ここで丹下典膳の方に話を戻《もど》さねばならない……
飄然《ひようぜん》と白竿屋長兵衛の住居を出てから、杳《よう》として行方を断って隻腕《せきわん》の剣客典膳の消息を知る者は誰《だれ》もなかった。元禄十三年十月、それまで、ひたすら主人の帰りを待ちわび長兵衛の家で世話になっていた老僕《ろうぼく》嘉次平が、或《あ》る朝、それが習慣の丹下家の菩提寺《ぼだいじ》へ墓の掃除に行こうと家を出かかったところで、急にフラフラと昏倒《こんとう》した。
「嘉、嘉次平さん……どうなすったんです!」
玄関へ送り出していたお三が愕《おどろ》いて駆け寄り、
「だれか!……兄《あに》さん、だ、誰か……」
屋内へ悲鳴に似た声をあげる。あたりにいた若い衆がびっくりして、お三の前後から、
「爺《じい》さん、気を、気をしっかり持っておくんなせい」
ゆさぶるようにして励ましたが、
「お殿様が、おかえりなされますぞ、……お、お、おとのさまが……」
とろん、と生気のない眼《まなこ》でうつろに虚空を睨《にら》みあげると、それきり、意識不明になった。
すぐ奥座敷へ担ぎ込まれる。医者よ薬よと大騒ぎになる。あらゆる手段をつくしても何とか生き返らせようと、長兵衛の尽くした努力は、当時近所の美談になったほどであった。
「嘉次平どんをこの儘亡《ままな》くならしちゃあ先生に申訳がねえ。あんなに待っていた嘉次平どんだ、この儘じゃあ死んでも死にきれめえ……」
そう言って、何としてでも助かる方法はないものかと医者に縋《すが》るようにして頼んだ。
この頃《ころ》の白竿組は、住居の方も拡張し、江戸市中で白竿組といえば知らぬ者のない程、人入れ稼業《かぎよう》の元締にのし上っていた。長兵衛はそれをあくまで脇坂淡路守屋敷の普請《ふしん》を請負えたおかげであると言い、つまりは典膳がいてくれたからだったと、機会ある毎に身内や同業者に洩《も》らしていたそうである。そのため一そう長兵衛の人気はあがったというが、そんな義理にあつい男だから、老僕嘉次平の世話をすること恰《あたか》も実父に仕える如《ごと》くだったという。もうこの元禄十三年には、父親伝右衛門夫婦は亡くなっていたので、組の小頭に起用された辰吉、巳之吉など少数の乾分《こぶん》を除いては、典膳を知る者もなかった。それでも白竿組は、丹下先生のおかげで今日《こんにち》にまでなれたのだと口癖に言う長兵衛だった。若い衆が、いたわられて却《かえ》って淋《さび》しそうな老僕を自分のじいさまか何ぞのように親身に世話をやいたのも無理でない。それだけ猶更《なおさら》、嘉次平の昏倒には一同、心を痛めた。
が、介抱の甲斐《かい》もなくその月のすえ、とうとう嘉次平は嗄《かす》れ声で最後に典膳の名を呼んで、みまかった。どんなに行方知れぬ主人の身を按《あん》じつづけた老人かを知っているだけに身内一同、目頭を熱くしたが、中で、最も激しく悲しみの声をあげたのはお三であった。
お三はもう二十六の大年増《おおどしま》になってしまった。いつ戻って来るか分らぬ人、何処《どこ》へ行ったかも知れぬ殿御を私《ひそか》に待ちつづけた六年の歳月である。
長兵衛はそんな妹の本心を知ってか知らずか、嫁に遣ろうとは言わなかったし、白竿組がのし上って来るにつれて降るように持ちかけられる縁談にも、
「あれは男まさりの気の烈《はげ》しい女でござんす、とてもの事にゃ貰《もら》って頂いて二年たあ続きますめえ。お互い、あとで苦情のひとつも聞き合わなきゃあならねえ話——ま、何もなかったことにしてこの話は、お納めなすっておくんなせえ」
丁寧に頭をさげ、ひきさがってもらうのが常だった。縁談のあったことは|おくび《ヽヽヽ》にも妹の前で出さない。
長兵衛の偉かったのは、女遊びをしなかったことである。稼業が稼業だけに、岡場所や廓《くるわ》に誘いをうけるのは始終のことだが、招かれては往ってもけっして痴態を演ずるようなことはしなかった。男っ振りのいい、気性のさっぱりした人入れ稼業の元締を世間の女の方で放《ほう》っておかない。なかには酒にまかせて執拗《しつよう》に掻《か》き口説く情の深い女もいる。ことごとく適当にあしらって長兵衛は戻る。
