大本営は、十一月上旬、第八方面軍司令部と第十八軍司令部の編成を下令した。
従来は東部ニューギニアの作戦指揮も第十七軍が行なっていたが、その第十七軍が司令官以下、十月九日以後はガダルカナルに前進してしまい、ガ島の戦況だけでも手いっぱいとなり、東部ニューギニアの作戦指揮、二正面に対する輸送、補給の問題、海軍との連絡調整等を、第十七軍司令部だけで行なうのは無理であり、東部ニューギニア作戦のために別個に一軍を新設し、それと第十七軍との両者を統轄するために、一つの方面軍新設を必要としたからである。
十一月十六日、第八方面軍と第十八軍の戦闘序列が下令された。各隷下部隊を列記するのは煩雑だから省略するが、第八方面軍司令官は今村均中将(のち大将)、方面軍には十七軍十八軍の他に第六師団が予備兵力として編入され、海軍航空兵力の低下を補うために陸軍航空部隊が編入された。その戦力は、司偵一中隊、戦闘機二戦隊、軽爆一戦隊を基準とし、飛行機数は約一三〇機である。第八方面軍の総兵力は約一一万を算えた。
第十八軍は、軍司令官安達二十三中将、所属部隊は東部ニューギニアで作戦中の南海支隊、歩兵第四十一連隊、その他である。
今村第八方面軍司令官は、十一月十六日、天皇から「南東太平洋方面よりする敵の反攻は、国家の興廃に甚大の関係を有する。すみやかに苦戦中の軍を救援し、戦勢を挽回せよ」と言われた。(今村回想録)これは、しかし、難題中の難題であった。戦備、配兵、補給、いずれも敵に較べて甚だしく立ち遅れてしまったのである。
十八日、今村中将は、杉山参謀総長と田中作戦部長に会ったが、二人とも僅か四日前の十一月十四日に一一隻の輸送船団が全滅して、第三十八師団主力は戦わずして潰滅的被害を蒙ったことは言わなかった。姑息なことである。今村中将がラバウルヘ進出すれば、厭でもわかることなのである。
従来は東部ニューギニアの作戦指揮も第十七軍が行なっていたが、その第十七軍が司令官以下、十月九日以後はガダルカナルに前進してしまい、ガ島の戦況だけでも手いっぱいとなり、東部ニューギニアの作戦指揮、二正面に対する輸送、補給の問題、海軍との連絡調整等を、第十七軍司令部だけで行なうのは無理であり、東部ニューギニア作戦のために別個に一軍を新設し、それと第十七軍との両者を統轄するために、一つの方面軍新設を必要としたからである。
十一月十六日、第八方面軍と第十八軍の戦闘序列が下令された。各隷下部隊を列記するのは煩雑だから省略するが、第八方面軍司令官は今村均中将(のち大将)、方面軍には十七軍十八軍の他に第六師団が予備兵力として編入され、海軍航空兵力の低下を補うために陸軍航空部隊が編入された。その戦力は、司偵一中隊、戦闘機二戦隊、軽爆一戦隊を基準とし、飛行機数は約一三〇機である。第八方面軍の総兵力は約一一万を算えた。
第十八軍は、軍司令官安達二十三中将、所属部隊は東部ニューギニアで作戦中の南海支隊、歩兵第四十一連隊、その他である。
今村第八方面軍司令官は、十一月十六日、天皇から「南東太平洋方面よりする敵の反攻は、国家の興廃に甚大の関係を有する。すみやかに苦戦中の軍を救援し、戦勢を挽回せよ」と言われた。(今村回想録)これは、しかし、難題中の難題であった。戦備、配兵、補給、いずれも敵に較べて甚だしく立ち遅れてしまったのである。
十八日、今村中将は、杉山参謀総長と田中作戦部長に会ったが、二人とも僅か四日前の十一月十四日に一一隻の輸送船団が全滅して、第三十八師団主力は戦わずして潰滅的被害を蒙ったことは言わなかった。姑息なことである。今村中将がラバウルヘ進出すれば、厭でもわかることなのである。
第二師団の攻撃失敗(十月下旬)があっても、第三十八師団の輸送船団潰滅(十一月中旬)があっても、大本営の戦略構想は、本音はともかくとして、表面に表われる建前に根本的な変化はなかった。ただ、後述するように、輸送失敗後は否応なしに確保持久が前面に押し出されてきただけである。
船団輸送失敗のちょうど一週間前、十一月七日の参謀総長と軍令部総長列立の上奏で、次のように述べている部分がある。
南太平洋方面ノ作戦ノ推移如何ハ大東亜戦争ノ勝敗ヲ賭スルコトトナルトモ考ヘラレマスノテ此際此方面ノ作戦ヲ最モ重視スルコトカ肝要ト存シマス 之カ為陸海軍ノ綜合戦力ヲ発揮シテ「ソロモン」群島及東部「ニューギニア」ノ全域ヲ確保スルコトノ絶対必要ナルコトハ 陸海軍統帥部間ノ完全ニ一致セル判決テ御座イマス
右の上奏の基礎となったと考えられる「爾後の作戦指導」の説明会が十一月四日省部の九名の幹部によって、陸相官邸でひらかれたが、その際田中作戦部長がソロモン─ニューギニア方面の作戦に関して、次のように言っている。(戦史室前掲書)
「ガダルカナルはこれを奪回せねばならぬ。又東部ニューギニアを確保せざれば、ラバウルはもたぬ。|これが崩れれば持久態勢は崩れることとなる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(中略)
