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ガダルカナル50

时间: 2020-07-30    进入日语论坛
核心提示:50 第三十八師団主力と糧秣弾薬を搭載した輸送船は一一隻であった。これを二つの分隊に区分し第一分隊(長良丸、宏川丸、佐渡丸
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 第三十八師団主力と糧秣弾薬を搭載した輸送船は一一隻であった。これを二つの分隊に区分し第一分隊(長良丸、宏川丸、佐渡丸、かんべら丸、那古丸)はタサファロングに、第二分隊(山月丸、山浦丸、鬼怒川丸、信濃丸、ぶりすべん丸、ありぞな丸)はエスペランスに揚陸する予定になっていた。航路は、往航はソロモン諸島の中央航路、復航は北方航路と定められた。
この船団輸送は、全軍の希望が満たされるか無に帰するかの分岐点であったと言えようから、少々煩雑だが、乗船部隊と搭載軍需品を次に列記する。
歩兵第二百二十九連隊本部
同右第一大隊
歩兵第二百三十連隊第二大隊
工兵第三十八連隊
輜重兵第三十八連隊
第三十八師団衛生隊
第二師団の一部(衛生隊、野戦病院三個)
独立工兵第十九連隊
独立無線第五十三、第八十小隊
第三野戦輸送司令部
独立自動車第二百十二中隊
独立輜重第五十二中隊
第十七防疫給水部
第十七軍司令部の一部(軍司令部各部長)
糧秣 在ガ島兵力三万人の二〇日分
主要弾薬 山砲    七〇〇〇発
十榴    四〇〇〇発
十五榴   三〇〇〇発
十加    一五〇〇発
高射砲 一万五〇〇〇発
その他 歩兵各種弾薬
右のほか、揚陸作業のために、第二船舶団長田辺少将指揮する第二船舶団──司令部、船舶工兵第二連隊、第二揚陸隊──が各船に分乗し、大発七六隻、小発七隻を一一隻の輸送船に分載していた。(戦史室前掲書)
輸送船一一隻を護衛するのは、田中頼三海軍少将指揮する二水戦(駆逐艦一二隻)で、上空掩護は基地航空部隊である。のるかそるかの輸送作戦のときに、またしても連合艦隊の機動部隊は、船団直掩もガ島飛行場制圧にも出動出来なかったのである。
輸送船団一一隻(合計七七、六〇六総トン)は、駆逐艦(増援部隊)一二隻に護衛されて、十一月十二日午前八時、ショートランドを出港して中央航路をガダルカナルに向った。
その途中で、前記の海戦が勃発した。
連合艦隊は十三日午前二時三十分、航行中の増援部隊に電令した。
「揚陸十四日ニ延期、反転セヨ」
船団は、十三日午前三時、コロンバンガラ島(ニュージョージア島西北端に近い小島)の東方で反転し、午前十一時、ショートランドに帰着した。
しかし、十四日夜のガダルカナル揚陸を行なうために、十三日午後三時三十分、再びショートランドを出港した。
十四日午前零時二十四分、船団は、先の鈴谷、摩耶の飛行場砲撃を知って、前途に光明を認め、中央航路を南下した。
十四日は運命の決する日である。夜が明けた。空は概ね快晴、所々に断雲があった。
午前五時四十分、ニュージョージア島東方海域で敵機に発見され、以後二時間にわたって接触をつづけられた。
敵の第一次攻撃は十四日午前五時五十五分、艦爆三機が船団を爆撃したが、被害はなかった。
このころから、先に述べた外南洋部隊主隊と支援隊は、ニュージョージア島南方海域で敵機群に襲われていたのである。
輸送船団は第一次空襲以後、午前午後にわたって延べ一〇〇機以上の敵機の執拗な攻撃を受けた。
