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ガダルカナル44

时间: 2020-07-30    进入日语论坛
核心提示:44 十月二十五日、右翼隊は態勢を整えてその夜の攻撃の準備をしていた。右翼隊がその日与えられた任務は、新飛行場(ルンガ飛行
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 十月二十五日、右翼隊は態勢を整えてその夜の攻撃の準備をしていた。右翼隊がその日与えられた任務は、新飛行場(ルンガ飛行場の東方約一五〇〇メートル、中川東岸に近く米軍が新たに設けたもの)を攻略したのち、飛行場北側林縁の敵陣を奪取して、海岸線に進出することである。
右翼隊は右側方から米軍の激しい射撃を受けたので、第二線攻撃部隊の歩兵第百二十四連隊第三大隊(元の川口支隊第三大隊)を右側面警戒に配置した。
午後になると、米軍が右側方から日本車を包囲しようとしているらしい、という報告が入ったという(戦史室前掲書)。何処から入ったか、どれだけ確度のある報告であったか、わからない。右翼隊長は左第一線に充当していた歩兵第二百三十連隊第三大隊を右側に移動させ、側方掩護の態勢をとった。しかし、米側の資料に見る限りでは、日本軍の右翼を包囲しようとした企図は見出せない。第七海兵隊第一大隊正面に、二十四日夜、中川正面の第百六十四連隊から予備隊の第三大隊を増加したにとどまっている。
右翼隊に入ったという報告と、それに対応しての右翼隊の兵力の移動配置を納得させるに足る資料が見出せないので、右翼隊がこの二十五日夜の攻撃再行を中止しなければならなかった経緯も判然しない。歩兵第二百三十連隊は突入しようとしたとき、右側背に約二個大隊の敵の逆襲を受ける態勢となったため、突入し得なかった、という記録もあるが、前後の脈絡が不整で、|信憑性《しんぴようせい》に欠けるところがある。
師団戦闘司令所と右翼隊との電話連絡がついたのは、夜半であった。師団長は右翼隊の措置を認可して、左翼隊の右側方を掩護する任務を与えたというから、攻撃中止を余儀なくするだけの状況が、右翼隊正面にか右側方にか、あることはあったのであろう。
 左翼隊は、二十五日夜、師団予備から新しく増加された歩兵第十六連隊及び工兵第二連隊主力を右翼に増加し、重点を正面に保持、左翼隊長那須少将自ら陣頭に立って夜襲を行なった。
那須少将は、歩兵第二十九連隊長古宮大佐以下一部の兵力が、前夜敵陣に突入したまま孤立し、その後の状況が不明なので、非常に焦慮していた。
左翼隊正面の米軍は前夜よりさらに火力の激しさを増していた。歩二十九では、第一大隊が密林内で集中火を蒙り、敵の第一線に接触し得たのは二十六日の午前三時半ごろになっていた。熾烈な火網に遮られ、死傷続出し、天明とともに突撃は頓挫した。第二大隊の夜襲地点は飛行場に通ずる本道に沿っていたため、突入開始と同時に敵の猛火に覆われ、まず大隊長鉄条網内で戦死、つづいて第一線中隊の幹部以下ほとんど死傷、これもまた突撃頓挫した。
午前二時ごろ、歩兵第十六連隊の一部が鉄条網を破壊して、敵陣地に突入したが、天明までにその陣地の縦深を突破することが出来なかった。
天明に及ぶと、米軍の自動火器、迫撃砲等の火力は激烈をきわめ、左翼隊全線にわたって死傷続出、攻撃は再び失敗に終った。
この夜襲で、左陣隊長那須少将は重傷を負い、のち死亡、歩兵第十六連隊長広安大佐は戦死した。前日の夜襲で敵陣内に突入した歩兵第二十九連隊長古宮大佐以下の消息は依然として不明であった。
各隊、大隊長以下各級幹部の大半が負傷もしくは戦死した。
歩二十九を例にとると、十月二十四日夜から二十六日朝までの損害は、戦闘参加人員二五五四名に対して、戦死五五二名、戦傷四七九名、生死不明一名で、損耗率四三%であった。将校の場合は、総数一〇一に対して、戦死三三、戦傷一六、不明一で、損耗率は全体平均よりかなり高い。(『歩兵第二十九連隊戦闘詳報』)
