田中作戦部長と東条首相との激突から、作戦部長が更迭(十二月七日)になり、そのことがガ島戦を打切りへ導く契機となったことは事実だが、現地は勿論のこと、東京中央でもガ島撤収を正面から持ち出すことは、まだ暫く誰もしなかった。
けれども、言わず語らず、ガ島戦打切りへ統帥部の空気は動いていた。
後任作戦部長がまだ着任していない十二月十二日、ラバウルの第八方面軍司令部は参謀次長からの次の要旨の電報(参電第一一九号)を受け取った。
その要旨は、第一項ではガ島に対しては既定方針を堅持し、このため補給路を堅固に設定する、となっていたが、第二項で、ニューギニアを固めることを重視する、このため第五十一師団を速かに指向する、となっていた。(第三、第四項略)
先にガダルカナルヘ充当を予定されていた独立混成第二十一旅団が、東部ニューギニアのブナ方面の増援に使用されたことは述べたが、第五十一師団に関しては、十一月十八日の上奏の際、「……機に投じて一挙に第五十一師団及び軍直轄部隊、軍需品等をガ島に強行輸送、作戦準備の促進拡充、十八年一月中旬を目途とする攻撃準備の完成……」と言ったばかりである。
その第五十一師団を速かにニューギニアに指向するというのは、東部ニューギニア北岸の要地が危殆に瀕しているという事情もあるが、ガ島奪回のための大兵力の集中という意気ごみが俄かに薄れて、戦略転換の必要が統師部の意識を浸しはじめていた証拠の一つと見ることが出来るであろう。
けれども、言わず語らず、ガ島戦打切りへ統帥部の空気は動いていた。
後任作戦部長がまだ着任していない十二月十二日、ラバウルの第八方面軍司令部は参謀次長からの次の要旨の電報(参電第一一九号)を受け取った。
その要旨は、第一項ではガ島に対しては既定方針を堅持し、このため補給路を堅固に設定する、となっていたが、第二項で、ニューギニアを固めることを重視する、このため第五十一師団を速かに指向する、となっていた。(第三、第四項略)
先にガダルカナルヘ充当を予定されていた独立混成第二十一旅団が、東部ニューギニアのブナ方面の増援に使用されたことは述べたが、第五十一師団に関しては、十一月十八日の上奏の際、「……機に投じて一挙に第五十一師団及び軍直轄部隊、軍需品等をガ島に強行輸送、作戦準備の促進拡充、十八年一月中旬を目途とする攻撃準備の完成……」と言ったばかりである。
その第五十一師団を速かにニューギニアに指向するというのは、東部ニューギニア北岸の要地が危殆に瀕しているという事情もあるが、ガ島奪回のための大兵力の集中という意気ごみが俄かに薄れて、戦略転換の必要が統師部の意識を浸しはじめていた証拠の一つと見ることが出来るであろう。
日時が多少前後するが、戦線では、歩行不能の傷病兵が陣地を守り、杖に縋ってでも歩ける兵隊は糧秣の搬送にあたるという状態であったから、米軍が徐々に圧力を強めて攻勢に出る気配が寄せられると、このまま攻勢を強化されれば陣地保持はほとんど不可能になると思われた。したがって、敵の攻撃力を高地陣地地帯で分散させる必要があり、さらに、日本軍側からの攻勢を示して、米軍に危惧感を生ぜしめ、みずからの攻勢企図を疑わせる必要があった。
第三十八歩兵団長伊東少将は師団命令によって、機をみてイヌ高地の敵を急襲して同高地及び堺台の線に捜索拠点を推進するという任務を与えられていたが、この任務の実施には、岡部隊長(歩一二四)の指揮下にあった歩兵第二百二十八連隊第八中隊(長・藤田巌中尉)があたった。
藤田中隊は、十一月三十日、折りからの豪雨を衝いて、薄暮、敵陣奇襲に出発した。友軍砲兵は弾薬僅少ながら支援射撃をした。
