十二月に入ると、米軍の航空勢力の優勢はいっそう顕著になった。ソロモン諸島もビスマーク諸島も、ほとんどいつでもB17の哨戒圈下にあった。ラバウルやショートランドからの艦艇輸送は、出港すると直ぐに哨戒機に発見されるようになった。
既述の通り第八方面軍司令部が兵棋演習を行なって(十二月中旬)、悲観的な結論が出される前までの段階では、十二月中旬末までに所要飛行基地を推進して、航空撃滅戦が展開されるはずであった。事実は、残念なことに、そのようには進展しなかった。予定通り戦力を増大し得たのは敵方であった。
十二月下旬、日本側の航空戦力は、陸軍の一式戦闘機四四、海軍機は五五の戦闘機を含めて一〇六機に過ぎず、敵方飛行機の活動は「傍若無人」としかいいようがなかった。我方は機数の劣勢もさることながら、長期間の航空消耗戦で優秀な搭乗員の多数を失ったことが、補いのつかない痛手であった。
十一航艦参謀長酒巻少将が、退任に際して、連合艦隊宇垣参謀長を訪れ、次のような主旨の話をしている。
今日のような戦況不利に陥ったのは、因はといえば航空技倆の低下である。天候不良とか何とか言うが、結局はそこに帰着する。現在の技倆は、従前の三分の一に低下している。新しく到着した戦闘機隊の現状を見ると、搭乗員六〇名のうち、零戦の搭乗経験のない者が四四名である。つまり、九六式戦闘機の経験者だけが多いから、到着後に改めて訓練をし直さなければならない状態である。今日このままでは局面打開の方法はない。ガ島に対しては成算がない。ただ、諸島基地を連綴する輸送及後方遮断は、実施してみる方がよい、どれだけの確実性があるかは、別問題であるが、というのであった。(宇垣前掲書)
増援に来ることになっている陸軍航空部隊は、十二月下旬になっても、まだ輸送途上にあり、陸軍機は当然のこととして洋上飛行には慣熟していないから、基地に展開と同時に戦力となることは期待出来なかった。基地推進も、ムンダ、コロンバンガラなどの飛行場設定は、敵機の連日の攻撃を受けて、作業が予定計画より著しく遅れていた。
総括していえば、航空撃滅戦は作戦に関する作文のようには進展せず、したがって、ガ島に対する輸送難は日々深刻の度を増しつつあった。
十一月の船団輸送潰滅後、現地も中央も補給方法に苦心を凝らした。ガ島戦は、いまや、敵と銃砲火を交える戦であるよりも、在ガ島日本軍将兵の露命を如何にしてつなぐかという、餓死との戦となっていた。
従来の駆逐艦輸送(鼠輸送)は、敵の哨戒と妨害が激しくなったため、駆逐艦の入泊が困難となり、既述のドラム缶を海中に投入するドラム缶輸送、防水ゴム袋を投入する方法、潜水艦による輸送が考えられ、逐次実施されたが、これらの成功率も決して高くはなかった。
連合艦隊としては、潜水艦を輸送に使用することは堪え難い苦痛であったが、在ガ島日本軍の餓死を救うためには余儀ない措置であった。第一回目の潜水艦輸送は十一月二十四日夜に行なわれたが、陸上との連絡不備のため徒労に終った。第二回目、十一月二十五日、伊十七潜による輸送がはじめて成功した。
この方法は十二月上旬まで反復されたが、既述の通り、十二月九日夜、伊三潜がカミンボ泊地で敵魚雷艇の攻撃を受けて沈没してからは、下旬まで中止となった。
再開されたのは十二月二十六日で、一月五日までに二五トン入りの米俵一五〇〇俵がカミンボに集積されたが、この苦心の結果の集積も、十七軍全軍にとってはほんの一時凌ぎに過ぎなかった。
ドラム缶輸送の第一回目は、十一月三十日、駆逐艦六隻に各艦ドラム缶二〇〇個を積み、二水戦司令官指揮のもとに警戒艦二隻と共に出撃したが、サボ島付近で海戦(後述)となったため、輸送は中止された。
