十月二十五日朝、第二師団長は、前夜の攻撃は失敗したが、歩兵第二十九連隊長が部下の一部を率い軍旗とともに敵陣内に突入したままになっているので、攻撃を続行し戦果の拡張を図ることが必要であると考えた。十七軍司令部も同様の意図であったので、第二師団長は、二十五日午前十一時、全力をあげてのその夜の夜襲再行に関する命令を下達した。
他方、第十七軍司令官は、コリ支隊に対して、二十六日朝までにコリ岬付近に強行上陸し、東川河口付近に兵力を集結して第二師団の指揮下に入るよう命令し、同時にまた、第三十八師団長に対して、歩兵第二百二十八連隊(第一大隊欠)と三十八師団通信隊の一分隊を、海軍艦艇によって迅速にガダルカナルに前進、コリ岬付近に上陸すること、また、歩兵第二百三十連隊第二大隊をタサファロングに強行上陸させるよう、命令した。
これもまた、兵力の逐次投入の|誹《そし》りを免がれないであろう。
二十四日の総攻撃が失敗したころ、第三十八歩兵団司令部と第二百二十八連隊(第一大隊欠)及びコリ支隊(歩二百二十八連隊第一大隊基幹)はブインで待機、第三十八師団司令部と歩兵第二百三十連隊の第二大隊はラバウルに位置していた。
右の兵力のガダルカナル投入は、第二師団の機動開始以前に決定されていながら、第二師団の攻撃開始時機に即応出来るようには部署されていないのである。
十月二十日の参謀総長の上奏には、次のような陸軍の考え方が盛られていた。
「第十七軍ハ『ガ』島ノ敵ニ対シ必勝ヲ期スルタメ 第二師団ノ外第三十八師団ノ大部ヲモ同方面ニ使用スル計画テアル 然ルニ第十七軍ハ『ソロモン』群島奪回ノ外ニ 東部『ニューギニア』攻略ノ任務ヲモ有スルヲ以テ之カ為ノ所要兵力ノ大部ハ『ソロモン』方面ニ使用セル兵力ノ転用ニ期待スルコトナク 速同作戦ヲ実施シ得ルヤウニスルヲ至当トスルヲ以テ 目下広東ニ集結中ノ第五十一師団ヲ第十七軍ニ増加スルヲ適当トス(以下略)」
ガダルカナルに限っていえば、一木支隊の投入で足りると考えながら、川口支隊の投入を用意し、川口支隊の攻撃前には第二師団主力をモレスビー作戦に充当を予定し、川口支隊の失敗をみると、第二師団のガ島投入に転換し、代りにモレスビーに三十八師団の充当を計画し、第二師団の攻撃が不首尾に終ると、今度はまた第三十八師団のガ島投入を部署し、ニューギニアに対しては第五十一師団を充当することにした。臨機応変といえば聞えはいいが、用兵計画が三転四転したのである。
十七軍司令官からガ島への進出を命ぜられた第三十八師団は、まだ集結し終っていなかった。第三十八師団の第二梯団(山砲兵第三十八連隊、工兵第三十八連隊)は、十月十九日、ラバウルに入港したばかりであったし、第三梯団(歩兵第二百二十九連隊、山砲一大隊)はスマトラからラバウルヘ向けて航行中であった。
歴史に「もし」はあり得ないが、第二師団の攻撃時に、もし、第三十八師団の全力が増加されていたら、ガ島戦のみに限って言えば、異った結果が見られたかもしれない。
二十四日夜の戦闘経過に関しては、左翼隊の左第一線大隊の尖兵中隊(歩兵第二十九連隊第三大隊第十一中隊)として米軍陣地の鉄条網に衝突し交戦した中隊長勝股治郎大尉の回想が、具体的で臨場感に満ちているので、引用または要約してみる。(戦史室前掲書より)
二十四日午後十時半ごろ、尖兵中隊がジャングル内を前進していると、路上斥候(兵長以下五名)が鉄条網に衝き当り、前方から小銃の射撃を受けた。
