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薄桜記13

时间: 2020-08-01    进入日语论坛
核心提示:鍔《つば》志津が典膳を見るのは初めてである。「いつぞやの紀伊国屋が席で、実はこれも一緒におったのでござるがな、酔い痴《し
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鍔《つば》

志津が典膳を見るのは初めてである。
「いつぞやの紀伊国屋が席で、実はこれも一緒におったのでござるがな、酔い痴《し》れおってとんと手数をかけさせましてな、出入りの筆屋の気儘《きまま》娘で、志津と申す」
紹介されると志津は運んで来た菓子|鉢《ばち》をわきに措《お》いて、丁寧にお辞儀をした。育ちのいいところが、恋に浮かれていてもそうして他人行儀な場面になると自ずと動作ににじみ出ている。静庵が可愛《かわい》がる所以《ゆえん》である。
典膳はただ軽く頭を下げた。静庵が言った。
「今どきの若い娘の気持は、まるで油断がなり申さんな。其許《そこもと》も知っておられるあの中山安兵衛に、つい此《こ》の間までうつつを言うておると思うたら何と、いつのまにやら他所《よそ》の男と出来ておる、嫁入り前でよかったようなものの、これが一たん嫁いだ後なら、はっはは……瑕《きず》ものになったで済み申さぬでな」
ふっと典膳の眉《まゆ》が翳《かげ》ったが、静庵は真赧になって逃げ出す志津を見送っていたので気づかなかった。
「中山どのと申せば——」
典膳がすぐ口を切った。沈痛の表情からもう不断の顔に戻っている。
「浅野家の御家中と正式に祝言《しゆうげん》を致されたそうで」
「これはお耳が早いな。堀内道場ででもお聞きなされてか?」
「左様」
典膳の方から、紅白試合にも見事な審判ぶりであったそうで、と言った。
当日の長尾竜之進が千春の実兄であるのを口にしなかったのは恥を知る心情からだろう。
静庵は典膳が妻を離別したと知るのみで、それが竜之進の妹とは夢おもわぬから、あの日の真剣勝負で若《も》し安兵衛が引分けにせねば竜之進は斬《き》られていたろうと、専《もつぱ》らの評判であると話した。
典膳はくるしそうに聞いた。
庭の蝉《せみ》が漸《ようや》く耳ざわりに鳴き出す頃|午餐《ごさん》が運ばれて来た。徳利が添えてある。
志津は少し離れた位置に坐って、静かに団扇《うちわ》で二人へ風を送る。二三度|盃《さかずき》の献酬があった後、
「今日お招きしたのは実は含むところなきにしも非ずでな」
静庵は盃を膳《ぜん》に置いて、
「其許、仕官いたされる気持はござらぬか」
真面目《まじめ》な顔を向けた。
「?……」
口へ運びかけた盃を典膳は止め、
「この片輪者のそれがしに?」
「そう言われるのがつらいで黙っておろうと存じたが、仕官とは申せ、尋常のものではござらんのじゃ。——それも、二つ」
「?」
「分り易い方から申すとな、紀伊国屋より依頼されて久しく相成る。今ひとつは、前田侯——」

静庵は以前に加賀の前田家に召抱えられたことがあり、その関係で、今も当主松平加賀守|綱紀《つなのり》の本郷五丁目の江戸藩邸には歳暮拝賀の出入りを許されているが、とりわけ江戸家老の奥村|壱岐《いき》とは昵懇《じつこん》で、かねがね文武両道に秀《ひい》でた人材の推挙を頼まれている。奥村壱岐はまだ弱年で、一年前に父伊与の家督を襲って家老の重職についたので、言えば個人的に師として身近に後見してくれる人材が欲しい、併《しか》しそういう一応の人物なら大概は歴とした主君に仕える侍であろうから、実際にさがすとなると却々《なかなか》おもわしい人物は見当らなかった。
「併し其許なれば、器量といい武辺の程といい、願ってもないお人と存じ申してな」
と静庵は言うのである。
「今ひとつの、紀伊国屋の方じゃが——」
紀文はあれだけ材木商で産をなしているが、実はもう一つ兼々のぞんでいる仕事がある。長崎御用である。
