右記した海軍側所見のうち、第三項の(イ)、「軍参謀長進出しあらず、幕僚の掌握不良」とあるのは、簡略に過ぎて具体性に乏しいが、現地の軍戦闘司令所とラバウルに在る宮崎参謀長との間が、距離的にも時間的にも噛み合わないことが多かったのは事実である。宮崎参謀長は早くからガ島へ進出しようとしていたが、海軍側がニューギニア作戦の相談相手として宮崎参謀長のラバウル残留を強く求めたことは先に述べた。
二十六日の十七軍司令官の攻撃中止命令以後、第三十八師団をコリ岬方面に揚陸させようとする軍戦闘司令所の意図に対して、軍参謀長は反対であった。反対理由は、コリ方面は揚陸の際の難度が高く、爾後の補給が困難であり、加えて、兵力が西と東に分離するので指揮が困難になるということである。
軍戦闘司令所からは、コリ支隊と第三十八師団を早くコリ岬方面へ輸送するよう、依頼する電報(沖戦参第一一六号)が入って来た。
軍参謀長はガ島への進出を決心し、その準備を急いだ。
十月二十九日午前四時、宮崎参謀長、大前参謀(海軍。この参謀の視察結果によって、前記の連合艦隊参謀長の日記に第二師団攻撃失敗の原因が記された)、堺吉嗣大佐(のちに広安大佐の後任として第十六連隊長となる)の一行は飛行艇でラバウル発、七時ショートランド着、七時三十分駆逐艦時雨に移乗して出港、午後九時ガダルカナルに上陸した。
三十日、朝から軍戦闘司令所で作戦会議が行なわれた。出席者は、宮崎参謀長、大前参謀、小沼、杉田、越次、平岡、山内各参謀であった。
席上、宮崎参謀長の意見は、海軍主力は内地に帰還して整備しなければならないから、海軍は当分弱化して、海上輸送はますます困難となるであろう、したがって、第三十八師団をコリ岬方面に上陸させることは困難であり、今後の攻撃の主目標はルンガ西正面としなければならない、コリ方面の作戦は輸送及び補給の面からみて甚だ不確実である、ということであった。
しかし、高級参謀以下他の参謀は、第三十八師団のコリ方面揚陸を主張して、参謀長案には容易に同意しなかった。
午前九時ごろ、辻参謀が第一線から帰還した。マラリアの高熱を冒して、往きには一週間かかった行程を二日半の強行帰還であったという。第二師団の攻撃とその後の状況を|具《つぶさ》に報告し、「生れて四十年幾度か戦場に立ち此度程の辛苦はなかった」と、その顔色相貌は苦難を物語っていた。(前掲宮崎手記)
宮崎参謀長がコリ問題について意見を求めると、辻参謀は「極めて簡単率直に」変更(コリ揚陸を)する方がいいと答えた。参謀たちの間では一番第一線の状況に明るい辻参謀の意見で、事は忽ち決した。
第三十八師団主力のコリ岬上陸は中止となり、コリ支隊の山砲兵中隊(砲二門)、無線一分隊、歩兵第二百三十連隊の歩兵一中隊(糧秣二〇〇〇人一〇日分)、弾薬(主として山砲及び歩兵砲)を、海軍艦艇によって十一月一日夜コリ付近に揚陸し、歩兵第二百三十連隊長の指揮下に入れることが発令された。
この三十日、朝から、勇川河谷に対する米側の艦砲射撃と飛行機による爆撃が激しかった。敵が攻撃に出て来ることが予感された。
宮崎参謀長は小沼高級参謀、山内参謀に案内されて九〇三高地観測所へ行ったが、ルンガ飛行場が指呼の間に望まれ、直観は「眼前に在る飛行場が取れなくてどうする」という感じであったという。
九〇三に至る沿道では、飢餓に苛まれ疲労困憊した旧一木支隊の残兵の惨状に接し、ガ島に来たばかりの参謀長は「一面同情と共に一面憤慨を禁じ得なかった」(前掲宮崎手記)。歩武堂々としていたはずの精鋭が、餓えた亡者のように変り果てているのが、新来者にはほとんど信じ難いほどの衝撃なのであった。
