十月二十四日、第二師団総攻撃の日である。あいにく、午後二時ごろから土砂降りの豪雨となった。
命令による左右両翼隊の突入時刻は午後五時である。両翼隊は豪雨のなかを死力を尽して前進を急いだ。密林は、しかし、頑として日本軍の前進を阻んでいた。密林の密度は増すばかり、部隊は地点の標定が出来なかった。
雨は激しさを増す一方であった。日没時には密林のなかは暗黒の闇となった。正確な方向維持など出来るものではない。前を歩く兵の姿さえ見失いがちである。いくら急いでも歩度は伸びない。
ようやく雨がやんで、密林の天蓋の切れ目から月が見えはじめたときには、午後七時を過ぎていた。突入時刻はとっくに過ぎている。第一線は、どの地点でも、まだ米軍と接触していなかった。
予備隊の十六連隊は、主力に追及するために、後方からの行進を急いでいた。両翼隊配属の砲兵部隊は、まだ遥か後方にあって、前進に喘いでいた。
この日昼ごろ、辻参謀が軍戦闘司令所に送った威勢のよい報告「本夜は確実故次回(報告)に無電にて『バンザイ』を送る」は、既に怪しくなっていた。
右翼隊第一線の歩兵第二百三十連隊(長・東海林大佐。第二大隊欠)は、右第一線を第一隊(長・関谷少佐)、左第一線を第三大隊(長・大根田少佐)とし、各大隊から一個中隊を抽出して連隊予備としていた。東海林大佐が、先に記した川口少将の右翼隊長罷免後、右翼隊長に任ぜられたのは、前日二十三日夕方のことである。東海林部隊は行進が遅れていたし、右翼隊には歩兵部隊として本来川口少将に直属していた一色大隊(歩一二四の第三大隊。一色少佐は前大隊長渡辺中佐の後任)があり、東海林大佐としては、密林内を難行軍中の右翼隊を、新任右翼隊長として掌握しきれなかったであろう。
攻撃直前に部隊長を罷免、更迭して、良好な結果が得られるとは、到底考えられない。これは結果論からではなく、組織運営の常識から言って、そうである。
十月二十四日、総攻撃が行なわれたはずの夜の右翼隊の行動に関しては、戦史資料が三通りもあって、筆者は選択に迷わざるを得ないし、判断停止に近い状態に立たされる。
第一は、当夜、右翼隊は攻撃していない、というのである。
参謀本部編の『南太平洋作戦』には、漠然と書かれている。「戦場一帯ニ大雨アリ|剰《あまつさ》ヘ地形困難且密林深ク|各部隊ノ攻撃ハ統一ヲ失シ其ノ一部ハ敵陣地内ニ突入セルモ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》二十五日払暁以後敵ノ猛火ヲ受ケ」(以下略。傍点引用者)左翼隊は後述するように突入したから、「其ノ一部」は左翼隊を指すと考えられる。「攻撃ハ統一ヲ失シ」というのは、文脈からみて、攻撃しなかったことの迂遠な表現と思われる。
辻参謀は「右翼隊、東海林連隊は、準備不十分のため、昨夜遂に突撃に至らず、敵陣地前に接触して攻撃を準備しているとのこと」と書いている。(辻前掲書)
戦史室の公刊戦史には、春本第四部編『南太平洋方面作戦経過ノ概要』から次のように引用されている。「歩兵第二百三十連隊長(川口少将に)代リシ為、部隊ノ掌握出来ス、攻撃セサリキ」(戦史室前掲書)
これまでに再々引用してきた米公刊戦史『ガダルカナル作戦』(ジョン・ミラー)も、二十四日夜の日本軍の攻撃としては、歩兵二十九連隊の攻撃だけを認めている。該当部分だけを引用すると、こうである。
「〇一〇〇突然敵の歩兵が小銃を射ち、手榴弾を投じ、喊声を挙げて(後述)密林から飛び出して来てブラッディ峰(ムカデ高地)の東方第七海兵隊第一大隊の左地区を横切ろうとした。これは歩兵第二十九連隊の攻撃で、|当夜敵の行なった唯一のものであって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(以下略)」(傍点引用者)
