江戸小石川中天神下に一刀流指南の看板を掲げた堀内《ほりうち》道場がある。
当主|源太左衛門《げんたざえもん》正春の父は、武州|館林《たてばやし》の城主松平|伊豆守《いずのかみ》の家来だった人で、知恵伊豆と謳《うた》われた主君に常々目をかけられていた。至って人柄《ひとがら》が実直で、物事に小才覚せず、愚鈍のように見えるのが却《かえ》って知恵伊豆の気に入ったのである。武芸は一刀流免許の腕前で、日頃《ひごろ》備前物を愛用していたが、この刀、切先三寸ばかり焼きはずれがあって、
「あたらかかる名刀に焼き|はずれ《ヽヽヽ》ありとは」
と人々に惜しまれた。当人は、
「何、刀は切先は要らず、物打さえ焼《やき》があれば物の用に立つものよ」
と一向に平気でいる。
或《あ》る年。
伊豆守の意に叛《そむ》いて屋敷に立籠《たてこも》って弓鉄砲を構え、必死に反抗した家臣があった。この上意討ちを堀内|嘉左衛門《かざえもん》が命ぜられた。嘉左衛門は早速家来を従えて謀反者《むほんもの》の宅へ赴き、塀際《へいぎわ》へ馬を横に乗付けて「やっ」と一声するや塀を躍り越え、忽《たちま》ち内に居た郎党両三名を仆《たお》した。それより門を開けて家来を招き入れ、自ら謀反者の籠る書院へ斬込《きりこ》んで悉《ことごと》くを仆したが、自らも深手を負うて遂《つい》に書院内で討死した。その時の刀を見ると、つば元で切った跡ばかりだったという。
この嘉左衛門の子が道場を構えた源太左衛門正春である。江戸の町道場といえば、元禄《げんろく》時代|先《ま》ずこの堀内道場が一番だった。門人も多く、奥向き出稽古《でげいこ》をねがう大身の旗本も多い。
ところで、元禄六年の暮も迫った十一月すえに、新入門を願って来た浪人者がある。
別に門弟たちの紹介もないので、源太左衛門が念のため太刀すじを見てみると、あきれ返った下手糞《へたくそ》である。
「いずれで修行いたされたかは知らぬが、その手の内では数年|練磨《れんま》してようよう切紙《きりがみ》程度が当道場の順位であるが、よいか?」
なかば顰蹙《ひんしゆく》の面持《おももち》で問うと、
「結構ですな」
あっさり答える。眉《まゆ》の秀《ひい》でた実に涼しげな眼許《めもと》だった。色が白く、年を問うと二十四歳と答える。
「生国は?」
「越後|新発田《しばた》」
「いつから浪人いたされたな?」
「左様《さよう》、——もう五年になりますか」
静かに嗤《わら》った。少しも悪びれた様子がない。
源太左衛門はじっとその男の眼を見入ったが、
「よろしかろう。明日からなりと稽古に参られい」
それから師範代の高木敬之進を手招いて、
「今日より新入りの仁じゃ」
引合わせると、つと道場を立って奥へ入った。
高木敬之進は三十八。師の源太左衛門より二歳の年長である。他の門弟の稽古をつけながら、先刻、師の前に太刀すじを披露《ひろう》するのを横目で見ていたのである。
「よくお主の入門を先生が許されたわ。ま、折角修行いたされるがよかろう」
言い捨てて、これももう相手にならない。道場床板に坐《すわ》った儘《まま》の相手を見下して立つと、おのれの座へ戻《もど》りながら、
「念のため聞いておこう、姓は?」
「中山|安兵衛《やすべえ》」
翌日から安兵衛は堀内道場に通った。住居は牛込天竜寺《うしごめてんりゆうじ》竹町にある。そこから歩いて天神下へかよう。
一刀流は古風の形兵法を重んじて袋|竹刀《しない》を排したので、柳生《やぎゆう》流の試合|籠手《こて》やタイ捨流の円座などを支度する必要はなかった。もっとも、一刀流は下段から中段の構えが主だから、突当ると危険なので初心者には竹鎧《たけよろい》という一種の胸当てが用意されているが、安兵衛これを須《もち》いない。