藤田中隊はイヌ高地陣地の北部台上を東から西へ向って突破し、一本木付近を通過してマタニカウ川河谷に沿って帰還した。藤田中隊長は敵陣鉄条網を破壊する際に、側防火器の射撃によって戦死した。
この出撃は、イヌ高地から堺台を結ぶ線に捜索拠点を推進するという目的は果さなかったが、本格的攻勢をとるだけの物的戦力を失った日本軍が、優勢な米軍の神経を撹乱する効果はあったようである。
十二月六日には、工兵第三十八連隊から、第二中隊の中沢少尉、第三中隊の寺沢少尉が、それぞれ部下四名を率いて挺身斥候となり、敵の後方施設の破壊撹乱のためアウステン山を出発し、寺沢隊は十四日に、中沢隊は十五日に無事帰還した。中沢隊は飛行機二、給油車二、照空灯一を爆破、寺沢隊は砲兵陣地一カ所、幕舎二を爆破したという。
十二月十五日、第三十八師団司令部附大野中尉以下三名が、米軍の指揮中枢を撹乱の目的をもって出発したが、この挺身隊は遂に一名も帰還しなかった。
十二月十三日から、米軍の砲兵、飛行機の活動が再び激しくなり、第三十八歩兵団正面では米軍が陣地を逐次推進して、アウステン山攻略の気勢を示しはじめた。
右記したような小部隊による挺身攻撃は、ほとんど絶食に近い状態を強いられていた日本軍将兵の肉体的衰弱を思えば、その勇敢と闘志には驚嘆すべきものがあるが、作戦的には、所詮、局部的、散発的な、微々たるゲリラ的活動に過ぎなかった。
十二月二十五日ごろの第三十八師団の給養兵額は、約六〇〇〇、うち戦闘に耐えるものは二五〇〇を割っていた。戦闘に耐える、という表現は、既に再々触れてきた通り、決して健兵を意味しない。動けない傷病兵でも壕内にあって銃の|引鉄《ひきがね》を引ければ、戦闘に耐えるものなのである。どうにか歩行出来るものの三割は、十二月下旬に揚陸を予想されていた糧秣の前送のために配置されていた。
第二師団は、既述のように、十月下旬の攻撃失敗後、飢餓と戦いつつ消耗した体力をもって、マタニカウ川上流河谷方面からコカンボナ付近に集結しつつあった。コカンボナ、タサファロング間に集結をほぼ終ったのは、十一月末のことである。
第二師団では、歩兵団長、各歩兵連隊長は、先の総攻撃と十一月上旬の米軍の攻撃によって、全部戦死し、後任各部隊長に交替していた。
第二師団戦闘司令所は、十二月五日にはポハ川右岸に、六日には勇川右岸に推進したが、師団正面の敵は、師団第一線に絶えず砲撃を浴びせ、一〇〇名内外の部隊が出撃して来て、至近距離で手榴弾戦を交えた。
敵の砲撃による第二師団各連隊の死傷は毎日十数名、多いときには二、三〇名にのぼり、戦力は目に見えて減耗していった。
十二月中旬ごろの第一線の戦闘員は、歩兵第四連隊が約四五〇名、歩兵第十六連隊が約六〇〇名であったが、その約三分の二は戦病または後方勤務で、実際に第一線で戦闘に従事出来るのは一〇〇乃至二〇〇名に過ぎなかった。(戦史室前掲書)
給養状態は悪化する一方であった。師団全体として、各人一日四分の一乃至六分の一定量で、月明のために駆逐艦輸送が出来なくなると、各部隊ほとんど絶食状態となった。
弾薬も欠乏して存分な交戦には堪えられず、薬品や衛生材料も補給がなく、給養の極度の不足と重なって、十二月中旬以降は師団合計で一日に四〇名内外の死者が出るようになっていた。
「月のうち七日ある闇夜は、熊部隊(元一木支隊──引用者)のみならず、二万の将兵の待ち焦れる日であり、月の出る夜は飢える日となりました。」(山本一『鎮魂ガダルカナル島』)
