十一月中旬の船団輸送の惨澹たる潰滅後、在ガ島将兵に糧食、弾薬を補給して占拠地点を確保させることが、連合艦隊にとっての緊急課題であった。在ガ島米軍は、しかし、航空兵力を増強し、月明期には日本側としてはほとんどなす術がなかった。
洗浄したドラム缶に糧秣を容れ(浮力を保つ程度に)、二〇〇個乃至二四〇個のドラム缶を索で連結し、駆逐艦の甲板上から海中に投入し、索の端末を小発が陸上に渡して、陸上に引き寄せるという方法は、敵の制空権下での苦しまぎれの考案であった。
十一月三十日、第一回目のドラム缶輸送が前述の通り行なわれた。駆逐艦を使用する輸送としては、十一月十日の五隻以来二〇日目であった。
今回は二水戦司令官田中頼三少将の指揮する駆逐艦八隻で、うち旗艦の長波と高波の二隻は警戒艦、他の六隻が搭載艦としてそれぞれドラム缶約二〇〇個を積んでいた。ドラム缶を積んだ艦は安定性保持のため予備魚雷八本をブインに揚陸し、二十九日午後十時三十分ショートランドを出撃、北方航路をとってガダルカナルへ向った。
揚陸点としては、海軍は敵の魚雷艇を避けるためになるべく西方を希望したが、陸軍は陸上輸送の困難から、なるべくタサファロング付近を希望したので、結局、タサファロングとセギロウ川河口付近とした。
輸送隊は三十日早朝から敵機に接触された。午後三時ごろから敵機の爆撃圏内に入ったが、折りからの猛烈なスコールのせいか、敵機の来襲はなかった。
友軍索敵機から「本日昼間ルンガ沖に敵駆逐艦一二隻、輸送船九隻を認む」と電信があり、田中司令官は「今夜会敵の算大なり。会敵せば揚陸に拘泥することなく敵撃滅に努めよ」と信号した。
午後八時ごろ、輸送隊はサボ島南西方に進出、「高波」は前路警戒のため先行した。
八時半ごろ、揚陸予定に従って、第十五駆逐隊三隻(親潮、黒潮、陽炎)はタサファロングへ、第二十四駆逐隊三隻(江風、涼風、巻波)はセギロウ海岸へ向った。八時四十分ごろ、敵機三乃至四機が航空灯をつけて低空哨戒しているのが認められたが、発見されたか否かは不明であった。
午後九時十二分、「高波」から敵らしき艦影の発見を報じ、次いで「敵駆逐艦七隻見ゆ」と急報した。
ドラム缶搭戦艦は投入準備をしているときであった。二水戦司令官は直ちに「揚陸止メ、戦闘配置ニ就ケ」と下令した。
間もなく、米軍機が吊光弾多数を陸と輸送隊との間に投下し、敵艦隊の方が先に一斉砲撃を「高波」に集中した。
水雷戦隊の全軍突撃が開始された。
「高波」は敵の二、三番艦に命中弾を与え、火災を起こさせ、その火災が期せずして背景照明となったため僚艦の戦闘を有利に導いたが、「高波」自身は敵の集中砲火と魚雷を受け、サボ島南方五浬の地点に沈んだ。
米艦の火災の後方を通過する艦影からして、敵艦の数が意外に多く、しかも大型艦であることを知った旗艦長波は、反航対勢で照射射撃を行ない、|面舵《おもかじ》反転して約四〇〇〇米の距離から敵巡洋鑑列中央鑑に対して魚雷八本を発射した。敵からの集中射を受けたが、被害はなかった。
各隊駆逐艦それぞれに魚雷を発射し、砲撃を加え、敵艦が相次いで火災を起こすのを確認している。
夜戦は三十分あまりで終了した。
午後十一時ごろ、高波が沈没しかけているのを発見して、親潮がカッターを下ろし、黒潮が横づけしようとしているところへ、敵巡二、駆逐艦二が近距離に現われたので、駆逐艦二隻(親潮と黒潮)は避退せざるを得なかった。各艦は魚雷を全部発射してしまっていたから、突入も出来なかったのである。
二水戦司令官は分散した各艦にサボ島南西方への離脱を命じ、十二月一日午前一時三十分ころ、集結を終った七隻は、中央航路をショートランドヘ向った。ドラム缶輸送の目的は果せなかった。
