「嘉次平、あれに行かれるはこの近くの仁かの?」
一瞬前までの激昂《げつこう》を忘れたように権兵衛が問うた。
「いえ、一向に存じませぬ」
「——そもじは顔を見たか?」
「いいえ。……」
千春はそれどころではなかった。素早く嘉次平に目配せする。
「長尾様」
安兵衛の立去るのから目を戻し、
「わたくしめが悪うございました。どうぞ、おゆるしを願いまする」
背をかがめて詫びを言う。老いのその眼にまだ悲憤の名残りがしずくになって残っている。
わびられてみれば権兵衛とて気は衰えるばかりだろう。
「そちとて悪気で申すでないは存じておるが、以後はチト、言葉をつつしめよ」
「は、はい。……」
「不縁の後は他人と申しおったが、当方左様には存じておらぬ。困ったことあらば遠慮なく申出てくれい。——よいか。長尾権兵衛も武士、一たん片付けたものは何時何時《いついつ》までも婿どのと思うておるわ」
「…………」
「千春」
「ハイ。……」
「参ろう」
うなだれる嘉次平の前で、も一度ふと後ろの安兵衛を見返ったがもう姿はなかった。
「じいや。……おねがいします」
それだけが千春の嘉次平に懸けた言葉である。老僕はしょんぼり彳《たたず》んで去ってゆく父娘を見送った。一度だけ、千春の方で振向いたので慌《あわ》てて嘉次平も叩頭《こうとう》した。
「——旦那《だんな》様」
「何じゃ」
「ホレ、あすこで娘が手を振っておりますよ」
堀部家の草履取りは又者《またもの》だがいつぞや弥兵衛老のお供で安兵衛の長屋へ随《つ》いて行ったことがあり、如何に多くの使者に仕官を求められていたかを知っている。それが主人弥兵衛の懇望に応《こた》え、堀部家に入ったのだから草履取り乍《なが》らも大得意である。鉄砲洲《てつぽうず》の浅野家本邸の御長屋には他の藩士も住まっているが、同じ草履取り仲間で、この茂助の自慢話は今では名物になってしまっている。それほどだから江戸の市中を安兵衛のお供で歩くのが嬉《うれ》しくて堪《たま》らぬらしい。誰彼が、
「あれが高田馬場の安兵衛どのよ」
指さして囁《ささや》き合うのを見ると思わず小鼻をうごめかせている。
今も、数寄屋《すきや》造りの風流な住居の門口で綺麗《きれい》な娘が袂を振って、安兵衛の来るのへ何度も会釈《えしやく》しているのを見ると、
「お|こう《ヽヽ》様があのお年頃《としごろ》でなくてようございましたなあ」
にやにや笑いで言った。さぞ嫉妬《しつと》で大変だろうという意味である。お|こう《ヽヽ》とは堀部弥兵衛の一人娘で、この頃まだ十六歳である。
数寄屋造りの門の前で待ち構えていたのは宇須屋の娘志津である。
安兵衛の近づくにつれて大きな眸《ひとみ》がすぼみ出し、こぼれるような笑いが表情一杯にひろがった。
ひょいとお辞儀をする。うなじから襟足《えりあし》へ一面紅潮している。
「いらっしゃらないかと思ったわ……」
ぞんざいな言い方だが、せわしそうに瞬《またた》いた。
ただのファンぐらいに思っていたら知り合いらしいので草履取りは目をパチパチして志津を見、安兵衛の横顔をうかがっている。
「静庵どのは御在宅ですか」
「ええ。先程からお待ち兼ね……中山さん」
「?」
「あとで、幾世餅《いくよもち》を奢《おご》って下さいまし」
「どうして?」
志津はチラリと草履取りを眄《なが》し見た。それから妙に改まって、
「このたびは、お芽出度うございます……」
切り口上で安兵衛に言う。堀部家に入婿したことへ精一杯の皮肉だ。奢ってもらわねばだから承知しない、という意味らしい。
安兵衛は、
「はっはっはっ……」
