昭和十八年一月四日付で、撤退に関する大命が発せられた。のちに、世間一般には、撤退とも、撤収とも、退却とも言わず、「転進」という言葉で粉飾されたガダルカナル作戦の終末段階のはじまりである。
同じ一月四日午後一時三十分、大本営陸軍部第一部長綾部少将が、高瀬中佐、白井少佐を帯同し、大命案を携行して、第八方面軍司令部に到着した。同日、第一部長携行案と同一の、前記四日発令の大命を方面軍司令官は受電した。
連合艦隊司令部に対しては、海軍部第一部長福留中将が、一月三日、大命案の伝達をした。
奪回作戦から撤退作戦への転換措置を大本営が終るころ、ガダルカナル第一線は補給杜絶のためほとんど仮死の状態で、敵と対峙していた。
第三十八師団正面では、一月二日朝から、アウステン山方面の米軍の攻勢が活溌になった。右翼に位置する歩兵第百二十四連隊の右第一線として充当されていた歩兵第二百二十八連隊第二大隊(稲垣大隊)は、その陣地丸山高地(二七高地)を右側背から攻撃され、やがて、同連隊全線にわたって強圧が加えられてきた。その後間もなく、見晴台方面にある歩二二八第三大隊(西山大隊)の陣地に対しても、攻撃がはじまった。
守備の日本軍は年末来の絶食と連日の交戦で疲労困憊その極に達していた。反撃に転じようにも、兵力は著しく不足している上に、満足に戦える状態の者はほとんどいなかった。
米軍は兵力を交替しては攻撃を反復した。じりじりと圧縮され、右翼拠点の丸山高地は遂に米軍の手中に陥ちた。
三日以降、アウステン山に対する米軍の攻勢は俄かに圧力を増し、陣地全滅はもはや時間の問題であった。
歩一二四連隊旗手小尾少尉の日記によると、このころアウステン山を死守していた日本兵の間では不思議な生命判断が流行したという。
立つことの出来る人間は 寿命三十日間
身体を起して坐れる人間は 三週間
寝たきり起きられない人間は 一週間
寝たまま小便をするものは 三日間
もの言わなくなったものは 二日間
またたきしなくなったものは 明日
(小尾靖夫『人間の限界』十二月二十七日の項)
同右一月一日
生き残りの将兵全員に、最後の食糧が分配された。
乾パン二粒と、コンペイ糖一粒だけ。
全員、北方を望んで祖国の空を仰ぎながら拝んでたべた。
同右一月三日
敵の作業兵が歩兵に掩護されながら、俺たちの陣地を四方から取り囲んでグルグル巻きに障碍物を張りめぐらしている。(中略)
アウステン山の守兵は腐木のように動かない。屍体は足の踏み場もない。生きているものと、それから腐ったものと、白骨になったものが、枕を並べて寝たまま動かないのだ。(以下略)
米軍の攻撃はアウステン山だけでなく、見晴台にも向けられ、一月十日から攻撃が猛烈になった。その攻撃によって、第三十八歩兵団(長・伊東少将)と歩二二八(陶村部隊)との陣地の間隙に、敵兵約六〇〇の|楔《くさび》が打ち込まれ、陶村部隊正面は各拠点の間を、それぞれ四、五〇〇名の米軍によって突破されるに至った。
一月十三日、アウステン山方面の歩一二四第三大隊(一色大隊)の陣地に米軍が侵入、この日以後、歩一二四(岡部隊)に対する連絡補給は絶望的となった。
翌一月十四日には、第三十八歩兵団と歩二二八第三大隊(西山大隊)への連絡路が断たれた。
最期が近づいていた。三八歩兵団と歩二二八では機秘密書類の後送処置をはじめた。
十四日、第三十八師団長は十七軍の命令によって、十五日現在拠点を撤し、沖川左岸の線で第二師団に連係するよう部署した。
第二師団正面も第三十八師団同様一月早々から米軍の本格的攻勢を受けはじめ、一月一日、師団長は、予備隊の戦闘に堪え得ない患者をセギロウ方面に移動させた。
一月十日から米軍の砲撃が熾烈となった。十五日には、第三十八師団正面に侵入した米軍が、歩兵第四連隊陣地の後方に進出、迫撃砲を推進して歩四の陣地を背後から射撃しはじめた。第十六連隊正面では、その日朝から、二、三〇〇の米軍が戦車数輛をもって来襲して、陣地を破り、侵入した。
小川河口付近では、侵入した米軍が陣地を構築しはじめたのに対して、第一線部隊が逆襲を試みたが、成功せず、死傷が増加するだけであった。