いちど、女房《にようぼう》を迎えたことはあった。三年目に時疫に罹《かか》って急逝《きゆうせい》した。以来、男やもめで通している。終《つい》には世間の方で、あれは兄妹《きようだい》は兄妹でも兄妹|姦《かん》の方だと影口するものもいたが、笑って聞き流した。
お三とて所詮《しよせん》は生身《なまみ》の女である、兄が艶事《つやごと》に耽《ふけ》るのを身近かに見てはやっぱり心おだやかではあるまい、くるしかろうとは考えて身をつつしんだのである。そういう妹への思い遣りといたわり方を知る長兵衛は男であった。
お三の方で、時には後妻を迎えたら、とすすめる。
「おめえのようないい女は世の中にゃ居ねえや。口惜しいがな」
笑って相手にしなかった。口にこそ出さないが、いつかは典膳は嘉次平の消息を知るためにも戻って来るに違いない、その時まだ典膳が独り身なら、その時こそ、待ちつづけた妹のいじらしさを愬《うつた》えて、側女《そばめ》にでも貰ってもらいたい……そんなのぞみも長兵衛にはあったのかも知れない。
いずれにしろ、いつ帰ってくれるか知れぬ人を待つ、そうした二人の心に或《あ》る支えと希望を持たせてくれていたのが嘉次平の存在であった。女のお三にすれば、嘉次平の身の世話をしているだけで何か慰められるものがあったろう。或る意味では自分なぞより、もっと|切な思い《ヽヽヽヽ》でその人の帰りを待ち侘《わ》びる老人だったから。
その老僕が、みまかったのである。白布を蔽《おお》われた仏のかたわらで、声をあげて慟哭《どうこく》したのも無理でなかった。
「泣くんじゃねえ。……泣くんじゃねえってよお」
言う長兵衛のうなだれる頬《ほお》にもハラハラ雫《しずく》があふれた。
その晩は通夜《つや》。
翌朝、生前の嘉次平がそれを日課のようにしていた丹下家の菩提寺——青山三分坂の法安寺の墓地のかたわらに、あの白狐《びやつこ》の碑と並べて丁寧に葬《ほうむ》った。このとむらいは立派なものだったそうで、長兵衛の父伝右衛門が亡くなった時よりも万事心をくばった葬式だったという。併《あわ》せて中陰の四十九日には、ほとけが生前口癖に言っていた丹下家先代の法要を典膳の名代として長兵衛はいとなんだ。
さて嘉次平の没後、お三は気が抜けたようなうつろな眸差《まなざし》でぼんやり庭を眺《なが》めたり、思い出しては嘉次平に代って丹下家の墓へ香華を供えにいったりした。嘉次平の碑の前で長い間合掌しているのを寺僧がいぶかしんで、
「ほとけは祖父にあたられるのかな?」
言葉をかけることもあったという。
そのうち元禄十三年が暮れ、十四年三月、殿中松の廊下でのあの刃傷《にんじよう》である。江戸中はその話でもちきりだったがお三には何の関心もなかった。
ついで赤穂家の断絶、城明渡し、家中の離散から浅野大学閉門、吉良上野介の隠居と、武士社会は遽《あわただ》しい動きを見せていたがお三にとって、上野の桜が一夜に散ったほどにも心にかかることでなかった。そうして更に夏がすぎ、秋風の立ちそめた八月中旬。
同業者の前川忠太夫なる人物がひょっこり白竿屋に長兵衛を訪ねて来た。
もう団扇《うちわ》の要らぬ季節になっているが、あらたまった白扇を持ち、羽織袴《はおりはかま》で供の者に手土産をさげさせ、何か屈託した様子だった。
長兵衛は仕事があって他出していたが、報《し》らせを聞き、急いで帰って来ると、
「こりゃあわざわざお出掛けを頂きやして恐縮にござんす。御用がおありなら、そう仰有《おつしや》って頂きゃあわっちの方で出向いてめえりやしたものを」
奥座敷へ招じて先《ま》ず挨拶《あいさつ》のあと、長兵衛は笑ったが、
「いやいや、今じゃ元締におなりなすったお前さんに、そう丁寧に挨拶されては痛み入ります。——実はな、無理を承知の頼みがあって来たのじゃが……」
忠太夫はもう頭髪に白いものの混り出す年である、縁側から吹入る風がその小鬢《こびん》をほつれさせている。
「何でござんしょう?」
前川忠太夫は、浅野家のまだ盛んな頃、出入りをゆるされていた三田松本町に住む日傭頭《ひようがしら》で、長兵衛にすれば大先輩である。
