第二師団の攻撃失敗、第三十八師団の輸送失敗後、日本軍の面目にかけて捲土重来を期するには、大兵力の集中、莫大な量の軍需物資の集積が必要であり、それは厖大な船腹の必要を意味した。
船腹問題には煩雑なまでの経緯があるが、概要を辿ることにする。
戦争指導の大局的見地からみれば、急を告げる戦場への輸送もさることながら、南方の資源地帯から日本内地への重要物資の輸送を確保して、戦力再生産を図ることが基本的重要問題であった。つまり、そのために必要なだけの船腹は、どうしても確保しなければならぬのである。
ガ島戦が深刻の度を加えつつあった九月下旬から十月中旬にかけて、企画院と陸海両省の事務当局者が検討を重ねた結果、民需用船腹(生産用船腹)を必要最低限度に維持するには、AB船(陸海軍徴傭船)を解傭して民需に戻す以外に方法はない、というのが結論であった。
そこで、十月二十二日、陸海軍局部長会同で、海軍は即時九万トンを、陸軍はソロモン作戦一段落後一三万トンを解傭するという合意に達した。
読者は想起されたい。十月二十二日は、第二師団総攻撃失敗の直前である。二十四、五日に第二師団は攻撃に失敗し、疲労困憊して後退に移ったのだ。東京では、船舶解傭はけし飛んでしまった。それどころか、反対に、増徴必要論が強硬となった。
大本営では、ガダルカナル奪回のために兵力の増強を行なわなければならず、莫大な軍需品輸送も含めると、約七〇万トンの船腹が必要となってきた。陸軍手持ちの徴傭船で右の所要船腹を急速に調達することは困難であった。その上、先に記述した十一月十四日の第三十八師団主力の船団輸送の際、一一隻の船団が潰滅した。八万トンに近い輸送船を失ったのである。
十一月十六日、陸軍統帥部は、当面の作戦遂行のために、不足船腹三七万トンの増徴を陸軍省に申入れた。陸軍省軍務局は反対したが、企画院の検討にまわすことにした。
ところが、十八日、海軍からも企画院に対して二五万トンの徴傭を申出た。陸海合計六二万トンの増徴である。夥しい船舶消耗の過程でこれだけの増徴分を捻出することは、戦力生産の民需用船腹に極度の圧迫を加え、生産を著しく減退させることになる。
海軍側の要求は、陸軍の要求に対抗した観がないでもなかったが、昭和十八年三月(四カ月後)には重油が皆無となるから、早々にタンカーを作らなければ危機を脱し得ない、という深刻な問題も内在していたのである。
統帥部が船舶増徴に強硬であるのは、つまり、ガ島戦に固執しているのである。それはガ島の確保が米豪遮断という最初からの目的にとって必要であり、同時に、南太平洋上の唯一の重要作戦拠点であるラバウルを確保するためにも必要なのである、ということを理由としている、また、現在在ガ島三万の第十七軍を撤退させることは、攻撃を続行するよりも困難であるから、ガ島攻撃は必要なのである、という意地と面子も絡んでいる。
陸軍省側は戦争を大局的に観なければならない立場にある。現在重要にして必要なことは、国力戦力の維持造成である。国力の急速な低下をきたすことが明白な船舶増徴に応じることは出来ない。
この省部の見解の対立は深刻であった。戦争に突入したことが最初から内包していた矛盾が、ガ島戦の破局的様相によっていちどきに噴出したのである。
政府は、十一月二十日の閣議で、とりあえず陸海合計二七万トンの増徴を認める。第一次増徴は二十一日、一七万五〇〇〇トン(陸軍一四万五〇〇〇、海軍三万トン)、第二次分は十二月五日陸軍九万五〇〇〇トンとすることに決定した。
だが、第二次分は、政府としては一時逃れの決定で、自信はなかったようである。
理由を、東条総理は次のように述べている。
