丹下典膳がその武芸を見込まれ、遂《つい》に吉良方の付け人になる経緯を述べる前に、もう暫《しば》らく、松の廊下刃傷事件後の赤穂藩士の動向に触れておく必要がある。大石良雄の偉さが光り出すのはこの時からで、それ以前の大石は内匠頭にも余り重用されず、国許《くにもと》の藩政はもっぱら大野九郎兵衛が仕置《しおき》していたし、どちらかといえば、内蔵助は家老には違いなくとも時々閉門を命ぜられたりして、その存在を家中でも嘱望《しよくもう》されてはいない方だったから。
刃傷事件の直後、江戸を発した最初の早駕籠……早水藤左衛門、萱野三平の両人が赤穂の町にはいったのは三月十九日|寅《とら》の下刻(午前五時)頃《ごろ》である。江戸を出て五日で着いている。両人は大手門から城内に入ると、内山下《うちさんげ》の大石内蔵助の屋敷にはいった。内山下というのは、三の丸で、ここに藩の重臣の屋敷があった。
内蔵助はまだ寝ていたが、江戸よりの急使と聞くと早速に起出て対面した。両人は息もたえだえの有様で、兇変《きようへん》のあった夕刻に江戸を発し、百七十五里を宿つぎ早駕籠で走破して来たのだから無理もない。やがてその両人が気を取直すと書状を差出した。
内匠頭の舎弟大学からの書面である。あて名は大野九郎兵衛と大石の連名になっていたそうだ。内蔵助は直ぐ披《ひら》き見た。
中には只《ただ》内匠頭が殿中で刃傷に及んだこと、老中から家中の面々はしずかにするようにと達しのあること、国許でもその旨《むね》を承知して静穏に謹慎していてもらい度《た》いと書いたあとで、何よりも先ず札座《さつざ》を処理するようにとしたためてあった。
早水、萱野の両人が江戸を発《た》つ前には、まだ内匠頭は切腹していない。しかし札座のことを書き添えてあるのは、最悪の事態を既に覚悟していた証左である。
札座というのは藩札の役所のことで、藩の信用で藩札は領内に流通しているものだから、藩がつぶれれば価値はなくなる。従って領民が困窮するのでこれを処理するのが藩の責任である。札座の処置を示唆《しさ》されては、いかな大石も愕《おどろ》いたろう。即刻、総登城を命じた。
突然の登城命令に何事かと二百余人の家中の者は城中大広間にあつまった。大石は大学の書状と急使の口上書を披露《ひろう》した。忽《たちま》ち大広間は騒然となる。
しかし、急使のもたらした報告は不完全なので、いずれ次の使者を俟《ま》って行動をきめることにして、とりあえず藩士二人を江戸へ向って出発させた。これが同日正午頃である。つまりこの程度のことしか当日、策の立てようはなかったのである。
こうしておいて、内蔵助は金奉行、勘定方、札座奉行などを集めて藩札の発行高と現在藩庫にある額をあらためさせたが、もうその時には、領主家の滅亡の噂《うわさ》を伝え聞いた領民共が、早くも両替のため奉行所へ続々つめて来ていた。
札座をしらべたところ、藩庫に現存する金は藩札の発行高にくらべてはるかに不足していることが分った。
額面通りの支払いをすれば、もちろん足りない。こういう際には四分替えにするのが普通で、五分替えに払えば上々とされている。大石はなるべく率をよくして支払うべしと奉行に命じ、六分替えに決定した。手一ぱいのところである。
一応これで藩札の処置——領民の生活の不安は除くことが出来たわけだが、藩士への手当金の分配が問題となる。
藩庫はもうからっぽであって、藩から町人共に貸しつけた金や、年貢《ねんぐ》の未進があるが、こういう際に徴収にかかっても多分あつまるまいというのが奉行などの意向だったらしい。
しかし、大石の読みはもう少し深かったので、六分替え即時払いの英断に出たことが領民を感激させ、浜方の貸付や未進租税を取立ててみると意外に集まりがよかった。赤穂家の断絶を知って、苛政《かせい》に泣いていた領民が餅《もち》をついて祝った咄《はなし》の書かれてある同じ『閑田次筆』にも、
「事おこりて城を除せらるるに及びしかば、民大いに喜び、餅などつきて賑《にぎ》わいしに、大石氏|出《い》で来て事をはかり、近時、不時に借りとられし金銭など、皆それぞれに返弁せられしかば、大いに驚きて、この城中にかようのはからいする人もありしやと、面《おもて》を改めしとかや」
と書かれている。内蔵助のこの藩札処理は、ひとり彼の評判を高からしめたにとどまらず、浅野家に対する領民のこれまでの悪感情をあらためさせたわけで、言いかえれば、上席にあって政務を執った大野九郎兵衛が如何にむごい取りたてをしていたか、その大野を重用した内匠頭はどんな領主だったかが分る。そんな藩主に疎《うと》んじられていた大石が、事件に処して先ず領民にあたたかい思い遣りを示したのは、一種の痛烈な復讐《ふくしゆう》だったとは|[#「玄+玄」]《ここ》では言わない。しかし、札座のことは浅野大学からもさしずされてきたにしろ、実際に当って、六分替えという空前の高率で支払うときめただけでなく、変報到達の翌日には有り金全部を投出して支払いを開始しているのは、そこに人間大石の或《あ》る快哉《かいさい》がこめられていたのではなかろうか。このことは、山科閑居当時の遊蕩《ゆうとう》ぶりとてらし合わせて見ても、暗君を戴《いただ》きながら然《しか》も臣たる道に殉じていった一人の大人物の、甚だ文学的な心理屈折のあやを覗《のぞ》かせているようにも筆者などは思う。
さて総登城の日の夜、戌《いぬ》の下刻に第二の急使、原惣右衛門、大石瀬左衛門が到着した。
このふたりは事件当日の夜に江戸を発《た》っているので、漸《ようや》く詳細な模様を大石は赤穂で知ることが出来た。
第二の急使となった原惣右衛門は三通の書状を携行していた。