「実はな、お前さんも聞いておろうが、もと赤穂の御家老で大石内蔵助さまがな」
長兵衛が怪訝《けげん》そうに目をあげると、
「お前さんも噂《うわさ》に聞いておろうがの、去年、その大石様が泉岳寺へ亡き内匠頭さまの墓参のため江戸へ来られた折に、お泊りなされておったのがこの忠太夫の住居でな」
「それならわっちも伺っておりやした。浅野様であのような御不幸がおありなすったのは兎《と》も角《かく》として、よくまあ昔の出入りをお忘れなさらず、お世話をなすったもんだ、人間は、ああでなくっちゃならねえと若え者にも話したことでござんした」
「いや、そう言われると穴があったらはいりたい……なにさまナ、お国家老であらせられた大石様ほどのお人じゃ、その気におなりなすったら何処へでも、お宿ぐらい御不自由はなさるまいに。人夫頭ごときこの忠太夫を頼ってお越し下さったというのが、滅法うれしくてな、出来る限りはと、ま、お世話をさせて頂いたのじゃが……」
「—————」
「実は、そういう行き掛りがあるので、今度ばかりはハタと困《こう》じ果てての」
日傭頭忠太夫が語るのによると、このたび本所松坂町へ屋敷替えで移った吉良上野介の新邸に、あたらしく二|棟《むね》ばかり隠居所の増築をすることになった。吉良家へ出入りの頭梁《とうりよう》から人夫の方は忠太夫に差出してもらい度《た》いと話があったが、何さま浅野と吉良の関係がある。痛くもない腹のひとつもさぐられるのは迷惑だし、ついては、何かといそがしい最中《さなか》であろうが、普請場《ふしんば》の人足を白竿組で引受けてもらえまいかというのである。
「何の御相談かと思ったら、そんなことでござんすかい。ほかならぬ前川のおやじさんのお申出——よござんす、ほかの仕事は打遣っても必ずお引受けいたしやしょう」
「承知してくれるか、ありがたい」
内心ほっとしたらしく、はじめて出されていた茶に手をつけると、旨《うま》そうに一口のんで、
「ところでな、もう一つ——」
湯呑《ゆのみ》を膝《ひざ》に戻した。
「その普請場の模様は一切、他言をつつしんでもらいたい、という吉良様のきついお達しでな」
「?」
「いずれ、頭梁とも詳しい打合わせはしてもらわねばならんが、この点、わたしの口からもとくに頼んでおきたい」
「喋《しやべ》るなとおっしゃりゃあ、たとえどんなことがあっても喋るわっちじゃござんせんが、いってえ、何故《なぜ》ですね?」
「…………」
「お考えちげえをなすっちゃ困ります。浅野の、吉良様のと申したって、わっち共にゃ特別|御贔屓《ごひいき》を蒙《こうむ》ったわけじゃなし、どちら様へもお味方はいたしませんが、おやじさんは、申してみりゃあ浅野家にお出入りなすったお人だ。どうしてそれが、わざわざ吉良様の御普請のために……」
前川の忠太夫が帰ってゆくと長兵衛は客の去ったあとに、暫《しば》らく腕組をして動かなかった。
お三が後片付けにはいって来て、
「あにさん、御用は何だったえ?」
声をかけると、
「どうも、わけが分らねえ……」
ひとりごとにつぶやいたが、
「辰吉を呼んでくれねえか」
辰吉が白竿組の印半纏《しるしばんてん》をまとってはいって来ると長兵衛は声をひそめて何事か相談した。お三は心得て座をはずしたが、廊下へ出た時ふと耳に入ったのが典膳の名前である。
どきっとして、お盆の湯呑を思わず落しそうになった。
「元締、そ、そりゃ本当でござんすかい?」
辰吉の声もうわずっている。
「しっ。声が高え。……まだ確《しか》としたことは分らねえ、わっちの見込んだ迄《まで》の話——お三に聞かしちゃあ、毒だ。いいな、はっきりするまでは何も知らさずにおいてくんねえ」
「へ、へい……」
あとは聞こえない。早鐘をうつ動悸《どうき》をしずめかね、お三は柱に暫らくじっと凭《もた》れていた。
それから間もなく辰吉は何処かへ駆け出していった。兄の長兵衛は、客座敷を何気なく出て来るとこれ又むつかしい顔で仕事場へ出向いて行く。
前川忠太夫が依頼した吉良邸の普請というのは隠し部屋のことである。忠太夫は、彼自身が言ったように以前の浅野家に出入りの日傭頭で、大石内蔵助が最初の東下《あずまくだ》りの折にはその縁故で前川宅に投宿した。