基地航空部隊は零戦延べ三六機、R方面航空部隊(十一航艦水上機部隊)が零観一四機をもって船団上空を護ったが、敵機群を阻止しきれなかった。
船団は南進をつづけた。速力は八ノットの鈍足であった。
第二次攻撃 午前七時八分。艦爆二機が来襲したが、被害はなかった。このころ、南西方角遠距離に敵機の大編隊が認められた。船団は最高速度に上げ、駆逐艦全部が煙幕を展張した。この敵機群は外南洋部隊の攻撃に向い、船団の方へは来なかった。(公刊戦史では、船団が最高速度一五ノットとしたとあるが、この船団は速力差が大きかったはずである。たとえば、宏川丸、佐渡丸、かんべら丸などは一六ノットを出せたが、ぶりすべん丸は一〇ノットしか出せなかった。)
第三次攻撃 午前十時五十分、B17八機、戦闘機八機、雷撃機七機、艦爆一七機、計四〇機が、銃撃、爆撃、雷撃を行ない、かんべら丸が火災を起こし、長良丸が浸水して傾斜し、佐渡丸が航行の自由を奪われた。駆逐艦二隻が救助に当り、佐渡丸を護ってショートランドに向った。かんべら丸と長良丸は沈没した。このとき、味方上空直掩機は飛んでいなかった。
第四次攻撃 午後十二時三十分から五十分まで、敵艦爆二四、B17八機が船団を爆撃、ぶりすべん丸が火災を起こして沈没した。このときも上空直掩機は飛んでいなかった。
第五次攻撃 午後一時二十八分、B17八機が船団を爆撃、三十二分、艦爆三機が爆撃に加わった。信濃丸、ありぞな丸が被弾して火災を起こし、駆逐艦二隻が人員を救助した。このときには直掩機が飛んで、敵艦爆を三機とも撃墜したが、船団の被害を免れることは出来なかった。
第六次攻撃 午後二時十分、敵艦爆三機が来襲したが、被害はなかった。哨戒機からの通報で、敵水上部隊が北上中と知って、増援部隊指揮官は船団を一時北西方に反転させた。
第七次攻撃 艦爆一七機が来襲して、那古丸が被爆、火災を起こし、駆逐艦が人員救助に当った。
第八次攻撃 午後三時三十分、艦爆三機来襲、被害はなかった。(八次にわたる被爆状況は戦史室『南東方面海軍作戦』(2)より)
結果として、輸送船六隻が沈没、一隻が航行不能に陥り駆逐艦に嚮導されてショートランドに引き返した。沈没船の乗船者及び乗組員合計四八〇二名は駆逐艦六隻に収容されたが、戦死者も約四五〇名に及んだ。
船団の残るは四隻(鬼怒川丸、宏川丸、山浦丸、山月丸)だけである。この四隻の輸送船は、四隻の駆逐艦に護られて、前進をつづけた。
この四隻、士気は高かったが、待ちかまえている運命に光明はさしていなかった。
 前進部隊主隊が挺身攻撃隊の比叡の被害状況を知ったのは十三日午前になってからであった。前進部隊指揮官(第二艦隊司令長官・近藤信竹中将)は挺身攻撃隊に主隊への合流を命じた。十三日夕刻までに集結補給を終り、第二艦隊を基幹とするガ島攻撃隊を編成して、ルンガ沖の敵水上兵力の掃討と飛行場砲撃を企図した。
ガ島攻撃隊は、十四日午前八時三十四分、掃討隊を主隊の前程七キロに配置して、ガ島へ向けて南下を開始した。このころ、先に述べた外南洋部隊の主隊と支援隊が敵機の攻撃を受け、輸送船団もまた攻撃を受け|危殆《きたい》に瀕しつつあることを知ったのである。
午後二時二十九分、攻撃隊の愛宕は、哨戒機を射出しようとしているときに、右後方から敵潜の魚雷攻撃を受けたが、辛うじて回避した。霧島の直衛として前程を南下中の朝雲も、午後三時三十五分、雷撃されたが事なきを得た。それにしても、ガ島攻撃隊の行動は敵潜によって察知されたのである。
