第二師団の接敵前進は次のようにしてはじまった。
師団長は、二十四日午前五時出発、予備隊と行を共にして左翼隊の後方を約四キロ前進した。前日二十三日午前十時、辻参謀から十七軍戦闘司令所への報告では、既述の通り、予備隊は右翼隊後方に進めることに決し、師団長も右翼隊後方に移動する予定となっていたのが、二十四日の行動はそうなっていない。理由は明らかでない。
正午、師団長は攻撃開始に関する最後の命令を発した。
命令の第一、第二項は軍隊特有の修飾語が多いから省略する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三 両翼隊ハ一七〇〇ヲ期シ突撃ヲ決行シ敵線深ク殺到スヘシ
四 予ハ一四〇〇迄現在地ニ在リ 爾後左翼隊後方ヲ飛行場ニ向ヒ前進ス
[#ここで字下げ終わり]
この第二師団命令が伝達されるのと前後して、軍戦闘司令所に辻参謀からの報告が入った。
「第二師団の第一線は敵に察知せられることなく飛行場南方約二粁附近に進出し、両翼隊は各々四条のジャングル道により前進中。
歩兵第十六連隊は『ムカデ』草原南側に集結しあり。
師団司令部は今より『ムカデ』南側地区出発、前方に進出す。電話線の余力なき故、爾後軍戦闘司令所との連絡はきれるも、|本夜は確実故《ヽヽヽヽヽヽ》次回に無電にて『バンザイ』を送る」(戦史室前掲書。傍点引用者)
誰も敵陣前まで忍び寄って敵情を確認したわけではない。それを、本夜は確実だから、次の通信は飛行場占領信号の「バンザイ」を送るというのである。十七軍戦闘司令所では、この楽観的な報告に対し、誰も懸念を抱かなかったらしい。十七軍は、十二時二十分、大本営とラバウルの司令部と連合艦隊に対して、次のように電報を打った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 第二師団ハ敵ニ発見セラルルコトナク一二〇〇頃飛行場南方約二キロ附近ニ達シ数条ノ「ジャングル」道ヲ続イテ敵ニ近迫中ナリ
二 第一線ヨリノ報告ニ依レハ予定時刻ニ突入シ得ル状態ニ在リ
[#ここで字下げ終わり]
大本営でも、ラバウルの留守司令部でも、トラックの連合艦隊でも、楽観的報告を希望的に受け取って、次に来るはずの飛行場占領の報告をひたすらに待った。
右の報告通りに戦局が展開するか否かは、敵との交戦状況如何にかかるよりも先に、まず、敵と接触するまでのジャングルとの戦い如何にかかっていたのである。
米軍は日本軍の動きを知らなかったわけではない。マタニカウ川東方に住吉部隊関係(岡部隊、中熊部隊──後述)の動きを発見していたばかりでなく(住吉部隊正面は牽制作戦の意図があるから発見されてもいいのだが)、米陸軍公刊戦史によれば、第七海兵隊巡邏隊の一落伍兵が、二十四日午後遅く陣地に帰って来て、双眼鏡でブラディ峰(ムカデ高地)を観察している一人の日本軍将校がいたと報告した。同時にまた、分派偵察狙撃隊の一海兵から、ブラディ峰の南斜面の南方約一哩四分の三、ルンガ川のU型屈曲部付近の密林に沢山の炊煙が昇るのを見たと報じて来た。しかし、もう日も暮れていたので防禦強化の工事を施すことが出来ず、長い戦線に薄く配備された第七海兵隊第一大隊で敵の攻撃を待ち受けた、となっている。(ジョン・ミラー前掲書)
助攻正面である住吉支隊(砲兵部隊、岡部隊、中熊部隊)の行動は、主力である第二師団がジャングルに潜入している間も、敵にはある程度の脅威を感じさせたらしく、右掲米公刊戦史によれば、米軍は陣地間の間隙を補填するための兵力の配置移動を行ない、そのために縦深が薄くなった部分が出来たようである。
第二師団の攻撃開始まで、助攻正面の住吉支隊の行動を概観しておく。
住吉支隊砲兵隊は、当初の二十二日総攻撃の計画に基づき、十月二十一日、午後二時半から四時まで、第一砲兵群をもって飛行場滑走路、第二砲兵群によって「サル」「トラ」高地、マタニカウ川右岸陣地、砲兵陣地を砲撃したが、既述の通り使用弾薬に制限があって、砲兵火力をもって敵を打ちのめすという本来の砲兵戦効果からは程遠かった。
