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薄桜記15

时间: 2020-08-01    进入日语论坛
核心提示:歳月芭蕉が『古池や』の句を吟《よ》んだ池は芭蕉庵のすぐ傍《かたわ》らにあり、五六間四方の、池としては小さいもので、むろん
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歳月

芭蕉が『古池や』の句を吟《よ》んだ池は芭蕉庵のすぐ傍《かたわ》らにあり、五六間四方の、池としては小さいもので、むろん今のように『古池』の句が多数の口の端《は》にのぼるわけもなかったから、水郷深川に在《あ》る何でもない只《ただ》の池と見られていたが、或《あ》る日この池畔に芭蕉が手ずから柳を植えているところへ、紀伊国屋が通りかかった。
芭蕉の傍らには弟子の鯉屋《こいや》杉風が手伝っていたそうである。杉風は立派な別荘を深川に有《も》っていて、大尽紀文を知っている。二人は気軽に通りすがりの挨拶《あいさつ》をしあって、
「何を植えておられますな?」
紀文の方から芭蕉に声をかけた。芭蕉はこの比《ころ》五十一歳である。
チラと紀文を見たようだったが、黙ってせっせと植えつづけて答えない。有名なそれが俳人であることは紀文も知っている。のちに俳句の宗匠同道で京大坂を遊行した程だから、好きな道でもあったろうが、併《しか》し当時はまだ二十代の青年だったので、気むずかしいおじさんだな位の関心で池畔を通りすぎた。これが紀文が芭蕉を見た最後になる。柳を植えて芭蕉翁はこの年五月に帰省の旅にのぼって、十月十二日「旅に病むで夢は枯野をかけ廻《めぐ》る」一句を最後に、大坂|御堂前《みどうまえ》の花屋仁左衛門なる人の裏座敷で没するわけだからである。
丁度その帰省の時に、杉風以下多くの門人が品川、或《ある》いは川崎、或いは箱根まで見送る話を紀文は耳にはさんでいたので、今は庵が空家になっていると豊後守に話したわけだ。ひょっとしたら、杉風に頼んで庵に典膳をかくまって貰《もら》えたら……そんな気持が湧《わ》いたと豊後守へは見せるつもりもあったかも知れぬ。
紀文はうすら笑《えみ》をうかべ、
「——いかがでございましょう、お力添えを願えますなら、例のお話の方は……」
言ってじっと上座の阿部豊後を仰ぎ見た。典膳のお咎《とが》めを何とか赦《ゆる》してもらえるなら、金子の用達《ようたし》はお引受けするという意味である。
「交換条件とは其方らしくない申し様じゃの」
「ではお力添え願えますので?」
豊後守はうなずいた。
「町奉行の方で何と申すか知らぬが、実は丹下典膳には今一人、赦免《しやめん》を願い出ておられる筋があってな」
「?」
「上杉家の江戸家老千坂兵部どのじゃ。表向きは、上杉家よりの願い出になっておるが……運動の張本人はどうやら千坂どのらしいと、奉行所では申しておる」
「—————」
「紀文。さればじゃな」
阿部豊後は白髪《しらが》の頭をかしげて、脇息《きようそく》に身を寛《くつろ》げ、含み笑った。
「その方何を企んでおるか知らぬが、丹下が御赦免に相成っても、果してその方の見込み通り、身を預けてくるかどうかは分らんぞ、上杉の方へ、さらわれてしまうかも知れん。ハハハ……」

紀文は和田倉の豊後守正武の邸を辞去すると本八丁堀の居宅へ帰り其の日のうちに、番頭喜兵衛に吩《い》いつけて金五千両を阿部邸へ届けさせた。豊後守正武には嫡男飛騨守正喬《ちやくなんひだのかみまさたか》、三男越中守正房、四男|主税《ちから》が夫々《それぞれ》三はん丁、かわらけ丁の別屋敷に住んでいる。近々《きんきん》主税に縁談がまとまるのでその支度金というのが阿部家の借財の理由である。むろん、そういう借用のはなしは当の豊後守は一切関知しないので、用人が勘定方と協議のすえ、お出入りの紀伊国屋へ『相談』を持掛けるという按配《あんばい》だが、紀文ほどになると、時には豊後守にお目通りをして、
