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薄桜記19

时间: 2020-08-01    进入日语论坛
核心提示:色里さて主君長矩の刃傷の一件によって、領地を召上げられ、同苗大学は閉門を仰せつけられた処分の次第は、同日|申《さる》の下
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色里

さて主君長矩の刃傷の一件によって、領地を召上げられ、同苗大学は閉門を仰せつけられた処分の次第は、同日|申《さる》の下刻直ちに赤穂表へ急使(早水藤左衛門《はやみとうざえもん》、萱野《かやの》三平)を以て注進された。それからの、大評定——大石内蔵助を中心とした籠城《ろうじよう》説や、城明渡しを機に盟約を結んでゆく藩士一同の挙動はここでは割愛するが、ただ、盟主となった大石良雄の人となりと、当時藩士一同が主君長矩をどう見ていたかは、彼|等《ら》の義挙を説明づける上でも一応、ふれておかねばならない。
——前《さき》に、内匠頭長矩は明君ではなかったと書いたが、赤穂四十六士の中でも長矩に対してそう心服している人は尠《すくな》かったので、これは、小野寺十内ほどの穏健な人物が妻へ宛《あ》てた手紙を見ても、
「今の内匠どのにかくべつ御なさけにはあずからず候えども、代々の御主人くるめて百年の報恩……かような時にうろつきては家のきず、一門のつらよごしも面目なく候ゆえ、節にいたらば、こころよく死ぬべしと思いきわめ申し候」
と書いている。心服した主君のためにというよりは、武士の道としてかかる場合は死なねばならぬというのである。大高源吾も母に当てて似た手紙を書いている。
又、かんしゃく持ちであった点については、後年、舎弟の浅野大学が旗本に取立てられた時に、兄は実に短気で怒りっぽい人だったと朋輩に洩《も》らしているし、不破数右衛門の実父佐倉新助が数右衛門に当てた書面を見ると、
「家中の役人共は、殿様の御機嫌《ごきげん》を損ずることをおそれて、金をつかわねばならない場合でも倹約ばかり致しているので、お家の評判が悪くなる一方であった。去年の大変もつまりは殿様の吝嗇《りんしよく》に原因があった」
と、はっきり書いている。心から心服していた亡君の怨《うらみ》を報ずるためなら誰《だれ》でも艱難《かんなん》辛苦するだろう。そういう、所謂《いわゆる》≪|復讐《ふくしゆう》≫でなかったところに彼等の本当の偉さはあったので、赤穂義士の立派さは、『忠臣蔵』などが喧伝《けんでん》しているのとは大分性質の異ったものだった、ということを今の吾人《ごじん》はもう冷静に見究めていいのではないかと思う。
誰だって、追慕してやまぬ明君の怨を報ずるなら人情としても参加出来ることである。併《しか》し主君の方が明らかに吉良上野介に較《くら》べて落度があった。人間的にも欠陥が多かった——と知悉《ちしつ》しながら、猶《なお》、臣たるものの道に殉じていった一同と、一同を統率した大石良雄の人間的|懊悩《おうのう》やその器量の大きさは、どれほど強調してもしすぎることはあるまいと思う。大石は山科《やましな》閑居のつれづれに廓《くるわ》通いをした。人はそれを吉良の付け人の目を欺《あざむ》くためだったと簡単に割切っているが、果してそうだったか?