右翼隊の攻撃があれば、米側が書き洩らすはずもないであろう。
ところが、第二に、右翼隊も攻撃したが、一部が突入し、主力が遅滞した、というのがある。戦史室公刊戦史は参本編の『大東亜戦史』から次のように引用している。
「右翼隊方面ニ於テハ両第一線大隊共ニ予定時刻タル十七時ニ突入シ得ス 右第一線大隊タル第一大隊ハ二十一時十五分其ノ一部ヲ以テ敵陣地ニ突入セルモ 大隊全力ヲ之ニ加入セシムルニ至ラス 又左第一線大隊タル第三大隊ハ部隊ノ掌握及方向ヲ失シ |左翼隊右第一線部隊ノ後方ニ進出シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |此ノ夜敵陣地ニ突入スルニ至ラス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(戦史室前掲書。傍点引用者)
先に記した米側戦史にも、東海林部隊が第二十九連隊の後方に出て、「夜間に間に合わなかった」と書いている。
第三には、右翼隊に配属されていた独立山砲兵第二十大隊の『戦闘詳報』のように、右翼隊は突入したという立場からの記録である。
「敵ノ警戒陣地ヲ突破セルモ爾後大ナル戦果ヲ挙クルヲ得ス、特ニ右翼隊ニ於テハ一部飛行場ニ進出セルモ亦後援続カスシテ止ム」
これは、後述する「バンザイ」誤報と軌を一にする記録ではなかろうかと思われる。
三様の記録のうち、どれに信をおくかは、俄かに定め難いが、右翼隊では接触前進間に部隊長の更迭事件があり、したがって部隊掌握の不備は当然に想像されるのと、敵側が右翼隊の攻撃を認めていないことを合せ考えると、東海林右翼隊長の戦後の回想(戦史室前掲書所載)が、右翼隊情況全般の真相にかなり近いものと思われる。
「右翼隊は草原(暗夜では飛行場と誤認されがちであった。──引用者)を北進し、零時敵陣地に接近したが、猛烈な敵火のため前進は頓挫し、敵陣地前において敵と近く相対したまま二十五日天明を迎えた」
敵とどのくらい近く対峙していたかは、二十五日の右翼隊の行動(後述)を関連させて推測しようとしても、いっこうに明らかとならない。
命令による左右両翼隊の突入時刻は午後五時である。両翼隊は豪雨のなかを死力を尽して前進を急いだ。密林は、しかし、頑として日本軍の前進を阻んでいた。密林の密度は増すばかり、部隊は地点の標定が出来なかった。
雨は激しさを増す一方であった。日没時には密林のなかは暗黒の闇となった。正確な方向維持など出来るものではない。前を歩く兵の姿さえ見失いがちである。いくら急いでも歩度は伸びない。
ようやく雨がやんで、密林の天蓋の切れ目から月が見えはじめたときには、午後七時を過ぎていた。突入時刻はとっくに過ぎている。第一線は、どの地点でも、まだ米軍と接触していなかった。
予備隊の十六連隊は、主力に追及するために、後方からの行進を急いでいた。両翼隊配属の砲兵部隊は、まだ遥か後方にあって、前進に喘いでいた。
この日昼ごろ、辻参謀が軍戦闘司令所に送った威勢のよい報告「本夜は確実故次回(報告)に無電にて『バンザイ』を送る」は、既に怪しくなっていた。