総攻撃が二十三日に延期されても、住吉支隊は攻撃を続行し、岡部隊は支隊長から、二十二日夕、アウステン山とマタニカウ川右岸の敵陣地の攻撃を、二十三日以後は「ネコ」「シシ」の高地陣地の攻撃を命ぜられた。
岡部隊は、二十二日夜、その一中隊がマタニカウ川一本橋南東約一キロのアウステン山北西端に辿り着いたが、主力はジャングルに前進を阻まれ、二十二日は一日かかって一キロしか前進出来なかったという。
攻撃延期となった二十二日夜、十七軍司令官は、住吉支隊を単に海岸方面の助攻正面としてでなく、住吉支隊に独自の決戦任務を与える必要を認めた。理由は明らかでないが、主力攻撃のための牽制任務では不十分と判断したのであろうと思われる。
住吉支隊は次のような軍命令を受けた。
住吉支隊ハ二十三日ナルヘク早ク「マタニカウ」河右岸ノ陣地ヲ攻略シ爾後ノ攻撃ヲ準備スヘシ(爾後の攻撃というのは、飛行場周辺主陣地をさしている。──引用者)
住吉支隊ニ独立戦車第一中隊及独立速射砲第二大隊(一中隊欠)ヲ増加配属ス
住吉支隊長はこの命令を受けて、二十二日午後十時、アウステン山西麓で、岡部隊と中熊部隊(歩一二四と歩四)に、それぞれ次の命令を下した。
岡部隊に対しては、
岡部隊ハ万難ヲ排シ速ニ一本橋附近草原ニ進出シ「マ」河右岸ノ敵陣地ニ対シ攻撃ヲ準備スヘシ(攻撃開始は砲兵協力のもとに二十三日午後一時)
中熊部隊に対しては、
中熊部隊ハ岡部隊ノ「マ」河右岸陣地突入後機ヲ失セス「マ」河ヲ渡河シ「マ」河右岸敵陣地ヲ攻略スヘシ
岡部隊は、二十三日午前十時、アウステン山北端で攻撃準備を整え、午後一時三十分攻撃前進を開始したが、地形は依然として錯雑していて、敵の間隙への潜入進出を図った部隊の企図は|捗《はかど》らなかった。ために、二十三日の攻撃は二十四日払暁になって、第一線の歩兵第四連隊第三大隊と岡連隊第二大隊の先頭がようやく「イヌ」高地東方の草原地帯に進出し、先頭中隊は敵陣地攻撃をはじめたはずだが、密林が深くて相互に連絡がとれず、状況不明という状態であった。
中熊部隊(歩四)は、配属された独立戦車第一中隊を第二大隊に配属し、二十三日午前十一時二十分、直ちに行動開始を命じた。第一大隊(第三大隊は右記の通り同部隊に配属)は、第二大隊がマタニカウ川右岸に進出すれば、第一大隊の主力でクルツ岬南西地区に進出する予定であった。
中熊連隊第二大隊は何故か遅れた。十一時二十分に命令を受けていて、機動開始は午後三時であった。四時三十分、各中隊に攻撃前進命令が出されている。
第一線が渡河点付近に達するまで、米軍の第一線は沈黙を守っていたが、突如、砲兵とともに熾烈きわまる射撃を開始し、後方から兵力を増強した。中熊部隊は損害続出し、前進を阻止された。
中熊部隊第二大隊に配属された独立戦車第一中隊は、午後二時ごろ、マタニカウ河口方向に前進したが、結果からみて、この前進は過早であったようである。歩兵の進出は先に記したように遅れたので、戦車隊は歩戦協同のために、敵陣前約二〇〇メートルで停止して、歩兵の進出を待った。歩兵が追及して来たのは五時ごろであった。戦車隊は、各車各個にマタニカウ川の渡河攻撃を開始した。味方砲兵の援護射撃はなかった。米軍は三十七ミリ砲を並べて対戦車戦の用意をしていた。これが一斉に火蓋を切ったばかりでなく、ルンガ岬方向の砲兵陣地から、十五榴、迫撃砲の濃密な集中射撃を加えてきた。
戦車隊は進退の自由がきかなかったのか、その時間的余裕さえなかったのか、一〇輛全部が破壊された。
歩兵の方も、敵第十一海兵隊がマタニカウ川とクルツ岬間の六〇〇乃至八〇〇ヤード幅の地域に絶え間なしに浴びせた弾幕に遮られて、一人も渡河し得なかったという。(ジョン・ミラー前掲書)
住吉支隊長はアウステン山西麓にあって、第一線両連隊と砲兵隊に対する連絡は無線によっていたが、地形は谷あり崖あり、密林ありで、統一的指揮をとることが出来ず、各大隊、各中隊は分離して相互連絡がとれないままに戦況が推移した。
支隊長も第一線連隊長も二十四日の朝まで部下部隊を掌握出来なかったという。
単に助攻正面としてでなく、決戦任務を与えられた住吉支隊の攻撃は、こうして不首尾のうちに時間が経過した。