二回目は十二月三日、駆逐艦一一隻をもって行なわれた。途中敵機に捕捉されたが、駆逐艦隊は突進を続行し、タサファロング沖に一五〇〇個のドラム缶を投入した。しかし、陸上に回収し得たのは僅かに二一〇個に過ぎず、大部分は天明後敵機の銃爆撃によって沈められてしまった。
三回目の十二月七日は駆逐艦一一隻によって実施されたが、敵機の襲撃が激しく、野分が航行不能に陥り、嵐も被爆し、野分は長波が曳航、嵐と有明が護衛して帰途についた。残りの七隻は前進をつづけたが、ガ島付近で敵魚雷艇八隻の攻撃を受け、輸送目的を果さずに反転帰投せざるを得なかった。
翌十二月八日、既に一度触れたことだが、現地海軍は駆逐艦をもってする輸送を行なわないと、陸軍側に通告した。その詳細は後述するが、現地陸海軍の協議で、あと一回だけ実施することになり、第四回目として、十二月十一日、二水戦司令官指揮のもとに九隻がショートランドを出撃し、敵機の攻撃と魚雷艇の襲撃下に、ドラム缶一二〇〇個を投入した。その間、駆逐艦照月(旗艦)は魚雷一本の命中によって爆発炎上、沈没した。投入されたドラム缶は二二〇本が陸上に回収された。これは半定量として僅かに約三日分である。
海軍は毎回のように駆逐艦の犠牲を出しながら、補給に努力を傾けたが、ガ島の陸上では飢餓が破局へ向って進行していた。
こういう詩がある。(吉田前掲書)
「 米
一月を食わずにありて
一月め米は届きぬ
ゴム製の袋に入りて
見なれざる梱包なりき。
(中略)
われらかく食わずにありと、
心こめ送り来りし。
おろがみて押し頂けば、
はらはらと涙こぼれぬ。
既述の通り第八方面軍司令部が兵棋演習を行なって(十二月中旬)、悲観的な結論が出される前までの段階では、十二月中旬末までに所要飛行基地を推進して、航空撃滅戦が展開されるはずであった。事実は、残念なことに、そのようには進展しなかった。予定通り戦力を増大し得たのは敵方であった。
十二月下旬、日本側の航空戦力は、陸軍の一式戦闘機四四、海軍機は五五の戦闘機を含めて一〇六機に過ぎず、敵方飛行機の活動は「傍若無人」としかいいようがなかった。我方は機数の劣勢もさることながら、長期間の航空消耗戦で優秀な搭乗員の多数を失ったことが、補いのつかない痛手であった。
十一航艦参謀長酒巻少将が、退任に際して、連合艦隊宇垣参謀長を訪れ、次のような主旨の話をしている。
今日のような戦況不利に陥ったのは、因はといえば航空技倆の低下である。天候不良とか何とか言うが、結局はそこに帰着する。現在の技倆は、従前の三分の一に低下している。新しく到着した戦闘機隊の現状を見ると、搭乗員六〇名のうち、零戦の搭乗経験のない者が四四名である。つまり、九六式戦闘機の経験者だけが多いから、到着後に改めて訓練をし直さなければならない状態である。今日このままでは局面打開の方法はない。ガ島に対しては成算がない。ただ、諸島基地を連綴する輸送及後方遮断は、実施してみる方がよい、どれだけの確実性があるかは、別問題であるが、というのであった。(宇垣前掲書)
増援に来ることになっている陸軍航空部隊は、十二月下旬になっても、まだ輸送途上にあり、陸軍機は当然のこととして洋上飛行には慣熟していないから、基地に展開と同時に戦力となることは期待出来なかった。基地推進も、ムンダ、コロンバンガラなどの飛行場設定は、敵機の連日の攻撃を受けて、作業が予定計画より著しく遅れていた。
総括していえば、航空撃滅戦は作戦に関する作文のようには進展せず、したがって、ガ島に対する輸送難は日々深刻の度を増しつつあった。
十一月の船団輸送潰滅後、現地も中央も補給方法に苦心を凝らした。ガ島戦は、いまや、敵と銃砲火を交える戦であるよりも、在ガ島日本軍将兵の露命を如何にしてつなぐかという、餓死との戦となっていた。