「この船舶増徴二七万トンによって、明十八年度の鋼材生産は三〇〇万トンに低下する。もし統帥部の要求の如くすれば、二〇〇万トンに減少する。鋼材生産は来年度最小限三五〇万トン確保する必要がある」というのである。(戦史室前掲書)
十二月五日になった。統帥部は第二次分を要求した。
政府はその夜八時、臨時閣議をひらいて次の決定を打出した。
既定の第二次増徴九万五〇〇〇トンは認める。明年一、二、三月分の損耗補填として陸軍統帥部が要求する一六万五〇〇〇トンには応じられない。八万五〇〇〇トンだけは認めるが、それは明年四月中に一八万トンを解傭することを条件とする、というものであった。
田中新一作戦部長は、明年四月の一八万トン解傭を陸軍に要求するのは統帥干渉である、と激怒した。
田中は、この件で、大臣、次官に面会を強要したが、各課長級のはからいで佐藤軍務局長と田中作戦部長が会うことになった。
席上、佐藤が、
「田中さんは大変怒っておられるそうだが、何を怒っておられるのですか、不足量はとれたではないですか」
と言うと、田中は、
「ナニッ! 一八万トン解傭を陸軍に要求するとは統帥干渉だ。生意気だ」
と怒鳴り、一言二言やり合って、鉄拳を飛ばした。
佐藤も血の気が多い。負けてはいなかった。
「|撲《なぐ》ったな」
と反撃に出た。陸軍省部の要職にあって閣下と尊称される二人がである。
この二人は陸軍次官の仲介で和解したが、問題は残った。
先の損耗補填八万五〇〇〇トンは、田辺参謀次長と鈴木企画院総裁の間で、損耗が著しく超過した場合には改めて協議するという妥協案つきで統帥部が同意したが、東条総理は「閣議決定の通り。いかなる場合でも八・五万トンを超えてはならぬ」ときめつけた。十二月六日のことである。
陸軍統帥部にとっては、東条のこの決定はガ島作戦の中止を命ずるにひとしいものと受け取られた。田中作戦部長は参謀次長の反対を押し切って、十二月六日夜半、総理官邸へ押しかけた。折衝が成るにしても成らぬにしても、田中部長限りの責任において問題を処理する決心であったと考えられる。
東条の見解は、こんなに予定外に船を消耗されては、物動計画が崩れ、戦争経済が破綻する、統帥部は閣議決定の範囲内で作戦をやれ、ということである。決定以外には一トンも出すことはできない。
田中は喰い下ったが、東条は受けつけなかった。
田中は怒りを爆発させた。
「馬鹿野郎」
「何事を言いますか」
東条はこの瞬間に田中の|馘《くび》を考えたであろうし、田中も覚悟の前であったろう。
翌七日早朝、東条は杉山参謀総長に田中新一部長の更迭を要求した。陸軍大臣は軍人軍属統督の立場にある。
田中は重謹慎十五日の処罰を受け、南方軍総司令部附に転出した。
田中の後任には綾部橘樹少将が発令され、つづいて十四日、作戦課長服部大佐が転出して、後任に真田穣一郎大佐が発令された。
田中追放の代償であるかのように、東条は、統帥部に対して、一月から三月までの船舶損耗量が予定より増加した場合には、改めて大本営政府間で協議決定することを承諾した。
陸軍統帥部首脳陣の強硬派の随一、田中作戦部長の転出がガダルカナル作戦打切りの転機となったのは事実である。別の表現を用いれば、硬派の作戦部長がその職にとどまり得なくなるように、戦勢が露呈した諸条件が既に一つの契機を求めていたのである。
もう一つの重要な転機は、海軍から来た。十二月九日、開戦満一年を経過した翌日、現地海軍が今後駆逐艦による輸送を中止したい、と第八方面軍に申入れしたことである。後述するように、駆逐艦輸送も成功率が低くなったばかりでなく、これ以上駆逐艦を失っては、連合艦隊としての機能に致命的な支障を生ずる、というのであった。