長崎御用というのは長崎で取引される外国貨物の中から主として将軍家の御用品を納入する仕事で、この長崎御用を引受ければ実際の代価より『|御調物』《おととのえもの》と称して極めて安価に外国商品が手に入る、それも慣例で完全に事は運ぶから奇利を獲るわけである。
紀文は、そうして長崎御用商人となった上、更に往年の御朱印船|如《ごと》きものを仕立て、海外貿易に雄飛したい企図を抱いている。むろん、鎖国令によって今は一切の海外渡航を禁じられているが、要するに耶蘇《やそ》教と関係なければよいのであろうから、せめて明国《みんこく》との交易だけでも直接彼地に出向いて日本人の手で行いたい野望を抱いている——その交易船の、総取締りに是非とも典膳のような立派な人物を迎え度いと言うのである。
「どうも、話が大きすぎ申して」
聞きおわると、典膳は半ば呆《あき》れ顔に笑った。
「さよう、でかい話でナ、身共もはじめは相手に致さなんだが、あの紀伊国屋なら、或《ある》いはやりかねん——とふと思う時がござる」
「—————」
「ま、今直ぐ御返答をとは申上げん。ゆっくり、お考え願った上で結構じゃ。ただ、こういう話のあることだけはお忘れにならずにおいて頂きとうての。——まったく、ヘレンとか申すあの混血娘を可愛がる紀文なら、やるかも知れん……」
あとは独り言だが、静庵は更に言葉を継いで、目下紀文はその下準備に五の丸様へ取入るよう工作をつづけている。あれだけの男なら、見込みのないものなら他人に打明けたりはすまいし、現に国許《くにもと》で大きな貿易船を造らせている噂《うわさ》もあるから、実現するようなら、いっそ、話にのって一ぺん明国へ渡ってみられるのも面白《おもしろ》かろう、と話した。五の丸様というのは時の将軍綱吉の生母本庄氏のことである。
聞いているうちに少しずつ典膳の眼《め》が輝き出した。

志津は紀伊国屋の話が出ているので一心に聞いている。時々、団扇が止まる。我に返り慌《あわ》てて風を送る。
紀文が朱印船を仕立て海外へ渡る企図をもっているなぞとは、初めて聞く話だからだろう。
縁側に垂らしたすだれが揺れるぐらいに風が出て来た。
「紀文どのは、よく此処《ここ》へ参られるのですか」
暫《しば》らくして典膳が訊《き》いた。
「さよう、滅多に現われはいたさんのじゃが、しょっちゅう、宴席から呼出しを掛けて参っての」
「住居はどのあたりでござろう?」
「会うてみられるか?」
目が合うと、ふっと淋《さび》しそうに典膳が笑って、
「何なら一度」
と頷《うなず》いた。
典膳の立場にすれば、いっそ、くさぐさの事を忘却して、日本を去り、異国へ住みついてみたい気持のおこるのも自然の情だったかも知れない。武士には異る運命を生きることは殆《ほとん》どない。生れた時から、家柄《いえがら》と家督であらかじめ彼の人生は予定されている。一藩の家老の家であれば家老、五両三人扶持の歩《かち》侍の悴《せがれ》が、郡代や用人に出世することは絶対あり得ないので、武士階級の生涯《しようがい》は、変るといってもせいぜい主家を浪人するか、主家滅亡で討死するか、過失による切腹か、改易か、蟄居《ちつきよ》か、追放である。栄進したところでその藩内にとどまる出世にすぎず、小藩の悴が天下に号令する夢をいだいた等といえば狂人としか人は思うまい。
要するに、武士は生れた時から既にその晩年を或る程度は予想することが出来、不幸なケースも予《あらかじ》め幾つかに区別けされた想像の範囲を超えることはない。
その点、海外に雄飛すれば望郷の懐《おも》いにさすらう全然別の人生があり得るだろう。典膳のような悲劇の武士には、猶更《なおさら》強いそれは魅惑だったろう。
「話がそうときまれば」
静庵は手を拍《う》って食膳を片付けさせて、
「早速紀文に会うてやって下さるか。あれも其許から引出物に頂いた品を、見分けるだけの男じゃで、イヤ、喜びましょう」
「…………」
「志津」
「はい」
「そなた、紀文が今日は何処におるか存じておるな?」
志津は見る見る赧らんで、こっくりと頷いた。
「何処じゃ」
「八丁堀の本宅にいらっしゃるわ」

