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薄桜記21

时间: 2020-08-01    进入日语论坛
核心提示:東下《あずまくだ》りいたずらに遊蕩の日をすごすと見えた内蔵助の身辺にも、同志との会合や、江戸にある堀部安兵衛との書面連絡
(单词翻译:双击或拖选)
東下《あずまくだ》り

いたずらに遊蕩の日をすごすと見えた内蔵助の身辺にも、同志との会合や、江戸にある堀部安兵衛との書面連絡、或《ある》いは「亡君の墓参」の名目による最初の東下り、吉良家|偵察《ていさつ》のため神崎与五郎を江戸へ派遣するなど、一挙のための準備は少しずつだが進められていた。
多くの史書にこれは記されていることだが、お家断絶後の大石の主目的は、吉良の首級をあげる事より浅野家の再興にあった、という。しかし内匠頭の舎弟大学が閉門をゆるされ、家を継ぎ、人前に一応面目の立つ身分に復し得ても吉良上野介が現在のまま勤役しているのと肩をならべての勤めでは所詮《しよせん》大学の世間への面目は立つ筈《はず》はない、というのが堀部安兵衛らの意見だった。
世間もまた当初は内匠頭の短慮と武人の心得の無さを嘲笑《ちようしよう》したが原因は如何《いか》にもあれ、喧嘩《けんか》両成敗が当時のさだめである。しかるに内匠頭のみ厳罰を蒙《こうむ》り、吉良に何らお構いのない不公平さを見るうち、いわゆる判官|贔屓《びいき》の心情から兇変《きようへん》に遭《あ》った浅野家臣への同情と、吉良上野介への憎悪《ぞうお》を人々は次第にいだくようになった。とりも直さず、大学がお家再興によって、平然と殿中で吉良と顔を合わせるようなら、むしろ世間の物笑いになり、それはけっして大学の為にもならぬという安兵衛の読みなのである。
このことは、世間の甚だ好奇的な希望として、赤穂浪士が主家再興を欲すると否《いな》とに関《かかわ》らず、所詮《しよせん》は吉良邸に討入らねば舎弟大学の面子《メンツ》が立たぬ事態になってゆくことを意味する。すなわち安兵衛は自分たちの武士道の名誉のためではない、あくまで御舎弟大学様の面目のため亡君の鬱憤《うつぷん》をはらさねばならぬと見た。従来の説では、大学の赦免の儀が遂《つい》に見られなかった為に大石も肚《はら》をきめて吉良邸討入りを決行したという。
順序として先《ま》ず浅野家再興を大石の方寸の第一義におく、しかし安兵衛は、再興されたとしても其の後の大学の立場が、世の嘲蔑《ちようべつ》をこそ蒙《こうむ》れ、けっして幸福なものにはならぬこと、また大学の閉門中に上野介を討つなら、責任は大学に及ばぬだろうが、閉門赦免後では、大学の示唆《しさ》によって決行されたなどと見られかねない。その辺の事情までも読み込んで、いずれにしろ上野介を討たねばならぬ我らだと主張したのである。
このへんの意見の分れが、武士たる者、臣たる者は何を第一義におくべきかという人間大石と、堀部安兵衛との違いであろうし、意見の食い違っている間だけ、決行が遅れたと言えなくもない。
むろん、大石内蔵助が性急な仇討《あだうち》説に同調しなかったのにも理由があった。即ち上杉家の動向である。奥州米沢十五万石、上杉| 弾《だん》| 正《じよう》| 大弼綱憲《のだいひつつなのり》のある限り、事は一浅野家臣の復讐では済まない。

