻すことにする。
十月十八日夕刻、第二師団司令部と同行している大本営派遣参謀中佐から、第十七軍戦闘司令所に電話報告が入った。内容は次の通りであった。
「十八日午後四時ルンガ河右岸の第二師団集合地に到着しある部隊は師団司令部、那須部隊(左翼隊──引用者)本部、川口部隊(右翼隊──引用者)本部、歩兵第二十九連隊(左翼隊──引用者)である。
集合に四日、攻撃準備に二日を要するゆえ、二十二日に攻撃開始を至当と認める。敵は未だ師団の迂回行動を察知しあらざるものの如し」というのである。(戦史室前掲書)
二十二日が攻撃開始に「至当」であるかないかは、ジャングル内を一列側面縦隊で行動する大部隊の速度をもって、攻撃準備位置に達するまでの所要時間を、辻参謀が機械的・楽観的に測定しはしなかったかどうかにかかっていた。
十八日夜、十七軍戦闘司令部は東京の大本営とラバウルの留守司令部に長文の報告を電報した。長いが、問題を多分に含んでいると思われるので引用する。
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一 敵ハ我友軍機出動ノ間隙ヲ利用シ依然揚陸点 高射砲陣地 我第一線ヲ爆撃シアルモ 我企図ヲ察知シアラサル如ク |我飛行場射撃ハ効力アルモ弾数僅少ノ為敵活動ヲ封殺シ得ス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
[#ここで字下げ終わり]
第二師団による総攻撃は、十分に準備した本格的正攻法によるもので、殊に火砲は二〇〇門をもって射ちまくるのが、当初の計画であった。実際には、十八、九日の段階では、十七軍戦闘司令所は住吉支隊(砲兵団)に対して、弾薬使用標準を示して、弾薬使用を制限した。火砲二〇〇門は幻想に過ぎない。
(地図省略)
十九日の住吉支隊の砲種、砲数、弾薬は次の通りだが、各砲種の弾薬は十九日から二十三日までの五日分である。
野砲     七門  一三七〇発
山砲     三門   一五〇発
十榴     四門     ?
四年式十五榴 四門   四二〇発
九六式十五榴 一一門  七〇九発
十加     三門   七四二発
(野砲弾は他に揚陸点に六二四発あった。(戦史前掲書))
これでは、火力で敵を制圧することなど思いも寄らない。日本軍の砲兵が敵陣に向って一発でも試射しようものなら、敵は忽ち百発の返報をしたという。砲兵力の差は比較を絶していたのである。
軍戦闘司令所からの電報に戻る。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
二 軍攻撃準備ハ概ネ予定ノ如ク進捗シ 第二師団ハ地形ノ嶮難ヲ克服シ十八日夕迄ニ「ルンガ」上流河谷ニ 師団ノ両歩兵団長(一ハ那須、一ハ川口少将)歩兵第二十九連隊ヲ集結セリ
三 助攻正面タル住吉支隊(砲兵団──引用者)ハ十九日ヨリ歩戦砲ノ行動ヲ統一シ且之ヲ組織的ニ律シ ナルヘク当面ノ敵ヲ該方面ニ牽制スル如ク部署ス
四 軍後方ニ関シテハ各方面共必死ノ努力ヲ傾注セルモ十四日夜揚陸セル糧秣弾薬ヲ敵機ノ銃爆撃ト艦砲射撃トニヨリ約三分ノ一ヲ炎焼スルノ已ムナキニ至レルト「エスペランス」附近ノ上陸及揚陸部隊ノ前進及糧秣ノ前送ニハ多大ノ困難ヲ伴ヒ 歩兵第十六連隊ノ如キ全兵力ヲ集結シ得ス 第二大隊ハ本十八日当地出発追及セリ 十七日「エスペランス」ニ上陸セル部隊ハ歩一六ノ二中、独立一中及道路隊ナリ
我「ガ」島攻略ニ関スル海軍ノ協力ハ真ニ涙クマシキモノアリ
軍ハ以上ノ状況ニ鑑ミ|敵ノ弱点ニ乗スルト共ニ国軍ノ特性ヲ最高度ニ発揮シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》敵軍ヲ一挙ニ|殲滅《せんめつ》スル事ニ関シ軍司令官以下畢生ノ努力ヲ傾注シアリ |戦捷既ニ我ニ在リ御安心ヲ乞フ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(電文宮崎周一『残骸録』──傍点引用者)