常時、堀内道場には二百人の門弟がいた。そんな中へ、越後訛《えちごなま》りのある二十四歳の田舎青年が混っての稽古である。抜群の腕前なら兎《と》も角《かく》、師範代の高木が匙《さじ》を投げた凡手だから殆《ほと》んどの者は相手にしないし、声もかけぬ。安兵衛が門下に加わったのを知らぬ者が大方だった。
時々、それでもお節介を焼きたがる先輩がいるもので、
「中山、一手参ろうか」
手をとるように教えてくれる。
「そ、その間合ではとてもの事に当流の型は覚えられぬ。もそっと、前へ」
「こうですか」
「まだまだ。肘《ひじ》を今少しさげて」
言われる通り素直に安兵衛は木刀を構えた。或る時これを見かけた師の源太左衛門が、あとで居間に呼んで、
「その方は親切で致したことであろうが、あれでは型には嵌《はま》っても人は斬れぬ。わしに思う仔細《しさい》もあれば以後、中山を指導するは歇《や》めに致せ」
先輩は不満の頬《ほお》を脹《ふく》らまして、
「拙者《せつしや》はただ中山の為によかれと存じて致したること、仰《おお》せでは、まるで拙者、人が斬れぬような——」
「何でもよい、とにかく中山には構わぬ方が良かろう」
時々やすむ。
牛込竹町の浪宅で内職の筆造りに忙しいのである。筆は米沢《よねざわ》藩の名産で、米沢の家中の賤士《せんし》なども内々、江戸詰の出費を補うため始めていたが、その材料を分けてもらうらしい。そういう内職をするようではお国許《くにもと》の親戚《しんせき》とやらも噂《うわさ》ほどの御身分ではないのであろうと長屋の他の住人は囁《ささや》きあった。家主六次郎が店子《たなこ》として安兵衛をこの裏長屋へ入れたときの話では、何でも、越後|溝口《みぞぐち》家でかなりな重臣の血すじという前触れだったからである。
長屋に住む大方は人形売りや俵売り、大工、左官などの真面目《まじめ》な町民で、安兵衛はあまり付合いがなかったが、共同井戸で朝の挨拶《あいさつ》をうける時の態度などは腰がひくく、鄭重《ていちよう》だった。
「あのかたは今に偉くおなりなさるぜ」
二三度、朝の挨拶をうけた大工なぞは感激して女房《にようぼう》に告げた。
道場では至極目立たぬ存在だったから竹町の浪宅を訪ねてくる者は無論ない。相変らず、というより、いよいよ道場で安兵衛は孤独の人だったわけである。
ところが大晦日《おおみそか》も旬日にせまった或る日、道場では比較的軽輩の者数人が打連れて芝居見物に往《い》くことになって、珍しく安兵衛も仲間入りをしたが、さて見物の武士たちが刀のツカを上にして持っているのを見て、ふと笑った。仲間の一人がこれを見|咎《とが》めてなじると安兵衛は言った。もし事があったらどうなさる、昔から殿居《とのい》の武士は必ずツカを下にしていると。
芝居見物に往った大方は小普請《こぶしん》といって非役だから、旗本でも暇のある者が多い。
だいたい、堀内道場に通うのは部屋住みの二男坊か諸藩の家中でも比較的暮し向きに余裕のある者で、武辺で世に出る時代ではもうなかったから、武士のたしなみとは言え、内実は暇つぶしの稽古である。よほどの田舎者か、古い時代を慕う無骨漢でもなければ、性根を据《す》えて武道に身を入れなかった。従って道場稽古も、幾分そうした時代の好みにあうように出来ている。型の華麗さや、太刀|捌《さば》きの残心のとり方なぞで矢鱈《やたら》に味を見せようとする。
武芸も実戦向きではなかったわけなのである。
