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薄桜記18

时间: 2020-08-01    进入日语论坛
核心提示:烏帽子《えぼし》「先生、それはあんまり惨酷《ざんこく》ってもんじゃござんすめえか。何もね、わっちゃお三を奥様にして頂きて
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烏帽子《えぼし》

「——先生、それはあんまり惨酷《ざんこく》ってもんじゃござんすめえか。何もね、わっちゃお三を奥様にして頂きてえと申すんじゃございやせん。そりゃ、お三が何を考えているかぐらいは餓鬼《がき》ん時から一緒に育った兄でござんす。すっかり見えておりやした——だけどねえ、お武家さまにゃお武家のしきたり、義理ってものがござんしょう。おんなじこってす。わっちどもにだって、人の道をふみ間違えるような奴《やつ》はまともな付合いはしちゃもらえませんぜ」
「人の道?」
「先生の方じゃ何とお考えになってるか存じませんが、——今日、突然にお帰んなすったあのあと、普請場《ふしんば》へ一体、誰《だれ》が見えたとお思いでござんす?」
「…………」
「あんなお淋《さび》しそうな、それでいてお美しい奥様がおありなさいやすものを、見なきゃあ兎《と》も角《かく》、この目ではっきりお目にかからして頂きやしたからにゃ、たとえお三が死ぬほど恋いこがれようとわっちゃ、貰《もら》って下せえとは先生に申せるこっちゃござんすめえ?」
「!……」
「それにね、わざわざ、わっち共の働いてるそば迄《まで》お出んなって、ねんごろなお言葉をおかけなすったよ、一同に蕎麦《そば》を振舞って下さり、しかも先生のことぁこれっぽっちも口にゃお出しになれねえで、ただよろしくと皆の前で頭をお下げなさいやした……わっちゃね、世辞や愛想《あいそ》で言われたことばあ百万語聞いたって糞《くそ》くらえって性分の男でござんす。しかし、まごころのこもった一杯《いつぺえ》の蕎麦は肚《はら》の底まで沁《し》みやした……」
「—————」
「何も、よろしくなぞと頭を下げて頂けるすじはねえ、それどころか、わっし共こそ先生にゃ身にあまる御恩をうけて働いているんでござんす、そのあっしが、今日けえったら、差出た口はきくなとお叱《しか》り蒙《こうむ》るなあ覚悟の上で、御事情は存じませんがもう一度、もとの鞘《さや》へおさまって下さるわけにゃあ参らねえものでしょうかと、膝詰《ひざづ》め談判で先生にお願い申すつもりで戻《もど》って参ったんでござんすよ。そしたら何でえ、事もあろうに普請が済んだらお三を嫁に貰《もら》いてえ……こ、これが先生、ハイ貰ってやっておくんなせえと、わっちが申せるとお思いになりやすか!」
「…………」
「——ひでえ先生だ。今日ばかりは言わしておくんなせえ。わっちだって、兄ひとり妹ひとり、人さまの前じゃ程々にあしらっておりやすが、胸ん中じゃ、可愛《かわい》くって仕様がねえんでござんすよ。その妹の心ん中にゃ誰の面影《おもかげ》がやどっているかぐれえは、ね、先生だって御存じの筈《はず》じゃあございませんか。お独り身なら兎も角も、あんないい奥方がおいでなさるのに、な、何故、お三の馬鹿《ばか》野郎にそ、そ、そんな喜ばすような罪な言葉をお吐きになったんでござんす。わっちゃ、それがうらめしい……!」
座敷の外では、夜の雨が蕭条《しようじよう》と軒をたたいている。
男泣きに泣く長兵衛の前に、さすがの典膳も頭を垂れ、寂として声無かった。
やがて長兵衛は水洟《みずばな》をすすると、