声を立てて笑った。屈託のない、いかにも明るい笑い声で、こんな安兵衛の笑顔を草履取りはお屋敷では見たことがない。武家と違い、町家の娘のざっくばらんな物言いが可笑《おか》しいのか、或いは安兵衛も以前は浪人暮しの気儘《きまま》な日を過していたのが、堀部家に入ってからは、万事武家のしきたりで何かと堅苦しく、養子の身であれば他人の中の暮し。少々物固い日常に閉口していたから猶更《なおさら》、お志津の明るい性質が愉《たの》しかったのかも知れない。草履取りはそう思って、(御無理もないのう……)ひそかに合点した。
志津はあべこべである。新婚の愉しさからそんなに笑ったのだと思っている。
「いいわ。きっと奢らせて見せるわ」
言い残して先に瀟洒《しようしや》な門を走り入った。ふっくらとしたお尻《しり》の上で錦《にしき》の帯が蝶《ちよう》の翅《はね》のように揺れる。
内玄関への飛石づたいに安兵衛が這入《はい》ってゆくと、嫩葉《どんよう》の芽立つ匂《にお》いが四辺《あたり》に漂っていた。玄関の格子戸《こうしど》の外で小さな髷《まげ》の下女がうずくまっていたのが、慌《あわ》てて風呂敷《ふろしき》包みを胸に立上り、安兵衛へ深々と会釈《えしやく》をした。町家の気儘娘とは見えても、そういうお供の女中をつれる躾《しつ》けをされて育っているのである。
志津はもう奥へあがって安兵衛の来訪を告げたらしい。
玄関の土間へ入ると、何やら志津をからかいながら静庵自身が、「静」の一字を銀泥《ぎんでい》に大書した衝立《ついたて》の前まで迎え出て来た。
「いよお」
磊落《らいらく》にそう言っただけ、禿頭《とくとう》にちかい法体《ほつたい》に|もんぺ《ヽヽヽ》を穿《は》き、真綿のじんべ羽織を重ねている。すでに七十六歳だが、矍鑠《かくしやく》たるものである。
「これが最前から何度出たり入ったり致したか知れいでの。それも今日で五度目ぐらいになるか」
「静庵さま!……五度はしどいわ」
「む? 何と言うたのじゃ? 年をとって近頃とんと耳が聞こえん」
「!」
「ま、何にしても今時の娘は、元気があってよろしい。ふム、とりわけ江戸の娘御はな。京おんなは、そうはゆかん」
紫檀《したん》の茶棚《ちやだな》を壁ぎわに据《す》えた茶室造りの庵室《あんしつ》で、中央に炉が切ってある。天井は廂《ひさし》側だけ黒竹《くろちく》が隙間《すきま》なく並べてあるが、太い煤《すす》けた梁《はり》がむき出しに造られている。床には一《ひと》重切の竹の花筒。雲竜柳《うんりゆうやなぎ》に都忘れが挿《さ》されている。一方の柱には無造作に懸けた藤原|俊房《としふさ》の短冊《たんざく》。
静庵は炉の前で、安兵衛に茶を点《た》てる時だけきちんと坐ったが、直ぐ坐禅の半跏《はんか》めいた坐りように寛《くつろ》いだ。
炉を距《へだ》てて対面に安兵衛。少し後方に一見お淑《しと》やかに志津が控えている。
「——そもじにも一服進ぜようかの?」
「あたしはお茶|嫌《きら》い」
「そりゃそうじゃ。げっぷが出よう」
火箸《ひばし》を把《と》って炭加減を少し直しながら、
「時に、このたびは御祝言があったそうな。お祝いもまだ述べておらんが……」
「その話は又に致しませんか」
「はっはっ、志津がうるさいか」
庭の早咲きの牡丹《ぼたん》が風で揺らいでいる。にくまれ口は叩《たた》いても志津のため、小ぶりの楽《らく》で一服静庵は点てていた。
「浅野侯の御家中じゃと?」
「左様です」
「妙なところへいったものじゃ」
「?——」
「内匠頭どのは、とんと吝嗇家《けちんぼ》で有名じゃと承る……ハイ、志津。粗茶じゃ」
静庵はあっさり話題をそらした。
「そうそう、其許《そこもと》たしか小石川の堀内道場へ通うていたの? 其処の師範代とやらが、近頃この近所に移って参ったそうな」
「?……」
「何でも御直参の御旗本で、ずい分評判のいい仁であったのが、不首尾で家を潰《つぶ》し、今では隻腕《せきわん》の不具者《かたわもの》……うちの婢《はしため》なんぞは気味悪がって家の前も通らぬそうじゃ。近所の者も皆こぼしておると申す」
