「そもそも拙者には丹下どのが妻女を離縁いたされたわけが分らん」
野母清十郎が言った。眉《まゆ》のほそいが自慢の、いつぞやの小普請《こぶしん》組の一人である。
「それはきまっておる。家におくは芳《かんば》しからずと思われたからであろう」
「何が芳しくない?」
「それが分れば我ら、かように心配はいたさん」
池沢武兵衛が腕組して言う。
別の方では師範代の高木敬之進を中心に、道場でも主だった面々が三四人ヒソヒソひたいをあつめている。
妻女の不義と見えたのはどうやら狐の仕業であったが、それにしては噂の相手——瀬川三之丞がふっつり丹下邸へ姿を見せぬというのが訝《いぶか》しい。妖怪の所業と分明したのであるから、一応、笑い咄《ばなし》としても、典膳の前に出て自分の釈明をするのが人間の常識である。それぐらいのことは兄の竜之進とて気づいていように、まるで無視していたから、温和な典膳も少々|肚《はら》にすえかねそんなことが原因で、離縁に事は発展したのではあるまいか。竜之進に斬りつけられて典膳ほどの達人が受けて立たなかったというのは不思議だが、場所が上杉家のお長屋であり、騒ぎが大きくなっては上杉家全体に迷惑を及ぼすのを惧《おそ》れたので、いわば公私のけじめをわきまえたればこそ、抵抗もせずに黙って斬られたのであろう。腑抜け侍どころか、典膳こそは思慮のある立派な武士である。それを何ぞ、抵抗せざりしとてお家断絶なぞと噂するとは! 高木敬之進らのヒソヒソ話はそんな義憤をこめた、典膳への同情論で、この際我等の力で何としても幕府重臣連を動かし、丹下家断絶の御沙汰《ごさた》のないように致そうではないか。——そんな相談であった。
安兵衛は終始黙って耳を傾けている。「貴公はどう考えるか」と誰も尋ねてはこないし、もともと典膳には会ったこともないのだから、安兵衛自身の意見の述べようもないわけである。ここ連日、稽古《けいこ》などはそっちのけで一同話に身を入れている。仲間に加えられないのは安兵衛ぐらいのものである。本来なら、だから当分道場へ無駄に通わないで、内職の筆造りにでも精出していそうなものだ。それが不思議に休まずにやって来ては、片隅《かたすみ》にぽつねんと坐って皆の話を聞いている。安兵衛がそういう関心を示したのは、丹下典膳が姦夫《かんぷ》と見て斬捨てたところ、これが狐だったという話を聞いて以来である。
さて三日余り経《た》った。
今日も今日とて終《つい》に稽古をすることもなく、典膳はどうやら千坂兵部宅から麹町の屋敷へ帰って養生出来るまでに恢復《かいふく》したらしい、それだけの新情報を得ただけで、安兵衛はほっとしたように機嫌《きげん》がよかった。
ぶらぶら牛込竹町の長屋へ戻りながらも、
「……よかったぞ。本当によかったぞ……」
独り言を言っている。
そうして天竜寺の辻《つじ》を曲りかけた時だ。うしろから肩を叩いた女があった。
安兵衛が振返るとお豊がつぶらな眸《ひとみ》でわらった。安兵衛が内職の厄介《やつかい》をかけている筆の卸商羽前屋の娘である。
「これはこれは」
安兵衛は通りの真中に佇立《ちよりつ》して例の恭々《うやうや》しい叩頭《こうとう》をやった。
「いやですよ中山さん……」
お豊はぽっと頬《ほお》を赧《あか》らめて、それでもいそいでお辞儀をした。
「何処へ行かれましたな?」
「親戚《しんせき》の|騒動打ち《ヽヽヽヽ》に」
「ほ。……それは又気の強い——」
お豊の家は竜閑《りゆうかん》橋わきの鎌倉《かまくら》横丁だから方向は反対だのに安兵衛の二三歩うしろをついて来る。
「存分に活躍なすったか?」
「はい」
はっきり答えて、お供の下女と顔を見合わしてクックッおかしそうに笑った。十七にしては上背のあるふっくらとした体つきで、色が白く、見るからに町家の娘々した年格好だが、羽前屋の先代は何でも士分の侍だったそうだ。由井正雪の事件の頃に大小を捨て、筆の製造商をはじめたという。