芝居を見ていて、刀の持ちように小賢《こざか》しい意見を述べた安兵衛なぞは、だから感心されるどころか、何たる田舎者よ、と嘲侮《ちようぶ》の目で見られたにすぎない。もう少し気の大きい者は、
「こ奴《やつ》おもしろい男じゃ」
無粋者を粋人が却《かえ》って酒のサカナにする——その程度の気安さで、
「どうじゃ、今宵《こよい》皆で一席もうけるが、貴公も同道いたさんか」
誘うようになった。
三度に一度は安兵衛も附合《つきあ》う。まんざら酒は嫌《きら》いでもなさそうである。当時は、この年(元禄六年)十一月に、諸大名旗本の遊女町に遊ぶことを戒めた触れが出たばかりで、以前のように仲之町あたりに登楼するのは慎しまねばならぬ、酒宴をはると言っても至極みみっちいものである。それでも興《きよう》いたれば談論風発、大いに美女の品定めをやり、部屋住みの無聊《ぶりよう》をかこち、道場先輩の誰彼《だれかれ》の実力を嘲笑《あざわら》う。あれは世智《せち》にたけてはおるが、いざ鎌倉《かまくら》となれば我ら程に用には立つまい、なぞと肩をそびやかす。他愛《たわい》のない、要するに残念会である。安兵衛は終始おだやかな笑顔をうかべて、末席で、チビリチビリやりながら聞いている。本当は酒量のもっとも多いのはそんな安兵衛だったかもしれない。
それでいて、顔色ひとつ変えなかった。酒豪のお手本みたいな男である。
或る晩、そうして例によって数人で浅草川端の料亭《りようてい》にあがった。さかずきの献酬《けんしゆう》がかなりすすんだころ、
「丹下《たんげ》さんが近く帰府するそうなが貴公、聞いたか」
上座にある一人が隣りへ盃《さかずき》を渡した。小普請で眉の細いのが自慢の男である。
「聞かいでか。内々どうなることかと案じておる。——おぬしのように、まだ妻も娶《めと》らぬ男には丹下さんの苦衷分るまいがな」
「分る。分るから訊《き》いたのじゃ」
「併《しか》し武兵衛どの」
これは安兵衛の向いに坐《すわ》っていたのが、盃を洗い、ぐいと上座へ腕を延ばして出して、
「そのこと丹下どのは存じておられるのですか」
「分らん。人の口に戸は立てられんで、或《ある》いはもう耳に入っておるかも知れん」
「では、どういうことに相成りますか」
「きまっておるわ」
眉のほそいのが己《おの》が事のように眼を据えた。
「不、不義密通をいたしたような妻《さい》ならいかに家老の娘とて……」
「野母、言葉をつつしめよ」
武兵衛と呼ばれた上座の武士が眉のほそい相手をたしなめた。
「夫たる丹下氏が申されるなら兎も角、道場仲間のよしみとて、我ら如《ごと》きが左様のこと滅多に口にいたしてはならん」
「併し、もはや隠れもなき事実ではないか。堀内道場のみではない。そもそも遠山|主殿頭《とのものかみ》さま家中で誰ひとりあの妻女の」
「——分らぬ男じゃ。不義の有無を今は言うておるのではないぞ。丹下さんの立場を思えと申しておる」
「立場? これは貴公の言葉とも思えん。——一体、口に衣《きぬ》きせて素知らん顔をいたすが丹下さんへの好意とでも言われるか? 兼ねて丹下氏に兄事する貴公が、そ、その様に冷淡な」
「冷淡ではない」
「では何故《なにゆえ》忠告いたそうとはせん。そもそも貴公、当初から噂を聞きながら黙っておるゆえ、世間の口に戸は立てられず今では知らぬ者無い迄《まで》の醜態とは相成った。貴公さえ早くに忠告しておれば、如何《いか》に江戸・大坂に離れておるとは言え、今少し丹下どのにも取るべき手段はあった筈《はず》じゃ。だいたい貴公——」
眼を据えて、大分酔いがまわっている。武兵衛はにがりきった面持にわざと苦笑をうかべ、