結果論で言うことになるのだが、赤穂義士の討入り当夜の模様について吉良邸の様子を記したものに『米沢塩井家覚書』なる一本がある。この事件に関して上杉家で記された唯一《ゆいいつ》の史料である。
それによると、元禄十五年十二月十四日の夜八ツすぎ(午前二時)浪士が吉良邸の表門へ来て、火事だから門を開けよと言ったので、門番は何処《どこ》の火事かと問うと、
「こなた書院より出火に候、匆々《そうそう》あけ候え」
と言った。
門番は書院の方を振見たが火の手のあがる気配はない。
「戸をあけ申すわけには参らぬ」
と喚《わめ》き返した。
すると多勢の足音が走り来て、
「埒《らち》明かぬことを申すなら踏み破るぞ」と梯子《はしご》をかけ屋根へあがり、段々に邸内へとび入って、表門、裏門同時に合図の太鼓を打ち、裏門の扉《とびら》をば斧《おの》で打ちやぶって(表門には手をつけなかった。このわけは後に述べる)一時にどっと乱入した。
もっとも、屋敷内に入っても火事火事とさわぐばかりで、邸内の小屋小屋の前に槍《やり》、長刀《なぎなた》を以て固め、火事というのに驚き出るところを「水もたまらず首をホクリホクリと打落し、念仏一遍を最期いたし候者あまたコレ有り」という有様だった。かるがるに命ばかり長らえた者が、戸口の隙間《すきま》からうかがい見ると、固め口には四五人ずつが一組になって、屋根上には半弓を以て狙《ねら》う者もあり、一寸ものがさぬ手組であったという。
「表は御玄関の台所口、妻戸口、御隠居(上野介)の御玄関、台所口の扉など鎚斧《つち》を以て引破り、御殿じゅう野原の如く打散らし、爰《ここ》彼処《かしこ》に手負い死人倒れ申し候。山吉新八、須藤与一右衛門、左右田孫八(いずれも上杉家来)等の働き専一、しのぎをけずり候え共、皆敵は着込をいたし、突いても討っても、きれ通りいたさず、敵には手負いも少なく御座候。本所方(吉良方)には死者十五人、手負い二十三人に候。いずれも思いがけぬ事ゆえ、のがれがちの様子に御座候」
又。
屋敷中の所々には小座敷が沢山あるが、よくも乱入して銘々に見届け、納戸などへも入り込んで長持の中も見てまわり、怪しいと思えば縁の下まで踏み破った。丁度隠居所の台所で菓子|蝋燭《ろうそく》の役人がにげ回っていると、義士の方から、「何者ぞ、いこうウロタえ候は」と詰《なじ》るので、私は菓子ろうそくの役人だと応《こた》えたら、「早々に菓子ろうそくを取出せ、さなくば首を討つぞ」と言われ、顫《ふる》えながら菓子蝋燭の箱を出すと、早速に箱を打割って屋敷中に蝋燭を立て、菓子をツマミ食いに食って赤穂浪士は働いた。
「右の役人、左様の徳を以て、露命つつがなく候」という。
又。
「上州様(上野介)左兵衛様(上野介の悴《せがれ》)御立合い御戦い、もとより上州様めがけ申したる事ゆえ、前後左右より取込み申し、ためし討ち申し候。御|疵《きず》二十八ケ所に候。実に御たまりなされぬこそ理《ことわり》に御座候」
これによれば、上野介は立派に抗戦したことになる。上杉家の記録だから多少の潤色はあるに違いない。それにしても、|御疵二十八ケ所《ヽヽヽヽヽヽヽ》とはどういうわけか? 炭小屋で震えるような臆病者《おくびようもの》を二十数カ所も別々に斬《き》りつけるのが、果たして心ある武士のすることか?