右翼隊第一線の歩兵第二百三十連隊(長・東海林大佐。第二大隊欠)は、右第一線を第一隊(長・関谷少佐)、左第一線を第三大隊(長・大根田少佐)とし、各大隊から一個中隊を抽出して連隊予備としていた。東海林大佐が、先に記した川口少将の右翼隊長罷免後、右翼隊長に任ぜられたのは、前日二十三日夕方のことである。東海林部隊は行進が遅れていたし、右翼隊には歩兵部隊として本来川口少将に直属していた一色大隊(歩一二四の第三大隊。一色少佐は前大隊長渡辺中佐の後任)があり、東海林大佐としては、密林内を難行軍中の右翼隊を、新任右翼隊長として掌握しきれなかったであろう。
攻撃直前に部隊長を罷免、更迭して、良好な結果が得られるとは、到底考えられない。これは結果論からではなく、組織運営の常識から言って、そうである。
十月二十四日、総攻撃が行なわれたはずの夜の右翼隊の行動に関しては、戦史資料が三通りもあって、筆者は選択に迷わざるを得ないし、判断停止に近い状態に立たされる。
第一は、当夜、右翼隊は攻撃していない、というのである。
参謀本部編の『南太平洋作戦』には、漠然と書かれている。「戦場一帯ニ大雨アリ|剰《あまつさ》ヘ地形困難且密林深ク|各部隊ノ攻撃ハ統一ヲ失シ其ノ一部ハ敵陣地内ニ突入セルモ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》二十五日払暁以後敵ノ猛火ヲ受ケ」(以下略。傍点引用者)左翼隊は後述するように突入したから、「其ノ一部」は左翼隊を指すと考えられる。「攻撃ハ統一ヲ失シ」というのは、文脈からみて、攻撃しなかったことの迂遠な表現と思われる。
辻参謀は「右翼隊、東海林連隊は、準備不十分のため、昨夜遂に突撃に至らず、敵陣地前に接触して攻撃を準備しているとのこと」と書いている。(辻前掲書)
戦史室の公刊戦史には、春本第四部編『南太平洋方面作戦経過ノ概要』から次のように引用されている。「歩兵第二百三十連隊長(川口少将に)代リシ為、部隊ノ掌握出来ス、攻撃セサリキ」(戦史室前掲書)
これまでに再々引用してきた米公刊戦史『ガダルカナル作戦』(ジョン・ミラー)も、二十四日夜の日本軍の攻撃としては、歩兵二十九連隊の攻撃だけを認めている。該当部分だけを引用すると、こうである。
「〇一〇〇突然敵の歩兵が小銃を射ち、手榴弾を投じ、喊声を挙げて(後述)密林から飛び出して来てブラッディ峰(ムカデ高地)の東方第七海兵隊第一大隊の左地区を横切ろうとした。これは歩兵第二十九連隊の攻撃で、|当夜敵の行なった唯一のものであって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(以下略)」(傍点引用者)
右翼隊の攻撃があれば、米側が書き洩らすはずもないであろう。
ところが、第二に、右翼隊も攻撃したが、一部が突入し、主力が遅滞した、というのがある。戦史室公刊戦史は参本編の『大東亜戦史』から次のように引用している。
「右翼隊方面ニ於テハ両第一線大隊共ニ予定時刻タル十七時ニ突入シ得ス 右第一線大隊タル第一大隊ハ二十一時十五分其ノ一部ヲ以テ敵陣地ニ突入セルモ 大隊全力ヲ之ニ加入セシムルニ至ラス 又左第一線大隊タル第三大隊ハ部隊ノ掌握及方向ヲ失シ |左翼隊右第一線部隊ノ後方ニ進出シ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |此ノ夜敵陣地ニ突入スルニ至ラス《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(戦史室前掲書。傍点引用者)
先に記した米側戦史にも、東海林部隊が第二十九連隊の後方に出て、「夜間に間に合わなかった」と書いている。
第三には、右翼隊に配属されていた独立山砲兵第二十大隊の『戦闘詳報』のように、右翼隊は突入したという立場からの記録である。
