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薄桜記12

时间: 2020-08-01    进入日语论坛
核心提示:硯《すずり》千春は兄の武芸がどの程度のものか知らない。兄は確かに夫典膳を斬った。旗本随一の達人といわれた夫を斬る程なら、
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硯《すずり》

千春は兄の武芸がどの程度のものか知らない。兄は確かに夫典膳を斬った。旗本随一の達人といわれた夫を斬る程なら、兄も凡庸《ぼんよう》ではないだろう。
しかし、あの場合は夫に反抗の意志がなかったので、創口《きずぐち》から兄の武術が推測された迄《まで》である。典膳の治療をした藩医が、斬りも斬ったり、黙って斬らせも斬らせたりと、千坂兵部に感嘆して語ったというから、凡庸の腕前ではないのだろう、と想像するだけだ。
相手はだが、かりにも江戸一の道場に師範代をつとめる人物で、まさか、負ける惧《おそ》れがあるなら当主の堀内源太左衛門が許可する筈はないと思う。
薄日に一方の白刃が閃《ひら》めいて八双《はつそう》の構えになった。竜之進である。
高木は地摺《じず》り青眼に取った。それきり両者同時に鋭い奇声を発して体ごとぶつかるようにだっと躍り込んだ。
白刃が空中に交叉《こうさ》した。
「それ迄」
凛《りん》とした審判の声が響いた。
「合討ち」と言った。
抗議をはさむ余地を与えぬ凛然たる一声である。
た易《やす》くは双方の構えは崩れない。切先上りに跳ねる如く相手の腕を掠《かす》めたのが高木敬之進。身を低めて両手に把《と》った太刀の尖《さき》で天を衝《つ》く如く構えている。それに蔽《おお》いかぶさった上段から、踵《きびす》を上げ、つんのめる姿勢を一瞬審判の声に静止させられた格好の竜之進。
身動きすればいずれかの一の太刀が相手の死命を制するだろう。本当の勝負は、実はこの瞬間に始まるのである。
「双方引け。勝負は見え申した、合討ちじゃ」
もう一度安兵衛は言った。こんどの声は不気味なほど低かった。
身を乗出していた見物の一同は、まだ身がついていったような気持になっている。虚脱した感じで、ほっと肩を落したのはずい分|経《た》ってからだった。あらためて、斉《ひと》しく上座の堀内源太左衛門を見る。
「いかさま見事な判定である。双方もはや武士の一分は相立ったであろう。さ、刀を斂《おさ》めよ」
すかさず脇から言ったのは大目付高木伊勢守で、
「中山、聞きしにまさるその方が処置、あっぱれであるぞ」
言って、白扇をさっと頭上に啓《ひら》いて褒《ほ》め讃《たた》えた。安兵衛はまだ身動きせぬ二人の中へ割って入り、両方の鍔元《つばもと》を軽く抑えて、
「お引取りなさい」
と言った。
がっくり双方の気構えが崩れる。顔面の蒼白《そうはく》なのはどちらも同じで、全身玉のような汗だ。物を言う元気もない。精根をつかい果したからだろうし、企《たくら》みのあったらしい知心流の他の面々もこれを見てはもう一言も無かったに違いない。
このあと、再び紅白試合がはじまったが甚《はなは》だ精彩のないものに了《おわ》ったのは蓋《けだ》し自然のなり行きである。
その帰途。
安兵衛が大満足の舅弥兵衛と連れ立って道場を出る門の処で、千春を伴った長尾権兵衛に呼止められた。

長尾権兵衛は、嫡男《ちやくなん》の危いところを救って頂いてと言って、丁寧に弥兵衛に礼を述べた。