こうして、ガダルカナル撤退問題は、遅きに失したが、中央では急速に煮つまりはじめていた。(決定までの経過は後述する。)知らないのは現地軍ばかりである。
船舶問題で中央が紛糾していた数十日間、ガダルカナルでは飢餓と疾病が急速に進行した。毎日四、五〇名が死んでいった。十二月末までに大部分が消滅しかねない計算が立つほどであった。
船舶増徴に戻るが、増徴した船舶には兵装が必要であり、これがまた小さからぬ問題であった。兵装し、所要弾薬を用意し、兵器の操作要員をととのえるなど、問題は次から次へと出てきた。
さらに、大きな問題があった。船が出来、兵員を乗せ、軍需品を積んだとしても、従来等閑視されてきた海上護衛力の欠如が|祟《たた》って、船舶稼働の効率は著しく低下していた。行先地の海運施設は貧弱をきわめ、ために、滞船の増加が机上の予定をはるかに上廻った。
内地ラバウル間の一航海が五〇日から六〇日もかかるほどであったという。(戦史室前掲書)
これでは、統帥部が要求通りの増徴船を取得したとしても、先に記述した大本営指示に盛られていたような大兵力、厖大な軍需品を、能率の低い輸送組織で、危険海域を通って、十分な余裕を見込まれていない予定期日までに、輸送、揚陸、集積することは、ほとんど不可能といってよかったのである。
第八方面軍司令部は、統帥発動以来、作戦研究を進めていたが、ガダルカナル攻略作戦に関しては、十二月の月の出ない期間中に糧秣一カ月分を集積し、一月上旬に第二、第三十八師団の兵力補充を行ない、二月上旬に一挙大船団輸送を決行するという腹案で研究を進めてみても、船団輸送に確信が持てるという結論は出なかったようである。
十二月九日、十七軍参謀長から第八方面軍参謀長に宛てた電報に、補給輸送の努力と実績との懸隔が数字によって示された部分がある。
十一月三十日ヨリ本月九日迄ニ計画セラレタル輸送駆逐艦数ハ三二隻(四回)ニシテ、内揚陸セシメ得タルハ七隻(一回)ノミ 而モ其ノ七隻カ海中ニ投シタル「ドラム」缶ト実際揚陸セシメ得タル「ドラム」缶トノ比ハ五対一ナリ
七日夜ノ如キモ我カ一〇隻ノ駆逐艦ハ敵ノ魚雷艇六ノ攻撃ヲ受ケ軽戦後揚陸セスシテ帰還セリ(戦史室前掲書)
このころは、駆逐艦輸送も大小発による揚陸はほとんど出来なくなり、ドラム缶に補給品を詰めて海中に投じ、陸兵が曳き網を曳いてドラム缶を陸に揚げる方法をとっていた。先に大本営が第十七軍の作戦指導について指示(十一月十五日)した中に、「各種ノ手段ヲ尽シテ輸送シ云々」とあったことの、右は一つの表われなのである。
手段はどうであれ、輸送した補給物資が五対一の割りでしか陸岸に達しないということは、まるまる揚陸してさえ不足な補給が、もはや救い難い破局に瀕しているということである。兵たちの生命の灯は、次から次へと消えてゆきつつあった。
十二月中旬、第八方面軍司令部は、ガ島をめぐる一月末の状況を予想して、航空作戦と船団輸送の細部を検討するための兵棋演習を行なった。海軍側からも大本営からも各参謀が立会った。
この兵棋演習では、彼我の航空勢力を次のように想定していた。(戦史室前掲書)
米豪側
モレスビー B17四〇 戦一〇〇
ラビ B17二〇
ブナ B17一〇
エスピリサント島 B17六〇
ガダルカナル B17三〇 外一〇〇
日本側
ムンダ 九〇
バラレ 四〇
ブイン 二〇 中攻一七
ラバウル 二〇
ブカ 二〇
右を見て推定し得ることは、ガダルカナルに対して他方面からの航空兵力の増援がないものとすれば、戦闘機に限れば一時的に制圧を予想することは不可能ではない。だが、B17に対しては零戦の攻撃もほとんど決定打とはなり得なくなっている。もし、エスピリサント等の後方基地から増援補給があったり、敵機動部隊から大挙して発進して来たりすれば、戦闘機の制圧さえ確実とは言えない。結論として、大本営の机上作戦案に謳われている航空撃滅戦──実はそれがガ島奪回のための基本的前提条件となっているのだが──その航空撃滅戦に成算は立たないというのであった。