鉄条網は林端から二〇メートルほど離れた草地にあった。尖兵長が銃声を聞いて、林端まで出ると、右前方から機関銃の射撃がはじまった。間もなく、左前方からも機関銃が射ちだした。尖兵長は草地の縦深は一〇〇メートル程度と判断した。銃火を浴びながら躍進することは到底出来ない深さである。機銃掃射が林端にまで及んできたので、尖兵はジャングル内に若干後退した。
尖兵中隊長、大隊長、大隊副官、配属工兵小隊長が林縁に急行した。機関銃は草原一帯を掃射していた。工兵は特火点攻撃用の資材を持っていなかった。(何故特火点攻撃の準備がなかったのか、判断に苦しむところである。)夜襲の企図秘匿の見地から、一切の射撃は禁止されていた。敵砲兵の射撃がはじまらないうちに、火点の間隙を強行突破しようという大隊副官の案が採用された。(前掲滝沢氏の書簡によれば、工兵隊は爆破用資材は携行していたそうである。──工兵第二連隊上遠野武雄軍曹の証言)
第一小隊は右火点を右方から迂回突入、中隊主力は右から第三、第二小隊を並列、両火点の間隙を突進する。工兵小隊は各小隊前面の鉄条網に隠密作業で破壊口を開設するという部署が採られた。
午後十時四十五分、中隊は攻撃隊形を整えて、前進を開始した。視界は約一〇メートル。草は短く、三〇センチ前後で、地形は大体平坦であった。
米軍の機銃射撃が何故か|熄《や》んだ。中隊は十数メートル草原内に躍進して、全員伏姿で突入の機を窺った。物音は絶えていた。
暫くすると、極度の疲労と緊張のため錯覚を起こしたのか、あるいは何か幻影でも見たのか、中隊主力がいきなりむくむくと立ち上り、斜左の方へ歩き出した。(戦闘時の緊張と疲労とで戦場心理が異状を来すことは、わからないではないが、指揮官の掌握下にある部隊の行動としては、ほとんど理解しかねる。これが、つづいて、次の信じ難い行動へつながるのである。)
誰か敵影でも見たのであろうか、「わあ」と|喊声《かんせい》が湧き上った。中隊長の制止に先頭は黙ったが、後方の者たちはわからず、前に習って喊声をあげた。(隠密を必要とする夜襲である。先に記したように、一切の射撃を禁止されていた夜襲である。隠密裡に肉薄し、一斉に殺到してこそ夜襲の効果がある。夜襲に喊声をあげることなど、当時の軍事教練を受けた者には到底信じられない愚行である。未教育補充兵ばかりをいきなり戦闘に投入したわけではないであろう。)
果然、敵機関銃は喊声へ向けて猛射を開始した。
中隊は突撃発起した。それとほとんど同時に、陣前の地雷が連続爆発して、右第二小隊の前半部は瞬間に吹き飛んだ。
中隊は幅の広い屋根型鉄条網に直ぐ衝突した。側防火器が左右から乱射してくる。極度の疲労と空腹で意識さえ朦朧となって、文字通りよろよろと突撃に移行した将兵は、鉄条網と側防火器に前進を阻まれた。
中隊長以下四名だけが鉄条網を乗り越えて、右火点の側面へ進入したが、中隊主力は鉄条網の前後で潰滅した。二十四日午後十一時ごろのことである。