右書には、「前線への米を背負ったまま飢え疲れて死んでいった者のあることを郷土の人々に知らせるのは生き残った者の任務だと思っております。」とある。
衰弱した体で糧秣運搬に出て、背負っている米を食えば死なずにすんだかもしれないのを、戦友が待ち焦れている米を前線へ持ち帰ろうとして力尽きて死んだ兵隊も沢山いれば、また、次のようなのもいた。
「ある日この憲兵長が発言した。
�このごろ、殺人事件が頻発している模様である。糧秣受領の帰途がねらわれる。疲れてどこでも構わず寝ているところを殺して、その米を奪うのである。残念ながら働ける憲兵が一人もいないので、各部隊が十分に注意して、一人では行動させぬよう、野宿の時も看視をおいて、みなで寝ないようにして貰いたい�
味方が、本当に、味方を殺すようになったのか。日本兵が日本兵を殺すのだ。共に敵にむかうべき剣を、戦友の胸にむけはじめたのだ。恐るべき事であった。」(吉田嘉七『ガダルカナル戦詩集』)
軍隊は、それを生んだ社会の縮図である。社会にあるものは軍隊に全部ある。社会にないものは、その軍隊にもない。軍隊が極限状況に置かれれば、善悪ともに、最高度に濃縮された形で現われてくるのは当然であるといえる。
右書の著者もガ島で辛酸をなめ尽したと想像されるが、死と背なか合せでいてよく観察している。なまなかな創作などとても及ばない実在感がある。飢えとマラリアと過労とで死んでゆく兵隊の末路を次のように記している。
「三里か四里の道を、食糧もなく、熱を出しては倒れ、熱を出しては倒れして、十日もかかって辿りつく。(中略)
死なないうちに蝿がたかる。追っても追ってもよってくる。とうとう追いきれなくなる。と、蝿は群をなして、露出されている皮膚にたかる。顔面は一本の|皺《しわ》も見えないまでに、蝿がまっ黒にたかり、皮膚を噛み、肉をむさぼる。
そのわきを通ると、一時にぶーんと蝿は飛び立つ。飛び立ったあとの、食いあらされた顔の醜さ、恐しさ。鼻もなく、口もなく、眼もない。白くむき出された骨と、ところどころに紫色にくっついている肉塊。それらに固りついて黒くなった血痕。
これが忠勇な、天皇陛下の|股肱《ここう》の最後の姿。われわれの戦友の、兄弟の、国家にすべてを捧げきった姿。(以下略)」
敗軍は哀れである。ものの数にも入らない兵隊の死は、簡単に忘れられるか、はじめから関心さえも寄せられないという意味で、これほどむごたらしいものはない。
くどいようだが、死者の存在証明としてはくど過ぎることはあるまい。もう少し引用をつづける。
「ひどい所では、三尺幅の道の両側に一間おきぐらいにつながって死臭を放っていた。みながみな一度に斃れたのではない。もう綺麗に白骨になってしまったのもおれば、蝿のたかっているのもいるし、まだかすかに息のある者もある。けれどそれは単に時間の相違でしかなかった。そしてそれらの死体はほとんど例外なしに、ズボンをすっかりぬいでいたり、半ばはずしていたりした。
(中略)
あるとき道に迷った。ふと見るとむこうのボサのところに、兵隊が腰をおろしている。声をかけたが返事がない。へんだなと思い、前にまわってみる。
なんと、戦闘帽の下に顔がない。白くかわいた頭蓋骨が、黒くポッカリと|眼窩《がんか》をあけて戦闘帽をかぶっているのだ。被服はそっくりそのまま腐りもせず、巻脚絆をまいた足などは軍靴の中に収まっている。(以下略)」(吉田嘉七前掲書)
第三十八歩兵団長伊東少将は師団命令によって、機をみてイヌ高地の敵を急襲して同高地及び堺台の線に捜索拠点を推進するという任務を与えられていたが、この任務の実施には、岡部隊長(歩一二四)の指揮下にあった歩兵第二百二十八連隊第八中隊(長・藤田巌中尉)があたった。