広島の本家・浅野美濃守、浅野大学、長矩の従兄弟《いとこ》にあたる戸田|采女正《うねめのかみ》三人連署の大石ら国許の重臣に当てた一通と、内匠頭の切腹した田村邸から死骸を引取るように報《し》らせて来た書状の写しと、老中より「赤穂家中の者静穏にいたすように」と達しのあった書付の写しの三通である。
これによって、主君切腹、したがって領地没収の上お家断絶の儀は瞭《あき》らかとなる。
内蔵助は再び総出仕を命じ、右の書状を家中一統に読みきかせたうえ、使等より聴取した江戸の模様を知らせた。城中大広間は蜂《はち》の巣を突いたように騒然となった。
ただ、今となっては気になるのが吉良上野介の生死だが、これに就いては江戸より何の報告もない。原惣右衛門も上野介の身のことは知らない。これ以後、度々《たびたび》江戸表から飛脚があり、大学の閉門を命ぜられたこと、鉄砲洲江戸屋敷の引渡しのあったこと。内匠頭夫人寿昌院は当夜のうちに鉄砲洲の屋敷から実家(長矩には同族にあたる三次《みよし》の城主浅野|式部《しきぶ》少輔《しよう》長照)の屋敷に引取られ、其処《そこ》で落飾したこと(瑶泉院《ようせんいん》と名を改めたのは後のことである)などは報告されたが、かんじんの上野介がどうなったかは、わざとしらされなかったという。赤穂で騒ぎ立てるのを怖《おそ》れたからだろうが、堀部安兵衛の筆記『武庸筆記』を見ても、江戸家老どもが一向この重大事を伏せて知らせないので、在所の家老をはじめ皆立腹して待ちこがれたが「終《つい》に申しつかわさず、結局赤穂近国の家中より縁者へ申し来り候《そうろう》は、未《いま》だ上野介どの存生にて、ことさら浅手《あさで》の由《よし》相聞え候」と書かれている。江戸の家老安井彦右衛門、藤井又左衛門(これは国家老だが内匠頭のお供をして出府していた)の両人は最後まで国許藩士たちの激昂《げつこう》を惧《おそ》れて、上野介の微傷であったこと、且《か》つ吉良家には何のお咎《とが》めもないことは伏せつづけたので、「呆《あき》れかえった大べらぼうな家老共だ」と海音寺潮五郎氏なども其著『赤穂義士』に書いて居《お》られる。
『武庸筆記』にもあるとおり、赤穂で上野介の無事を知ったのは近国諸藩の家中の武士から、赤穂の親戚《しんせき》へ知らせて来たからである。これが同月二十五六日頃だという。何度も書くとおり、そういう「大べらぼうな」腑抜《ふぬ》け侍どもを家老にして平然たる内匠頭は主君だった。ついでに言っておくと、そういう藩主の夫人となった瑶泉院のことは、名を阿久里といったという以外、正確なことは何ひとつ分らない。年齢さえも分らぬし、いつ死んだかも不明である。美人であってほしいとは、われわれの赤穂義士に対する愛着がえがき上げた願いなので、事実の方はどうだったか分らない。まして、美人ときめてかかり、彼女に吉良上野介が横恋慕したなどとは、虚構にしても大べらぼうな話である。
ただ、勅使応対の事件以前に、吉良が内匠頭へ悪意を懐《いだ》いていたと見られる史料が一つある。
元禄初年ごろ、吉良家ではその三河の領地に塩田をひらき、製塩事業をはじめ、饗庭塩《あえばしお》と名づけて売出した。しかし、邦国の製塩は、これを最初に大規模にやり出したのは赤穂の浅野家で、吉良の塩は赤穂塩のように良質には出来ない。
そこで赤穂藩に秘法の伝授を乞《こ》うたが、浅野家では教えなかったので、上野介はひそかに恨《うら》んでいたというのである。大名夫人に横恋慕したなどというべらぼうな話よりはこの方が信じるに足りるだろう。
赤穂の領地没収について、江戸から近々受城使の発向を見るという報告のはいった日に、何度目かの会議の席で大石はこういう意見を述べた。
赤穂城は藩祖長直公が築き給《たも》うたので公儀のものではない、浅野家のものである。やみやみ明渡すわけには参らない。そもそもかかる事態に立ち到ったのは故内匠頭様の不調法によることではあるが、上野介の方には何の咎《とが》めもなく、御|優諚《ゆうじよう》すらたまわり、しかも至って軽傷で近く平癒《へいゆ》も疑いない由《よし》である。然れば御公儀は甚だ不公平な裁きをなされたことになる。この点を申立て、併《あわ》せては御家再興を嘆願せんためにも城受取りの上使に検視を請うて、大手門で切腹し、何分の御沙汰《ごさた》を乞うべきではあるまいか。各々に於《おい》て所存あらばうけたまわり度い。
——要するに殉死嘆願説で、これに対して籠城抗戦説もあり、或いは、穏便に開城すべしと説も分れたが、けっきょく、おだやかな開城説に落着いたのは人の知る通りで、これが四月十二日である。この頃にはもう家中藩士もそろそろ引払いをはじめ、赤穂近在の村々に所縁をたよって移転先をもとめる者、城下の町家に一時の厄介《やつかい》を頼む者、他国へ行こうとする者、皆それぞれに家財道具をまとめ城下は大騒ぎだった。
翌十三日になると、武家屋敷はあらかた空家になっていたという。
城地明渡しの正式に行われたのは四月十九日朝六時である。その前晩、すなわち午前一時頃から受城使脇坂淡路守と木下肥後守の軍勢およそ六千人余りが受取りのため赤穂城へ入ったが、途次の道筋の清掃の行届いていたこと、明渡しに関する帳簿目録の精密であること、道具類の整理など、以《もつ》て一般武士の手本ともすべきであると上使をして感服せしめた。
ところで受城使脇坂淡路守は、江戸屋敷の普請《ふしん》をいつぞや白竿長兵衛に請負わせたお殿様である。こんどの城受取りに当って、万一赤穂藩が籠城抗戦の挙に及ぶかも知れぬという情報によって、家来四千五百四十五人を引きつれて乗込んでいた。その大半は播州竜野に国詰の面々だが、中にはあの普請当時出府していた藩士もある。