前進部隊指揮官は入手していた情報から、敵の巡洋艦と駆逐艦から成る艦隊が、船団攻撃または攻撃隊の企図妨害に出るものと判断していた。
十四日午後七時三十分、ガ島攻撃隊は、哨戒機から「敵味方不明の巡洋艦二駆逐艦四見ゆ」という通報に接した。前進部隊指揮官は、位置から考えて、予想通りの巡洋艦部隊が出現したものと判断した。
午後八時三十分、掃討隊がこの敵と接触、九時十五分からサボ島東方海面で砲戦を交した。
主隊はルンガ沖へ進入の途中で、午後九時、サボ島西方で西航中の敵戦艦二隻を含む艦隊と遭遇し、直ちに交戦開始した。前進部隊指揮官は、敵を巡洋艦隊と思い込んでいた先入観のために、我が方の軽巡と駆逐艦による九三式魚雷によって敵を容易に撃滅出来ると考えていた。
ガ島攻撃隊が敵を戦艦と認めたのは、午後十時、距離六キロで戦闘を開始してからである。
砲戦、魚雷戦の結果、この夜戦の戦果は、敵大巡二、駆逐艦二撃沈、大巡一、駆逐艦一大破、戦艦一に魚雷二本命中、別に戦艦一に魚雷三本命中と報ぜられたが、米側資料(戦略爆撃調査団)によれば、この夜戦参加兵力は戦艦二、駆逐艦四で、損害は駆逐艦三隻沈没、戦艦一及駆逐艦一損傷となっている。
日本側は戦艦霧島と駆逐艦綾波を失った。戦死二四九名、戦傷八四名であった。(戦史室前掲書)
先の比叡とこの霧島と、敵飛行場砲撃のために出撃して来た高速戦艦二隻は、共に目的を果さずに海底に沈んだのである。
飛行場制圧の目的を達成出来なかった代りに、艦隊が敵の攻撃を吸収して、残存輸送船団四隻の前進を続行させる結果となった。この前進続行は、しかし、制圧すべき飛行場が制圧されなかったために、敵機群が猛威をふるうにちがいないガ島へ向けての、ほとんど絶望的な突入を意味していた。
 ガダルカナルでは、第十七軍は、西へ進出圧迫を加えていた米軍が既述の経過で後退したのに伴って、第一線をマタニカウ川左岸まで失地恢復をしていた。重砲隊も困難を押して陣地を推進し、十三、十四日と飛行場を砲撃したが、弾薬不足のため米軍は痛痒を感じなかった。独立山砲兵第二十大隊はルンガ川上流に占位して、山砲二門で新飛行場を射撃したが、山砲二門ではあまりにも火力微弱、密度稀薄で、有効打とはならなかった。
ガ島増援部隊(二水戦)は残存輸送船団四隻を護衛して南下をつづけていたが、十四日夕刻、索敵機から「敵大巡四、駆逐艦二、ガ島西方を北上中」という通報を受けた。増援部隊指揮官は、しかし、前進を続行した。輸送船団は既に三分の二が失われている。
午後五時、前記のガ島攻撃隊との間に連絡がつき、攻撃隊は敵大巡攻撃のために進撃中であると承知した。その前後から、先の船団被爆の際に陸兵救助に活動した駆逐艦が逐次追及して来たが、何れの艦も六〇〇名から一一〇〇名を収容していて、戦闘航海には堪えられない状況にあった。
増援部隊はガ鳥攻撃隊の後方に入り、午後十時ごろサボ島北西方に達した。サボ島西方では、ガ島攻撃隊と敵艦隊とが前記のように交戦中であった。
午後十一時、増援部隊はガ島揚陸点へ向けて速度をあげた。
海戦のために船団のガ島入泊が遅れ、したがって、揚陸時間が少くなっていた。増援部隊指揮官は、船団は十五日午前一時タサファロング到着、擱坐揚陸させる予定である、と、ガ島守備隊その他関係部隊に通知した。
前進部隊指揮官はこれを承認し、連合艦隊司令部もその処置の妥当性を認めていたが、外南洋部隊指揮官(第八艦隊)は承認しなかった。前の船団輸送の経験から、輸送船を擱坐させれば揚陸能率がかえって上らなくなるので、なるべく接岸して、漂泊あるいは錨泊し、午前五時ごろまで揚陸作業を行ない、その後の状況によって擱坐させて昼間作業を続行する方がよい、と通知して来たのである。
