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薄桜記14

时间: 2020-08-01    进入日语论坛
核心提示:吾亦紅《われもこう》「先程紀伊国屋からの使いが参られて置いて行かれたものでございます」嘉次平は有体《ありてい》に打明けた
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吾亦紅《われもこう》

「先程紀伊国屋からの使いが参られて置いて行かれたものでございます」
嘉次平は有体《ありてい》に打明けた。
「なに紀伊国屋?」
顔を見合わした一人が、
「紀文は此処へも参っておるのか?」
言いながら上り框へ寄って袱紗包みをあらためようとする。
「何をなされます?」
その非礼を憤ったので、けっして金子そのものへ執着があったからではないが、結果的には、金を奪われまいとする嘉次平の態度と見えた。
「退《ど》け」
遮《さえぎ》られると一そう穿鑿癖《せんさくへき》の昂《こう》じるのも人情である。武士は、嘉次平を突きのけ袱紗の中をあらためようとした。はずみに、力余って十枚の小判がバラリと土間へ散った。
「ほう、元御旗本丹下典膳ともあろう者が、町人分際の庇護《ひご》をうけて暮しておるか、これは驚いた」
嘉次平の最も怖《おそ》れていたことを口にした。それも殊更《ことさら》、近所へ聞かせる高声で喚《わめ》いたのである。嘉次平の顔色が変った。
「な、何も庇護など受けておられるわけではござりませぬわい」
嘉次平の声が顫《ふる》える。
「紀伊国屋が方で、勝手に置いて行きましただけじゃ」
「勝手だと?……武士たる者が、勝手に置いて行ったものなら受取るか?——成程、路傍の乞食とて、人は勝手に銭を投げ置いて行くわ」
「な、な、何たることを申されまする……」
嘉次平は激昂《げつこう》した。
「かりにも元御旗本丹下典膳様がお住居にござりまする。お手前がたのような、礼儀もわきまえんお人をお入れ致すわけには参りませぬわい。さ、とっとと出て行かっしゃれ」
「黙れ」
大喝《だいかつ》したのと、おのれ下郎の分際で武士に向って……喚《わめ》きながら嘉次平を蹴《け》りとばしたのが同時である。「あっ」と悲鳴《ひめ》いて老僕《ろうぼく》の曲った腰がしたたかに柱に当った。
すーっ……と奥の唐紙が開いた。
「下僕の非礼は枉《ま》げておゆるし願い度いが——」
うしろ手に唐紙を閉め、
「拙者《せつしや》丹下典膳、御用の趣きは?」
既に一刀を腰に帯びている。おだやかに上り框へ遣って来て、
「爺。……痛むか」
突立った儘声をかけた。
「いえ……な、何ともございませぬ」
土間へうずくまり腰を抑えていたのが、無理に起とうとして「うっ……」と呻《うめ》いた。余程こたえたのであろう。
典膳の姿があらわれたので遉《さす》がに門弟両人の態度が変る。
「丹下どのか。我ら知心流角田勘解由が——」
「御用は?」

一人が言うのによると、何でも知心流道場で近く一般|披露《ひろう》の武芸大会を催す、就いては、他流からも一流を究めた面々の参加を請うているが、特に典膳にも列席して知心流と自流との長短を比較検討してもらい度い、その上で、忌憚《きたん》のない批判・意見をうけたまわりたいが、詳しい打合わせのため一応道場まで同道願えれば幸甚《こうじん》だというのである。
「何の打合わせに参る?」
聞いて典膳が嗤《わら》った。過日堀内道場で紅白試合のあった時に、知心流の高弟両三名が列席して何事か企図したらしいが、中山安兵衛の才覚で、未然に妨げられたことは既に池沢武兵衛から典膳は聞いている。池沢はその時、意外に千春までが権兵衛父子に付いて道場に来た話も聞かせたので急に典膳が眉《まゆ》を曇らせ、黙り込んだため話は途中でおわったが、あらかた、知心流の意図しているところは想像がついた。