「ちかぢか主税さまにはおめでたがおありのように承っておりますが、御用人方が出費の御心配をなされております様子、——どうぞ、御用がございましたら此の紀伊国屋へお申付を願います」
直《じか》に紀文の方からそれとなく催促する。
老中の重職にあるとは言っても、大名の身として藩士の扶持にも事欠く経済的内情は、当時の諸侯と変りないのを豊後守も知っているから、
「次第によってはその方に面倒を相懸ける」
ぐらいの事は言ってある。
典膳が釈放されてから届けたのでは金が死ぬ。そこは商人で、辞去したその足で運ばせたわけである。
番頭喜兵衛は事を済ませて戻《もど》って来ると、
「用人菅谷さまのお口ぶりでは、今日の五千両は、死ぬかも知れませんな」
と言った。典膳釈放後の身柄《みがら》はどうやら、上杉家の江戸家老千坂兵部が引取ってかくまうらしい、と言うのである。
「まさか」
紀文は自信ありげに笑った。
「丹下さんはな、あれでまだお別れなすった奥方を忘れかねておられる——とわたしは見ている。喜兵衛どんは事情を知るまいが、そういうお内儀の居られる上杉家へいかに何でもお入りはなさらん」
「併《しか》し上杉家では無うて千坂さま個人のお計らいとか——」
「大じょうぶ」
丹下典膳が五十日余の入牢《じゆろう》をゆるされたのは秋九月に入ってからである。後で分ったのだが、殊更《ことさら》入牢処分にしたのは大目付高木伊勢守より町奉行に内分の沙汰《さた》があったので、典膳の白昼江戸・将軍家お膝許《ひざもと》を騒がせた咎《とが》というのは表向き、内実は知心流の復讐《ふくしゆう》から典膳を守るためだった。これに就いては曾《か》つての同役たる旗本連や、典膳の叔父丹下久四郎、伯母方の婿《むこ》である火元御番頭・後藤七左衛門などの運動があったからだという。
従って、入牢中の典膳への取扱いも万事慎重だったそうだ。一里四方を限って江戸追放という処置も、言ってみれば暫《しば》らく江戸を離れた方が典膳の為《ため》にもよかろうと判断されてのことなのである。
——が、ただ一人、西念寺裏長屋で主人の帰りを待っていた老僕《ろうぼく》嘉次平は、釈放後、どこへも身を托《たく》そうとせず浪宅へ帰って来た典膳の蓬々《ぼうぼう》たる無精|髯《ひげ》を見た時には、お痛わしいと言って声をあげて号泣した。

「泣くではない」
「…………」
「そちも聞いておろうが、わしは江戸追放の御処分になるところを、叔父久四郎どのや伯母婿のとりなしで其の儀をまぬかれた。——併し、江戸に暮すつもりは今のわしにはもう無い。そちには苦労のかけづめで、栄耀《えよう》をさせてやれぬが心残りであったが、何事も運とあきらめて貰《もら》わねば仕方がない。この家《や》にある家財道具、わずかであろうが総《すべ》てそちへの餞《はなむ》けに遣わす。売るなと何なとして故郷の舟橋へ帰り、せめて余生を気楽に暮してくれぬか」
言って、
「これは——」
床の間の刀架に飾ってあった亡父主水正遺品の差料を取って、
「形見としてつかわす。わたしからではない、父のじゃ」
片山一文字・無銘の一腰《ひとこし》で、柄《つか》にも鞘《さや》にも埃《ほこり》の跡はなかった。主人の留守中、毎朝のように嘉次平が|ふきん《ヽヽヽ》掛けをして、大切に取扱った証拠である。典膳は二カ月ぶりに住居へ戻って、座敷の床の間を見たときからこれを遣る気になったらしい。
「……さ、取らぬか」