藤田中隊は、十一月三十日、折りからの豪雨を衝いて、薄暮、敵陣奇襲に出発した。友軍砲兵は弾薬僅少ながら支援射撃をした。
藤田中隊はイヌ高地陣地の北部台上を東から西へ向って突破し、一本木付近を通過してマタニカウ川河谷に沿って帰還した。藤田中隊長は敵陣鉄条網を破壊する際に、側防火器の射撃によって戦死した。
この出撃は、イヌ高地から堺台を結ぶ線に捜索拠点を推進するという目的は果さなかったが、本格的攻勢をとるだけの物的戦力を失った日本軍が、優勢な米軍の神経を撹乱する効果はあったようである。
十二月六日には、工兵第三十八連隊から、第二中隊の中沢少尉、第三中隊の寺沢少尉が、それぞれ部下四名を率いて挺身斥候となり、敵の後方施設の破壊撹乱のためアウステン山を出発し、寺沢隊は十四日に、中沢隊は十五日に無事帰還した。中沢隊は飛行機二、給油車二、照空灯一を爆破、寺沢隊は砲兵陣地一カ所、幕舎二を爆破したという。
十二月十五日、第三十八師団司令部附大野中尉以下三名が、米軍の指揮中枢を撹乱の目的をもって出発したが、この挺身隊は遂に一名も帰還しなかった。
十二月十三日から、米軍の砲兵、飛行機の活動が再び激しくなり、第三十八歩兵団正面では米軍が陣地を逐次推進して、アウステン山攻略の気勢を示しはじめた。
右記したような小部隊による挺身攻撃は、ほとんど絶食に近い状態を強いられていた日本軍将兵の肉体的衰弱を思えば、その勇敢と闘志には驚嘆すべきものがあるが、作戦的には、所詮、局部的、散発的な、微々たるゲリラ的活動に過ぎなかった。
十二月二十五日ごろの第三十八師団の給養兵額は、約六〇〇〇、うち戦闘に耐えるものは二五〇〇を割っていた。戦闘に耐える、という表現は、既に再々触れてきた通り、決して健兵を意味しない。動けない傷病兵でも壕内にあって銃の|引鉄《ひきがね》を引ければ、戦闘に耐えるものなのである。どうにか歩行出来るものの三割は、十二月下旬に揚陸を予想されていた糧秣の前送のために配置されていた。
第二師団は、既述のように、十月下旬の攻撃失敗後、飢餓と戦いつつ消耗した体力をもって、マタニカウ川上流河谷方面からコカンボナ付近に集結しつつあった。コカンボナ、タサファロング間に集結をほぼ終ったのは、十一月末のことである。
第二師団では、歩兵団長、各歩兵連隊長は、先の総攻撃と十一月上旬の米軍の攻撃によって、全部戦死し、後任各部隊長に交替していた。
第二師団戦闘司令所は、十二月五日にはポハ川右岸に、六日には勇川右岸に推進したが、師団正面の敵は、師団第一線に絶えず砲撃を浴びせ、一〇〇名内外の部隊が出撃して来て、至近距離で手榴弾戦を交えた。
敵の砲撃による第二師団各連隊の死傷は毎日十数名、多いときには二、三〇名にのぼり、戦力は目に見えて減耗していった。
十二月中旬ごろの第一線の戦闘員は、歩兵第四連隊が約四五〇名、歩兵第十六連隊が約六〇〇名であったが、その約三分の二は戦病または後方勤務で、実際に第一線で戦闘に従事出来るのは一〇〇乃至二〇〇名に過ぎなかった。(戦史室前掲書)
給養状態は悪化する一方であった。師団全体として、各人一日四分の一乃至六分の一定量で、月明のために駆逐艦輸送が出来なくなると、各部隊ほとんど絶食状態となった。
弾薬も欠乏して存分な交戦には堪えられず、薬品や衛生材料も補給がなく、給養の極度の不足と重なって、十二月中旬以降は師団合計で一日に四〇名内外の死者が出るようになっていた。