十一中隊に続行していた第九中隊は、十一中隊の突入地点からかなり左に寄って、十時十五分ごろ突撃を開始したが、これがまたしても喊声をあげて、米軍の機銃火の集中を招き、鉄条網の手前でほとんどが斃れた。(歩二十九が夜襲の訓練をしていなかったとは思えないのに、理解し難いことである。先の十一中隊の突撃に関して、前掲滝沢氏の書簡──五十五年四月十二日付──には次のように書かれている。「この勝股大尉は二十四日夜自ら『カン声』をあげて突撃を命じている。しかも同大尉は二十五日午前七時ごろ、無断で戦場を離脱して後方に退ったのであります。これは小生が目撃していますし──以下引用者略」──原文のまま。また、四月二十九日付書簡には次のように記されている。「この第十一中隊の突撃は�只今から第十一中隊は突撃します�という伝令が本部に来て、間もなく�突撃、突込め�という号令の叫び声があがって�わあ�という喊声があがったのである。当時連隊本部の位置は第一線のすぐ近くにあった。」──原文のまま。�突撃、突込め�という号令は、�突撃に進め、突っ込め�を滝沢氏が簡略化したものと思われるが、夜襲に白昼のような号令は用いないのが普通である。滝沢氏の書簡の通りであったとすれば、理解に苦しむとしか言いようがない。)
午後十一時二十五分ごろ、米軍の砲撃が開始された。弾着は連隊主力の進出路を正確に覆った。立っている者は吹き飛ばされ、側方に退避した者はジャングルの闇夜に方向を失った。
砲撃の僅かの間隙を縫って第一線に到着した連隊長古宮大佐に続行し得たものは、連隊本部と軍旗中隊だけであった。
既に夜明けが近かった。連隊長が黎明に強襲する決心をしたところへ、ジャングル内を踏み迷った第十中隊が到着した。連隊長は、第三大隊長に第三中隊と第十中隊を指揮させ、負傷しながら敵線を突破して帰還した第十一中隊長の意見具申を容れ、火力に依る制圧を図るため、第三機関銃中隊に掩護射撃を命じた。
四挺の機関銃と一門の自動砲が敵弾をくぐって射撃位置につき、その射撃開始と同時に、第三大隊主力は右火点右側鉄条網に向って殺到した。四箱二四〇〇発の携行弾薬は忽ち射ち尽した。敵の射ち返しは無尽蔵かと思えた。敵の弾幕が密集して、草原を走る第三大隊主力を完全に覆った。弾丸を射ち尽した機関銃中隊も帯剣を抜いて突撃に移った。
折からようやく林縁まで進出し得た第二大隊長に、古宮連隊長は第二大隊主力を至急とりまとめて追及するよう命じ、連隊長自身は軍旗中隊と第七中隊を率いて、敵火力が第三大隊正面に集中している隙を捉え、右火点左方の工兵小隊が作った破壊口から一挙に敵陣に突入して行った。
連隊長突人後約三十分たっても、敵の集中弾幕に遮られて第二大隊主力は半数ほどしか集まらなかった。既に午前四時ごろになっていた。ジャングルは白々と明け、敵火点群からの射撃は一段と激しさを増し、日本軍の正面は弾幕をもって厚い壁が出来ているようであった。
第二大隊長は第六中隊、第二機関銃中隊、第五中隊を指揮して突撃に移ろうとしたが、天明後の敵火力は激しさと精確さを増し、損害続出、遂に林端に釘づけになった。
午前五時半(二十五日)、第二大隊長と第五中隊長は左翼隊司令部に出頭して状況を報告するよう命ぜられた。
左翼隊はとりあえず後方ジャングル内に部隊を集結して、再度の夜襲を準備することになった、というのである。(前掲滝沢氏書簡によれば、前記した四挺の機関銃と一門の自動砲が射撃位置についたというところでは、自動砲は到着していなかったそうである。また機関銃に関しては「弾丸は四箱二、四〇〇発携行していたが、射ったのはその半分だけである。」─原文のまま──とある。)
以上が歩兵第二十九連隊第十一中隊長の回想による戦況である。この回想によって明らかなことは、彼我の火力が比較を絶しているということ、敵が濃密な火力をもって覆っている火制地帯は、如何に勇敢な肉薄攻撃をもってしても突破出来ないということ、日本軍は突撃に移行する前に既に疲労困憊していたこと、つまり周到な準備をする時間をまたしても持ち得なかったということなどである。