|ソロモン方面においては連続大反攻を撃破して優位を保たねばならぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|特に十八年後半期の作戦指導はきわめて重要なり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
つづいて田中作戦部長の発言を拾ってみる。
「ガ島不成功の原因(弾薬、資材、兵器が十分に上らないことが主)今後ガ島攻略のためには十分に自信をうるまで準備せねばならぬ。〈当然のことを今更らしく言うのは奇怪である〉
攻撃準備は一〜二月ころとなるべし。(中略)
海軍航空いたみたるため、陸軍航空隊を出す必要が生ずべし。(中略)
|要するにガ島は奪回す《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|ポートモレスビーは取ることを前提として準備することと致したし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
右を見れば明らかなように、戦争全般の持久態勢、別の表現を用いれば不敗の態勢を確立するためには、ラバウル保持が必要であり、ラバウル確保のためにはガダルカナルを奪回しなければならないという考え方は、既にガ島戦初期のころの記述においても指摘したことであって、それは変っていないのである。ただ、初期には、何の根拠もなく敵を軽視し、いまやもてあまし気味になっていることは客観的に隠せない。
前記した陸相官邸での説明会と同じころ、大本営陸軍部作戦課長服部大佐は、既述の通り、ガダルカナル視察と連絡を兼ねて、現地に上陸している。そのとき辻参謀は服部課長にこう言っている。
「課長はガ島をこのままやる自信があるのですか。この際、大転換をしたらどうでしょうか」
強硬派の随一と目され、無理な作戦でも強行させることを得意とした辻参謀が、そう言うのである。
服部課長は次のように答えている。
「ガ島を退ると、ラバウルがもてるかどうか疑わしい。それに撤退自体できるかどうか確信がないが……。この問題はしばらく考えてみよう」
服部の答え方は、同じころ東京で発言していた田中作戦部長との間に、かなり大きな隔りがある。
辻参謀が「転換」を言い出したのは、相手が親しい直属上司であったからかもしれないが、ひょっとすると、辻自身の発意ではなくて、他からの触発によるのかもしれない。何故かといえば、辻自身次のように書いているのである。
「山本筑郎少佐参謀は、大本営の兵站班から、援助のために派遣されていた。この若い参謀が、皆|眦 《まなじり》を決して作戦の継続を議論しているとき、
�この作戦は到底勝味がありません。大本営は思い切って、転換しなければなりません�
と、大胆率直に進言してくれた。
心の中をずばり、看破されたように感ずる。(以下略)」(辻前掲書)
この山本参謀の発言がいつのことか辻手記では明らかにされていないが、他資料(伊藤正徳『帝国陸軍の最後』(決戦篇))によれば、九月下旬、ラバウルにおける参謀会議でのことである。
辻参謀は東京に帰還して、十一月二十四日には陸軍部で二十五日には海軍部作戦関係者にガ島戦の実相を率直に報告した。
「路傍には、からっぽの飯盒を手にしたまま斃れた兵が腐って|蛆《うじ》がわいている」
と、東京にいる者にとっては衝撃的な状況を述べたという。(真田日記)
辻より先に東京に帰った服部課長も状況報告で撤退の必要など一言も述べなかったし、辻参謀ほど押しの強い、現地滞留期間の長かった人物でも、戦略転換や撤退を、東京中央の公開の席で言い出すわけにはゆかなかったようである。
ガダルカナルでは、確かに、ジャングル内の小路に沿って無数の兵たちが点々と行き倒れ、嘔吐をもよおすような強烈な腐臭を放ち、蛆がわき、眼や鼻や口や傷口などから白い蛆の群れがぞろぞろと出入りし、生きながら蝿がたかり、その蝿を追う気力もなくなり、刻々に兵たちは死んでいったのである。
これからは、ガ島戦の記述も、否応なしに、屡々、惨澹たる飢餓と餓死者と、重く漂う腐臭と、蛆に侵蝕される人間と、蛆を食った|蜥蜴《とかげ》を目の色を変えて捕えて食う人間たちと、雨に洗われ白骨と化した兵たちの間を、終局へ向って這いずりまわらなければならなくなるであろう。
船団輸送失敗のちょうど一週間前、十一月七日の参謀総長と軍令部総長列立の上奏で、次のように述べている部分がある。
南太平洋方面ノ作戦ノ推移如何ハ大東亜戦争ノ勝敗ヲ賭スルコトトナルトモ考ヘラレマスノテ此際此方面ノ作戦ヲ最モ重視スルコトカ肝要ト存シマス 之カ為陸海軍ノ綜合戦力ヲ発揮シテ「ソロモン」群島及東部「ニューギニア」ノ全域ヲ確保スルコトノ絶対必要ナルコトハ 陸海軍統帥部間ノ完全ニ一致セル判決テ御座イマス