「生意気を申上げてごかんべんなすっておくんなせえ。今日ばっかしは、何もかも洗いざらい、思うことはぶちまけてお話しいたしてえんで」
「——わかった。いかにもわたしが悪い。三のことはゆるしてくれ」
「な、何を仰有《おつしや》るんです。……分ってさえ頂きゃもう何ひとつ申上げることはござんせん。なーに、お三の奴《やつ》にしたって、おことばだけでもああいってやって下すったのなら、一時は諦《あき》らめかねて苦しみもいたしましょうが、そのうちにゃ、大事な思い出に、胸にあたためて生きて参るでござんしょう。——そんなことより、今の奥様のお話でござんす。ねえ、御事情を何も存じあげず差出たことを申すようでござんすが、あんなにおやさしい奥様……も一度、お二人で御一緒にお暮しなすっちゃあ——」
「その話はよしてくれぬか」
「?……」
「そちの申すのも尤《もつと》もと思うが、こればかりはわたしの一存で運ぶことでもなし」
「だ、だって奥様の方じゃ、ああしてわざわざ」
「長兵衛」
典膳の沈んだ表情にふときびしい気魄《きはく》がこもった。
「あれのことでその方の指図は受けぬ。——それより、嘉次平の身について頼まれてもらいたいが」
「な、何でござんす?」
「わたしは当分この家を出る」
「何ですって?」
「脇坂家で�杖突き�にわたしを指名いたされたわけもあらまし分った。もうわしが付いておらずとも、まさか普請を中止させるとは申されはすまい」
「で、先生はどちらへお行きなさいますんで」
「さきほどからのそちの申し条を聞いて居るうち、ようやくわたしも自分のゆくべき道が分ったように思う。……今迄《いままで》は、不自由の身になって、色々環境も変え、生き方をあらためようとも致してみたが、結局、つまるところわたしに武士は捨てられそうにはない、とな。三を娶《めと》ろうなどと申す気になったのも言えば士分のおのれに傲《おご》っておった、片輪者という、自分に甘えておったような気がいたす」
「…………」
「何処までこの隻腕《せきわん》ひとつで立ってゆけるか、もう一度武芸をたたき直してみようと思う。わたしのような人間には、どうやら、そういう道以外に真のおのれを生かす生き方はなさそうだ……。と申して世に剣客は数多《あまた》あり、五体満足でも奥旨《おうし》を究《きわ》めるは至難のわざ。まして隻腕の兵法遣いが、どこまで剣聖に伍《ご》してゆけるか……或《ある》いは名もなき野辺に朽ち果ててゆくか……明日の命運は思わず、ひたすら、剣を磨《みが》いてみようと念《おも》うのだ」
「へ、へい……」
「ついては、気がかりなのが嘉次平——、今迄、苦労のかけづめで何ひとつ好い目もさせてやれず」
「わ、分りやした、先生、嘉次平さんのことはどうぞこの長兵衛にお委《まか》せを願います。けっして、わっちの身を粉にしたってお心残りなこたあするもんじゃござんせん」
「では、引受けてくれるな?」
「へい」
「忝《かたじけな》い。これでもう思いのこすこともなくなった」
何日ぶりの微笑だろう。典膳は、心から晴々と笑って、
「明日も雨かな?……やんでくれるとよいが」

翌朝。典膳は飄然《ひようぜん》と白竿長兵衛の住居を出た。それきりそして数年間、その行方を絶ったのである。
典膳が家を出るとき、あらかじめ、長兵衛は念をおされていたので家人の誰《だれ》にも事情は打明けずに何気なく玄関へ送り出した。長兵衛がそんなふうだったから、他《ほか》の者も、まさかこれきり典膳が帰って来ないとは知る筈《はず》がない。ふらりと散歩にでも出たのだろうと、伝右衛門夫婦などは普請場への身支度をしている若い者共を督励していて、典膳を送り出しもしなかったという。
嘉次平とて、同様である。