他方、第十七軍司令官は、コリ支隊に対して、二十六日朝までにコリ岬付近に強行上陸し、東川河口付近に兵力を集結して第二師団の指揮下に入るよう命令し、同時にまた、第三十八師団長に対して、歩兵第二百二十八連隊(第一大隊欠)と三十八師団通信隊の一分隊を、海軍艦艇によって迅速にガダルカナルに前進、コリ岬付近に上陸すること、また、歩兵第二百三十連隊第二大隊をタサファロングに強行上陸させるよう、命令した。
これもまた、兵力の逐次投入の|誹《そし》りを免がれないであろう。
二十四日の総攻撃が失敗したころ、第三十八歩兵団司令部と第二百二十八連隊(第一大隊欠)及びコリ支隊(歩二百二十八連隊第一大隊基幹)はブインで待機、第三十八師団司令部と歩兵第二百三十連隊の第二大隊はラバウルに位置していた。
右の兵力のガダルカナル投入は、第二師団の機動開始以前に決定されていながら、第二師団の攻撃開始時機に即応出来るようには部署されていないのである。
十月二十日の参謀総長の上奏には、次のような陸軍の考え方が盛られていた。
「第十七軍ハ『ガ』島ノ敵ニ対シ必勝ヲ期スルタメ 第二師団ノ外第三十八師団ノ大部ヲモ同方面ニ使用スル計画テアル 然ルニ第十七軍ハ『ソロモン』群島奪回ノ外ニ 東部『ニューギニア』攻略ノ任務ヲモ有スルヲ以テ之カ為ノ所要兵力ノ大部ハ『ソロモン』方面ニ使用セル兵力ノ転用ニ期待スルコトナク 速同作戦ヲ実施シ得ルヤウニスルヲ至当トスルヲ以テ 目下広東ニ集結中ノ第五十一師団ヲ第十七軍ニ増加スルヲ適当トス(以下略)」
ガダルカナルに限っていえば、一木支隊の投入で足りると考えながら、川口支隊の投入を用意し、川口支隊の攻撃前には第二師団主力をモレスビー作戦に充当を予定し、川口支隊の失敗をみると、第二師団のガ島投入に転換し、代りにモレスビーに三十八師団の充当を計画し、第二師団の攻撃が不首尾に終ると、今度はまた第三十八師団のガ島投入を部署し、ニューギニアに対しては第五十一師団を充当することにした。臨機応変といえば聞えはいいが、用兵計画が三転四転したのである。
十七軍司令官からガ島への進出を命ぜられた第三十八師団は、まだ集結し終っていなかった。第三十八師団の第二梯団(山砲兵第三十八連隊、工兵第三十八連隊)は、十月十九日、ラバウルに入港したばかりであったし、第三梯団(歩兵第二百二十九連隊、山砲一大隊)はスマトラからラバウルヘ向けて航行中であった。
歴史に「もし」はあり得ないが、第二師団の攻撃時に、もし、第三十八師団の全力が増加されていたら、ガ島戦のみに限って言えば、異った結果が見られたかもしれない。
二十四日夜の戦闘経過に関しては、左翼隊の左第一線大隊の尖兵中隊(歩兵第二十九連隊第三大隊第十一中隊)として米軍陣地の鉄条網に衝突し交戦した中隊長勝股治郎大尉の回想が、具体的で臨場感に満ちているので、引用または要約してみる。(戦史室前掲書より)
二十四日午後十時半ごろ、尖兵中隊がジャングル内を前進していると、路上斥候(兵長以下五名)が鉄条網に衝き当り、前方から小銃の射撃を受けた。