大石良雄が昼行燈《ひるあんどん》と綽名《あだな》された家老だったとは有名な巷説《こうせつ》だが、或《あ》る程度、正鵠《せいこく》をえているように思われる。
大田|蜀山人《しよくさんじん》の『半日閑話』によると、大石の風采《ふうさい》は甚だあがらず、梅干爺《うめぼしじじい》のようであったと書かれているし、後に吉良邸討入りをして本望|成就《じようじゆ》をとげ、細川家に身柄《みがら》お預けの仮処分をうけている時に、接待役をした細川藩士堀内伝右衛門の『覚書』によると、
「大石内蔵助は総体に小さな声で物を言う人であった。大変な寒がり屋さんで、夜分ねる時には茶ちりめんのくくり頭巾《ずきん》をかぶり、火燵《こたつ》ぶとんを引っかついで寝ておられた。昼間も用のない折は、大方は大きな火鉢《ひばち》に錠をおろし、|べんがら縞《ヽヽヽヽじま》の布団をかけて炬燵《こたつ》がわりにしてあるのへ、終日もぐり込んでおられた。又、細川邸へ預けられた翌朝、髪を結わせられたは内蔵助どの一人であった」
と書かれている。いつ首を刎《は》ねられるかも知れぬ、そんな武士のたしなみとしてなら、大石ほどの人物だから他の面々にも髪を結っておくようにと促したに相違ないが、他の義士(細川家へ預けられた他の十六人)は、いずれも前晩討入った時のさんばら髪の儘《まま》だったので、接待役の伝右衛門の方から、「各々《おのおの》方も大石殿のように髪を結いなされたらいかがじゃ? 常に結わせつけぬ者に髪をさわらすは心地が悪うもござろうが、その儘よりは見栄えが致す」とすすめたので、ぼつぼつ一同も結いはじめたという。断るまでもないが、討入り当夜、老人の堀部弥兵衛らと門を堅《かた》めていて、最も奮戦していないのが内蔵助その人である。さんばら髪になるどころではない。その内蔵助が、亡君の仇《あだ》を報ずると簡単には言っても兎《と》に角《かく》、あれだけの大事を成し遂げて、翌朝にはもう髪を結って澄ましていた——そういうダンディズムが、大石にはあった。
また内蔵助の嫡男《ちやくなん》主税《ちから》は、原|惣《そう》右衛門《えもん》が堀部安兵衛に送った書中にも、
「主税どの当年十五歳にて候得共、年《よ》わいよりは|ひね《ヽヽ》申し候。今春前髪とられ候て、器量良く云々《うんぬん》」
とあり、討入り後の義士を身柄お預けときまって駕籠《かご》で藩邸へ舁《か》き運んだ人足の話に、
「四十六人の衆は人柄、男振りまでそろいて大男にて、なかんずく大石主税どのと申候は、若年にて御座候えども大男大力にて」
実に重かったと洩らしているが、その主税が述懐するところでは、山科閑居の頃《ころ》、父の内蔵助が或る日主税に向って、
「自分はもう四十余歳、世の中のことも一通りやらぬものはないが、お前は僅《わず》か十五歳で浮世の歓楽というものを知らぬ。間もなく日頃の本意を達する時にもなろうから、余命は何程もない、江戸へ下向する前に存分な遊興をいたしておくがいいだろう」
そう言って、陰間《かげま》(男色を売る少年)を買わせたという。
僅か十五歳で大男なら、当然、性的に熟していたろう。父とすれば日常見るにたえぬこともあったろうが、大望を控えて、然《しか》もあっさり歓楽をすすめる程、大石という人は従来の忠臣義士の範疇《はんちゆう》からはずれていたのである。
このことは大石自身の遊蕩《ゆうとう》ぶりを見ても分る。

一体に、山科に移り住んでからの内蔵助が遊蕩にふけったのが吉良の間者や密偵《みつてい》の目を欺くためだったのなら、吉良方や上杉家の記録にそういうものがあってよい筈《はず》だが、事実は何もない。横目《よこめ》や隠密がだんだんに入り込んで来ていると堀部安兵衛が大石良雄へ送った書面に書いているのは、赤穂の城明渡し前後のことである。その後には、隠し目付、隠密などということは一つも書かれていない。四十六士の書面のどれにも書かれていないのみならず、吉良方の書類を見ても、密偵を放ったという形跡は認められない。