江戸で一刀流堀内道場と、角田勘解由の知心流道場では門弟数から、諸大名奥向き稽古《げいこ》の信望に於《おい》て格段の差がある。そこで何とか堀内道場の塁に迫ろうと、仕組んだ狂言に違いないというのが池沢らの意見である。
今、わざわざ典膳のところに来て、その打合わせをしたいと言う。典膳が堀内門下随一の高足と噂《うわさ》されたのを利用して、その典膳に何らかの恥辱を加え、以《もつ》て一刀流の評判を失墜せしめようというのだろう。それにしては、今更、隻腕《せきわん》の典膳を負かしたところで知心流の名誉にもなるまいし、第一、紅白試合を真似《まね》て武芸大会を催すこと自体が少々、知恵のない咄《はなし》ではなかろうかと典膳は笑ったのである。
それを穏かな口調で典膳が言うと忽《たちま》ち相手は気色ばんでこう言った。
「いや、我ら然様《さよう》な異心あってお招きいたすのではござらぬぞ。全く武芸一途の念より招待いたす。——それに、お手前は今隻腕ゆえと申されたが、些《いささ》かも武技に於て劣るとは存じ申さぬ。我ら輩のみでなく、これはさる上司に於ても洩《も》らしておられることだ」
「上司?——」
「大目付高木伊勢守どの。お手前も姓名は存じておられようが、今は浅野侯に仕官いたした中山安兵衛、過日伊勢守どのが招きに応じて訪問の砌《みぎ》り、大目付どのより当代其方にまさる剣客はあるまいと問われて、即座に一人、この中山に勝る人物がござる、それは丹下典膳——と返答いたされたと承る。……されば」
どうやら謎《なぞ》は解けた。
典膳は知心流の長尾竜之進に腕を落された不束者《ふつつかもの》である、その典膳を中山安兵衛が褒《ほ》めた。あらためて典膳を嬲《なぶ》り殺しにすれば、堀内道場の不面目の因《もと》にもなろうとは考えて誘い出しに来たに違いないのである。典膳が今では浪宅暮しだから、斬捨《きりす》てても公儀に申しひらきは立つ。且《か》つ女房《にようぼう》に去られ、竜之進に片腕を落されたうつけ者であってみれば、以前は知らず、隻腕の不自由さで尋常に闘えるとは思えない、すなわち典膳を斬ることはいと|た《ヽ》易いと考えて出掛けて来たものに相違ない。
「左様か。……」
典膳は不意に寂しそうに苦笑した。それから、
「いかさまお招きにあずかろう——」
言って、
「嘉次平、そちは留守居をいたしておれよ」
腰をさすりさすり立上って不安そうな目を注ぐ老僕へ言い残すと、典膳は素足で沓脱石《くつぬぎいし》の草履を穿《は》いた。
その儘表へ出た。西念寺への角を曲ると、其処にも三人余り門弟が待構えている。

典膳が寄って行くと三人の面上に緊張がはしった。中には刀の下緒を帯に巻きつけ、袴《はかま》の股立《ももだち》をそれとなく高めに繰上げた者もいる。
冷静に、それらを一わたり見て、真中の一人に目をとめた。
「わざわざのお出迎え忝《かたじけな》いが、この分なれば道場へ参らずともよいようですな」
と言った。
「いや、ここでは話もいたし兼ねる。御同道ねがい度い」
「金杉橋まで?」
「——さよう」
うなずく。もみあげが太く長く顳《こめ》|※[#「需+頁」]《かみ》から顎《あご》へかけて延びるにまかせた筋骨|逞《たくま》しい男である。今どき、こういう強面《こわもて》は流行《はや》らないのに、それも知らずモミアゲに威武を示そうとするのは、長年の浪人暮しから何とか武芸の腕をあげて、何処ぞに仕官をと願っている不遇者の一人であろう。一たん主家を浪人すれば父子二代をついやしても再び満足な仕官も出来ない、そういう逆境の武士が当時は数えきれぬほどに居た。
