紀伊国屋文左衛門は若く見えたのも道理、当時はまだ二十七歳である。
巷説《こうせつ》に有名な、東海の風浪を冒して江戸に蜜柑《みかん》を運送し、巨万の富を得たり、その帰航するに当っては関西に乏しい塩鮭《しおざけ》を積載して京大坂で売って巨利を博した話など、どの程度信じていいか分らないが、とにかく彼は初手からの富豪ではなく、明暦の江戸大火に大いに木材の買占めをして巨万の財をなす迄《まで》は普通の材木問屋の主人である。
併《しか》し俄《にわ》か分限者《ぶげんしや》になったとは言っても尋常一様の蓄財家ではなかった。文左衛門の居宅は本八丁堀三丁目にあったが、この宅地が一町四方あり、毎日畳刺しが七人ずつ来て畳をさしていた。客を迎える毎《ごと》に新しい畳を敷き替えたからで、そういう蕩尽をしても毫《ごう》も遺憾《いかん》としなかった闊達《かつたつ》な遊蕩児である。花街に出入りして千金を投じて平然たる豪奢な遊楽ぶりは後世までの語り草になったし、江戸中の芸者が手づるを求めて宴席には集まって来て、来ないものは恥とされたという。
又、紀文が隅田川で船遊びをするというので、世間ではどんな豪華なことをするかと川面が見えなくなるまで見物の船が集まったが、いつまでも待っても文左衛門の船は見えず、灯点《ひとも》し頃に、あちらこちらと盃《さかずき》の浮いているのが見えたから、紀文はきっと川上にいるのであろうと綾瀬《あやせ》辺まで溯《さかの》ぼった。併し遂《つい》に紀文の姿を見出《みいだ》すことが出来ずがっかりして引上げた。実は、紀文は自分の家にいて盃ばかりを流させたのである。それを知って人々は彼の風流を褒《ほ》めたという。いずれにしても彼の豪奢を極めた遊興振りは当時の人々の驚嘆のまとだった。
安兵衛も浪宅暮しの頃から嬌名《きようめい》は聞いているが、目のあたり見るのは初めてである。ふと、静庵が先刻言った——主君内匠頭長矩は吝嗇漢《りんしよくかん》だというあの話を何となく思い出しながら見ていると、茶店の前へ通りかかった手前で、つと立停《たちどま》って文左衛門がこちらを見る。そばに付いている新造や禿や幇間の顔も一斉《いつせい》にこちらを振向く。
「ど、どう致したのでございましょうねえ?……」
草履取りの茂助が、まるで自分が注目されたように赤面して囁《ささや》くとこへ、一行の中から商家の番頭風の四十年配の男が、腰をかがめて安兵衛の前へ遣って来た。
揉《も》み手《で》をしながら、
「もし、違っておりましたらごかんべんを願います。手前は、当地の材木商紀伊国屋文左衛門の手代を勤める者でございますが、お武家さまは、高田馬場で仇討をなさいました、中山安兵衛さまではございませんか? もし左様なら、手前主人が是非おちかづきのしるしに御招待をいたしたいと申しておりますが、いかがでございましょうか」
福相な顔を一そうニコニコさせて言った。
他は大方、微醺《びくん》をおびている様子だがこの番頭だけは素面《しらふ》である。
安兵衛の顔を知っていたのは幇間の一人らしいが、それを遠慮させ、わざわざ素面の番頭を差向けてくるあたり、さすがは一代で財をなす男だった。
「折角のお誘いながら拙者《せつしや》これにて人を待っており申す」
安兵衛は彼方《あちら》の紀文へ目を遣りながら婉曲《えんきよく》に断ると、向うでこの時、紀伊国屋自身が軽く会釈《えしやく》を送ってくるのが見えた。多勢の取巻きに囲まれての、大尽風のいささかもない不思議な親しみのこもる挨拶《あいさつ》である。思わず安兵衛も礼を返す。
どうせ、誘ったところで承知はしてもらえまいと、番頭も察しはついていたのだろう。
「さようでございますか。お人待ちとうかがっては致し方ございません、次の折は是非とも、手前どもにお近づきを願いまするように」
腰をかがめて、お供の草履取りへも会釈をするとあっさり引返して往った。