「敵ノ警戒陣地ヲ突破セルモ爾後大ナル戦果ヲ挙クルヲ得ス、特ニ右翼隊ニ於テハ一部飛行場ニ進出セルモ亦後援続カスシテ止ム」
これは、後述する「バンザイ」誤報と軌を一にする記録ではなかろうかと思われる。
三様の記録のうち、どれに信をおくかは、俄かに定め難いが、右翼隊では接触前進間に部隊長の更迭事件があり、したがって部隊掌握の不備は当然に想像されるのと、敵側が右翼隊の攻撃を認めていないことを合せ考えると、東海林右翼隊長の戦後の回想(戦史室前掲書所載)が、右翼隊情況全般の真相にかなり近いものと思われる。
「右翼隊は草原(暗夜では飛行場と誤認されがちであった。──引用者)を北進し、零時敵陣地に接近したが、猛烈な敵火のため前進は頓挫し、敵陣地前において敵と近く相対したまま二十五日天明を迎えた」
敵とどのくらい近く対峙していたかは、二十五日の右翼隊の行動(後述)を関連させて推測しようとしても、いっこうに明らかとならない。
次は左翼隊である。左翼隊では歩兵第二十九連隊(長・古宮大佐)主力を第一線とし、第二大隊(第七中隊欠)を左翼隊予備としていた。左翼隊も暗夜と豪雨と密林に悩まされたことは他の場合と異ならなかった。
第二十九連隊の『戦闘詳報』によると、はじめ、第一大隊は連隊進路の右方凹地を北進していたが、右に偏したらしく、連隊長との連絡を失った。その間に、第三大隊の第十中隊(一小隊欠)も第三大隊長との連絡を失い、第十中隊が第一大隊と行動を共にしている状態となった。
連隊長は、そこで、はじめに下達した軍隊区分と任務を変更し、第一大隊を右第一線、第三大隊を左第一線(それぞれ混入した中、小隊をそのまま配属として)とし、連隊の攻撃重点を第三大隊正面とした、とある。
第一大隊は、結局この二十四日夜には敵陣に突入しなかった。『戦闘詳報』にはこう誌している。「(前段略)漸ク二十四日二時三十分頃敵陣地前ノ林縁ニ達セリ、然レ共地形意外ニ錯雑シ準備ノ為ニ時間ヲ要シ突入ノ機ヲ失シ天明トナリ、而モ敵前ナリシ為メ敵火ノ爆撃ノ為ニ損害続出スルニ至リ、已ムナク一時密林中ニ兵力ヲ集結シ爾後ノ攻撃ヲ準備ス」
第三大隊では、尖兵中隊である第十一中隊の路上斥候が、午後十時三十分ごろ、米軍陣地の鉄条網に衝突した。忽ち激しい火力を浴びて、中隊長以下決死の突撃も挫折した。この尖兵中隊長の回想(戦史室前掲書所載)は二十四日夜の戦闘経過をなまなましく再現していると思われるので、後に引用する。
左翼隊長那須少将は、手裡にあった予備隊の第二大隊(歩二九)を連隊に復帰させた。左第一線の増加のためである。
歩二九連隊長古宮大佐は、第一線の突撃頓挫を見ると、付近に進出していた第三機関銃中隊(重機四、自動砲一)に火力発揮を命じ、その間に第三大隊と連隊予備隊の第七中隊を自ら率いて突撃を敢行した。
軍旗を奉じた連隊長以下は敵陣地内に突入したが(細部後述)、敵火力は熾烈をきわめ、戦線は前後に分断され、突入した連隊長以下の一群は連絡が絶えてしまった。
そのころ、師団予備隊の歩兵第十六連隊は、まだ左翼隊の後方約一粁の密林内に集結中で、戦闘加入の準備をしていた。時間は経ち、戦機は過ぎ、またも兵力は整わない。
『歩兵第二十九連隊戦闘詳報』は古宮連隊長以下の運命を次のように「推定」している。
「……連隊長ハ軍旗ヲ奉シ十数名ノ残存兵ト共ニ敵飛行場近キ森林中ニ在リテ十月二十九日夕ニ至ル迄軍旗ト共ニ孤軍奮闘シ敵ニ多大ノ損害ト恐慌ヲ与ヘ、三十日遂ニ軍旗ヲ完全ニ処置シ(推定)タル後戦死セリ」
この『戦闘詳報』には、他の戦闘詳報類にはほとんど見られないような性格の記述がある。