早速、静庵と連立って紀伊国屋へ出掛けることになった。志津はむろん付いて来たそうにしている。
当時紀伊国屋は独身である。紀文ほどになれば何処からでも欣《よろこ》んで嫁御寮が来そうなものだが、青年大尽の常で、というより、そういう内輪に小さく纏《まと》まるのを紀文は好まなかったらしい。女に不自由しないからではなくて、家に納めてやるのが妻をけっして幸福にすることにならないのを、紀文は知っていたのだろう。
紀伊国屋の居宅は本八丁堀三丁目河岸ぎわにあった。当時は永代橋がまだ架かってなかったので、深川から往くには両国橋を渡らねばならない。
「さぞ町中《まちなか》は暑いであろうな」
すだれ越しに庭の陽差《ひざし》を見て、静庵はつぶやいたが、甚平から袗《すずし》の単衣《ひとえ》にさっさと身支度をやる。宗匠頭巾はその儘《まま》である。
さて出掛ける前になって、
「そうじゃ、其許に教えて頂き度いことがあるて」
「何ですかな?」
前田侯の話をしたので思い出したが、前田家から拝領の刀がある。書家に刀などは無用なのでつい蔵《しま》った儘にしておいたら、鍔《つば》が少々|錆《さ》びついたようなので、どうしたものであろうかと案じていたと言うのである。
「それならお易い御用」
典膳は、鉄鍔のさびを落すには、瀬戸物などの中へ、粉ぬかにて鍔をうずめ、上より糠《ぬか》へ火を点《つ》ければ、ぬかの燃えるに随《したが》って油がしたたって鍔をうるおす、その鍔へ火のとどかぬ程を見はからって取出して、そろそろと錆を落せば、どんなにひどい錆でもとどこおりなく落ちるものだと教えた。
「志津、そなたも聞いておけよ。どのようなことでお武家屋敷へ奉公いたすとも限らん」
静庵は妙な念のおし方をした。
表へ出ると、なるほど陽差は丁度頭の真上で、うだるように暑い。両国橋へかかると、隅田川べりで子供たちが真裸かで快よさそうに水沫《すいまつ》をあげている。濡《ぬ》れた全身に焼けつくように日が射している。
志津のお供の下女は老僕《ろうぼく》嘉次平に日傘《ひがさ》を差しかけてあげようと言ったが、嘉次平は固辞した。前を往く主人にこそ翳《かざ》してほしかったろう。暑ければ痛み、寒くなれば疼《うず》く——そういう殿様の傷あとが片時もこの老僕の念頭を去らぬのである。
志津は殊勝に静庵と典膳の数歩あとを、時々くるくる日傘をまわしながら跟《つ》いて往く。
「えらいものじゃな」
橋を渡りきると静庵はしばらく樹陰《こかげ》に杖《つえ》をとめて言った。
「何がですか」
「お手前よ。修業を積んでおられる所為《せい》か知らんが、余り汗を掻《か》いておらんで」
自分は懐《ふとこ》ろの手拭《てぬぐい》で咽喉《のど》もとから胸を拭《ふ》く。やがて又、日影をえらんで歩き出した。
「五の丸様へ紀伊国屋どのが工作を致しておると申されましたが」
典膳が問うた。
「紀文というのは、一体何を考えておるのです?」

「何を考えておるかわしにもとんと肚《はら》の底までは分り申さんが。馬鹿《ばか》でないことだけは間違いござあるまいの」
静庵はそう言って、
「年を取った所為か、あれの晩年の方が気にかかる——」
低くつぶやいた。
奇《く》しき一語である。
或る行為が、かなりの時間を経て、はじめてその行為の意図を他人に納得させる人間がいる、紀文がそうで、何を考え、何を目的にしているのか当座はさっぱり分らない、年月を経てから、さてはそうだったかと合点《がてん》のゆくような、そういう紀文は男だと静庵は言うのである。従って本当の紀文の肚の底が分るのは彼が死んでからではあるまいか、と。
——書道家静庵が紀文を評したこの一言は実に肯綮《こうけい》にあたっていたので、紀文がどういう人物だったかを本当に理解するにはその晩年を見なければ分らない——