第二師団戦闘司令所は左翼隊の夜襲成果を待っていた。報告は来なかった。後夜半になって、田口参謀を左翼隊の状況視察に派遣した。同参謀は黎明前左翼隊の位置に達し、二十六日中に敵陣突破を完成することは所詮不可能と観察し、師団戦闘司令所に電話報告した。
この時点で、第二師団長の手裡には予備兵力が一兵もなく、如何なる手も打ちようがなかった。糧秣も、いつものことながら、追送の方法がなく、切れていた。
周到な準備をして、正面から力攻するはずであった第二師団の総攻撃は、既述の通り、重資材、弾薬、糧秣等の輸送及び揚陸を計画通りに遂行し得ず、その結果密林迂回の奇道に成功を求めざるを得なくなり、夜襲実施失敗の時点で実質的には既に破局を迎えていたのである。
二十六日早朝、第二師団長は、第十七軍戦闘司令所に天明迄の攻撃頓挫の状況を報告した。作戦間第二師団へ派遣されていた辻参謀も、損耗多大な上に疲労困憊している師団の現兵力をもって、敵陣突破を図ることは不可能と判断し、軍戦闘司令所へ攻撃中止を意見具申した。
一方、助攻正面である住吉支隊方面では、十月二十三日から二十六日までマタニカウ川右岸陣地を攻略しようとして、一部では、たとえば岡部隊は「ネコ」「シシ」高地陣地を攻撃し、一部を奪取したが、戦力の懸隔が著しく、ルンガ方向への突進は敵火力によって阻まれ、支隊全般に攻撃は停頓した。
コリ支隊は、二十四日夜の「バンザイ」受信後、その誤報であった旨を受信したので、コリ上陸を取り止め、ショートランドに帰還していた。
百武第十七軍司令官は、諸般の状況を綜合して、十月二十六日午前六時、攻撃中止の命令を下した。
 既に見てきた通り、十七軍のガダルカナル攻撃では、航空部隊による攻撃や海軍の艦砲射撃を陸戦に統合して最大効果をあげるという現代的着想に欠けていた。夜襲突入の時刻に確信を持てない状況であったから、友軍の砲爆撃によって損害を生ずることを懸念しなければならない事情もあったのであろう。
海軍側は、連合艦隊主力が支援部隊となって、これを前進部隊(第二艦隊)、機動部隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳の三空母を中核とする第三艦隊)、前衛(第三艦隊司令長官の指揮下にある第一戦隊以下三個の戦隊と二個の駆逐隊)に区分し、ソロモン諸島の東方海域で、十七軍のガダルカナル攻撃に策応するべく行動していた。
これらの日本艦隊がガダルカナルに近接するのを阻止するために、サンタクルーズ諸島方面に米機動部隊が進出して来て、両者の間で海戦が勃発した。この海戦は、十七軍の総攻撃の失敗が明らかとなった十月二十六日黎明時から、同日夜にかけて行なわれた南太平洋海戦と呼ばれるものである。
ガダルカナル近海へ向けて南下中の機動部隊は、二十五日午前零時二十分、飛行場占領の誤報(既述の「バンザイ」電)に接し、午前三時、所定の計画に基づいて索敵機を発進させ、南下をつづけた。
午前五時になって、飛行場占領は誤報であることがわかり、機動部隊本隊は反転北上し、前衛は南下を継続、本隊との距離を開いた。
午前七時四十分、機動部隊本隊は敵飛行艇に接触され、零戦が追撃したが捕捉出来なかった。前衛の方は、それより前、午前七時八分に敵飛行艇に接触されていることを報じていた。
機動部隊指揮官は、午前八時五分、前衛にも反転北上し索敵機を収容するよう下令した。敵信を傍受したところによると、午前八時十五分ごろには、敵飛行艇は日本海軍機動部隊の全容を発見報告したようであった。
昼過ぎ、B17六機が前衛に来襲、戦艦霧島を爆撃したが、被害はなかった。
これより前、午前十一時十五分、基地航空部隊の哨戒機は、レンネル島の東約三〇浬に、戦艦二、巡洋艦一二隻から成る敵大部隊が北上中であることを発見、報告した。支援部隊指揮官(近藤中将)は、十一時三十分、なし得ればこの敵を攻撃するよう機動部隊に下令したが、機動部隊指揮官(南雲中将)は「本日攻撃ノ見込ナシ」と回答して、攻撃を行なわなかった。機動部隊から敵までの距離は三四〇浬あって、遠いことも遠かったが、敵空母の出現は必至と思われる情況下で、空母以外の敵に対して攻撃隊を発進させることは危険であると第三艦隊司令部は判断したのにちがいない。