次に、船団輸送に関しては、輸送船一五隻ずつ三回ぐらいに分けて実施する方法が研究されたが、ガダルカナル泊地に到着するまでに全部沈没することが予想される兵棋演習の結果であったという。よしんば、五〇隻の船団を編成して、その半数が泊地に入り得たとしても、翌朝までに全部火災を起こし、沈没は免れないという絶望的な状況を予測しなければならないことを、兵棋演習は示した。航空撃滅戦の成否と船団輸送の成否とは、二者不可分なのである。
東京中央も方面軍も、客観的現実的条件からすれば、一日も早く発想の転換を必要とする時期に来ていた。
船腹問題には煩雑なまでの経緯があるが、概要を辿ることにする。
戦争指導の大局的見地からみれば、急を告げる戦場への輸送もさることながら、南方の資源地帯から日本内地への重要物資の輸送を確保して、戦力再生産を図ることが基本的重要問題であった。つまり、そのために必要なだけの船腹は、どうしても確保しなければならぬのである。
ガ島戦が深刻の度を加えつつあった九月下旬から十月中旬にかけて、企画院と陸海両省の事務当局者が検討を重ねた結果、民需用船腹(生産用船腹)を必要最低限度に維持するには、AB船(陸海軍徴傭船)を解傭して民需に戻す以外に方法はない、というのが結論であった。
そこで、十月二十二日、陸海軍局部長会同で、海軍は即時九万トンを、陸軍はソロモン作戦一段落後一三万トンを解傭するという合意に達した。
読者は想起されたい。十月二十二日は、第二師団総攻撃失敗の直前である。二十四、五日に第二師団は攻撃に失敗し、疲労困憊して後退に移ったのだ。東京では、船舶解傭はけし飛んでしまった。それどころか、反対に、増徴必要論が強硬となった。
大本営では、ガダルカナル奪回のために兵力の増強を行なわなければならず、莫大な軍需品輸送も含めると、約七〇万トンの船腹が必要となってきた。陸軍手持ちの徴傭船で右の所要船腹を急速に調達することは困難であった。その上、先に記述した十一月十四日の第三十八師団主力の船団輸送の際、一一隻の船団が潰滅した。八万トンに近い輸送船を失ったのである。
十一月十六日、陸軍統帥部は、当面の作戦遂行のために、不足船腹三七万トンの増徴を陸軍省に申入れた。陸軍省軍務局は反対したが、企画院の検討にまわすことにした。
ところが、十八日、海軍からも企画院に対して二五万トンの徴傭を申出た。陸海合計六二万トンの増徴である。夥しい船舶消耗の過程でこれだけの増徴分を捻出することは、戦力生産の民需用船腹に極度の圧迫を加え、生産を著しく減退させることになる。
海軍側の要求は、陸軍の要求に対抗した観がないでもなかったが、昭和十八年三月(四カ月後)には重油が皆無となるから、早々にタンカーを作らなければ危機を脱し得ない、という深刻な問題も内在していたのである。
統帥部が船舶増徴に強硬であるのは、つまり、ガ島戦に固執しているのである。それはガ島の確保が米豪遮断という最初からの目的にとって必要であり、同時に、南太平洋上の唯一の重要作戦拠点であるラバウルを確保するためにも必要なのである、ということを理由としている、また、現在在ガ島三万の第十七軍を撤退させることは、攻撃を続行するよりも困難であるから、ガ島攻撃は必要なのである、という意地と面子も絡んでいる。