紀伊国屋文左衛門には前妻と後妻があった。前妻すなわち宇須屋の娘志津である。富岡八幡の酒宴で金糸の元結《もとゆい》を緊《し》めた伊達《だて》心に紀文は美事な結末を与えたわけである。さてその志津は宝永三年まで、十四年間連れ添って六月六日に亡《な》くなったが、その二年後の宝永五年に紀文は破産した。さまざまな伝説が彼の身辺を飾るのはこの時からである。諸道具を売りつくして、零落して襤褸《ぼろ》に切れ草履で浅草の観音様に詣《まい》るのを見た昔の幇間《ほうかん》が、余り気の毒に思って草履を買い与えたら、嬉《うれ》し涙でおし戴《いただ》いて受取り、さて懐中から金一分を出して其者に心づけをしたとか、似た咄《はなし》では、両国橋の辺りで鼻緒が切れ、立てようとしていると床店《とこみせ》の髪結いが出て来て早速にすげてくれた、紀文は相手に見覚えがない、見も知らぬ者へこれはどうした御親切かと言うと、髪結いは世間にあなたを知らぬ者はないと言った。そこで紀文は、
「我と知られては恥ずかし」
と、懐中の一両を礼に与えたとかいう類《たぐい》の咄である。ことわる迄《まで》もなく嘘《うそ》である。
紀文は確かに落ちぶれて深川「一の鳥居」へ逼塞《ひつそく》しているが、実はその時も小判が四十箱あった。四万両である。しかも老中阿部|豊後守《ぶんごのかみ》正武から年々米五十俵、金子五十両の仕送りをうけている。貸金の利息なのである。その外に店賃《たなちん》の収入もある筈《はず》で、当然十分に暮してゆけた。総じて成金は世間から憎まれるもので、金持で蔭《かげ》で悪口を言われぬのは殆《ほと》んどない。まして零落すれば嘲蔑《ちようべつ》とそしりを受けるのが普通だのに、紀文だけは誰《だれ》からも悪く言われなかった。然《しか》も世間に何時までも忘れられずに、愉快な人柄《ひとがら》を偲《しの》ばれ、逸話さえ製造されてその末路を飾られている。実は四万両を携えた『零落者』なのである。
考えれば、江戸三百年を通じて彼は二人とない巧妙な失敗者だ。

紀文は本八丁堀の本宅の他《ほか》に、深川に材木置場を兼ねた店舗を持っていた。
元禄十六年十一月二十二日の夜、江戸一帯に大地震があった。これは江戸の三大地震の一に算《かぞ》えられる。その地震に火事が伴って、紀文の八丁堀の邸は灰燼《かいじん》に帰したのである。一町四方にまたがって、毎日畳刺しが七人ずつ来て畳をはり替えたという邸である。その火事の翌年の宝永元年に紀文の母が死に、一年へだてた宝永三年には妻の志津を喪《うしな》った。そこで深川一の鳥居へ逼塞したのである。世間が紀伊国屋の零落を噂《うわさ》したのはその頃《ころ》である。
深川八幡の一の鳥居というのは『江戸砂子』(享保十七年版)によれば一の鳥居、社より三四丁西にあり、此処に永代寺の函丈《かんじよう》あり、この鳥居より門前なり、町屋茶屋町なりとあるが、紀文の引込んだ頃は実に荒涼をきわめた場所になっていた。元禄六年に出版された『西鶴《さいかく》置土産』を見ると、
「深川八幡の茶屋ものは、本所築地よりは格別見よげに、京の祇園《ぎおん》町のしかけ程ありて、鳥居の内は二人一歩、外は三人一歩と極め置きしもおかし」
とあって、一の鳥居の外にも内にも綺麗首《きれいくび》を並べた茶屋は賑《にぎ》やかな渡世をしていた。中山安兵衛が初めて此処で紀文を見たのもこの頃である。けっして淋《さび》しい場所ではなかったのに、元禄十六年の地震火事に最も酷《ひど》く祟《たた》られたのが深川であって、一時は殆んど人家がなくなった。南を流れる川岸まで葭葦《あし》が茂って、夜間の往来は全く絶えて居た。其処に草葺《くさぶき》の家根の幾つかが見え出したのは宝永三年の、志津が亡くなった頃からである。
巨富に輝く目映《まぶし》いような生活から、急にそういう淋しい葭葦の茂みの中へ隠れた紀文が、昨日の栄華に較《くら》べて落魄《らくはく》したと見え、誰にも気の毒と眺《なが》められたのは当然だろう。しかも、一箱といえば千両、その小判四十箱を担わせて引籠《ひきこも》ったのである。四万両あれば何処へ出しても押しも押されもせぬ立派な商人で通る。紀文はそれをしなかっただけだ。のみならず年々米五十俵、金五十両の給与を利息として幕閣の総理大臣ともいうべき阿部家から受取る債権をもっていたのである。
紀文が本当に零落していなかった証拠として今一つ、深川八幡の社殿の修理がある。