「はい……」
嘉次平は半信半疑で膝行《しつこう》して刀を受取ると、
「江戸には住まぬと申されましたが……岡崎の大奥様の許へ参られるのでございますか。それなれば爺《じい》めにもお供をおゆるし願いとう存じまする」
「いや、母上にこの見窶《みぐる》しい姿を見せとうはない。何処へ行くとも未《いま》だきめておらぬ」
「では、どうして江戸をお発《た》ちなされまする?」
「じい」
典膳は冷やかな笑いをうかべた。
「わしに、そちは重荷じゃ」
と言った。
今迄《いままで》聞いたこともない突放した一言である。嘉次平は愕然《がくぜん》と色をなして、
「な、何と申されます?……爺めがおそばにおっては御迷惑なのでござりまするか』
「—————」
「お殿様」
両の手に刀を捧《ささ》げたままにじり進むと、
「申して下さりませい。なんぞ爺めが落度をいたしましたかい。それとも、お気にめさぬようなことが」
「そちに咎はない」
「?……」
「わたしは、独りきりになり度《た》いのでな」
「でもその御不自由なお体で」
「不自由?……不自由な者に四人も人が斬《き》れるか!」
はっとするほど激した自己|嫌悪《けんお》の響きがあった。以前よりは又一段と痩《や》せ細って、蓬々たる無精髯の顔である。以前の清潔で気品に溢《あふ》れた面影《おもかげ》は何処にもない。陰気で、虚無的で、淋《さび》しさが打沈んだ深い翳《かげ》を表情にやどしている。入牢した所為《せい》というだけでなく、入牢中に明日の生き方を変えようとどれほど苦悩してきたかが、ありありと目許《めもと》にも感じられた。もう、嘉次平の手の届かぬそれは別人の丹下典膳になってしまった——としか思えないのである。
「!……」
がっくり、嘉次平は項垂《うなだ》れた。

嘉次平はそれでも典膳の許を去る気にはなれなかったらしい。言い出したら前言をひるがえす主人でないとは承知していたが、辞《こと》を尽くして、御先代主水正さまに仕えてより、丹下家を死所ときめ、妻子もない独り身のこの老僕をお見捨てなされますのは余程の御決心でござりましょう。以後は足手まといにならぬよう、どのようなことを遊ばしても差出たお諫《いさ》めなどは申しませぬゆえ、どうぞ、おそばへだけは何時までもお置きを願いまする——そう言って水洟《みずばな》をすすり上げ、畳に体をすりつけて懇願した。
「わしが何をしようと必ず口出しは致さぬな?」
「はい」
「きっとか?」
念をおし、嘉次平が「誓いまする」と言うのを見捨てて暫らく黙って庭に茎頭を揺らす芒《すすき》を見つめた。良《やや》あって言った。
「道具屋を知っておるか」
「は?……」
「近所のでよい。家什《かじゆう》一切うり払って家をたたむ」
「何処へ参るのでござりまする?」
「分らぬ」
その日のうちに両国橋わきの古道具|亀屋《かめや》の手代が呼び寄せられた。道具の下見に来たわけだが、落ちぶれたといっても譜代の旗本で、家財のあらかたは半蔵御門外の屋敷を引払って此の侘《わ》び住居へ引越す時に処分してあったが、それでも日常身辺につかう手筥《てばこ》や、嗽器台《そうきだい》、鼻紙箱、什器、置炬燵《おきごたつ》、火桶《ひおけ》、調度など、西念寺裏長屋にふさわしいものは一つもない。
「およろしいのでございますかなあ……」
手代は気兼ねをしいしい凡《およ》その算盤《そろばん》を弾《はじ》いた。
翌日亀屋から車を仕立てて道具を引取りに来た。
近在の者は、そうでなくても蔭口《かげぐち》をささやきあった丹下典膳の引越しとあって、はじめは遠巻きに三々五々群って見戍《みまも》っていたが、ただの引越しではなく、家財を売払っているのだと知ると、少しずつ輪をせばめるように、密集して荷車のまわりを取囲んだ。表通りを通る者も、それで何事かと足をとめて寄って来る。