「もうこの話はやめる。——さ、各々も気分を変えて呑《の》め」
手を拍《う》つと女を呼んだ。綺麗《きれい》どころが三四人、やがて座に侍《はべ》って嬌声《きようせい》を立てたので此《こ》の咄《はなし》は中歇《なかや》みとなったが、それでもまだ暫《しば》らくは、
「本当に丹下氏は知って戻《もど》って来られるのかな?」
「分らん。多分は、のう」
「貴公は見たのか」
「何を?」
「不義の現場じゃ」
「たわけたことを申せ、かりにも武士たるものが左様のけがらわしい……」
「相手は知っておろうかな、丹下氏の帰府を?」
そんな私語を交しているのが安兵衛の耳にも入った。
丹下とは安兵衛のはじめて聞く姓である。話の模様で、丹下なる人物の内儀が不義を犯したらしいと迄は分るが、詳しく立入って訊く立場でもないので終始黙って盃を重ねた。
ただ、凡《およ》そ武士たる者が妻に不義をされるなぞ、物笑いの骨張であろうに、誰一人、ふしぎに丹下を嗤う者がない。却ってその口吻《こうふん》では皆の畏敬《いけい》する人物らしく、いずれも同情的なのが安兵衛の気にかかった。
それで、料亭を引揚げる途次、同道した武兵衛に尋ねた。武兵衛は小十人組を勤める旗本だがわりかた安兵衛に好意的で、今宵の席へ誘ったのも彼・池沢武兵衛である。
武兵衛は言った。
「さよう、拙者の口から言うも異なものじゃが、丹下|典膳《てんぜん》ほどの武士、当代、旗本中に二人とはおるまいの。腕は抜群、こう申しては何だが、お手前如きは一生修行いたされても、あの境地に達するは心許なかろう」
「……それほど遣《つか》われますのか?」
「遣えるの何のと申す段ではない。口はばったい言い様であるが、拙者の見るところ当代、旗本中に丹下さんの太刀業《たちわざ》を止める者ないのではあるまいか。内々、堀内先生も丹下どのには一目おいておられると、拙者は見ておるが」
池沢武兵衛の住居は金杉《かなすぎ》天神前・組屋敷にあって、天竜寺竹町へ帰る安兵衛と同方向だから途中で他の面々と別れて二人になった。
酔いは適当に武兵衛もまわっているらしく、日頃《ひごろ》重厚なのを好む人柄に似ず、よく喋《しやべ》る。
「当代屈指の仁とも申すべき丹下さんの妻女が、事もあろうに密通とはのう……拙者、それを思うと人ごとながら胸が痛んでならん。いかなる天魔|波旬《はじゆん》の仕業《しわざ》か……」
「——差構いないなら、詳しく話して頂けませんか」
「話すも何もありはせん。魔がさしたのじゃ」
それでも安兵衛の肩に凭《もた》れて二三歩よろめいたあと、存外しっかりした口調で話し出した。
丹下典膳は徳川家康の代に、永禄十一年、三州|岡崎《おかざき》に於《おい》て召抱えられた丹下|惣兵衛《そうべえ》なる者の子孫で知行三百石。大坂城番遠山主殿頭政亮の組に属し今は大坂京橋口に詰めている。
典膳の妻は上杉家の江戸留守居役長尾|権兵衛《ごんべえ》の女《むすめ》で千春《ちはる》といった。二年前、世話する者があって典膳のもとに嫁いで来たが、その年の秋、典膳は大坂城番組を命ぜられたので新婚わずか二《ふた》月で夫婦は江戸と大坂に別れて暮すようになった。典膳にはひとり老母がある。新妻千春はこの姑《しゆうと》によく仕え、丹下どのはさすが好い嫁をもたれたと、大番組の家中でも羨望《せんぼう》のまとだったのが、突如、一年あまり前から芳《かんば》しからぬ風評が立つようになった。