そんな間柄《あいだがら》の男が、わざわざ吉良邸の隠し部屋の普請に人夫をと頼まれるのも奇怪なら、忠太夫が、それを白竿組に又頼《まただの》みするというのも不審である。
心から浅野家の否運《ひうん》をなげき、大石一味に同情を寄せるほどの忠太夫であれば、義士討入りの万一の用意に、邸内隠れ家の様子を知る屈竟《くつきよう》のこの機会をのがす筈《はず》はないだろう。又吉良方で、事もあろうに浅野家に出入りの日傭頭を頼むというのはわけが分らない。
それで長兵衛は問いただしたら、意外なことを忠太夫は答えたのである。
「実はわしも不思議に思うてな、頭梁に先ず念をおしてみた、そうしたら、どうも人夫は前川組の者共でと、上杉さまからお達しがあったらしい」
「上杉?……」
「大石様をお世話したことも承知の上で、と申されたそうな」
「わたしにもよくは分らんが、何でも上杉様の御家老で千坂兵部さまと申されるお方が、特にこの忠太夫に人夫を申しつけるようにと仰せつけられたそうでの」
「それじゃおやじさんは、こんなことを訊《き》くなあ出過ぎたようでござんすが、誰ぞ、その話を浅野の御家来衆に相談なすったんでござんしょうね?」
「した。お前さんだから打明けるが、さるおかたにな。そうしたら、この仕事はお引受け申さず他へ頼んだらと、ま、そういう御注意をうけたので、こうして忙しい元締とは承知のうえ出掛けて来たようなわけでな」
「すると、わっちに、代って仕事を引受けるよう頼めとも、その誰かさんが申されたのでござんすかい?」
「……そうだ、と言わなきゃあならないのかね、元締?」
くるしそうな忠太夫の目許《めもと》だ。
「いえ」
あわてて長兵衛は手を振った。
「そうでござんすかい。いや、分りやした。もう何もお尋ねはいたしますめえ。この話は黙ってお引受けいたしましょう」
と言った。
「聞いて下さるか」
「承知いたしやした」
忠太夫はほっと、あらためて安堵《あんど》の色をみせ、間もなく世間話をして帰っていったが、座を起つ時に、何もきかず呑み込んでくれた長兵衛に済まぬと思ったのだろう。
「これは世間の噂と思って聞き流しておくれ、元締、お前さんには浅野様と上杉の御家老の両方から、目が光っているそうな」
「え?」
「いや、お前さん自身にではない、もう大分まえの話になるが、片腕のない剣術の先生をお世話申したことがあったな、その先生の様子よ」
「じゃあおやじさん、せ、せんせいは江戸へお戻りなすったんですかい?」
長兵衛の声がうわずったのも無理ではあるまい。
「よくは知らん……何でもお見かけした人があるそうでな」
「ど、ど、何処でござんした?」
「小石川中天神下の道場とか——ま、ま、そのはなしはいずれ又のことに……ともかく、頼みますぞ」
匆々《そうそう》に忠太夫は辞退していった。長兵衛は早速辰吉を呼んで、とりあえず天神下へ様子を見に走らせたわけである。よほど確実なことが分ったうえでないと、お三の耳に入れまいとしたのも実の兄の気持では当然の思い遣りだったろう。江戸の地をふむからには、お三はともかく、老僕の様子を見に先ず一番にこの家へ戻って来るお人とばかり信じていた、その確信の裏切られた侘《わ》びしさも長兵衛にはあったかも知れない。辰吉の戻りが待ちきれなくて、だから家も出たのである。
ひと足ちがいに、辰吉が戻って来た。
「元締はお出かけになったんでござんすかい?」
ぼんやり、老僕嘉次平の位牌《いはい》の前へ坐り込んでいる、お三のうしろから辰吉が声をかけた。
物を思っていたのでお三がハッと気づいて振返ったのは少時《しばらく》してからである。
「先生に、お会いしたのかえ?」
目の色を読んだ。
「そ、そうじゃねえんでござんすが……」
言いかけて慌てて、妹には黙っているようにと口止めされたのを思い出したのだろう。
「元締は、何処へお行きなさいやした? 普請場でござんすか」
「辰吉」
お三はすがるような眸差《まなざし》をあげる。
「お前、何か先生のことで聞いて来たんじゃあないのかえ? お願い、おしえておくれ」