従来の駆逐艦輸送(鼠輸送)は、敵の哨戒と妨害が激しくなったため、駆逐艦の入泊が困難となり、既述のドラム缶を海中に投入するドラム缶輸送、防水ゴム袋を投入する方法、潜水艦による輸送が考えられ、逐次実施されたが、これらの成功率も決して高くはなかった。
連合艦隊としては、潜水艦を輸送に使用することは堪え難い苦痛であったが、在ガ島日本軍の餓死を救うためには余儀ない措置であった。第一回目の潜水艦輸送は十一月二十四日夜に行なわれたが、陸上との連絡不備のため徒労に終った。第二回目、十一月二十五日、伊十七潜による輸送がはじめて成功した。
この方法は十二月上旬まで反復されたが、既述の通り、十二月九日夜、伊三潜がカミンボ泊地で敵魚雷艇の攻撃を受けて沈没してからは、下旬まで中止となった。
再開されたのは十二月二十六日で、一月五日までに二五トン入りの米俵一五〇〇俵がカミンボに集積されたが、この苦心の結果の集積も、十七軍全軍にとってはほんの一時凌ぎに過ぎなかった。
ドラム缶輸送の第一回目は、十一月三十日、駆逐艦六隻に各艦ドラム缶二〇〇個を積み、二水戦司令官指揮のもとに警戒艦二隻と共に出撃したが、サボ島付近で海戦(後述)となったため、輸送は中止された。
二回目は十二月三日、駆逐艦一一隻をもって行なわれた。途中敵機に捕捉されたが、駆逐艦隊は突進を続行し、タサファロング沖に一五〇〇個のドラム缶を投入した。しかし、陸上に回収し得たのは僅かに二一〇個に過ぎず、大部分は天明後敵機の銃爆撃によって沈められてしまった。
三回目の十二月七日は駆逐艦一一隻によって実施されたが、敵機の襲撃が激しく、野分が航行不能に陥り、嵐も被爆し、野分は長波が曳航、嵐と有明が護衛して帰途についた。残りの七隻は前進をつづけたが、ガ島付近で敵魚雷艇八隻の攻撃を受け、輸送目的を果さずに反転帰投せざるを得なかった。
翌十二月八日、既に一度触れたことだが、現地海軍は駆逐艦をもってする輸送を行なわないと、陸軍側に通告した。その詳細は後述するが、現地陸海軍の協議で、あと一回だけ実施することになり、第四回目として、十二月十一日、二水戦司令官指揮のもとに九隻がショートランドを出撃し、敵機の攻撃と魚雷艇の襲撃下に、ドラム缶一二〇〇個を投入した。その間、駆逐艦照月(旗艦)は魚雷一本の命中によって爆発炎上、沈没した。投入されたドラム缶は二二〇本が陸上に回収された。これは半定量として僅かに約三日分である。
海軍は毎回のように駆逐艦の犠牲を出しながら、補給に努力を傾けたが、ガ島の陸上では飢餓が破局へ向って進行していた。
こういう詩がある。(吉田前掲書)
「 米
一月を食わずにありて
一月め米は届きぬ
ゴム製の袋に入りて
見なれざる梱包なりき。
(中略)
われらかく食わずにありと、
心こめ送り来りし。
おろがみて押し頂けば、
はらはらと涙こぼれぬ。
されどせめて一日早く
なぜなれば届かざりしぞ。
一握の米をつかみて、
つつしみて墓前に供う。」
この飢餓と疾病の地獄から生還したとき、この詩人はそのころのことを次のように書いている。
「(前節略)
俺達は昨日まで
発熱激しい時は
一人で退いて
一人でふるえ
一人でうなっていた。
そして最後に自分で自分を始末した、
戦いの邪魔にならぬようにと。
大勢の戦友たちが、
自分で自分を始末しながら
つぎつぎ冷たくなって行くのを
俺達は見て来た。
俺も亦その日が来たら
そのようにするつもりで。」
なぜなれば届かざりしぞ。
一握の米をつかみて、
つつしみて墓前に供う。」
この飢餓と疾病の地獄から生還したとき、この詩人はそのころのことを次のように書いている。
「(前節略)
俺達は昨日まで
