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ガダルカナル60

时间: 2020-07-30    进入日语论坛
核心提示:60 第三十八師団では、見晴台の一角で第三十八歩兵団長が西山大隊(歩二二八第三大隊)と全滅寸前の死闘を続行し、最後の斬り込
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 第三十八師団では、見晴台の一角で第三十八歩兵団長が西山大隊(歩二二八第三大隊)と全滅寸前の死闘を続行し、最後の斬り込みを決行しようとしていた一月十九日、師団長から師団司令部の位置まで後退するよう命令が届いた。アウステン山方面の消息は十三、四日以後不明であったが、先に述べたように全滅が予想された独立山砲第十連隊(兵力約五〇)の存在も判明し、九〇三高地付近に集結を命じた。歩二二八(陶村部隊兵力約二五〇)は、宮崎台西側に後退、陣地を占領していた。工兵第三十八連隊(岩淵部隊兵力約一七〇)は、九九〇高地と九〇三高地を十六日以来確保していた。これらを、徐々に西へ|退《さ》げるのである。
アウステン山の岡部隊(歩一二四)は、右第一線の同連隊第二大隊と歩二二八第二大隊(稲垣大隊)を丸山北側陣地に残置して、十五日夜ア山を降りたが、軍旗をめぐって諸説紛々としている。結果的には、旗手の小尾少尉が腹に巻いて海岸に近い友軍(松田部隊)に辿り着いたのだが、その経緯が鮮明でないのである。十五日下山のとき、岡部隊長以下敵の包囲を突破するため、軍旗をア山に埋めて下山したらしいが、前掲小尾手記『人間の限界』にはそうは書かれてない。戦史室前掲書にも、滝利郎編著『静岡連隊のガ島戦』にも、同じく滝編著『アナの三十八師団』にも、杉江勇『福岡連隊史』にも、それぞれ微妙な表現の相違はあるが、軍旗を埋めて下山したことになっている。それを歩兵団長に咎められて、山へ取りに戻ったらしい。再び下山する途中で、岡部隊長以下(員数不明)が戦死し、小尾少尉だけが辛うじて友軍陣地に辿り着き、しかも撤収にも間に合ったという。(この経緯の真偽及び詳細を、筆者は知人を介して小尾氏本人に説明を願ったが、聞き容れられなかった。あの件には、もう一切触れたくないという返事があったそうである。真実の究明に価値を認める者、真実を隠蔽してでも何かの都合の方を大切にする者、人さまざまであるから、仕方がない。)
筆者自身は、旧軍の軍旗絶対視には批判的である。岡部隊の独断下山を問題にするのならわかるが、敵の包囲を突破するために、軍旗をア山に埋めた処置は、安全策の一つとして認めるべきではなかったか。歩二九の古宮連隊長のように軍旗と共に敵陣に斬り込んで遂に還らなかった勇敢な突撃は、勇敢は十二分に認めるとしても、軍旗が敵兵の土足に踏みにじられなかったという保証はない。岡部隊の場合、軍旗を掘り出すために、高等司令部は岡部隊長以下を死地へ追い返した。途中で、小尾少尉以外は戦死してしまった。幸い小尾少尉が軍旗を腹に巻いて帰還したからいいが、彼が生き残ったのは僥倖に過ぎず、生き残っても最後の撤収艦艇に間に合わなかったら、どうであったか。部下を軍旗のために死地へ追い返し、司令部は撤収艦艇で撤退してしまう。そうならなかったという保証もなかったのである。それで軍の統帥は|完《まつと》うされたことになるのか。