典膳も、明日はその運命である。縁もゆかりもない典膳を仆《たお》して、何とか知心流道場の名をあげ、ひいては仕官の糸口をと希《のぞ》む彼|等《ら》に人間的悪心は微塵《みじん》もないので、いずれは妻子もあり、その妻子のためにこそ武道の研鑽《けんさん》も心掛けている。元禄という時代は、あらかた、そういう生計に困じた武士だけが武芸の奥儀に達していた。(中山安兵衛もそんな一人だった)典膳のように、旗本の歴とした身分で、町道場随一の腕前を磨《みが》いていたなどは稀有《けう》な例である。父|主水正《もんどのしよう》の無類の謹厳さと典膳の持って生れた才能があってはじめて達し得た剣境だったかもしれない。
が、さて、ふりかかる火の粉は払わねばならない。
「どうしても一緒にと申されるなら行かぬではないが——」
おだやかに典膳は笑った。「この儘、それがしは居《お》らなんだことに致して引返して頂くわけには参らぬか?」
彼等を斬る気は典膳にはない。斬るべき動機も、実は双方ともに無い。典膳を仆すことで、恐らく彼等の願っているような明日の発展は到底のぞめないのである。主取りをせぬ彼等が考えるほど、諸大名のふところは豊かでないのを旗本当時、典膳はいやという程見せられて来ている。仕官だけが武士の生き方ではないこと、根本的に人生観をかえれば、貧しくとも仕合わせな生涯《しようがい》は幾通りにもひらけて行くこと、そういうことを、この時の典膳は本当は話したかったに違いない。
併し、彼等の状態はもう差迫っているようだった。何としても同道ねがえぬなら、と言う。早くも刀の反《そり》をかえした者さえある。
「それほどに言われるなら、やむを得まい……」
典膳は踵《きびす》を返して、彼等の案内する儘に歩き出した。
両国橋を渡った。
暫《しば》らく行って、出会ったのが混血娘ヘレンである。

ヘレンは、はじめは嶮《けわ》しい顔つきでやって来る数人の武士の中に典膳のいるのは気づかなかったらしい。
門弟の方でも、眼《め》の碧《あお》い小娘に視線をとめる余裕のある者はいなかったので、道をよける女の前を気負い込んで通り過ぎる……
典膳だけが、ふと立停《たちどま》った。
「そなたいつぞやの娘ではないか」
と言った。
「?」
碧い眼が、大きく瞠《みは》られて、
「……テンセン?」
思わず出た呼び捨てだろう、見る見るそれから赧《あか》くなって、ひょいとお辞儀をした。
「——おぼえておったな、……何処へ行く?」
お供も連れずヘレンは独りである。
「わっちゃ、はちまんのインキョ行きますわいな」
碧い眼をくりくり動かした。
「丹下氏、お手前のお知合いでござるか?」
門弟が取囲むようにして訊《き》いたが、それには応《こた》えず、
「静庵どのへ参るのなら西念寺を通ろう、済まぬがわたしの住居へ寄って、帰りは遅くなろうが案ずることはない、と爺に伝えてくれぬか」
「ぬしさんは、何処《どこ》行きなはいますえ?」
「金杉橋のきわ——らしい」
「芝ね?」
「さよう」
ヘレンもようやく唯事《ただごと》でないとは勘づいたようである。幇間《ほうかん》桜川為山の養女としか典膳は聞いていないが、見たところは町家の普通の娘と、着物の柄《がら》なども変りはなかった。襟足《えりあし》が、わずかに紅毛人らしく小さな生毛《うぶげ》を金色に陽《ひ》に光らせている。髪は、混血娘のためか常の日本の女同様に、黒い。
「ほかに、テンセンのお頼みはありんせんか」
機転を利《き》かせて訊《き》いた。典膳は「ない」と言った。
「話が済まれたのであれば急ぎ申すぞ」
もみあげの長いのが嵩《かさ》にかかって促す。遅くなっても戻ると典膳の言ったのへ、無言の嘲蔑《ちようべつ》をこめているのを無視しておいて、
「では気をつけてな」
典膳はヘレンと別れた。
午下《ひるさが》りの川端で、例によって河童《かつぱ》どもが水しぶきをあげている。ヘレンは暫らく心配そうに見送ったがもう典膳は振返らなかった。
「いずれで知られた娘でござる?」