「気をつけておいでなさりませ」
常のように腰をかがめて土間から見送った。お三は、何も知らずに朝起きぬけから髪結いさんへ出掛けていた。多分、典膳が起き出す迄に綺麗《きれい》になっていたかったのだろう。
長兵衛だけが、身内の者に気づかれぬように努めながら目をうるませていた。そのふところには、形見に残された総角《あげまき》の紋の付いた印籠《いんろう》と、「白竿家の家宝になろう——」そう言って贈られた硯石《すずりいし》が温《ぬく》められていた。書道家静庵が愛用していて典膳に贈った、あの端渓《たんけい》のすずりである。
歳月は容赦なく過ぎる——
堀内道場でも、紀伊国屋でも、上杉家の千坂兵部の身辺には無論およそ丹下典膳の姿を、江戸近辺で見掛けた者は誰ひとりない儘《まま》に元禄十四年三月十九日になった。江戸中が騒擾《そうじよう》した。例の松の廊下で、浅野|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》が吉良上野介《きらこうずけのすけ》に刃傷《にんじよう》に及んだ事件がおこったのである。
——ここで、内匠頭と吉良上野介についてはもう、大概の人が知っていると思うので詳しいことは書かないでおく。——併《しか》し、事件の真相は、案外一般には知れていないようなので、その方を少し書き込んでみる。
一体、こういう出来事がおこったのは、一般に吉良上野介が強欲非道の悪人で、それにひきかえ内匠頭長矩は潔白な英君であり、吉良に賄賂《わいろ》をつかわなかったのを、肚《はら》にすえかねて上野介が、何かと意地の悪いことをした、そのため長矩も遂《つい》に堪忍《かんにん》がなり兼ねて、刃傷に及んだと大方には思われている。——併し事実は大分違うようである。
浅野内匠頭長矩がまだ十七歳だった天和三年三月の『徳川御実記』を見ると、三月二十五日の項に「この日|公卿《くげ》参向により、高家《こうけ》、吉良上野介|義央指添《よしなかさしぞい》となり、勅使応対の役を浅野内匠頭長矩へおおせつけられ、この儀とどこおりなく行わる」
と書かれている。もう少し詳しくいうと、勅使・花山院右大将定誠|卿《きよう》の応対役が内匠頭で、本院使|鷲尾《わしのお》中納言には土方《ひじかた》市正、新院使応対は青木|甲斐守《かいのかみ》重正が夫々《それぞれ》つとめた。
すなわち内匠頭長矩は、十七歳にしてすでに勅使院使|饗応《きようおう》の儀式次第には一応体験があったので、元禄十四年はじめて勅使応対役を仰せつけられ、儀式のことに慣れず吉良の教示を仰いだのに、吉良が意地悪く教えなかったから激怒の余り刃傷に及んだというのは、嘘《うそ》である。

そもそも公卿が勅使として江戸に下るのは、将軍宣下、官位の昇進など特別の場合を除いては毎年、年頭に勅使のつかわされるのが定例で、幕府年中行事の一つだった。
内匠頭長矩が十七歳で天和三年につとめたのもその御馳走《ごちそう》役なら、元禄十四年のこの時も同じ年頭の勅使に対する御馳走役である。少しも変るところがない。役目に馴《な》れないというなら、天和三年の時こそそうであって、元禄のは二度目だから理にあわぬわけだ。
巷間《こうかん》つたえるように、吉良上野介が強欲な人物であったのなら、すでに最初の指添役をしてもらった時に分っている筈《はず》で、まだ十七歳の若者ゆえ内匠頭は気づかなかったにしろ、お付きの家臣がこの点に思いいたらなかったのはどうかと思う。