 第二師団正面では、十七日朝から、砲兵の支援のもとに戦車を伴った米軍が攻勢を開始し、沖川の線に進出して来た。第二師団長は、現陣地線で敵を拒否出来ないと判断し、第二歩兵団長に後方の抵抗線によって敵を阻止することを命じた。第二歩兵団は、十八日、勇川右岸陣地に後退した。そのころに小沼参謀が撤収命令を伝えに来たのである。第三十八師団との連接地域を米軍に突破されていたので、第二師団は右翼を包囲される懸念があったが、撤退行動を開始するまで、第二師団の抵抗線は百武台から海岸にわたる陣地線であった。十八日朝の百武台の兵力は、歩一六と歩四がそれぞれ約八〇名の僅少な兵力に過ぎなかった。この日の師団の給養人員は三七〇〇名と報告されているが、何処にどれだけ存在したのか、明らかでない。
 第十七軍司令部が立てたガ島撤退の構想は次の通りである。
第一次 二月一日 第三十八師団、軍直部隊の一部、海軍及患者の大部
第二次 二月四日 第二師団、軍司令部以下軍直部隊の大部
第三次 二月七日 残余の部隊
後から来た三十八師団を第二師団より先に撤退させるのは、退路は海岸道一本だけであって、両師団の占領陣地の関係位置から、第二師団を先に退げると、米軍に退路を遮断される虞れがあったからだが、実際には計画通り斉整と必ずしも行動が律せられたわけではなかったし、いくら撤収の企図を秘匿しても、後退行動がはじまると、兵隊はほとんど動物的本能とでもいうべき能力によって、その企図の真相を感じ取っていた。
一月二十日午前十時、撤収機動に関する軍命令がタサファロング戦闘司令所で下達された。軍命令の第二項に「軍ハ『エスペランス』方面ニ機動シ後図ヲ策セントス」とあったが、命令下達以前に宮崎参謀長が特に述べた注意事項の第三項は、まさに地獄の沙汰である。
「新企図実行ノ為|行動不如意ニアル将兵ニ対シテハ皇国伝統ノ武士道的道義ヲ以テ万遺憾ナキヲ期スルコト《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点引用者)
撤退するとき独歩出来ない傷病者は置き去りにするほかはないが、置き去りに際しては「武士道」的に自決を覚悟強要せよ、というのである。捕虜となることは許さない国なのであった、日本は。強壮な兵であったものを衰弱させて、動けなくしたのは、その国なのである。しかも、独歩出来ない者は軍の撤収行動の邪魔になるから、死ねというのである。
ガ島からの撤退は、後述するように、ほとんど奇蹟的に成功するが、それは、企図の隠密保持が徹底していたのと、軍の行動の統制が|紊《みだ》れなかったからであるが、独歩出来ない数多くの傷病者が、小銃で、手榴弾で、あるいは部隊によっては|昇汞錠《しようこうじよう》の服毒で、覚悟の自決をし、あるいはさせられ、友軍部隊の足手纒いとならなかったからである。
第三十八師団の機動のための命令に、厳守すべき注意事項の一つとして、こうある。
「独歩シ得サル者ヲ敵手ニ委セサルタメ武士道的見地ヨリ非常処置ヲ講スヘシ」
まだ生きてはいても、動けない者は、捕虜となる虞れがあるから、「武士道的見地」から自殺させてしまえというのである。軍司令官や師団長、それ以下の各級指揮官が、部下に自決を強要する権限は、何によって保障されているのか。
第二師団では、一月二十日午前四時、機動のための命令を発したが、その中では新米の矢野大隊が軸になっている。矢野大隊は二十三日以後、ポハ川西側高地から海岸に亘る堅固な陣地を占領して、第二師団主力が後退して水無川付近に集結するのを掩護し、なお、なるべく長くその陣地を保持して師団主力の爾後の行動を容易ならしめよ、というのである。米軍が砲兵、迫撃砲を牽引車や自動車で推進して、猛射を加えてくるようになったこの段階で、矢野大隊はみずからの不運な運命を認識しはじめたであろうと想像される。
タサファロングにあった脇谷部隊(船舶工兵第一連隊)の主力は、二十日夜、エスペランスに向って出発したが、病気と衰弱のために起つことの出来ない者が、ジャングル内のあちこちで、自殺したり、させられたりした。