目尻《めじり》のつり上った、険悪な面相の一人が訊く。嘉次平をあの時|足蹴《あしげ》にした門弟である。
典膳はこれも聞き流して応えなかった。河風が乱れた鬢《びん》を弄《なぶ》る……目を細めて典膳は行く。
金杉橋へは隅田川から左へ折れるべきであるのに、彼等は右への辻《つじ》を曲った。ひっそりと、夏の午後のけだるさに蝉《せみ》の声のみ喧《かしま》しい人気ない空地が軈《やが》て目前に展《ひら》ける。
繰返すが、典膳には彼等を斬《き》る意志はなかったのである。

空地へ来てみると右側が武家屋敷、前面と左は濃い影を地に落した樹立《こだち》になり、緑の繁《しげ》みの向うに小高くなって矢張り大名屋敷の塀《へい》が見える。足許《あしもと》の雑草からは蒸《む》せるような真夏の温気《うんき》が立昇っている。
「典膳」
門弟の一人が、足場を固めて素早く袴《はかま》の股立を取って言った。
「おぬしに遺趣があるわけではないが、知心流道場の面目にかけて此処でお主を斬らいではならぬ。我らも武士であれば騙《だま》し討はせぬ。一対一じゃ。言い遺すことあれば剣客の誼《よし》みによって必ず伝えて進ぜる。あれば言え。なくば抜け」
そう言って柄《つか》にぷっと湿りをくれると、刀へ手をかけた。もみあげの長いあの一人である。
「どうしても、見のがしては頂けぬか」
典膳は落着いて問いかけた。じっとり、風に弄られていた小鬢《こびん》の後れ毛が汗で顳《こめ》|※[#「需+頁」]《かみ》へ濡《ぬ》れ付いている。
「見のがす? おぬしの詞《ことば》とも思えぬが」
脇《わき》の方の一人が声を押し殺して、
「それとも此処で大地に手をついて我らに詫《わ》びるか」
と言った。
「詫びる? 知心流のお手前たちへか」
「左様」
「——断る」
典膳自身にも実は不安があった。これが以前の自分なら問題はない。五人同時に相手にしても何とか血路を見出《みいだ》す手段《てだて》はこうじ得たろう。
併《しか》し今は隻腕《せきわん》であって、以前の秘術がどの程度活用出来るか己《おの》れ自身にも心もとない。一抹のそういう憂慮が、猶更《なおさら》、斬りたくもない相手へ闘志を挫《くじ》けさせた。
出来るなら見逃してほしいとは、だから或る程度は典膳の実感だったろうと思う。
……風が、急につよく吹いて腕の無い左の袂《たもと》をあふった。
「詫びるがいやなら抜け」「抜け」左右から雄叫《おたけ》びして詰寄る。
……典膳の肩が一つ、深呼吸をした。
「そうか」
鍔元をまさぐって鯉口《こいぐち》を切ると、何か抜くのが惜しそうな感じで鞘《さや》を走らせる。
ぱっと三四人がとび散った。
「知心流坪井与三衛門。——いざ」
もみあげの長いのが、踏とどまって大|業物《わざもの》を抜く。知心流は豪刀を誇るので常の差料よりは寸も長い。
互いに斬結ぶべき遺趣は確かにないが、こうなれば相手には妻子とその生活がかかっている。必死なその剣尖《けんせん》に容易ならぬものを受取ってスルスルと典膳は後退した。それから徐々に片手青眼につけた。
意外な事態が、そうしておこった。

おのが目を疑ったのは先《ま》ず知心流の坪井与三衛門の方である。坪井は九州|柳河《やながわ》の生れで、十二歳のおり、主家を浪人した父に連れられて江戸に出、当時|駿河台《するがだい》に住んでいた朝倉与右衛門の門に入って知心流を修業した。以来二十年、今|以《もつ》て主取りも|※[#「りっしんべん+匚+夾」]《かな》わず道場とおのが侘《わ》び住居との往復に月日を過しているが、兄弟子角田勘解由が駿河台から金杉橋わきに新に道場を構え、その当主になってからも形に影の添う如《ごと》く常に勘解由を扶《たす》けて行動を偕《とも》にしてきた。知心流の伝来も朝倉与右衛門なる者の閲歴も今では未詳だが、元禄初期、一部の識者の間で知心流の荒太刀は一刀流以上と評価されていたそうである。坪井は師範代ではないが知心流四天王の一に数えられ、実戦の体験もあった。