『女騒動』というのは、もとは武家から起った『後妻《うわなり》打ち』のことで、先妻を離縁して間もなく新妻を呼入れた場合——十日とか、二十日とか、乃至《ないし》一カ月ぐらいで直ぐ次の女房《にようぼう》を貰《もら》った場合に、前の女房は自分の親戚や一族の者を呼び集めて相談をする。そうしてその儘《まま》にしておけぬということになると、一家一門のほかにも達者な若い女を狩集めて、同勢が二三十人(多いときには五十人、百人に及ぶのもあったそうだ)になると、日取を定め、前妻は自分の家来を使いに立てて、御覚えがおありのことと思うが、何月何日何時に騒動に参る、ということを口上で新妻に申送る。
新妻方でも家来を取次にして、
「ごもっともの次第であるから、心得て御待受け致します」
と返事をする。中には何分の御詫《おわ》びを申すから、どうか御見合わせを願い度いと、あやまるのもあったらしい。併しそんな弱いことでは一生の恥辱になるので、大概は申込みを受けた。
さて当日になると、押掛けて行く女連は、めいめいに棒、木剣、竹刀《しない》を携え、前妻は必ず駕籠《かご》に乗って、同勢は徒歩でくくり袴《ばかま》に襷《たすき》、髪を振乱して鉢巻《はちまき》を緊《し》めて先方へ押寄せる。
相手でも待受けているから門を八文字に開いてある。同勢はかならず台所から乱入し、鍋釜《なべかま》や戸障子、たんす長持に至るまで手当り次第にぶち壊していって散々あばれた頃、時刻を見はからい新妻の仲人をした者と、先妻の待女郎(婚礼の時に花嫁に付添う侍女)をした者とが出合って、仲裁の労をとる。
それでしまいだが、馬鹿にされた仕打ちが心外だという女らしい矜《ほこ》りを表明するため、女ばかりで、男を交えずこういう見栄をきった。その名残りが元禄時代にはまだ町家にのこっていて、お豊はそれに参加しての帰りだというのである。
いつもの、長屋へ折れる辻まで来た。
「お寄りなされるか」
「かまいませぬか?……」
声がはずんで嬉《うれ》しそうだ。
長屋の前まで来ると、近所の者が二三人、井戸端で、安兵衛のあとについて来るお豊の羞《は》ずかしそうな様子を口をあいて見ていたのが、急に一人、
「そうだ、中山さま。さき頃までお客さまがお待ちでございましたよ」
寄って来て親切に教えてくれた。
「客人?……」
「お年寄りの、時々おみえになるあの御家来をつれたお武家さんでしたがねえ」
どうやら菅野六郎左衛門のことらしい。
「それなら分っております。——御丁寧に」
「はあ……何だか御心配事のおありのような御様子でしたが」
「あのお方はいつも拙宅には案じ顔をして来られる」
笑いに紛らして、
「さ、むさい処《ところ》だがおはいり下さい」
振向いた。
お豊はそれでもちょっと尻込《しりご》みするのを、あとから下女が押しやるようにして、
「あのように申してくれはります。遠慮あそばしたら却《かえ》って失礼でございますよ」
関西|訛《なま》りのぬけない、いかにも騒動打ちに付いて行きそうな三十女だった。
安兵衛が一枚しかない座布団をすすめると、上り框《かまち》でお豊はめずらしそうに室内を見まわしていたが、慌《あわ》てて我に返り一礼してから、履物を揃《そろ》えてあがった。
町家の娘ながらよく躾《しつ》けられている。
下女は上り框に出尻《でつちり》をのせる。
「中山さまは丁寧なお仕事をなさるそうですのね。父が感心しておりました」
「筆造りですかナ」
「ええ。……」
「あんまり、そういうことで褒《ほ》められるのは有難《ありがた》くない。はっはは……さ、粗茶です」
「ありがとうございます」
お豊を家へ誘ったのは、先日からたまった分をついでに持って帰ってもらいたい心づもりがあったので、早速、座敷の隅でそれを紙に包んだ。
見ていた下女が、
「——お嬢さま」
耳もとへ首をのばして何事か囁《ささや》きかけると、いそいそと立ちかかる。
「何処へ行かれる?」
「ちょ、ちょっと思い出した用がございますので。……すぐ戻《もど》って参りますよってに」
北《にげ》るように出ていった。
お豊はもう真赧《まつか》だ。花かんざしが俯向いた髪に綺麗に差されている。
「お帰りのついでにこれを頼みます」