堀部弥兵衛はむろん権兵衛とは初対面である。各自、浅野家、上杉家と主君の名を名乗り合ったが、その間千春は父の背後《うしろ》にかくれるようにして唯うなだれている。
安兵衛はその容子《ようす》を床《ゆか》しいものと思った。彼女が女だてらに父同伴で道場へ来た理由を聞いたわけではないが、矢張り、典膳に一目、出会えるかと思ったのではなかろうか。道場の門からはぞろぞろ人が出て来る。いずれも立話をしている堀部父子にちょっと会釈《えしやく》をし、それからチラと千春を見て行く。合討ちの判定があったのだから恥じなくてもいいようなものの、ああいう出過ぎた兄の行動を人は矢張り非難しているに違いない。千春にすれば、女の身で試合を見に来た羞《は》ずかしさに加えて、そういう兄への非難まで一身に浴びるわけだった。二重に、彼女は傷ついているに違いないのである。
それにしては悪びれる様子は些《いささ》かもなく、あくまで典膳に会えなかった悲しみにうち凋《しお》れているだけのようなのが、却《かえ》って安兵衛の心を惹《ひ》いたのかも分らなかった。
当の竜之進は他の知心流の面々とあのあと直ぐ帰っていったので、権兵衛と千春の少し後方にはお供の中間《ちゆうげん》だけがしょんぼり待っている。
「おぬしを知っておられたようじゃの」
権兵衛と別れて帰途につくと、暫《しば》らくして弥兵衛老人が言った。相変らず御満悦である。
「西念寺わきで一度、出会ったことがございます」
「そうじゃそうな。礼を申されておった……」
「—————」
「安兵衛」
「はあ?」
「あの婦人を存じておったのか?」
「何故ですな?」
「ふム。わしとて妻《さい》を娶《めと》る前には色々のことがあったて」
堀部弥兵衛が現在の老妻|わか《ヽヽ》を迎えたのは前妻が亡《な》くなって七月後で、後妻である。安兵衛の未来の妻となる女《むすめ》はその先妻の生んだ子で、もう一人、弥兵衛には弥一兵衛という男子があった。十五歳のときこれは奇禍《きか》に遭って横死した。中山安兵衛が堀部家へ婿入《むこい》りしたとは言っても、弥兵衛の女《むすめ》お|こう《ヽヽ》とまだ夫婦の契《ちぎ》りは交していないのである。そういう婿である。弥兵衛老人にすれば、安兵衛のような立派な士《さむらい》を浅野家に仕官させさえすれば、本当は或《あ》る程度本懐なので、女のお|こう《ヽヽ》と安兵衛が将来、兄妹のように交ってくれても実のところ、それほど異存はない。
「ところでじゃ」
市ケ谷御門外をすぎて、もう道場から帰る面々の姿も見当らなくなったところで弥兵衛が訊いた。
「先刻のあの真剣勝負、まことはどちらが勝ったのじゃな?」

安兵衛が応《こた》えないでいると、
「どちらが勝っておったにせよ、おぬしになら|※[#「りっしんべん+匚+夾」]《かな》うまいの」
「分りませんな」
「何? 親孝行のしようも知らんのかい。おぬしが一番強い、とハッキリ何故言わん」
弥兵衛はそう言って快よげにカラカラ嗤《わら》った。
濠端《ほりばた》沿いに初夏の風がその弥兵衛の白い鬢《びん》を弄《なぶ》って吹く。下城の時刻にはまだ間があるようで、城を退《さが》って来る大名行列もなかった。外櫓《そとやぐら》の白壁が、綺麗《きれい》に水に映っている。
鉄砲洲の浅野藩邸お長屋へ帰ると弥兵衛は大変な御機嫌《ごきげん》で、玄関にあがるなり、
「そもじの婿どのはな、江戸一番の達人じゃ。ぼやぼや致しておると他所《よそ》の女子《おなご》に取らるるぞ、ふム」
迎え出た娘のお|こう《ヽヽ》に言って、腰から外した刀を老妻にあずけながら、