たまたま静庵の内弟子が所用の戻《もど》りにこの様子を目にとめたのである。わけを知るといそいで邸に戻って静庵に報告した。
「なに売払う?……」
典膳が釈放されたことを静庵はまだ知らない。
「しかと間違いはないな?」
駄目《だめ》をおし、すぐさま取るものも取りあえず弟子を伴って西念寺裏へ駆けつけた。道々、
「それで丹下どのの姿をも見かけたか?」
「いえ、例の老僕が人夫どもに指図をしておりました。淋しそうでございました」
「淋しいはきまっておる。家財を運び出すなら家の中が表から見えよう。典膳どのは居《お》ったか?」
「……それは」
「たわけ」
叱《しか》っているうちに西念寺の塀《へい》を曲る。なるほど人だかりである。
「どけ退《ど》け退け」
静庵は杖《つえ》をあしらって群衆をかきのけて分け入った。

嘉次平は以前、紀文への引出物に典膳の脇差《わきざし》を料理茶屋へ届けた時、静庵からいい主人に奉公しておるなと慰められたのでよく覚えている。併《しか》しその静庵から、典膳が端渓《たんけい》のすずり石を贈られていたことは、うっかりしていた。
「引越しなさるのか」
うしろで声をかけられて、
「こ、これはいつぞやの……」
嘉次平は忽《たちま》ち家財道具をさらけ出している惨《みじ》めさに恥じ入った。
「道具は売られるのか?」
「はい」
「全部か」
「何ひとつ残さぬと申されまするので……」
「何一つな」
ずーっと一わたり、表に運び出されたのや荷車へ既に積み込まれた品々を見渡して、
「それで何処へ移られるのじゃな?」
「分りませぬ」
「分らん?」
「お殿様は何でも、牢におられました時分にお知合いになられた町家のさる請負師《うけおいし》のもとへ居候《いそうろう》すると申されまして」
「請負い?……鳶《とび》人足や人入れ稼業《かぎよう》のあの請負いか?」
「そのようなものらしゅうござりまする」
「ふーん……住居を引払っても紀伊国屋へは行かれんか……」
静庵にとって少々あてはずれな事態である。入牢中に知合ったというなら、どうせ男|伊達《だて》を売る、よからぬ侠客《きようかく》の一人に違いない。そういう者の社会へ墜《お》ちてゆくにしては、典膳の人柄《ひとがら》は高潔すぎると、静庵には思えた。所詮《しよせん》、水と油であろうに、また典膳ほど賢明な武士なら、それぐらいのことは見通している筈《はず》であろうに。……
「それで何か、もう請負師の許《もと》へ参っておられるのか?」
「——はい、今朝早くからお行きなされております」
「場所は何処じゃな?」
「浅草お蔵前の白竿《しらさお》長兵衛とか申される……」
嘉次平は、うなだれてもう詳しく話す気力もないらしい。
「あとでおぬしも行くのじゃな、其処へ?」
「はい……」
蔵前の請負師なら幕府の米蔵のあるところで、其処に使われる常傭《じようやと》いの小揚げ人足の親分である。静庵には、凡そ無縁の世界である。
「……そうか。あたらあれほどの人物がのう……」
さすがに、典膳の胸深く秘められた懊悩《おうのう》を見るおもいがして、がっくり静庵も肩を落した。どうせ、考えぬいたすえ、旗本の過去を捨てる決意をしたに違いはないが、隻腕《せきわん》ではまさか小揚げ人足も出来まい。紀伊国屋や、上杉家江戸家老の千坂兵部までが典膳の釈放後を色々案じて手をうっていた噂《うわさ》は静庵も聞いているので、それらを拒絶して町の請負師の許へ居候するからには、よっぽど、武士がいやになったかと想像するぐらいである。
さもなければ何か、入牢中に、別れた妻女のことで精神的打撃を蒙《こうむ》る事態でもおこったのか?