筆包みを差出すと、安兵衛にはもう話すこともない。
少時《しばらく》してお豊の方が、
「中山さまは、明日はお忙しいのですか?」
「ごらんの通りの暮し向きで、忙しいと申しても世間には通りますまい」
「わたくし」
顔をあげた。にこにこ笑っている。
「中山さまが道場へお通いになっているわけを聞きました」
「わけ……?」
お豊が言うには、安兵衛が堀内道場へ通うのは一刀流の業《わざ》太刀を偸《ぬす》むためで、もともと安兵衛は越後|新発田《しばた》の国許《くにもと》で心地流の極意を会得《えとく》した評判の名手だったのに、藩の一刀流師範|柿本《かきもと》| 某 《なにがし》と試合をして負け、国許を逐《お》われた。それで恥を雪《そそ》ぐため偽って堀内道場に入門して一刀流の秘伝を偸んだ後、あらためて柿本と雌雄を決するつもりなのだろうと、溝口家(越後新発田の藩主)の江戸詰の家中の間でもっぱら評判になっているというのである。
「ほ。……これは驚いた。誰が左様なこと申しておるのです?」
安兵衛はなかば呆《あき》れ顔でお豊を見た。
町家の娘が心地流なぞと味気ない流名を知っているのも不審だが、まったく、とんだ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせられるものだ。
「誰って、お店へは溝口様の御|祐筆《ゆうひつ》の方々がよくいらっしゃいます」
「溝口家の? それではこの内職も余りつづけられませんな」
「あら、そんな……」
お豊は安兵衛の秘密を知ったというよろこびに酔うつもりでいたのが、案外、相手に反応が見えないのでがっかりしたらしい。業太刀なぞと娘らしくない名称を覚えていたのもそれが安兵衛の何か重大事だと思えばこそだった。
安兵衛は言った。
「それがし如何にも心地流を修めはいたしたが、一刀流の試合なぞとはとんでもない話。あまり、そういう噂を真《ま》に受けられては困りますな」
「ではどうして道場通いをなさるのでございます?」
「まア浪人暮しの暇|潰《つぶ》しとでも申そうか」
「え?」
「又そういう顔をなさる。——どうも、そなたは娘御に似合わず固い話がお好きのようで、困る」
「けっして好きではございません」
つぶらな眸が怨《えん》ずる如く睨《にら》んだ。
「ほかのお話なら、いくらでも致します」
「そら、もうその言い様からして、ハッハハ……今日はもうお帰りなさい。そなたといさかいは拙者、好まぬ」
安兵衛はいささかお豊を誘ったのを後悔する様子に見えた。
お豊にすれば、けっして好んできり出した話ではない。
たまたま騒動打ちなどに行った帰りで、幾分気持がその名残りをのこしていたので、つい口をついた迄《まで》だった。安兵衛さえうちとけてくれるなら、言いたいことは山ほどある……
しばらくは、だから起上りかねたが、下女は一向に戻って来ず、気をきかされているその意識が却ってお豊に長座を羞恥《しゆうち》させたのだろうか、間もなく未練ののこる様子で帰っていった。
安兵衛は送り出さない。
独り居の腕を組むと、
「一刀流柿本三左か……」
きびしい眼で空を見上げた。
中山安兵衛はお豊が溝口藩士に聞いたという通り、十五歳で切紙《きりがみ》、十八歳の春すでに心地流の極意を得て、国許《くにもと》でも有数の上手にかぞえられた。
亡父弥次右衛門は知行七百石取りの武士だったから藩中でも相当な家臣である。また安兵衛の母は、藩主|信濃守《しなののかみ》には血すじに当る家老溝口四郎兵衛の女《むすめ》で、そういう姻戚《いんせき》関係からもわざわざ江戸の陋巷《ろうこう》に浪人暮しをする必要は一応無かった。それを、親戚の厄介《やつかい》になるのを拒んで江戸へ出、大名小路にある溝口家の江戸藩邸へも姿を見せぬから、殊更《ことさら》な推測をうけたわけだが、安兵衛が越後を出奔したのは寧《むし》ろ家中に面倒のおこるのをさけたためだった。
溝口家の執政に、堀|図書助《ずしよのすけ》という人がある。或《あ》る時この図書が安兵衛に向って、
「月に両三度、拙宅《せつたく》に来て子供に武芸を仕込んでくれまいか」