元禄十六年の地震で社殿は大破したが倖《さい》わいに火災を免《まぬか》れた。その修繕工事が宝永四年十月から同六年五月までかかったが、この社殿を寄進したのが葭葦の家に「逼塞している」紀文である。外観は多分に変更されたものの内部は昔の結構を存じ、如何《いか》にも善美を尽くした工作で江戸でも有数の社殿と称された。それが草履を幇間《ほうかん》に買って貰うような落魄者の手で成ったのである。八幡の神輿《みこし》の寄進も表向きに名は出さなかったが紀伊国屋だったという。そういう紀文は男である。そもそも幕閣に、逼塞後も債権を持ったというのが尋常ではない——

堀内|仙鶴《せんかく》という人の書いた『大和《やまと》紀行』を見ると、紀文は貴志|沾洲《せんしゆう》、稲津青流および仙鶴との四人連れで、宝永六年五月四日から京都、大和めぐりの旅に出掛けている。仙鶴や沾洲は俳人である。また『鎌倉紀行』は落丁本なので刊年は知れないが、最後に千江、御遷宮とて旅だちけるを送るとして、
「一万の鳥も渡《わた》らい品さだめ 沾洲」
「伊勢馬のます穂となりて山かつら 千山」
等の四句が見える。伊勢の御遷宮なら宝永六年だから紀文が鎌倉八幡の御祭礼を見物したのも、京大和めぐりと同年だったわけになるが、その宝永六年は、紀文の破産した翌年に当るのである。
退屈しのぎに俳句をたしなみ、旅行しても宗匠同道では知れたようなものの、二三の師匠を連れて京大和をめぐる費用は当然紀文の懐中から出ていたと見なければならない。
これ等《ら》の費用は数年前の贅美《ぜいび》をきわめた遊蕩《ゆうとう》とは比較にならぬようなものの、三間五間の表間口を張った商家では旅行に堪えない。しかるに破産した紀文は中産どころの町人で出来ぬ事を平気で続けた。一年に鎌倉見物、京上り、大和めぐりと引続いて遊び回っているのである。
亦《また》、『諸聞集』なる書で、紀伊国屋の売り払った結構な家財道具を列挙した中に「胡蝶《こちよう》」の銘のある三味線が加えられている。
「この三味線は名物なり、正徳年中、近衛殿三川町に御|逗留《とうりゆう》のとき此《この》三味線御覧に入、胡蝶と銘を下され、御直筆なり」
と。
近衛殿というのは|太閤基《たいこうもとひろ》のことで、新将軍|家宣《いえのぶ》の夫人|子《ひろこ》の父である。近衛太閤は宝永七年四月に東下、二年間江戸に逗留された時に、紀文は秘蔵の古《こ》近江《おうみ》の三味線を御覧に入れて御直筆の銘を賜わったわけだ。
町人がこうした貴人に接近するのは容易でない、まして破産した一商人が御染筆を願って持道具を装飾することなど尋常では考えられない筈であるのに、紀文にはそれ程の余裕があった。この事は京見物以後のことである。
——こうしてみると、紀文の財力はいよいよ底が知れない。しかも将軍家の夫人の父太閤に謁し、老中に債権を有することも出来た。それにもかかわらず「我が一生に儲《もう》けた大金を我が一生に遣い果した迄《まで》だ」と、一の鳥居の侘《わ》び住居に引籠《ひきこも》った身で傲語《ごうご》して、自己を桜の散りぎわに譬《たと》えるような紀文は男なのである。晩年から先に書いた結果になったが、そういう紀伊国屋文左衛門なら朱印船を仕立てるぐらいのことは企てても恠《あやし》むにたらないし、その準備に五の丸様へ働きかけるぐらいの手腕は持っていたのが当然だろう。
さてその紀伊国屋の宏壮《こうそう》な邸宅へ、典膳は静庵に伴われてたどり着いた。

紀文は典膳の来訪を知ると大そう喜んだ。
「これはようお越しなされました。まさか、丹下様にお出《い》でを頂こうとは。……夢のようでございますな」
幾まがりもの廊下を先に立って案内して、
「人間、やはり家には居るものでございます」
静庵はもう何度も来たことがあるのか、じろじろ邸内を見回すようなことはしない。典膳とて同様である。皆の五六歩うしろに跟《つ》いている志津は、初めて紀伊国屋の本邸へ入ることが出来て、気儘《きまま》娘のようでもそれだけでもう上気している。気羞《きは》ずかしそうに俯向いて歩き、これまた邸内を見回すどころではなかった。