「そうじゃ、話は違うがの」
静庵はふと思い出して、尋ねた。
「丹下どの入牢中に、堀部安兵衛どのが何ぞ言っては参られなんだかの?」

「こりゃあどうも、よくお出《い》でなすっておくんなさいやした。わっちらあ稼業に似ず夜ふかし致すもんでござんすからねえ。……どうも、とんだ失礼をいたしやして」
でっぷりと恰幅《かつぷく》のいい五十年配が、どてらをぞろりと曳《ひ》きながら内儀を従えて茶の間へやって来ると長火鉢《ながひばち》の前へどっかと胡坐《あぐら》を組む。
銀|煙管《ぎせる》を手に取った。
「お|たね《ヽヽ》、熱いお茶と淹《い》れ代えて差上げなくちゃなるめえよ」
「あいよ……」
頤《あご》でうなずいて、亭主《ていしゆ》のわきへ坐って早速|銅壺《どうこ》の蓋《ふた》をあけた。これはまだ三十前後のいい年増《としま》である。
白竿伝右衛門のうしろには稲荷《いなり》大明神の神棚《かみだな》が祭られていた。向き合った典膳のうしろは襖《ふすま》、次の間からは直ぐ土間へつづくが其処では威勢のいい若い者が、いずれもねじり鉢巻《はちまき》にどんぶりの腹掛け、紺の股引《ももひき》姿で、夥《おびただ》しく出たり入ったりしているらしく、時折、指図する風な意気のいい声があがった。
典膳はもう小半刻《こはんとき》ちかく、表と土間を出入りするその活気に溢《あふ》れた懸声を聞きつづけて坐っていた。武士のたしなみで、きちんと正坐を崩さない。且《か》つ早朝に起き出た習慣の儘《まま》に約束をまもって白竿長兵衛を訪ねて来た。長兵衛は父親の伝右衛門が「幡随院《ばんずいいん》以来の江戸っ子」と自慢する悴《せがれ》である。白竿の異名も実は長兵衛のさっぱりとして粋で意気のいいのに人が名付けたので、伝右衛門はこの呼び名が気にいって早速屋号にしたという。
そんなことは典膳には分らないし、どうでもよいだろう。
内儀が燗《かん》の出来たお銚子《ちようし》に肴《さかな》を添えて典膳の前へ置いて、
「何もございませんけどお一つ」
盃《さかずき》を器用につまんで、差出す。典膳が受取りかねていると、
「……そうぎこちなくなすっちゃ嬶《かかあ》の場がもてませんや。先生、御蔵前じゃあそれが熱い茶でござんすよ」
「併し拙者朝から——」
「いけねえいけねえ」
伝右衛門は火鉢の上で大きく手を振った。
「そう堅《かて》えこと仰有《おつしや》ってちゃ、折角おさむれえを捨てなさるおつもりが却《かえ》って妙なことになりやしょう。……どうも長兵衛が戻ってからと思っておりやしたが、これじゃあ埒《らち》が明かねえ。おう、お|たね《ヽヽ》。わっちが代って一の一から先生にお教えしよう、若え者を一通りこれへ来さして呉《く》んな」
「あいよ」
うなずいて起ちかけたのが、
「お前さん」
ふりむいた。
「何だ」
「折角お引合わせするんじゃああのお髯がねえ……」
「ん。それもそうだ。——よし」
ポンときせるの吸殻《すいがら》を敲《たた》き落して、
「お三《さん》をこれへ呼びな、剃刀《かみそり》を用意させてな」
とうとう無理|強《じ》いに典膳は娘のお三に髯を剃《そ》られた。

お三は白竿長兵衛の妹で、長火鉢のわきに坐った伝右衛門の女房《にようぼう》とは、年格好も似合わないから明らかに継子《ままこ》である。しかし至って明朗な鉄火|肌《はだ》の娘で、父親から典膳に引合わされると、
「えい、あたいが剃って差上げるわ」
早速|湯桶《ゆおけ》を三下共《さんしたども》に運び込ませ、
「せんせ。……さ、あたいの膝《ひざ》へ御寝《おより》なさいな」
膝枕《ひざまくら》をしろと言う。
「まさか……」
「何を仰有ってるんです先生、御遠慮にゃ及びません、お三だってその方が剃りやすうござんしょう」