「——独りで?」
「実直そうな年寄りが世話をやいているとか」
「何処です?」
「住居かの、ホレ、其許も知っていよう西念寺わきの裏長屋」
「—————」
「こ、これ、何処へ行くのじゃ?」
志津が安兵衛のあとを追って出た。
「中山さん」
「すぐに戻《もど》って参る……そなたは、これに待っておられい」
「いや!」
はげしく玄関で首を振ったが安兵衛はもう構っていない。戸口の外で、志津の下女と何やら遠慮深く話をしていた草履取りを呼びつけ、
「出掛けるぞ」
草履取りはとび上って驚いた。いま着いたばかりではないか。
「すぐ戻る。西念寺裏までじゃ」
「ハイ」
慌《あわ》てて草履を揃《そろ》える。
「何処へいらっしゃるんですか?」
志津は銀泥の衝立の端をそっと掴《つか》んでいた。
「静庵どのに申しておいて下さい。多分、すぐ戻って参る筈《はず》と」
三度とも同じ答えをしたのを安兵衛自身は気づかぬようだ。大小を差し直し、草履を突っかけてそれきり玄関を走り出た。草履取りが跡を追うた。
「どうなされたのでございます?……」
下女がきょとんと屋内の志津を振り返ったが、大きな眸がうらめしそうに去る人の後ろ姿を見送っているだけ。
悄然《しよんぼ》り庵室へ志津が戻って来ると、
「行ったか、はっはっ……まあよい。これへ坐りなされ」
静庵は囲炉裏|際《ぎわ》へ火箸で招いた。落着いたものである。
「何もそううらめしそうにわし迄睨《までにら》むことはあるまい。そもじらしゅうないぞ」
「——静庵さまは御存じなんでしょ?」
「何を」
「…………」
「ほ……そんなに好きか」
静庵は茶釜《ちやがま》に水をさし、殊更《ことさら》視線を伏せて又水加減をいじる。
「よいわよいわ。あれ一人が男ではなし……」
ぽつんとつぶやいた。「今にわしがよい婿《むこ》どのを世話して進ぜる。……それにしても、浅野侯とは妙な主取りをしたものじゃな」
あとは独り言だ。
安兵衛は西念寺わきで近所の者に訊《き》くと直ぐ分った。
想像以上にうら侘《わ》びしい住居である。草履取りを表に待たせ、たてつけの悪い表戸を開けて案内を乞《こ》うと、暫《しば》らく応《いら》えがない。
「頼み申す——」
二度目に言ったとき、
「誰方《どなた》ですかな?」
閉め立てた唐紙の向う座敷で声だけが返って来た。
安兵衛は表情を変えた。
玄関の土間は仄暗《ほのぐら》く一坪余の広さで、沓脱石《くつぬぎいし》に典膳のものらしい草履がきちんと揃えて置かれているが、此《こ》の数日|穿《は》いたこともないらしく鼻緒にうっすら埃《ほこり》がたまり、裏に付いた土も乾いていた。
家の中をじろじろ見回さなくとも、凡《およ》そどのような暮し向きか安兵衛には痛いほど分る。
しばらく待ったが、相変らず奥から人の出て来る気配はない。
安兵衛は一瞬ためらって後、思いきって呼びかけた。
「モウシ。甚《はなは》だ卒爾《そつじ》ながら拙者《せつしや》中山安兵衛と申すもの。——是非、一度、お会い致したいのですが」
言った時だ。奥の唐紙は開かなかったが背後へぬっと人が立った。
振向くと、老僕《ろうぼく》である。ねぎや大根をざるに容《い》れて小脇《こわき》に抱え、来訪者をおそるおそるうかがっていた。
顔が合うと、
「お。……」
嘉次平の方が覚えていたのである。あわてて容《かたち》を正し、
「先程は、あぶないところをお扶《たす》け頂きまして本当に忝《かたじけの》うござりました」
深々頭をさげた。
安兵衛は後ろ姿を見て通ったので顔に覚えはない。併《しか》し、あの時のがこの老僕だったとすると、人品いやしからぬ老武士と連れ立っていた女性は?