相手は上杉家の侍で瀬川|三之丞《さんのじよう》。見た者の言うのでは背が低く色浅黒く、器量人物ともに典膳とは比較にならぬが、ただおもいやりがあって人に親切で、そんなところが兼々権兵衛の気に入られていたらしい。新妻千春とは謂《い》わば幼馴染《おさななじみ》で、典膳の大坂へ赴いたあと、まだ丹下の家風になじまぬことではあり、何かと心細かろうと権兵衛は娘への情にほだされ、折々土産物など托《たく》して三之丞を丹下家へ見舞いに遣った。そのうち典膳の老母は咳気《せき》で臥《ふ》せるようになった。典膳には兄弟はなく僕婢《ぼくひ》を除けば嫁ひとり姑《はは》ひとりである。士分の家来は主人典膳に付いて大坂へ往っている。夫の不在中に、姑にもしものことでもあればお詫《わ》びの申しようがない……そんな心細さも、千春の胸に萌《きざ》していたろうが、何かとそれ以来、一そう足繁く三之丞は千春の許を訪ねるようになって、遂にあやまちを犯したのではあるまいか、というのが双方の事情に通じた者の言だという。
「むろん、あきらかに濡《ぬ》れ場を見たと申す者はおらん。大坂に在る丹下さんが、況《ま》してこれを知るわけがない——とは思うがの。さき頃、同じ大番組の者数人、お役目交替で大坂に赴いた、こ奴らの中には口の軽いのが加わっておるで、要らぬこと喋らぬとも限らず、もし、事実なれば怒髪天を衝《つ》くは人情——しかも丹下どのは堀内門下の麒麟児《きりんじ》と謳われた遣い手。相手は上杉家の重臣じゃ。……事と次第でどういうことに相成るか」
武兵衛と金杉天神前で別れた。
独りになると些《いささ》か安兵衛も酔っている。
「丹下典膳……典膳か」
落し差した差料《さしりよう》の柄《つか》がしらを掴《つか》んで何となく呟《つぶや》いて歩いた。寒風が鬢《びん》を乱して快よい。越後育ちの安兵衛には、それでも、やっぱり冬は雪が欲しい。
長屋への辻《つじ》を曲ると、真暗な軒並の中で一軒、灯《ひ》の洩《も》れたのがあった。もう五ツ半にちかく早じまいの長屋の住人たちは夙《と》っくに寝込んでいる。
灯の洩れているのは、安兵衛の浪宅だ。
「はテ……」
独り暮しで、むろん家を出るとき灯なぞ点《つ》けておかなかった。
片手引きに表戸を開けると猫《ねこ》のひたい程な土間で、居眠りをしていたのは菅野《すがの》六郎左衛門の草履《ぞうり》取りである。とび上って目をさました。
「お、お帰りなさりませ。旦那《だんな》様がお待ちでござりまする」
その声より早く内から障子が開いて、
「戻られましたか。さ、これへ——」
若党の佐治兵衛というのが、待ち兼ねた面持で座を譲って前を通れるようにした。
その向うの奥の間に、ぽつんと六郎左衛門が独り行燈《あんどん》を傍《かたわ》らにして坐っている。白いものがめっきり髪にふえた。
「どうも、夜中出歩く悪い癖がなおりませんで……」
安兵衛はそんな言い方で此の場を取繕ろうと、差料を腰から手に持ち六郎左衛門の前へ来て、立った儘《まま》何となく破顔《わら》った。部屋の隅《すみ》に内職の筆造りの小道具が油紙の上に拡《ひろ》げてある。月々、まとまった金子《きんす》はこの人から貰《もら》っているので、面映《おもは》ゆいのだ。
「正月も間近ゆえ何かと入用があろうと存じての」
六郎左衛門は内職には知らん顔をしてくれる。
「——佐治兵衛、持参のもの、渡して進ぜなされ」
静かに促して幾ばくかの金子の包みを出させた。
「毎々《まいまい》どうも……」
頭を下げるよりない。膝《ひざ》を揃《そろ》え坐ると安兵衛もう酔いはふっ飛んでいる。
佐治兵衛が言った。
「都合で、旦那様は近々帰国なされるやも知れませんのでな」
「お国許へ?」