併し典膳は坐った儘《まま》でと言った。
「そう、じゃお坐りになっててよござんすから。おっ母さん、熱い手拭《てぬぐい》をね」
全然人みしりをしない。平気で典膳の背後へまわって、中腰で、母から蒸し手拭を受取ると端坐した典膳の顎《あご》から、そおっと口許《くちもと》へ押し当てる。
「……熱うござんすか?」
物が言えないので典膳は首を振った。お三は大柄《おおがら》で肉の緊《し》まったいい体をしている。
と襟《えり》もとの香りが典膳の鼻孔をくすぐる。近々と顔をよせ、上から覗《のぞ》き込むように典膳の瞑目《めいもく》を見下して、却々《なかなか》手拭を離さない。何となく背後から抱き緊めているように見えた。
女房がチラと伝右衛門へ笑いかけたが、すいも甘いもかみ分けたこの五十男は素知らぬふりで煙草《たばこ》を吹かしている。
髯があたためられた。
「おっ母さん、——襷《たすき》」
お三は母から紅のしごきを藉《か》りると襷にして、
「痛かったら仰有って下さいましね」
再び典膳のうしろへ中腰でにじり寄り、白い指を顎《おとがい》にかけて、面《かお》を上げさせる。典膳は咽喉《のど》を反らし隆《たか》い咽喉仏を見せた。
なるほど巧みな剃刀さばきである。近々と顔を寄せ、瞳《ひとみ》をこらして丹念に、剃る。無心と言いたいくらい一生懸命な態度だった。
神妙に典膳は瞑目している。
「……いたい?」
「いいや」
「お声を出しちゃ駄目《だめ》」
いちど、頬《ほお》を剃る時にだらりと腕の無い袖《そで》の垂れている上を、お三は無意識に手で抑えた。典膳の眉《まゆ》がヒクと動いたが誰《だれ》も気がつかないと見えたが、暫《しば》らくしてそっとお三の手が離れた。二度ともうそこへ手はゆかなかった。
髯ぼうぼうの痩《やせ》浪人が、やがて端麗な青年武士の風貌《ふうぼう》に返る。伝右衛門の女房などは思わず目をみはり、尋《つい》で惚《ほ》れ惚れと目を細めて眺《なが》め入って、
「——お前さん、いい男だねえ……」
亭主《ていしゆ》の耳へ囁《ささや》きかけた。
お三は知らん顔だ。
「せんせ、済みましたわ……」
紅絹《もみ》でくるくる剃刀を巻き収めながら言うと、
「おう、別人のようにおなりなさいやしたぜ。……こうなったら早えとこ若い者をお引合わせしなきゃならねえ、お|たね《ヽヽ》、其の辺にいる者を集めてくんな」
間もなく威勢のいいところがずらりと座敷に並んだ。

「みんな、揃《そろ》ったか?」
「へい」
右端に坐っていた苦味走った若いのが代表で頭をさげる。
「よし」
伝右衛門は煙管《きせる》を措《お》くと、長火鉢の向うで坐り直った。
「おめえ達《たち》も長兵衛から聞いているだろうが、こちらにおいでなさるのは元御旗本の丹下典膳さまだ。今日から都合でわっちどもがお世話をさせて頂くことになったが、長兵衛にとっちゃあ謂《い》わば御恩人。見るとおり腕が御不自由でいらっしゃる、以後は、おめえ達が先生の片腕ともなってお盛立てをしなきゃあならねえぞ、いいな?」
「へい。……」
「そいから先生の御希望で、御旗本だったって事ぁ今後二度と申しちゃあならねえ。わっちも言わねえが、お前たちも他所《よそ》へ行って余計なこと喋《しやべ》るんじゃねえぞ。いいな」
それから典膳の方へ向いて、
「ごらんの通り、大体うちの若え者が揃いやしてござんす。何なりと先生から一つ、お言葉をかけてやってお呉《く》んなせえやし」
典膳の表情に言い知れぬ淋《さび》しい翳《かげ》が宿ったが、
「丹下典膳と申す。当分、当家へ世話に相成ることになった。——何分ともに、頼む」
と言った。
「さあ、これで御|挨拶《あいさつ》あ済んだ。——みんな、手をかして貰《もら》おうじゃあねえか」
シャンシャンシャンと手をうって一同、典膳に頭を下げた。