「……これは奇遇、あのおりの年寄りか……」
さすがの安兵衛も眉《まゆ》を張った。
「はい。当家の召使いにて嘉次平にござりまする」
土間の隅《すみ》へざるを卸すと、も一度丁寧に腰をかがめたが、さて、
「どなた様でござりましょうか?」
安兵衛は主家の名は言わずおのが姓のみ名乗った。
たいがいなら、中山安兵衛と聞けば高田馬場の仇討《あだうち》を知っている。併し主家の転落に気を奪われてきた嘉次平には世間の評判なぞ心にかける余裕はなかったのだろう。
「御用件は何でござりましょう?……」
幾分、悲しそうな眼《め》をあげた。安兵衛は立派ないでたちの士《さむらい》。典膳は今は落魄《らくはく》の姿である。そんな主人を、なるべくなら人目にさらしたくないのだろう。
安兵衛はかんたんに、もと堀内道場に通ったことがあり、典膳どのの武芸練達の程を兼々承っていたので、是非とも一度お目にかかって、親しく武術談を交し度いと存じていた、偶々《たまたま》この近所へ立寄ったところお噂《うわさ》を聞いたので訪ねた次第である、と言った。
とりわけ声高には話さなかったが、奥の典膳に、あらましは聞こえていたろう。
「——少々お待ちをねがいまする」
嘉次平は安兵衛の前を腰をかがめて通って、台所の方から座敷へ上っていった。
暫《しば》らく待った。
襖越《ふすまご》しに、嘉次平のひそひそ愬《うつた》える声が洩《も》れて来る。千春の面前で危うく斬《き》られそうだったのを救われた、そんな模様を説明しているらしい。
(まずいことを言う……)
安兵衛は内心この時から典膳に今日会うのは諦《あき》らめた。通りがかりにもせよ、見知らぬ武士である自分に、舅《しゆうと》と下僕の醜いいさかいを見られたと聞いては、いかにも気臆《きおく》れがして会う気にはなれまい、と察したのである。まして堀内道場へ通ったことのある安兵衛なら、当然、千春の離縁の事情を耳にしている筈《はず》とは典膳も察しがつこう。ふる傷にさわられるようで、いよいよ会うのを避けるに違いなかった。
嘉次平が申訳なさそうに奥から出て来た。
「お詞《ことば》の旨《むね》を主人に伝えましてござりまするが、今は片腕も不自由な躰《からだ》、とても武辺のおはなしなどは致しかねまする、どうぞ武士の誼《よし》みにこの儘《まま》今日はお引取り願いたいとの儀にござりまするが……」
済まなさそうに言った。
「さようか」
安兵衛はあっさり頷《うなず》くと、
「やむを得ません。他日機会があれば又——と、そう伝えて頂こう。折角、御大切になさい」
言い残して出ようとすると、
「アノ……」
「何じゃ?」
「はい。今一つ、御武運お旺《さか》んのほど、陰ながらお慶《よろこ》び致すと、主人の言葉にござりました……」
典膳は高田馬場の噂を矢張り知っていたのである。
そうと聞くと急に又、安兵衛は是非とも会いたい思いにさそわれたが、この日はがまんをした。
「鄭重《ていちよう》なおことば却《かえ》って痛み入り申す——そう伝えて下され」
表へ出ると草履取りが丁度通りがかった西念寺の小僧と、背をかがめ何やら話をしていたのが、慌てて戻って来て、
「旦那《だんな》様」