吉良上野介に止めを刺したのは内蔵助である。これは内蔵助の相州物の刀の切先に血がついていたのでも明らかである。又上野介を仕止めたのは間《はざま》十次郎と武林唯七の働きであったと、義士の一人吉田忠左衛門が後に語っているが、「ただし、いずれの働きも同前に候。上野介殿首に紛れコレ無しと申すべき為ばかりに、両人の名を書出し候」
と言っているから、二十八カ所の疵は何人かが一太刀ずつ斬りつけたのかも知れぬ。そうなら、ちかごろの愚連隊のリンチぶりと違わぬではないか、と筆者などは思う。武士の情けを知らぬそういう事を義士がするとは考えられない。とすれば、上野介は及ばぬ迄《まで》も抗《あらが》ったに違いないのである。炭小屋にかくれるような臆病者とは、俗説にしてもひどすぎる。
あの松の廊下で、内匠頭に斬りつけられながら一手の応戦もせず、うしろを見せて逃げ出したのを武士にあるまじき臆病至極の振舞いと一般に言われているが、時は勅使|饗応《きようおう》の席である。その饗応使たる職分にある内匠頭の乱業は、大不敬の罪をおかしている。日本の国柄として、武士の意趣にもせよ、勅使を迎える公けの席で私怨《しえん》の行為に出る内匠頭に、尋常の相手をするのが立派な武士とは断じて言えまい。まして上野介は高家筆頭の位置にあった。「気違いに刃物」の内匠頭から難をのがれるのが卑怯《ひきよう》とは一概に言えぬ筈である。討入りの夜、二十八カ所の疵をのこしたのは必死になって逃げまわった——即ちそれ程臆病者だったというなら、そんな臆病者(しかも年寄りだ)を二十八カ所目にようやく仕止める義士たちの腕前は余っ程にぶかったわけになろう。これは考えられない。とすれば抗戦のために蒙った疵である。上野介は、傲慢《ごうまん》な老人だったかも知れぬが、ぜったい臆病者ではなかった。
大石や堀部安兵衛なら、それぐらいのことは見込んでいたろう。あらかじめ、出来るだけの手は打った上での討入りである。裏門のみ破って表門を毀《こわ》さなかったのは、当時、武家屋敷の火事というものは門さえ焼けなければ表向き、公儀に対して火事に遭ったと言わずに済んだ。それゆえ若し自家に火事がおこっても内部で消しとめれば面倒にならなかったので、大方は門を開けずに消したものである。中が混雑していても表門の開かぬ限りは、互いに手伝いは遠慮するのが慣例である。それを大石は利用した。
又、「誰にても上野介殿を討候わば合図のチャルメラを吹くべし、右の笛を聞き候わば皆々玄関へ寄り集まるべし」とも内蔵助は定めている。当時チャルメラは南蛮渡来のラッパで、他の上杉方の呼子笛と紛れない為の用心からである。
「両国橋より本所御屋敷近辺、居借り浪人|数多《あまた》コレ有る分、みな浅野殿家来どもに候|由《よし》、かねがね商人等に身をやつし、油売りなどになり候て、本所御屋敷へ行き、殊《こと》のほか安売りいたし候ゆえ、いずれも茶の煙草《たばこ》のと入れたて、心安きふりに致し候よし、数度出入りいたし、とくと御屋敷の様子も見届置き候よし沙汰《さた》申し候」
とも『米沢塩井家覚書』にある。上野介が本当に臆病者なら、とっくに逃げ出している筈《はず》だ。

赤穂で血盟当初は約三百人が大石のもとで進退を一にすることを誓った。とかくするうちそれが百十四人ほどに減り、討入りの折はわずかに四十六士である。