十一月一日、マタニカウ河畔と勇川河口に近い河谷に対する敵の爆撃と艦砲射撃は|頓《とみ》に激しさを増した。軍戦闘司令所も早朝来二回にわたって爆撃を受け、敵の砲爆撃は計画的組織的なものと判断された。
正午ごろ、司令所は爆撃の近弾で挟撃され、司令所を九〇三高地西南の丸山道に沿う谷地に移した。その移動間の心理は、「沿道ニ眼ニ映スル諸兵痛廃ノ状|転々《うたた》感深シ」であった。(前掲宮崎手記)
夕刻、マタニカウ河畔の第一線は急迫を告げた。司令所は予備兵を一兵も握っていなかった。急遽道路構築隊の数十名、海軍陸戦隊の約一〇〇名を海岸道方面に掻き集めて、対処した。
海岸方面の敵の攻撃は、戦車と多数の火砲を伴った約一個師団以上と判断された。(米側資料によれば、二個連隊)
敵の一部がクルツ岬に上陸し、中熊部隊(歩兵第四連隊)の背後に進出したため、マタニカウ左岸の第一線は崩れはじめた。
軍は、施す術もなく、一木支隊の残兵約六、七十全員罹病伏臥中なのを駆り出し、増援に当て、第一船舶団長に沖川(マタニカウ河口から西へ約三キロ)の線に予備陣地の構築を命じた。
歩兵第四連隊では、この日の戦闘で、第七中隊は長以下十数名、第五中隊は一五名となり、連隊砲中隊は長以下ほとんど戦死傷、砲も破壊された。
第十七軍司令官は発熱臥床中の杉田参謀を第四連隊に派遣し、死守を命じた。
十一月二日、第一線大隊は攻撃を続行する米軍に対して奮戦したが、米軍は次第に兵力を増加し、戦車、装甲車も加わって強襲して来た。兵力火力ともに比較を絶し、敵は陣地の間隙から逐次浸透して、包囲する形勢となった。歩四第一線中隊は、弾薬、糧食全く絶え、肉弾突撃を敢行して玉砕した。
小川(クルツ岬西側)付近に布陣していた独立速射砲第二大隊は、海岸方面から攻撃して来た敵戦車と対戦し、隊長以下全員戦死した。
中熊部隊(歩四)は連日の苦戦で、将兵約五〇〇に減耗、弾薬も尽き、十一月三日、沖川(クルツ岬と勇川の中間)左岸台地に後退した。沖川の線を敵が突破するようなことになれば、そこから西へかけて抵抗線を布く適地がなく、一挙に勇川河口まで敵手に委ねることとなる。そうなれば、第二師団方面に対する補給路は遮断され、タサファロングの揚陸点が直接脅威にさらされることになる。
軍司令部は憂色濃かった。
十一月三日夕、第一線の状況に関して杉田参謀が報告に来たときの情景を、宮崎参謀長は次のように書き記している。(『残骸録』)
「杉田悲愴ノ態度、相貌見ル目モ悲惨、顔面ハ熱ノ為紅潮シ気息奄々トシテ曰ク
�第一線ノ保持危シ、増援諸部隊ハ指揮官ノミ先行、到着セル部隊ハ未タ何レニ在ルヤ不明、中熊部隊長ハ軍旗ヲ捧シテ突撃セントス、如何�ト、予以下各参謀此ヲ聞ク。
辻言下ニ曰ク�決シテ突撃セシムル勿レ、突撃セハ万事了ル�ト。予亦之ニ和シ、兎モ角最後迄隠忍を強調ス。杉田直ニ第一線ニ向ハントス、心身疲労ノ状ハ果シテ能クスルヤ否ヤ疑ハシ、杉田既ニ意中ニ決死ヲ覚悟シアルヲ察ス、蓋シ過般ノ攻撃頓挫ニ方リ責任ノ重大ヲ感シアレハナリ。予ハ幕舎ヨリ携帯口糧一袋ヲ携ヘ来リ、杉田ノ杖ツキテ出発スルヲ見送ル。海岸方面ノ砲声熾ン、将ニ暮色迫ラントス」
二十六日の十七軍司令官の攻撃中止命令以後、第三十八師団をコリ岬方面に揚陸させようとする軍戦闘司令所の意図に対して、軍参謀長は反対であった。反対理由は、コリ方面は揚陸の際の難度が高く、爾後の補給が困難であり、加えて、兵力が西と東に分離するので指揮が困難になるということである。