「わか、そちの夫たるこの弥兵衛、槍《やり》を把《と》らせば天下に恐るる者なしと威張って参ったがの、全く以《もつ》て恥ずかしい。今日という今日は、老いの冷汗三斗ばかり掻《か》いたわ」
弥兵衛にすれば、実のところ高田馬場に於《お》ける安兵衛の奮戦ぶりを噂《うわさ》には聞いても、実際、腕前を見たのは今日が初めてなのである。聞きしにまさる今日の水際《みずぎわ》立った審判ぶりである。頑固《がんこ》な老人の常で、自分だけは安兵衛ごときに負けはせん、と思っていたのが、全く頭が下った、こんな嬉《うれ》しいことはない。——そう言って晩酌《ばんしやく》も日頃よりは多く過ごして、下手な謡《うたい》を唸《うな》って聞かせたりした。
翌日出仕すると弥兵衛は特に藩侯にお目通りを願い出た。
「何じゃ爺《じい》」
浅野内匠頭長矩は当時二十八歳の青年君主である。この人には痞気《ひき》という持病がある。痞気というのは、シャクなどで胸がふさがって、腹のうちにカタマリのある病いという。これの起った時は機嫌が悪く、人が変ったように癇癪《かんしやく》もちになるが、さもない折は老臣たちにも至極いつくしみのあるいい殿様だった。
あらかじめ、今日は御機嫌がいいと側近に聞いてあるから、
「実は折入ってお願いの儀がござりまする」
弥兵衛は大胆に出た。
「何じゃ、又々婿自慢をいたそう肚《はら》か」
「これはお察しがようござる。いかさま、養子中山安兵衛が儀にござりまする」

主君のわきに控えていた用人片岡源五右衛門が、
「弥兵衛どの、昨日はお手前の婿どの大そうに男をあげられたそうにござるな」
と言って目を細めて笑った。
「されば、その儀にござるて」
弥兵衛はいよいよ勇気を鼓舞されて一膝《ひとひざ》のり出す。
中山安兵衛を何とか浅野家に召抱えられるようにしたいものじゃ、ついてはお手前息女の婿に迎えられてはどうであろう——そう言って、堀部弥兵衛にハッパをかけたのは実は用人片岡源五右衛門なのである。昨日の堀内道場での顛末《てんまつ》も既に源五右衛門の耳に入っているので、或る意味では弥兵衛以上に源五右衛門は欣《よろこ》んでいる。打明けてみれば弥兵衛と源五右衛門とが、あらかじめ謀《しめ》し合わせた上の、今日の「お願い」なのである。
さて弥兵衛はこう言った。自分はもう老年で、御奉公も次第に意の如くはなりかねる、婿中山安兵衛は武人として実に天晴れであり、この堀部弥兵衛の自慢の種であるにとどまらず、浅野家にとっても天下に誇示し得るに足る人物である。就いては、先般おゆるしを賜わって養子縁組の成ったことでもあるから、この上は特別の御沙汰《ごさた》を以て、堀部とは切り離し、中山安兵衛個人として御召抱えを願い度い。そのために公儀浪人取締り方《かた》に触れるようなれば、名目上は堀部弥兵衛養子として後、堀部家を廃嫡《はいちやく》の上、中山姓に復させたとして頂いて結構である。知行高も、堀部弥兵衛の跡目相続二百石分に限らず、いかようの御仕置《おしおき》でも喜んで甘受する。あらかた、そんな意味のことを述べた。
聞いて、愕《おどろ》いたのは源五右衛門だ。
「弥、弥兵衛どの、それはチト話がちがいは致さんかい」
扇子を膝に取り直した。
「源五、そちは堀部の願いを存じておったのか?」
「は。……そ、それは」
片岡源五右衛門は進退に窮したが、思い余って実は弥兵衛が隠居のお願いをこそ謀し合わせもすれ、堀部家廃嫡なぞとは思いもよらぬ相談にござると言った。