北上をつづけていた機動部隊は、二十五日午後四時、再び反転南下し、翌日の索敵機発進予定地点へ向った。
午後九時半ごろ、敵信傍受によって、敵機が夜の月明を利用して接触しているのを感知したが、第三艦隊司令部では、それが本隊に接触を保っているのか、前衛に接触中であるのか、判別出来なかった。
機動部隊は南下中、敵の哨戒機の行動や、味方基地航空部隊の索敵状況等から、米機動部隊が進路の東方にいるのではないかと懸念して、やや西寄りに航路を保っていた。機動部隊の本隊と前衛の距離は五〇乃至六〇浬、前進部隊(第二艦隊)は機動部隊の西方一〇〇乃至一二〇浬付近を行動中であった。
十月二十六日午前零時五十分、機動部隊本隊の空母瑞鶴が突如爆撃された。月明下、高度約一〇〇〇メートルから投弾され、右舷約三〇〇メートルの海面に四発弾着したので、本隊が接触されていたことが、はじめてわかった。被害はなかったが、このまま南下をつづければ危険な状況に陥る虞れがあるとして、二十六日午前一時三十分、二四ノットで反転北上した。
機動部隊は北上しながら、黎明二段索敵を行なった。前衛から水偵七機が二十六日午前二時十五分に、本隊から艦攻十三機が午前二時四十五分に発進した。
午前四時五十分、翔鶴索敵機から入電した。
「敵大部隊見ユ 地点八度二二分南 一六六度四二分東 空母一 他一五 空母ハサラトガ」
実際には、この索敵機は、午前四時十二分にこの敵の大部隊を太陽方向に発見していたが、視認不良であったので北方に迂回して確認した後、四時五十分になってはじめて第一報を発信した。もし最初の発見時に発信出来ていたら、戦局の展開は一層有利であったであろう。(戦史室前掲『海軍作戦』(2))
第一次攻撃隊は、二十六日午前五時二十五分(ガ島陸上では第二師団の夜襲失敗が既に確認されていたころ)、翔鶴、瑞鶴、瑞鳳の三艦から甲板待機中の零戦二一機(翔鶴四、瑞鶴八、瑞鳳九)、艦爆二一機(瑞鶴──爆装)、艦攻二〇機(翔鶴──雷装)計六二機が発進した。指揮官は翔鶴飛行隊長村田重治少佐であった。
ほぼ同じころ、米機動部隊の索敵機も日本海軍機動部隊を発見して、午前五時三十分から六時十五分の間に三次に亘る攻撃隊を発進させている。
村田少佐指揮する第一次攻撃隊は、午前六時三十分、敵艦爆一五機とすれちがったが、戦闘横隊指揮官がこれに気づかず、行き違ったままになった。後に、七時二十分前後、翔鶴を襲った艦爆隊は、この敵機群と思われる。
第一次攻撃隊は、さらに、午前六時四十分、敵戦闘機六、艦爆八と遭遇し、瑞鳳零戦隊九機がこれを攻撃、敵の全機を撃墜したが、機銃弾を射耗したので進撃を断念、母艦に帰投した。この空戦によって、瑞鳳零戦隊は二機自爆、二機行方不明、一機被弾大破の損害を出したから、帰投後使用に耐えるのは四機だけである。
午前六時五十五分、攻撃隊は航行中の敵第一集団を発見した。空母ホーネット、重巡二隻、防空巡洋艦二、駆逐艦六から成る大部隊である。
このホーネット隊の北西一〇浬に同様の輪型陣のエンタープライズ隊があったが、午前七時ごろスコールの中に入って、見えなかった。
ホーネット隊は上空に約三〇機の戦闘機を配備していた。攻撃隊は、午前七時十分、艦爆隊の空母に対する急降下爆撃から攻撃を開始した。艦爆隊の先頭中隊は敵戦闘機との交戦で隊形が乱れ、後続の第二中隊が先に突入し、艦攻隊はその途中敵空母の両側から雷撃を敢行した。
ホーネット隊の防禦砲火は熾烈をきわめ、輪型陣を成している全艦が一斉に回避運動をしつつ、砲火の指向が統一指揮されているかのようであった。
攻撃隊は敵空母に二五〇キロ爆弾六発以上、魚雷二本を命中させ、艦攻一機は魚雷装着のまま敵駆逐艦に突入自爆し、これを撃沈、艦爆一機は損傷を受けて駆逐艦に激突自爆した。
攻撃隊は、午前九時四十分から十一時三十分までの間に、空母瑞鶴または隼鷹(前進部隊配属の第二航空戦隊)に帰投した。損失は零戦九、艦爆一七、艦攻一七であった。