一体、赤穂の浅野家は、表向き五万三千石の小大名ではあるが、他に塩田が五千石ほどあり、広島の本家から金子の融通も受けて、風俗の奢侈《しやし》にながれた元禄時代にはめずらしく倹約の家風もあり、小身ながら、なかなか裕福な大名だった。内匠頭長矩は、わずか九歳で父の遺領を継いでそんな藩の主君になった。苦労というものも知らずに、周囲から甘やかされ、節倹の家風だけを政務と心得て成人したのである。節約家といえば聞こえはいいが、実は評判のケチンボだった。
一方、高家というのは、幕府の式部官のようなもので、勅使などの参向に当っては御馳走役の大名がいろいろと打合わせたり、指図をうける、世話をかけるというので大概は馬代金一枚、金一枚ずつ付け届けするのが例になっていた。この付け届けは賄賂でも何でもない、金高も些少《さしよう》なもので、世話をうけるお礼として挨拶《あいさつ》代りに持って行ったものなのである。
しかるに長矩は、『秋の田面《たのも》』という本によると、
「惣《そう》じて御馳走御用仰せつけられ候大名は、いずれも世話焼として上野介方へ馬代金一枚|宛《ずつ》、早速つけとどけ致し候《そうろう》こと、並の格と相成り候ところ、浅野内匠頭、そのうまれつき至極|吝嗇《りんしよく》つよくして人の云《い》う事を少しも聞き入れず、江戸家老藤井(又左衛門)安井(彦右衛門)の両人を呼出し、申され候には、これまで世話焼の吉良へ金一枚つかわし候|由《よし》なれども、それは無用なり。御用の相済みたる上|祝儀《しゆうぎ》がわりに差出すがよろしく、先に持参には及ばずと申され候。家老両名、かねて主人の心底、かように金銭出しぎたなき事を存じ居り候間、いかにも左様にあそばされて然《しか》るべく候と答え候由」
と書かれている。
相役の伊達左京亮《だてさきようのすけ》の方は世間なみに挨拶付け届けをしているから、吉良の扱いが人情としても自然と浅野と伊達では異った。それを内匠頭は立腹したので、殿中刃傷の騒動は内匠頭の根性の小ささから起ったことだ——あらかたそんな風に『秋の田面』の作者は言っている。
これが至極公平な見方だったという証拠は他《ほか》にもまだ二三ある……

確かな史料によると、内匠頭が馳走役を申付けられた時に、「近頃何事も華美になってゆく、公家の供応役の如《ごと》きも費用がかさむようで、それが前例になっては相成らぬから此《こ》の度は前年より余り高くならぬよう、質素につとめるように致すぞ」と家老の藤井又左衛門に洩《も》らした。
長矩は十七年前のことを考えてみると、天和三年の折には四百両かかっている。それから元禄十年に勤めた伊東出雲守に費用を聞き合わせると千二百両つかったという。
そこで、その中をとって、七百両ぐらいに見積ればいいだろうと考え、高家の月番の畠山民部《はたけやまみんぶ》大輔《だゆう》に自分で拵《こしら》えた予算を見せて打合わせをしたそうである。
畠山はこれを聞いて肝煎役《きもいりやく》の吉良上野介に相談に及んだ。吉良は反対した。
「勅使供応役は大名一代に一度か二度のものである。されば倹約するには及ぶまい、前年、前々年の例もあれば当年のみ格別に質素にいたすすじは立たぬ」というのである。
これは、どうやら吉良の言い分が正しかった。そもそも天和三年と元禄十四年では貨幣価値が違う。天和三年の四百両は元禄時にはほぼ八百両に相当するので、それを七百両であげるとなると、前の四百両より粗末なものになるわけだ。吉良がふんがいしたのも当然である。