たしかに当時、武士が生きながらに家を廃嫡するなぞは尋常の沙汰ではないからである。
「何ぞ仔細《しさい》がありそうじゃな。弥兵衛、正直に申してみよ」
長矩は涼しい目でじっと弥兵衛の顔を見詰めた。
「別に仔細なぞはござりませぬぞ。毎々言上いたしておりまするが様に、安兵衛ことは堀部家の婿であろうがなかろうが、今に於《おい》ては御当家にとっての逸材。それを御召抱え下さりまするなれば」
「いかにも召抱える、そちが養子縁組を願い出た折からそれはきまっておることじゃ。何も今更、堀部の廃嫡を願い出るすじはあるまい」
言って急に長矩の目に聡明《そうめい》な才気がはしった。
「さてはその方、むすめと安兵衛との縁談を破棄したい存念じゃな。弥兵衛——一体、何故じゃ?」

主君長矩の御前をさがってお長屋に戻《もど》ると、弥兵衛は伺候する時以上に御機嫌《ごきげん》がよかった。
「安兵衛はおらぬか、コレ、安兵衛を直ぐわしが部屋へ呼んでくれい」
玄関で老妻に刀を渡す間ももどかしげに言う。
居間で裃《かみしも》を脱ぎ了《おわ》ったところへ安兵衛が這入《はい》って来た。
「お呼びでございますか」
「おお、いよいよお主も明日から出仕ときまったぞ。まことに以《もつ》て芽出度《めでた》い。明日、殿にお目通りを致して、その上で、わしが隠居の儀も御沙汰《ごさた》がある筈《はず》じゃ。おぬしの役向きはまだ定まってはおらんが、多分は馬回り役であろうと用人も申しておられる。——心配せずともよいわい。中山の姓にて、御奉公がかなう。いやこれで、全く以て万事芽出度い」
ひとりで悦に入っている。ただ不思議なのは、それほど御機嫌の弥兵衛が、目に入れても痛くない一人娘のお|こう《ヽヽ》——彼女は母を手伝って弥兵衛の衣服をたたんでいた——へ視線を合わすのを避けるようにしていたことである。
お|こう《ヽヽ》は下ぶくれの眉《まゆ》が淡々しくて、とりたてて美人というのではないが、おとなしく、瞼《まぶた》は少々はれぼったく、茹卵《ゆでたまご》の白身に目鼻をつけたように、色の白い娘である。父の吩《い》いつけで時々母と一緒に馬の飼草を截《き》らされるので、手が少し荒れているのも如何《いか》にも古武士の風のある弥兵衛の娘らしい。
着物を片付けると、チラと安兵衛にわらいかけたが、父に一礼して、黙って母とともに居間を出ていった。
この時も弥兵衛は顔をそむけていた。
「父上」
安兵衛の表情は案外きびしくなっている。
「君侯はそれがしが中山姓の儘《まま》にて奉公いたすを許されたと申されましたが」
「そうよ」
「堀部家の跡目相続がそれで差許されますかな?」
「許すも許さんも、そういう約束でおぬしを養子に迎えたのじゃ。余計な心配はいらん。今後はもう、おぬしが好もしい相手をみつけて誰《だれ》と縁組いたそうと……」
ぽつんと糸が切れたように、急に沈黙して庭を眺《なが》める。
うすら日が、さやさや縁側に葉影を散らしていた。風の具合では夕立が来るかも知れない。安兵衛は思いきって向き直った。
「何ぞ父上は、かくしておられることがあるようですな?」

「かくし事? おぬしとわしとは仮初《かりそめ》の父子とは思うておらんに、何をかくし事などを致すことがある。たわけた事を申すでないわ」
言って、