いよいよ開城もとどこおりなく済んで、内蔵助以下赤穂藩士が城を永久に跡にしようという時だ。脇坂淡路守の近侍らしい一人が、つと大石のそばへ遣って来て、
「はなはだ異なことをお尋ねいたすが、江戸表より堀部安兵衛どの、たしか当地へ罷《まか》り越しておられましょうな?」
と声を低めて問いかけた。五十年配の、かなり身分の重そうな鄭重《ていちよう》な物腰の武士である。
堀部安兵衛と聞くと、内蔵助の目が微《かす》かだが、動いた。
「いかにも参っておりますが、お手前は?」
「かような遽《あわただ》しい折にいかがとは存じ申したが、それがし……脇坂家中にて久しく江戸定府をつとめ申した松村由左衛門」
言って容《かたち》をあらためると、
「このたびの御心労、お察しを申上げる」
丁寧に頭を垂れた。
「これはねんごろなお詞《ことば》、かえって痛み入ります」
大石も静かに礼をかえし、
「ところで堀部安兵衛をおたずねの御用向きは?」
「いや、江戸表より下向いたしておられるなれば何も申すことはござらぬ。ただ、いささかそれがし面識ある間柄《あいだがら》にござれば。——御免」
受城使淡路守の物頭役らしいのが早く参れと合図しているので、由左衛門は大石以下へも会釈《えしやく》をのこすと慌《あわ》てて駆け戻《もど》っていった。
「何者にござるか?」
大石の後方にいた番頭奥野|将監《しようげん》がいぶかしんで内蔵助の顔を見上げたが、
「何でもござらぬ」
曖昧《あいまい》な苦笑に紛らせて家臣一同と偕《とも》に春秋を埋むべきであったかも知れぬ城を永久に去った。
堀部安兵衛が江戸から赤穂に到着していたのは事実である。定府の奥田孫太夫、高田郡兵衛の三人同道だったという。高田は宝蔵院流の槍術《そうじゆつ》を能《よ》くしたといわれ、安兵衛、奥田孫太夫とともに従来、江戸武人派・急先鋒の三羽烏《さんばがらす》と史家などに言われている。しかし後にこの高田郡兵衛は約に背いて変心しているし、安兵衛はその腑甲斐《ふがい》なさを嘆いている。十九や二十の壮言大語する血気盛りなら知らぬこと、奥田孫太夫は馬回り兼武具奉行をつとめて当時すでに五十五歳、安兵衛も三十二歳の分別ざかりである。それに宝蔵院流の槍術なるものが、聞こえはいいが元禄時代は名のみあって実の乏しい槍術だった。お家滅亡に悲憤|慷慨《こうがい》するのが武人派と単純に割切るほど安兵衛も馬鹿《ばか》ではあるまい。
従って、この郡兵衛や奥田孫太夫と一緒に安兵衛が屡々《しばしば》激語して大石の東下りを待たず、江戸同志だけで事を構えようとしたなどという説を私は採らない。赤穂義挙の記録として最も貴重なものの一は『武庸筆記』である。それほど安兵衛は刻明に手紙を書いている。山科や京に居る同志との連絡の必要にせまられてである。あれだけ武芸も立ち、手跡も見事だった武士なら、徒《いたず》らに口角|泡《あわ》をとばして気負い立つわけがない。第一、それなら刻明な書状などまどろしがって書くまい。
安兵衛が高田らと偕《とも》に血相変えて赤穂へ籠城説を唱えに来たと一概に見るのが、いかに粗暴かはこれを以ても明らかだろう。あくまで、公儀へ浅野家の再興を願い出る殉死嘆願のためだったと、これは安兵衛自身が書いている。
大石良雄は、さすがにそんな安兵衛と高田郡兵衛の違いを見抜いた。安兵衛と内蔵助が互いを見知り合ったのは主家断絶のこの悲劇の最中《さなか》だったが、三人が再び江戸表へ引揚げる時に、
[#この行1字下げ]「一両日の中、御発足御下向の由。このたびはるばる御登りの儀、御深切の御志感じ入り存じ候。諸事|繁多《はんた》の時節柄ゆえ、しみじみと御意を得ず、お名残り多く存じ候。
[#地付き]以上
四月二十日[#地付き]大石内蔵助」
この手紙を、内蔵助は三人への連名にしないで別々に一通ずつ書いている。そういうこまかい区別を大石はつけた人である。
堀部安兵衛が江戸から赤穂へ到着したのが四月十四日で開城が十九日。二十日にはもう大石の手紙にもあるように「一両日のうちに発足下向」している。赤穂城にとどまっていたのは精々六七日である。諸事繁多の時節柄ゆえ、しみじみ意をつくせず、お名残り多く存じ候と大石が書いたのには、或る真情がこめられていただろう。
それでも、内蔵助から脇坂家臣松村由左衛門より声をかけられた話を安兵衛にするぐらいの暇はあったと見るべきで、当時内蔵助はすでに城外尾崎村に寓居《ぐうきよ》をさだめていたから、たぶん其処でだったに違いない。
「ほう……松村どのが左様なことを尋ねましたか」
安兵衛もはじめは意外そうにしたが、直ぐ、あらためてありの儘《まま》を打明けた。すなわち脇坂家|普請《ふしん》の当座、由左衛門が現場見回りの役だったこと、その改築普請へは心当りの人足請負い業者を安兵衛から脇坂家用人へ頼み込んで入れてもらったこと、それというのが或る人物を知っていて、その人物が請負い業者の住居に寄食していたので、何とか便宜をはからいたかった為《ため》だと、そんな話を打明けたのである。
お家断絶という折が折だけに、それ以上の、丹下典膳の委細については何もこの時は話されなかったと見るのが至当だろう。
やがてその翌日か、若《も》しくは翌々日、安兵衛は江戸での再会を約して赤穂を発《た》った。大石はまだ残務整理があるので、赤穂に残り、それからの四五十日間、ずっと遠林寺《おんりんじ》の会所へ通ってしごとをつづけた。遠林寺は代々の浅野家の祈願所である。また、この残務整理中に、内蔵助は浜方への貸付金の回収をうながしているが、あつまりが悪く、すっかり回収出来れば五千五百両になる筈《はず》のものが、わずか五百七十両しかあつまらなかったそうだ。しかしこの金が後の仇討《あだうち》の費用になったのである。