「実はね先生——」
伝右衛門の語調ががらりとくだけて来る。
「此処《ここ》におりやすのとは別に小田原町の仕事場へ、長兵衛が連れてめえった若え者もいるんでござんすが、まあそれは長兵衛からお引合わせ致しやすでしょう、差当って、この中から二人ばかし、先生のお役に立ちそうなのを選んでやっておくんなせえやし」
「何のために?」
「別にどうってことあござんせん。お武家の方で言やあ、ま、当番とでも申しやすか」
伝右衛門は曖昧《あいまい》に笑ってから、ふと自分に注がれている視線に気づいて、その方を見た。
お三である。
典膳のわきに控えていたのが、懇願するような眸差《まなざし》で、合図を送って来た。当番をあたいにさせて頂戴《ちようだい》……という意味らしい。
め、と伝右衛門は睨《にら》みつけておいた。典膳が言った。
「おことばは忝《かたじけな》いが、それがしには実はもう一人、お世話願わねば相成らぬ者が」
「お、嘉次平さんとか申されましたね? うけたまわっておりますよ。——何あに、御遠慮にゃあちっとも及びません、嘉次平さんは嘉次平さん。何なら……」
言いかけて、居並んだ連中をずっと一わたり見回し、
「辰吉《たつきち》。巳之吉《みのきち》」
「へい」
呼ばれた二人は列を離れて膝《ひざ》ひとつ前へ出た。
「今日からお前たちは先生のお付きだ。いずれ長兵衛が帰《けえ》ったら詳しい指図はするだろうが、これからは何を措《お》いても先生のお役に立つよう励んでくれ。いいな」
言って、
「先生、こいつらは恐《こわ》いもの知らずの、竹を割ったようなさっぱりした野郎でござんす。右におりやすのが辰吉、左が巳之吉、どうぞ今後は御家来同様に思召《おぼしめ》して目をかけてやっておくんなせえ」
伝右衛門が頭をさげると、両人は無論、居並んでいた一同もお三お|たね《ヽヽ》の母娘も一様に低頭した。
「拙者《せつしや》こそ居候の身で、そう改まられては恐縮いたす。何分ともに頼む」
伝右衛門のしていた口入れ稼業《かぎよう》は『割元《わりもと》』といって、人夫を提供する商売である。
幕府の無役《むやく》の家来を小普請《こぶしん》というが、小普請入りを命ぜられると今でいえば休職か非職と同じことで、現職というものがなくなる。しかも小普請には際限がないので、当人一代だけではなしに子孫までも小普請でいなければならぬことがあり、その無役非職の武士に背負わせる義務があって、幕府の土木工事に知行高の割で人夫を出させる。これを高割人夫というが、百石|毎《ごと》に二人ないし三人、五百石以上になればこれとは別に杖突《つえつ》きという者を一人出させる。並の人夫は中間《ちゆうげん》でいいが、杖突きは士分格の者でなければならない。
しかし旗本らは戦国の仕来《しきた》りのように、軍役として定められた人数を常時持っていないから、いざというとき高割人夫を出せない、それでは困るというので、慶安年間ごろから、人夫を請負って出す割元という稼業が出来たわけである。幡随院長兵衛などもこの小普請の請負業者の一人である。
一体、百石に対しての高割人夫は一年にせいぜい二三人出すぐらいのものだから、正直に自分の家来として余分に人を抱えておくよりは、割元に頼んだ方が出費も僅《わず》かで済み、人数も揃う。その代り、幕府の工事であるから何の某《なにがし》という旗本の家来分で出るわけである。もし不調法なことがあると、幕府は割元を処分せずに、名儀人の旗本を処罰した。従って割元は常に旗本に対して責任を持たねばならず、割元を信用出来ねば旗本もなかなか請負わせるわけにはゆかない。
そこで、安心して自分の家来分として差出せる人夫を要求する。すなわち割元への信用が物を言うわけである。