第二師団長は独断をもって第一線各隊を沖川の線に後退させる処置をとった。
十七軍司令部では、一月十一日午前零時ころ、九〇三高地にあった司令部の参謀室に砲弾が命中した。第一線の状況は司令部では全く把握出来ない状態となった。
十七軍司令部としては、玉砕か持久かの選択の岐路に立つ時機が近づいていた。宮崎参謀長と小沼高級参謀とは玉砕の方法について話し合っていたようである。
玉砕にしても、持久にしても、第八方面軍との連絡の確保がまず必要であった。このころには、タサファロングの海軍通信所だけがラバウルとの連絡を維持し得ていた。タサファロングと十七軍司令部間の有線連絡は既に切れていた。このため、十七軍司令部はタサファロングに移動して、第八方面軍との連絡をとることにした。一月十四日朝、十七軍司令部は九〇三高地を出発し、途中、餓死、病死した兵たちの死屍が沿道のそこかしこに横たわる惨状を目のあたりにしながら、タサファロングに向った。
当時、既に記したように、第三十八師団、第二師団、いずれも、各個に包囲され、あるいは強圧下に独断後退を余儀なくされ、在ガ島日本軍はまさに命|旦夕《たんせき》に迫っていた。
同じ一月四日午後一時三十分、大本営陸軍部第一部長綾部少将が、高瀬中佐、白井少佐を帯同し、大命案を携行して、第八方面軍司令部に到着した。同日、第一部長携行案と同一の、前記四日発令の大命を方面軍司令官は受電した。
連合艦隊司令部に対しては、海軍部第一部長福留中将が、一月三日、大命案の伝達をした。
奪回作戦から撤退作戦への転換措置を大本営が終るころ、ガダルカナル第一線は補給杜絶のためほとんど仮死の状態で、敵と対峙していた。
第三十八師団正面では、一月二日朝から、アウステン山方面の米軍の攻勢が活溌になった。右翼に位置する歩兵第百二十四連隊の右第一線として充当されていた歩兵第二百二十八連隊第二大隊(稲垣大隊)は、その陣地丸山高地(二七高地)を右側背から攻撃され、やがて、同連隊全線にわたって強圧が加えられてきた。その後間もなく、見晴台方面にある歩二二八第三大隊(西山大隊)の陣地に対しても、攻撃がはじまった。
守備の日本軍は年末来の絶食と連日の交戦で疲労困憊その極に達していた。反撃に転じようにも、兵力は著しく不足している上に、満足に戦える状態の者はほとんどいなかった。
米軍は兵力を交替しては攻撃を反復した。じりじりと圧縮され、右翼拠点の丸山高地は遂に米軍の手中に陥ちた。
三日以降、アウステン山に対する米軍の攻勢は俄かに圧力を増し、陣地全滅はもはや時間の問題であった。
歩一二四連隊旗手小尾少尉の日記によると、このころアウステン山を死守していた日本兵の間では不思議な生命判断が流行したという。
立つことの出来る人間は 寿命三十日間
身体を起して坐れる人間は 三週間
寝たきり起きられない人間は 一週間
寝たまま小便をするものは 三日間
もの言わなくなったものは 二日間
またたきしなくなったものは 明日
(小尾靖夫『人間の限界』十二月二十七日の項)
同右一月一日
生き残りの将兵全員に、最後の食糧が分配された。
乾パン二粒と、コンペイ糖一粒だけ。
全員、北方を望んで祖国の空を仰ぎながら拝んでたべた。
同右一月三日
敵の作業兵が歩兵に掩護されながら、俺たちの陣地を四方から取り囲んでグルグル巻きに障碍物を張りめぐらしている。(中略)
アウステン山の守兵は腐木のように動かない。屍体は足の踏み場もない。生きているものと、それから腐ったものと、白骨になったものが、枕を並べて寝たまま動かないのだ。(以下略)
米軍の攻撃はアウステン山だけでなく、見晴台にも向けられ、一月十日から攻撃が猛烈になった。その攻撃によって、第三十八歩兵団(長・伊東少将)と歩二二八(陶村部隊)との陣地の間隙に、敵兵約六〇〇の|楔《くさび》が打ち込まれ、陶村部隊正面は各拠点の間を、それぞれ四、五〇〇名の米軍によって突破されるに至った。