陸軍省側は戦争を大局的に観なければならない立場にある。現在重要にして必要なことは、国力戦力の維持造成である。国力の急速な低下をきたすことが明白な船舶増徴に応じることは出来ない。
この省部の見解の対立は深刻であった。戦争に突入したことが最初から内包していた矛盾が、ガ島戦の破局的様相によっていちどきに噴出したのである。
政府は、十一月二十日の閣議で、とりあえず陸海合計二七万トンの増徴を認める。第一次増徴は二十一日、一七万五〇〇〇トン(陸軍一四万五〇〇〇、海軍三万トン)、第二次分は十二月五日陸軍九万五〇〇〇トンとすることに決定した。
だが、第二次分は、政府としては一時逃れの決定で、自信はなかったようである。
理由を、東条総理は次のように述べている。
「この船舶増徴二七万トンによって、明十八年度の鋼材生産は三〇〇万トンに低下する。もし統帥部の要求の如くすれば、二〇〇万トンに減少する。鋼材生産は来年度最小限三五〇万トン確保する必要がある」というのである。(戦史室前掲書)
十二月五日になった。統帥部は第二次分を要求した。
政府はその夜八時、臨時閣議をひらいて次の決定を打出した。
既定の第二次増徴九万五〇〇〇トンは認める。明年一、二、三月分の損耗補填として陸軍統帥部が要求する一六万五〇〇〇トンには応じられない。八万五〇〇〇トンだけは認めるが、それは明年四月中に一八万トンを解傭することを条件とする、というものであった。
田中新一作戦部長は、明年四月の一八万トン解傭を陸軍に要求するのは統帥干渉である、と激怒した。
田中は、この件で、大臣、次官に面会を強要したが、各課長級のはからいで佐藤軍務局長と田中作戦部長が会うことになった。
席上、佐藤が、
「田中さんは大変怒っておられるそうだが、何を怒っておられるのですか、不足量はとれたではないですか」
と言うと、田中は、
「ナニッ! 一八万トン解傭を陸軍に要求するとは統帥干渉だ。生意気だ」
と怒鳴り、一言二言やり合って、鉄拳を飛ばした。
佐藤も血の気が多い。負けてはいなかった。
「|撲《なぐ》ったな」
と反撃に出た。陸軍省部の要職にあって閣下と尊称される二人がである。
この二人は陸軍次官の仲介で和解したが、問題は残った。
先の損耗補填八万五〇〇〇トンは、田辺参謀次長と鈴木企画院総裁の間で、損耗が著しく超過した場合には改めて協議するという妥協案つきで統帥部が同意したが、東条総理は「閣議決定の通り。いかなる場合でも八・五万トンを超えてはならぬ」ときめつけた。十二月六日のことである。
陸軍統帥部にとっては、東条のこの決定はガ島作戦の中止を命ずるにひとしいものと受け取られた。田中作戦部長は参謀次長の反対を押し切って、十二月六日夜半、総理官邸へ押しかけた。折衝が成るにしても成らぬにしても、田中部長限りの責任において問題を処理する決心であったと考えられる。
東条の見解は、こんなに予定外に船を消耗されては、物動計画が崩れ、戦争経済が破綻する、統帥部は閣議決定の範囲内で作戦をやれ、ということである。決定以外には一トンも出すことはできない。
田中は喰い下ったが、東条は受けつけなかった。
田中は怒りを爆発させた。
「馬鹿野郎」
「何事を言いますか」
東条はこの瞬間に田中の|馘《くび》を考えたであろうし、田中も覚悟の前であったろう。
翌七日早朝、東条は杉山参謀総長に田中新一部長の更迭を要求した。陸軍大臣は軍人軍属統督の立場にある。
田中は重謹慎十五日の処罰を受け、南方軍総司令部附に転出した。
田中の後任には綾部橘樹少将が発令され、つづいて十四日、作戦課長服部大佐が転出して、後任に真田穣一郎大佐が発令された。
田中追放の代償であるかのように、東条は、統帥部に対して、一月から三月までの船舶損耗量が予定より増加した場合には、改めて大本営政府間で協議決定することを承諾した。