「よいか安兵衛。わしはの、義理の継母によう仕えておるあの|こう《ヽヽ》が、矢張り独りの折にはふと亡《な》くなった母を偲《しの》んでおるのではあるまいかと思うと不憫《ふびん》でならん。時々、わしの目をぬすんで、母の菩提寺《ぼだいじ》へ香華を捧《ささ》げに参っておるも知っておる。物心つく四つの比《ころ》から母の優しさを知らず、武辺一辺のこのわしが手塩にかかって育った娘じゃ。人一倍、淋《さび》しいおもいも致して参ったであろう。……そう思うと、せめて婿《むこ》どのには、三国一のよい男をめあわせてやり度いと思い、三国一の婿どのに愛想《あいそ》をつかされぬよう、女ひと通りの作法心得は身につけさせて来たつもりじゃ。親の欲目で申すのではない、あれは、よい妻になると思っておる。——併《しか》しな、人間、縁のある無しは別。非のうちどころ無い似合の夫婦と側目《はため》には見えようとも、仕合わせに旨《うま》くゆくとは限らぬが男女の仲。あのような立派な殿御にあのような浅間しい女がと、人には見えても、結構むつまじゅう過ごしてゆく夫婦もある。……されば、無理強《むりじ》いはせん。おぬしほどの武士じゃ。嫁をめとるに義理なんぞにしばられる要はない。わしは、|こう《ヽヽ》も可愛《かわい》いが今となってはおぬしも血を分けた悴《せがれ》同然と思うておるぞ。おぬしのしたいようにするが、わしにとっても一番|嬉《うれ》しい……」
弥兵衛の皺《しわ》の多い目許《めもと》が庭に視線を注いでせわしく瞬《またた》いた。陽差《ひざし》が消え風が次第に冷たくなった。
下に短冊《たんざく》を付けた風鈴が風にあふられ、澄んだ音で鳴り響く。
「分りました」
安兵衛が弥兵衛の横顔をじっと見戍《みまも》って、
「明日の出仕、何刻《なんどき》に参ればよろしいので?」
「初見の礼をとるのじゃで、少々は待たされるやも知れぬが、常の時刻でよかろうと用人は申されておった」
「では、舅上《ちちうえ》のお出かけなされる折までに支度をととのえておきましょう」
安兵衛はそれきり、一語も喋《しやべ》らず、一礼しておのが居間へ返った。
翌日、辰《たつ》の刻に舅《しゆうと》に伴われて伺候した。
はじめて、安兵衛は主君浅野内匠頭長矩に対面したのである。
楓《かえで》の間で暫《しば》らく待たされている間、用人片岡源五右衛門が耳許《みみもと》へ寄って来て、「弥兵衛どのも存外、粋《すい》が利《き》く。お手前意中の婦人があるそうじゃな。殿にはその儀とくにお許しなされてござるぞ」囁《ささや》いた。千春のことを言っているらしい。安兵衛は予期したことで別に表情を変えなかった。
さて時刻が来て、弥兵衛と偕《とも》に初めて主君長矩の御前へ出たが、二三垂問のあったあと、芽出度く退出する前に安兵衛はこう言ったのである。
「舅よりいかように言上つかまつったかは存じませぬが、某《それがし》、本日|只今《ただいま》を以て中山姓を名乗り申さず、名実ともに堀部弥兵衛が女婿《むすめむこ》と相成る所存にござりまする」

御前を退出すると弥兵衛は、「何も言わん、この通りじゃ……」安兵衛の手を取って推し戴《いただ》かんばかりに老いの目に涙を溜《た》めて喜んだ。
わきから片岡源五右衛門が、
「安兵衛どの、よう決心をして下されたぞ。この我らも弥兵衛どのに代って礼を申す」
「何を言われます。もともとが堀部家に婿入り致した拙者《せつしや》、それ程に申されては却《かえ》って穴があれば入りとうござる。さ、舅上《ちちうえ》、頭をあげて頂きます」
本当に冷汗を流さんばかりに安兵衛は嗤《わら》った。
長屋へ帰ると、
「いかがでございました?」
老妻の|わか《ヽヽ》が伺候の模様を尋ねるのへ常になく弥兵衛は物を言わない。それほど、嬉しかったのである。