海戦の結果(戦後の調査)は、我は駆逐艦一隻を失っただけであるのに対して、米側は重巡一隻沈没、重巡三隻大破であった。
このルンガ沖夜戦(米側呼称はタサファロング海戦)は、圧勝といってもよいほどの二水戦の勝利に終ったが、二水戦司令官に対する評価は、日本側では芳しくない。戦闘前の午後四時四十五分からの単縦陣制形のときに、旗艦長波が中央に位置したことは、日本海軍の伝統を破るものであり、夜戦開始の際長波は一撃を加えただけで避退してしまい、全軍の適切な戦闘指導を行なわず、夜戦は各駆逐隊、各艦ごとの戦闘になってしまった、というのである。(戦史室前掲『海軍作戦』(2))
ルンガ沖夜戦合戦図を綿密に辿ってみると、「長波」が他の駆逐艦たとえば親潮、黒潮などに較べれば、戦闘海面にあまり複雑な航跡を印していないことは事実である。だが、まっ先に避退してしまうことが出来たものかどうか、断定を急ぐことには疑問がある。
不思議なことに、戦後周到な調査をした米側の評価はまるで違うのである。
「ニミッツは……日本の砲火、魚雷戦の技術、エネルギーと忍耐と勇気を賞讃した。……田中(二水戦司令官──引用者)は飛び切り素晴らしかった。……駆逐艦一隻を代価として重巡一隻を撃沈、他の三隻をほとんど一年にわたって戦闘不能とした。戦争における多くの作戦について、アメリカ側の過誤は、敵側のそれによって帳消しにされてきたが、田中は、その駆逐艦隊の短時間の混乱はあったにしても、タサファロングでは誤りを犯さなかった。」(モリソン『合衆国海軍作戦史』5)
旗艦長波が勇敢な高波同様の行動をとっていたとしたら、海戦全体が如何なる結果をもたらしたかは想像できない。
二水戦司令官の評価がどうであるにせよ、駆逐艦隊が重巡戦隊を混戦に陥れて勝利を得たのは奇異のことであると言ってよい。
この海戦は、ガダルカナル争奪をめぐって起きた海戦の最後のものとなった。
洗浄したドラム缶に糧秣を容れ(浮力を保つ程度に)、二〇〇個乃至二四〇個のドラム缶を索で連結し、駆逐艦の甲板上から海中に投入し、索の端末を小発が陸上に渡して、陸上に引き寄せるという方法は、敵の制空権下での苦しまぎれの考案であった。
十一月三十日、第一回目のドラム缶輸送が前述の通り行なわれた。駆逐艦を使用する輸送としては、十一月十日の五隻以来二〇日目であった。
今回は二水戦司令官田中頼三少将の指揮する駆逐艦八隻で、うち旗艦の長波と高波の二隻は警戒艦、他の六隻が搭載艦としてそれぞれドラム缶約二〇〇個を積んでいた。ドラム缶を積んだ艦は安定性保持のため予備魚雷八本をブインに揚陸し、二十九日午後十時三十分ショートランドを出撃、北方航路をとってガダルカナルへ向った。
揚陸点としては、海軍は敵の魚雷艇を避けるためになるべく西方を希望したが、陸軍は陸上輸送の困難から、なるべくタサファロング付近を希望したので、結局、タサファロングとセギロウ川河口付近とした。
輸送隊は三十日早朝から敵機に接触された。午後三時ごろから敵機の爆撃圏内に入ったが、折りからの猛烈なスコールのせいか、敵機の来襲はなかった。
友軍索敵機から「本日昼間ルンガ沖に敵駆逐艦一二隻、輸送船九隻を認む」と電信があり、田中司令官は「今夜会敵の算大なり。会敵せば揚陸に拘泥することなく敵撃滅に努めよ」と信号した。
午後八時ごろ、輸送隊はサボ島南西方に進出、「高波」は前路警戒のため先行した。
八時半ごろ、揚陸予定に従って、第十五駆逐隊三隻(親潮、黒潮、陽炎)はタサファロングへ、第二十四駆逐隊三隻(江風、涼風、巻波)はセギロウ海岸へ向った。八時四十分ごろ、敵機三乃至四機が航空灯をつけて低空哨戒しているのが認められたが、発見されたか否かは不明であった。