上杉家はどうかというと、これもそういう形跡はない。ただ、山科へ行ったという猿橋《さるばし》八右衛門が一人ある。猿橋は確かに米沢上杉家の家来で、与板組《よいたぐみ》に属して京都にいた。併しそれは内蔵助らの動静をさぐるために上京したのでなく、元禄十三年から往《い》っていたので、もともと猿橋は与板組でも、金剛流の能役者である。それが習い事の伝授のために京の家元へ三年詰めていたのである。その間が恰《あたか》も大石の山科閑居の時だった。又、当時の伏見奉行の建部内匠頭が吉良とは遠い姻戚《いんせき》関係にあるので、内蔵助の動静を内通したと『江赤見聞記』にはあるが、そもそも『江赤見聞記』なるものが、内容の甚だ怪しい書物である。
だいたい、山科の大石の身辺に密偵を出すほど吉良方で赤穂浪士を怖《おそ》れるなら、討入り当時(既に大石は江戸へ下ったと当然判明しているのに)仮普請《かりぶしん》中の吉良邸で上野介が安閑と茶の湯の会など催していられる筈がない。相手の身辺にたえず目を注いでいたのは吉良方ではなく寧《むし》ろ義士たちの方で、四十六士の一人富森助右衛門が本望成就のあとで細川藩士に語ったことばに、
「それがしは吉良屋敷へ毎夜交替で様子を窺《うかが》いに参っており申したが、惣体《そうたい》、吉良邸は普請中にて、平長屋、竹腰板の壁にて、それも中塗りゆえ内部が透いて見え、槍《やり》などの柄《え》は短く致した方がよかろうと定めたのも、内部の見えたおかげでござった。又、長屋の妻子の寝ておる有様も一目|瞭然《りようぜん》にて、夫婦の夜|なべ《ヽヽ》致しておるが見え申したのには些《いささ》か赤面つかまつってござる」
と笑い話にしている。夜中に、外から邸内の閨事《けいじ》が見えるほど隙《すき》のあった邸《やしき》に上野介は住んでいたわけだ。赤穂浪士の復讐を恐れ、大石の身辺に密偵を出すほど要慎《ようじん》深い老人だったのなら、一日と我慢の出来ぬ住居である。
こういえば、或いは人は大石の放蕩ぶりに吉良方は欺かれたというかも知れぬ。併し、赤穂浪士が上野介の首級を挙げようと策動していることは当時、多くの人は知っていた。義士たちの間で秘密は案外まもられていなかったのである。従って上杉家から上野介の身辺に警固の付け人を出していたのも事実である。それでも上野介自身は、平気で市中を出歩き茶会にも出れば、俳人とも往来していた。
これはどういうことか?
要するに吉良上野介は、低俗な芝居で描かれるような臆病者《おくびようもの》ではなかったので、だから殊更《ことさら》大石の動静をさぐる必要も認めなかった。
結局、内蔵助の遊蕩は、ダンディな彼自身の意図から出た行為であったわけになる。
このことは、彼の遊びぶりを見ても分る——

内蔵助の遊んだのは、
「由良さん|こち《ヽヽ》へ、手の鳴る方へ」
のだだら遊びなどで、多く祇園《ぎおん》の『一力』——万亭《よろずてい》で行われたように『仮名手本忠臣蔵』などは書いているが、元禄十六年版の『立身大福帳』を見ると、祇園は歌舞伎《かぶき》役者や白人《はくじん》を揚げる場末の色里で、大尽粋客の遊ぶ所ではなかった。西鶴の『好色一代男』『好色一代女』を見ても此処の遊廓《ゆうかく》の下卑ていたことは分るのである。当時島原は大坂の新町、江戸吉原と並んで天下三遊場所の一だった。大石は此処の一文字屋の浮橋という女を揚げて遊んだ。それより多く遊んだのは伏見|撞木《しゆもく》町である。