脱盟していった者が必ずしも卑怯者《ひきようもの》とは言いきれないだろうし、立場が代っておれば四十六士の中にも脱落しかねない何人かはあったろう。そういう軽佻《けいちよう》をきわめた惰弱な元禄風俗に生きる武士たちに、忠臣義士の亀鑑《きかん》として三百年後もなお名を挙げられる運命を創造していったのは、何といっても内蔵助の偉さだった。更にいえば、これは一そう大事なことだが、四十六士の言動を必要以上に美化し、称揚し、伝承して来た意味で、本当に一番偉かったのは切腹の仕様も知らぬ面々を忠臣に仕立てて、讃美《さんび》を惜しまず育《はぐ》くみつづけて来た日本人一般の気質そのものだったと言える。その意味では『仮名手本忠臣蔵』に虚構された武士道の美を何人《なんぴと》もそこない得ないし、『忠臣蔵』を超える大衆の文芸は将来もあらわれることはないだろう。
しかし、四十六士を美化する余り、上野介を殊更臆病者にして自慰するような安易さから、もう吾々《われわれ》は卒業してもいい筈だと思うから、煩雑《はんざつ》を承知で史料による事実を書いているのである。臆病で卑怯者を討つのと、敵ながら堂々たる相手を主君の仇として狙《ねら》わねばならぬ立場におかれた、浪士たちの艱難《かんなん》と、どちらが苦衷に於て深いかは瞭《あき》らかだろう。上野介には或《あ》る意味で非のうちようがないからこそ、大石はくるしんだ。この苦しみは、臆病者を討つ立場に数倍する。若《も》し情況が変っていて、浅野内匠頭が吉良の浪士に狙われていたとすれば、身を挺《てい》して赤穂藩士は主君を護《まも》った筈である。護って討死しても誰《だれ》ひとり忠臣義士とは言うまい。彼も武士われも武士なら、吉良方にも立場の相違こそあれ、赤穂義士に匹敵する何人かはいた筈だ。
そういう吉良方に忠臣となる人物を、死力を尽くして仆《たお》すためには口先だけの悲憤|慷慨《こうがい》で事は成らない。大石のめぐらす策略に、慎重の上にも慎重さのあったのはこの為だった。多分、四十六士が揃《そろ》って堀部安兵衛のような武人なら事はもう少し早く運んでいたのである。赤穂方に大石がある如《ごと》く吉良には上杉の千坂兵部がいる。当時兵部の禄高《ろくだか》一万石である。万石に列する家老に何人の忠臣がいるか? 大石は先《ま》ずそれを指折って数えたろう。かぞえつつ時に暗澹《あんたん》の想《おも》いに昏《く》れて酒盃《しゆはい》をかたむけたのではなかったか。
大石は酒好きであった。

本望|成就《じようじゆ》の後のことだが、大石内蔵助ら十七士は細川家に身柄《みがら》を預けられた。その時の、十七士に対する細川家の扱いは万事非常に行届いたもので、風呂《ふろ》は毎日たてて一人|毎《ごと》に湯をかえる。厠《かわや》へ立つといえば、坊主《ぼうず》衆が跡について来て手水《ちようず》の水をかけてくれる。三度の食事には焼物付の料理が出て、内蔵助が「自分たちは御存じの通り久しい浪人暮しで、かるい食事になれているから結構な料理を毎々|頂戴《ちようだい》すると胸がつかえる。この間の黒飯|鰯《いわし》が恋しい、どうぞ料理の方は今後かるくして頂き度い」と申出たが、料理人の方で、義士にうまい物を食ってもらい度いと腕前をふるうので、一向あっさりした料理は出なかった。
そんな優待の中に切腹の日までを一同|和《なご》やかにすごしたのだが、面々はいずれもたばこが好きで、細川家の接待役の姿を見ると、集まって来て先ず煙草を所望した。次が酒である。
接待役堀内伝右衛門の書いたものによると、面々の中でもとりわけ内蔵助は酒を欠かさなかったという。