右の上奏の基礎となったと考えられる「爾後の作戦指導」の説明会が十一月四日省部の九名の幹部によって、陸相官邸でひらかれたが、その際田中作戦部長がソロモン─ニューギニア方面の作戦に関して、次のように言っている。(戦史室前掲書)
「ガダルカナルはこれを奪回せねばならぬ。又東部ニューギニアを確保せざれば、ラバウルはもたぬ。|これが崩れれば持久態勢は崩れることとなる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(中略)
|ソロモン方面においては連続大反攻を撃破して優位を保たねばならぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|特に十八年後半期の作戦指導はきわめて重要なり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
つづいて田中作戦部長の発言を拾ってみる。
「ガ島不成功の原因(弾薬、資材、兵器が十分に上らないことが主)今後ガ島攻略のためには十分に自信をうるまで準備せねばならぬ。〈当然のことを今更らしく言うのは奇怪である〉
攻撃準備は一〜二月ころとなるべし。(中略)
海軍航空いたみたるため、陸軍航空隊を出す必要が生ずべし。(中略)
|要するにガ島は奪回す《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|ポートモレスビーは取ることを前提として準備することと致したし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
右を見れば明らかなように、戦争全般の持久態勢、別の表現を用いれば不敗の態勢を確立するためには、ラバウル保持が必要であり、ラバウル確保のためにはガダルカナルを奪回しなければならないという考え方は、既にガ島戦初期のころの記述においても指摘したことであって、それは変っていないのである。ただ、初期には、何の根拠もなく敵を軽視し、いまやもてあまし気味になっていることは客観的に隠せない。
前記した陸相官邸での説明会と同じころ、大本営陸軍部作戦課長服部大佐は、既述の通り、ガダルカナル視察と連絡を兼ねて、現地に上陸している。そのとき辻参謀は服部課長にこう言っている。
「課長はガ島をこのままやる自信があるのですか。この際、大転換をしたらどうでしょうか」
強硬派の随一と目され、無理な作戦でも強行させることを得意とした辻参謀が、そう言うのである。
服部課長は次のように答えている。
「ガ島を退ると、ラバウルがもてるかどうか疑わしい。それに撤退自体できるかどうか確信がないが……。この問題はしばらく考えてみよう」
服部の答え方は、同じころ東京で発言していた田中作戦部長との間に、かなり大きな隔りがある。
辻参謀が「転換」を言い出したのは、相手が親しい直属上司であったからかもしれないが、ひょっとすると、辻自身の発意ではなくて、他からの触発によるのかもしれない。何故かといえば、辻自身次のように書いているのである。
「山本筑郎少佐参謀は、大本営の兵站班から、援助のために派遣されていた。この若い参謀が、皆|眦 《まなじり》を決して作戦の継続を議論しているとき、
�この作戦は到底勝味がありません。大本営は思い切って、転換しなければなりません�
と、大胆率直に進言してくれた。
心の中をずばり、看破されたように感ずる。(以下略)」(辻前掲書)
この山本参謀の発言がいつのことか辻手記では明らかにされていないが、他資料(伊藤正徳『帝国陸軍の最後』(決戦篇))によれば、九月下旬、ラバウルにおける参謀会議でのことである。
辻参謀は東京に帰還して、十一月二十四日には陸軍部で二十五日には海軍部作戦関係者にガ島戦の実相を率直に報告した。
「路傍には、からっぽの飯盒を手にしたまま斃れた兵が腐って|蛆《うじ》がわいている」
と、東京にいる者にとっては衝撃的な状況を述べたという。(真田日記)
辻より先に東京に帰った服部課長も状況報告で撤退の必要など一言も述べなかったし、辻参謀ほど押しの強い、現地滞留期間の長かった人物でも、戦略転換や撤退を、東京中央の公開の席で言い出すわけにはゆかなかったようである。
ガダルカナルでは、確かに、ジャングル内の小路に沿って無数の兵たちが点々と行き倒れ、嘔吐をもよおすような強烈な腐臭を放ち、蛆がわき、眼や鼻や口や傷口などから白い蛆の群れがぞろぞろと出入りし、生きながら蝿がたかり、その蝿を追う気力もなくなり、刻々に兵たちは死んでいったのである。
これからは、ガ島戦の記述も、否応なしに、屡々、惨澹たる飢餓と餓死者と、重く漂う腐臭と、蛆に侵蝕される人間と、蛆を食った|蜥蜴《とかげ》を目の色を変えて捕えて食う人間たちと、雨に洗われ白骨と化した兵たちの間を、終局へ向って這いずりまわらなければならなくなるであろう。