さてその坪井が、瞳《ひとみ》を凝らし、息を詰めて典膳の青眼に対し、わが目を疑ったのは、典膳には左片腕が無い筈《はず》であるのに、構えを見ると、両手で以て構えたそれとしか見えない。
理屈の上では、幼少から典膳は隻腕だったのではなく、修練を長年両手でして来た——従って、片手が無くとも構えようは、習慣からどうしても両手のそれになる、とは分っているが、実際に見てみると、無い腕が五体無事にそなわっていると見えて仕方がないのである。
我に返れば確かに典膳は片手青眼である。然《しか》るに剣尖に目をこらし隙《すき》を窺《うかが》うと、両の手でゆったり構えているとしか見えない。……どれほど、おのれ自身を叱《しか》り、幻覚に惑わされてはならぬと意識しても、両の手で身構えた一分の隙もない相手に圧倒されるばかりであった。
じりじり坪井は後退し出した。或る間隔をおけば、紛れもない痩《や》せ細った典膳は浪人である。それが間合を詰めてゆくと、何か空怖《そらおそ》ろしくて打込めない。打込んだところで所詮《しよせん》及ばぬのを遉《さす》がに坪井は爾前《じぜん》に悟る。
——結局は、対峙《たいじ》したまま玉のような汗を全身に吹出して、眉《まゆ》に溜《たま》った額《ひたい》の汗がポタポタ雫《しずく》になって落ちた。
ずい分そうして無言の対決がつづいた。何時の間にか典膳の方が詰寄って両者の間合は接近している。遂《つい》に坪井は大決断の挙に出た。無い筈の左腕へ斬込む決断である。言えばおのれの幻覚を斬払うのである。
「やっ」
と叫び、大地を蹴《け》りざまに体当りで上段から撃ちを入れた。……空《くう》を斬るのにきまっている。……悲愴《ひそう》な捨身の一撃である。
典膳の体《たい》がひらいた。はあーと大きく典膳の口が開く。閻魔《えんま》が紅焔《こうえん》を吐くように舌を見せて太刀を揮《ふる》った。鏘然《しようぜん》と音を発して坪井の剣はキリキリ空中高くはね飛ばされた……

ヘレンが西念寺裏長屋の典膳の住居へ寄って託《ことづけ》を伝えると、まだ土間の上り框《かまち》にしょんぼり坐り込んでいた嘉次平が、
「それでは連れられてお行きなされたのでございまするか」
悲しそうにつぶやいた。その傍《かたわ》らには紫の袱紗《ふくさ》包みが無雑作に投出されてある。
「お前さまは何処へ行かれますのじゃ」
良《やや》あって問うので、
「はちまんの隠居行きますわいな」
ヘレンは舌の幾分短い言い様で言うと、
「おだじ(御大事)に」
たてつけの悪い戸を閉めて出た。
一たん西念寺の塀《へい》側まで道を返して左に折れる。静庵の住居の瀟洒《しようしや》な門を這入《はい》ると玄関口に中間《ちゆうげん》が法被《はつぴ》の背をこちらへ見せて汗を拭いていた。ヘレンはそっと跫音《あしおと》をしのばせるように近寄った。彼女はお武家が苦手である。
中間はひょいと振向いて、碧《あお》い眼の娘なので微笑して通り口をあけてくれた。ヘレンの方では見覚えがないが中間は知っているらしい。
「暑いことですね」
と挨拶《あいさつ》して来た。
「あい」
曖昧《あいまい》に笑い返して土間へ入る。衝立《ついたて》の前で、
「はちまんの隠居さん、紀文大尽の使いにわっちゃ来たわえ」
澄んだ声で呼びかけると内弟子が出て来て、
「これは」
と不愛想《ぶあいそ》に言って直ぐ取次いでくれた。
御簾《みす》を垂らした涼しい庵室《あんしつ》へ訪ねて来ていたのは堀部安兵衛である。
安兵衛ならヘレンも忘れようがない。
背後《うしろ》から手を仕えて挨拶すると、
「何の用だな」
静庵はこの日も生平《きびら》の甚平《じんべい》を着たきりだ。手の団扇《うちわ》をクルクルとまわした。
「紀文さん明晩、大川で夕涼みしに屋形船出そうと申してじゃ、はちまんの隠居一緒来ましょうね?」