鉄条網は林端から二〇メートルほど離れた草地にあった。尖兵長が銃声を聞いて、林端まで出ると、右前方から機関銃の射撃がはじまった。間もなく、左前方からも機関銃が射ちだした。尖兵長は草地の縦深は一〇〇メートル程度と判断した。銃火を浴びながら躍進することは到底出来ない深さである。機銃掃射が林端にまで及んできたので、尖兵はジャングル内に若干後退した。
尖兵中隊長、大隊長、大隊副官、配属工兵小隊長が林縁に急行した。機関銃は草原一帯を掃射していた。工兵は特火点攻撃用の資材を持っていなかった。(何故特火点攻撃の準備がなかったのか、判断に苦しむところである。)夜襲の企図秘匿の見地から、一切の射撃は禁止されていた。敵砲兵の射撃がはじまらないうちに、火点の間隙を強行突破しようという大隊副官の案が採用された。(前掲滝沢氏の書簡によれば、工兵隊は爆破用資材は携行していたそうである。──工兵第二連隊上遠野武雄軍曹の証言)
第一小隊は右火点を右方から迂回突入、中隊主力は右から第三、第二小隊を並列、両火点の間隙を突進する。工兵小隊は各小隊前面の鉄条網に隠密作業で破壊口を開設するという部署が採られた。
午後十時四十五分、中隊は攻撃隊形を整えて、前進を開始した。視界は約一〇メートル。草は短く、三〇センチ前後で、地形は大体平坦であった。
米軍の機銃射撃が何故か|熄《や》んだ。中隊は十数メートル草原内に躍進して、全員伏姿で突入の機を窺った。物音は絶えていた。
暫くすると、極度の疲労と緊張のため錯覚を起こしたのか、あるいは何か幻影でも見たのか、中隊主力がいきなりむくむくと立ち上り、斜左の方へ歩き出した。(戦闘時の緊張と疲労とで戦場心理が異状を来すことは、わからないではないが、指揮官の掌握下にある部隊の行動としては、ほとんど理解しかねる。これが、つづいて、次の信じ難い行動へつながるのである。)
誰か敵影でも見たのであろうか、「わあ」と|喊声《かんせい》が湧き上った。中隊長の制止に先頭は黙ったが、後方の者たちはわからず、前に習って喊声をあげた。(隠密を必要とする夜襲である。先に記したように、一切の射撃を禁止されていた夜襲である。隠密裡に肉薄し、一斉に殺到してこそ夜襲の効果がある。夜襲に喊声をあげることなど、当時の軍事教練を受けた者には到底信じられない愚行である。未教育補充兵ばかりをいきなり戦闘に投入したわけではないであろう。)
果然、敵機関銃は喊声へ向けて猛射を開始した。
中隊は突撃発起した。それとほとんど同時に、陣前の地雷が連続爆発して、右第二小隊の前半部は瞬間に吹き飛んだ。
中隊は幅の広い屋根型鉄条網に直ぐ衝突した。側防火器が左右から乱射してくる。極度の疲労と空腹で意識さえ朦朧となって、文字通りよろよろと突撃に移行した将兵は、鉄条網と側防火器に前進を阻まれた。
中隊長以下四名だけが鉄条網を乗り越えて、右火点の側面へ進入したが、中隊主力は鉄条網の前後で潰滅した。二十四日午後十一時ごろのことである。
十一中隊に続行していた第九中隊は、十一中隊の突入地点からかなり左に寄って、十時十五分ごろ突撃を開始したが、これがまたしても喊声をあげて、米軍の機銃火の集中を招き、鉄条網の手前でほとんどが斃れた。(歩二十九が夜襲の訓練をしていなかったとは思えないのに、理解し難いことである。先の十一中隊の突撃に関して、前掲滝沢氏の書簡──五十五年四月十二日付──には次のように書かれている。「この勝股大尉は二十四日夜自ら『カン声』をあげて突撃を命じている。しかも同大尉は二十五日午前七時ごろ、無断で戦場を離脱して後方に退ったのであります。