「其許《そこもと》に聞かせることもないが、ちと仔細《しさい》があってな。年のあらたまらぬ裡《うち》に戻ろうと存じておる」
菅野六郎左衛門は、伊予西条の城主松平左京大夫の家臣で、既に六十歳。致仕《ちし》してもよい年だが跡目を譲る悴《せがれ》のないのと、家中に徳望があるので藩侯に惜しまれて今だに御供番|与頭《くみがしら》を勤めている。中山家とは縁つづきだそうだが、安兵衛自身は十四歳で父と死別し、越後に育ったので江戸詰だった頃の亡父と、六郎左衛門に親交あったことなど覚えているわけがない。江戸で浪人暮しをするようになってから、どこぞ、主取奉公の際には身許保証人になってもらうつもりで平生、懇意に交って来た。若党の佐治兵衛は浪人あがりだが、その佐治兵衛を捉《とら》えて常々六郎左衛門が、「安兵衛でも養子に参ってくれればのう」洩らしていることなぞ夢にも知らない。六郎左衛門には来年十七になる五百《いほ》という養女があるが、この女性を安兵衛まだ見たことがなかった。
菅野六郎左衛門は寡黙《かもく》な人なので、少々のことで打明けはすまいとは察したが、何となくその面差に沈痛の色がある。安兵衛は問うてみた。
「国許へ戻られる仔細とやら、お聞かせを願えませんか」
やっぱり、応《こた》えない。
「仔細と申すほどのものではない。ただな」
言ったきり、ぽつんと黙り込んでいる。
若党の佐治兵衛がこれを見て、
「差出たようにござりまするが、それがし代って申上げます」
安兵衛へ向き直り、
「兼々御同役の村上|庄左衛門《しようざえもん》どのと旦那様は役向きの儀にて両三度口論あそばしたことがござる。口論とは申しても、旦那様の御気性なれば激しい言葉はお控えなされておりましたに、ちか頃、ことごとに村上殿より|たて《ヽヽ》をつかれまするゆえ、この儘江戸屋敷にあっては向後どのような迷惑が及ぶやも知れず、強《た》って、国許へお役替りの儀を願い出られたのでございまするが……」
「もうよい。安兵衛」
「は?」
「其許も越後溝口家に中山ありと知られた四郎兵衛どのの悴じゃ。近頃道場通いにいそがしいと聞いておるが、いかに浪人暮しとて、正月も間もないに注連《しめ》飾り一つないとは侘《わ》びしすぎる……。わしが帰国は確《しか》とまだ定まってはおらぬ。もし正月も江戸で致すようなれば迎えを寄越すで、年始に参って呉《く》れよな。……それから、酒はあまり過ごさぬがよいぞ」
言うと座を起上った。
帰り支度をぼんやり安兵衛は見ている。
考えれば渋茶一つ出さず、火の気のないこの裏長屋で、どれほどの間彼の帰りを待侘びていた人か。もう少し真情のこもった様子を見せてくれてもよいのにと、佐治兵衛などは、あっさり送り出してくる安兵衛の鈍感さが歯掻《はが》ゆくてならない。
年の瀬を越す費用を届けるだけなら、使いの者で事足りたのである。
「……どうぞ気をおつけなされて」
安兵衛は平然と老人主従を長屋の前で見送った。木枯しの鳴る夜空に星が綺麗《きれい》だった。
三つの影が辻を曲るのを見届けて前の溝《みぞ》へ放尿したあと、住居へ戻ると、畳から金子の包みを拾い上げる。ちょっと推し戴《いただ》いた。それを塗りの剥《は》げた膳《ぜん》に載せ、さて行燈の灯をかき立て油紙の拡げたのを行燈のわきまで引寄せて来る。おもむろに襷掛《たすきが》けで前へ坐る。
小刀を把《と》って竹をけずり出した。
「桃は今 楼と斉《ひと》しく
我が旅 なお未だ旋《かえ》らず
嬌女字《きようじよあざな》は平陽 花を折って桃辺に倚《よ》る
花を折って 我を見ず
涙下って流泉の如し……」
夜の深更まで口ずさみつつサラサラ竹を削る音が部屋に聞こえた。