「何、又散財か……」
静庵は団扇を鳥渡《ちよつと》とめた。
「丹下どのにも同行するようにと、申さなんだか?」
「テンセン?……いいえ」
頭をふる。それから思い出して、典膳と言えば先刻《さつき》、両国橋|際《ぎわ》で会ったが、おっかないお武家に取囲まれ何処かへ連れられてお行きなされた、でも心配ないと、お留守番へことづけを頼まれたので途中で寄って下僕《げぼく》に伝えて来た——と話した。
「おっかない武士?」
安兵衛の顔色がふっと曇る。「何人ぐらいか?」

「何処へ行くと言うておった?」
静庵が訊《き》いた。
「金杉橋行く言うてじゃったえ」
「——金杉橋と申せば、知心流の道場ではござるまいか」
安兵衛が曇った眉をあげて、傍らの差料を掴《つか》むと、
「それがし、鳥渡——」
一礼して座を起つ。
静庵は止めなかった。
「用が済んだら戻《もど》って来られい。何なら、丹下どのも誘うてな」
後ろ姿へ声をかけ、
「ヘレン」
「あい?」
「その壷《つぼ》を、取ってもらおう」
庵室の隅《すみ》に唐草の風呂敷《ふろしき》へ包んであった木箱を示した。安兵衛が古道具屋で通りがかりに見て、大枚金五両を投じて購《あがな》ったという| 朱《あけの》| 衣《ころも》| 肩衝茶入《かたつきちやいれ》である。気に入れば静庵に贈るという。
ヘレンは両手で抱えるようにして運んで来ると、
「安べさん強い?」
と訊いた。
「強いであろう」
「テンセンとどっち強い?」
「なぜじゃ?」
「相手は五人じゃえ。テンセンぐううと淋《さび》しそうに見えた……わっちゃ、淋しい人が好き。……それは何じゃいな?」
静庵が箱書を打眺《うちなが》めて、萌黄雲鶴緞子《もえぎうんかくどんす》の袋を解き出すとヘレンは覗《のぞ》き込んだが、きびしい眼でじっと壺を見入り静庵は黙り込んだ。
西念寺わき迄《まで》来ると安兵衛の足がふと、躇《ためら》いがちに止まった。念のため嘉次平に行先を確かめようかと、迷ったのである。併し一瞬の逡巡《しゆんじゆん》もゆるされぬ気がする。
「茂助」
安兵衛は供の中間をかえり見て、
「その方丹下どのの住居を知っておろう、知心流道場へ出向いたのであろうと思うが、さもないなら必ず呼びに駆けつけてくれ——。よいか、金杉橋じゃ」
言い捨てて再《また》走った。
丹下典膳がどうして知心流の面々に誘い出されていったか、事情は分らない。典膳の危急を救わねばならぬ由縁《ゆかり》もない。そもそも典膳が危機に立たされているかどうかも実は分らない。それでいて、不思議にせき立てられるおのれ自身の心が安兵衛にも不可解といえば言えた。
不可解——?
実はそう言うのは弁解である。安兵衛の胸には大きな幻がある。別離の妻千春である。典膳に若《も》しものことがあればあの美しい妻がどのように悲しむか。……安兵衛は疾《はし》った。

両国橋を渡りきった時である。
「果し合いだ。……お侍さんの果し合いだぞお」
鳶《とび》職らしいのと、物売り風態の威勢のいいのが二三人、口々に喚《わめ》きながら河岸を前後して東へ走って行く。
「場所は何処か?」
安兵衛は通りすがりの売卜者《ばいぼくしや》らしい老人に訊いた。
「何でも十四五人を相手に大目付高木伊勢守様下屋敷裏で、片腕の御浪人が果し合っておられまするそうな」
なまず髭《ひげ》をふるわせて言う。
「下屋敷は何処じゃ」
「それ、向うの通りの辻二つ右へ——」
なるほど往来人が、ぞろぞろその方へ駆出して行く。安兵衛は袂《たもと》を翻《ひるが》えして刀の下緒を掴んだ。
人混みを掻分《かきわ》けると気勢におされて見物人はぱっと左右に道をひらく。空地が見えた。高木伊勢守下屋敷うらと聞いた時から知心流の意図するものは安兵衛には読めている。言ってみれば責任の一斑《いつぱん》は、安兵衛にあることである。伊勢守の面前で典膳を激賞したのが彼等を刺戟《しげき》したに相違なかった。