海音寺氏の『赤穂義士』に拠《よ》ると赤穂城明渡し前後における内蔵助のはたらきが美事だったので、心ある人々の間に評判となり、脇坂家からは当分百人扶持で客分に召抱えようとの内意があったそうだ。のちに山科に移るため赤穂を引払い大坂まで来ると、鍋島《なべしま》家、細川家、有馬家、山内家、浅野本家なども、それぞれの|つて《ヽヽ》を求め、高禄《こうろく》を以て招いたともいう。
一方、『浅吉一乱記』などには、赤穂藩士が他愛なく開城したので、世間の者は、
大石は鮨《すし》の重しになるやらん
赤穂の米を食いつぶしけり
そんな落首を飛ばしてあざわらったという。
何にしても、そういう毀誉褒貶《きよほうへん》の中に、残務整理も済ますと、六月二十五日赤穂を立って、大石は海路大坂に向った。そうして二十八日、山科の新居に着いた。
山科へ移ると、内蔵助は屋敷を買いひろげ、田地をもとめ、京都から大工や左官を呼んで家を新築して離れ座敷までこしらえ、前栽《せんざい》には好きな牡丹《ぼたん》などを植えて、この地に落着いて余生を過すように人には見えたという。
名も母方の姓をとって池田久右衛門とあらためた。
元来大石の家は、ふるくは近衛《このえ》家に代々つかえて諸大夫となった荘園の管理人の家柄《いえがら》で、内蔵助良勝の代に、良勝は男山八幡の宮本坊に弟子入りしていたのが、僧を好まず、十四歳の時脱出して江戸へ出て、流浪の暮しをつづけるうち、浅野|采女正《うねめのかみ》長重に登用されて禄三百石を食《は》むようになったのが士分のはじまりという。二十八歳のとき良勝は主君長重にしたがって大坂冬の陣に出陣して冑首《かぶとくび》二級を挙げ、その後一そう重く用いられて家老に栄進した。これが大石良雄の曾祖父《そうそふ》である。
以来、代々家老として浅野家に仕えたが、良雄の母は備前池田家の家老池田|出羽《でわ》の女《むすめ》だったところから、山科で池田の名を名乗ったわけだ。
ついでに言うと、内蔵助の妻は但馬《たじま》豊岡藩士|石束《いしつか》源五兵衛の女で、この時は三十三歳、名を陸といった。大石は小柄な方だったのに、長男主税は十五歳の少年とは思えぬ大力の大男だったと、例の駕籠舁《かごか》きが言っているから、多分、母の体質をうけついだのであろうし、そうとすると妻女は大柄な女で、多分は蚤《のみ》の夫婦だったのかも分らない。しかし内匠頭夫人瑶泉院の場合と同様、大石の妻女の享年《きようねん》、その後の消息など一切不明である。山科閑居の頃には一緒に住んでいたし、内蔵助の遊蕩《ゆうとう》ぶりは日常つぶさに見ていたろう。そんなところから、大そうな賢婦人だったろうかと、我々は好意的に想像するが、もしかすれば賢婦でなくて底なしの人の善い婦人だったかも分らない。何事も義士の夫人のことは我々には知りようがない。分っているのは、愛妻家小野寺十内の妻女が俳句をよくしたことぐらいである。大石の妻は、内蔵助との間に嫡男《ちやくなん》主税の他《ほか》に一男二女あり、内蔵助の江戸下向にあたって離別され、豊岡の実家へ帰されたが、大石の行状から吉良邸討入りの非常を予想させるのは、この妻子離別の一件ぐらいではなかろうか。
ここで明らかにしておかねばならないのは、亡君の仇討《あだうち》と今の人は単純に言うが、当時の観念で、この説は自他ともに成立たないことである。吉良上野介が内匠頭に斬《き》りつけたのであれば復讐《ふくしゆう》とも言える。挑《いど》んだのは内匠頭の方であって、上野介は刀を抜きもしていなかった。一方的な短慮と、激昂《げつこう》で刃傷《にんじよう》に及んだすえお上の裁可によって切腹を命ぜられ、家は断絶したのである。上野介を恨むすじは何もない。従って復讐とは、吉良方にすれば甚《はなは》だ一方的な勝手な解釈で、且《か》つ迷惑な話である。
それを、大石は遂行しようという。
大石が山科から伏見|撞木《しゆもく》町の遊女のもとへ通っていた頃《ころ》彼自身の作と伝えられる有名な地唄《じうた》が二曲のこっている。「里げしき」と「狐火《きつねび》」という。
[#ここから2字下げ]
里げしき
更《ふ》けてくるわのよそほひ見れば、宵《よひ》のともしびうちそむき寝の、夢の花さへ散らす嵐《あらし》のさそひ来て、
閨《ねや》をつれ出すつれ人おとこ、よそのさらばも猶《なほ》あはれにて、内も中戸を開くるしののめ、
送る姿の一重《ひとへ》帯、
解けてほどけて寝乱れ髪の、
黄楊のつげの小櫛《おぐし》も、
さすが涙のはらはら、袖《そで》に、
こぼれて袖に、露のよすがの憂《う》きつとめ、こぼれて袖に、つらきよすがのうき勤め。
[#ここで字下げ終わり]
『狐火』の方は「あだし此《こ》の身を煙となさば、やめてくるわの里近く、廓《くるわ》のや、廓のせめて、やめて廓のさと近く」云々《うんぬん》と反復があり、
「何をおもひにこがれて燃ゆる。野辺の狐火さよ更けて」でおわっている。ふしは祇園《ぎおん》の井筒屋なる茶屋の亭主《ていしゆ》・岸野二郎三がつけたといわれるが、何にしても大石の遊蕩ぶりはかくれもない。しかもそれが吉良方の目を誤魔化す必要の何らない日々に持たれたのである。気の小さい人は、この解釈のしように困って殊更《ことさら》な理由を付会したのだろう。しかし、忠臣は遊蕩するわけがないという、ちっぽけな人間観から少々内蔵助はケタのはずれて大きな人物だった、と見る方が本当ではなかろうか。