「わ、わっちゃあ別に……」
「たつきち」
お三の黒味のかった瞳《ひとみ》にみるみるうるみが湧《わ》いた。
「この通り。……おしえておくれ」
掌《て》を合わすのだ。
辰吉の表情がきゅっとゆがんだ。彼がひそかにお三を想《おも》っていても不思議のない話である。
「元締にゃ、堅く口どめされておりやすが、なあに、それも事がはっきりしねえからのこと。いずれはお耳にへえることだ。申上げやしょう。いかにも先生は江戸へお帰りになっておりやす」
「!」
「わっちゃまだ、確《しか》とお見掛け申したわけじゃねえんでござんすが、いま小石川中天神へ出掛けるつもりでおりましたら、姐《あね》さんも御存じでござんしょう——ソレ、深川黒江町の井筒屋の旦那《だんな》、あのお方が、たしかに片腕の無え御浪人を昨日だか芝の源助町でお見掛けなすったそうで、あんまりよく似ておいでなさるゆえ余っ程声をおかけしようと思ったが、人違いでもしちゃあとためらっているうちに、行過ぎておしめえなすったとか」
「ど、どんな御様子だったんだえ?」
「何でも、女連れ——」
「!……」
「それも普通の娘さんじゃねえ、混血娘らしいと井筒屋の旦那は申しておりやした」
「—————」
「姐さん」
辰吉は真心をおもてに溢《あふ》らせ、おのが両手を膝にはさんで坐り直った。
「気になさらずにいておくんなせえ、こうなりゃあ、身内が総出で江戸中を尋ね歩いても必ず先生はお連れしてめえりやす。——なあに、あんな御立派な先生だ。わけがなくっちゃあ何を差措《さしお》いても亡くなった爺さんの様子を見に、お帰りにならねえわけはござんすめえ。きっと、御事情がおありだ。だけどそれがお済みになりゃあ、来るなと申上げても帰っておいでなさるお人だ……わっちゃ、これだけは夢うたぐっちゃおりませんぜ」
その晩。
お三は兄の長兵衛が夕方仕事場から戻《もど》って来ると、何か顔をあわすのを避けるようにして自分の部屋へこもり、ぼんやり、いつまでも坐《すわ》り込んでいた。典膳が江戸の地を踏んでいるのはもう疑いようがない。にも拘《かかわ》らず、白竿屋へ帰ってくれないのは、けっきょく、自分がうとまれているためだと直感的に思った。何のため、六年もその人を待ちつづけたのか?……
連れ立っていた女というのが、お別れになった筈《はず》の奥様だったのなら、むしろ気持は救われたろう、とお三は想《おも》う。以前典膳がまだこの白竿屋でぶらぶらしていた頃《ころ》に、思いきって紀伊国屋の船で南蛮あたりへ渡航してみたいと洩《も》らしていたことがあった。混血娘というのは、もしかしたらそんな南蛮渡来の女性かも知れず、それならこの六年の間に、典膳は本当に海外へ出向いていたわけになる。
むろんお三とて、きびしい鎖国のお達しのあるのは知っているが、紀伊国屋の財力と、典膳の忽然《こつぜん》と消息を絶った経緯《いきさつ》から想像すると、どうしても本当に海外へ出掛けていたお人としか思えないのだ。それならもう、混血娘というのはただの未婚女性ではない……
燈芯《とうしん》が、じじ……と時々|侘《わ》びしい音を立てた。家の中はめずらしくひっそりと静まり返って、いつものように晩酌《ばんしやく》で甚句《じんく》を謡う若い衆の声もない。博奕《いたずら》をしているらしい様子もない。典膳が江戸へ姿をあらわしたことが、口から口へ囁《ささや》きつがれて妙に深刻な感慨に一家の者すべてが陥っているからだろう、お三はそう思った。
実は、もう少し長兵衛の内心は複雑だったので、典膳らしい人物に井筒屋さんが出会ったと辰吉に聞くと、すぐその辰吉をもう一度井筒屋へ走らせ、紛《まぎ》れもなく典膳は江戸へ戻っていることを確信したが、同時に典膳が江戸に入ってかなり日数の立っていることも意外なところから知れた。同じ小普請人足の請負業者で、むかしの典膳を見知っている者が二人ばかり、もう半月も前にそれらしい姿を一人は本所、ひとりは新麹町で夫々《それぞれ》見掛けたというのである。
(何か、ふけえわけがおありなさるに違えねえ……)