「?——」
「今、小僧さんに聞きましたら此の家の主人と申す方は、白狐《びやつこ》を斬った神罰とやらで腕が腐ったそうにござりまするな? もっぱら、この近所の嫌《きら》われ者だそうで」
かまわず安兵衛は歩き出した。今までもそうだったが、一そう惻々《そくそく》たる典膳への友情を胸内に感じる。会ったわけではなく、その手の内を真剣勝負で試したのでもないが、士はおのれを知る者の為に死す、という譬《たとえ》が不思議な実感で水にほとびるように胸中にひろがるのをおぼえた。
直ぐには静庵の茶室へ戻る気になれず、何となく深川の町を一回りした。
深川の町は、江戸の初め頃までは漁師町である。寛永時代に、富岡|八幡宮《はちまんぐう》が下総国《しもうさのくに》から此所《ここ》に移されて、かなり立派な社殿が建った。万治年間には、もはや境内に老松が繁《しげ》っていたが、海岸は尚《なお》、ほど近くにあって、塩焼く煙りが風になびき、東の方には遠く安房《あわ》、上総《かずさ》の山々が眺望《ちようぼう》される佳景の地であったという。
こうした景色や、毎年八月十五日に行われる八幡宮の祭礼が江戸市民をひきつけ、散歩がてらの参詣人《さんけいにん》が次第に増加するようになって、町の結構をととのえたが、言ってみれば門前町である。
八幡宮の前には茶屋が立ち並び、当時の江戸市民生活を描いた『紫の一本』には、
「社から二三町手前は皆、茶屋で、そこに多数の女がいて参詣人の弄《もてあそ》ぶに任せた、中でも鳥居から内の洲崎《すさき》の茶屋では、十五六歳の美人が十人ばかりいて、酌《しやく》をしたり、小唄《こうた》を謡《うた》ったり、三味線を引いたあとで、当時流行の伊勢踊りを手拍子にあわせて面白《おもしろ》おかしく踊った、その風流さは、山谷《さんや》の遊女も指をくわえるばかりであった」
と書かれている。元禄のこれはまだ以前である。
こうした茶屋が非常な発展をして深川情緒を成すまでにひらけたのは、実は幕府が助成をしたので、
「この地江戸をはなれて遠ければ、参詣の人|稀《まれ》にして、島のうち繁昌《はんじよう》すべからずとて、御慈悲を以《もつ》て御法度《ごはつと》をゆるめられ、茶屋女に淫《いん》を売ることをも黙許あり」
と書かれている。新開地を発展させるために先ず酒色を以て市民を誘い入れる政策は、当時幕府が好んで用いた手段だったので、葭原《よしわら》の場合も同様である。つまり、まず遊興の目的を設けて其処《そこ》に繁華な市街が現出すると、遊廓《ゆうかく》などは直ぐ他の土地へ移転させては市街を発展させたわけだ。
深川八幡の門前を賑《にぎ》わした水茶屋は、やがて料理屋茶屋となり、ついで問屋業の発展をみるようになった。承応年代(元禄から約五十年以前)葛西《かさい》領小松川の百姓で勘左衛門という者が、深川に|よしず《ヽヽヽ》張りの水茶屋を出しそこに日々通っては渡世をしていたが、近在の農民は野菜を売りに来ると、いつもその茶店で休む。自然、勘左衛門とも顔馴染《かおなじみ》になり、百姓達は彼を信用して、雨天の時などは荷物を預け、買手がついたら適当に売ってくれと頼んで帰る。それを高値に処分してやったから、追々と頼み手が多くなり、従って売上高もふえたので、元禄の少し前頃から青物の問屋、仲買をするようになった。