陸軍統帥部首脳陣の強硬派の随一、田中作戦部長の転出がガダルカナル作戦打切りの転機となったのは事実である。別の表現を用いれば、硬派の作戦部長がその職にとどまり得なくなるように、戦勢が露呈した諸条件が既に一つの契機を求めていたのである。
もう一つの重要な転機は、海軍から来た。十二月九日、開戦満一年を経過した翌日、現地海軍が今後駆逐艦による輸送を中止したい、と第八方面軍に申入れしたことである。後述するように、駆逐艦輸送も成功率が低くなったばかりでなく、これ以上駆逐艦を失っては、連合艦隊としての機能に致命的な支障を生ずる、というのであった。
こうして、ガダルカナル撤退問題は、遅きに失したが、中央では急速に煮つまりはじめていた。(決定までの経過は後述する。)知らないのは現地軍ばかりである。
船舶問題で中央が紛糾していた数十日間、ガダルカナルでは飢餓と疾病が急速に進行した。毎日四、五〇名が死んでいった。十二月末までに大部分が消滅しかねない計算が立つほどであった。
船舶増徴に戻るが、増徴した船舶には兵装が必要であり、これがまた小さからぬ問題であった。兵装し、所要弾薬を用意し、兵器の操作要員をととのえるなど、問題は次から次へと出てきた。
さらに、大きな問題があった。船が出来、兵員を乗せ、軍需品を積んだとしても、従来等閑視されてきた海上護衛力の欠如が|祟《たた》って、船舶稼働の効率は著しく低下していた。行先地の海運施設は貧弱をきわめ、ために、滞船の増加が机上の予定をはるかに上廻った。
内地ラバウル間の一航海が五〇日から六〇日もかかるほどであったという。(戦史室前掲書)
これでは、統帥部が要求通りの増徴船を取得したとしても、先に記述した大本営指示に盛られていたような大兵力、厖大な軍需品を、能率の低い輸送組織で、危険海域を通って、十分な余裕を見込まれていない予定期日までに、輸送、揚陸、集積することは、ほとんど不可能といってよかったのである。
第八方面軍司令部は、統帥発動以来、作戦研究を進めていたが、ガダルカナル攻略作戦に関しては、十二月の月の出ない期間中に糧秣一カ月分を集積し、一月上旬に第二、第三十八師団の兵力補充を行ない、二月上旬に一挙大船団輸送を決行するという腹案で研究を進めてみても、船団輸送に確信が持てるという結論は出なかったようである。
十二月九日、十七軍参謀長から第八方面軍参謀長に宛てた電報に、補給輸送の努力と実績との懸隔が数字によって示された部分がある。
十一月三十日ヨリ本月九日迄ニ計画セラレタル輸送駆逐艦数ハ三二隻(四回)ニシテ、内揚陸セシメ得タルハ七隻(一回)ノミ 而モ其ノ七隻カ海中ニ投シタル「ドラム」缶ト実際揚陸セシメ得タル「ドラム」缶トノ比ハ五対一ナリ
七日夜ノ如キモ我カ一〇隻ノ駆逐艦ハ敵ノ魚雷艇六ノ攻撃ヲ受ケ軽戦後揚陸セスシテ帰還セリ(戦史室前掲書)
このころは、駆逐艦輸送も大小発による揚陸はほとんど出来なくなり、ドラム缶に補給品を詰めて海中に投じ、陸兵が曳き網を曳いてドラム缶を陸に揚げる方法をとっていた。先に大本営が第十七軍の作戦指導について指示(十一月十五日)した中に、「各種ノ手段ヲ尽シテ輸送シ云々」とあったことの、右は一つの表われなのである。
手段はどうであれ、輸送した補給物資が五対一の割りでしか陸岸に達しないということは、まるまる揚陸してさえ不足な補給が、もはや救い難い破局に瀕しているということである。兵たちの生命の灯は、次から次へと消えてゆきつつあった。
十二月中旬、第八方面軍司令部は、ガ島をめぐる一月末の状況を予想して、航空作戦と船団輸送の細部を検討するための兵棋演習を行なった。海軍側からも大本営からも各参謀が立会った。