長兵衛はそう思う。白竿屋へ帰るのが長兵衛らに後日、迷惑の及ぶ何か事情があるのだ。さもなくて姿を見せぬお人ではねえと思う。
問題はその事情である。
ここで長兵衛の思い当ったのは、曾《か》つて典膳の妻が上杉家筆頭家老の娘だったということだった。また千坂兵部が、あの権現与太郎の一件の前、入牢《じゆろう》中の典膳の身柄《みがら》を引取り度いと申出ていた咄《はなし》も思い出した。——となると、吉良家の普請人足に前川忠太夫を上杉家で指名したこと、それを赤穂浪士の誰《だれ》かが白竿長兵衛に頼めと示唆《しさ》した話まで、何となく、すべてが同じ一つの糸でつながっているような気がするのである。その糸をたぐってゆけば、元は丹下典膳に結びついているような気が。……
それから二三日して、吉良家の増築普請を受持つ南新堀町二丁目の大工甚兵衛というのが、若い者を一人供につれて長兵衛をたずねて来た。
甚兵衛は顎骨《あごぼね》の四角に出張った、みるからに意志のつよそうな四十年配の頭梁《とうりよう》である。
おたがいに、名前だけは聞いているが行き違って親しく膝《ひざ》を交え話しあったことはない。
午《ひる》にはまだ間のある、爽《さわ》やかな朝気の満ちた庭を眺《なが》める座敷に、両人は挨拶《あいさつ》をして対《むか》いあった。縁側の軒に吊《つ》り忘れた風鈴が、折々思い出したように微《かす》かに鳴る。その下には石の頂きを握り窪《くぼ》めた手水鉢《ちようずばち》があり、上に伏せてある捲物の柄杓《ひしやく》に、やんまが一|疋《ぴき》止まって、羽を山形に垂れて動かなくなった。
「あらかたの話はもう前川のおやじさんから済ましていなさると思いますがね」
甚兵衛は浅黒い顔を引|緊《し》めて、笑うともなく頬《ほお》をゆがめ、いずれ二人で打|揃《そろ》って吉良家の御用人へ挨拶に伺い、その折に詳しい日取の打合わせや増築の場所を点検させてもらうことになるだろうが、目下の予定では、一日も早く建て増すようにとのお達しがあるので、明日にでも都合がよければ一緒に出向いてもらい度い、今日はただその折合いをつけてもらいに来たのだと言った。
「明日でござんすね、ようがす。わっちの方じゃあ何もかも前川のおやじさんに約束した仕事、明日から早速人数を繰出せと仰せられても構わねえ心づもりで、参りやしょう」
「そうして貰《もら》えると有難《ありがた》い。ところでだ元締、こちらに適当な『杖突《つえつ》き』をして頂けるお侍はおいでなさらねえかね、もし居て下さると、万事好都合なんだが」
「杖突き?」
「ま、相手は何といっても高家御筆頭をおつとめなされた吉良様だ、まして、米沢上杉様から御養子がおはいりなすった、町家の普請《ふしん》をするようなわけにゃいかねえことぐれえは、元締も先刻承知していなさるだろう。本来なら、わっちの方で杖突きはお願えしておくのが順序だが、あいにくと……」
「頭梁」
長兵衛が背をかがめ気味に、下から甚兵衛をうかがい見た。
「お前さん、誰かを目当てにわっちへ仕事を渡して来なすったね?」
「いや、元締へ話の橋い渡したのは前川のおやじさんだ、誤解しちゃあいけねえぜ」
「じゃあその前川のおやじさんへ、わっちに頼めとお申しつけなすったのは、本当は誰なんですい?」
「…………」
「わっちも江戸で請負い人足の元締をつとめている男。まんざら、あき盲《めくら》じゃあこの仕事はつとまりますめえ。何も言いづれえことを聞かして貰おうたあ言いませんが、前川のおやじさんに聞きゃあ赤穂の御浪人だ、お前さんの口ぶりだと上杉様あたりからお命じなすった様子。一体こりゃあどっちが本当なんですね?」
甚兵衛はくるしそうに黙り込んだ。どうやら長兵衛の勘はあたったようである。
「元締」
ややあって、いかつい顔に似ず弱々しいわらいをうかべると、
「口の堅《かて》えで評判のお前さんのことだ。どうせは隠し部屋の仕事もしてもらわなくちゃならねえ……一切ぶちまけて、話してくれてもいいと思うかも知れねえが、こればかしはわっちの一存じゃどうにもならねえ。何もきかずに、黙って仕事だけ引受けてもらうわけにゃゆかねえかねえ」