「優勢ニシテ而モ組織的縦深火網ヲ有スル堅陣飛行機絶対ト各種ノ近接察知ヲ講シアル敵ニ対シ 三週日ニ亘ル疲労ト餓ノ為メ其ノ|困憊《こんぱい》極度ニ達シアル軍隊カ 敵前錯雑不明ノ密林ヲ溢過シ敵情捜索其ノ準備ナスノ余裕殆トナク所謂夜襲必勝ノ信念ニ到達セスシテ勇敢無比|白兵ノミヲ以テ猪突セサルヘカラサルニ至リタルハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|寔《まこと》ニ|遺憾ノ極ミニシテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |ソモ何ノ誤リソヤ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |第一線軍隊ノミノ失敗ナリヤ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |飜ツテ作戦計画ヨリ其適否ヲ検討セハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |其ノ禍根ノ何レニ在リヤ明瞭ニ断シ得ヘシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
右の記述は、二十四日夜の戦闘と、これから述べることになる二十五日夜、二十六日未明にかけての戦闘の全般に関して書かれたものだが、作戦計画の適否に関してまで批判を向けている点で、実戦部隊の記録としてはきわめて珍しいものである。
第二十九連隊の『戦闘詳報』によると、はじめ、第一大隊は連隊進路の右方凹地を北進していたが、右に偏したらしく、連隊長との連絡を失った。その間に、第三大隊の第十中隊(一小隊欠)も第三大隊長との連絡を失い、第十中隊が第一大隊と行動を共にしている状態となった。
連隊長は、そこで、はじめに下達した軍隊区分と任務を変更し、第一大隊を右第一線、第三大隊を左第一線(それぞれ混入した中、小隊をそのまま配属として)とし、連隊の攻撃重点を第三大隊正面とした、とある。
第一大隊は、結局この二十四日夜には敵陣に突入しなかった。『戦闘詳報』にはこう誌している。「(前段略)漸ク二十四日二時三十分頃敵陣地前ノ林縁ニ達セリ、然レ共地形意外ニ錯雑シ準備ノ為ニ時間ヲ要シ突入ノ機ヲ失シ天明トナリ、而モ敵前ナリシ為メ敵火ノ爆撃ノ為ニ損害続出スルニ至リ、已ムナク一時密林中ニ兵力ヲ集結シ爾後ノ攻撃ヲ準備ス」
第三大隊では、尖兵中隊である第十一中隊の路上斥候が、午後十時三十分ごろ、米軍陣地の鉄条網に衝突した。忽ち激しい火力を浴びて、中隊長以下決死の突撃も挫折した。この尖兵中隊長の回想(戦史室前掲書所載)は二十四日夜の戦闘経過をなまなましく再現していると思われるので、後に引用する。
左翼隊長那須少将は、手裡にあった予備隊の第二大隊(歩二九)を連隊に復帰させた。左第一線の増加のためである。
歩二九連隊長古宮大佐は、第一線の突撃頓挫を見ると、付近に進出していた第三機関銃中隊(重機四、自動砲一)に火力発揮を命じ、その間に第三大隊と連隊予備隊の第七中隊を自ら率いて突撃を敢行した。
軍旗を奉じた連隊長以下は敵陣地内に突入したが(細部後述)、敵火力は熾烈をきわめ、戦線は前後に分断され、突入した連隊長以下の一群は連絡が絶えてしまった。
そのころ、師団予備隊の歩兵第十六連隊は、まだ左翼隊の後方約一粁の密林内に集結中で、戦闘加入の準備をしていた。時間は経ち、戦機は過ぎ、またも兵力は整わない。
『歩兵第二十九連隊戦闘詳報』は古宮連隊長以下の運命を次のように「推定」している。