或る時、他の接待役が|ごまめ《ヽヽヽ》の煮しめたのを茶うけにと差出すと、さてさて忝《かたじけな》し、よき肴《さかな》出来申し候と口々に言って、各自が紙にすそ分けをして悦《よろこ》んだ。朝晩の食膳《しよくぜん》以外に内密で皆は夜酒をのんでいたが、その肴に屈竟《くつきよう》の品と喜んだのである。彼|等《ら》は夜酒を「薬酒」と呼び、時たま夜酒の出されぬことがあると、
「大石どの、今宵《こよい》はくすりが出ませんが」
と催促したそうだ。すると大石は喜悦して当番の衆に、
「いささか腹痛を申出るものがござる。なにとぞ薬を」
と言う。たいがいは内蔵助自身が言い出すことなので、当番衆も承知して酒を出した。先ず一番に独酌《どくしやく》するのは内蔵助であったという。
——どんなに寛《くつろ》いで、旨《うま》い酒をこの時の大石は飲んだろうか。討入り前のくさぐさの謀《はか》り事や悩みや暗澹たるおもいに昏《く》れて手にした酒を知らねば、喜悦して「くすりを」と当番衆にたのむ大石の人間味は分るまい。
願望の成ったよろこびは、その悲願に賭《か》けられていた苦しみのぼう大であるほど、深く大きいのは明らかである。
そして、最も苦慮していたのが山科閑居の頃だった。
最初の東下りから内蔵助が山科に帰り着いたのは十二月五日。討入りの丁度一年前である。京都へ帰ると、その十五日に嫡男《ちやくなん》松之丞を元服させて、主税良金《ちからよしかね》と名乗らせた。義挙に悴《せがれ》を一味させる覚悟を此《こ》の時はじめて内蔵助は決意したのかも知れない。それから七八日を経て、二十三日、江戸にある原惣右衛門と、大高源吾から吉良上野介隠居の書状が届く。上杉弾正大弼綱憲の子の義周《よしちか》が吉良家の跡目をついだという報《し》らせだ。
義周は上野介の孫に当るが、上杉家の悴が吉良の養子になったからには当然、上杉家の手で上野介の身は護《まも》られるに違いない——

元禄十五年があけると、二月十五日、山科の大石宅で上方《かみがた》にある一党の会合が催された。来る三月は亡君の一周忌だから、三月に何としても決行しようというのが激越派の主張だったらしい。
しかし、一周忌頃は吉良方でも当然警戒していると見なければならぬ、御辺らの思惟《しい》するぐらいのところは、敵方でも読み取る人物の二三は必ずいるであろう、急いでは却《かえ》って事を仕損ずる、今|暫《しば》らく待って、大学どのに恩命降下が出なければ、その時こそは諸子とともに敵家へ切込み必ず年来の本意を達するであろう、まず、それ迄《まで》は此の内蔵助に進退を委《まか》せてもらい度い、と大石は言葉を尽くして一同を慰撫《いぶ》した。いわゆる山科大評定である。内蔵助には徳望があり、信頼もあるので、一党の長老吉田忠左衛門が調停して、しからば神文の誓いをいたそうと、誓約に署名することとなった。この時の人数は、江戸の堀部安兵衛らは除外してほぼ五十名である。さて山科会議が了《おわ》ると、内蔵助は篠崎《しのざき》太郎兵衛と変名した吉田忠左衛門と、森清助と変名した近松勘六に、寺坂吉右衛門を供に加えさせ、江戸の同志との連絡と鎮撫のため京都を発足させた。これが二月二十一日であった。
三月中旬になると、内蔵助は赤穂におもむき、国許《くにもと》近在に散居している遺臣をあつめて、華嶽寺《げがくじ》において亡君一周忌の法会《ほうえ》をいとなんでいる。そうして山科へ戻《もど》ると、吉田忠左衛門に尋《つい》で神崎与五郎を吉良家|偵察《ていさつ》のため江戸につかわした。詫《わ》び証文で有名なこれが神崎の東下りになる。与五郎は四月二日江戸へ到着、麻布|飯倉《いいくら》の上杉家中屋敷に近い谷町に借宅して、あずまや善兵衛と偽名して扇子《せんす》の地紙売りになって敵状探索にあたった。別に前原伊助が、本所の吉良家の裏門前に借店して米屋五兵衛と称して穀物をあきない、たえず吉良の様子をうかがっていた。後には神崎もこの店に同居して共同で事にあたった。