もともと吉良は四千五百石の身上ではあるが、当時徳川の本家の家筋に当るというので大名扱いをされていた。足利《あしかが》将軍に代るべきは駿州《すんしゆう》の今川か、今川に人が無ければ吉良から継ぐ、と言われた程の家柄《いえがら》である。家格として赤穂浅野家より上であるのに、その吉良に相談もなく、当時の相場にあわぬ予算をきめたのだから、それなら一切、何もかも浅野家が独自に取計らえばよろしかろうと言い出したのも当然の話であって、しかも、あくまで内匠頭は七百両で仕切ろうとする。吉良の指添えするところと全《すべ》てに行違いが生じたのは当然で、何も故意に内匠頭へ間違って指図したわけではないのである。
且《か》つ、勅使たる公卿方では前年、前々年の例を知ってそのつもりでいるから、いよいよ事が行違った。そこで遂に内匠頭は癇癪《かんしやく》をおこして吉良へ斬《き》りつけた。もとは饗応費用の節倹から生じたことである。内匠頭長矩という人は、それほど物のけじめもつかぬお坊ちゃん育ちの短慮で、ケチンボな殿様だった……と、小宮山南梁《こみやまなんりよう》なども言っている。
事実、国許赤穂の仕置家老として、大石内蔵助より上席にあった大野九郎兵衛が、赤穂城明渡しの時に分配金のことで醜く言い争った話は一般に知られているが、そういう算盤《そろばん》ずくの打算にたけた家老を珍重して重用するほど、内匠頭自身が暗君だったと評されても仕方があるまい。けっして、内匠頭が英君でなかった事実は他にもある——

刃傷の一件ののち、赤穂浅野家が取潰《とりつぶ》しになった時に領民はひどく喜んでお祝いをした伝説が播州にある。義士討入りを土地の誇りと心得ている筈の今の我々には意外な話だが、『閑田次筆』によれば、大野九郎兵衛が仕置家老として政務を執り、常々|苛酷《かこく》な取立てをして領民を苦しめていたので、浅野家が潰れるのを「悪政がやんだぞ」と言って、大喜びで餅《もち》をついて祝ったというのだ。
当時、諸大名は各藩とも手許《てもと》は大方が火の車だった、そういう時に浅野家では二万両のお納戸金があった。それほど裕福な大名なればこそ長矩は二度も勅使供応の馳走役を仰せつけられたのである。いかに仕置家老大野を重用して苛政を布《し》いていたかが分るし、藩主自身が、そんな算盤ずくに心を寄せていたから刃傷に及ぶ癇癪もおこしたわけだ。
しかも、場所柄をわきまえず、おのが吝嗇《りんしよく》のために騒ぎをおこしながら、武人としても不覚者であるという嘲蔑《ちようべつ》を長矩は受けている。
吉良上野介に向って内匠頭が斬りつけたのは二太刀である。本当に嗜《たしな》みのある武士なら、殿中の小《ちい》さ刀で切りつけたのでは死命を制し得ぬくらいは心得ている。当然、突くべきである。
貞享《じようきよう》元年八月二十八日に、大老の堀田筑前守正俊を若年寄の稲葉|石見守《いわみのかみ》が殺した。これは御用部屋の刃傷で、大老の正俊は一番上座にいて、将軍出座の触れに立とうとするところへ稲葉が来た。稲葉は若年寄だから別の部屋にいたのである。それが、いんぎんに礼をして、
「御用のすじがござりまする」
と言った。
「何じゃ」
正俊は立ちかけた膝《ひざ》を下へつける。それを合図に稲葉は小刀を抜いて、左の脇腹《わきばら》を突きえぐった。ただ一刀に殺したので、正俊は、
「石見乱心」
と一声言っただけで死んでいる。まことに手際《てぎわ》があざやかで、これは長矩の刃傷に十六年前である。
又、天明四年の三月二十四日に、新御番の佐藤善左衛門が若年寄田沼|意知《おきとも》を桔梗《ききよう》の間で切るときは、あらかじめ二尺三寸五分の吉広の刀を脇差《わきざし》に拵《こしら》え直し、初太刀を肩先に切りつけたが、返す刀では腹を突いた。実は腹と見えたのが力余って突けず、両股《りようもも》かけて三寸五六分切った、その出血が多かったため屋敷へ帰って死んだのである。