評判通り、内庭では畳職人が数人入り込んで、日影で畳刺しに出精している。宏大な屋敷の割には家族は少人数のようで、奥まった座敷に通されるまで、志津のあでやかな姿をじっと見送ったのは畳職人のみである。
静庵と典膳を上座に据《す》えると、
「そもじも今日は客人、遠慮なくあちらへお坐《すわ》りなさい」
典膳から少しさがった違い棚《だな》の前を示した。その挙措《きよそ》には言い知れず寛容な優しさが籠《こも》っている。紀文ほどの艶福家《えんぷくか》が、手をつけた女を、それほど大事にあつかうとは静庵には意外だったらしい。
「なるほど、色の道はそんなものかの」
ぬけぬけとつぶやいた。
あらためて主客の間で挨拶《あいさつ》がある。別段、志津との関係をことさらに隠そうとしない態度も男らしく天晴れだった。それが気に入ったらしい。
「丹下どのをお連れ申したのは、いつぞや其許の頼んでおった御朱印船の件じゃ」
早速静庵は切出した。
「本当に御承諾頂いたのでございますか?」
「早まっては困る。ともかく話を聞いた上でと同道いたした迄でな。しかとはまだお受けを願ってはおらん」
「話と申しても、何様まだ肝腎《かんじん》の御朱印が下っておりませんので。併《しか》し、そうですか、次第によっては御承諾がねがえますか」
紀伊国屋は急に青年らしい活々《いきいき》した眼《まなこ》になった。
前髪の小僧が茶菓を盆に盛って|しゃちこ《ヽヽヽヽ》張って這入《はい》って来た。つくづく気づいてみればこれだけの邸で、女っ気が一人も見当らない。下働きの婢は別であろうが、客座敷の応対から何から全《すべ》て男手でまかなっているようなのである。
典膳が尋ねた。
「静庵どのにうけたまわれば五の丸様へ出入りいたされておるそうなが、余程|昵懇《じつこん》になされておるのか」

「五の丸様へは出入りを差許されていると申すだけで、別だん特別のお目をかけて頂いておるわけではございません。——ただ、御老中阿部豊後守さまへは、少々」
あとは言わず、あいまいに笑った。阿部豊後守正武は武蔵《むさし》国|忍《おし》の城主十五万石。天和元年に老中となり、幕閣に列して以来在職十三年の長きに及ぶ幕閣の首班である。そういう老中格に「少々つながりがある」と言えるのは余程の自信に違いなかった。(元禄時代と結びついて有名な柳沢出羽守保明は、当時まだ老中にも列していない。)
典膳は以前は御旗本として折々幕府御用商人が当局者に取入ろうと種々裏面工作をするのは見てきている。それだけに老中と結びつくのがどれ程困難かも知悉《ちしつ》していたので、紀伊国屋が一介の富商にとどまらぬ器量なのと思い併《あわ》せ、海外雄飛は或いは実現するのではないかという気になったらしい。
「船を拵《こしら》えておられるそうだが、完成はいつ頃ですか」
「そんなことまで静庵さまはお耳に入れましたか。イヤお恥ずかしい次第で、まだ当分、出来上る見込みはたっておりません」
船は船でも、海外渡航となれば鎖国令以前の造船技術の復興を俟《ま》たねばならず、又そういう大型船を造ること自体が、幕府の忌諱《きい》に触れぬような工作も必要なのだろう、「まあ万事は、お上のおゆるしを得ました上のこと。それ迄、差出たようでございますが、話を御承諾ねがえますなら当座のお暮し向きのお世話は一切、この紀文にさせて頂きます。この点はお含みおきを願い度うございますので」と言った。
そこへ番頭が商用の相談にやって来て、何やら小声で文左衛門の指図をうけていたが、番頭が引き退ろうとするのへ、
「そうじゃ、丹下さまにお引合わせ申したいゆえ、母者をこれへ連れて来て下さらんか」
と言った。
「承知いたしましてございます」
番頭は丁寧に皆へ一礼して去る。先日とは別の番頭である。
間もなく廊下に跫音《あしおと》がして紀文の母親が挨拶に現われた。まだ五十前の、いかにも平凡な婦人であったが、紀文の母に対する態度は、傍《そば》で見ていても気持のいい、いたわり篤《あつ》いものだった。