発熱激しい時は
一人で退いて
一人でふるえ
一人でうなっていた。
そして最後に自分で自分を始末した、
戦いの邪魔にならぬようにと。
大勢の戦友たちが、
自分で自分を始末しながら
つぎつぎ冷たくなって行くのを
俺達は見て来た。
俺も亦その日が来たら
そのようにするつもりで。」
航空撃滅戦を唱えながら、彼我の航空戦力の差はひらくばかりであった。優秀な搭乗員がいてさえ、零戦でB17を撃墜することは困難であったのに、我方の技倆は日毎に低下し、敵はB17の活動範囲が目立って広くなり、我方は手も足も出なくなった。
在ガ島日本将兵の眼に日本機の姿が映ずることはほとんどなくなったと言ってよい。
完全な敵の制空権下へ輸送のために艦艇が出動することは、毎回が決死行であった。それも毎回の揚陸が成功すればいいが、そうではなかった。海軍は、駆逐艦の損耗に次第に耐えられなくなった。十月下旬の第二師団の総攻撃失敗以後、駆逐艦輸送のたびごとに、敵機と魚雷艇によって、平均二隻ずつの損害を出し、僅かの期間に十数隻の駆逐艦が消えてしまったのである。造艦計画では、昭和十八年度一一隻、十九年度一〇隻であるから、造艦が順調に行くとしても、消耗に追いつかない。
駆逐艦の損耗を忍びながら輸送に使用するとすれば、連合艦隊としては、敵の有力艦隊が出現しても、決戦のためにその海面へ出撃出来ないことになる。これ以上、輸送のために駆逐艦を減らすことは耐えられない、というのが海軍の見解であった。
十二月八日、開戦まる一年目、十一航艦と第八艦隊の参謀が、軍令部の山本部員と連合艦隊の渡辺参謀と共に、第八方面軍司令部を訪れ、方面軍参謀に次のように告げたのは、右記した事情の結果である。
「駆逐艦輸送は行き詰まって、これ以上継続出来ない。これ以上駆逐艦を失うことは、連合艦隊の作戦を危険に陥入れることになる。したがって、今日限り駆逐艦輸送は実施せず、ガ島に対しては潜水艦輸送を行なう。(ニューギニア関係引用者省略)」
由々しい問題であった。幕僚相互の談合で解決すべき問題ではないとして、同日夕刻から、今村第八方面軍司令官、加藤参謀長、草鹿十一航艦司令長官、酒巻同参謀長の四者会談に委ねられた。
四者会談の結果は、ガダルカナルに対してはもう一度だけ駆逐艦輸送を行ない、その後は潜水艦輸送によって月末までの糧食を輸送する、ということになった。(ニューギニア関係略)
第八方面軍参謀長は東京の参謀次長宛てに、十二月十六日、右の艦艇輸送中止案に関連する電報を打っているが、長文なので、一部分だけを引用する。
「ガ島ノ糧食保有量ハ半定量トシテ沖(第十七軍の通称名)ノ報告ニテハ十二月十六日迄ニシテ今ヤ殆ト完全ニ敵ノ為ニ糧道ヲ断タレントスル状態ニ陥レリ(中略)|今後ニ於ケル作戦上ノ如何ナル施策モ先ツ補給ノ確保ヲ根基トセサルヘカラサル所《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、之カ確保ニ関シ極メテ憂慮スヘキ状態ニ陥レルヲ遺憾トス(以下略)」(傍点引用者)
傍点部分が事ここに至ってはじめて言われるような「帝国陸軍」の体質を奇異としなければならない。飛行機や軍艦の燃料ははじめから気にしたが、人間の食糧はさして気にもしなかった。欠乏しはじめてきて周章狼狽したが、もう遅かった。それが、ガダルカナルたるとニューギニアたるとを問わず、日本軍の用兵の本質的な欠陥であった。
艦艇輸送中止の件は東京中央でも論議されて、そのころ後述するようにガ島攻略か放棄かを内々で検討しはじめていた海軍部は、陸軍部からの強い要望を容れて、十二月二十日、連合艦隊に対して左の指示を出した。