いずれにしても、小脇差を使うなら、突くことを第一とするのは謂《い》わば武芸心得の初歩である。かりにも殿中で刃傷するからには、命を捨て、家来を捨て、家は断絶の覚悟で意趣をはらすのに、初太刀は吉良の烏帽子《えぼし》に引っかかって斬れず、二太刀をわずかに吉良の肩先へ斬りつけた程度というのは、余程、情け無い殿様だった。
この時の内匠頭を抱きとめたといって梶川与惣兵衛《かじかわよそべえ》が武士の情けを知らぬと非難されているが、二太刀も斬りつけて満足に人を刺せぬ長矩と見ては、抱きついて制するのが当然だろう。場所は然《しか》も殿中、式日登城の時——人の多い時である。稲葉の折は、若年寄の堀田|対馬守《つしまのかみ》が抱きとめた。ただ稲葉の業《わざ》が出来ていたから、正俊を存分に斬らしてから抱いたと人は言うのである。手順は同じだ。長矩の未熟さを言わず、梶川のみを非難するにはあたらない。

刃傷のあと、上野介は品川豊前守に付添われて高家衆詰所へ引きさがると、其の場で医師の手当を受けた。それから大目付より意趣をただされたが、更に身に覚えのないことを言ったので、とりあえず乗物を駆って平川門より帰宅を許された。
内匠頭長矩の方は、梶川与惣兵衛に抱きとめられた儘なのを、目付役天野伝四郎、曾根《そね》五郎兵衛が受取り、『蘇鉄《そてつ》の間』杉戸の内に入れて乱心を詰《なじ》った。ついで長矩の身柄は田村右京大夫方へ預けられることになり、
「事は白木書院廊下にての騒擾《そうじよう》なれば、公卿の拝謁《はいえつ》は黒木書院にて滞りなく行われ、目付役鈴木源五右衛門、曾根五郎兵衛をば伝奏邸につかわされて長矩が家人の騒擾をしずめらる。長矩が宅には目付多門伝八郎、近藤兵八郎つかわされ、義央(吉良上野介)が宅にも高家品川豊前守をつかわさる。
この夜大目付庄田|下総守《しもうさのかみ》、目付大久保権左衛門を右京大夫が宅につかわされ、長矩に死をたもう。時所もわきまえず、ひが挙動せりとてなり。また義央は罪なきによって、刀疵《かたなきず》治療すべしとの御旨《おんむね》をつたう」
と『御実記』にあるような順序を経て、長矩は即日切腹を仰せつけられた。別に幕府の御|徒《かち》方の日記によれば、
「三月十九日。御座の間に於《お》ける梶川与惣兵衛この度《たび》の仕方よろしきに付、五百石御加増」
とある。一般の意見も吉良はお構いなく、長矩に切腹を命じた処置を妥当と見ていたようだった。むしろ江戸の町々には、長矩に武士の心得のないのを嘲笑して、
「初手《しよて》は突き二度目はなどか切らざらん石見《いわみ》がえぐる穴を見ながら」
と言った落首《らくしゆ》が飛んでいる。こうして見ても、当時、内匠頭長矩はけっして名君とは見られていなかった。内匠頭を今日的な英主に仕立てたのは、結局大石良雄以下四十六士の忠誠のたまものだったことが分る。
田村邸での切腹当夜の模様は、浅野家で編纂《へんさん》された『冷光君御伝記』(長矩の伝記)に書きのこされ、これは田村右京大夫に仕えていた者が、後日浅野家に様子を聞かれて答えたのを書きとめたものだが、それに由《よ》ると、内匠頭は田村邸に預けられた時にはもう落着いていて、
「自分は全体に不肖の生れつきで、その上持病の痞気《ひき》があり、物事とりしずめ候事まかりならず、それ故《ゆえ》今日も殿中を弁《わきま》えず不調法の仕形かくの如し。いずれものお世話に罷《まか》りなり候。さりながら相手方は存分に仕負わせ、せめてもの儀に候」
と言い、
「差構《さしかま》いなくば酒を所望いたし度《た》い」
と頼んだ。痞気というのは、シャクなどのため胸がふさがり、腹のうちにカタマリの如きものある病いという。
田村家の方では、
「御大法に触れ候間、酒は差上げ申すまじく」