静庵は既に顔見知りらしいが、典膳は兎《と》も角《かく》として、紀文の母の出現で最も緊張していたのは志津である。どうやら紀文の意中は、嫁になる女性をそれとなく母へ会わせるつもりもあったらしい。何気ない、その紹介ぶりに心にくいばかりの、双方への思い遣りが行届いている。志津は赧《あか》らんで俯向いて挨拶したが、母親も親しみをこめて応《こた》えていた。
こうなると、いよいよ人間の光り出すのは紀文自身である。

典膳が紀文の屋敷を訪ねてから十日余りして、紀伊国屋の手代が西念寺裏の浪宅へ『当座の費用』金十両を届けて来た。
嘉次平は詳しいことは何も聞かされていないので、紫の袱紗《ふくさ》に包んだそれを、土間へ抛《ほう》らんばかりに憤《いきどお》ったものである。
「いかに落ちぶれなされても御旗本にござりまするぞ。商家からの恵みを、お受けなされるお方と思われるが情無い。かようなものはお取次ぎいたすわけには参らん。取次いでは、爺《じい》めが叱《しか》られますだけじゃ」
そう言って涙をうるませて突き返した。典膳は例によって奥の間で書見をしているので、聞こえぬようにと声をおし殺した問答である。
手代は、
「併《しか》し過日お越しを頂きました時に、手前主人と丹下様との間で、そういうお話合いなさっている筈《はず》でございます。ともかくも、この旨《むね》をお取次ぎ下さいませんと」
「なりませぬわい」
思わず大きな声を出した。嘉次平にすれば、おのれは粥《かゆ》をすすっても殿様の食膳《しよくぜん》に三度の肴《さかな》を欠かしたことはない。それというのも廉直な主人に浮世の苦しさを味わせたくないからであって、且《か》つ清貧の主君を心底から尊敬して居ればこそである。商人の恵みをうけるくらいなら、何もこんな裏長屋の恥をしのんでおらずとも一刀流堀内道場へ行けば、立派に師範代で暮し向きは立って行く。
「お帰り下され。かような浅間しいものを」
嘉次平はとうとう袱紗包みとともに相手を土間から押しやった。忠義無二には違いないが、些《いささ》か典膳の非運に偏執しすぎるきらいのあるのが嘉次平には分らない。侘《わ》びしい暮しにおちれば落ちるほど、自分と主人との間は鉄より固く結ばれるという満足感があって、そういう団結を他人に侵されたくない老人らしい偏執に捉《とら》われているのである。
が、今の嘉次平にそれを責めてやるのは酷《こく》だろう。
「——爺」
襖《ふすま》の内から落着いた典膳の声が来た。
「受取っておくがよい」
と言った。
何もかも聞いていたのである。
「何と申されます?……殿様、こ、このようなものを」
「よいから受取っておけ。——紀伊国屋」
「ハ、ハイ?……」
「足労をかけた。たしかに丹下典膳、紀文どのの厚意を受けたと、戻《もど》ってよく伝えてくれるように」
「承、承知いたしました」
襖越しの声だけで顔は見えないが、手代は、上り框《かまち》へ袱紗包みをそっと押し遣ると嘉次平から逃出す態で匆々《そうそう》に立去った。
げっそり、うなだれて土間に突立ち、悄然《しようぜん》と嘉次平はその場を動かない。
「……爺、そちに話がある。これへ来なさい——」

嘉次平が俯向きがちに這入《はい》ってゆくと、
「それへ坐れ」
典膳は書を閉じて案《つくえ》から向き直った。
「そちがこの身を何かと案じてくれるのは嬉《うれ》しいが、わしにも考えあって致すこと、何をしようと差出口は許さぬ。——よいか?」
「……はい」
「いろいろそちには苦労のかけづめで、明日に希《のぞ》みのあるでない暮し向きを思えば、むくいてやれぬが不憫《ふびん》であるが、これはやむを得ん。——併し、いつまでもそちに粥をすすらせておくは更に不憫じゃ。そちは、一刀流道場へ身を寄せればと思っておるかは知れんが、片輪者が道場に居ては何かと気分が陰にこもる。不具者を師範代に招かねばならぬほど一刀流に人の居らぬわけでもなし——」
「併しお殿様ほどの遣い手は道場にもおいでなされぬと、野母さまや池沢さまが兼々のお言葉にござりました。もし爺めに、苦労させとうないため町家の恵みをおうけなされるのであれば、いっそお恨《うら》みに存じまするわい」
「爺」
典膳は微笑をうかべた。