娘の|こう《ヽヽ》は改めて父の前へ呼出されて、近々いよいよ正式に安兵衛との祝言《しゆうげん》を挙げると聞かされたが、これ又うなだれて物も言えなかった。
「どうじゃ、嬉しいであろう?」
「……はい」
「うむ、分っておる。分っておる。そちが安兵衛どのを慕うておるは、何も言わずともこの父は知っておったわい……」
挙式は事がきまったら一日も早いがよろしかろうという片岡の取りなしで、赤穂藩江戸家老藤井又左衛門の媒酌《ばいしやく》で元禄七年六月十七日鉄砲洲築地の浅野家組長屋でとどこおりなく行われた。婚礼を祝して内匠頭長矩からは金十枚、絹服二重の別に熨斗鮑《のしあわび》、樽《たる》一荷の下されものがある。この日を以て安兵衛は堀部の姓を冒《おか》し堀部安兵衛武庸と改めた。
同時に馬回り役二百石を頂戴《ちようだい》する。弥兵衛は隠居料として五十石を給され堀部家跡目相続の儀も無事に済んだわけだ。
そのうち長矩は就封の暇《いとま》を賜わって播州赤穂へ帰国することになった。安兵衛は江戸詰の身なので舅ともども行列を品川宿のはずれまで見送った。
浅野内匠頭は赤穂五万三千五百石の城主なので、国持大名の行装を仕立てて往く。すなわち先供、駕籠脇共《かごわきとも》十七人、騎上七騎、足軽六十人、中間人足百人。それに道具(槍《やり》)、打物(長刀《なぎなた》)、挟箱《はさみばこ》、長柄傘《ながえがさ》、索馬《ひきうま》、供侍、徒《かち》、押《おさえ》(足軽)、茶弁当、供槍(供方侍の槍)を以て仕立てた行列である。
ほぼ一年にわたって主従の別れとなるので、役向きの面々以外は私《ひそか》に見送るのを許されたが、藩邸から品川宿まで約二里の間も跟《つ》いて送るのは異例のこととされた。
弥兵衛は安兵衛を名実ともに婿養子としてから急に安心して、張りが抜けたのかめっきり気が弱くなり、老年のこと故《ゆえ》これが今生のお別れになるかも知れんと、特に跡を慕ったのである。

志津磨静庵自慢|の朱欒《うちむらさき》の花が咲き出した。
昨夜来の雨で、緑一色に洗われた庭に一きわ其《そ》の白い花が清々《すがすが》しい。老人の常で、早朝にはもう寝床を起出て、部屋の雨戸という雨戸はことごとく繰らねば気が済まぬが、たいがい、その音で弟子どもは目を覚ます。
「お早うございます」
慌《あわ》てて出て来るのはきまって三蔵という年少の京都から連れて来た弟子である。
「よいよい。わしが明ける。早う手水《ちようず》を使うて来なされ」
「はい……」
「今朝の味噌汁《みそしる》は何じゃ」
「辰《たつ》の日でございますで、八丁味噌にいたすと兄《あに》弟子さんが申されてでした」
「八丁か。濃すぎると拙《まず》いぞ。どうも春吉めは味つけが下手で困る。……よい味のわからん者にはよい字は書けん」
「はい……」
雨戸を繰り終ると、広い庭一面にまだ霧が降っている。
「きょうも日中《ひなか》は暑うなりそうじゃな」
言って、胸を張り、朝の冷気を深呼吸すると、
「そうであった、丹下どのへはもう何度ぐらい足を運んだな?」
「わたくしだけでも五度はお訪ねをいたしております」
「承知してくれんか」
「……はい」
静庵はちょっと考えたが、
「五ツ(午前八時)をすぎたら、足労じゃがもう一度行ってみなさい。近々に京へ帰ろうやも知れん、それ迄《まで》に何としてもお会い致し度い、と言うてな」
「本当に江戸をお引払いになるのでございますか?」
「たわけ。そう言うてみる迄じゃ。それでも承知してもらえんなら、あきらめる——」