敵母艦からの攻撃は、午前四時五十二分ごろ、わが機動部隊本隊の視界に敵艦上機群が入ったが、雲間に出没して捕捉困難であった。
午前五時四十五分、二機の艦爆が突如として瑞鳳めがけて急降下した。一弾が後部を直撃、発着甲板に直径一五メートルもの穴をあけ、火災を起こしたが、火災の方は間もなく鎮火した。
瑞鳳は、しかし、着発艦が不能となったので、戦場を離脱してトラック島へ向けて北上退避した。
第二次攻撃隊は、翔鶴隊(零戦五、艦爆一九)が午前六時十分、瑞鶴隊(零戦四、艦攻一六)が六時四十五分発進した。この第二次攻撃隊は第一次が攻撃した空母の北方約二〇浬にいた別の空母と戦艦(サウスダコタ型)を攻撃した。
結果は、敵空母に魚雷二本以上、戦艦に二本以上、重巡に一本を命中させ、空母は大破して速力が落ち、戦艦は間もなく沈没、重巡も大破した、と報じた。第二次攻撃隊の損害は、自爆、不時着を含めて、戦闘機二、艦爆一二、艦攻一〇であった。
機動部隊本隊とは別に、前進部隊本隊に配属されていた二航戦の隼鷹からも、午前七時過ぎの第一次から日没までに三回の攻撃隊が発進している。
空母翔鶴は、午前六時四十分、レーダーで来攻する敵機群を探知した。七時十八分、レーダーの指示方向に、敵艦爆一五機が直掩戦闘機と交戦しつつ接近するのが見られた。直掩戦闘機は、当時、翔鶴一〇、瑞鶴五、計一五機であったという。
敵機群は積乱雲を巧みに利用して突入態勢に入った。午前七時二十七分、急降下。直掩機一機が敵機に激突、空中に飛散した。残りの艦爆一四機が翔鶴を爆撃した。回避運動と対空砲火で、はじめのうちは爆撃の命中弾がなかったが、敵艦爆が高度二〇〇〜三〇〇メートルで艦首方向から侵入投弾するようになってから、避けきれなくなった。四発が中部発着甲板と高角砲台に命中、艦は飛行機の着発不能に陥り、火災を起こした。火災は十二時三十分ごろようやく鎮火した。
先に被爆した瑞鳳は最大速力を出し得る状態にあり、翔鶴も三一ノットの高速を出し得たので、直衛艦を伴って北西方に避退し、敵機の攻撃圏外へ出た。
翔鶴が戦場を離脱するとき、艦長有馬正文大佐は、機動部隊指揮官に翔鶴の現場残留を強く意見具申したという。理由は、翔鶴は傷ついて飛行機の着発は出来ないけれども、無傷の瑞鶴の近くにいれば、敵の攻撃を吸収して瑞鶴を助けることが出来るというのであった。
午後五時三十分、機動部隊指揮官南雲中将は将旗を一時「嵐」に移し、戦場へ引き返した。
傷ついた翔鶴、瑞鳳の両空母は、二隻の駆逐艦に守られてトラック島へ向った。
十月二十七日午後八時三十分、大本営は二十六日の戦果を発表した。
敵空母四隻、戦艦一隻、艦型未詳一隻いずれも撃沈、戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻を中破、敵機二〇〇機以上を撃墜その他により喪失せしめ、我方の損害は空母二隻、巡洋艦一隻中破せるも何れも戦闘航海に支障なく、未帰還機四十数機、というのである。
戦果の誇大発表はいつものことだが、南太平洋海戦に限ってみれば、大本営は大戦果を信じていたようである。
戦後の調査によれば、彼我の損害は左表の通りであった。(戦史室前掲書による)
日本側
(沈没喪失)
艦船   なし
飛行機 一〇〇
(損傷)
空母    二
重巡    一
駆逐艦   二
米国側
(沈没喪失)
空母    一
駆逐艦   一
飛行機  七四
(損傷)
空母    一
戦艦    一
防空巡   一
大勝利とはとても言えない。戦果においてやや優勢であったかもしれないが、日本側はこの海戦で、翔鶴飛行隊長村田重治少佐(艦攻)、同飛行隊長関衛少佐(艦爆)、瑞鶴飛行隊長今宿滋一郎大尉(艦攻)等の翔鶴、瑞鶴の艦攻艦爆隊のかけがえのない主要幹部を失ったし、戦果の確認の不確実もこれら練度の高い幹部の戦死自爆に因るところが大きかったと思われる。
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