赤垣源蔵は、「徳利の別れ」の講談で有名だが、神崎の詫び証文と同様あくまで作り話で、源蔵は脇坂淡路守の家臣だった兄のもとへ白鳥という貧乏徳利を提げて雪の日にそれとなく別れを告げに行ったというのだが、実際には源蔵には兄はいない。暇乞《いとまご》いに行ったのは妹婿《いもうとむこ》の田村縫右衛門という人の家で、討入りの二日前である。
「その妹ともしみじみ盃《さかずき》をいたし、いつもよりむつまじく物語いたし罷《まか》り戻り、夫《それ》より三日目の夜、本望遂げたり」というから、けっして無惨《むざん》な扱いを受けたのではなかったし、会いに行ったのは妹だったことも分る。源蔵のこの時の衣類は非常に結構なもので、討入りのことを妹には告げなかったが身なりの|きちん《ヽヽヽ》としていたこと、そもそも源蔵は好酒家では無かったこと等から想像すると、講談で喧伝《けんでん》されているのとは大分人物も違う。むしろ妹おもいの、おだやかな優しい人だったのではなかろうか。

ここでも一つ言っておくと、
『忠臣蔵』の「おかる」らしい女性は、たしかに内蔵助の身辺にいた。二条寺町の二文字屋次郎兵衛の娘で、妻子を離別したあとの内蔵助に側女《そばめ》として仕えている。
大石はいよいよ事を決行するため江戸へ下るときに、彼女は妊娠していたらしくて、十一月二十五日付けで大徳寺の海首座《かいすそ》あてに出したらしい手紙を見ると、
「玄渓《げんけい》(寺井玄渓、浅野家典医で一党の同志的後援者)へ頼み候二条出産のことも、出生申し候わば少々金銀つかわし、いず方へなりとも、玄渓つかわし申すべく、人となりて見苦しくあさましき態《たい》になり候わば、その節よきように御心をつけられ頼み申し候。大西へもその段申しつかわし候。もし、いかなる様子にて、野郎(男娼《だんしよう》)白人《はくじん》(下級娼婦)等になり行き候はぜひなき事にて候。この節、いらざる心づかいには候えども、少しは心にかかり、志の邪魔になり候ゆえ、申しいれ候ことに御座候」
と書かれている。生れる子の行末を案じて、哀々《あいあい》の情見るべきものありと海音寺氏は言う。さて七月にはいって、おどろくべき報《し》らせが吉田忠左衛門から山科に届いた。
浅野大学は七月十八日、長の閉門を免《ゆる》されて知行召上げとなり、本家の芸州広島藩主松平|安芸守《あきのかみ》の許へ配流の身となった、万事是に至りて休す——という急報である。
大石があれほど、堀部安兵衛らの意見をしりぞけ、先ずお家再興をと念じた悲願は爰《ここ》に潰《つい》えた。山雨来らんとして風楼に満つ——今こそ事を決すべき時機は来た、と人々は思ったろう、七月二十九日、上方にある同志は急遽《きゆうきよ》、円山|重阿弥《じゆうあみ》の寮に会して、討入りか否《いな》か、内蔵助最後の決心をただしたのである。
この時集合の面々は大石父子以下十九人。原惣右衛門、小野寺十内、大高源吾、武林唯七、不破数右衛門らと偕《とも》に江戸から来た堀部安兵衛も加わっている。安兵衛は、
「上方の長談義にはもう飽き/\仕り候、余命いくばくもなき此の老骨、この儘《まま》にて冥府《めいふ》へ参ったらば亡君に合わせ申すべき顔とてもござらず。老後の思い出に、拙者《せつしや》一人にても吉良邸へ討入り屍《しかばね》をさらす所存ござれば云々《うんぬん》」