それを証拠に、いかに放蕩しても大石は身をもち崩さなかったし、その遊興費は当然ながら自前である。公私のけじめを、内蔵助がいかにキチンとつけていたかを物語る例として、討入りまでの出費を記載した「預り置き候《そうろう》金銀請払帳」なるものが残っている。
赤穂で城明渡しの後に請取った金の支払いを、刻明、且《か》つ詳細に帳面につけて、討入り前に瑶泉院に差出したもので、この金銭出納簿はいろいろなことを自ずと我々に語りかけるが(例えば俗説に伝わる天野屋利兵衛なるものは架空の人物で、討入り用として武具調度品の購入代金は、義士各自へそれぞれ一両前後を手渡してあり、まとめて天野屋利兵衛に武具を調達させた事実はない。天野屋などはそもそも存在しない)浪々の身となって一年余り、義士のうちには相当に暮し向きに難渋したものがあったが、それらの浪士——神崎与五郎、原惣右衛門、矢頭右衛門七、武林唯七、大高源吾など——へ、
「勝手もと差詰り、願い申すによって、金なにがしを遣わす」
と一々金高を記して必ず手形(受取)を取っている。神崎与五郎なども之《これ》については、討入り後に、
「内蔵助は去春、御城明渡しの節配分仕り候|金子《きんす》をも申し請けず、いずれもへ分けてくれ申し候。諸道具など売払い候て、其金子百三四十両を以《もつ》て、私共はじめ同志のもの共を養い申し候。若きもの共、勝手のつづき兼ね候者など、早く討ちたがり申し候を、兎角《とかく》と様子も知れざるを申し候て留め申し候。
おびただしき心遣いにて候」
と賞讃《しようさん》している程だ。
額面通りの支払いをすれば、もちろん足りない。こういう際には四分替えにするのが普通で、五分替えに払えば上々とされている。大石はなるべく率をよくして支払うべしと奉行に命じ、六分替えに決定した。手一ぱいのところである。
一応これで藩札の処置——領民の生活の不安は除くことが出来たわけだが、藩士への手当金の分配が問題となる。
藩庫はもうからっぽであって、藩から町人共に貸しつけた金や、年貢《ねんぐ》の未進があるが、こういう際に徴収にかかっても多分あつまるまいというのが奉行などの意向だったらしい。
しかし、大石の読みはもう少し深かったので、六分替え即時払いの英断に出たことが領民を感激させ、浜方の貸付や未進租税を取立ててみると意外に集まりがよかった。赤穂家の断絶を知って、苛政《かせい》に泣いていた領民が餅《もち》をついて祝った咄《はなし》の書かれてある同じ『閑田次筆』にも、
「事おこりて城を除せらるるに及びしかば、民大いに喜び、餅などつきて賑《にぎ》わいしに、大石氏|出《い》で来て事をはかり、近時、不時に借りとられし金銭など、皆それぞれに返弁せられしかば、大いに驚きて、この城中にかようのはからいする人もありしやと、面《おもて》を改めしとかや」
と書かれている。内蔵助のこの藩札処理は、ひとり彼の評判を高からしめたにとどまらず、浅野家に対する領民のこれまでの悪感情をあらためさせたわけで、言いかえれば、上席にあって政務を執った大野九郎兵衛が如何にむごい取りたてをしていたか、その大野を重用した内匠頭はどんな領主だったかが分る。そんな藩主に疎《うと》んじられていた大石が、事件に処して先ず領民にあたたかい思い遣りを示したのは、一種の痛烈な復讐《ふくしゆう》だったとは|[#「玄+玄」]《ここ》では言わない。しかし、札座のことは浅野大学からもさしずされてきたにしろ、実際に当って、六分替えという空前の高率で支払うときめただけでなく、変報到達の翌日には有り金全部を投出して支払いを開始しているのは、そこに人間大石の或《あ》る快哉《かいさい》がこめられていたのではなかろうか。このことは、山科閑居当時の遊蕩《ゆうとう》ぶりとてらし合わせて見ても、暗君を戴《いただ》きながら然《しか》も臣たる道に殉じていった一人の大人物の、甚だ文学的な心理屈折のあやを覗《のぞ》かせているようにも筆者などは思う。
さて総登城の日の夜、戌《いぬ》の下刻に第二の急使、原惣右衛門、大石瀬左衛門が到着した。
このふたりは事件当日の夜に江戸を発《た》っているので、漸《ようや》く詳細な模様を大石は赤穂で知ることが出来た。
第二の急使となった原惣右衛門は三通の書状を携行していた。
広島の本家・浅野美濃守、浅野大学、長矩の従兄弟《いとこ》にあたる戸田|采女正《うねめのかみ》三人連署の大石ら国許の重臣に当てた一通と、内匠頭の切腹した田村邸から死骸を引取るように報《し》らせて来た書状の写しと、老中より「赤穂家中の者静穏にいたすように」と達しのあった書付の写しの三通である。
これによって、主君切腹、したがって領地没収の上お家断絶の儀は瞭《あき》らかとなる。
内蔵助は再び総出仕を命じ、右の書状を家中一統に読みきかせたうえ、使等より聴取した江戸の模様を知らせた。城中大広間は蜂《はち》の巣を突いたように騒然となった。
ただ、今となっては気になるのが吉良上野介の生死だが、これに就いては江戸より何の報告もない。原惣右衛門も上野介の身のことは知らない。これ以後、度々《たびたび》江戸表から飛脚があり、大学の閉門を命ぜられたこと、鉄砲洲江戸屋敷の引渡しのあったこと。内匠頭夫人寿昌院は当夜のうちに鉄砲洲の屋敷から実家(長矩には同族にあたる三次《みよし》の城主浅野|式部《しきぶ》少輔《しよう》長照)の屋敷に引取られ、其処《そこ》で落飾したこと(瑶泉院《ようせんいん》と名を改めたのは後のことである)などは報告されたが、かんじんの上野介がどうなったかは、わざとしらされなかったという。赤穂で騒ぎ立てるのを怖《おそ》れたからだろうが、堀部安兵衛の筆記『武庸筆記』を見ても、江戸家老どもが一向この重大事を伏せて知らせないので、在所の家老をはじめ皆立腹して待ちこがれたが「終《つい》に申しつかわさず、結局赤穂近国の家中より縁者へ申し来り候《そうろう》は、未《いま》だ上野介どの存生にて、ことさら浅手《あさで》の由《よし》相聞え候」と書かれている。江戸の家老安井彦右衛門、藤井又左衛門(これは国家老だが内匠頭のお供をして出府していた)の両人は最後まで国許藩士たちの激昂《げつこう》を惧《おそ》れて、上野介の微傷であったこと、且《か》つ吉良家には何のお咎《とが》めもないことは伏せつづけたので、「呆《あき》れかえった大べらぼうな家老共だ」と海音寺潮五郎氏なども其著『赤穂義士』に書いて居《お》られる。