立停っていた一行が、再び、ぞろぞろ歩き出して来る。誰《だれ》もが安兵衛を好奇心の目で見ている。どうもそういう面々に目前を通られるのは些《いささ》かばつが悪いので、安兵衛は牀几から立上った。
「茂助、その方はこれに待っておれ。拙者その辺りを一回りして参る——」
言った時である。都合よく静庵が志津を連れてやって来た。宗匠|頭巾《ずきん》に先刻の儘のもんぺ姿。華やいだ一行と較《くら》べると、矍鑠《かくしやく》としているようでも老齢はあらそえず、杖《つえ》を片手に、あいた手は腰へまわしている。
ところでこの静庵が、紀伊国屋文左衛門と見知り越しだった。
はじめは、一行には目もくれず通り抜けようとしたのが、
「おお、八幡の御隠居ではございませんか」
最初に横から声をかけたのは安兵衛に挨拶に来たあの番頭で、
「む?」
静庵が振向くと、
「オヤこれはお珍しい。幇間の桜川|為山《いざん》でございますよ」
「わっちゃァ三浦屋の玉緒《たまお》……いやじゃ、もうお忘れなはいましたかえ」
忽《たちま》ち幇間や新造が、紀伊国屋より先にわっと静庵を取巻いてしまった。
旧悪露見という所である。いい年をして、いかめしい書道の教授など看板にしてはいても、風流士の常で遊廓《ゆうかく》通いも左程《さほど》当時は恥ずべき行為ではない。むしろ静庵ぐらいの名士なら一度や二度、誘われて行かぬ方が不思議だが、それでもお志津の手前、あまり見てくれのいい図でない。静庵は境内へ入った時から実は一行に気づいていたのだが、それとなく顔をそむけて通ったのである。
が、見つかっては仕様がない。
「為《せん》もない奴輩《どはい》じゃ。白昼、この年寄りに冷汗をかかせおる」
悪態をひとつ言ってから、
「紀文どのか……相変らず御盛大じゃの」
「これはこれは御隠居……お久しゅう存じまするな」
紀文の物腰はこの時も鄭重《ていちよう》であった。
「お揃《そろ》いのお詣《まい》りで?」
チラと志津を見てわらっている。
「何、人を待たせておるわ」
「——どなたを?」
「あれにおる」
安兵衛の方を示した。
顔が一斉にこちらを向いたので安兵衛は困惑した。静庵が紀伊国屋文左衛門を識《し》っているとは意外だが、どうやら、これでは紀文の誘いを享《う》け、宴席へ連れて行かれかねまじい雲行きに当惑したのである。
紀文になら断れるが、静庵の口添えがあれば一応は諾《うべな》わねばならない。もともと、安兵衛も酒は嫌《きら》いな方でなく、料理茶屋で芸者の酌《しやく》をうけたこともある。併し当時は武士階級が吉原通いをするのは一般に慎しむ風習があった。曾《か》つて競って大名連が傾城《けいせい》買いをした為に財政難に陥り、十年前、天和初年に幕府は峻烈《しゆんれつ》な倹約政治を断行した。以来、大名の廓《くるわ》通いが幕府に睨《にら》まれては大変なので、各藩士とも一時に吉原通いを歇《や》めたのである。
全盛時代には七十余人はいた太夫(最高級の遊女)が、元禄にはだから、たった二人に減っている。その代り、太夫よりは良《やや》なじみ易い遊女——「格子《こうし》」とか「散茶」「うめ茶」などと呼ばれる身分の低い遊女を買いに今度は町人たちが通うようになったわけである。
安兵衛はだから、江戸吉原の新造をこの時はじめて見た。お歯黒をそめた遊女を年増といい(人妻とは異って眉毛《まゆげ》は剃《そ》らない)歯を染めない遊女を新造という。
「どうも困った頼みごとを背負うたぞ」
静庵と志津を先頭に立てて、ぞろぞろ一行が近寄って来ると、静庵はいかめしげに眉をしかめた。
その実、満更でもないらしいのは安兵衛には筒抜けである。
「何ですか?」
「いや、其許《そこもと》に是非とも引合わせてくれと紀文に頼まれた。先程は、断られたそうじゃな?」
「いかさま白昼ですからな」
「その時の文句が悪い、この静庵を待っておるので|[#「りっしんべん+匚+夾」]《かな》わんと申されたじゃろう? わしがこれへ来たからには、もう、その断りは通らんと申しおる」