一月十三日、アウステン山方面の歩一二四第三大隊(一色大隊)の陣地に米軍が侵入、この日以後、歩一二四(岡部隊)に対する連絡補給は絶望的となった。
翌一月十四日には、第三十八歩兵団と歩二二八第三大隊(西山大隊)への連絡路が断たれた。
最期が近づいていた。三八歩兵団と歩二二八では機秘密書類の後送処置をはじめた。
十四日、第三十八師団長は十七軍の命令によって、十五日現在拠点を撤し、沖川左岸の線で第二師団に連係するよう部署した。
第二師団正面も第三十八師団同様一月早々から米軍の本格的攻勢を受けはじめ、一月一日、師団長は、予備隊の戦闘に堪え得ない患者をセギロウ方面に移動させた。
一月十日から米軍の砲撃が熾烈となった。十五日には、第三十八師団正面に侵入した米軍が、歩兵第四連隊陣地の後方に進出、迫撃砲を推進して歩四の陣地を背後から射撃しはじめた。第十六連隊正面では、その日朝から、二、三〇〇の米軍が戦車数輛をもって来襲して、陣地を破り、侵入した。
小川河口付近では、侵入した米軍が陣地を構築しはじめたのに対して、第一線部隊が逆襲を試みたが、成功せず、死傷が増加するだけであった。
第二師団長は独断をもって第一線各隊を沖川の線に後退させる処置をとった。
十七軍司令部では、一月十一日午前零時ころ、九〇三高地にあった司令部の参謀室に砲弾が命中した。第一線の状況は司令部では全く把握出来ない状態となった。
十七軍司令部としては、玉砕か持久かの選択の岐路に立つ時機が近づいていた。宮崎参謀長と小沼高級参謀とは玉砕の方法について話し合っていたようである。
玉砕にしても、持久にしても、第八方面軍との連絡の確保がまず必要であった。このころには、タサファロングの海軍通信所だけがラバウルとの連絡を維持し得ていた。タサファロングと十七軍司令部間の有線連絡は既に切れていた。このため、十七軍司令部はタサファロングに移動して、第八方面軍との連絡をとることにした。一月十四日朝、十七軍司令部は九〇三高地を出発し、途中、餓死、病死した兵たちの死屍が沿道のそこかしこに横たわる惨状を目のあたりにしながら、タサファロングに向った。
当時、既に記したように、第三十八師団、第二師団、いずれも、各個に包囲され、あるいは強圧下に独断後退を余儀なくされ、在ガ島日本軍はまさに命|旦夕《たんせき》に迫っていた。
第八方面軍では、在ガ島部隊の撤収を掩護する目的で、歩兵一個大隊を新たに投入することを決定した。その任務を背負わされたのは矢野大隊である。大隊は三十八師団の補充要員で臨時に編成された矢野桂二少佐以下約七五〇名であった。小銃三中隊、機関銃一中隊(三個小隊、機銃六)、山砲一中隊(三門)の編成であったが、年齢三〇歳前後の未教育補充兵で、実包射撃の経験もなかった。
この部隊が謂わば捨て駒となって米軍に対抗し、その間に既存部隊を撤収させようというのである。任務の真相は、無論、矢野大隊長以下誰にも知らされなかった。命令受領が一月七日、軍装検査が一月十日、出発が十二日というあわただしさである。
矢野少佐は、自分たちがまさか捨て駒の運命とは思わないが、最初から少し変な気持がしたらしい。こう書いている。「軍司令部で何でも請求するものをくれるのみならず、軍の方からあれもこれもと気を使ってのサービス、軍直部隊にならなければいかん、それにしても様子が一寸おかしい位だ。」(矢野『ガ島後衛戦闘回想録』)
撤収作戦(ケ号作戦)の連絡に行く井本参謀と矢野大隊及び通信部隊は、ラバウルで駆逐艦五隻に乗り、午後五時出港、十三日午前八時ショートランドに入泊した。井本参謀と佐藤参謀は同じ書類をそれぞれ携行して、別々の駆逐艦に乗り込んでいた。いずれか一方に事故があっても、目的が達せられるためである。
十四日正午、護衛駆逐艦とも九隻の輸送隊がショートランド出撃、午後十時ごろ、無事エスペランスに入泊した。折りから、猛烈なスコールであった。
矢野大隊は上陸集結を終ると、歩二三〇からの連絡将校に誘導されて、夜行軍を開始した。