この兵棋演習では、彼我の航空勢力を次のように想定していた。(戦史室前掲書)
米豪側
モレスビー B17四〇 戦一〇〇
ラビ B17二〇
ブナ B17一〇
エスピリサント島 B17六〇
ガダルカナル B17三〇 外一〇〇
日本側
ムンダ 九〇
バラレ 四〇
ブイン 二〇 中攻一七
ラバウル 二〇
ブカ 二〇
右を見て推定し得ることは、ガダルカナルに対して他方面からの航空兵力の増援がないものとすれば、戦闘機に限れば一時的に制圧を予想することは不可能ではない。だが、B17に対しては零戦の攻撃もほとんど決定打とはなり得なくなっている。もし、エスピリサント等の後方基地から増援補給があったり、敵機動部隊から大挙して発進して来たりすれば、戦闘機の制圧さえ確実とは言えない。結論として、大本営の机上作戦案に謳われている航空撃滅戦──実はそれがガ島奪回のための基本的前提条件となっているのだが──その航空撃滅戦に成算は立たないというのであった。
次に、船団輸送に関しては、輸送船一五隻ずつ三回ぐらいに分けて実施する方法が研究されたが、ガダルカナル泊地に到着するまでに全部沈没することが予想される兵棋演習の結果であったという。よしんば、五〇隻の船団を編成して、その半数が泊地に入り得たとしても、翌朝までに全部火災を起こし、沈没は免れないという絶望的な状況を予測しなければならないことを、兵棋演習は示した。航空撃滅戦の成否と船団輸送の成否とは、二者不可分なのである。
東京中央も方面軍も、客観的現実的条件からすれば、一日も早く発想の転換を必要とする時期に来ていた。
ガダルカナルでは、十一月中旬以後、第十七軍は、第一線戦闘員、患者を合計しても六個大隊にも満たない兵力で、敵の制空制海権下という悪条件の下に、後方を敵に遮断され、圧倒的に優勢な敵と対峙していた。
第一線陣地では、歩行出来ない傷病兵が陣地の守備に任じ、杖に|縋《すが》ってでも歩行し得る者は後方の糧秣運搬に当っていた。
米軍は、マタニカウ右岸に後退して以後、ククム付近に新たな滑走路を造成し、十一月十七日から、再び連日砲爆撃を伴う攻撃を開始した。日本軍をマタニカウ左岸地帯からポハ川(コカンボナの西)方向へ圧迫する企図であったようである。二十六日にこの一連の攻撃はやんだが、二十三日には十七軍戦闘司令所が二回も爆撃され、軍司令官、参謀長は軽傷を負い、専属副官と護衛憲兵が即死した。謄写器具一切、情報書類、事務用品などが破砕飛散し、事務処理にも事欠くようになった。司令所は同日夜、丸山道をさらに一五キロ南東に入り、九〇三高地南側に移動した。
軍に対する補給は駆逐艦輸送も困難となり、十一月二十四日以降潜水艦が連日カミンボに入泊したが、それも十二月九日、入泊予定の伊第三号潜水艦が米魚雷艇によって撃沈されてから、海軍は潜水艦輸送を当分中止と決定した。(宮崎前掲手記)
糧秣の陸上搬送力が乏しいため、第一線部隊は、場所によっては絶食六日というところもあった。
何十日も半定量以下で凌ぎ、その上六日も絶食して戦闘に耐えなければならないのである。生ける|屍《しかばね》が陣地を死守していたといっても過言でない。
最悪の給養状況で、十二月三日の十七軍命令による第二師団の任務は、ポハ川以東の海岸線防禦と小川の線付近の現防禦線を確保すること、第三十八師団の任務は、アウステン山の攻勢拠点を強化し、東部見晴台と西部堺台を結ぶ現防禦線を確保することであった。
十二月三日以来ガ島の実情視察に来ていた方面軍参謀副長佐藤傑少将が、方面軍司令部に打った電文中に次のくだりがある。
「第二師団ノ大部ハ戦意喪失シ其一部分カ辛シテ現線ヲ保持シアル現況ニシテ(以下略)」