連合艦隊司令長官ハ差当リ艦艇等ノ多少ノ損耗ヲ忍フモ為シ得ル限リノ手段ヲ尽シテガダルカナル所在部隊ノ生存ニ必要ナル糧食補給ハ之ヲ継続スヘシ
これでガ島に対する艦艇輸送が再開されることになったが、それでガ島の飢餓が解決されたわけではなく、苦痛を忍んで決死行を反復する現地海軍の問題が解決されたわけでもなかった。
在ガ島日本将兵の眼に日本機の姿が映ずることはほとんどなくなったと言ってよい。
完全な敵の制空権下へ輸送のために艦艇が出動することは、毎回が決死行であった。それも毎回の揚陸が成功すればいいが、そうではなかった。海軍は、駆逐艦の損耗に次第に耐えられなくなった。十月下旬の第二師団の総攻撃失敗以後、駆逐艦輸送のたびごとに、敵機と魚雷艇によって、平均二隻ずつの損害を出し、僅かの期間に十数隻の駆逐艦が消えてしまったのである。造艦計画では、昭和十八年度一一隻、十九年度一〇隻であるから、造艦が順調に行くとしても、消耗に追いつかない。
駆逐艦の損耗を忍びながら輸送に使用するとすれば、連合艦隊としては、敵の有力艦隊が出現しても、決戦のためにその海面へ出撃出来ないことになる。これ以上、輸送のために駆逐艦を減らすことは耐えられない、というのが海軍の見解であった。
十二月八日、開戦まる一年目、十一航艦と第八艦隊の参謀が、軍令部の山本部員と連合艦隊の渡辺参謀と共に、第八方面軍司令部を訪れ、方面軍参謀に次のように告げたのは、右記した事情の結果である。
「駆逐艦輸送は行き詰まって、これ以上継続出来ない。これ以上駆逐艦を失うことは、連合艦隊の作戦を危険に陥入れることになる。したがって、今日限り駆逐艦輸送は実施せず、ガ島に対しては潜水艦輸送を行なう。(ニューギニア関係引用者省略)」
由々しい問題であった。幕僚相互の談合で解決すべき問題ではないとして、同日夕刻から、今村第八方面軍司令官、加藤参謀長、草鹿十一航艦司令長官、酒巻同参謀長の四者会談に委ねられた。
四者会談の結果は、ガダルカナルに対してはもう一度だけ駆逐艦輸送を行ない、その後は潜水艦輸送によって月末までの糧食を輸送する、ということになった。(ニューギニア関係略)
第八方面軍参謀長は東京の参謀次長宛てに、十二月十六日、右の艦艇輸送中止案に関連する電報を打っているが、長文なので、一部分だけを引用する。
「ガ島ノ糧食保有量ハ半定量トシテ沖(第十七軍の通称名)ノ報告ニテハ十二月十六日迄ニシテ今ヤ殆ト完全ニ敵ノ為ニ糧道ヲ断タレントスル状態ニ陥レリ(中略)|今後ニ於ケル作戦上ノ如何ナル施策モ先ツ補給ノ確保ヲ根基トセサルヘカラサル所《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、之カ確保ニ関シ極メテ憂慮スヘキ状態ニ陥レルヲ遺憾トス(以下略)」(傍点引用者)
傍点部分が事ここに至ってはじめて言われるような「帝国陸軍」の体質を奇異としなければならない。飛行機や軍艦の燃料ははじめから気にしたが、人間の食糧はさして気にもしなかった。欠乏しはじめてきて周章狼狽したが、もう遅かった。それが、ガダルカナルたるとニューギニアたるとを問わず、日本軍の用兵の本質的な欠陥であった。
艦艇輸送中止の件は東京中央でも論議されて、そのころ後述するようにガ島攻略か放棄かを内々で検討しはじめていた海軍部は、陸軍部からの強い要望を容れて、十二月二十日、連合艦隊に対して左の指示を出した。
連合艦隊司令長官ハ差当リ艦艇等ノ多少ノ損耗ヲ忍フモ為シ得ル限リノ手段ヲ尽シテガダルカナル所在部隊ノ生存ニ必要ナル糧食補給ハ之ヲ継続スヘシ
これでガ島に対する艦艇輸送が再開されることになったが、それでガ島の飢餓が解決されたわけではなく、苦痛を忍んで決死行を反復する現地海軍の問題が解決されたわけでもなかった。