「頭梁。くどいようだが、わっちも白竿の長兵衛だ。一たん引受けると約束したからにゃどんなことがあったって仕事だけはやり了《おお》せますよ。ただね、今お前さんの仰有《おつしや》ったとおり、相手は高家御筆頭をつとめなされた吉良様だ。ましてあの御刃傷の一件がある。——ね、隠し部屋を造りなさるからにゃ、相手はお大名、どんなことで秘密の洩《も》れねえようにと、こちとら、バッサリやられねえとも限りますめえ?……この仕事を前川のおやじさんに相談うけた時、わっちゃ先ず一番にそれを考えて、おやじさんにゃ恩がある。こりゃあまあ、死ぬ覚悟で引受けにゃあなるめえと——」
「…………」
「思いちがいをしちゃいけませんぜ、わっち一人で済むことなら何も今更こんなキザな文句は吐きゃあしません。頭梁の話を聞いていると、どうやら本当の目当はこの長兵衛じゃねえようだ、それもわっちが以前にお世話申したことのあるさる御浪人……。頭梁、わっちゃね、そのお方にゃ口につくせねえ御恩をうけておりやすよ。言ってみりゃあ、白竿組が今日のようになれたのもみんなその先生のおかげだった。わっちの体ひとつで済むことなら死ぬ気で引受けるなぞと、きいたような白《せりふ》を吐きゃあしませんが、そのお方の身に迷惑のかかるような仕事とあっちゃあこの白竿長兵衛、明日お仕置になると分ってもお断りするより仕様がござんすめえよ。え?」
「元締」
甚兵衛の顔が再び意志のつよそうな表情に引緊った。
「よく分った。お前さんのそのせりふを聞いちゃあ、わっちも頭梁の甚兵衛、江戸っ子だ。何もかもぶち割って話をしやしょう」
手にしていた莨入《たばこい》れをしまって腰に挟《はさ》んだ。
「実はほかでもねえが、お前さんの今言った御浪人——丹下典膳さまとか仰有るそのお人を、上杉様の方で必死におさがしになっていてな」
「待ってくんねえ、じゃ上杉様の方じゃ、まだ先生の居所はつきとめていなさらねえんでござんすかい?」
「いかにもよ。江戸にたしかにおいでなさると迄《まで》は分ったが、何処にお住いか、まるっきし当てはつかねえ、それで若《も》しや元締んところへあたりゃあ様子が知れるんじゃねえかと」
「一体、そ、それを仰有ったのは誰ですい?」
「御家老の千坂兵部さまだが、実をいうとこのお方が今、明日も知れねえ御重体でな、どうしてもその御浪人にお会いして、おたのみなさりてえことがあると……」
甚兵衛が帰ってゆくと長兵衛は大声でお三を部屋に呼び寄せた。顔の色がこの数日来とは打って変り、喜色に溢《あふ》れている。
「お三、先生は偉《えれ》えお人だ。わっちらをお見捨てなすったんじゃねえぜ」
「?……」
「何てえ顔をしやあがる。こ、これがお前にゃあ嬉《うれ》しくねえのかい」
「だって兄《あに》さん、出し抜けにそんなこと言ったってあたしゃ」
「お、それもそうだ、あははは……この長兵衛としたことが、とんだ慌《あわ》て者になりゃあがったぜ、ははは……」
よほど嬉しいのだろう。笑いながらいそいで目頭をぬぐうと、
「こうなりゃあ何度も同じ話をするのはまどろっこしいや……好い機会だ、身内の奴《やつ》らにも聞かしておきてえ。——三。辰吉や巳之吉がいたら直ぐこれへ来るように言ってくれ。——それからな、爺《じい》さんの位牌に、ひとこと、先生にお逢《あ》い出来てよかったなあと、そう声をかけてやんな」
「逢えたって?……」
「お前はちかごろ、魂の抜けた尼《あま》みてえにしょんぼり墓の前へ立ってるから気がつかねえんだ、いま頭梁がうち明けた話にゃあ、先生は嘉次平とっつあんの亡くなったのを風の便りに聞きなすって、もう何度も墓参りをしていなさる」
「!……」
「それを先生の伯母|婿《むこ》さまとやらが一ぺんお見掛けなすって、上杉様へ何かの折にお話になったのがそもそも今度の——おっ。こりゃあみんなの前で話すことだった。さ、ともかく野郎たちに此処へ来るよう言ってくんねえ」
兄の打って変った明るさに染まって何となくお三の頬も上気してくる。あわてて皆を呼びよせようと座敷を出かかると、
「お三」
長兵衛が呼びとめた。
「おめえは、いいお人に惚《ほ》れてくれたなあ——」
「いやだよあにさん」
「ははは……む、無理もねえ——」