軍戦闘司令所からは、コリ支隊と第三十八師団を早くコリ岬方面へ輸送するよう、依頼する電報(沖戦参第一一六号)が入って来た。
軍参謀長はガ島への進出を決心し、その準備を急いだ。
十月二十九日午前四時、宮崎参謀長、大前参謀(海軍。この参謀の視察結果によって、前記の連合艦隊参謀長の日記に第二師団攻撃失敗の原因が記された)、堺吉嗣大佐(のちに広安大佐の後任として第十六連隊長となる)の一行は飛行艇でラバウル発、七時ショートランド着、七時三十分駆逐艦時雨に移乗して出港、午後九時ガダルカナルに上陸した。
三十日、朝から軍戦闘司令所で作戦会議が行なわれた。出席者は、宮崎参謀長、大前参謀、小沼、杉田、越次、平岡、山内各参謀であった。
席上、宮崎参謀長の意見は、海軍主力は内地に帰還して整備しなければならないから、海軍は当分弱化して、海上輸送はますます困難となるであろう、したがって、第三十八師団をコリ岬方面に上陸させることは困難であり、今後の攻撃の主目標はルンガ西正面としなければならない、コリ方面の作戦は輸送及び補給の面からみて甚だ不確実である、ということであった。
しかし、高級参謀以下他の参謀は、第三十八師団のコリ方面揚陸を主張して、参謀長案には容易に同意しなかった。
午前九時ごろ、辻参謀が第一線から帰還した。マラリアの高熱を冒して、往きには一週間かかった行程を二日半の強行帰還であったという。第二師団の攻撃とその後の状況を|具《つぶさ》に報告し、「生れて四十年幾度か戦場に立ち此度程の辛苦はなかった」と、その顔色相貌は苦難を物語っていた。(前掲宮崎手記)
宮崎参謀長がコリ問題について意見を求めると、辻参謀は「極めて簡単率直に」変更(コリ揚陸を)する方がいいと答えた。参謀たちの間では一番第一線の状況に明るい辻参謀の意見で、事は忽ち決した。
第三十八師団主力のコリ岬上陸は中止となり、コリ支隊の山砲兵中隊(砲二門)、無線一分隊、歩兵第二百三十連隊の歩兵一中隊(糧秣二〇〇〇人一〇日分)、弾薬(主として山砲及び歩兵砲)を、海軍艦艇によって十一月一日夜コリ付近に揚陸し、歩兵第二百三十連隊長の指揮下に入れることが発令された。
この三十日、朝から、勇川河谷に対する米側の艦砲射撃と飛行機による爆撃が激しかった。敵が攻撃に出て来ることが予感された。
宮崎参謀長は小沼高級参謀、山内参謀に案内されて九〇三高地観測所へ行ったが、ルンガ飛行場が指呼の間に望まれ、直観は「眼前に在る飛行場が取れなくてどうする」という感じであったという。
九〇三に至る沿道では、飢餓に苛まれ疲労困憊した旧一木支隊の残兵の惨状に接し、ガ島に来たばかりの参謀長は「一面同情と共に一面憤慨を禁じ得なかった」(前掲宮崎手記)。歩武堂々としていたはずの精鋭が、餓えた亡者のように変り果てているのが、新来者にはほとんど信じ難いほどの衝撃なのであった。
十一月一日、マタニカウ河畔と勇川河口に近い河谷に対する敵の爆撃と艦砲射撃は|頓《とみ》に激しさを増した。軍戦闘司令所も早朝来二回にわたって爆撃を受け、敵の砲爆撃は計画的組織的なものと判断された。
正午ごろ、司令所は爆撃の近弾で挟撃され、司令所を九〇三高地西南の丸山道に沿う谷地に移した。その移動間の心理は、「沿道ニ眼ニ映スル諸兵痛廃ノ状|転々《うたた》感深シ」であった。(前掲宮崎手記)
夕刻、マタニカウ河畔の第一線は急迫を告げた。司令所は予備兵を一兵も握っていなかった。急遽道路構築隊の数十名、海軍陸戦隊の約一〇〇名を海岸道方面に掻き集めて、対処した。
海岸方面の敵の攻撃は、戦車と多数の火砲を伴った約一個師団以上と判断された。(米側資料によれば、二個連隊)