丹下典膳が、旗本の間にどれ程信頼された人物であったか、それを考え起せば、白竿伝右衛門が無条件で典膳を迎え入れた理由も納得《なつとく》がゆく。まして典膳は、悴《せがれ》の白竿長兵衛にとっては恩人だというのである。但《ただ》し、自分達の稼業の利益のために典膳を世話していると言われては、男がすたる。典膳自身にとっても、昔の朋輩へ信用を沽《う》りつける立場は好まないだろう。……そこで、御旗本であった過去は一切伏せるようにと寄子《よりこ》(人夫になる乾分《こぶん》共)にきびしく言い渡し、あくまで身柄《みがら》をお世話すると、乾分二人を当番に付けさせたわけだ。

伝右衛門以下白竿長兵衛をはじめ、妹のお三や乾分どもが喜んで典膳の世話をしたのには、けっぺきに伝右衛門が断った如《ごと》く稼業柄典膳の信望を利用するつもりのなかったのは事実だが、それと別に実はもう一つ理由があった。
きおい組との勢力あらそいである。
元禄のはじめ頃《ごろ》から小普請組の旗本たちの義務は人夫で差出さなくとも、金納でよいことになり、百石に就いて小普請金一両をおさめれば役夫を出すのと同等の扱いをうけるようになって、そうなると白竿伝右衛門の如き請負業——割元は次第に職場をおびやかされる。これにつれて勢力をのばして来たのが『きおい組』である。
幕府には各々旗本から土木工事の役夫として徴集する人足とは別に、常傭の人夫がいた。これは常に幕府に使われている者で、数は尠《すくな》いが自分たちは謂《い》わば御直参のようなもので、工事の都度集められて来る臨時人夫とは違うのだという誇りがある。割元の請負う町方人夫の数の多いうちは、そういう自慢も表立って口にしないが、次第に割元から出される人夫の数が減るに従って持ち前の誇りを鼻にかけ、羽振りを利《き》かすようになった。
その常傭人夫の団体が『きおい組』である。
幕府の制度として、小普請金が人夫に代行されるのはやむを得ないが、それをいい事に、昨日まで小さくなっていた連中が急に羽振りを利かせ、ことごとに大きな顔をして我《が》を通されたのでは男の意地が立たない。と言って、相手は小普請奉行に直属する手合で、工事場で彼|等《ら》に楯《たて》を突くことはひいてはお上の権威へ反抗する仕儀ともなる。そこで仕事場では一切がまんをしているが、岡場所や矢場などで顔を合わすと、これはもう男と男の私《わたくし》のあらそいである、喧嘩《けんか》である。
一方が勝てば、必ず一方が次の日には仲間を連れて復讐《ふくしゆう》にゆく。
そんなことで、次第に両者の争いは大きくなった。たまたま鳶《とび》の頭《かしら》が『きおい組』と同調したので、江戸中の意気のいい若い者は、謂わば白竿組、きおい組などと自分で名乗り出して町方の勢力を二分する有様に迄《まで》なってきた。それで公儀からも両者に対して以後喧嘩を慎しむようにと公平に訓戒があったが、白竿組に属する乾分衆の言動を抑《おさ》えるには長兵衛は確かに「男一匹」ではあるが何といってもまだ若すぎる。そこで長兵衛の後見にと、長兵衛自身が頼んで典膳に来てもらったのである。
典膳の気持が、一見、無頼の徒の用心棒とも見られ兼ねないこういう社会へどうして落ちてゆく気になったのか、典膳の人柄を知るほどの者は総《すべ》て噂《うわさ》を聞いて恠《あや》しんだ、書道家静庵も、紀文も、堀内道場の面々——堀部安兵衛さえ一時はその一人だったという。
が、典膳自身は何事も語らず、白竿長兵衛方に身を托《たく》してからの日々をひっそりと過していった。
そんな典膳の身の回りの世話をやいていたのは娘お三と、辰吉、巳之吉の二人である。
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