井本参謀の一行は、十五日午前三時半ころ、九〇三高地南麓へ向った。九〇三高地にあった十七軍司令部は、先に記した通り、敵の砲撃を受けたため、前日、タサファロングヘ移動したのだが、井本参謀たちはまだ知らなかったのである。
完全軍装の上に糧食、みやげ等の携行品を多量に背負った井本参謀の一行は、道が捗らなかった。午後八時(十五日)ころ、タサファロングのボネギ川を渡った地点で一人の兵に出会い、川の上流の密林の中に十七軍司令部が移動して来ているらしい、と知らされた。
兵の言ったことは間違いなかった。元船舶団司令部の仮小屋に軍司令部があった。
井本参謀は、軍参謀長の天幕で、宮崎参謀長と小沼高級参謀に、作戦転換の経緯を説明し、勅語と作戦転換に関する方面軍命令を伝達した。
宮崎参謀長も小沼参謀も反対した。要するに、今撤退の軍命令を下しても、敵と混淆して戦っている全員が、栄養失調、マラリア等の病人または負傷者であって、撤退そのものがほとんど不可能である、というのであった。生ける屍を救うために貴重な艦船、飛行機を潰すことは出来ぬ、というのも理窟であった。所詮は、撤退しては第十七軍の面目が立たないのである。十五日夜は、結論は出なかった。
明けて一月十六日早朝、井本参謀は第十七軍司令官の洞窟へ行き、命令を伝達し、附帯する連絡事項を詳細に説明した。
軍司令官は即答は出来かねるから、暫くの時間的猶予を要求した。井本参謀は参謀長天幕で待った。その間、参謀長は二度司令官のところへ出向いた。参謀長が二度目に呼ばれるまでに二時間ほど経っていたという。
軍司令官の決心は「大命を万難を排して遂行することに尽す」というのであった。
井本参謀が呼ばれて、軍司令官の決断を聞いた。「現状は各方面より考察して、軍を撤収することは難事中の難事なり。然れども、大命に基づく方面事の命令は飽く迄之を実行せざるべからず。但し、之が完全に出来るや否やは予測は出来ぬ」(戦史室前掲書)
撤退命令を出しても、撤退出来るのは各級司令部と一部の兵力に過ぎないかもしれないのだ。だが、撤退しなければ、全軍玉砕は必至であった。
軍司令官の撤退決意は一月十六日正午ごろのことである。
その十六日、戦況は深刻であった。第三十八師団正面では、見晴台南端に進出した米軍に対抗していた陶村部隊(歩二二八)は、残存兵力僅少で、第一線も連隊本部も全周包囲下にあった。アウステン山正面は、十三日までの抵抗は確実であったが、その後の状況は全く不明であった。(実際には、十三日に無電機が破壊され、十五日に歩一二四(岡部隊)が包囲を突破下山した。)独立山砲兵第十連隊(北山部隊)は十二日、歩兵司令部と見晴台占拠部隊は十三日、それぞれ全滅したものと判断された。(実際には、北山部隊は陣地を奪われ、丸山道上マタニカウ川合流点に後退して別命を待っていたことが、十七日に判明した。)
第二師団は、十五日朝から戦車を伴った米軍に圧迫され、沖川河畔に後退していった。
右のような戦況下で、もしガ島撤退の企図が洩れたら、全軍が潰乱状態に陥って敗走に移り収拾がつかなくなることは明らかであった。したがって、軍としては、新鋭増援部隊が逐次到着中で、近い将来捲き返しの大攻勢をとるかのような擬態を、真実と思わせる必要があった。その新鋭部隊の先陣が矢野大隊で、実は、悪くすると、矢野大隊が東進して、米兵五万(一月七日現在ガ島米兵力総計五万七八)の圧力に圧し潰されるまでに、第三十八師団、第二師団、その他の日本軍を撤収出来るだけ撤収しようというのである。
矢野大隊長は、第三十八師団が後方に集結して改編するまで、一時第二師団の指揮下に入れとの命令を受け、第二師団司令部をジャングル内にようやく探し当てた。参謀長は病気とみえて、横になったまま矢野少佐にこう言ったという。
「君達は今迄米の飯を食っていただろう。我々は三度の食事がなかったのだ。たらふく食っていたお前達はしっかりやれ」(前掲矢野回想録)