「町人|退《ど》け」
と安兵衛は言って現場へ躍り込んだ。——後にこの時の安兵衛の態度が、無頼の徒の如《ごと》く、尠《すくな》くとも主取りをしている家士の採るべき言動ではなかったと言って、居合わせた彦根藩士津村|某《なにがし》に笑われたそうである。昨日や今日仕官したばかりでは、やはり長年の浪人暮しの地《ヽ》が出たのであろう、下品の至りだというのである。
これを聞いて安兵衛は大いに恥じ入ったそうだが、たしかに主君のある身で、かりにも無頼の徒の喧嘩沙汰《けんかざた》へ一味するのは慎しむべきであり、武士は主君のためにこそ剣も揮《ふる》え、私情にかられた軽挙妄動は厳に戒めらるべきだからである。
併し、この時の安兵衛は、おのれの立場を省《かえり》みるこそ、私情の最たるものと思ったろう。
空地では既に二人が斬《き》り仆《たお》され雑草を血に染めて伏せていた。典膳は蒼白《そうはく》の面に絶望的な淋しさを湛《たた》えて、だらりと隻腕に太刀を下げ、一人と凝然《じつ》と対決している。風がその片袖《かたそで》をそよがせて吹く……。知心流の門弟は、武士らしくあくまで一対一で一人ずつ典膳に撃ち向っていったのである。
五人が三人となり、その一人は既に青眼に構え、残る両人も後方に控えて一斉《いつせい》に異様な殺意で息をのんで勝負の結果を見戍《みまも》っている。群って来る見物人もその場へおどり出た堀部安兵衛も、勝敗の帰趨《きすう》すら彼等にはもう目に入らなかったに違いない。
安兵衛はすかさず彼等の方へ走って行った。既に対決した一人は止めようがない。残る両人だけでも鎮《しず》め得たらと思ったのである。
「出るな」
途端に叫んだのは典膳だった。
「堀部さん、おぬしが出ては後日に迷惑がかかる。——出るな」
と言った。

黝々《くろぐろ》と自分の前に立ちはだかった人物に漸《ようや》く気のついた知心流の一人が、
「おのれ何者じゃ」
居丈高に叫ぶと、隣りにいた方が、
「おっ、貴公?……」
声をのんで瞳孔《どうこう》を一杯に見ひらいた。
安兵衛を知っていたのである。いつぞや紅白試合に長尾竜之進に同道して堀内道場へ行った一人だ。
「仔細《しさい》は存じ申さぬがかかる白昼に私闘は見苦しい。人目もござるぞ、控えられい」
そう言って安兵衛は両人の前へ手をひろげた。仲裁に入るのなら確かに後日わざわいの及ぶことはない。公儀へ申しひらきも立ち、浅野家家臣たる身の体面を損なわずにも済む。
以前の身一つの気儘《きまま》な浪人暮しと違って、今では行動が朋輩《ほうばい》の毀誉《きよ》に連帯すること、言えば公私にかかわりなく、家中の士の言動はすべて赤穂藩の名を冠されて世間に評価されてゆく——そういうことを、咄嗟《とつさ》に典膳は教えたのである。その典膳は生死の間にあって、然《しか》も安兵衛にこれだけの配慮をめぐらす余裕があった。安兵衛が後々まで典膳に一目おいたのは蓋《けだ》し当然だろう。
典膳は白刃を交える相手が、安兵衛の出現で動揺したのを見て、携《さ》げていた刀の切先を垂直に卸《おろ》した。「もう歇《や》めぬか」と問いかけた。「ならぬ」雄叫《おめ》いて件《くだん》の一人は却《かえ》って挑発《ちようはつ》された如《ごと》く真向|頭蓋《ずがい》を目懸けて颯《さつ》と斬下した。
「危い」
下から受止めて体をひらき典膳は一刀|横薙《よこな》ぎに胴を払ったので、相手は二つに折れて其場《そのば》へ倒れた。返り血が安兵衛のうなじまで飛んだ。
同僚三人までが斬られたのを見て残る両人が怖気《おじけ》づかず、寧《むし》ろ悲壮の決意で同時に挑《いど》みかかろうとしたのは、なりゆきで仕方のないことだったろう。典膳の方は、さすがに肩で荒い呼吸をして、顔が土色に変じ、膏汗《あぶらあせ》を流していた。