師団長は、二十四日午前五時出発、予備隊と行を共にして左翼隊の後方を約四キロ前進した。前日二十三日午前十時、辻参謀から十七軍戦闘司令所への報告では、既述の通り、予備隊は右翼隊後方に進めることに決し、師団長も右翼隊後方に移動する予定となっていたのが、二十四日の行動はそうなっていない。理由は明らかでない。
正午、師団長は攻撃開始に関する最後の命令を発した。
命令の第一、第二項は軍隊特有の修飾語が多いから省略する。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
三 両翼隊ハ一七〇〇ヲ期シ突撃ヲ決行シ敵線深ク殺到スヘシ
四 予ハ一四〇〇迄現在地ニ在リ 爾後左翼隊後方ヲ飛行場ニ向ヒ前進ス
[#ここで字下げ終わり]
この第二師団命令が伝達されるのと前後して、軍戦闘司令所に辻参謀からの報告が入った。
「第二師団の第一線は敵に察知せられることなく飛行場南方約二粁附近に進出し、両翼隊は各々四条のジャングル道により前進中。
歩兵第十六連隊は『ムカデ』草原南側に集結しあり。
師団司令部は今より『ムカデ』南側地区出発、前方に進出す。電話線の余力なき故、爾後軍戦闘司令所との連絡はきれるも、|本夜は確実故《ヽヽヽヽヽヽ》次回に無電にて『バンザイ』を送る」(戦史室前掲書。傍点引用者)
誰も敵陣前まで忍び寄って敵情を確認したわけではない。それを、本夜は確実だから、次の通信は飛行場占領信号の「バンザイ」を送るというのである。十七軍戦闘司令所では、この楽観的な報告に対し、誰も懸念を抱かなかったらしい。十七軍は、十二時二十分、大本営とラバウルの司令部と連合艦隊に対して、次のように電報を打った。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 第二師団ハ敵ニ発見セラルルコトナク一二〇〇頃飛行場南方約二キロ附近ニ達シ数条ノ「ジャングル」道ヲ続イテ敵ニ近迫中ナリ
二 第一線ヨリノ報告ニ依レハ予定時刻ニ突入シ得ル状態ニ在リ
[#ここで字下げ終わり]
大本営でも、ラバウルの留守司令部でも、トラックの連合艦隊でも、楽観的報告を希望的に受け取って、次に来るはずの飛行場占領の報告をひたすらに待った。
右の報告通りに戦局が展開するか否かは、敵との交戦状況如何にかかるよりも先に、まず、敵と接触するまでのジャングルとの戦い如何にかかっていたのである。
米軍は日本軍の動きを知らなかったわけではない。マタニカウ川東方に住吉部隊関係(岡部隊、中熊部隊──後述)の動きを発見していたばかりでなく(住吉部隊正面は牽制作戦の意図があるから発見されてもいいのだが)、米陸軍公刊戦史によれば、第七海兵隊巡邏隊の一落伍兵が、二十四日午後遅く陣地に帰って来て、双眼鏡でブラディ峰(ムカデ高地)を観察している一人の日本軍将校がいたと報告した。同時にまた、分派偵察狙撃隊の一海兵から、ブラディ峰の南斜面の南方約一哩四分の三、ルンガ川のU型屈曲部付近の密林に沢山の炊煙が昇るのを見たと報じて来た。しかし、もう日も暮れていたので防禦強化の工事を施すことが出来ず、長い戦線に薄く配備された第七海兵隊第一大隊で敵の攻撃を待ち受けた、となっている。(ジョン・ミラー前掲書)
助攻正面である住吉支隊(砲兵部隊、岡部隊、中熊部隊)の行動は、主力である第二師団がジャングルに潜入している間も、敵にはある程度の脅威を感じさせたらしく、右掲米公刊戦史によれば、米軍は陣地間の間隙を補填するための兵力の配置移動を行ない、そのために縦深が薄くなった部分が出来たようである。
第二師団の攻撃開始まで、助攻正面の住吉支隊の行動を概観しておく。
住吉支隊砲兵隊は、当初の二十二日総攻撃の計画に基づき、十月二十一日、午後二時半から四時まで、第一砲兵群をもって飛行場滑走路、第二砲兵群によって「サル」「トラ」高地、マタニカウ川右岸陣地、砲兵陣地を砲撃したが、既述の通り使用弾薬に制限があって、砲兵火力をもって敵を打ちのめすという本来の砲兵戦効果からは程遠かった。