するとわきから紀文が、
「はじめてお目にかかります。紀伊国屋にございます。かような場所でお詞《ことば》をおかけ申すのも如何《いかが》かと存じ、先程は却《かえ》って失礼を申しましたが、こうして、御隠居にお会い致せたのも申せば八幡宮のお引合わせ。いかがでございましょう、御無理とは存じますが、お近づきのしるしに是非手前どもへお遊びにお立寄り願えませんか」
先刻もそうだったが、評判の遊蕩児に似ず、身近かで見ると何か清々《すがすが》しいさっぱりした気性が感じられる。腰は低いが商人の打算ずくな嫌味《いやみ》はない。眉が黒々と太く、顎《あご》の剃迹《そりあと》の青い、どちらかといえば逞《たくま》しい感じさえする青年富豪である。
安兵衛が応《こた》えかね躇《ためら》っていると、
「お願いいたします」
取巻き連中が揃って一斉に頭を垂れた。中で、一きわ美しいのは矢張り紀文の敵娼《あいかた》らしい傾城である。
安兵衛は無論、名を知らないが彼女は三浦屋の玉藻《たまも》といった。三つ笄《こうがい》二つ櫛《ぐし》という髪付き、紅綸子《べにりんず》の打掛けの下に地白《じしろ》を着て、古文の表現によれば「目の張り涼しく唇《くちびる》薄く、小鼻の筋の通った柳腰に絖肌《ぬめはだ》、歯並びの揃った、指尖《ゆびさき》の細い、爪《つめ》の薄い、足の拇指《おやゆび》の反った、髪際《かみぎわ》の濃くない遊君」であったと。
少々のことには驚ろかないが、いかな安兵衛も彼女の美色に暫《しば》し茫然《ぼうぜん》となる——
紀文は勘の鈍い男ではない。といって、玉藻に見とれている安兵衛へ「この妓《こ》がお気に召しましたのなら」なぞと口にする程無粋でもない。
「いかがでございましょう、廓通いをお戒めの御沙汰《ごさた》のあることは存じております。けっして妓楼《ぎろう》へお供いたそうと迄《まで》は申しません。せめてお近づきのしるしだけでも」
「何処へ参るのですな?」
「当地《ところ》に天麩羅《てんぷら》の美味な店がございます」
「てんぷら」
「申してみれば胡麻《ごま》揚げのことで」
安兵衛は未《いま》だ曾つて妓楼に宿泊したことがなかった。天麩羅が胡麻揚げだと言われてもよくは分らない。
「どうじゃ、こうまで誘われて拒むようでは却《かえ》って其許の器量にかかわる——と、わしは思うがの。行くか?」
「そうですな……」
安兵衛は初めて志津をかえり見、
「そもじはどうする?」
玉藻の成熟した容姿にくらべると、年頃よりは大柄《おおがら》な志津の肢態や目鼻立ちが、ただ健康で可憐《かれん》なだけのものに見える。男の不思議な心理で、志津の魅力の消えたこの時ほど、安兵衛が優しい視線を彼女に注いだ験《ため》しはなかった。
志津は単純である。紀文ほどの大尽が安兵衛を饗応《きようおう》しようと懸命になっているので、見ていて得意で仕様がない。
「中山さんがいらっしゃるなら、あたいはいいわ」
朗らかに言った。
話はこれできまったようなものだ。
「偉えお嬢さまだ、紀文大尽でも動かせねえお人を——大尽、負けですぜ」
すかさずうしろで取巻きの一人が言う。嬉《うれ》しそうに女たちは嬌笑をあげる。誰よりもだが、嬉しそうだったのは負けたと言われた当の紀文であった。静庵だけがチラとそれを見抜いたが、
「話がきまれば早いがよい。案内されようわい」
安兵衛を促し、自分が先頭に立って、とっとと境内を通り抜けてゆく。天麩羅屋を知っているのと、遊興取締りのきびしい時節柄、遊女連れの一行と偕《とも》に歩いては安兵衛の立場も困ろうと察しての上だろうが、常にも増してこうなると静庵、矍鑠《かくしやく》たるものである。社殿の裏参道を出て二つ辻《つじ》目。掘割に臨んだその料理茶屋の表玄関へ、うしろの一行には構わず安兵衛と志津を連れ、さっさと先に這入《はい》っていった。
出迎えの女中が目を瞠《みは》って、言う。
「おや八幡の御隠居、あっちゃあ又お見限りかと恨《うら》んでいたわえ」