「月のうち七日ある闇夜は、熊部隊(元一木支隊──引用者)のみならず、二万の将兵の待ち焦れる日であり、月の出る夜は飢える日となりました。」(山本一『鎮魂ガダルカナル島』)
右書には、「前線への米を背負ったまま飢え疲れて死んでいった者のあることを郷土の人々に知らせるのは生き残った者の任務だと思っております。」とある。
衰弱した体で糧秣運搬に出て、背負っている米を食えば死なずにすんだかもしれないのを、戦友が待ち焦れている米を前線へ持ち帰ろうとして力尽きて死んだ兵隊も沢山いれば、また、次のようなのもいた。
「ある日この憲兵長が発言した。
�このごろ、殺人事件が頻発している模様である。糧秣受領の帰途がねらわれる。疲れてどこでも構わず寝ているところを殺して、その米を奪うのである。残念ながら働ける憲兵が一人もいないので、各部隊が十分に注意して、一人では行動させぬよう、野宿の時も看視をおいて、みなで寝ないようにして貰いたい�
味方が、本当に、味方を殺すようになったのか。日本兵が日本兵を殺すのだ。共に敵にむかうべき剣を、戦友の胸にむけはじめたのだ。恐るべき事であった。」(吉田嘉七『ガダルカナル戦詩集』)
軍隊は、それを生んだ社会の縮図である。社会にあるものは軍隊に全部ある。社会にないものは、その軍隊にもない。軍隊が極限状況に置かれれば、善悪ともに、最高度に濃縮された形で現われてくるのは当然であるといえる。
右書の著者もガ島で辛酸をなめ尽したと想像されるが、死と背なか合せでいてよく観察している。なまなかな創作などとても及ばない実在感がある。飢えとマラリアと過労とで死んでゆく兵隊の末路を次のように記している。
「三里か四里の道を、食糧もなく、熱を出しては倒れ、熱を出しては倒れして、十日もかかって辿りつく。(中略)
死なないうちに蝿がたかる。追っても追ってもよってくる。とうとう追いきれなくなる。と、蝿は群をなして、露出されている皮膚にたかる。顔面は一本の|皺《しわ》も見えないまでに、蝿がまっ黒にたかり、皮膚を噛み、肉をむさぼる。
そのわきを通ると、一時にぶーんと蝿は飛び立つ。飛び立ったあとの、食いあらされた顔の醜さ、恐しさ。鼻もなく、口もなく、眼もない。白くむき出された骨と、ところどころに紫色にくっついている肉塊。それらに固りついて黒くなった血痕。
これが忠勇な、天皇陛下の|股肱《ここう》の最後の姿。われわれの戦友の、兄弟の、国家にすべてを捧げきった姿。(以下略)」
敗軍は哀れである。ものの数にも入らない兵隊の死は、簡単に忘れられるか、はじめから関心さえも寄せられないという意味で、これほどむごたらしいものはない。
くどいようだが、死者の存在証明としてはくど過ぎることはあるまい。もう少し引用をつづける。
「ひどい所では、三尺幅の道の両側に一間おきぐらいにつながって死臭を放っていた。みながみな一度に斃れたのではない。もう綺麗に白骨になってしまったのもおれば、蝿のたかっているのもいるし、まだかすかに息のある者もある。けれどそれは単に時間の相違でしかなかった。そしてそれらの死体はほとんど例外なしに、ズボンをすっかりぬいでいたり、半ばはずしていたりした。
(中略)
あるとき道に迷った。ふと見るとむこうのボサのところに、兵隊が腰をおろしている。声をかけたが返事がない。へんだなと思い、前にまわってみる。
なんと、戦闘帽の下に顔がない。白くかわいた頭蓋骨が、黒くポッカリと|眼窩《がんか》をあけて戦闘帽をかぶっているのだ。被服はそっくりそのまま腐りもせず、巻脚絆をまいた足などは軍靴の中に収まっている。(以下略)」(吉田嘉七前掲書)