増援部隊指揮官は、しかし、右の外南洋部隊(第八艦隊)の指導は、現場の状況を知らないことから出たものであると判断し、擱坐揚陸の決心を変えなかった。
輸送船団四隻(宏川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山月丸)は十一月十五日午前一時三十六分、タサファロング泊地に入り、午前二時擱坐、揚陸を開始した。
護衛駆逐艦は、一部は泊地警戒に、他はサボ島付近の警戒に当り、涼風は乗艦中の一部陸兵を揚陸させ、午前二時三十分、集結してサボ島東方から北方航路をとって全速でガダルカナルから離脱した。(陸兵を救助して乗せていた駆逐艦は涼風の他にもあったはずだが、ガ島離脱までに陸兵を揚陸させたという資料が見当らない。)
四隻の輸送船は擱坐後直ちに揚陸作業を開始したが、やがて天明を迎えた。待ちかまえていたかのように、ルンガ岬西方の米軍海岸砲が砲撃をはじめ、午前六時(十五日)以後敵機延べ三〇機の爆撃と、巡洋艦駆逐艦各一隻の砲撃を受け、午前八時には四船とも火災を起こした。
擱坐後の船団上空を、基地航空部隊の零戦延べ二二機、R方面航空部隊の零観八機が警戒に当ったが、敵の攻撃を阻止出来なかった。
船員と船舶部隊は砲爆撃下に猛炎を冒して揚陸作業に奮闘した。結果は、しかし、船団一一隻の輸送の末路としては惨めであった。
四隻の乗船部隊、歩二二九連隊本部、同連隊第一大隊の一部、歩二三〇連隊第二大隊主力、工兵第三十八連隊主力、輜重兵第三十八連隊主力等の人員約二〇〇〇名が上陸したが、肝腎の糧秣一五〇〇俵、山砲弾薬三六〇箱を揚陸し得たに過ぎなかった。弾薬はほとんど全部米軍の砲爆撃で焼失したのである。
糧秣一五〇〇俵というのは、十七軍所要の約四日分に過ぎず、揚陸が十一月十五日だから、十一月十八日ころまでの飢えを凌ぐ量でしかない。(戦史室前掲『陸軍作戦』(2))
船団一一隻は、ショートランドに引き返した佐渡丸以外は全部失われた。佐渡丸もガ島にとってはなかったも同じであった。この船団輸送をめぐって、戦艦二隻、重巡一隻、駆逐艦三隻が海底に眠った。
全軍の期待を担った大船団輸送は莫大な損失を伴って失敗に終った。
第三十八師団主力の到着を待って一挙に戦勢の挽回を図り飛行場を奪回しようとした第十七軍の計画は、雲散霧消したのである。
これ以後、ガ島戦の日本軍の前途には、客観的にみて、何の希望もなくなったといってよいであろう。
一一隻の船団輸送に関連して、十一月十二日から十五日まで断続して起きた海戦を、大本営は第三次ソロモン海戦と名づけた。米軍側の呼称はガダルカナル海戦という。
宮崎十七軍参謀長は次のように誌している。
「実ニ十二日夜十三日夜及十四日ヨリ十五日ニ亘ル時間ハ刻々ノ状況推移ニ全神経ヲ集中セリ 即チ其成否ハ直ニ次期作戦ノ能否ヲ決スル唯一絶対ノ条件ナルヲ以テナリ 海戦ノ熾烈ナル砲声 密林ニパット反映スル轟沈火災ノ火炎 船団進行間ニガ島ヲ飛立ツ飛行機編隊ノ頻繁ナル 擱坐船舶ニ対スル敵機 砲撃ノ集中 就中十五日黎明ルンガヨリスル敵重砲弾ノ逐次射程ヲ延伸シ遂ニ命中大火災ヲ発セル状ノ如キ真ニ身ヲ削ラルル思ナリ」(宮崎前掲手記)
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