天麩羅は古く伝来した料理法で、徳川家康の死は鯛《たい》の天麩羅を食った食当りが原因という。その頃《ころ》にはまだ天麩羅という名称がなかっただけである。
山東京山《さんとうきようざん》の伝に拠《よ》れば、芸者を連れて江戸へ逃げた大坂のさる商人の悴《せがれ》が、京山の兄の京伝のところへ来て、「魚の胡麻揚げの商売をいたしたいと思いますが、どうも胡麻揚げでは語呂《ごろ》が悪い、何かよい名をつけて下さい」と頼んだ。
京伝は、
「お前さんは天竺《てんじく》浪人だ、ふらりと江戸へ来て売るなら天プラでよろしかろう。麩羅の二字を用いたのは小麦の粉の薄物をかける意味だな」
と言ったので、以来、天麩羅の名が興《おこ》ったという。
年代的にこれは嘘《うそ》である。京山の生れる以前既に天麩羅の名が深川で見えている。案外、てんぷら等と言い出したのは紀文あたりではなかろうか。
一行が料理茶屋に着くとそれ迄《まで》ひっそり静まっていた屋内が祭礼の神輿《みこし》でも舁《か》かれて来たような賑々《にぎにぎ》しさである。いかな安兵衛もその底抜け騒ぎには呆《あき》れ返った。
「わっちゃあフロウよりウエインがいい」
と幇間《ほうかん》の桜川為山が女に酒を注がせて飲み、
「これサ玉緒さん、わっちゃあロード・ゲシクトになりやしたろうね。ゴロウトにせつのうござんす、もうウエインは止《や》めにして、ちっとヒスクでも荒しやしょう」
などと言う。片言《かたこと》の和蘭陀《おらんだ》語である。
フロウVrouwは女のこと、ウエインは酒、ロード・ゲシクトは顔の赤いこと、ゴロウトは「大いに」の意、ヒスクは魚という意味らしい。
むろん安兵衛には何のことやら分らない。
「中山さん、あれは何て言ってるんです?」
隣りに坐《すわ》っているお志津が、ここぞとばかり安兵衛に甘えかかって訊《き》く。案外、彼女はけろりとして、仲居にさされる盃《さかずき》を次々とあけていたのが、突然酔いが回ったらしい。
「それがしに訊いても分るわけはない」
安兵衛は苦笑したが、どうやら和蘭陀語の謎《なぞ》はとけて来そうである。
安兵衛の隣りには遊女玉藻をはさんで静庵老人が坐り、更に静庵の隣りには玉藻の妹分の遊女玉緒が坐っている。いわばこれが広座敷の正客である。紀伊国屋文左衛門は一番末席に坐していて、あとの取巻き連中——番頭やら歌舞伎《かぶき》役者やら幇間、絵師などは夫々《それぞれ》に芸者、禿《かぶろ》、火車などをそばに紀伊国屋の左右へ居流れているが、丁度、安兵衛の向う正面に位置した女の眼が碧《あお》い。時々その碧い眼で安兵衛をじっと見て、視線が合うと、微笑《ほほえ》む。娼妓《しようぎ》とも素人《しろうと》娘とも判断がつきかねるが、どうやら和蘭陀語の発源地が彼女らしいと迄《まで》は分った。
それとなく静庵に尋ねると、
「あれか、幇間の為山が長崎から貰《もろ》うて来て育てた養女よ。さよう、まだ身売りは致しておらん。あれでもまだ十七かのう」
髪は黒いから混血児だろう。それにしても自由奔放に、異国情緒を取入れ、こういう底抜けの豪遊をする紀文なる男の、進取の気に富んだ闊達《かつたつ》自在な生き方がふと武士階級の堅苦しさに較《くら》べ、妙に羨《うらやま》しいものに思えてくる。
紀文ひとりではない、そもそも禁制の混血児を敢《あえ》て育てる幇間の為山さえ、元禄期に勃興《ぼつこう》してきた町民階級の或《あ》る進歩的な生き方を示唆《しさ》しているのではないか? 彼|等《ら》に較べれば、何という武士の姑息《こそく》さであろう。
遊女玉藻が言った。
「おヘレンちゃんはゴロウト綺麗《きれい》でごぜえやしょう?」
「おヘレン?」
「お前がさいぜんから見ていやす——」
玉藻は手の酒盃でゆっくり対面を示した。混血娘のことである。
「ゴロウトとは如何《いか》ような意味だな」
「大きにというわけでおざんすわえ」
「ならばそもじこそゴロウト綺麗だ」
「おや、ぬしさん、お酔いなはいましたか?……」