「退《ど》け」
言って右に立っていた一人が安兵衛へ先《ま》ず抜討ちをかけた。横様《よこざま》に飛退《とびしさ》ったが切先が安兵衛の着物の袖口を裂いた。
「これは」と言って、安兵衛は刀に手をかけた。安兵衛の面色《かおいろ》は此時《このとき》変っていた。
安兵衛と相手が向き合って立って、二人が目と目を見合わせた時、残りの一人が「おのれ助勢をいたすか」と叫んだ。其声と共に手に白刃が閃《ひらめ》いて安兵衛の肩を斬った。
遠巻きの見物の中から声にならぬ恐怖の叫びがあがる。血煙りを立て胸板を刺されて仰反《のけぞ》ったのは門人の方である。典膳が刀を抛《な》げたのである。
「だから申しおった。堀部さん、ひかぬか」
と又典膳は言った。その声のおわらぬ裡《うち》に安兵衛は残る一人を唐竹割りに斬下げた。

「それで、どうせよと申すのだな?」
此処《ここ》は和田倉にある老中阿部豊後守の屋敷。秋の気配が障子を明け放った庭前《にわさき》からすず風とともに微《しの》び入って来る。
紀伊国屋は揃《そろ》えた膝《ひざ》の上で両の拇指《おやゆび》をくるくる巧みにまわして、意味のある含み笑いで、
「お殿様のお力添えで何とか寛大な御処置を願えればと存じまして」
「丹下典膳を釈放いたせと申すのか?」
「御承知でもございましょうが、丹下様はもともとが御旗本の御家柄《おいえがら》、喧嘩両成敗とは申せ、相手が無理に挑んで参りましたものを、お勝ちなされた為《ため》に江戸一里四方を限って御追放というのでは、いかにも丹下様がお気の毒でございます」
「紀伊国屋」
「?」
「その方の申し状さいぜんから聞いておれば、ずい分典膳に肩入れをいたしておるようじゃの、わけは、何だな?——例の船か?」
「これは御冗談を。手前も紀伊国屋でございます。お殿様に隠し立てなどは致しません。さき程も申しましたとおり、深川のさる御隠居に頼まれましたので」
「隠居? 芭蕉《ばしよう》のことかな」
「まさか」
文左衛門は綺麗《きれい》な皓《しろ》い歯を見せて笑ったが、
「そうそう、芭蕉と申せば例の庵《いおり》が又、空家になったそうでございますな」
巧みに話をそらした。芭蕉とは無論、俳聖芭蕉のことである。
芭蕉は深川の閑寂味に富んだ風致を愛して、二十九歳のおり初めて江戸に出て来たが、弟子の杉風《さんぷう》が提供した深川の活簀《いけす》屋敷にある六畳一間の茅屋《ぼうおく》に住んだ。これが後に謂《い》う芭蕉庵である。
当時、芭蕉は薙髪《ちはつ》して風羅坊《ふうらぼう》と号したが、延宝四年三十三歳の頃《ころ》一たん江戸を去り、京都その他を遊歴して再び深川の幽棲《ゆうせい》に帰った。天和《てんな》三年の冬に庵が焼けたので、翌年新築して一もとの芭蕉をそこに植えた。ちょうど雨が降って芭蕉の大きな葉をそれが打つのを聞いて、
芭蕉|野分《のわき》して盥《たらひ》に雨を聞く夜かな
の一句を吟じ、それから後ここを芭蕉庵と呼ぶようになったのである。行脚《あんぎや》に諸処を漂泊して、殆《ほと》んど江戸にいなかった芭蕉も、どうしたものか元禄四年の冬から同七年まで再々《またまた》深川にとどまった。久しい旅の間に庵が荒廃していたので、杉風は元禄五年の夏に芭蕉庵を改築したが、その庵のたたずまいがどんなに閑寂味の野趣あるものだったかは、「古池や蛙《かはづ》とび込む水の音」の有名な一句が、この庵で作られたのでも分る。後の川柳子《せんりゆうし》どもが其事を茶化して、
芭蕉翁ぽちゃんといふと立止り
古池の傍で芭蕉はびくりする
などと詠《よ》んでいるが、芭蕉庵の跡は、大正末頃まで六間堀の酒店の裏にあったそうだ。
その庵が、近頃また空家になった——と紀文は言うのである。
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