 第十七軍の撤退行動計画では、一月二十二日から、第三十八師団、第二師団の順に後退行動に移ることになっていた。第二師団の第一線は、歩四が約八〇名、歩一六が約一〇〇名の僅少な兵力で敵と対峙していた。野戦病院や戦闘に耐えない患者は、十八日ごろからセギロウ川左岸に後退させていたのである。
軍としては、第三十八師団を先ず退げ、一日の間をおいて第二師団を後退させ、第二師団にセギロウの線で最後まで抵抗させる計画であったが、タサファロングの線を過早に後退通過すれば、敵に企図を暴露するかもしれず、また、セギロウの線は撤収乗艦地点に近すぎるので、第二師団をなるべくゆっくり後退させることに計画を変更した。
ところが、すべて、相手のあることである。第三十八師団の撤退と前後して、米軍が両師団の間隙から、第二師団の右翼線を突破する形勢となった。ために、第二師団は、即時第一線を撤退させ、コカンボナの線で敵の進出を拒止する決心をし、軍の計画より一日早く撤退を開始したのである。第二師団各隊は、二十三日払暁、敵の砲撃下を撤退を開始し、午前八時ころまでに水無川河口付近に集結した。しかし、歩兵第四連隊左第一線の内藤大隊には、撤退命令が届かなかった。大隊長以下歩二九の集成大隊約五〇名は、守備陣地で全滅した。
 百武軍司令官以下約二〇名の第十七軍戦闘司令所は、二十二日午後五時三十分、タサファロングを出発してエスペランスに向った。
途中、夜半、セギロウの線で、ガ島上陸最初の連隊長であった一木大佐(歩二八)の後任として来島した松田教寛大佐と遭遇したが、この松田大佐が、第二次撤退で十七軍司令部が撤退してからは、総後衛部隊指揮官となるのである。
軍司令官の一行は、二十三日天明前、エスペランスに到着したが、夜が明けると、米軍約一五〇が第三十八師団の撤退に追尾して勇川左岸に早くも侵入したことと、第二師団が予定より早く夜半から撤退を開始したことを知った。
軍は、第三十八師団の一部を第二師団長の指揮下に入れ、一本しかない撤退路の海岸道を掩護させ、歩一二四の残留混成大隊の石堂部隊を、セギロウ第一海岸警備隊に増加して強化措置をとった。
軍は第二師団の早期撤退に憤慨した。だが、米軍の侵出状況から考えると、第二師団の状況判断の方が現実的であったらしい。第二師団側には、その状況判断の的確さの自信があるから、軍がそれを咎めたりするのは、第二師団の犠牲において第三十八師団を救う方針が軍にあったのではないか、と不満を抱いたらしいのである。
一月二十四日、矢野大隊はコカンボナで約二〇〇〇の敵と交戦し、後方(西方)に逐次集結中の友軍を掩護していた。タサファロングに残留していた小沼参謀は、乗艦期日までまだ一週間あるので、エスペランス方向へ過早に撤退するのは危険であるとして、第二師団主力でボネギ川(タサファロングから東へ約一・五キロ)両側で米軍の前進を阻止する策を採った。そのころ、第三十八師団はセギロウ(タサファロングから西北方へ約五キロ。距離はいずれも地図上の直線距離)に集結していた。
この日の第二師団の戦闘員は、前線約四〇〇(師団戦闘司令所に歩工兵約三〇〇と海軍陸戦隊約二五〇)。第三十八師団は約四〇〇であった。第一線の矢野大隊と第二師団司令部との間の通信は不通であったので、矢野大隊の連絡将校が夜中に司令部に到着して、矢野大隊は日没後に現陣地を撤して、ママラ川(コカンボナから西方約二・五キロ)の線に撤退する、と報告した。師団長はこれを承認した。
日本軍の正面で勇川を通過し、追撃に移ろうとした米軍は、まだ疲労困憊していない矢野大隊の抵抗に遭遇すると、行動が俄に慎重になった。
矢野大隊は二十五、六日とママラ川左岸を確保していた。第二師団司令部は、その間に、二十五日早朝、セギロウ左岸まで後退していた。