と、しびれをきらす弥兵衛老にせき立てられ、内蔵助督促のため京へ上って来たのである。そこへ大学様左遷の報らせである。
円山評定の席で劈頭《へきとう》第一に口を切ったのは六十二歳の老人間瀬久太夫であった。ついで六十歳の小野寺十内が言葉を添え、ともに弥兵衛老の焦慮は人ごとならず、一時も早くこの上は亡君の怨《うらみ》を報じ度いと言った。
内蔵助はこれに応《こた》えて、今までは木挽町《こびきちよう》様(大学)御取立のため微力をつくしたが、これひとえに臣たる者の道をつくさんためであった。しかし公儀の御沙汰《ごさた》といい、大学様の御なりゆきといい、もはや主家再興はのぞめぬ、この上は一同吉良邸に討入って上野介どのの首級をあげるのみである、と言い、
「おそくとも十月上旬には此の内蔵助かならず江戸へ罷《まか》り下る。されば各々方も各自下向あってそれがしの出府を待って頂き度い。——但《ただ》し、それ迄はぬけがけの手出しは断じて致されぬよう固く約して頂き度い」
と言った。一同は承知した。

評定がおわると、一座は急に感慨をおぼえ一瞬粛然となったが、やがて言いしれぬ歓びが春の水にほとびるように一同の頬《ほお》に笑みをうかべさせ、これが京に於《お》ける最後かも知れぬ、面々うち揃《そろ》っての祝宴がはじまった。もう、手のまい足のふむところを知らぬ有様である。まず小野寺老人が、
つわものの交《まじわ》り
たのみあるなかの
酒宴かな
と小謡《こうたい》をうたい出ると、原惣右衛門はさっと扇子をひらいて立ちあがり、
命をしかの隠れ里
命をしかの隠れ里
時しも頃は建久四年、さつき半ばの富士の雪
さみだれ雲に降りまぜて、鹿《か》の子|斑《まだら》や群山《むらやま》の……
「小袖曾我《こそでそが》」の一曲をみずからうたい、みずから舞いおさめた。その翌日、すなわち七月三十日、まず堀部安兵衛が京を出発して江戸へ帰った。当時安兵衛は本所林町五丁目の紀伊国屋文左衛門の店《たな》を借り、剣道指南の看板をかかげていたが、このことは後に詳しく述べる。
ついで他の面々も各々結束して江戸表へ志し、大石の東下《あずまくだ》りの時には義士の江戸に集まるものすべて五十余人あった。
このうちで、安兵衛と同じく本所三ツ目緑町横丁の紀伊国屋店に道場をひらいていた杉野十平次。杉野は中小姓で七両三人扶持の微禄者だったが、親戚《しんせき》中に富裕の人が多く、従って杉野も資産があり、江戸ではその資産を傾けて同志の貧窮を救ったという。武林唯七なども杉野方に同宿した一人である。変名は、杉野は杉原九一右衛門と名乗り、武林唯七は渡辺七郎右衛門といった。
堀部弥兵衛の方は両国矢の倉の米沢町に妻子を同居させていた。
小野寺十内は医者と称して石町三丁目南側の小山屋弥兵衛|裏店《うらだな》の借家にいる。後にここは大石内蔵助父子の投宿した所である。十内は前にも書いたように仙北|十庵《じゆうあん》と変名し、六十歳。家には老母あり、愛妻丹女もあったが、母妻を捨てて節に奔《はし》ったのである。
大高源吾は当時三十一歳の壮年で、内蔵助の下向に前後して十月十七日江戸へ入り、南八丁堀|湊《みなと》町の宇野屋十右衛門なる者の裏店に移って大坂の呉服商新兵衛と変名し、同志の間を斡旋《あつせん》した。忙中に閑ありというか、源吾は討入り前の秋に俳書『二つの竹』を撰《せん》している。