遊女というものは男に媚《こび》を売ると単純に考えていたが、実に鷹揚《おうよう》で気位が高い。何か、別世界へ来たようで安兵衛は日頃の自分を失いそうである。
「幇間が貰い子にして育てたと静庵どのに聞いたが」
「あい。三つのおりからでごぜえやした」
「そもじその頃から存じているのか」
「あっちゃあ廓《くるわ》うまれ。太夫平野のむすめでおざんす」
「太夫のむすめ?……」
これも安兵衛には意外である。たしかに客に身をまかせるのだから、傾城が男の胤《たね》をやどして不思議はないが、こう大っぴらに遊女の子だと表明されると何か奇異の感じがする。
あきれて、鼻すじのほそく通った横顔を眺《なが》めると、
「何じゃな?」
静庵が自分を見られたと勘違いしたのだろう、玉藻の向うから顔を覗《のぞ》かして、
「ふん、そのことかい。だから無骨者は困る」
あっさり、説明してくれた。
遊女とて女なら子を孕《はら》んで不思議はないし、ただ太夫ほどの高級な遊女になれば、相手も大名か、相当な身分の豪商だろうから、敵娼《あいかた》の太鼓腹を傍観しては男にかかわる。それで落籍するか、さもないなら十分な手当を与えて廓内で生ませた。遊女高尾が女児を産んで、揚げ屋通いに抱かせて連れて居たから「子持高尾」と評判され、それは高尾のみでなく、連れ回らぬだけで、子を産んだ者は幾人もある。元禄から二十年前の『吉原|袖鑑』《そでかがみ》なる本を見ると、
「対馬《つしま》太夫も御平産でおめでたし、巴《ともえ》も過し秋平産し玉う、はな野も去年の初産よりチトあらび玉う、かをるは年子《としご》を孕む人にてうるさし」
そんなことが書かれてあるわ——そう静庵は言うのである。
「これの母親なんぞ産後は惚《ほ》れ惚れするよい女になりおってな」
「そうじゃ、わっちゃあおぼえている。御隠居はよう通うておいででごぜえやしたわえ」
「コレ、今更はじをかかすでない」
紀伊国屋文左衛門が朱塗りの盃を手に、この時安兵衛の前に来て、坐った。丁度お志津が酔いつぶれ、安兵衛の膝《ひざ》に崩れかかった時である。
安兵衛の膝に酔いくずれた志津を紀伊国屋は平気で見て笑っている。
「お酔いなされたようでございますな」
朱塗りの盃を、安兵衛に差出して、「お流れを頂きとうございますが」
かたわらの玉藻へ酌《しやく》をするように目で促した。
玉藻は、指さきの細い両の手で瓶子《へいじ》をとりあげ、脇《わき》の安兵衛に注ぐ。取巻き連は末座で勝手に談笑している。
「八幡の御隠居とは何時からのお識合《しりあ》いでございましたか?」
「それがし江戸へ参った折からですからな。もう七年になりますか」
「これはしどい」
紀伊国屋は静庵へ向って、
「中山様を以前から存じておられますなら御隠居、何故もっと早う引合わせて下さらん?」
「何、何」
遊女玉緒をからかっていた静庵が、
「武士|嫌《ぎら》いの其許、いつから宗旨《しゆうし》を変えたの?」
「別に、お武家を好きとは申しません。しかし中山さまは別です、こちらは浪人暮しの御苦労をなされておりましょう」
紀文はゆっくりのみ干すと、返盃《へんぱい》をして、今度は自分で安兵衛に注いだ。こう言った。
「高田馬場から引揚げてお戻《もど》りなされる途中、尾張様お屋敷へお寄りなされたそうでございますな」
「?……」
安兵衛は胸の前で盃をとめた。
「連也どのを御存じでおられるか?」
「存じあげると申すほどお近づきはございませんが、一両度、お目にはかかっております」
「まだ江戸屋敷に?」
「いえ、もう尾張のお国許《くにもと》へお帰りなされたと聞いておりますが」
柳生連也には堀部家へ入婿《いりむこ》の折、あの裏長屋へ祝いの品を届けられた儘《まま》、まだ礼にも出向いていない。祝儀を受取ること自体が、何かすじ目に合わぬようで躇《ためら》っていたのである。
紀伊国屋はそういうことまでは知らぬから、あの日の安兵衛の引揚げの態度が、実によく出来ていたと後で家中の者に洩《も》らしたそうだと告げ、