と頼んだ。父の死後、跡目相続の儀をまだ済まさずに親戚の厄介になっていた頃《ころ》である。
安兵衛は、
「貴宅に赴いての稽古《けいこ》はお断りを致す。私方へ出向いて頂いてのお相手なれば存分に致しましょうが」
と婉曲《えんきよく》にことわった。
これが図書の心証を害した。
親戚の某《なにがし》がこれを聞いて、「そちは糠《ぬか》の目役人をはじめ、所々へは請われる儘《まま》に出稽古をいたしながら図書どののみ辞退するはどういうわけじゃ」と問うと、
安兵衛は、
「われらの回り候個所《そうろうかしよ》の弟子は皆小給者にして漸《ようや》く其の日を凌《しの》ぎおる者に候。二三里も隔り候われら宅へ如何《いか》にして日参し得べきや。しからば終身こころざしありとも稽古かなわず、士《さむらい》分にてあり乍《なが》ら土民同様に相成る外は御座無く候。その不憫《ふびん》を察し、君家の御為にもなるべきやと存じ、われら暇にあかせて指南をいたして回り候。さりながら図書どのは禄《ろく》高く不自由なきゆえ、当所へ子息を罷《まか》り越させられるに何の差支《さしつか》えあらん。しかるを屋敷へ来て教えよなど申されるはコレ武辺の志うすき証拠。且《か》つ、当藩には一刀流師範もおわすことなれば、弱輩のわれら出向きて稽古いたすも異なものと存じ候ゆえ辞退|仕《つかまつ》って候」
と答えた。
普通ならこれで話は通っている。併《しか》し相手が執政なので妙に楯《たて》を突いた具合になり、事実中山弥次右衛門どのの悴《せがれ》は図書どのの権勢にも挫《くじ》けない、末頼もしき男よと、政争に利用する者も出て来た。
当り前のことを言って、それが当り前に通らぬ小藩の権力争いにも多少|嫌気《いやけ》のさしたのは否《いな》めないが、とにかく、もう少しのびのびとした処《ところ》で自在に生きたい気持があり、出奔同様にして江戸へ出た迄《まで》である。意趣なぞは微塵《みじん》もなかった。
それでも世間では、図書どのが子息の指南にわざわざ中山安兵衛を選ばれたは、師範役柿本どのの技倆《ぎりよう》以上と見込まれたからである——そんな穿《うが》った見方を喜ぶ者があって、一刀流の面々の中では安兵衛斬るべし等といきまいている者すらあるという。
むつかしい世の中だ。
わずかでもそんな誤解のとけるようにと、安兵衛自身は一刀流の堀内道場へ新弟子として入っているのに——
翌朝早く、お豊からの使いと言って昨日とは別の女中が、お礼に是非|一盞《いつさん》差上げたいからお越しを願い度い旨《むね》を申出て来た。
「何のお礼でござろうかな。当方、わけて饗応《きようおう》いたした覚えもなし」
安兵衛が言うと、
「いえ、お嬢さまは何でも失礼なことを申上げたと、大そう気になすっていらっしゃいますので」
「別に気になさる程のことではござらん。折角のお誘いながら、御芳志のみで十分と帰ってお伝えを頂こうか」
断ったがどうしてもおいでを願い度いと言って肯《き》かない。
「この儘で帰りましては、旦那《だんな》さまに暇を出されてしまいます」
言って泣き出す始末。
「羽前屋どのも話にのっておられるのか」
呆《あき》れたが、考えれば内職に出入りの浪人者を家へ招待するのに、娘が親の許しを得るのは当然だろう。
「それ迄に申されては致し方がない。同道いたそう」
安兵衛は今日は堀内道場へ通うのもあきらめることにして、別に支度をするではなし、袴《はかま》を穿《は》くと下女と連立って家を出た。
それが取返しのつかぬことになった。
羽前屋では待兼ねたように手代までが迎え出る。内職の筆を届ける折とは大違いである。
当主羽前屋|藤兵衛《とうべえ》はまだ四十前後の男盛り。父が武士だった名残りは安兵衛への応対ぶりにも残っていて、甚《はなは》だ四角四面である。
店から奥座敷へ通す。妻女までが出て挨拶《あいさつ》を述べる。重詰の菓子が出る。お豊は見違えるばかりに着飾り、丁寧に敷居際《しきいぎわ》に手をついて昨日の礼を言ったが、それ以後は口数|尠《すくな》くかしこまって顔もあげない。