と答えた。
「しかれば煙草《たばこ》は?」
と所望すると、これも右同前で差上げかねるという。そこで茶を乞《こ》うて喫したが、この時の長矩は足袋を脱いでいたそうだ。
そのうち、申《さる》の下刻(午後五時)になっていよいよ切腹がはじまった。

切腹の座には検使の庄田下総守以下、御目付二人、歩行目付四人、御小人目付六人、それに介錯人《かいしやくにん》の磯田武《いそだぶ》太夫《だゆう》が控えた。
長矩は白|小袖《こそで》に熨斗目《のしめ》麻|上下《かみしも》で、切腹仰せつけられし上意の趣き、かしこまって候《そうろう》と答えると、徐《おもむ》ろに切腹の座につく。書院の庭に畳三畳を敷き、その上に布団《ふとん》を敷いただけの急場の切腹場である。のちにこの切腹の座が問題となったが、ともかく、其処《そこ》で奉書紙に巻き水引で結んだ脇差《わきざし》を把《と》って、容《かたち》をあらためると、田村右京大夫に向い、
「上野介はいかが仕《つかまつ》りしか?」
と問うた。
右京大夫はとっさに、「当座に相果てなされ候|由《よし》うけたまわってござるぞ」と返答する。
長矩はこれを聞くや満足げに肩衣を取り、押え肌《はだ》を脱いで、左のひばらへ短刀を突立て、右へ引回して、
「介錯頼む」
と声をかけた。介錯人磯田武太夫は立所《たちどころ》に太刀をふるったがこれが仕損じた。為に長矩の首は、耳の脇に疵《きず》が残ったそうである。
田村家から早速使者を以《もつ》て浅野大学(長矩の舎弟)へ死体を即時引取りに参られ度《た》しと申し遣った。浅野家では用人|粕谷《かすや》勘左衛門、片岡源五右衛門らが田村邸へ暮れ時に着いて、田村家の家来立会いの上で切腹の広庭へ案内された。
其処には屏風《びようぶ》を立回し、侍多数が付き纏《まと》っていて、死体の左肩先に首が据《す》えてあった。これを受取って棺に納め、亡君の大紋、大小、刃傷の時の脇差、それに鼻紙、足袋、扇子などを棺に入れると、乗物にのせて一同泉岳寺に供して仮葬したのである。戒名を冷光院殿吹毛玄利大居士という。
——以上が長矩切腹の場の正確な記録である。ところで問題になった切腹の座だが、後日、伊達|陸奥守《むつのかみ》綱村——田村右京大夫には宗家に当る——から老臣を使者として、
「右京大夫は内匠頭の身柄《みがら》お預りの上意はうけたが切腹の事まで沙汰《さた》されていたわけではあるまい、それを公儀へ一言の問合わせもなく切腹させたは軽率の至りである。且《か》つ上野介存命のことなれば、旁《かたがた》以て叶《かな》わざる迄《まで》も一応、内匠頭助命の儀を願い出てこそ武士であろうに、これを申さざること残念の至り」
と言い、
「そもそも内匠頭ことは一国一城の主なり、目付の指図なりと雖《いえど》も平士同然に庭上にて切腹致させ候儀、武士道の本意に非ず、親族の皆まで面目を失い候事、甚《はなは》だ浅間しき次第なり」
と叱《しか》りつけた。一城主の長矩であれば座敷内で当然切腹させるべきである。それを平士同然に庭上でさせたのは武士道を心得ぬ仕儀と叱りつけたのである。このことは、後に幕府内でも問題になり、検使庄田下総守の落度ということで、下総守は大目付役を罷免《ひめん》されたが、もし内匠頭が大名らしく面目を保って切腹出来ていたら、赤穂浪士の悲憤はああ迄|熾烈《しれつ》にはならなかったろう。従来、とかくこのことは見落されがちだが、『亡君のうらみ』と四十六士に言わせた根本のものは実に、主君の死に際を辱《はずか》しめられたこの点にあった。
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