『武庸筆記』にもあるとおり、赤穂で上野介の無事を知ったのは近国諸藩の家中の武士から、赤穂の親戚《しんせき》へ知らせて来たからである。これが同月二十五六日頃だという。何度も書くとおり、そういう「大べらぼうな」腑抜《ふぬ》け侍どもを家老にして平然たる内匠頭は主君だった。ついでに言っておくと、そういう藩主の夫人となった瑶泉院のことは、名を阿久里といったという以外、正確なことは何ひとつ分らない。年齢さえも分らぬし、いつ死んだかも不明である。美人であってほしいとは、われわれの赤穂義士に対する愛着がえがき上げた願いなので、事実の方はどうだったか分らない。まして、美人ときめてかかり、彼女に吉良上野介が横恋慕したなどとは、虚構にしても大べらぼうな話である。
ただ、勅使応対の事件以前に、吉良が内匠頭へ悪意を懐《いだ》いていたと見られる史料が一つある。
元禄初年ごろ、吉良家ではその三河の領地に塩田をひらき、製塩事業をはじめ、饗庭塩《あえばしお》と名づけて売出した。しかし、邦国の製塩は、これを最初に大規模にやり出したのは赤穂の浅野家で、吉良の塩は赤穂塩のように良質には出来ない。
そこで赤穂藩に秘法の伝授を乞《こ》うたが、浅野家では教えなかったので、上野介はひそかに恨《うら》んでいたというのである。大名夫人に横恋慕したなどというべらぼうな話よりはこの方が信じるに足りるだろう。
赤穂の領地没収について、江戸から近々受城使の発向を見るという報告のはいった日に、何度目かの会議の席で大石はこういう意見を述べた。
赤穂城は藩祖長直公が築き給《たも》うたので公儀のものではない、浅野家のものである。やみやみ明渡すわけには参らない。そもそもかかる事態に立ち到ったのは故内匠頭様の不調法によることではあるが、上野介の方には何の咎《とが》めもなく、御|優諚《ゆうじよう》すらたまわり、しかも至って軽傷で近く平癒《へいゆ》も疑いない由《よし》である。然れば御公儀は甚だ不公平な裁きをなされたことになる。この点を申立て、併《あわ》せては御家再興を嘆願せんためにも城受取りの上使に検視を請うて、大手門で切腹し、何分の御沙汰《ごさた》を乞うべきではあるまいか。各々に於《おい》て所存あらばうけたまわり度い。
——要するに殉死嘆願説で、これに対して籠城抗戦説もあり、或いは、穏便に開城すべしと説も分れたが、けっきょく、おだやかな開城説に落着いたのは人の知る通りで、これが四月十二日である。この頃にはもう家中藩士もそろそろ引払いをはじめ、赤穂近在の村々に所縁をたよって移転先をもとめる者、城下の町家に一時の厄介《やつかい》を頼む者、他国へ行こうとする者、皆それぞれに家財道具をまとめ城下は大騒ぎだった。
翌十三日になると、武家屋敷はあらかた空家になっていたという。
城地明渡しの正式に行われたのは四月十九日朝六時である。その前晩、すなわち午前一時頃から受城使脇坂淡路守と木下肥後守の軍勢およそ六千人余りが受取りのため赤穂城へ入ったが、途次の道筋の清掃の行届いていたこと、明渡しに関する帳簿目録の精密であること、道具類の整理など、以《もつ》て一般武士の手本ともすべきであると上使をして感服せしめた。
ところで受城使脇坂淡路守は、江戸屋敷の普請《ふしん》をいつぞや白竿長兵衛に請負わせたお殿様である。こんどの城受取りに当って、万一赤穂藩が籠城抗戦の挙に及ぶかも知れぬという情報によって、家来四千五百四十五人を引きつれて乗込んでいた。その大半は播州竜野に国詰の面々だが、中にはあの普請当時出府していた藩士もある。
いよいよ開城もとどこおりなく済んで、内蔵助以下赤穂藩士が城を永久に跡にしようという時だ。脇坂淡路守の近侍らしい一人が、つと大石のそばへ遣って来て、
「はなはだ異なことをお尋ねいたすが、江戸表より堀部安兵衛どの、たしか当地へ罷《まか》り越しておられましょうな?」
と声を低めて問いかけた。五十年配の、かなり身分の重そうな鄭重《ていちよう》な物腰の武士である。
堀部安兵衛と聞くと、内蔵助の目が微《かす》かだが、動いた。
「いかにも参っておりますが、お手前は?」
「かような遽《あわただ》しい折にいかがとは存じ申したが、それがし……脇坂家中にて久しく江戸定府をつとめ申した松村由左衛門」
言って容《かたち》をあらためると、
「このたびの御心労、お察しを申上げる」
丁寧に頭を垂れた。
「これはねんごろなお詞《ことば》、かえって痛み入ります」
大石も静かに礼をかえし、
「ところで堀部安兵衛をおたずねの御用向きは?」
「いや、江戸表より下向いたしておられるなれば何も申すことはござらぬ。ただ、いささかそれがし面識ある間柄《あいだがら》にござれば。——御免」
受城使淡路守の物頭役らしいのが早く参れと合図しているので、由左衛門は大石以下へも会釈《えしやく》をのこすと慌《あわ》てて駆け戻《もど》っていった。
「何者にござるか?」
大石の後方にいた番頭奥野|将監《しようげん》がいぶかしんで内蔵助の顔を見上げたが、