「……連隊長ハ軍旗ヲ奉シ十数名ノ残存兵ト共ニ敵飛行場近キ森林中ニ在リテ十月二十九日夕ニ至ル迄軍旗ト共ニ孤軍奮闘シ敵ニ多大ノ損害ト恐慌ヲ与ヘ、三十日遂ニ軍旗ヲ完全ニ処置シ(推定)タル後戦死セリ」
この『戦闘詳報』には、他の戦闘詳報類にはほとんど見られないような性格の記述がある。
「優勢ニシテ而モ組織的縦深火網ヲ有スル堅陣飛行機絶対ト各種ノ近接察知ヲ講シアル敵ニ対シ 三週日ニ亘ル疲労ト餓ノ為メ其ノ|困憊《こんぱい》極度ニ達シアル軍隊カ 敵前錯雑不明ノ密林ヲ溢過シ敵情捜索其ノ準備ナスノ余裕殆トナク所謂夜襲必勝ノ信念ニ到達セスシテ勇敢無比|白兵ノミヲ以テ猪突セサルヘカラサルニ至リタルハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|寔《まこと》ニ|遺憾ノ極ミニシテ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |ソモ何ノ誤リソヤ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |第一線軍隊ノミノ失敗ナリヤ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |飜ツテ作戦計画ヨリ其適否ヲ検討セハ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 |其ノ禍根ノ何レニ在リヤ明瞭ニ断シ得ヘシ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
右の記述は、二十四日夜の戦闘と、これから述べることになる二十五日夜、二十六日未明にかけての戦闘の全般に関して書かれたものだが、作戦計画の適否に関してまで批判を向けている点で、実戦部隊の記録としてはきわめて珍しいものである。
第二師団戦闘司令所は左翼隊の後方約三キロを前進し、高地に達したが、通信状態不良で第一線の状況が全く不明であった。
午後三時、師団長は状況を知るため平間参謀を第一線に派遣した。突入を予定していた時刻を一時間も過ぎても、戦闘がはじまったらしい気配はなかった。
ところが、午後八時ごろ、右翼隊から後方通信所を経て、「右翼隊ハ敵線ヲ突破シ 目下飛行場東方ノ草原地帯ヲ北方ニ向ヒ前進中」という朗報が入った。この通信、実は誰が打ったかわからないのである。
左翼隊とも有線無線で連絡がとれるようになり、「左翼隊ハ第一線部隊ヲ以テ攻撃中ナルモ細部不明、目下連絡中」と報告が来た。
午後十時を過ぎると、左翼隊方面の銃砲声が激しくなり、左翼隊長から「第一線ハ攻撃中 本夜中ニ誓ツテ飛行場ヲ攻略スル」と希望的な連絡があった。
後半夜になって銃砲声は激しさを増すばかりであった。米軍の猛火を浴びていることが想像された。右翼隊からは「前回ノ報告ハ誤リニシテ、右翼隊ハ二十一時頃依然方向地点ヲ判定シ得ス、飛行場方向ヲ求メツツ前進中」と報告して来た。報告を誤った理由なども歴史の密林の中に溶暗しているようである。
二十五日午前一時、玉置師団参謀長が左翼隊前線へ出発した。夜明け近く、「左翼隊ノ一部ハ攻撃奏功セサルモ 歩兵第二十九連隊長以下主力敵陣地ヲ突破シ敵陣地内ニ突入セリ 其ノ後連絡遮断セラレ目下同連隊ノ状況不明ナリ」と師団参謀長の電話報告があった。既述の戦況にかなり近い報告である。
第十七軍戦闘司令所では、第二師団からの朗報を待ちわびていた。
真夜中、第二師団参謀から飛行場占領の報告が入った。軍戦闘司令所は喚声をあげ、有頂天になった。直ちに「二一〇〇バンザイ」が発信された。飛行場占領成功の信号である。つづいて、各方面に電報が打たれた。