朝餐《ちようさん》を済ませ、書院で内弟子に例によって字の規矩《きく》を明らかにする為《ため》の大字を書かせていると三蔵が戻《もど》って来て、
「仰せの通り京へお帰りになると申しましたら、とうとう承知をなされました」
「ほう、来てくれるか」
「はい、四ツ半にはお訪ねすると申しておられます」
「あの爺《じい》やが応対でじゃな?」
静庵はとっさの思いつきで、経机から使っていたばかりの硯《すずり》を取上げて、
「三蔵、も一ぺん往《い》って来てくれ。気が変られると困る。これは、おみやげにと存じておったが、お荷物になっては御迷惑ゆえ先にお届けいたします、そう言うてな」
習字をしていた弟子どもが驚いて顔を見合った。端渓《たんけい》水巌の硯石で、石肌《いしはだ》は美人の肌の如《ごと》く滑かに、墨を磨《す》る際に焼いた鍋《なべ》を蝋《ろう》で磨る如き感じがすると言って日頃《ひごろ》、静庵の愛惜してやまなかった逸品なのである。
「構わん、あの仁にならこの品は分る筈《はず》じゃ。分らずともあの人に上げるなら惜しくない。——さ、持って行きなされ」
三蔵が硯をもって出て行くと、
「稽古《けいこ》はもう止《や》めにせい。それよりは部屋の掃除じゃ。春吉、おぬし指図をして奥を片付けさせてくれんか」
静庵は上機嫌である。
自ら鋏《はさみ》を把《と》って庭に出て、茶室に挿《さ》す木斛《もつこく》の花を剪《き》って回る。生平《きびら》の甚平《じんべい》を涼しそうに着ているが、頭の宗匠|頭巾《ずきん》はとらない。
部屋へ戻って花を活《い》け了《おわ》ったところへ珍しく賑《にぎ》やかな声が玄関にして、宇須屋の志津が注文の五色筆を届けて来た。
志津といえばあの紀伊国屋の晩以来である。
「よい時に来よった」
静庵はすぐ背後《うしろ》へ来て挨拶《あいさつ》する志津に、
「今日は帰りをいそぐかの?」
床の水盤の置加減を確かめながら、
「いそがねば手伝うて貰《もら》えると有難いがな」
「何をでございます?」
「客人の応対じゃ」
丹下典膳と聞くと志津の顔がぱっと上気した。
「あら、それならあたいよろこんで手伝うわ」
言って、とても紀伊国屋さんが褒《ほ》めていらっしゃったと言う。その口吻《こうふん》に、オヤ、という顔を静庵はした。
まじまじ志津を見戍《みまも》って、
「そもじ、いつから男が出来た?」
「!……」
「かくしても分るわ。……ふーん。油断のならんものじゃな、相手は、紀伊国屋か?」
みるみる耳朶《みみたぶ》まで真赧《まつか》になって項垂《うなだ》れる志津の肩口に、どうしようもない女になった情緒が立匂《たちにお》っている。
しばらくして、面《おもて》を俯《ふ》せたまま蚊のなくような声で、
「……そんなんじゃないんです」
「もう、ふられたか」
いいえ、とかぶりを振る。
「片想《かたおも》いか?」
こっくり頷《うなず》いた。
「何じゃ。男に惚《ほ》れて、片想いと思ううちなら花じゃて。心配はいらん。あれだけの男、素人《しろうと》娘に滅多なことで手はつけまい」
「—————」
「さ、もじもじしておっては埒《らち》があかん。台所でも、見てやってくれんかの」
はずかしそうに終始顔を俯せた儘《まま》、会釈《えしやく》してにげるように志津が立ってゆくと、
「そうか、紀伊国屋には、あの脇差《わきざし》が分りおったか……」
満足そうに静庵はつぶやいた。典膳が来たのは、約束どおり四ツ半が鳴って直後である。早速茶室に招じ入れた。
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