「何でもござらぬ」
曖昧《あいまい》な苦笑に紛らせて家臣一同と偕《とも》に春秋を埋むべきであったかも知れぬ城を永久に去った。
堀部安兵衛が江戸から赤穂に到着していたのは事実である。定府の奥田孫太夫、高田郡兵衛の三人同道だったという。高田は宝蔵院流の槍術《そうじゆつ》を能《よ》くしたといわれ、安兵衛、奥田孫太夫とともに従来、江戸武人派・急先鋒の三羽烏《さんばがらす》と史家などに言われている。しかし後にこの高田郡兵衛は約に背いて変心しているし、安兵衛はその腑甲斐《ふがい》なさを嘆いている。十九や二十の壮言大語する血気盛りなら知らぬこと、奥田孫太夫は馬回り兼武具奉行をつとめて当時すでに五十五歳、安兵衛も三十二歳の分別ざかりである。それに宝蔵院流の槍術なるものが、聞こえはいいが元禄時代は名のみあって実の乏しい槍術だった。お家滅亡に悲憤|慷慨《こうがい》するのが武人派と単純に割切るほど安兵衛も馬鹿《ばか》ではあるまい。
従って、この郡兵衛や奥田孫太夫と一緒に安兵衛が屡々《しばしば》激語して大石の東下りを待たず、江戸同志だけで事を構えようとしたなどという説を私は採らない。赤穂義挙の記録として最も貴重なものの一は『武庸筆記』である。それほど安兵衛は刻明に手紙を書いている。山科や京に居る同志との連絡の必要にせまられてである。あれだけ武芸も立ち、手跡も見事だった武士なら、徒《いたず》らに口角|泡《あわ》をとばして気負い立つわけがない。第一、それなら刻明な書状などまどろしがって書くまい。
安兵衛が高田らと偕《とも》に血相変えて赤穂へ籠城説を唱えに来たと一概に見るのが、いかに粗暴かはこれを以ても明らかだろう。あくまで、公儀へ浅野家の再興を願い出る殉死嘆願のためだったと、これは安兵衛自身が書いている。
大石良雄は、さすがにそんな安兵衛と高田郡兵衛の違いを見抜いた。安兵衛と内蔵助が互いを見知り合ったのは主家断絶のこの悲劇の最中《さなか》だったが、三人が再び江戸表へ引揚げる時に、
[#この行1字下げ]「一両日の中、御発足御下向の由。このたびはるばる御登りの儀、御深切の御志感じ入り存じ候。諸事|繁多《はんた》の時節柄ゆえ、しみじみと御意を得ず、お名残り多く存じ候。
[#地付き]以上
四月二十日[#地付き]大石内蔵助」
この手紙を、内蔵助は三人への連名にしないで別々に一通ずつ書いている。そういうこまかい区別を大石はつけた人である。
堀部安兵衛が江戸から赤穂へ到着したのが四月十四日で開城が十九日。二十日にはもう大石の手紙にもあるように「一両日のうちに発足下向」している。赤穂城にとどまっていたのは精々六七日である。諸事繁多の時節柄ゆえ、しみじみ意をつくせず、お名残り多く存じ候と大石が書いたのには、或る真情がこめられていただろう。
それでも、内蔵助から脇坂家臣松村由左衛門より声をかけられた話を安兵衛にするぐらいの暇はあったと見るべきで、当時内蔵助はすでに城外尾崎村に寓居《ぐうきよ》をさだめていたから、たぶん其処でだったに違いない。
「ほう……松村どのが左様なことを尋ねましたか」
安兵衛もはじめは意外そうにしたが、直ぐ、あらためてありの儘《まま》を打明けた。すなわち脇坂家|普請《ふしん》の当座、由左衛門が現場見回りの役だったこと、その改築普請へは心当りの人足請負い業者を安兵衛から脇坂家用人へ頼み込んで入れてもらったこと、それというのが或る人物を知っていて、その人物が請負い業者の住居に寄食していたので、何とか便宜をはからいたかった為《ため》だと、そんな話を打明けたのである。
お家断絶という折が折だけに、それ以上の、丹下典膳の委細については何もこの時は話されなかったと見るのが至当だろう。
やがてその翌日か、若《も》しくは翌々日、安兵衛は江戸での再会を約して赤穂を発《た》った。大石はまだ残務整理があるので、赤穂に残り、それからの四五十日間、ずっと遠林寺《おんりんじ》の会所へ通ってしごとをつづけた。遠林寺は代々の浅野家の祈願所である。また、この残務整理中に、内蔵助は浜方への貸付金の回収をうながしているが、あつまりが悪く、すっかり回収出来れば五千五百両になる筈《はず》のものが、わずか五百七十両しかあつまらなかったそうだ。しかしこの金が後の仇討《あだうち》の費用になったのである。
海音寺氏の『赤穂義士』に拠《よ》ると赤穂城明渡し前後における内蔵助のはたらきが美事だったので、心ある人々の間に評判となり、脇坂家からは当分百人扶持で客分に召抱えようとの内意があったそうだ。のちに山科に移るため赤穂を引払い大坂まで来ると、鍋島《なべしま》家、細川家、有馬家、山内家、浅野本家なども、それぞれの|つて《ヽヽ》を求め、高禄《こうろく》を以て招いたともいう。
一方、『浅吉一乱記』などには、赤穂藩士が他愛なく開城したので、世間の者は、
大石は鮨《すし》の重しになるやらん
赤穂の米を食いつぶしけり
そんな落首を飛ばしてあざわらったという。
何にしても、そういう毀誉褒貶《きよほうへん》の中に、残務整理も済ますと、六月二十五日赤穂を立って、大石は海路大坂に向った。そうして二十八日、山科の新居に着いた。
山科へ移ると、内蔵助は屋敷を買いひろげ、田地をもとめ、京都から大工や左官を呼んで家を新築して離れ座敷までこしらえ、前栽《せんざい》には好きな牡丹《ぼたん》などを植えて、この地に落着いて余生を過すように人には見えたという。
名も母方の姓をとって池田久右衛門とあらためた。