「第三十八師団モ現在ノ如キ補給ノ状態ヲ以テセハ其大部ノ防禦戦闘能力ハ概ネ本年末迄ヲ以テ限度ト判断セラル」
反面、大量補給と増援によって戦力を増している米軍は、十二月中旬以降、アウステン山正面に向って自動車道を構築、大挙来襲の気配を見せ、ルンガ上流の丸山道方向にも近迫して来て、最後の時がじりじりと迫りつつあった。
十二月二十四日の在ガ島日本軍の電信は、糧秣事情の急迫を告げて悲鳴に近いものがある。
「今ヤガ島ノ運命ヲ決スルモノハ糧秣トナリ而モ其ノ機ハ刻々ニ迫リツツアリ」
「打続ク糧秣ノ不足殊ニ二十日以後僅カニ木ノ芽、椰子実、川草等ノミニ依ル生存ハ 第一線ノ大部ヲシテ戦闘ヲ不能ニ陥ラシメ 歩行サヘ困難ナルモノ多ク 一斥候ノ派遣モ至難トナレリ」(電文──戦史室前掲書)
十二月中にガ島に輸送揚陸した糧秣は十分の一定量に過ぎなかった。それさえも十七日には絶えてしまったのである。
第一線陣地では、歩行出来ない傷病兵が陣地の守備に任じ、杖に|縋《すが》ってでも歩行し得る者は後方の糧秣運搬に当っていた。
米軍は、マタニカウ右岸に後退して以後、ククム付近に新たな滑走路を造成し、十一月十七日から、再び連日砲爆撃を伴う攻撃を開始した。日本軍をマタニカウ左岸地帯からポハ川(コカンボナの西)方向へ圧迫する企図であったようである。二十六日にこの一連の攻撃はやんだが、二十三日には十七軍戦闘司令所が二回も爆撃され、軍司令官、参謀長は軽傷を負い、専属副官と護衛憲兵が即死した。謄写器具一切、情報書類、事務用品などが破砕飛散し、事務処理にも事欠くようになった。司令所は同日夜、丸山道をさらに一五キロ南東に入り、九〇三高地南側に移動した。
軍に対する補給は駆逐艦輸送も困難となり、十一月二十四日以降潜水艦が連日カミンボに入泊したが、それも十二月九日、入泊予定の伊第三号潜水艦が米魚雷艇によって撃沈されてから、海軍は潜水艦輸送を当分中止と決定した。(宮崎前掲手記)
糧秣の陸上搬送力が乏しいため、第一線部隊は、場所によっては絶食六日というところもあった。
何十日も半定量以下で凌ぎ、その上六日も絶食して戦闘に耐えなければならないのである。生ける|屍《しかばね》が陣地を死守していたといっても過言でない。
最悪の給養状況で、十二月三日の十七軍命令による第二師団の任務は、ポハ川以東の海岸線防禦と小川の線付近の現防禦線を確保すること、第三十八師団の任務は、アウステン山の攻勢拠点を強化し、東部見晴台と西部堺台を結ぶ現防禦線を確保することであった。
十二月三日以来ガ島の実情視察に来ていた方面軍参謀副長佐藤傑少将が、方面軍司令部に打った電文中に次のくだりがある。
「第二師団ノ大部ハ戦意喪失シ其一部分カ辛シテ現線ヲ保持シアル現況ニシテ(以下略)」
「第三十八師団モ現在ノ如キ補給ノ状態ヲ以テセハ其大部ノ防禦戦闘能力ハ概ネ本年末迄ヲ以テ限度ト判断セラル」
反面、大量補給と増援によって戦力を増している米軍は、十二月中旬以降、アウステン山正面に向って自動車道を構築、大挙来襲の気配を見せ、ルンガ上流の丸山道方向にも近迫して来て、最後の時がじりじりと迫りつつあった。
十二月二十四日の在ガ島日本軍の電信は、糧秣事情の急迫を告げて悲鳴に近いものがある。
「今ヤガ島ノ運命ヲ決スルモノハ糧秣トナリ而モ其ノ機ハ刻々ニ迫リツツアリ」
「打続ク糧秣ノ不足殊ニ二十日以後僅カニ木ノ芽、椰子実、川草等ノミニ依ル生存ハ 第一線ノ大部ヲシテ戦闘ヲ不能ニ陥ラシメ 歩行サヘ困難ナルモノ多ク 一斥候ノ派遣モ至難トナレリ」(電文──戦史室前掲書)
十二月中にガ島に輸送揚陸した糧秣は十分の一定量に過ぎなかった。それさえも十七日には絶えてしまったのである。