敵の一部がクルツ岬に上陸し、中熊部隊(歩兵第四連隊)の背後に進出したため、マタニカウ左岸の第一線は崩れはじめた。
軍は、施す術もなく、一木支隊の残兵約六、七十全員罹病伏臥中なのを駆り出し、増援に当て、第一船舶団長に沖川(マタニカウ河口から西へ約三キロ)の線に予備陣地の構築を命じた。
歩兵第四連隊では、この日の戦闘で、第七中隊は長以下十数名、第五中隊は一五名となり、連隊砲中隊は長以下ほとんど戦死傷、砲も破壊された。
第十七軍司令官は発熱臥床中の杉田参謀を第四連隊に派遣し、死守を命じた。
十一月二日、第一線大隊は攻撃を続行する米軍に対して奮戦したが、米軍は次第に兵力を増加し、戦車、装甲車も加わって強襲して来た。兵力火力ともに比較を絶し、敵は陣地の間隙から逐次浸透して、包囲する形勢となった。歩四第一線中隊は、弾薬、糧食全く絶え、肉弾突撃を敢行して玉砕した。
小川(クルツ岬西側)付近に布陣していた独立速射砲第二大隊は、海岸方面から攻撃して来た敵戦車と対戦し、隊長以下全員戦死した。
中熊部隊(歩四)は連日の苦戦で、将兵約五〇〇に減耗、弾薬も尽き、十一月三日、沖川(クルツ岬と勇川の中間)左岸台地に後退した。沖川の線を敵が突破するようなことになれば、そこから西へかけて抵抗線を布く適地がなく、一挙に勇川河口まで敵手に委ねることとなる。そうなれば、第二師団方面に対する補給路は遮断され、タサファロングの揚陸点が直接脅威にさらされることになる。
軍司令部は憂色濃かった。
十一月三日夕、第一線の状況に関して杉田参謀が報告に来たときの情景を、宮崎参謀長は次のように書き記している。(『残骸録』)
「杉田悲愴ノ態度、相貌見ル目モ悲惨、顔面ハ熱ノ為紅潮シ気息奄々トシテ曰ク
�第一線ノ保持危シ、増援諸部隊ハ指揮官ノミ先行、到着セル部隊ハ未タ何レニ在ルヤ不明、中熊部隊長ハ軍旗ヲ捧シテ突撃セントス、如何�ト、予以下各参謀此ヲ聞ク。
辻言下ニ曰ク�決シテ突撃セシムル勿レ、突撃セハ万事了ル�ト。予亦之ニ和シ、兎モ角最後迄隠忍を強調ス。杉田直ニ第一線ニ向ハントス、心身疲労ノ状ハ果シテ能クスルヤ否ヤ疑ハシ、杉田既ニ意中ニ決死ヲ覚悟シアルヲ察ス、蓋シ過般ノ攻撃頓挫ニ方リ責任ノ重大ヲ感シアレハナリ。予ハ幕舎ヨリ携帯口糧一袋ヲ携ヘ来リ、杉田ノ杖ツキテ出発スルヲ見送ル。海岸方面ノ砲声熾ン、将ニ暮色迫ラントス」
大本営陸軍部第二(作戦)課長服部卓四郎大佐は近藤少佐を伴って、十一月二日夜駆逐艦でタサファロングに上陸、三日朝、九〇三高地西麓の軍戦闘司令所に到着した。当時は海岸方面の戦況が急を告げている最中で、補給も途絶えがち、司令所での食事も掛盒に平らに一盛りし、副食は塩もない状態であった。
近藤少佐起案の大本営宛第一信は、「戦況逼迫困窮ノ状ハ予想外ニ甚シク 将兵ノ相貌ハ武漢作戦当時ノ第百六師団ノ夫ニ髣髴タルモノアリ」というのであった。
服部大佐の同日の報告電は次の通りである。
「制空権ヲ確保セサル限リ正攻法ノ採用ハ困難ナリ」
「第二師団ノ某大隊ノ如キ一、二時間ノ砲爆撃ヲ以テ潰エタリ」
「一日モ速カニ飛行場ヲ推進シ強力ナル航空兵力ヲ以テ制圧スルノ外ナキ結論ヲ得タリ」
翌四日、宮崎参謀長、服部、小沼、辻、近藤各参謀凝議の上、爾後の作戦指導として、新に混成第二十一旅団(二大隊)を増加し、第三十八師団主力を十一月上旬、第五十一師団を十二月上旬に揚陸し、さらに精強な一連隊(第六師団)を特殊船によって直接ルンガに強行上陸させ、十二月中、下旬に総攻撃を再興する、陸軍飛行隊の進出を促進決定する、攻撃兵団として特に三十八師団の戦力保持に着意する等を決定し、服部大佐は大本営第一部長宛て打電した。