潮田又之丞《うしおだまたのじよう》は源吾とともに内蔵助の股肱《ここう》となって大義のために尽瘁《じんすい》したが、彼は馬回りと絵図奉行を兼ね、二百石を食《は》んでいたというから同志の中では身分のある方である。原田|斧《おの》右衛門《えもん》と変名し、内蔵助に従って東下りした。
その他、間瀬久太夫は医者という触れ込みで新麹町四丁目に一家を構え、不破数右衛門は新麹町六丁目に原惣右衛門らと同居する。安兵衛の道場には、横川勘平が同居していた。 
 九月に入ると、内蔵助は主税を伴って石清水《いわしみず》の男山八幡宮に参拝し、悴の武運を祈願して一たん京都へ帰ったが、同十九日、主税は先ず、明年三月が亡君の三回忌だからその法会準備のためと称して間瀬久太夫、小野寺幸右衛門(大高源吾の弟で十内老人の養子)、大石瀬左衛門らに足軽、若党を引連れて京洛《きようらく》の地を離れ、垣見左内と変名して短亭長駅五十三次を踏破し、九月二十四日江戸日本橋石町の小山屋弥兵衛方に投宿した。
この報に接して江戸の同志はいよいよ総帥《そうすい》内蔵助の下向も間近かであろうと意気衝天の勢いがあった。
それから約十日後の十月七日、機既に熟せりと見て内蔵助は、梅林庵から移っていた京都三条の旅舎を発足して、江戸下向の途についた。日野家の用人垣見五郎兵衛がその変名である。随伴したのは潮田又之丞、近松勘六、早水藤左衛門、菅谷半之丞、三村次郎左衛門及び若党、中間三人、上下十人、匹馬粛々として東海道を東《あずま》へ下ったが、その京都出発|間際《まぎわ》、内蔵助が親戚の近衛家の諸大夫進藤|筑後守《ちくごのかみ》に百両の借金を申込んだところ、大石の志を知らぬ進藤家では、
「また、だだら遊びに使い果すのであろう」
と、ていよく断ったところ、内蔵助は、さらば江戸に下り候間、おあずけ致しおく、と長持一|棹《さお》をあずけて江戸へ下った。討入りの後、遺書が来て長持をあけてくれとあったので、ひらいて見たらそれぞれ名札をつけて形見分けをしてあったそうである。さて京都を出て十六日目。藤沢へ出迎えた吉田忠左衛門を先導として鎌倉雪ノ下の旅宿に入り、滞在二日ののち、鎌倉を出て川崎在の平間村の富森助右衛門の隠宅へ入った。この隠宅は軽部五兵衛という、浅野家へ秣《まぐさ》を納入していた百姓の所有地に建てたものだが、内蔵助の下向に先立って大石の家来瀬尾孫右衛門が借りておいたという。
此処《ここ》に滞在すること十日余り、江戸の模様を偵察《ていさつ》して同志一党へ訓令を発した。内蔵助自身が直接、そして最初に発した訓令である。
「一、拙者宿所は平間村にあい定め申し候間、此処より同志の衆中へ、自身諸事申し談ずべき事」
を第一条とする十カ条の訓令である。相じるし相ことば、討入りの武器、服装などの指示を与えたものだった。ついで十一月五日になると、案外、赤穂浪人に対する警戒の厳ならざるを知って、悴《せがれ》垣見左内(主税)の伯父五郎兵衛と称し、訴訟事件のため後見として入府したと見せかけて小山屋弥兵衛の控え家に逗留《とうりゆう》したが、この小山屋は当時|繁昌《はんじよう》した宿屋で、長崎出島のオランダ甲比丹《カピタン》の来朝の際などは宿舎に定められていた。
大石は他を憚《はばか》って、領袖《りようしゆう》株の小人数の者にしか出入りをゆるさず、平間村とこの石町の小山屋の間を往復してその宿所を晦《くら》まし、上杉の刺客にそなえて常に護衛を厳にしていたが、その小山屋に、混血娘のあのヘレンがいたのである。——
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