一月二十八日、第三十八師団はエスペランスとカミンボ地区に集結を終った。極秘裡に乗船準備を進め、三十日夜、乗船位置に進入して、翌日夜の乗船を待った。二十八日正午に十七軍司令官が下達した「乗船に関する命令」では、「第一回揚陸実施ヲ一月三十一日トス」となっていたのである。「揚陸」というのは企図秘匿のための用語で、撤収艦艇への乗り込みのことである。
二十九日早朝、海軍索敵機がガダルカナル南方に敵有力部隊を発見した。第八方面軍司令部は、近辺の敵情と天候の判断から、ケ号作戦(撤収作戦)を一日繰り下げとし、第一次輸送決行は二月一日となった。
この間、西進して来る米地上軍に対する懸念はともかくとして、米艦艇の砲撃と飛行機の活動が盛んなので、集結状況から撤退企図が暴露することが憂慮された。
 矢野大隊は、二十八日、依然としてママラ川西方約一キロの陣地を確保していたが、四〇〇を越える有力部隊が砲兵支援のもとに、矢野大隊の右側背に進出して来た。大隊は、二十九日午前三時、夜暗に紛れて陣地を撤し、ボネギ川右岸の第二歩兵団(第二師団)陣地の左翼に後退した。
三十日、正面の米軍の砲兵射撃は旺盛となり、糧秣弾薬の大発による前送と、迫撃砲の推進、海岸道への装甲車の進出が見られた。米軍はタサファロング攻略を意図しているものと判断された。
三十一日朝から、第二師団正面に歩砲戦協同の本格的攻撃がはじまり、日本軍第一線にかなりの損害を生じるようになった。
三十一日夕、第二歩兵団長はボネギ川右岸陣地撤退を師団長に報告し、師団長はこれを承認したが、同時にボネギ左岸陣地は最後の一兵に至るまで死守すべきを命じた。
米軍主力は、何故か、ボネギ右岸で停止し、日本軍の後退を追撃しなかった。
 三十一日、十七軍司令官は、第二次撤退のための命令を出した。第二次は軍司令部以下第二師団である。
ボネギ川の左岸にある第二師団に対して、二月一日(第一次撤退)の日没後、秘かに戦線を離脱し、主力を二日朝までにアルリゴ川(ボネギ川から西北約一三粁)右岸地区に、一部を三日朝までにカミンボ(アルリゴ──エスペランス間約六キロ、エスペランス──カミンボ間約六キロ、いずれも直線距離)付近に集結せよ、というのである。
第二次撤退で軍司令部がガ島を去ることになっていたから、その後の処置は、歩兵第二十八連隊松田教寛大佐が総後衛部隊指揮官に任じ、軍参謀山本筑郎少佐が松田部隊に配属された。松田部隊はセギロウ河畔で各部隊の撤収掩護中であったが、ガ島戦は奇しくも歩二八の一木清直大佐にはじまり、松田教寛大佐を|殿《しんがり》軍指揮官として終ろうとしている。
撤退実施間際となって、通信状況が甚だしく不良であった。ラバウルとの交信はカミンボだけが可能で、カミンボとエスペランス(軍司令部所在)間の電話は不通であった。
二月一日夜十一時、第二師団の乗船についての命令が下達された。乗船予定の部隊は疲労し尽していても、いまは希望が見えているが、心理的にも苦しいのは総後衛の松田部隊である。松田部隊は次のように命じられている。松田部隊長の指揮する部隊(矢野部隊、北尾部隊(旧一木部隊)、石堂部隊(歩一二四)及在セギロウ野戦重砲兵並に高射砲第四十五大隊の一部)は、二月二日午後五時以後別命あるまでセギロウ以東でなるべく遠く敵を阻止し、第二次揚陸(乗船)を掩護せよ、午後五時以後軍参謀山本少佐を配属する、というのである。第三次撤収艦隊が来なければ、後衛部隊は置き去りになるし、第三次は舟艇機動によって撤退しなければならなくなるかもしれない懸念があった。
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