[#ここで字下げ終わり]
電文第四項の前半部のような状況にあって、末尾の「戦捷既ニ我ニ在リ御安心ヲ乞フ」と何故言えるのか。その理由を、電文起案者は「敵ノ弱点に乗スルト共ニ」「国軍ノ特性ヲ最高度ニ発揮」することに求めている。敵の弱点というのは、ジャングル内への日本軍の迂回を米軍はまだ気がついていない、と日本軍側が信じていることと、日本軍の白兵突入を米軍が怖れている、ということである。国軍の特性を最高度に発揮するというのも、それである。暗夜、密林のなかから忍び寄って、一挙に殺到、白兵戦を挑めば、「戦捷既ニ我ニ在リ」というのである。
右の電文は、現実的物的条件の厳密な点検とその確信の上に精神力を燃焼させているのではなくて、軍人好みの外見上威勢のいい作文であるに過ぎない。軍人は、特に幕僚は、何処ででも、何故か、作文が得意である。作文上なら、如何様にも勇敢であり得る。現実を無視した作文が、怖るべきことに、人間を支配して、困難と無理を強制するのである。実戦部隊は、その作文によって、死へ追いつめられること|屡々《しばしば》であった。
ラバウルに在った宮崎十七軍参謀長も、右の電文に関して独自の感想を誌している。
「攻撃準備ノ進捗ニ関シ戦闘司令所ヨリ電来ル 修辞上ニ主観的傾向アリ(註、当時ノ此主観的観察及其報告ハ事実ニ於テ之ニ反スルモノアリ)注意スベキナリ」として、次のように批判している。
「右電ハ冗長且説明的且幾分ノ誇張性ヲ感セスンハアラス 事前ニ如此愁訴的ト云ハンカ或ハ自己ノ意気ヲ他ニ強調表顕セント欲スルカ 何レニセヨ余リ香シキ報告ト云フ能ハス 文辞ハ人ヲ表ハス 統帥ハ人ナリ」
まさしく、統帥は人次第である。
 十月十九日、杉田参謀が九九〇高地に登って観察したところによると、敵は自動車で住吉支隊正面に兵力を増加し、盛んに陣地を構築中で、アウステン山方面に陣地を延長しつつあった。(戦史室前掲書)
住吉支隊は、既述部分と重複する箇所があるが、砲兵と歩兵(岡部隊と中熊部隊)を統合し、第二師団主力の迂回攻撃に伴う助攻正面として、コカンボナ東方から発進、アウステン山方面へ攻撃して、敵を牽制するのが作戦主目的であった。砲兵隊は勇川(コカンボナ東方)付近に砲兵陣地を占領する。岡部隊はアウステン山を占領し、マタニカウ川右岸敵陣地を攻撃する。中熊部隊は海岸方面に重点を保持しつつ、マタニカウ川の線へ進出する。
岡部隊も中熊部隊も、既述の通り、九月以来の交戦で戦力が著しく低下しており、主力の迂回攻撃に関して敵を牽制するのが目的であったが、米軍はこの方面の日本軍の動向に対しても敏感に反応して、防禦陣地を増強していたのである。
 百武第十七軍司令官は、十八日夕刻の辻参謀からの電話報告や、第二師団主力の進出状況などから、十月二十日朝、攻撃開始日を十月二十二日と決定し、指揮下部隊に命令を下達すると同時に、大本営、ラバウルの留守司令部、連合艦隊に対して、決定を報告通報した。
連合艦隊では、十七軍からの決定の通報を受ける前日、つまり十九日夕刻に、攻撃開始日を二十二日と予定して関係部隊に下令している。基地航空部隊に対する哨戒圈の指示を別とすれば、海空兵力に対して、ガ島飛行場の陸軍による奪回を前提として、敵兵力の脱出阻止と、飛行場への航空隊の速かな進出と近海索敵開始を指示しているのが特徴で、第二師団総攻撃時の陸海協同作戦は指示されていない。
もっとも、それより先、十七日に、第十七軍戦闘司令所は海軍南東方面部隊に対して、次のような艦砲射撃の要望をした。㈰飛行場北側椰子林内の敵砲兵及その北方海岸。㈪西川(ルンガ泊地付近)左岸砲兵。㈫飛行場施設。㈬ルンガ河口の砲兵。