ぱあっと赧《あか》らむ妹を見上げた兄の目が、糸のように細くなってうるんでいる。
小頭《こがしら》なみの意気のいいのが六七人、辰吉を中に、長兵衛の前へ左右に居並んだのはそれから間もなくだった。
長兵衛はお三をそばへ置いて言った。
「みんな、今日は嬉しい話をきかせる。ほかでもねえ先生の御消息が、知れたぜ」
「!」
「あわてちゃいけねえよ。まだ何処にいなさるかは分らねえ。がとにかく江戸へお帰りなすって、亡くなった爺さんの墓参りをなすったことぁ分った。それについて、一両日中にゃわっちらは吉良様の御普請の仕事をはじめる。すると必ず、いいか、必ず先生はわっちらの普請場へお出《い》でなすって、それとなくこの仕事からは手を引くようにと御忠告なさるに違えねえ、そしたらな、どんなことがあったって先生をつかまえて離すんじゃねえんだ。いいか?」
「元締、何故先生は仕事をしちゃならねえと忠告なさるんでござんす?」
「こんどの仕事を引受けると、どんなことでわっちらに厄難《やくなん》が及ぶかも知れねえ、それを御心配下すっての親ごころよ。うれしいじゃねえか、白竿屋へ戻ったのでは、みすみす危い仕事をさせる、それが気の毒だと、わざと姿ぁお見せにならなかった——」
「…………」
「だがな、そうと知ったら猶更《なおさら》、この身はどうなろうと、わっちらも江戸っ子だ。お侍は義のためにゃいのちをお捨てなさる。同じ人間に生れて、小普請人足ながらそれが出来ねえわけはあるめえ。まして、武士の恩義は捨ててもわっちら多勢のためにこっそり身をかくし、爺さんの墓参りをなさるお人だ。心ん中じゃあ武士を捨てきれねえお方が、そんなに迄《まで》してわっち共の稼業《かぎよう》をおまもり下すってると、察しがついたらお前たちも、よ、この仕事は、たとえ後でどんな厄難に遭《あ》おうと、先生のために引受けなくっちゃ申訳が立つめえ?……いやな者は無理にとは言わねえが、黙って、この長兵衛にいのちをまかしちゃくれめえか?……」
長兵衛は早呑込《はやのみこ》みに一切の事情を察したつもりでいたのである。典膳をまだ世話していた頃に、いちど、気儘《きまま》な浪人暮しをなすって、何処かでお嘆きになっているお身内の方は、いらっしゃらねえんでござんすか、と尋ねたことがあった。「無い」と典膳は答えたが、「その代り、ひとりだけ、この身が世話をうけた人物がある」と言った。
「誰《だれ》でござんす、それは?」
長兵衛にすれば、世話をするのは自分ひとりと思い込みたい気があったので、多少は傍焼《おかやき》も手伝っていたろう。
典膳は、片腕を失った時に介抱をうけたさる大名屋敷の御家老だとだけ言った。それから暫《しば》らくして、これは妹のお三が、その家老とは上杉家の千坂兵部殿だと聞かされていたのである。
赤穂家のお取潰《とりつぶ》し一件以来、吉良上野介は案外のん気に構えているが(或《ある》いは虚勢をはっているのかも分らないが)上杉家の重臣達はひそかに赤穂浪士の行動を監視しているらしいとは、長兵衛も人の噂《うわさ》に聞いていた。典膳の武芸がどの程度のものか分るわけはないが、重病の千坂兵部が何としても息のあるうちに典膳に会いたいと言うのは、典膳の腕前を以《もつ》て大石ら赤穂浪士を暗殺するか、さなくとも、隠居上野介の付け人になり、是非とも護《まも》ってほしいと言いたいからだろう、と長兵衛は察したのである。
もしそうなら、先日前川忠太夫が仕事の依頼に来たのも本当は、それとなく典膳の様子をさぐる赤穂方の策ではなかったのか?
いずれにしても、丹下典膳が赤穂浪士には警戒され、上杉方には非常に頼りにされるに足る武人であることだけは間違いない。それを承知で、敢《あえ》て長兵衛らに後難の及ばぬよう、姿をあらわさぬ典膳だったと長兵衛は見たわけだ。
彼がいのちにかかわっても、その典膳に代って恩のある上杉家のため、吉良上野介の隠れ部屋を立派に造り上げたいと思ったのも当然なわけだった。
「どうだみんな、いのちを呉《く》れるか?」
「水|臭《くせ》え元締」
辰吉が代表で、
「何もかも元締の一存でお運びなすっておくんなせえ」