ところで撞木町へ通う人を当時白魚大臣と言った。この撞木町という所には、いい遊女は居なかった。太夫だの天神だのという上等の遊女は居ない。鹿恋《かこい》といって、十八|匁《もんめ》の女、それも半夜といって売り分けだから、一晩九匁である。もっと悪い一匁とか、五分とか言う女もいた。悪い方はあるが、いい方は無い。京の大仏前から駕篭《かご》に乗って、撞木町まで来るのに駕籠賃が五匁二分かかる。九匁の女を買うのに、五匁二分の駕籠賃がかかる。駕籠が高い。白魚の竹籃《かご》と同じようだというので、撞木町へ通う大臣のことを「白魚大臣」といった。
伏見は夜船の出るところで、ちょっと賑《にぎ》わしいし、四季折々の眺《なが》めもあり、新町や島原で遊ぶのとは又違った趣きがある。そのうえ女が安いので入用が尠《すくな》い。京都で遣い過した大臣や中以下の者の遊び場にまことに好都合というので元禄七年頃からなかなか繁昌《はんじよう》した遊里である。しかし内蔵助は、大臣とは言えない。大臣というのは、廓《くるわ》の一番いい遊女を買う、太夫を買うものが大臣である。然るに内蔵助はけっして太夫を買わなかった。
ではどうしたかと言うと、もっときわどい放蕩をしている。
二度目の江戸下りで、然ももう討入りの差迫っていた元禄十五年の十月下旬に、赤坂裏伝馬町の比丘尼《びくに》——十八になる山城屋一学という女に通ったそうだ。当時の江戸に比丘尼で名高い町が七八カ所あった中で、赤坂が一番繁昌していたといわれるが、比丘尼というのは、最初は地獄の絵図を持ち歩き悲しい声で物語りをした。それが万治頃から哀れっぽい声を悪用して、歌などうたうようになり、遂《つい》に売淫《ばいいん》に陥ったのである。内蔵助はそんな丸太——坊主《ぼうず》頭の遊女を買っている。
気の小さい人なら、この解釈の仕様に困って殊更な理由を付会したいのだろうが、今の我々はもう、彼の忠臣ぶりを強調するそうした脚色を持つ必要はあるまい、と思う。討入りの翌朝に、髪を結わせていた人物、寒がり屋で終日こたつにもぐっていた人物——そういうダンディ内蔵助が、どれぐらい大きな事を仕了《しおお》せたかは、赤穂城明渡しから討入りまでの行動をつぶさに見れば分明するのだから。

話は前後するが、赤穂浪士が見事本望を遂げた時、細川、毛利、久松家などに分れて身柄を預けられ、ついに切腹を命じられたが、其の時大石主税、堀部安兵衛ら十人の切腹した久松家の記録を見ると、切腹のために支度した品々として白紋付|上下《かみしも》十人分、小袖、小貼(これは切先五分出し、あとは残らず観世よりにて巻いてあった)、乗物、水桶《みずおけ》多数などと共に、扇子が十本用意されている。
何のためかというと、満足に切腹出来ぬ者のため、刀の代りに扇子を把《と》って腹へ突立てる真似《まね》をしたところを、うしろから介錯人が首を打つ手筈《てはず》だったからである。その介錯人が又、軽侍分の中でも剣術を好む者をえらばれたというのに、目付衆から古例の介錯の仕方、首実検の方法を学ばねばならなかったという。『波賀清太夫覚書』なるものを見ると、
「主税どの介錯は誰殿にて候、其次よりは其一番を見て、其通り御勤めコレあるべしと也《なり》」
と書かれている。万事がこの通りである。切腹する方も介錯人も満足に所式を知らなかった。元禄とはそんな時代であった。
もっとも、切腹の古例を知らぬのは知る機会がなかったからで、死を怖れたことにはならないし、同覚書「当日の模様」にも、
「いずれも落着きたる体、見事に見え申候。わけて堀部安兵衛に主税、次の座にて始終口上等これあり、昼夜世上の噂《うわさ》ばなしの節の顔色に少しも替ることなし、仕成《しな》し一入《ひとしお》見事や。
同日早天より水風呂《みずぶろ》申し付、朝料理すむといずれも早速入湯して髪を結せ、和やかに薄茶せんじ、茶|煙草《たばこ》など呑《の》みながら時を移す」
と書かれている。さて切腹の時になって、一番が大石主税。介錯人は徒《かち》目付たる右の『覚書』の波賀清太夫その人である。