これが師団参謀長の言うことか、と、矢野少佐は内心穏やかでなかったらしい。矢野手記のこの部分には日時の明記がないが、後続の節が「翌二十一日」ではじまっているから、右は二十日のことであろう。そうであるとすれば、軍から各師団へ撤退命令が下達されたのが、後述するように十七日であるから、師団参謀長は矢野大隊の任務とそれが置かれた運命を知っていたと思われる。それにしては確かに心ないものの言い方であるし、よしんば知らなかったにしても、師団参謀長の見識にかかわるであろう。飢餓は人間の地金をまる出しにしてしまうのだ。
一万十七日夕刻、小沼高級参謀は第一線の両師団へ撤退命令の伝達に出かけた。両師団の司令部は勇川河畔にあって、軍司令部位置からいえば、奥が第三十八師団、手前が第二師団であった。小沼参謀はまず第三十八師団司令部へ行った。雨のなかを、午後十一時ごろ到着した。第三十八師団ではもはや戦力消尽の限界にあると考え、一月二十一日を期して師団全力の玉砕攻撃を敢行するため、第一線各隊長を召致して訣別の辞を述べたところであったという。
師団側と小沼参謀との間には、ちょうど十七軍側と井本参謀との間に交されたのと全く同質の論議があったが、結局、佐野師団長が「大命とあらば、何処で死ぬのも同じこと。軍司令官の御意図に従おう」と決断した。
小沼参謀は、次いで第二師団司令部へ行った。丸山師団長も熟慮ののち、同様の決断を下した。
これで、残るは、敵の追尾をかわしながら後退行動が順調に捗るかということと、第一線各部隊へ後退命令が洩れなく伝達されるかということが問題であった。
この部隊が謂わば捨て駒となって米軍に対抗し、その間に既存部隊を撤収させようというのである。任務の真相は、無論、矢野大隊長以下誰にも知らされなかった。命令受領が一月七日、軍装検査が一月十日、出発が十二日というあわただしさである。
矢野少佐は、自分たちがまさか捨て駒の運命とは思わないが、最初から少し変な気持がしたらしい。こう書いている。「軍司令部で何でも請求するものをくれるのみならず、軍の方からあれもこれもと気を使ってのサービス、軍直部隊にならなければいかん、それにしても様子が一寸おかしい位だ。」(矢野『ガ島後衛戦闘回想録』)
撤収作戦(ケ号作戦)の連絡に行く井本参謀と矢野大隊及び通信部隊は、ラバウルで駆逐艦五隻に乗り、午後五時出港、十三日午前八時ショートランドに入泊した。井本参謀と佐藤参謀は同じ書類をそれぞれ携行して、別々の駆逐艦に乗り込んでいた。いずれか一方に事故があっても、目的が達せられるためである。
十四日正午、護衛駆逐艦とも九隻の輸送隊がショートランド出撃、午後十時ごろ、無事エスペランスに入泊した。折りから、猛烈なスコールであった。
矢野大隊は上陸集結を終ると、歩二三〇からの連絡将校に誘導されて、夜行軍を開始した。
井本参謀の一行は、十五日午前三時半ころ、九〇三高地南麓へ向った。九〇三高地にあった十七軍司令部は、先に記した通り、敵の砲撃を受けたため、前日、タサファロングヘ移動したのだが、井本参謀たちはまだ知らなかったのである。
完全軍装の上に糧食、みやげ等の携行品を多量に背負った井本参謀の一行は、道が捗らなかった。午後八時(十五日)ころ、タサファロングのボネギ川を渡った地点で一人の兵に出会い、川の上流の密林の中に十七軍司令部が移動して来ているらしい、と知らされた。
兵の言ったことは間違いなかった。元船舶団司令部の仮小屋に軍司令部があった。
井本参謀は、軍参謀長の天幕で、宮崎参謀長と小沼高級参謀に、作戦転換の経緯を説明し、勅語と作戦転換に関する方面軍命令を伝達した。
宮崎参謀長も小沼参謀も反対した。要するに、今撤退の軍命令を下しても、敵と混淆して戦っている全員が、栄養失調、マラリア等の病人または負傷者であって、撤退そのものがほとんど不可能である、というのであった。生ける屍を救うために貴重な艦船、飛行機を潰すことは出来ぬ、というのも理窟であった。所詮は、撤退しては第十七軍の面目が立たないのである。十五日夜は、結論は出なかった。
明けて一月十六日早朝、井本参謀は第十七軍司令官の洞窟へ行き、命令を伝達し、附帯する連絡事項を詳細に説明した。
軍司令官は即答は出来かねるから、暫くの時間的猶予を要求した。井本参謀は参謀長天幕で待った。その間、参謀長は二度司令官のところへ出向いた。参謀長が二度目に呼ばれるまでに二時間ほど経っていたという。