どうやら妙な具合になったと安兵衛が気づいた矢先へ、
「かようなこと突然に申上げてはお驚きなされましょうが」
羽前屋藤兵衛が新調の袴を鳴らして一膝《ひとひざ》出て語るところによると、兼々安兵衛の人柄《ひとがら》に羽前屋夫婦は目をつけていたが、娘お豊も見るとおりの年頃。ついては是非とも安兵衛の知人でよい婿《むこ》どののお心当りがあればお世話を願い度い、強《し》いて士分の方でなくともよい、浪人者でも、これはと安兵衛が見込むようなお人であれば、差出た申し様であるが羽前屋の家財一切を付けて嫁に差上げたいから何分のお口添えを頼むというのである。
「どうもそれは……」
安兵衛自身がまだ二十五歳の独身である。他人の嫁を世話するどころか自分の身の納まりさえつけかねる状態で、
「とてものことに左様の話は」
おうけ合い致しかねると断った。
さればというのが羽前屋の真意だったろうが、それを言わせてしまっては物事にカドが立つ。お豊の心も傷つくと思うから、何とかその場は取繕ろって逃げるように安兵衛は羽前屋を出た。これが四ツ半(午前十一時)前。
無理に持たされた折詰を下げて浪宅へ帰ると、叔父菅野六郎左衛門の中間《ちゆうげん》が真青になって門口に立っている。叔父は高田馬場で私闘するというのである。
安兵衛が羽前屋へ出掛けた直ぐあとへ菅野六郎左衛門の内室から急報が来て、今日|巳《み》の下刻(午前十一時)を約し菅野は高田馬場での私闘に出向いた。そのわけは、兼々不和の間柄にあった同役の村上兄弟から挑戦《ちようせん》されたのを武士の意地で、余儀なく受けて立った為という。
この危報を齎《もたら》したのは菅野家の中間で、安兵衛の不在に困《こう》じ果て長屋の前を往《い》ったり来たりうろうろしていた。そこへ手土産をさげて安兵衛が戻《もど》って来たから、
「中山さま、大、大変でござりまする……」
取|縋《すが》らんばかりに主人の異変を告げたのである。
「落着いて、落着いて詳しい仔細《しさい》を申せ」
あたりには長屋の者が四五人、各自の家の前にかたまって何事かと様子をうかがっていたが、安兵衛がこれほどきびしい態度をとるのは見たことがないと言う。
中間はしどろもどろに説明した。さる二月七日、藩の支配頭の宅で出会った村上庄左衛門から、菅野老人は口汚なくののしられ、その場は仲裁人があって事なく済んだが、これを根にもつ兄弟の果し状が届いたこと。口論の理由は無理難題とより言い様のないものであったこと。私闘に出向くに当って、後事を老人は安兵衛に頼むよう妻女に伝えて出て往ったこと。若党角田佐治兵衛、草履取りの二人がこれに付いていること。恐らくは、相手が数人を擁《よう》しているので菅野主従に勝目はないだろうこと——
聞いてみれば、昨日菅野家から使いがあったというのもこの決闘に就いて後事を依頼の為だったろうし、長屋の者が、何か心配そうな様子だったと告げてくれるのを、いつものこととあっさり不問に付したのが迂闊《うかつ》だった。
「そ、それでは御内儀は屋敷におられるのじゃな?」
「はい。……後事を中山さまへお頼み申せとの旦那様がおことばにて」
「後事!……何、何の後事じゃ。たわけ」
一喝《いつかつ》すると安兵衛は住居へ駆け込んだ。
矢立の筆を取る。
[#1字下げ]「拙者叔父事、仔細あって本日高田馬場に於《おい》て果し合い致し候に付、見届けのため罷《まか》り越す。無事に立帰りなば年来の御厚情、その節御礼申述ぶべく候。
安兵衛|武庸《たけつね》」
大書したのを壁に貼《は》りつけ、下に羽織を脱いで置いた。形見のつもりだ。
刀の下緒を襷掛《たすきが》けに結んで土間へ降り、水甕《みずがめ》へ刀の柄《つか》をずぶりと漬《つ》ける。
「中間、その方立帰ってお内儀へ申せ。中山安兵衛一命にかえても菅野どのはお護《まも》り致すとな」
あとはもう韋駄天《いだてん》走りだ。
牛込天竜寺竹町から高田馬場へ——この時、恰度《ちようど》馬の調練に馬場へ駆歩《かけあし》を試みて行く武士があった。その馬の跡を一間とは後《おく》れずに安兵衛は突走った。