切腹の場は愛宕《あたご》下の久松邸内大書院の庭で、花色無地の幕をめぐらして庭を囲い、切腹の座には先ず莚《むしろ》を敷いて、上に畳二枚、その上に浅黄木綿の綿入の大布団一宛を敷き、脇の方には血隠しの砂桶が用意してあった。義士の一人一人が、主税、堀部安兵衛の順に、案内役の同道で一たん玄関を出て、切腹の庭へ臨むのである。
検使が二人、大書院の縁側に着坐して待ち、徒目付以下はのこらず板縁にうすべりを敷いた上に着坐、小人目付、使衆は庭の片側に同じうすべりを敷いて着坐していたそうだ。
主税は十六歳、義士中の最年少者だが、
「大石主税殿、御出候え」
と呼ばれると、
「かしこまった」
とこたえ、座を立った。この時安兵衛が、
「某《それがし》も只今《ただいま》あとより参りますれば、何卒《なにとぞ》」
と、わざわざ主税へ声をかけた。主税は、にっこりと微笑したそうだが、安兵衛についで豪気忠臣の士であった大高源吾が、
「忠烈の主税なれども、いまだ年若き事ゆえ、切腹にのぞみ未練の事ども之《これ》あるべきや?」
と心痛の面持《おももち》で見送ったという。
見方によっては、これほど主税にとって侮辱はない筈だが、若い主税を案じる美談めいた形でこういう話が残っているのは、如何《いか》に我々の知る『武士道』なるものから、彼等が離れて生きていたかの証左である。
さて主税は安兵衛ら同志と別れると玄関を出た。

玄関から切腹の場へは、通り道に同じ薄縁《うすべり》を敷いてあったそうだ。
主税は庭へ出ると、切腹の布団の上で検使方へ向って坐《ざ》し、介錯人の波賀清太夫に目礼すると、日夜顔見知りだからその目が笑った。清太夫も応じて目礼を返す。
そこへ小刀の役人が三方《さんぽう》を持ち出して、前に置く。小刀と扇子が並べられた三方である。
主税は押肌をぬぐと、小脇差の方を取上げた、と見るや背後からもう、清太夫は首を打った。
刀は腹に刺さっていないのである。介錯した当の清太夫がこれは語っていることである。観世より迄巻いた脇差——扇子とどれだけ違うのか。
介錯の仕方には、いつ首を打たねばならぬという作法はない。——普通、身分の低い者が身分ある人の首を打つ時には太刀を八双に上げて構え、朋輩なら中段、相手の身分の低い時は切先を下げた儘《まま》で打つ。それが古例である。又打つ時機は、被介錯人が三方の刀を引寄せようと頸《くび》ののびた刹那《せつな》を打つ時もあり、小脇差を手に把って、片手で腹を撫《な》ぜ、体《たい》の極《きま》った瞬間を打つ時もあり、十分に刀を切りまわさせてから打つ場合もある。すべては介錯人の判断にゆだねられる。
清太夫は、その『覚書』の文体から見ても、かなりの人物だったと思う。その彼が主税の様子を見ていて、小脇差を取上げた刹那に首を打たねばならぬと判断したのである。
見苦しい切腹ぶりをさせたくない人情からだったろう。このことは、大高源吾が切腹の朝から何やら顔色すぐれず、屈託する様子に見えたが、主税が異儀なく切腹を済ませたと聞いてほっと安堵《あんど》の色を浮べたという『古今記聞』の記述にも符合する。繰返すようだがそういう時代なのである。
清太夫は首を打つと、右の手で主税のたぶさを取上げて検使の実見に供したが、そのあと直ぐ仲間四人が駆けつけて首もむくろも三方も一緒に布団に包んで勝手口へ運んでいる。あとに血が少し残っているのは、桶の砂を掛けて隠した。畳に血が付くと急いでこれも替えている。
時間にいそがれたわけではない。次に切腹する者への心遣りからしたことだ。安兵衛には無用の心づかいだったろうが、或る者にはこの親切も必要だった。そういう元禄時代の武士が、後世、武士道の精華といわれるあの義挙を成し遂げたのである。
ことさら筆者は赤穂義士にケチをつける意は毛頭ない。事実を書いている。映画や芝居などで美化されているよりはるかに地味で凡庸《ぼんよう》だったそんな同志を率い、あれだけの事を成し遂げた大石良雄の、本当の偉さを知るには、ありの儘の義士をまず見届ける必要があると信じるからである。