「当今、江戸に浪人は数あろうが中山ほどの人物はおるまい——そう言って、激称されていたそうでございます」
と語ったのである。
安兵衛は狼狽《ろうばい》した。
「いや、拙者《せつしや》以上の仁が、それもこの深川で浪宅暮しを致しておられる——」
「ほ。……どなた様でございますな?」
武士は嫌いという紀文だが、浪人には興味があるらしい。目が機敏に輝いてくる。
安兵衛は典膳の名を言うつもりだったろうが、この時志津が、
「くるしい。……中山さん、あたい、苦しい……」
安兵衛の膝で眠っていたと思われたのが急に身悶《みもだ》えして、咽喉《のど》を掻《か》き出した。
騒いでいた連中も、この志津の悲鳴に一斉《いつせい》に静まり返る。志津はいよいよ苦しみ出して、余人が介抱に手出すと、
「嫌《いや》!」
はげしい勢いで払いのけ、何としても紀文自身が介抱してくれねばいやじゃと駄々《だだ》をこねだしたのである。
確かに酔っているのだが、こうなればもう紀文が手を添えねばおさまるまい。
文左衛門は苦笑して、番頭に手をかさせ、自分で別座敷へ志津を運び入れた。
志津の供をしてきた宇須屋の女中が、安兵衛の草履取り茂助とともに茶屋の玄関で待っている筈《はず》である。
紀文は番頭に命じてその女中を呼びにやらせようとした。
「嫌! 誰《だれ》も来てほしくない……紀伊国屋さんだけで介抱して頂戴《ちようだい》」
志津は嘔吐《おうと》を怺《こら》え、真青の顔だが、異常な執拗《しつよう》さで文左衛門にしがみ付いてくる。そうして、
「くるしい。ああ苦しい……中山さんの馬鹿《ばか》。何がゴロウト綺麗《きれい》なのさ!」
畳に身を投げ出し悶えだした。
「——喜兵衛どん、どうやら介抱人が違ったらしいね」
「さようでございますな。——中山様を、お呼び致して参りましょうか」
「いや、この儘何とかなだめてみよう。中山さんほどのお方だ、その気になれば自分から出て来なさる筈——」
紀文は、案じ顔で様子を見に来た取巻き連にさがっているように命じ、
「吐くかもしれんで小桶《こおけ》を頼む」
茶屋の女中に吩《い》いつけてから、
「これ、くるしいなら遠慮はいらん、紀文のこの膝の上へ吐くとよい、吐けば、楽になろう……」
志津の肩に手をかけて揺った。堪《た》えかねたのか、その手に縋《すが》って今度は仰反《あおの》く。はらりと裾前《すそまえ》が割れ白い肢《あし》がのぞいた。睫毛《まつげ》のきれいにのび揃《そろ》った瞼《まぶた》をしっかり閉じて咽喉から襟《えり》のはだけた胸全体が時々、大きく苦しそうに喘《あえ》いでいる。
「帯を解いて差上げた方がお楽になりは致しませんか」
番頭が言うと、
「そうもなるまい」
紀文は苦笑していたが、
「やむをえん。八幡の御隠居に来てもらおうか……」
静庵のかわりにやって来たのは安兵衛自身と、宇須屋の女中である。
「お、お嬢さま……」
身もだえする様子に狼狽して縋りつくのを志津は遊女と勘違いしたらしい。
「彼方《あちら》、お行きい!」
邪慳《じやけん》に払いのけ、その手で又紀伊国屋の膝に取りつくと顔をおしつけ、泣き出した。「紀文さん、紀文さん。……あたいは、中山さんに……」
「中山様ならこれへ来て下すっておりますぞ」
「嘘《うそ》。来てくれるような人じゃない。あんな冷淡な男ってありゃしない!……」
「……どうも」
紀文は安兵衛と顔を見合い、
「大そうな御|艶福《えんぷく》で」
「まったく以《もつ》て拙者には手のほどこし様が……」
「ま、初めて酔いなすっただけのこと、そのうちにはおさまりましょうで、この場はこの紀伊国屋にお委《まか》せを願いませぬか」
「そうして頂ければかたじけないが、其許とて」
「いや、こういう娘御の介抱なら喜んで、はっははは……」
豪放な笑い声がふと歇《や》むと、
「先程お話のあった御浪人でございますがな」
眼が真剣に光ってきた。