総攻撃が二十三日に延期されても、住吉支隊は攻撃を続行し、岡部隊は支隊長から、二十二日夕、アウステン山とマタニカウ川右岸の敵陣地の攻撃を、二十三日以後は「ネコ」「シシ」の高地陣地の攻撃を命ぜられた。
岡部隊は、二十二日夜、その一中隊がマタニカウ川一本橋南東約一キロのアウステン山北西端に辿り着いたが、主力はジャングルに前進を阻まれ、二十二日は一日かかって一キロしか前進出来なかったという。
攻撃延期となった二十二日夜、十七軍司令官は、住吉支隊を単に海岸方面の助攻正面としてでなく、住吉支隊に独自の決戦任務を与える必要を認めた。理由は明らかでないが、主力攻撃のための牽制任務では不十分と判断したのであろうと思われる。
住吉支隊は次のような軍命令を受けた。
住吉支隊ハ二十三日ナルヘク早ク「マタニカウ」河右岸ノ陣地ヲ攻略シ爾後ノ攻撃ヲ準備スヘシ(爾後の攻撃というのは、飛行場周辺主陣地をさしている。──引用者)
住吉支隊ニ独立戦車第一中隊及独立速射砲第二大隊(一中隊欠)ヲ増加配属ス
住吉支隊長はこの命令を受けて、二十二日午後十時、アウステン山西麓で、岡部隊と中熊部隊(歩一二四と歩四)に、それぞれ次の命令を下した。
岡部隊に対しては、
岡部隊ハ万難ヲ排シ速ニ一本橋附近草原ニ進出シ「マ」河右岸ノ敵陣地ニ対シ攻撃ヲ準備スヘシ(攻撃開始は砲兵協力のもとに二十三日午後一時)
中熊部隊に対しては、
中熊部隊ハ岡部隊ノ「マ」河右岸陣地突入後機ヲ失セス「マ」河ヲ渡河シ「マ」河右岸敵陣地ヲ攻略スヘシ
岡部隊は、二十三日午前十時、アウステン山北端で攻撃準備を整え、午後一時三十分攻撃前進を開始したが、地形は依然として錯雑していて、敵の間隙への潜入進出を図った部隊の企図は|捗《はかど》らなかった。ために、二十三日の攻撃は二十四日払暁になって、第一線の歩兵第四連隊第三大隊と岡連隊第二大隊の先頭がようやく「イヌ」高地東方の草原地帯に進出し、先頭中隊は敵陣地攻撃をはじめたはずだが、密林が深くて相互に連絡がとれず、状況不明という状態であった。
中熊部隊(歩四)は、配属された独立戦車第一中隊を第二大隊に配属し、二十三日午前十一時二十分、直ちに行動開始を命じた。第一大隊(第三大隊は右記の通り同部隊に配属)は、第二大隊がマタニカウ川右岸に進出すれば、第一大隊の主力でクルツ岬南西地区に進出する予定であった。
中熊連隊第二大隊は何故か遅れた。十一時二十分に命令を受けていて、機動開始は午後三時であった。四時三十分、各中隊に攻撃前進命令が出されている。
第一線が渡河点付近に達するまで、米軍の第一線は沈黙を守っていたが、突如、砲兵とともに熾烈きわまる射撃を開始し、後方から兵力を増強した。中熊部隊は損害続出し、前進を阻止された。
中熊部隊第二大隊に配属された独立戦車第一中隊は、午後二時ごろ、マタニカウ河口方向に前進したが、結果からみて、この前進は過早であったようである。歩兵の進出は先に記したように遅れたので、戦車隊は歩戦協同のために、敵陣前約二〇〇メートルで停止して、歩兵の進出を待った。歩兵が追及して来たのは五時ごろであった。戦車隊は、各車各個にマタニカウ川の渡河攻撃を開始した。味方砲兵の援護射撃はなかった。米軍は三十七ミリ砲を並べて対戦車戦の用意をしていた。これが一斉に火蓋を切ったばかりでなく、ルンガ岬方向の砲兵陣地から、十五榴、迫撃砲の濃密な集中射撃を加えてきた。
戦車隊は進退の自由がきかなかったのか、その時間的余裕さえなかったのか、一〇輛全部が破壊された。
歩兵の方も、敵第十一海兵隊がマタニカウ川とクルツ岬間の六〇〇乃至八〇〇ヤード幅の地域に絶え間なしに浴びせた弾幕に遮られて、一人も渡河し得なかったという。(ジョン・ミラー前掲書)
住吉支隊長はアウステン山西麓にあって、第一線両連隊と砲兵隊に対する連絡は無線によっていたが、地形は谷あり崖あり、密林ありで、統一的指揮をとることが出来ず、各大隊、各中隊は分離して相互連絡がとれないままに戦況が推移した。
支隊長も第一線連隊長も二十四日の朝まで部下部隊を掌握出来なかったという。
単に助攻正面としてでなく、決戦任務を与えられた住吉支隊の攻撃は、こうして不首尾のうちに時間が経過した。