午後九時十二分、「高波」から敵らしき艦影の発見を報じ、次いで「敵駆逐艦七隻見ゆ」と急報した。
ドラム缶搭戦艦は投入準備をしているときであった。二水戦司令官は直ちに「揚陸止メ、戦闘配置ニ就ケ」と下令した。
間もなく、米軍機が吊光弾多数を陸と輸送隊との間に投下し、敵艦隊の方が先に一斉砲撃を「高波」に集中した。
水雷戦隊の全軍突撃が開始された。
「高波」は敵の二、三番艦に命中弾を与え、火災を起こさせ、その火災が期せずして背景照明となったため僚艦の戦闘を有利に導いたが、「高波」自身は敵の集中砲火と魚雷を受け、サボ島南方五浬の地点に沈んだ。
米艦の火災の後方を通過する艦影からして、敵艦の数が意外に多く、しかも大型艦であることを知った旗艦長波は、反航対勢で照射射撃を行ない、|面舵《おもかじ》反転して約四〇〇〇米の距離から敵巡洋鑑列中央鑑に対して魚雷八本を発射した。敵からの集中射を受けたが、被害はなかった。
各隊駆逐艦それぞれに魚雷を発射し、砲撃を加え、敵艦が相次いで火災を起こすのを確認している。
夜戦は三十分あまりで終了した。
午後十一時ごろ、高波が沈没しかけているのを発見して、親潮がカッターを下ろし、黒潮が横づけしようとしているところへ、敵巡二、駆逐艦二が近距離に現われたので、駆逐艦二隻(親潮と黒潮)は避退せざるを得なかった。各艦は魚雷を全部発射してしまっていたから、突入も出来なかったのである。
二水戦司令官は分散した各艦にサボ島南西方への離脱を命じ、十二月一日午前一時三十分ころ、集結を終った七隻は、中央航路をショートランドヘ向った。ドラム缶輸送の目的は果せなかった。
海戦の結果(戦後の調査)は、我は駆逐艦一隻を失っただけであるのに対して、米側は重巡一隻沈没、重巡三隻大破であった。
このルンガ沖夜戦(米側呼称はタサファロング海戦)は、圧勝といってもよいほどの二水戦の勝利に終ったが、二水戦司令官に対する評価は、日本側では芳しくない。戦闘前の午後四時四十五分からの単縦陣制形のときに、旗艦長波が中央に位置したことは、日本海軍の伝統を破るものであり、夜戦開始の際長波は一撃を加えただけで避退してしまい、全軍の適切な戦闘指導を行なわず、夜戦は各駆逐隊、各艦ごとの戦闘になってしまった、というのである。(戦史室前掲『海軍作戦』(2))
ルンガ沖夜戦合戦図を綿密に辿ってみると、「長波」が他の駆逐艦たとえば親潮、黒潮などに較べれば、戦闘海面にあまり複雑な航跡を印していないことは事実である。だが、まっ先に避退してしまうことが出来たものかどうか、断定を急ぐことには疑問がある。
不思議なことに、戦後周到な調査をした米側の評価はまるで違うのである。
「ニミッツは……日本の砲火、魚雷戦の技術、エネルギーと忍耐と勇気を賞讃した。……田中(二水戦司令官──引用者)は飛び切り素晴らしかった。……駆逐艦一隻を代価として重巡一隻を撃沈、他の三隻をほとんど一年にわたって戦闘不能とした。戦争における多くの作戦について、アメリカ側の過誤は、敵側のそれによって帳消しにされてきたが、田中は、その駆逐艦隊の短時間の混乱はあったにしても、タサファロングでは誤りを犯さなかった。」(モリソン『合衆国海軍作戦史』5)
旗艦長波が勇敢な高波同様の行動をとっていたとしたら、海戦全体が如何なる結果をもたらしたかは想像できない。
二水戦司令官の評価がどうであるにせよ、駆逐艦隊が重巡戦隊を混戦に陥れて勝利を得たのは奇異のことであると言ってよい。
この海戦は、ガダルカナル争奪をめぐって起きた海戦の最後のものとなった。