元来大石の家は、ふるくは近衛《このえ》家に代々つかえて諸大夫となった荘園の管理人の家柄《いえがら》で、内蔵助良勝の代に、良勝は男山八幡の宮本坊に弟子入りしていたのが、僧を好まず、十四歳の時脱出して江戸へ出て、流浪の暮しをつづけるうち、浅野|采女正《うねめのかみ》長重に登用されて禄三百石を食《は》むようになったのが士分のはじまりという。二十八歳のとき良勝は主君長重にしたがって大坂冬の陣に出陣して冑首《かぶとくび》二級を挙げ、その後一そう重く用いられて家老に栄進した。これが大石良雄の曾祖父《そうそふ》である。
以来、代々家老として浅野家に仕えたが、良雄の母は備前池田家の家老池田|出羽《でわ》の女《むすめ》だったところから、山科で池田の名を名乗ったわけだ。
ついでに言うと、内蔵助の妻は但馬《たじま》豊岡藩士|石束《いしつか》源五兵衛の女で、この時は三十三歳、名を陸といった。大石は小柄な方だったのに、長男主税は十五歳の少年とは思えぬ大力の大男だったと、例の駕籠舁《かごか》きが言っているから、多分、母の体質をうけついだのであろうし、そうとすると妻女は大柄な女で、多分は蚤《のみ》の夫婦だったのかも分らない。しかし内匠頭夫人瑶泉院の場合と同様、大石の妻女の享年《きようねん》、その後の消息など一切不明である。山科閑居の頃には一緒に住んでいたし、内蔵助の遊蕩《ゆうとう》ぶりは日常つぶさに見ていたろう。そんなところから、大そうな賢婦人だったろうかと、我々は好意的に想像するが、もしかすれば賢婦でなくて底なしの人の善い婦人だったかも分らない。何事も義士の夫人のことは我々には知りようがない。分っているのは、愛妻家小野寺十内の妻女が俳句をよくしたことぐらいである。大石の妻は、内蔵助との間に嫡男《ちやくなん》主税の他《ほか》に一男二女あり、内蔵助の江戸下向にあたって離別され、豊岡の実家へ帰されたが、大石の行状から吉良邸討入りの非常を予想させるのは、この妻子離別の一件ぐらいではなかろうか。
ここで明らかにしておかねばならないのは、亡君の仇討《あだうち》と今の人は単純に言うが、当時の観念で、この説は自他ともに成立たないことである。吉良上野介が内匠頭に斬《き》りつけたのであれば復讐《ふくしゆう》とも言える。挑《いど》んだのは内匠頭の方であって、上野介は刀を抜きもしていなかった。一方的な短慮と、激昂《げつこう》で刃傷《にんじよう》に及んだすえお上の裁可によって切腹を命ぜられ、家は断絶したのである。上野介を恨むすじは何もない。従って復讐とは、吉良方にすれば甚《はなは》だ一方的な勝手な解釈で、且《か》つ迷惑な話である。
それを、大石は遂行しようという。
大石が山科から伏見|撞木《しゆもく》町の遊女のもとへ通っていた頃《ころ》彼自身の作と伝えられる有名な地唄《じうた》が二曲のこっている。「里げしき」と「狐火《きつねび》」という。
[#ここから2字下げ]
里げしき
更《ふ》けてくるわのよそほひ見れば、宵《よひ》のともしびうちそむき寝の、夢の花さへ散らす嵐《あらし》のさそひ来て、
閨《ねや》をつれ出すつれ人おとこ、よそのさらばも猶《なほ》あはれにて、内も中戸を開くるしののめ、
送る姿の一重《ひとへ》帯、
解けてほどけて寝乱れ髪の、
黄楊のつげの小櫛《おぐし》も、
さすが涙のはらはら、袖《そで》に、
こぼれて袖に、露のよすがの憂《う》きつとめ、こぼれて袖に、つらきよすがのうき勤め。
[#ここで字下げ終わり]
『狐火』の方は「あだし此《こ》の身を煙となさば、やめてくるわの里近く、廓《くるわ》のや、廓のせめて、やめて廓のさと近く」云々《うんぬん》と反復があり、
「何をおもひにこがれて燃ゆる。野辺の狐火さよ更けて」でおわっている。ふしは祇園《ぎおん》の井筒屋なる茶屋の亭主《ていしゆ》・岸野二郎三がつけたといわれるが、何にしても大石の遊蕩ぶりはかくれもない。しかもそれが吉良方の目を誤魔化す必要の何らない日々に持たれたのである。気の小さい人は、この解釈のしように困って殊更《ことさら》な理由を付会したのだろう。しかし、忠臣は遊蕩するわけがないという、ちっぽけな人間観から少々内蔵助はケタのはずれて大きな人物だった、と見る方が本当ではなかろうか。
それを証拠に、いかに放蕩しても大石は身をもち崩さなかったし、その遊興費は当然ながら自前である。公私のけじめを、内蔵助がいかにキチンとつけていたかを物語る例として、討入りまでの出費を記載した「預り置き候《そうろう》金銀請払帳」なるものが残っている。
赤穂で城明渡しの後に請取った金の支払いを、刻明、且《か》つ詳細に帳面につけて、討入り前に瑶泉院に差出したもので、この金銭出納簿はいろいろなことを自ずと我々に語りかけるが(例えば俗説に伝わる天野屋利兵衛なるものは架空の人物で、討入り用として武具調度品の購入代金は、義士各自へそれぞれ一両前後を手渡してあり、まとめて天野屋利兵衛に武具を調達させた事実はない。天野屋などはそもそも存在しない)浪々の身となって一年余り、義士のうちには相当に暮し向きに難渋したものがあったが、それらの浪士——神崎与五郎、原惣右衛門、矢頭右衛門七、武林唯七、大高源吾など——へ、
「勝手もと差詰り、願い申すによって、金なにがしを遣わす」
と一々金高を記して必ず手形(受取)を取っている。神崎与五郎なども之《これ》については、討入り後に、
「内蔵助は去春、御城明渡しの節配分仕り候|金子《きんす》をも申し請けず、いずれもへ分けてくれ申し候。諸道具など売払い候て、其金子百三四十両を以《もつ》て、私共はじめ同志のもの共を養い申し候。若きもの共、勝手のつづき兼ね候者など、早く討ちたがり申し候を、兎角《とかく》と様子も知れざるを申し候て留め申し候。
おびただしき心遣いにて候」
と賞讃《しようさん》している程だ。