「昨日小官到着後ノ激戦ニ於テ一回モ海軍機ノ協力ナク完全ナル敵ノ制空下ニアリ 航空作戦強化ノ為陸軍航空部隊ノ増加ノ絶対必要ナル前電ノ如シ」
「丸山兵団(第二師団──引用者)ハ次ノ作戦兵力トシテ殆ント胸算シ得サルヲ以テ佐野兵団(第三十八師団──引用者)ノ外ニ更ニ一兵団ヲ直接作戦ノ為 別ニ一兵団ヲ大本営ノ後詰トシテ準備ヲ要スヘシ」
右の通りに実現するしないは別として、大本営の作戦課長が戦場に来てみて、はじめて、本格的用兵──大兵の一挙使用の必要が切実に認識されたらしいのである。ただ、そのときには既に、後述するように、乏しい国力が極度の消耗戦に追いつかなくなっていたのであった。
服部課長は十一月五日午後帰途につき、十一日東京帰還、十二日上司に対して報告、十四日戦況上奏を行なった。その結びの言葉はこうなっている。
「ガダルカナル島ニ関スル限リ、凡テノ条件カ今日迄ハ我ニ不利テアリマシタ。今後異常ノ覚悟ト努力ヲ以テ先ツ敵航空勢力ヲ制圧シ次イテ飽ク迄之カ奪回ヲ策スヘキモノト存シマス」(戦史室前掲書)
同じことが、一木支隊第一梯団全滅の時点では無理だったとしても、川口支隊総攻撃失敗の時点では切実に認識されなければならず、国力に照らして作戦続行の可否が厳密に問われなければならなかったであろう。
近藤少佐起案の大本営宛第一信は、「戦況逼迫困窮ノ状ハ予想外ニ甚シク 将兵ノ相貌ハ武漢作戦当時ノ第百六師団ノ夫ニ髣髴タルモノアリ」というのであった。
服部大佐の同日の報告電は次の通りである。
「制空権ヲ確保セサル限リ正攻法ノ採用ハ困難ナリ」
「第二師団ノ某大隊ノ如キ一、二時間ノ砲爆撃ヲ以テ潰エタリ」
「一日モ速カニ飛行場ヲ推進シ強力ナル航空兵力ヲ以テ制圧スルノ外ナキ結論ヲ得タリ」
翌四日、宮崎参謀長、服部、小沼、辻、近藤各参謀凝議の上、爾後の作戦指導として、新に混成第二十一旅団(二大隊)を増加し、第三十八師団主力を十一月上旬、第五十一師団を十二月上旬に揚陸し、さらに精強な一連隊(第六師団)を特殊船によって直接ルンガに強行上陸させ、十二月中、下旬に総攻撃を再興する、陸軍飛行隊の進出を促進決定する、攻撃兵団として特に三十八師団の戦力保持に着意する等を決定し、服部大佐は大本営第一部長宛て打電した。
「昨日小官到着後ノ激戦ニ於テ一回モ海軍機ノ協力ナク完全ナル敵ノ制空下ニアリ 航空作戦強化ノ為陸軍航空部隊ノ増加ノ絶対必要ナル前電ノ如シ」
「丸山兵団(第二師団──引用者)ハ次ノ作戦兵力トシテ殆ント胸算シ得サルヲ以テ佐野兵団(第三十八師団──引用者)ノ外ニ更ニ一兵団ヲ直接作戦ノ為 別ニ一兵団ヲ大本営ノ後詰トシテ準備ヲ要スヘシ」
右の通りに実現するしないは別として、大本営の作戦課長が戦場に来てみて、はじめて、本格的用兵──大兵の一挙使用の必要が切実に認識されたらしいのである。ただ、そのときには既に、後述するように、乏しい国力が極度の消耗戦に追いつかなくなっていたのであった。
服部課長は十一月五日午後帰途につき、十一日東京帰還、十二日上司に対して報告、十四日戦況上奏を行なった。その結びの言葉はこうなっている。
「ガダルカナル島ニ関スル限リ、凡テノ条件カ今日迄ハ我ニ不利テアリマシタ。今後異常ノ覚悟ト努力ヲ以テ先ツ敵航空勢力ヲ制圧シ次イテ飽ク迄之カ奪回ヲ策スヘキモノト存シマス」(戦史室前掲書)
同じことが、一木支隊第一梯団全滅の時点では無理だったとしても、川口支隊総攻撃失敗の時点では切実に認識されなければならず、国力に照らして作戦続行の可否が厳密に問われなければならなかったであろう。