「二一〇〇稍前 第二師団右翼隊ハ飛行場ヲ占領セリ 同時頃左翼隊ハ飛行場附近ノ敵ト交戦中」
各方面とも、ようやく労苦が報いられた喜びに沸いていた。
ところが、後夜半になって、第二師団から「唯今の飛行場占領は飛行場付近で激戦中の誤りなり。歩兵第二百三十連隊の突撃は成功せず」という電話報告が来た。
軍戦闘司令所は有頂天の喜びから、急転直下、憂色の底へ突き落された。
午前二時三十分、各方面に訂正電が打たれた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 両翼隊共飛行場附近ニ於テ激戦中ナリ
二 飛行場ハ未タ占領シアラス
[#ここで字下げ終わり]
午後三時、師団長は状況を知るため平間参謀を第一線に派遣した。突入を予定していた時刻を一時間も過ぎても、戦闘がはじまったらしい気配はなかった。
ところが、午後八時ごろ、右翼隊から後方通信所を経て、「右翼隊ハ敵線ヲ突破シ 目下飛行場東方ノ草原地帯ヲ北方ニ向ヒ前進中」という朗報が入った。この通信、実は誰が打ったかわからないのである。
左翼隊とも有線無線で連絡がとれるようになり、「左翼隊ハ第一線部隊ヲ以テ攻撃中ナルモ細部不明、目下連絡中」と報告が来た。
午後十時を過ぎると、左翼隊方面の銃砲声が激しくなり、左翼隊長から「第一線ハ攻撃中 本夜中ニ誓ツテ飛行場ヲ攻略スル」と希望的な連絡があった。
後半夜になって銃砲声は激しさを増すばかりであった。米軍の猛火を浴びていることが想像された。右翼隊からは「前回ノ報告ハ誤リニシテ、右翼隊ハ二十一時頃依然方向地点ヲ判定シ得ス、飛行場方向ヲ求メツツ前進中」と報告して来た。報告を誤った理由なども歴史の密林の中に溶暗しているようである。
二十五日午前一時、玉置師団参謀長が左翼隊前線へ出発した。夜明け近く、「左翼隊ノ一部ハ攻撃奏功セサルモ 歩兵第二十九連隊長以下主力敵陣地ヲ突破シ敵陣地内ニ突入セリ 其ノ後連絡遮断セラレ目下同連隊ノ状況不明ナリ」と師団参謀長の電話報告があった。既述の戦況にかなり近い報告である。
第十七軍戦闘司令所では、第二師団からの朗報を待ちわびていた。
真夜中、第二師団参謀から飛行場占領の報告が入った。軍戦闘司令所は喚声をあげ、有頂天になった。直ちに「二一〇〇バンザイ」が発信された。飛行場占領成功の信号である。つづいて、各方面に電報が打たれた。
「二一〇〇稍前 第二師団右翼隊ハ飛行場ヲ占領セリ 同時頃左翼隊ハ飛行場附近ノ敵ト交戦中」
各方面とも、ようやく労苦が報いられた喜びに沸いていた。
ところが、後夜半になって、第二師団から「唯今の飛行場占領は飛行場付近で激戦中の誤りなり。歩兵第二百三十連隊の突撃は成功せず」という電話報告が来た。
軍戦闘司令所は有頂天の喜びから、急転直下、憂色の底へ突き落された。
午前二時三十分、各方面に訂正電が打たれた。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
一 両翼隊共飛行場附近ニ於テ激戦中ナリ
二 飛行場ハ未タ占領シアラス
[#ここで字下げ終わり]
朝になった。敵飛行機が舞い上った。続々と離陸し、第一線上空を獲物を狙うかのように旋回した。飛行場は占領どころか、些かも機能に障害を来していないのだ。第二師団第一線部隊は敵陣に突入した部隊もあったが、肝腎の飛行場には全く届かなかったのである。
第二師団戦闘司令所では、十月二十四日夜の攻撃の失敗を確認せざるを得なかった。
第二師団戦闘司令所では、十月二十四日夜の攻撃の失敗を確認せざるを得なかった。