翌十八日、ガダルカナルに派遣されている十一航艦島田参謀から、陸軍の艦砲射撃についての要望を伝えてきた。それによれば、艦砲射撃は、二十日は飛行場方面、二十一日はルンガ陣地、二十二日(攻撃開始日)夜間は射撃を行なわないように、というのであった。二十二日夕刻某時までに攻撃発起地点に全軍勢揃い出来るという確算が立たないから、その直前まで艦砲射撃をもって乱打するという最も強力有効な攻撃手段を採用出来なかったのである。
前後するが、前日十七日に、ラバウルに在る十七軍参謀長は、海軍南東方面部隊指揮官草鹿中将との間に、ガダルカナル飛行場占領時の空地規約信号を協定していた。着陸支障なしとか、占領せるも未だ着陸不能とか、飛行場内で戦闘中とか、味方第一線の表示とか、飛行機からの対地射撃要求とかの規約信号である。宮崎参謀長はこれを戦闘司令所に報告したが、現地軍ではこれの利用をほとんど考慮しなかった。はじめは、そんなものは必要ないと考えたのであろう。のちには、事態の展開はそれどころではなくなったのである。
 丸山第二師団長は、十月二十日午前十時、攻撃のための命令を下達した。軍隊区分を列記するのは煩雑だから、簡略に区分を記すと、右翼隊(長・歩兵第三十五旅団長川口少将)歩兵三個大隊と各種重火器部隊、左翼隊(長・第二歩兵団長那須少将)歩兵第二十九連隊の三個大隊と各種重火器部隊、予備隊(長・歩兵第十六連隊長広安大佐)、工兵隊(長・工兵第二連隊長高橋大佐)、|輜重《しちよう》隊(長・輜重兵第二連隊長新村大佐)、師団直轄部隊(通信隊、衛生隊、野戦病院、防疫給水部等)である。
命令の骨子は、
攻撃の重点はルンガ川右岸に沿い飛行場西北地区に指向し、突入の時機は十月二十二日午後四時と予定する。
右翼隊は重点を左に保持し、飛行場南側の敵陣地を急襲突破し、飛行場北側林縁の敵陣地及砲兵陣地を奪取し、海岸の線に進出する。
左翼隊は飛行場南端付近の敵陣地を急襲突破し、飛行場北方自動車道に進出後、一部を引続きルンガ河口に突進、河口を迂回して西川南方に進出、主力の攻撃を容易ならしめる。主力は機を失せずルンガ川を渡河し、払暁までにルンガ左岸地区の掃討を完成する。
予備隊は左翼隊の後方を続行する。(以下省略)というものである。
第二師団の戦力は、歩兵九個大隊(兵員約五六〇〇)で、当初正攻法案が考えられていたころより実戦兵力は大幅に減少していただけでなく、左右両翼隊には軍隊区分によって多数の迫撃砲、速射砲、山砲が配属されていたが、密林内迂回の難行軍のために、これらの火器部隊の前進は主力から甚だしく遅れていたのである。
したがって、先に記したように辻参謀が二十二日攻撃開始を至当と認めると、軍戦闘司令所へ電話報告したことも、戦闘司令所が二十二日を至当と判断したことも、実情認識と前途についての推測が甘きに過ぎたと言わなければならない。
第二師団主力が集結地の清水谷を出発したのは、十月二十一日早朝であった。順序は左翼隊、右翼隊、予備隊の順である。
|嶮《けわ》しい地形が前途に錯綜していて、前進は渋滞を余儀なくされた。
清水谷での集結そのものが、師団各部隊が整然と纒って集結したのではなくて、行軍序列のまま狭い丸山道に縦隊が長く伸びて露営したのである。左右両翼隊と予備隊配属の重火器部隊は営々として追及中であった。
第二師団参謀玉置大佐は、二十日から、工兵隊の道路啓開の作業頭に出ていたが、地形の錯雑と作業の困難の上に地点の標定を誤って、師団展開線の決定が出来ず、二十一日になっても予定展開線にいつ到達するか予測出来なかった。
この状況から、師団参謀長は、攻撃開始の一日延期を師団長に意見具申した。延期の意見具申は当然だが、延期が一日で足りるとした根拠があったようには思われない。海軍との関係もあって、なるべく延期したくないのはわかるが、密林は意のままにならず、必要なのは十分に準備を整えて決戦し、勝利することなのである。先を急いで準備が中途半端になることは、厳に戒められなければならなかった。
師団長は十七軍司令官に一日延期の意見具申をし、軍司令官は認可を与えた。