「この典膳、いかにそちを憫《あわ》れもうとて、主従の順逆を忘れはいたさぬぞ」
「…………」
「そちは我が手の内を信じ込んでおるようなが、人並みに遣《つか》えたのは五体満足であった以前のこと。一刀流は他流以上に諸手《もろて》を要する。今のわしには、人を斬《き》るはおろか、身を護《まも》るさえ満足に|※[#「りっしんべん+匚+夾」]《かな》わぬのを忘れてはならぬ——」
嘉次平の顎《あご》が胸へめり込む程に深々とうなだれた。
「どうしてその様に悲しいことをお聞かせなされまする……お、お殿様の御武芸だけが、爺めには心の支えにござりましたに」
明け放った縁側のすだれが川風に揺れた。ハラハラ書物の頁《ページ》が翻《ひるが》える。片手を前からまわして典膳は文鎮がわりの鍔《つば》を載せた。
嘉次平の肩が微《かす》かにふるえ出しているのは、そんなにまでして妻の不義を庇《かば》わねばならなかったかという、無念さからであろう。
「よいか」
姑《しばら》くして又典膳は言った。
「わしとて木石ではない、そちが感じるほどの口惜《くや》しさはわしとて知って居る。煩悩《ぼんのう》もある……が、過ぎたことを、くよくよ思うは身の破滅を深めるばかりでな。そちよりわしが偉いとすれば、少々、その辺のあきらめを知っておることぐらいじゃ。——されば、そちとて愚か者の儘《まま》に居てよいわけはあるまい。主人が偉いなら、そちも偉うなってもらわねば困る」
「—————」
「……さ、泣くのはやめなさい。そち以上であろうと、この典膳が涙を見せたことがあったか?」

「よく分りましてござりまする」
嘉次平が洟《はな》をすすって詫《わ》びの叩頭《こうとう》をすると、
「分ればよい。以後、紀伊国屋のことゆえ月々届け物を欠かさぬであろうが、素直に受取っておくがよいぞ」
「はい、……」
「そちも年じゃ、これから次第に寒うなる。粥などすすらずと、精々|旨《うま》い物をどっさり食ってな、長生きをいたしてくれ。爺がおってくれねばこの典膳まったく自由が利《き》かぬ——」
言って、低い笑声を立てた時だ。
「頼もう」
勢よく表戸を開ける音がして、
「丹下典膳どのが住居はこれであろう。少々談じ度い儀があって罷《まか》り越した。誰《たれ》ぞおらぬか」
あたり憚《はば》からぬ高声《こうせい》に言って、
「——たしかにこれじゃな?」
「さよう、寺の裏角と言えば此処《ここ》より無い」
連れ同士で話し合い、又、
「頼もう。誰ぞおらぬか?」
ずい分無礼な訪問者である。
「行ってみなさい」
典膳は目でうながした。「わしは、昼寝でもしておることにしてな」
「承知いたしました」
嘉次平は腰の手拭《てぬぐい》で目頭を抑えると一礼して立つ。
典膳はくるりと向直って机上の本をひらいた。
「——丹下典膳どのは在宅か?」
「どなた様にござりまするか」
話し声が筒抜けである。
「我らは芝・金杉橋わき南新網町に道場を構える知心流角田|勘解由《かげゆ》が手の内の者じゃが、丹下どの在宅なれば御意得たい」
「主人は只今《ただいま》やすんでおりまするので、御用向きを承りおきました上」
「何、かかる炎暑を罷《まか》り越したに昼寝をいたしておるから出直せと申すか?」
「まあまあ、そう貴公のように荒ぶっては話も出来ん」
別の声がたしなめ、
「丹下どの在宅なされてはおるのじゃな?」
念をおした。
「——はい、在宅にござりまするが」
「いつ頃《ごろ》起きて参られる?」
「そ、それは——」
とっさの判断で、
「ごぞんじでもござりましょうが、季節の変り目に疵《きず》あとがお痛みなされまするで、いつ頃お起きなされるか、わたくしめには」
「分らぬ?——なるほどな」
皮肉な口調で言うと、
「誰ぞ、先客があるのかの?」
と言った。
「いえ、どなたもお越しなされてはおりません」
「では、これは何だ?」
嘉次平が返答に窮した。先程、紀伊国屋の手代が置いていった袱紗包みである。上り框に、その儘に忘られていたのだ。
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