偉かったのは浅野内匠頭ではない。家老大石良雄と、武人派の堀部安兵衛と、もう一人——上杉家の千坂兵部に頼まれて吉良の付け人となった丹下典膳、この三人だったと私は言いたい。

四十六士の一人吉田忠左衛門が討入り当時の模様を自書した覚書がある。それを見ると、見事本望を遂げてのちの一行は、はじめは泉岳寺《せんがくじ》まで行くつもりはなく、吉良邸の近所の無縁寺へ上野介の首をあずけて公儀の処分を俟《ま》つつもりだった。しかし無縁寺では門内に入ることを許してくれず、又、赤穂浪士が考えていたほど世間はこの事件を騒ぎ立てなかったので、泉岳寺へ辿《たど》り行くことが出来たが、その途中「手疵《てきず》これある者、けが| 仕 《つかまつ》り|候 《そうろう》者は御船蔵の先にて駕籠《かご》をやとい候て乗り申し候。其の外堀部老人なども途中より駕籠に乗せ候て罷《まか》り越し申候」と書かれてある。
これで見ると、一行の引揚げは講談などで聞かされているのと大分違う。町の駕籠に乗せたというのだから、乗せる方も商売として極く自然に乗せているわけで、江戸中が義士の討入りに大騒ぎをしたのではなかったことが分る。
当日は御礼日の儀(月の十五日)に候えば往来も一入《ひとしお》多い筈《はず》であるのに、よく泉岳寺までお着きなされたものよと言われたのに対しても、「仰《おお》せの如《ごと》く当朝は御登城の御衆と見え候乗物、或《ある》いは馬にて御通りの衆二三人にもお目にかかり候えども、火事場などへ出《い》で候ものかなどと思召《おぼしめ》し候やらん、何事もなく泉岳寺へ参り候」と忠左衛門は答えている。
また義士の一人富森助右衛門の見知りの町人で、南八丁堀の大島屋八郎兵衛という者が、朝起きて店先を掃除していると、火事装束の侍が二人通りかかり、八郎兵衛と名を呼ぶので顔をあげて見たら、一人が見知り越しの助右衛門だったので驚いたという咄《はなし》も残っている。
如何《いか》に吉良邸討入りが、一部関係者を除いては当時の人心の予測するものでなかったか、且《か》つその引揚げがどれほど地味だったかはこれを見ても分るので、大石以下が行ったのは、言えばそんな静かなクーデターにすぎない。けっして仰々しい仇討《あだうち》美談ではなかった。
このことは四十六士の武具の刃こぼれや血のりを見ても分る。大石内蔵助の刀は切先一尺ばかりに血が付いていた。これは上野介のとどめを刺したからだろうという。
刀は相州物である。堀部弥兵衛老人のは槍《やり》も刀も血が付いていない。刃こぼれもないのは戦闘しなくて済んだ証拠である。又、近松勘六のは二尺余の大|脇差《わきざし》だったが公儀で改めた時には錆《さ》びついて抜けなかった。討入りの節泉水に転んで水が入ったのだろうという。(それにしては後始末の心得のない武士である)不破数右衛門のは刃がこぼれて|ささら《ヽヽヽ》のようになっていたから、四五人も切りとめ申し候や、という。この不破は、内匠頭には受けが悪くて浪人していた武士である。
一方、吉良方の方を見ると、「小林平八郎以下死者十七人。このうち十一人は刀脇差に血付、切込有り、残る五人は働き知れ申さず」という。その活躍ぶりを判断するには死骸《しがい》のあった場所を見るのが常識だが、清水一学などは台所口で死んでいる。映画などで両刀遣いの達人に仕立てられている武士が台所で死ぬようでは余り奮戦したとは見えない。小林平八郎は「お長屋役人小屋前にて」死んでいる。すなわち、おのが寝所をとび出て直ぐ斬《き》られている。しかも平八郎は上野介の家老なのである。
こうして見ると、いかに双方ともに大部分は凡庸の侍だったかが分るだろう——
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