軍戦闘司令所は延期理由を関係箇所に電報した。
大本営と十七軍留守司令部に対する電文は次の通りである。
第一線兵団ノ意見ニ依レハ地形嶮難、密林啓開ノ為尚数日ヲ要スト 以上ハ師団参謀長、辻中佐、平間参謀等ノ第一線実視踏査ニ基ク報告ニシテ師団爾後ノ攻撃準備ニハ懸念ナシ
連合艦隊と南東方面部隊(海軍)に対しては、攻撃開始の延期の已むを得ない事情と、延期のために時間的制約のある海軍の協力を得られなくなるとしても仕方がない、と打電した。
これに対して、連合艦隊参謀長の日誌は次のように書かれている。
「之以上の延期は海上主作戦上忍び得ずと返電し一本釘を打込めり。同時に全作戦部隊に二十三日に改変の旨急電す。
あれ位強き昨日の電に対し今日は既に改変を要す。何ぞ信頼性の少き。(以下略)」(宇垣前掲書)
 第一線では、二十二日朝、ようやく、第二師団工兵隊が予定展開線に達した。左翼隊の先頭が後続していた。(前掲滝沢氏の書簡によれば、左翼隊の先頭である歩兵第二十九連隊はこの二十二日、展開線の位置には達していないそうである。滝沢氏は右の根拠として次の命令文を挙げている。
勇若作命甲第二十二号 十月二十二日午後八時二十五分下達。その前段の文に、明二十三日現在地を出発、連隊は予定の展開戦に向い前進す、とあるという。)
師団参謀長は両翼隊の攻撃準備位置を決定したが、その位置に就くべき部隊は、ジャングルのなかの細い一本道を、数十粁の長い縦隊に伸びきっているのである。命令や号令で簡単に縮まるものではない。
地形が嶮しいだけではなく、連日の雨で、|啓《ひら》いた道路はぬかるみとなり、各隊の行進は遅れこそすれ、縦隊が縮まることはなかった。左翼隊につづく右翼隊では、歩兵第二百三十連隊が遅れ、さらに、両翼隊の重火器、砲兵部隊はずっと後方に遅れていた。悪路を分解搬送する際の疲労の累積を予見し、計算に入れるだけの配慮をする参謀はいなかった。牛馬なら、精根尽き果てて斃れてしまえばそれまでだが、兵隊は簡単に斃れるわけにはゆかなかった。自分以外の誰かが決定した行動要領を、それが如何に非科学的、非合理的であるとしても、忠節の名において遂行しなければならないのである。
第二師団戦闘司令所は、十月二十二日夕刻、予定展開線の後方に進出した。その位置は、不確実だが、飛行場南方約六キロぐらいの地点であろうとおぼろに判断された。
二十二日夕刻の時点での状況判断からすると、よしんば翌二十三日夕刻までに左右両翼隊が展開線に到達し得るとしても、その夜の攻撃発起には歩兵部隊の準備も間に合わないであろうし、予備隊も、重火器も、砲兵部隊もその時刻までに展開線に進出することはきわめて困難であろうと推測せざるを得なかった。
右の状況判断を基にして、第二師団戦闘司令所では、二つの意見が対立論議された。一つは、攻撃準備の周到と戦力の集結のために攻撃開始をさらに一日延期すべきであるという意見である。他の一つは、さらに一日の延期は海軍との行動の連繋に支障を来すばかりでなく、敵陣付近に長時間滞留して企画を暴露する虞れがあるから、延期すべきではないという意見である。
大敵に対して、拙速を重んじての攻撃を仕掛けて失敗したのは、二度までも経験済みのはずであった。十分に準備して、一挙に決戦を強いるのが今回の大方針であるはずであった。準備は、しかし、自然の障害を軽視したために、またも敵陣前において整い難い不備を暴露していた。
第二師団長丸山中将は、右の両案を比較検討して、予定通り二十三日夜襲決行案を採択した。準備不足のまま、どれだけの自信と根拠があってのことか、わからない。事実経過は、しかし、後述するように、さらに一日延期することになるのである。
各部隊は夜となってもジャングルのなかを喘ぎながら前進をつづけた。
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