軍司令官の決心は「大命を万難を排して遂行することに尽す」というのであった。
井本参謀が呼ばれて、軍司令官の決断を聞いた。「現状は各方面より考察して、軍を撤収することは難事中の難事なり。然れども、大命に基づく方面事の命令は飽く迄之を実行せざるべからず。但し、之が完全に出来るや否やは予測は出来ぬ」(戦史室前掲書)
撤退命令を出しても、撤退出来るのは各級司令部と一部の兵力に過ぎないかもしれないのだ。だが、撤退しなければ、全軍玉砕は必至であった。
軍司令官の撤退決意は一月十六日正午ごろのことである。
その十六日、戦況は深刻であった。第三十八師団正面では、見晴台南端に進出した米軍に対抗していた陶村部隊(歩二二八)は、残存兵力僅少で、第一線も連隊本部も全周包囲下にあった。アウステン山正面は、十三日までの抵抗は確実であったが、その後の状況は全く不明であった。(実際には、十三日に無電機が破壊され、十五日に歩一二四(岡部隊)が包囲を突破下山した。)独立山砲兵第十連隊(北山部隊)は十二日、歩兵司令部と見晴台占拠部隊は十三日、それぞれ全滅したものと判断された。(実際には、北山部隊は陣地を奪われ、丸山道上マタニカウ川合流点に後退して別命を待っていたことが、十七日に判明した。)
第二師団は、十五日朝から戦車を伴った米軍に圧迫され、沖川河畔に後退していった。
右のような戦況下で、もしガ島撤退の企図が洩れたら、全軍が潰乱状態に陥って敗走に移り収拾がつかなくなることは明らかであった。したがって、軍としては、新鋭増援部隊が逐次到着中で、近い将来捲き返しの大攻勢をとるかのような擬態を、真実と思わせる必要があった。その新鋭部隊の先陣が矢野大隊で、実は、悪くすると、矢野大隊が東進して、米兵五万(一月七日現在ガ島米兵力総計五万七八)の圧力に圧し潰されるまでに、第三十八師団、第二師団、その他の日本軍を撤収出来るだけ撤収しようというのである。
矢野大隊長は、第三十八師団が後方に集結して改編するまで、一時第二師団の指揮下に入れとの命令を受け、第二師団司令部をジャングル内にようやく探し当てた。参謀長は病気とみえて、横になったまま矢野少佐にこう言ったという。
「君達は今迄米の飯を食っていただろう。我々は三度の食事がなかったのだ。たらふく食っていたお前達はしっかりやれ」(前掲矢野回想録)
これが師団参謀長の言うことか、と、矢野少佐は内心穏やかでなかったらしい。矢野手記のこの部分には日時の明記がないが、後続の節が「翌二十一日」ではじまっているから、右は二十日のことであろう。そうであるとすれば、軍から各師団へ撤退命令が下達されたのが、後述するように十七日であるから、師団参謀長は矢野大隊の任務とそれが置かれた運命を知っていたと思われる。それにしては確かに心ないものの言い方であるし、よしんば知らなかったにしても、師団参謀長の見識にかかわるであろう。飢餓は人間の地金をまる出しにしてしまうのだ。
一万十七日夕刻、小沼高級参謀は第一線の両師団へ撤退命令の伝達に出かけた。両師団の司令部は勇川河畔にあって、軍司令部位置からいえば、奥が第三十八師団、手前が第二師団であった。小沼参謀はまず第三十八師団司令部へ行った。雨のなかを、午後十一時ごろ到着した。第三十八師団ではもはや戦力消尽の限界にあると考え、一月二十一日を期して師団全力の玉砕攻撃を敢行するため、第一線各隊長を召致して訣別の辞を述べたところであったという。
師団側と小沼参謀との間には、ちょうど十七軍側と井本参謀との間に交されたのと全く同質の論議があったが、結局、佐野師団長が「大命とあらば、何処で死ぬのも同じこと。軍司令官の御意図に従おう」と決断した。
小沼参謀は、次いで第二師団司令部へ行った。丸山師団長も熟慮ののち、同様の決断を下した。
これで、残るは、敵の追尾をかわしながら後退行動が順調に捗るかということと、第一線各部隊へ後退命令が洩れなく伝達されるかということが問題であった。