これは小生が目撃していますし──以下引用者略」──原文のまま。また、四月二十九日付書簡には次のように記されている。「この第十一中隊の突撃は�只今から第十一中隊は突撃します�という伝令が本部に来て、間もなく�突撃、突込め�という号令の叫び声があがって�わあ�という喊声があがったのである。当時連隊本部の位置は第一線のすぐ近くにあった。」──原文のまま。�突撃、突込め�という号令は、�突撃に進め、突っ込め�を滝沢氏が簡略化したものと思われるが、夜襲に白昼のような号令は用いないのが普通である。滝沢氏の書簡の通りであったとすれば、理解に苦しむとしか言いようがない。)
午後十一時二十五分ごろ、米軍の砲撃が開始された。弾着は連隊主力の進出路を正確に覆った。立っている者は吹き飛ばされ、側方に退避した者はジャングルの闇夜に方向を失った。
砲撃の僅かの間隙を縫って第一線に到着した連隊長古宮大佐に続行し得たものは、連隊本部と軍旗中隊だけであった。
既に夜明けが近かった。連隊長が黎明に強襲する決心をしたところへ、ジャングル内を踏み迷った第十中隊が到着した。連隊長は、第三大隊長に第三中隊と第十中隊を指揮させ、負傷しながら敵線を突破して帰還した第十一中隊長の意見具申を容れ、火力に依る制圧を図るため、第三機関銃中隊に掩護射撃を命じた。
四挺の機関銃と一門の自動砲が敵弾をくぐって射撃位置につき、その射撃開始と同時に、第三大隊主力は右火点右側鉄条網に向って殺到した。四箱二四〇〇発の携行弾薬は忽ち射ち尽した。敵の射ち返しは無尽蔵かと思えた。敵の弾幕が密集して、草原を走る第三大隊主力を完全に覆った。弾丸を射ち尽した機関銃中隊も帯剣を抜いて突撃に移った。
折からようやく林縁まで進出し得た第二大隊長に、古宮連隊長は第二大隊主力を至急とりまとめて追及するよう命じ、連隊長自身は軍旗中隊と第七中隊を率いて、敵火力が第三大隊正面に集中している隙を捉え、右火点左方の工兵小隊が作った破壊口から一挙に敵陣に突入して行った。
連隊長突人後約三十分たっても、敵の集中弾幕に遮られて第二大隊主力は半数ほどしか集まらなかった。既に午前四時ごろになっていた。ジャングルは白々と明け、敵火点群からの射撃は一段と激しさを増し、日本軍の正面は弾幕をもって厚い壁が出来ているようであった。
第二大隊長は第六中隊、第二機関銃中隊、第五中隊を指揮して突撃に移ろうとしたが、天明後の敵火力は激しさと精確さを増し、損害続出、遂に林端に釘づけになった。
午前五時半(二十五日)、第二大隊長と第五中隊長は左翼隊司令部に出頭して状況を報告するよう命ぜられた。
左翼隊はとりあえず後方ジャングル内に部隊を集結して、再度の夜襲を準備することになった、というのである。(前掲滝沢氏書簡によれば、前記した四挺の機関銃と一門の自動砲が射撃位置についたというところでは、自動砲は到着していなかったそうである。また機関銃に関しては「弾丸は四箱二、四〇〇発携行していたが、射ったのはその半分だけである。」─原文のまま──とある。)
以上が歩兵第二十九連隊第十一中隊長の回想による戦況である。この回想によって明らかなことは、彼我の火力が比較を絶しているということ、敵が濃密な火力をもって覆っている火制地帯は、如何に勇敢な肉薄攻撃をもってしても突破出来ないということ、日本軍は突撃に移行する前に既に疲労困憊していたこと、つまり周到な準備をする時間をまたしても持ち得なかったということなどである。