これを見て、同じように近在の百姓から青物の荷送りを受けては委託販売をはじめる商人も多くなり、深川は門前町から商業地帯としての様相を示すようになった。元禄時代になると、更に米蔵が置かれ、水運の便を利して材木の集積地となるわけである。
そんな深川の富岡八幡宮前へ、何となく安兵衛は足を向けた。
社殿に礼拝すると参道を戻《もど》って来て境内のとある茶店の店前《みせさき》に憩《やす》んだ。
「茂助」
「はい」
「中座《ちゆうざ》した儘《まま》ゆえ待っておられるかも知れん。……静庵どのへ、これに休んでおりますが散策がてらお越しにならぬかと、伺って来てくれぬか」
「旦那様は、ずっと此処《ここ》に休んでおられるのでございますね?」
安兵衛はうなずいた。
「承知いたしました。ひとっ走り、お迎えに行って参ります」
飲みさした茶碗《ちやわん》を牀几《しようぎ》のはしに置くと、念のため茶店の名を目で確かめてから気さくに参詣人の間を駆け抜けていった。
茶店には他に二三憩んでいる客がある。此処の水茶屋の暖簾《のれん》は一般とは変っていて、軒下に垂らさず、屋根の両端に股木《またぎ》を立て、それの上へ、大きな幔幕《まんまく》を張るような仕懸けで垂らしてある。夫々《それぞれ》『鍵《かぎ》』だの『花車』だのの家紋が染めぬかれている。
目のさめるような、赤い前垂れをした茶屋女たちが、そののれんのはずれに立っては黄色い声で参詣人に呼びかけていた。次第によっては客に色も売るのだろうが、見た目は、いずれも十六七のただの小娘である。
どれほどかして草履取りの茂助が駆け戻って来た。
「ほどなくこれへ参られるそうにござりまする」
「一人でか」
「いえ。あの宇須屋の娘さんも御一緒だそうで。——旦那様」
「?」
「静庵さまはあの西念寺裏の浪人を御存じなんでございますか」
「何故《なにゆえ》じゃ?」
「お会いになれたかどうかと、しきりに気にかけておられましたが……」
この時、境内に一種異様なさざめきがおこった。花やいで奢侈《しやし》で何とも形容のつかぬ浮かれた気分の一行がやって来たのである。芸者、新造を混え総勢十五六人はいる。禿《かぶろ》も付いている。幇間持《たいこも》ち、火車《かしや》(遣手婆《やりてばば》)もいる。
安兵衛と茂助がそのさざめきに誘われて目を注ぐと、茶店の奥から一斉に駆け出て来た茶屋女たちが、
「紀文さんじゃぞえ」
「文左衛門さまじゃ」
嘆声とも羨望《せんぼう》ともつかぬ溜息《ためいき》を斉《ひと》しくあげた。
噂《うわさ》に高い遊蕩《ゆうとう》大尽紀伊国屋文左衛門なのである。
「へえ……あれが紀伊国屋?……まだ若いんでございますねえ」
茂助がなかば呆《あき》れ顔でつぶやいた。商家の大旦那——四十年配の男を想像していたら、せいぜいまだ三十前の青年だったからである。
口々に洒落《しやれ》をとばしたり、茶屋女をからかって新造に抓《つね》られたりして、ぞろぞろ一行は近寄って来る。その紀伊国屋のお供の一人が安兵衛の顔を知っていた。